アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 詳しい内容をおしえてください。単純に捉えていましたが 注意しなければならない意味があるのかも知れません。
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 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミア書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
  (ヘブル 書8:7-13)
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A 回答 (12件中1~10件)

名指しされたものではありませんが、基本的なことをいくつか。



まず、ヘブル書はパウロ書簡ではありません。読み人知らずです。
それから旧約の考え方ですが、古びて消えうせるのではなく、成就したということです。消えうせるのではなく完成して基礎となったということです。
われわれは全く新しい契約に生きるのではなく、古い約束を土台とした新しい約束に生きます。新約は単独ではおそらく違う宗教になっていたと思います。天地創造からキリストそして最後の審判のストーリーには、古びて消えうせるものはありません。

以上が一般的なプロテスタントでの考えと思っていますが(カトリックのことは知りません)、質問された方の考えはちょっと違うようなので、宗派によっては解釈に違いがあることをここで明記しておきます。宗派による解釈の違いを論じようとは思っていません。

題目のエレミヤ書ですが、書いてある通り、新約の訪れを予言しています。
その新約の世界では旧約の世界とは一転して、王や祭司等が神の言葉を代理するのではなく、神と民が直結の関係となり、新約の最大の特徴である罪の許しもここで予言されています。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 いえいえ みなさんのご見解もお伺いしたいです。ありがとうございます。

(1)パウロの書いたものではないという点につきましては 仕方ありません。エレミア書の内容として取り上げることにします。

(2)旧約は 《古びて消えうせるのではなく、成就したということ》の中身として このヘブル書も たしかに《年を経て古びたものは、間もなく消えうせます》などと字面で言っていますが エレミア書からの《わたしの律法を〔モーセの時のように 石の板にではなく〕彼らの思いに置き、/ 彼らの心にそれを書きつけよう》という文句を引用しているわけですから それほど逸れてはいないようです。
 (たしかにパウロが 律法規範主義のような行き方を批難していますが 律法じたいは 聖であり霊ですから その同じ律法が 成就するという内容を ヘブル書も含んでいると言っていいでしょう)。

(3)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 題目のエレミヤ書ですが、書いてある通り、新約の訪れを予言しています。
 その新約の世界では旧約の世界とは一転して、王や祭司等が神の言葉を代理するのではなく、神と民が直結の関係となり、新約の最大の特徴である罪の許しもここで予言されています。
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☆ おおむね おっしゃるとおりだと思うのですが 《罪の赦し》にかんして もう少し詳しくおしえていただけると有り難いです。
 つまり 《わたしは、彼らの不義を赦し、/ もはや彼らの罪を思い出しはしないからである》という文句をどう解釈するかです。もし《〈主を知れ〉と言って教える必要はなくなる》ということが――《宣教という愚かな手段》を 歴史的に介しつつですが―― 教団の必要がないということでしたら もう《神と民が直結の関係とな》る個人の信仰のみで生きていくと言ってよいように思うのですが いかがでしょう。

補足日時:2008/02/25 13:31
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>教団の必要がないということでしたらもう《神と民が直結の関係とな》る個人の信仰のみで生きていくと言ってよいように思うのですがいかがでしょう。



人に教えるほど勉強していませんが、こう考えます。
1.《神と民が直結の関係とな》る個人の信仰のみで生きていく
その通りだと思っています。その意味でもルターの万人祭司主義であり、信仰によってのみ救われるということだと理解しています。

2.教団の必要がない
教団の必要はありませんが、教会(エクレシア)は必要です。キリストはその頭であり、体なる教会全部を統制し、指揮し、命令します。
キリスト教はキリスト抜きでは成り立たちません。キリストの贖罪があり、復活があって、我々の罪は許され、神の子として新しい生命に生きることができます。
キリストの苦難の道を我々が体験し、キリストの僕として、友人として、キリストの教会の教会員として、初めて天国に入れます。神と直結の関係ですが、その直結の関係はキリストの支えがあって直結の関係です。キリストなくして直結の関係はあり得ません。
この世の教会が、それをサポートする役目を担っているのであるとしたら、それもあって良しです。あってはならない理由はないと考えます。
カトリックのように、あるいはプロテスタントでもそれ(自分たちの教会)がなくてはならないというのであれば、私はそれを間違いだと思っています。
この世の教会があろうがなかろうが、その教会員であろうがなかろうが、救いに関係なしです。
どこの(この世の)教会に属していようといまいと、キリストを介した神と直結の関係には無関係ということです。
その意味で、先のエレミア書は、現在のこの世の教会を否定も肯定もしていません。次元の違う話をしています。

教会とはなにか、ということにこの問題の鍵があります。
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この回答へのお礼

 stonepilloさん ご回答をありがとうございます。

 いまは鏡をとおして謎において見ている(でしたか)ということですから たしかに 《問題の鍵》という言い方で おしえてくださったのだというふうに理解したのですが 気が短いのではなく 早いのだと思っています。ので ずばり お尋ねいたします。
 もし 《万人祭司主義》ということでしたら 一人ひとりが たとえば場としては その家が エクレシアであると考えては いかかでしょうか。だれでも 自由に行き来できるというふうに了解しているというかたちです。
 あるいは さらに 信仰は 内面の問題ですから 一般の生活においては ただちに信仰の話しをするということではないわけです。だとすれば 日常生活としては 《自分の同胞・自分の兄弟・小さな者から大きな者に至るまで》の社会一般の人びとが 一定の地域としてのまとまりにおいて エクレシアであると考えてはいかがでしょうか。
 信仰内面の思いとしては 国といった単位体が 主の家(チャーチ・キルへ・キュリアコン)だという考え方で いいのではないでしょうか。いかがお考えになるでしょう。

お礼日時:2008/02/25 20:49

>教会とはなにか、ということにこの問題の鍵があります。



こんな謎めいた言い方をしたのは、教会の研究だけでもいくら時間があっても足りないくらいであり、たかだか数行で教会とはこうだとは言い切れないからです。

ただ、教会の原点はマタイ18:20の、2人または3人集まるところに私(イエス)もいる、ということに尽きると思います。そのエクレシアこそが教会であり、その意味ではおっしゃるとおり家庭が教会であり、そして万人が祭司です。その頭がキリストとなります。

それでは現在の諸教会は間違っているのか、ということになりますが、答えは、その通り間違っている、となります。その根拠は、どの教会も自分達の教会が真の教会と思っているところにあります。自分達の教会こそ、イエスが共におられる教会と思っているからです。
幾千にもあるいは万にも分裂した教会のどれか1つが正当な教会であるはずがなく、その意味でもすべてが間違っています。
それでは教会があること自体が間違っているかというと、それはそうではないと思います。そこに教会の生い立ちを研究する必要性がでてきます。

使途時代の集会は、それこそ2人、3人が家庭に集まるものであり、牧師職があるわけでもなく、ただリーダー的な人の家にてキリストの教えを勉強したものと思われています。
やがて、それが拡大するに従って、偽教師の潜入を防いだり、あるいは教えを正しく伝承するために、組織としての結束が必要になってきます。
コンスタンティヌスのキリスト教解放により、さらに強固な組織、カトリック教会が発足し、教えを正しく伝承することに努めますが、政治的な力を持つようになり、シビリアン・コントロールをするようになってから道を踏み外します。また聖書を庶民から隠蔽し、都合の良いように改ざんし始めます。
やがて有名な免罪符をきっかけとして、ルターの宗教改革となります。
宗教改革により、聖書は庶民のものとなります。ルターは、キリスト教伝承の立場から教会そのものは廃止しませんでした。また、イエスが制定したとされた洗礼と聖餐式も廃止しませんでした。
この洗礼と聖餐式を残したがために、今日数え切れないほどの宗派、団体が存在します。
これは、教会が間違っているととるのではなく、教会のありかたを間違って解釈していると考えます。教会とは形式主義を行うところではなく、聖書に基づいて神の言葉を正しく伝えるところです。
キリストの教えを守り、正しく伝えるために、教会という組織があり、規則があることは、教えを正しく伝えるという意味においてあって当然のものと思います。
ただ、そうした教会を必要としない人たちがいることも、いたって当然なことです。
かいつまんでいうと教会の歴史は上記のようになりますが、家庭が教会の基本であることは今でもなんら変わりないと考えています。

教会はキリストの教えを守るために必然的に生まれてきたものであり、あって当然と思います。
しかし、そこに形式主義を取り入れて、洗礼を受けなければならないとか、10%献金をしなければ神に反するなどというのは間違って教会を解釈しています。イエスはそのようなことを一切言ってもいなければ制定もしていません。洗礼も伝統ある深い意味のある儀式であり、献金も組織の運営には必要です。しかし、それを義務としたとき、つまりそれを行っていなければクリスチャンではない、というのであれば、それは間違っていると考えます。

Brageloneさんの質問に立ち返って、家庭が信仰の基本であり教会であることは上記でも記載した通りです。また、国家はその家庭の集合体ですから、国家が主の家というのもその通りだと思います。
しかし、その国家と政治国家とはまったく別です。なぜなら、政治国家はこの世のものですが、信仰国家はこの世のものではありません。

この回答への補足

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 二人または三人がわたし(イエス)の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。( マタイ18:20)
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 BRAVO!!! ヤッホー ワアーイ イエーイ(この語は恥づかしい)!!!
 《教会》について この原点をおそわったのは初めてです。
★ 家庭が信仰の基本であり教会である。
★ 国家はその家庭の集合体ですから、国家が主の家というのもその通りだと思います。
 しかし、その国家と政治国家とはまったく別です。なぜなら、政治国家はこの世のものですが、信仰国家はこの世のものではありません。
☆ 後者については のちまた 取り上げます。エクレシアおよびチャーチについて このように明確におっしゃっているのを聞いたのは やはり初めてです。
 だから 洗礼を受けないというわけではありませんが 信仰を与えられた当初から 社会が キリスト者の仕事の場だと思っていました。

 ご回答をありがとうございます。質問というものは してみるものですねぇ。

★ 現在の諸教会は間違っている・・・その根拠は、どの教会も自分達の教会が真の教会と思っているところにあります。自分達の教会こそ、イエスが共におられる教会と思っているからです。
☆ そうですよね。(もう そのことには鈍感になっていました)。排他性は 途中から現われたのですね。ルターは 形態・制度じたいは 中立なものだと認識したということですね。
☆ わたしは ローマは 人を殺し過ぎたと単純に考えます。プロテスタントたちも 挑発に乗り 血を流しすぎました。一たん自己解体して 百年・二百年 時の経過を見守るべきだと考えています。頭を剃るだけでは 償えません。
☆ 教育施設・研究施設そしてそこは自由な交流の場であること これでよいと思うのですが。

☆ さて この世の共同自治の問題です。R.A.マーカスという人の研究成果の請け売りですが 次のように考えています。 
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 世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 自律している。ただ 神の国の市民(キリスト者)にとっては まさに この世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。

 〔これは〕人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 〔わたしたちが巡礼の旅路を行くその〕世界( saeculum )というものを 

 《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国
  ( Civitas Terrena )とのあいだの 非武装中立地帯( no man's
  land )として》

見るのではなく 

 《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難
 く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見
 通しえた時のみであるという そのような現実の中に 位置する或る
 時間帯( temporal life )として》

見るというかれの理解から 発しているものである。
 ・Robert A. MARKUS: 《 Saeculum :History and Society in the Theology of St Augustine 》;
 宮谷宣史・土井健司訳『アウグスティヌス神学における歴史と社会』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と言います。
 国家という単位体が 固定的なものだとは思わないのですが というより 自治体(市町村)の連合に仕える連絡調整の機関になっていくと思うのですが この世という世界の共同自治については キリスト者の見解を 明らかにしたほうがよいと考えます。
★ 政治国家はこの世のものですが、信仰国家はこの世のものではありません。
☆ から一歩 進めたかたちをマーカスは アウグスティヌスに拠って 述べているのだと思います。まぁ 世界全体が 主の家だと言ったほうがよいかも知れません。そうすれば 信仰が 民族や何やかやに左右されることはなく けっきょく透明になると思いますし。他の信仰と その信仰の形態・あり方として 互いにまったく 同等であり 差異を認め合っていけると思います。どうお考えになるでしょう。
 エレミアがそのことを言葉にしたし イエスがキリストとして実現させたと思うのですが。

補足日時:2008/02/26 10:52
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>世界全体が 主の家だと言ったほうがよいかも知れません。



告白しますが、アウグスティヌスは読んでいません。誇っているのではなく恥じています。幸いにも、手元に「神の国」がありますので、これを読むきっかけを与えていただいたことを感謝します。
従って、アウグスティヌスおよびマーカスについて述べるだけの知識がないことを前提として、神の国と地上の国との融合ということについては、現在の私の理解では融合ではなく、やはり対峙と思っています。
地上における神の国の実現も、融合ではなく、リプレイスと考えています。地上の国の延長線上に神の国との融合があるということは、今の私の聖書知識からは出てきません。

ただ考え方として、その信仰国家とはキリストを頭とする唯一の真の教会のことですから、当然ながら皆がこの世の教会を捨てて、真の教会のみに属することとなれば、すべての問題は解決することと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 そうですね。現在もっとも合理的な考えだと思っていたところを述べさせていただきましたが 合理的だからよいとは限りません。それに 経験的な思考が入れば 相対的なことがらに迫っていくところがあるので 判断基準じたいがむつかしいようです。

 弁解と言いますか 一つの但し書きとしては 《融合》ということに結局はなると言っているかと思いますが 原理的に言って 《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国( Civitas Terrena )》という二つの国として問題情況は――変な話しですが―― 融合を捉えようとする場合にも 生きています。それが 大前提です。つまり キリストのこの世に対する勝利 これが 大前提です。
  なぜ 融合というところまで行ったかと言いますと 《最終的に死が滅ぼされる》ということ これを 見通しとしてでも やはり前提として 捉えたところからでした。それは この地上の国にあってもそうだということであれば 融合にまで行くのではないか そう思いました。
 《リプレイス》は ほんとうに 神の国が来た状態であると思います。そして もしその捉え方で行けば 徐々に変わるのではなく 全体が すべて 一瞬のうちに 変わるというふうなイメージを抱きますが そのような理解でいいでしょうか。

 ひょっとすると 次の箇所についての理解で 枝分かれしているのかも知れません。
★ 皆がこの世の教会を捨てて、真の教会のみに属することとなれば、すべての問題は解決することと思います。
☆ キリストの教会が  この世で肉のうちに歩むわたしたちにすでに 潜在していると わたしが思っているからなのかも分かりません。どうでしょう。問題の解決というその時点だけを捉えたときには 同感なのだと思います。

お礼日時:2008/02/26 20:10

ルターによる救済の考え方に以下のようなものがあります(ロマ書解説より)。



我々は確実に治癒を約束された病人のようなもの。治ることが分かっているので、もはや治ったも同然ながら、事実上は病人。実際に治るまで悪化させないようにしなければならない。

これは、十字架の贖罪により罪が取り除かれ、天国への門が開かれたけれども、最後の審判が行われるまでは、なお罪人である。これ以上罪を重ねないように。ということ。
我々の罪は取り除かれた、しかし罪人である、という。

これは神の国にも当てはめてもよいのではないかと思う。
神の国は確実に来る、従って来ているも同然。しかし我々は事実上地上の国にいる。実際に神の国が明らかにされるまで、我々は地上の国で罪と戦わなければならない。
自分なりに納得できると思います。

神の国の現れ方は、黙示録によると一瞬のようなイメージを持っていますが、1日が千年、千年が1日の神の時間、つまり我々の時間的感覚など錯覚に過ぎないので、それが我々の言う一瞬なのか千年なのかは分からないと思います。希望的には我々の感覚の一瞬であって欲しいと思います。

この回答への補足

 stonepilloさん ご回答をありがとうございます。
 この主題についてのわたしたちの対話も 熟してきたように思っております。重ねてありがとうございます。

 さて そうしますと 新しい天と新しい地が実現するまでのこの世界のあり方がどうであるかということ これに やはり なると思うのですが 今回のお答えをお聞きして 次のような微妙なちがいを 感じました。正直にお伝えします。

 ルターも たしか 大きくはアウグスティヌスの系譜だと思ったのですが――だから いまの問題に対する判断が左右されるということもないのですが―― 後者の影響のもとにあるわたしとしましては たとえば こう聞いています。
 《とげが抜かれることと その患部が癒やされていくこととは 別だ》。
 つまり これによりますと 十字架上の死とその後の復活とで――エレミアの預言も成就して―― 《棘が抜かれた》。あとは患部の治療に専念する。ということであれば この場合 あとは 

★ 《もはや治ったも同然ながら、事実上は病人》

☆ に対して 微妙に意味あいを異にして 《もはや回復と全快を 心して 待つのみ》と わたしは単純に取ったのだと思います。

   ・・・
   彼らはすべて、わたしを知るようになり、
   わたしは、彼らの不義を赦し、
   もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

☆ ですから次のお考えに対しても 少し えらそうに語ることになるかと思いますが 真理を希求します。

★ 実際に神の国が明らかにされるまで、我々は地上の国で罪と戦わなければならない。

☆ つまり すでにキリスト・イエスが わたしはこの世に勝利していると言うのなら あとは パウロが言うのではないかも知れませんがたとえば

   わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、
  暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
  ( エペソ書6:12)

となると思っています。つまりパウロが言うように あたかも上の戦闘的な姿勢も もしその為めにするものでなければ わたしたちのこの旅路において いわば《病みあがりの身》でありながらも 堂々とおこなっていく仕事ではないかと考えています。(このgooで わたしは おこなっている結果になっていたと認識しています)。つまり
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 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
  (コリント後書2:14-17)
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☆ 今回も 水による洗礼を受けていない者のべらぼう話でしたね。すべてを ご批判にさらします。

補足日時:2008/02/27 10:38
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bragelone様、


私はこの短い対話の中で、貴殿との一致点を多く発見するも、相違点は少なく思います。
私は「事実上」ある教会の教会員ですが、それ以前にキリストの教会の教会員であり、それで足りているものです。

罪との戦いとは、まさにエペソ書6:12のことであり、内なるものとの戦いです。

《もはや回復と全快を 心して 待つのみ》もそれも正しいと考えます。ただ、大胆に回復と全快が行われたも同然と考えても良いと思います。
つまり我々は十字架の贖罪により救われ「た」ということです。

場を変えたほうがよいような雰囲気になったと思いますので、どうぞクローズしてくださいませ。
大変勉強になりました。
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この回答へのお礼

BRAVO again, stonepillo-san and I thank you very much.

★ ただ、大胆に回復と全快が行われたも同然と考えても良いと思います。
 つまり我々は十字架の贖罪により救われ『た』ということです。
☆ ちからづよい。ふつうなんでしょうけれど ちからづよい。
 これからが たのしみですね。また お会いしましょう。

お礼日時:2008/02/27 19:36

難しくない単純だよ。

キリストを信じなさい。これだけ・・


それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない

十戒の事をいってるんだよね。その後自分達で神を作りあげ放浪した
んだよね


この後の文章はわかるよね。
すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、・・・・・・
キリストの事を言ってるわけだよね
    
エレミヤは預言者だからね。

神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。そうだよユダヤ教の事をさしているんだよね

>もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら

欠けていたから新しい契約を作ったんだよ。愛が抜けていたと言う事
だから神の子を地上に送りそこから学んだともいえる
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 
★ 欠けていたから新しい契約を作ったんだよ。愛が抜けていたと言う事
だから神の子を地上に送りそこから学んだともいえる
☆ たぶん 微妙に異なると思われます。次のヨハネの文句が表わす新しいことが欠けていたのでしょう。
 
  律法はモーセを通して与えられたが、
  恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
  いまだかつて、神を見た者はいない。
  父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
  (ヨハネによる福音1:17-18) 

☆ 詳しい内容をおしえてください。単純に捉えていましたが 注意しなければならない意味があるのかも知れません。
 というような見方から 投稿をお願い致したいと思います。いわゆる解説書にはないだろうと思われるような解釈 これが あるのではないかと思ったのが この質問の動機です。
 奇抜なものをというのではありません。解説書の内容と ほんの少し異なったところであるとか 特にこういうところが注意すべきではないのか といった事柄です。

お礼日時:2008/02/27 23:03

こんばんは、brageloneさん。




年を経て古びたものは、…



ちょいと、このことばが気になって…



【 バーリンの捉えるロマン主義思想とナショナリズムの端緒 】
http://www.geocities.jp/tractatus04/jsbp040328.pdf



何かの参考になりますでしょうか?
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この回答へのお礼

 どれそれが これそれこのように参考になるのではないかと説明してくださいますか。

お礼日時:2008/02/27 23:04

まさにその通りです


律法はモーセを通して与えられたが、
  恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
  いまだかつて、神を見た者はいない。
  父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
  (ヨハネによる福音1:17-18)

ご理解されてますよ
教えはすごく単純です。
>注意しなければならない意味があるのかも知れません。
後は神と対話することじゃないかな?
個人の信仰のレベルで僕達に聞くレベルではないでしょう
聖霊に頼りましょう。

主に聞くことご存知ですよね?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 どうも黙示録がかかわっているようなのです。
 そうなると わたしの見方では 茶の木畑に入ってしまうかと恐れるのですが 何かの可能性を見逃していいということにもなりません。そういう気がかりです。

 なお 《神との対話》は あたかも たとえばモーセが それをおこなったかに記されていますが そして ヤコブ・イスラエルが 神と格闘をしたことになっていますが そうた易く出来るものとは思っておりません。
 
   わたしの威厳が通り過ぎるや否や あなたは わたしの背面を見るで
  あろう。あなたは わたしの貌を見ることはないであろう。誰もわたし
  の貌を見ることはできない。

といった内容のことではないでしょうか。

お礼日時:2008/02/28 09:13

ヨハネ福音3:3は生まれ変わって無い人は神様の国を見る事が出来ないと言われました。

                                                                                                                        神様の国は、目に見える物理的な物ではなく、救われた人だけが見る事が出来る霊的な国です。                                                                                                                           ですから、救われた人ではないと聖書を読んでも、その意味を分かりません。                                                                                                                       救われてない人が聖書を読んで分かれる事は{罪の意識}だけです。                                                                                                      ですから、今までの聖書についての質問の中で一番良い質問は「キリスト教と葛藤」という質問の中で、聖書を読めば読むほど、私は罪深く、死に値する人だと告白した方です。                                                                                                               残念ながら彼に返事した人による猛烈なサタンの妨害はあったけれども、救われた人の返事はありませんでした。                                                                                                             聖書に人は3種類しかありません。イスラエル人、異邦人、教会です。                                                                                                                            イスラエル人と異邦人の中から救われた人々の集まりを教会とよびます。                                                                                                                                   イスラエル人も異邦人も救われて無い人であるけれども、異邦人はイスラエル人にはなれません。                                                                                                                   ヘブライ書はイスラエル人に宛てられた書物です。ヘブライ書は救われた人々である教会に宛てられた手紙ではなく、救われてないイスラエル人に宛てられた手紙なのです。                                                                                                                                              ヘブライ書8:7は「もし、一番目の言約に傷が無かったならば、二番目のものが要求される余地は無かったはずです」と書かれてあるので、一番目は旧約、二番目は新約と間違うかも知れません。                                                                                                           しかし、8:11で「彼らが自分の隣人とか兄弟に一々教えて主を知れとしない。それは、彼らが一番小さい者から一番大きい者に至るまでみな私を知るようになるからです」と書かれて8:7が旧約と新約を指すのでは無いことが分かります。今の時代に主を知れと教えるなと言うならば、彼は呪われるべき異端だからです。                                                                                                                8:7の一番目の言約がモーセを通じて与えられた律法ならば、8:13の新しい言約はサムエル下7:4~17で言う永遠の言約です。すなわち、ダビデの種からメシヤが来られ、イスラエル王国が成立するという約束です。                                                                                                                         イエスキリストがイスラエルの王様として来られたけれども、イスラエルの人々はイエスキリストを殺してしまい、イスラエルの王国は延期されたのです。                                                                                                                            そして、イエスキリストが再び来られてイスラエルの王国が成立するのがヨハネ掲示録20:6でいう1000年王国です。                                                                                                                                          その時はイエスキリストが誰でも分かるようにエルサレム聖殿に座って居られるので、主を知れと教えるなら呪われます。                                                                                                                                      ですから、一番目の言約は律法、新しい約束はイスラエルに与えられた1000年王国の約束です。

この回答への補足

 まだよくわかりませんので 補足要求のかたちで お応えいたします。
(1)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 (ローマ1:16-17)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このユダヤ人うんぬんという三種の分類が 特別の意味を持つとは思えないのですが。つまり そのあと 《救いは 信仰による。そして信仰のみによる》という意味のことを言っているのですから なおさら 分類は問題にならないように受け取っています。 

(2)
★ ヨハネ福音3:3は生まれ変わって無い人は神様の国を見る事が出来ないと言われました。 
☆ これにつきましては とうぜん イエスが言っていると述べているのですから そのイエスの出現の歴史上の位置が 問題になると考えます。そして わたしは一つの解釈を抱いているのですが それを 次の質問への回答として掲げました。この質問者のための欄は字数制限がありますので どうかそちらのほうを参照していただけますでしょうか。
《Q:原罪について http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3828240.html 》=右上のランキング欄・人気Q&AのNo.3です。そのANo.15です。

(3)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・しかし、8:11で「彼らが自分の隣人とか兄弟に一々教えて主を知れとしない。それは、彼らが一番小さい者から一番大きい者に至るまでみな私を知るようになるからです」と書かれて8:7が旧約と新約を指すのでは無いことが分かります。今の時代に主を知れと教えるなと言うならば、彼は呪われるべき異端だからです。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここで 《 8:7が旧約と新約を指すのでは無いことが分かります》の部分が どういう推論になっているのかが まだ飲み込めません。補足していただくとさいわいです。《今の時代に主を知れと教えるなと言う》のが なぜ 異端になるのか。また 多分ですが 次の(4)と関係しているかと考えますが。

(4)
★ 8:13の新しい言約はサムエル下7:4~17で言う永遠の言約です。すなわち、ダビデの種からメシヤが来られ、イスラエル王国が成立するという約束です。 
☆ ここですが このサムエル・下の記事は バルバロ聖書によりますと  イザヤ7:14の《主みづからしるしをお与えくださる。見よ 乙女が身ごもり 一人の子を生み それをエンマヌエルと呼ぶだろう》に対応すると言います。また同時に 使徒行伝におけるペテロの説教(2:14-42)にも対応するそうです。こちらのほうから 少し引用します。

   だから ダヴィデはメシアの復活について前もって知り

     彼は死者の国に捨てておかれず
     その体は朽ち果てることがない。(詩編16:10)

  と語ったのです。神はこのイエスを復活させられたのです。わたし
  たちは皆 そのことの証人です。・・・
  (使徒行伝2:31-32)

ですから
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 すなわち、ダビデの種からメシヤが来られ、イスラエル王国が成立するという約束です。                        イエスキリストがイスラエルの王様として来られたけれども、イスラエルの人々はイエスキリストを殺してしまい、イスラエルの王国は延期されたのです。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というように なぜ《イスラエル王国》が問題になるのかが 分かりません。《復活》もすでに言われているということ そして それなのに どうしてあたかも地上の国としてその王国が問題になるのかが どうもつながらないのですが。
 こういった点 よろしく解きほぐしていただくよう お願いしたいのですが いかがでしょうか。

補足日時:2008/03/10 20:26
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この回答へのお礼

 puregrapeさん ご回答をありがとうございます。
 わざわざお呼び立てしたようになってしまい たいへん恐れ入ります。
 しかも この質問は 一たん消えてしまい また復活したといういきさつであり どうも ご回答の内容から言っても 波乱万丈のように感じます。
 さて
★ 《一番目は旧約、二番目は新約》ではなく 《一番目の言約は律法、新しい約束はイスラエルに与えられた1000年王国の約束です》。
☆ とのこと。別の質問への回答として書いておられたことからさらに 発展したと言いますか より一層明らかに述べていただいたと理解します。そして いまこのようにお応えしようとしていることは じつは 考える時間をくださいというお願いとご挨拶です。
 もっと あからさまに申すならば わたしは お手上げです。ほとんど分かりません。初めて聞くことでもあるのですが やはり ヨハネ黙示録がからんでくると よく分からないというのが 本音です。
 したがって 回答者のみなさんにも 助けていただきたいというのも 同じくほんとうのところです。

 ひとつはっきり言えることは キリスト・イエスの出現で すべては 決まったと わたし自身は 信じていますし 思ってもいます。
 とにかくお時間をいただいて じっくり考えてみたいと思います。ぜひそのようにお願いいたしたいと存じます。どうぞよろしく。

お礼日時:2008/03/09 19:52

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