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調べものをしていてwikipediaのアルプス山脈の項目を見ていたとき、「中世には巡礼、大学生、近世においてはまた各地を見物するための旅行者など、多くのものがアルプス越えを行った。」という一文を見つけました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB% …

鉄道もない中世時代、険しいアルプス山脈を越えることができるのかなとふと疑問に思いました。
気になって調べてみたところ、馬車でアルプス山脈を越えた、という説明だけ見つけたのですが、中世の大学生が馬車を持っていたのでしょうか?
また、中世において徒歩でアルプス山脈を越えようとしたとき、荷物や衣服はどのようなもので、どれくらいの期間がかかり、どれほどの危険度だったのでしょうか?

質問が多くてすみません。
ご存知の範囲で大丈夫ですので、よろしくお願い致します。

A 回答 (7件)

シーザー(馬)はローマ兵(サンダル履きで徒歩)を引き連れてアルプスを越えています。

http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Caesar_campaig …

596年Augustinusが山越えをしています。
グランサンベルナール峠やMont Cenisは950~1150年に商業通路だったようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9% …

中世まではほとんどの人が徒歩で山を越えたと思います。(「サウンドオブミュージック」の最後のシーンのように)

中世以降の話ですが、
16~17世紀になると郵便馬車と呼ばれる駅馬車が宿場を行き来するようになります。http://de.wikipedia.org/wiki/Postkutsche

1770年頃モーツアルトはザルツブルクからミラノまで行っています。彼はいつも自分の楽器を持って旅をしていたので馬車旅行だったと思われます。ただ、インスブルックからどうやって行ったかは調べが付きませんでした。http://www.mozartways.com/index.php?lang=de

1775年にゲーテはチューリッヒ方向からイタリアへ山越えをしたみたいです。荷物はおそらく地元のポーターが担いで行ったのでしょう。
スケッチが見られます。http://www.rg.fr.bw.schule.de/archiv/alte_projek …

アルプスの道の写真や絵が見られます。
http://www.wabweb.net/verkehr/alpenweg/alpweg.htm

アルプス地方の民族衣装です。男性はサスペンダー付きの裏皮の半ズボンかニッカポッカ、にハイソックスに登山靴です。
http://www.teddys-handarbeiten.de/xhgm-gal-trach …

ちなみに、ヨーデルは通信手段として発達しました。イタリアアルプスの或るところでは、口笛が通信手段として使われていたところもあるようです。
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アルプス越えは現代人にとってはかなり困難なことのように思えますが、忘れてはいけないのは中世の人々は我々よりずっとタフでした。

死亡率の多い時代ですから、それだけ人間は自然淘汰され、また直接厳しい自然環境におかれていた彼らは肉体、精神ともに強固なものを持っていました。

また、1370年、アルプスのザンクト・ゴッドハルト峠の平和を求めて、まとまりつつあったスイスの各邦が協約を結んでいることなどから、このような峠が重要な意味を持っていた、つまり移動に多く使われていたのであろうことが予測されます。アルプスには他にもグラン・サン・ベルナール峠など多くの峠がありますが、時期を選んでこれらの峠を使えば、中世の人々にとってアルプス越えはけっして無理なものではなかったのであろうと思います。

馬車についておっしゃられていますが、中世(これを15世紀までとくくるなら)に馬車は一般的ではなかったようです。高価で上流階級しか持てなかったのもそうですが、なにより道が悪かったのです。実際、当時有数の大都市であったパリでさえ道路が舗装されたのはフィリップ2世の治世(1165~1223)においてです。アルプスにいつ街道が敷かれたかわかりませんでしたが、中世に完備されたと言うのは考えにくいです。また、馬車に乗ろうと思えばできたでしょうが、それよりは普通に乗馬する方が無難です。

馬車が常用に耐えられるようになるのは中世末期の改良の後です。また、中世の人々にとって一日の大半を馬上で過ごすことなどザラでした。ANo.2に対してですが、中世の大学では神学のほかに上位学問として法学、医学も教えていますし、学生=名家というのは単純過ぎます。そもそもチェーザレは教皇の息子という少々特異な人物です。馬車自体そこまで使い物にならなかったので、学生は歩いてアルプス越えをしたのではないでしょうか。ANo.4さんは馬は必須と書いていますが、そうではないと思います。ハンニバル・ナポレオンなどの将軍に率いられた兵士たちの大半は歩兵だったわけですから。

まとまりがありませんが、要約すると「中世の多くの一般人が徒歩でアルプス越えをしていた」ということになります。参考意見ほどに。
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 「アルプス越え」の概念を変えたのが、ローマ帝国です。



 ハンニバルが苦労して越えたアルプスは、ローマ帝国にとっても軍隊移動の難所であったことには変わりありません。
 しかし、土木技術に優れ『全ての道はローマに通ず』との格言を生んだローマ帝国では、難所を難所のまま放置せず、大土木工事を敢行、数本のアルプス越えの街道を整備しました。(駅馬車制度などもあったようです。)

 ローマ軍は、現代のアメリカ州兵のように、戦闘のないときには、日常的に土木工事を行なっており、道路のメンテナンスもほぼ完璧であったそうで、帝国の拡大がなくなって、新しい道路の敷設がなくなってからも、メンテナンスは続けられました。

 塩野七生さんの「ローマ人の物語」によれば、ローマの道路の石畳に使われている石材は数十センチの厚さがあるそうで、メンテナンスがされなくなって何百年かたった中世でも、馬車を使用できる部分があったようです。

 ローマ時代に比べて、使用できる街道の本数は減り、宿駅も全ては維持は出来ず、治安も悪化したでしょうが、それでもローマ以前よりは良好であったと考えられます。

 詳細は、ヨーロッパ中世交通史の本を探してみてください。
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(国内では"箱根八里は馬でも越すが"と言いますけど、ヨーロッパでも同様で)



アルプス越えの折にも馬(や馬車)は必須だった、と考えるべきではないでしょうか?
現に"我輩の辞書に不可能はない"のナポレオンもマレンゴ号と共にアネプスを越えていますから
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC% …
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アルプス越えというと アイスマンがいますね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4% …

5300年前に アルプス越えをしていたが、ちょっと こけて 氷詰めになっていた人
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中世の大学とは、高位の宗教家を養成する場所でした。


で、高位の宗教家を出す家系とは、名門です。
今 コミックで チェーザレをやっています。講談社の週刊モーニングで。ボルジア家の次男坊がチェーザレで、最初は教会で出世させるためにイタリアの大学に行きました。
また、学生が教授を雇っているという形態でした。

つまり 当時の学生は 名門の一族が行くところなので、その名門の一族が馬車くらい当たり前のように持っていました。
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古代に遡った話ですが ご参考までに(^^)



紀元前218年にハンニバル率いるカルタゴ軍は、4万名以上の大軍を率いてアルプスを敢行しています。
書籍には15日間に及ぶ雪のアルプス越えで半数を失ったとありますが...

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3% …
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