No.1
- 回答日時:
>1・明智を名乗っていますが、三宅姓も名乗っていたのはなぜなのですか?
荒木村重の嫡子村安に嫁いだ明智光秀の娘が、村重の反逆で離縁されて光秀のもとに帰ったのを娶り、三宅姓から明智姓に変えたようです。本姓は三宅であったようです。
>湖上馬渡りは実際出来ることなのでしょうか?武者を乗せた馬が対岸(安土)から坂本まで泳げたのでしょうか?
馬が甲冑を着けた人間を乗せて泳ぐのは無理だと言われています。人間と甲冑の重みで泳ぐどころか沈むというのを昔のテレビで実験していたのを見たように記憶しています。特に戦国時代の馬はサラブレッドではなく日本馬で、体格は劣ります。持久力はあったようですが。
そこで出てくるのが以下の説です。
1、湖上馬渡りは無かった。後世の創作である。
2、馬の背が立つところを渡った。
3、馬は馬、人間は人間で泳いだ。(湖上馬渡りのイメ-ジではありませんが)
4、棒などを突くことによって、浮力を増し、湖上を渡った。
5、なぎさを走ったのが湖上馬渡りとされた。
荒唐無稽の珍説もありますが、今までに見た記憶のある説明です。一番可能性のあるのが5で、羽柴勢が急激に進出し、勢田の唐橋も占拠されていたようですから、安土から引き上げるのに湖岸を水しぶきを上げながら疾走した勇姿が湖上馬渡りとなって伝わった、もしくは創作されたのではないでしょうか。
三宅姓については光秀の婿養子になった形なのでしょうか。
湖上馬渡りについては疑問に思うところでした。馬が泳げるのはしっていますが乗馬して(たとえ褌一丁だとしても)あの距離にはやはり無理がありそうです。
回答してくださった中では2、4、5などが真実味がありそうです。
中でも5は事実であったとしても颯爽としていて伝説にも創作の種にもなりそうです。どちらにしても安土~坂本は創作っぽいですね。
回答ありがとうございました。
(2の秀光についても回答ありましたらお願いいたします)
No.2
- 回答日時:
明智左馬助については、No1の方に補足することは余りありません。
「滅亡した明智家の家臣であり子孫も不明なので良く分からない。史料によって名前がいろいろ書かれている」
というのが正直な所です。これは、戦国時代や江戸初期に滅亡した武将や大名の家臣団に共通することです。
「湖上馬渡り」は、普通にやれば「出来ません」。馬と乗り手が一緒に沈んでしまいます。乗り手が体重のある屈強な武者で、重い甲冑に身を固めていれば尚更のことです。
ですので、こんな風に解釈したものもあります。
1. 左馬助は甲冑を脱ぎ捨てて馬と共に水中に入る。
(この事件があったとされるのは旧暦6月、今で言えば7月から8月の真夏ですから、水は一番温くなっています)
2. 馬の足が湖底につかなくなった所で、左馬助は馬から降りて、馬と共に泳ぎ出す。
3. 馬の鬣を叩き、励ましながら一緒に泳いで対岸へ辿りつく。
No1さんの(3)の解答と重なりますが、これなら実現不可能ではないでしょう。湖岸を離れた所を泳ぐわけですから、鉄砲や矢で狙撃するのも不可能です。
(武士の情けとして、こんな離れ業をやっている左馬助を狙撃することはできないでしょうが)
お久しぶりです。
本能寺の変は旧暦6月でしたので水温については問題なさそうです。
湖上馬渡りについては講談などでは、「左馬助、その陣羽織錦織にて湖上夕日を浴び燦然と輝く様見事なり」となっています。なんだかすごく颯爽としてカッコいいものです。
もしやったとしたらご指摘のように陣羽織はおろか甲冑を脱ぎ捨てなくてはいけないでしょうね。
馬使いの名手秀光なら3の回答がしっくりきそうです。
>武士の情けとして、こんな離れ業をやっている左馬助を狙撃することはできないでしょうが<
全くもって同感です。一矢で大ブーイング必定です。
回答ありがとうございました。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
1.明智左馬助光春が三宅氏出身で光秀の婿になった事はNo.1さんの答え通りです。
2.明智秀光(秀満ーひでみつと書かれる方が多い)は光春と同一人物です。 天正10~12年の文書に明智弥平次秀満の自署と花押あり、その後左馬助光春と名乗っています。
3.山崎合戦後坂本城に戻る途中の琵琶湖畔で、掘秀政の待ち伏せに会い陸路を捨て小舟に乗り坂本城に帰ったのが事実で、湖上馬渡りはこれを脚本化したものと言われています。
馬術の名手で普段馬の調練に湖水に乗り入れていた事から作られたものでしょう。
秀光は秀満と同一人物でしたか。「秀光とはわしのことかと秀満言い」
失礼。たんなるこの時代によくある読みの違いでしょうね。
大変ややこしいです。弥平次秀満から左馬助光春になったのですから。
三宅氏から秀満さらに光春なのですね。
湖上馬渡りはフィクションですか。馬術の名手ということは事実だったのでそうなったということですね。ちょっぴり残念。
(心情としては講談の方が勇ましくカッコいいですが・・・)
回答ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
1)2)については、前の方々の説が有力視されています。
ちなみに、三宅氏は今の岡山県児島近辺の有力氏族のようです。
3)については・・・言い伝えでは、安土から坂本ではなく
「打出浜から柳が崎」となっているので、どちらも坂本周辺です。
滋賀県大津市には、この湖水渡りを終えた際、馬を止めた松の木
があり「駒止めの松」として碑と説明板があります。
渡る様は脚色の感が強いですが、ファンとしては信じたいです。
ちなみに「左馬助の恋」という本が出版されています。
信長の棺に続く第三弾です。左馬助についてわかりますよ。
そういえば宇喜多も三宅一族出身でしたか?(記憶違いかもしれませんが・・・)
坂本周辺。距離的には思っていたより近いのですね。
関西人なので大津に行く機会はあります。「駒止めの松」見てみたいです。
「左馬助の恋」気になります。
回答ありがとうございました。
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