dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

苦悩はつらいものですが、神経活動としては普通の平静な思考などとどこが違うのでしょうか。

A 回答 (5件)

>苦しいのは別の神経回路の問題



ものごとの変化によりどうしても満たされない気持ち、つまり、苦しさを体感してますよね。生きてゆく上で必要な食欲、性欲、闘争本能では避けられません。
もちろんこれらばかりではありませんが、苦しさは人間に刻まれた基本的な本性であって、それを満たそうとする一つの原動力とも言えるので本来は有用な感情ではないでしょうか。大げさに言えば生きてゆくんだということと、死んでもいいのかと言うことにつながっている感情なのでしょう。

過度の苦しみは、対症療法で直ぐにも癒さなければならないでしょうし、あまりに長期に渡る苦しみも有害で、平静に戻る時間は必ず必要でしょう。
こういうときは、意識的に苦しみの回路をOFFにしたり、有害な記憶を消去できれば平穏な時間を過ごすことができるでしょうね。

人間の思考、感情、感覚、直感は、それぞれが影響しあってますし、境界も曖昧ではありますが、思考と感情(苦しさ)は分けて捉えることができますね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

苦悩を薬剤などを用いないで解消できる方法があればよいと思います。ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/11 07:24

苦悩と言うのは心の矛盾ですが、よくよく考えてみる時に、矛盾は有っても、悩みとか苦悩として、感じる人と、感じない人がいるような気がします。

お釈迦様の苦悩は全てが滅びてゆく無常の世界で、自分は死にたくない、と言う事を苦悩した様に見えます。そして、「悟り」を開いて、その悩みを解決出来た。と言う事かと思います。

ですから、苦悩する、と言う事は現実に直面して、不可能に見えても、やれる事を意味している事かと思います。現実に出来ないと思っている人には苦悩が無いからです。

お釈迦様の矛盾は「自我」と「仏性」との対立、かと思います。死んでゆく自分と、永遠に対する憧れ。そのことで苦悩すると言う事は、仏性との対立で証明されている気がします。自我は死んでゆく自分を苦悩します。その苦悩そのものが「仏性」が出来ると言う事を、教えています。ですが、それを、拒むのが、悩みとして自我は感じてしまうと言う事です。自我は助けて貰いたい、魂の救いは無いのかと、いう事を悩みとして感じています。仏性の方は、魂の救いはある、助けになりたくて自我を包みこもうとするが、「我」がかたくなな「自我」によって振り払われてしまう。その事が、悩み、苦悩として感じられるそんな気がします。

その事に悩まない人達は、自然と自我と仏性とが対立なしで、普通にうまくいっているのかと思います。それが、普通の思考かと思います。ただ仏性の持っている「永遠性」に気が付かない可能性もありますが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

知らぬが仏というのも苦悩と関係したこと業なのかと思います。いきさつはともあれ、悩まないことは良いことのようにも思います。自我や仏性も神経回路の産物というようにも考えてみたいのですが、ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/11 07:20

こんにちは。


「思考(大脳皮質)」と「情動(大脳辺縁系)」、我々の脳内ではこの二つの機能は分離しています。
「苦悩」とはこの別々な回路で選択される結果の対立をいいます。そして、「平静な思考」といいますのは情動の発生が大脳皮質の認知結果に影響しない状態であり、これは即ち「理性」ということになります。

我々の脳内では結果選択に関わる中枢系が三系統に分かれています。
「本能行動(生命中枢の無条件反射)」
「情動行動(大脳辺縁系の情動反応)」
「理性行動(大脳皮質の認知・思考)」
これらは「分離した並列回路」として構成されています。
本能行動と情動行動は身体末梢の自律系・運動系に対して「不随意の出力」を持っており、これが我々の生体活動に必要な適切な生理状を選択します。これに対しまして、「大脳皮質」といいますのは最高次中枢であり、このようにして発生した身体内外の環境の変化を認知・分類し、あるいは記憶するというのがその役割です。

大脳皮質で行なわれる認知・思考とは、「過去の体験記憶」と「今現在の状況分析」を基に論理的に矛盾のない「未来の結果」を選択するということです。では、ここで身体の方に何らかの「生理的欲求」や「情動反応」が発生している場合、大脳皮質が「今現在の状況分析」を行なうならば認知結果には必ずやその影響が現れることになります。
ですから、それが大脳皮質の思考である限り、辛いときでも辛くないときでもやっている作業の性質そのものは全く同じです。強いて言うならば選択される結果が違うというだけの話ですね。では、このようにして自分に発生した欲求や情動に左右されることのない結果選択を一般に「理性」といいますが、大脳皮質はここで別に何か特別な思考を行っているというわけではないです。
但し、情動反応が発生するならば我々の身体の生理状態は少なからず変化します。そして、特に不快情動の場合は中枢系の覚醒状態が一気に亢進されますので、脳は通常よりもかなり高いストレスに曝されることになります。

苦悩には必ずや苦痛が伴います。この「苦痛」といいますのは欲求が阻止されることによって生み出されるものであり、その結果は身体反応として出力されます。これに対しまして、「悩み」とは即ち「理性との矛盾」であり、複数の結果が比較されることによって初めて発生します。そして、対立が起るのは我々の脳内ではその機能が並列回路として分離しているからです。
身体反応といいますのは今現在の判定に従って発生するものであるため、ここでは未来の結果を予測するということができません。これに対しまして、大脳皮質の理性行動といいますのは未来を予測した「計画行動」であります。
この二つの判定が一致するならば苦痛が発生することはないのですが、対立する場合はその時点で欲求は阻止されたことになります。では、この苦痛を排除しようとするならば正しい未来を選択することができません。
このようにして発生した苦痛といいますのは身体反応の結果として大脳皮質に入力されます。大脳皮質ではその苦痛の原因を認知・分類するわけですが、ここでは既に複数の結果に論理的な矛盾が発生しています。このため、我々はこの状態を「苦悩」と自覚することになります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳しくご説明いただき相賀とうございました。あらためて勉強させていただきます。

お礼日時:2008/02/09 18:32

苦悩とは、短期的な利己心と長期的な利己心の対立から生じるそうです。

要するに、ジレンマということでしょ。

長期的な利己心とは、我々が予期計画能力を有していることで発生したものだそうです。

ショーペンハウアーが言うように未来について考える時に苦悩が生じるそうです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

利己心が中心的な役割をするわけですね。ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/09 18:30

理想と現実とのギャップを「問題」といって、


この「問題」の発生原因、対策等を考えることは思考ですし、
それが、苦しくても、楽しくても、思考は思考と言えると思います。

問題のうち有効な解決策を見いだせない、あるいは、
解決策の実施可能性が無いと認識するものが「悩み」ではないでしょうか。理想に向かって改善がなされ、近い将来、理想へ到達できる見通しがある「問題」はもはや「悩み」ではないんでしょうね。
そして、この悩みに精神的苦痛が継続するとき苦悩になると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

さっそくご回答いただきありがとうございます。解答が見つからないことと苦しさとは別のもののようにも思いますが、苦しいのは別の神経回路の問題でしょうか。

お礼日時:2008/02/09 07:45

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!