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「知識とは何のためにあるのか論じなさい」という哲学の試験があるのですが、自分で考えてもよくわかりません。回答例のようなものがあれば教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

よくわからなくてあたりまえだと思います。


そもそも、哲学というのは「私は知識について以下のように考え、結果として、知識はこれこれのためにある」という答えをだすものではないと私は思っています。偉い哲学者の方もそう言っています。
もし質問者様がそのテーマについて本当に考えたのであれば、その考えた過程(哲学で大事なのは過程で、過程のみが哲学であると私は思います)を書けばだいじょうぶははずです。答えなんていりません。
(学校の試験がどうなっているのか、私はよく知らないので保証はできませんが)

知識についてはいろいろ考えられると思います。
たとえば、人が何かを考える必要があるとき、自分だけで何かを考えることができるでしょうか。私は何かを考えるとき、人の考えたことをパクって考えます。それ以外に考え方を知らないからです。「○○がこんなことを言っていたな」と思い、「じゃあ△△はこういうことかもしれない」などと考えます。「○○がこんなことを言っていたな」の部分は知識です。
いや、そもそも、人は言語を使わないとものを考えることができないのではないでしょうか。そして、言語というのを知識のひとつと見なすのなら、知識がひとつもないと人は何も考えられないことになります。そうなると、「知識」という言葉の定義から問いなおしていかなければならないように思えますね。
狼に育てられた狼少年は、知識(言葉)を持たないがゆえに、社会的な生活を送ることができません。狼少年は、川を流れる水を飲むことはできますが、コップに入った水を飲むことはできません。何故なら、狼少年は「コップ」という知識を持っていないからです。
「コップ」なんてただのものではないでしょうか。でも、ものがあってもそれを使うことができない、というのはどういうことでしょうか。私たちは、何故ものがあってもそれを使えたり使えなかったりするのでしょうか。「知識」が概念ならば、「コップ」は概念でしょうか。それとも「もの」にすぎないでしょうか。いやいや、だとしたらコップは……。

と、答えをだそうとしなければ、いくらでも考えられるかと思います。(試験的に)どうしても答えをださなければいけないのならば、適当にでっちあげてしまえばいいと思います。
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カオスから開放されて、私たちがよりよく生きるため、人を幸せにし自分が幸せになるためだと思います。

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考えてもわかりません?そりゃー考えても、もともとかんがえるためのネタ(案)を持っていなければわからないのは当然ではありませんか?要するに、あなたはその質問に答えるだけの情報や考え方などが足りないと自覚しているのでしょう。

私がふと思ったことを言うと、あなた自身がもっとも、その質問に答えるだけの「知識」を必要としているのではないでしょうか?要するに知識とはそんなものではないでしょうか?

教養という言葉があります。「社会に出る前に教養を身につけなさい」とか言われますね。教養とはある種の知識と思ってもいいと思います。最近読んだ本に、「..しかし、本来教養とは『自由になるための技術』です」と書いてありました。人間は、様々な束縛から「自由になること」を求め、そのために思考をすると。わかりにくいことですが、かなり噛み砕いて述べると「教養(知識)をもって、自分は自分主体で物事を考えたり、発言したり、行動したりできるわけであって、それがあらゆる差別や弾圧、社会制度ひいては生きることそのものの束縛から自分の自由を獲得する方法なのかも知れない」ということがです。知識がなければ、誰かの作った社会の中で、誰かの言われるがままに、誰かが「正しい」と思うことを受けてそのまま知らずに生活すると考えると恐ろしくなりませんか?その束縛から逃れるためには、世の中を知ること、つまり知識を身につけることが必要となるでしょう。

とまあ、この質問をみてふと私が思ったのはこんな感じです。これも、「そういう知識をもっていたから」たまたま思っただけかもしれませんし、これで書くためにはもっと知識をきちんと蓄えて論理的にしないとよいものができないだろうな、、、とおもますね。私がこのテーマでかくなら「自由」とか「知識」とか「教養」などのキーワードで図書館であたってみますよ。それをうつすために、、ではなくて自分が思うことを最も的確に伝えるためには、知識が不可欠だからです。

今まで当たり前のように正しいと思っていることがなぜ当たり前なのか?本当に当たり前に正しいのか?そこに気づくかどうかは、知識なしではありえないのかもしれませんね。

わからない=別に何も感じない(どうでもいい)、のかなんとなく必要だと思うけど、うまく形にできないのか。質問者さんがどちらでなやんでいるのか少し興味ぶかいですね。
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知識が生きていくための知恵であるという考え方はある一点からは間違いだと思います。


現在では赤ちゃんが生きていけないということも、植物人間が生きていけないということもありません。社会が整備された中で自分の意図とは別に生かされていきます。この人たちは知識をもっていません(失ったのかもしれませんが。)
 また知識が社会の役にたつという考えもある一点からは間違いだと思います。それは知識のある人間より権威の中にいる人間のほうが社会を動かせるからです。

僕自身の考えだと知識は社会のためにあるのではなく、社会が知識を要求している振りをしているから、知識があるとおもわれる人間になら権威を与えやすい。社会の構成員としての試験として知識が必要です。
 もう社会は人間の知識なんて必要としていないじゃないかとすら思います。それ自体で十分肥大化していけるんじゃないか?とかって言っとけばいいんじゃないんですか?なんかボードリヤールっぽいですし。
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視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などの感覚器官を通じて、意識は本能的に情報を求めています。

とりわけ新しい情報は人間の意識にとって快楽の原因です。

例えば目隠しをして周囲の環境を感じるとして、一つには視覚を封じるということが新しい状況であり、以前と同じ環境であっても意識には新鮮な情報となります。また、目隠しすることによって、他の感覚器官がより研ぎ澄まされ以前流入した情報とは別の情報として受け取ることになります。

このような本能はどうして生じたのでしょうか。もちろん生き物が生きながらえるためです。外敵から身を守り、食物となるものを求めるには、意識は、全感覚器官を使用して周囲のどのような環境の変化にも対応しなければなりません。

しかし、もし記憶するということがなければ環境の変化に対する対応はその場しのぎのものとなり、弱い生き物は地上に繁栄することはできなかったでしょう。

記憶は当然長期間保有できるほうが有利です。なんとなれば、積み重ねられた記憶と流入する情報により、記憶されている情報の加工や、新たに流入してきた情報の分析が可能になるからです。

例えば、山火事で燃える火が暖かかったことを記憶しておれば、寒い冬に火にあたるということを思いつくでしょう。木が燃えるということも記憶しておれば木を蓄えておくということも考えられます。

上記により、知識とは意識が感覚器官を使用しておこなう情報の収集と、脳の進化により生じた長期間記憶による産物であり、これは、ほぼ人間に特有といってもよいものであると考えられます。

人間が自分たちの環境をこれまでに改変し、地球上で発展してこられたのには知識というものを獲得したことが大きな原因であると考えます。

つまりは、知識は体格や運動能力に劣るわれわれ人間が生きていくうえで必要不可欠なものであるといえます。
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参考になれば幸いです。



知識(情報)が何のためになるかですよね。

人の悩み苦しみを解決するための種にもなり
人の悩み苦しみの種にもなる。
あるいは何にもならない。

知識自体が何かのためにあるのではない。

その知識を使って何をするかが重要だ。
何に役立てるかが重要だ。
何のために使うかが重要だ。

人の悩み苦しみを減らすものと増やすもの
の見極めるために使うことが重要だ。

それらの知識を使って見極めた「苦しみを減らす」ものを実践し、経験的に確かめ、何度も事実確認して、実際はどうなのか確認する事が重要だ。

往々にして人は知識に溺れ易い。苦しみの増えるほうに進みたがる性質が見えたりする。だからこそ取り入れる知識にも注意しなければならない。

…あとは自分で考えてみてくださいw

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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こんにちは。


「知識」とは結果を選択するためにあります。
哲学でどのように扱われているかは知りませんが、これが知識の「生物学的意義」ですね。
我々は「過去の体験」を基に「現在を分析」し、論理的に矛盾のない「未来の結果」を選択します。知識とはこのために獲得されるものです。
全ての動物にとって学習とは生後環境から後天的に獲得される神経系の反応規準であり、我々はこれにより与えられた環境の変化に判定を下します。このうち、大脳皮質の意識に上り、認知の対象として扱うことのできる情報が「知識」に当たります。

哲学だからといって事実に反する論議を行なっても何の意味もありません。結果とは客観的事実に基づいて選択されるものです。従いまして、知識を持たなければ我々は正しい結果を導き出すことはできません。このように、知識とは結果を選択するためにあります。
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これは知識や正解を求めているのではなく、あなたの思考力を試すテストです。

そもそも、多数の哲学者が、それぞればらばらな意見を提出しそうな質問であり、説得力のある説明ができるとか、独自の鋭い切り口を示してみせるとかすれば、高得点が出るような気がします。

「知識とは何のためにあるのか論じなさい」とうのが、正確な表現であれば、「知識を持っていると、どのような実利があるか」という身もふたもない設問であると解釈することもでき、極端な話、「これこれの知識があると、社会生活でこういう点で有利だ」といった解答もありえます。多分、教授の受けは悪いと思いますが。

哲学専攻の人間でもない限り、自分の過去の経験から書き起こすのが良いかと思います。「私は昔、こういうことに気づかず、人間関係で失敗した。このことから学んだ結果、現在ではこういう生き方をしており、人間の内面や社会現象についての経験や知識は、現実生活でも有益なものだと思った」というアプローチがありえます。これ、実は、真剣に考えておいたほうが良い問題です。企業就職にあたり、同じ事を会社の人事から聞かれるからです。

哲学専攻であれば、やはり誰か特定の哲学者に立脚し、それに対する肯定的意見と否定的意見を検討したうえで、自分のスタイルを主張するという骨太な解答にしたいものです。pooty_wiさんのご指摘にある、哲学の本質は解答ではなく思考過程であるという主張を極度に推し進めたのはアドルノという哲学者であり、これは常人が学ぶには難しすぎ、試験に間に合わないでしょう。ただし、キルケゴールなら間に合う可能性があると思います。一言でまとめれば、アドルノやキルケゴールに代表される弁証法哲学の本質は、他人の思考過程を読書を通じて追体験することにあり、知識とは、その後についてくるものにすぎない、という回答が可能です。ただ、生兵法はケガの元ですし、すでにご自分のお気に入り哲学者がいるのであれば、そちらに立脚した議論を展開すべきです。
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こんばんは。



落書きのようになりそうですが、

文字を知らなければ、言葉を読むことができない。
言葉の意味を知らなければ、文章を読むことができない。
導出に1時間以上かかる数学公式は、覚えておかないと不便。
毒キノコの見た目の特徴を知らずに、キノコを採って食べれば危険。
熊の凶暴性を知らずに、花咲く森の道で熊さんと仲良くしようとすると危険。

先人が残してくれたデータベースは、単なる利便性にとどまらず、命の危険を避けることに役立つ。
これを利用しない手は無い。
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