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宗教を必要なのは心が不安だからだと思いますが  

何故人間は人生が安心でなくてはいけないと決めるのでしょうか   

人生は不安であると思ってしまえば宗教は必要ないのではないでしょうか  そして争いも無くなる・・・。

事実人生は電車の乗ってる如く不安定です。

A 回答 (27件中1~10件)

 質問の箱だけだと、質問者さんは宗教にあまりご造詣やご薀蓄がないかと存じておりましたら、やはりそうではなく、深いご思索や薀蓄のある方と存じ、お言葉の“不安だから”も決して生半可な意味内容ではないことが判りました。


 そういうことでしたら、正に、人間という存在形式が不安だから以外に、宗教の生成と展開はなかったといえるかもしれません。つまり唯一の存在である、創造の意識が命じているからでしょう。真理を求めよ、それを自己に実現せよ。と。それが人間という存在に負わされている不安でしょう、宗教がそう命じていて、私達はそれに収斂していく運命でしょう。
 人生に安心は不要ですか。そう、水簾洞斉天・孫悟空の一時を充足させているものがあるのですから、人はそんな不安は不要でしょう。
 山賊の洞窟で、戦利品を前に、大あぐらを掻いて、酒盛りをしていて、日常が満足いる多くの私達は、多く、なかなか宗教を求めることができていないのが現状です。
 人生は不安なのです。結局、被創造者としてしか意識してない、反射光の意識でない、私達は当然不安です。主体的であるとか、自由であるとか、思っていても、それは幻想でしかないし、その日常やこの創造の世界の中の反射の光しか知らない意識と存在では。
 そういう人は宗教が不必要と思っています。
 正に、水簾洞斉天・孫悟空や洞窟で戦利品を前に、大あぐらを掻いて、酒盛りをして山賊の身です。
 ご満足の間は宜しいと存じます。
 そこに意識があるだけですので。それをとやこういうことはないのではないですか?
 通勤電車で、いっしょに詰め込まれ、ぞろぞろ下車して。
 自動の人生、主体の、自由のひとかけらもない人生。
 朝起きて、・・・そして寝て。また起きる。
 そんなものですね。 人間の、ありようは。
 高1の時に、尊敬する、年長の同級生が私にがんと冷や水をくれました。
 二匹のかえるがいた。
 一匹は向こう岸に渡ろうと思い、意志している。
 もう一匹は、どうせ流されるだけさ、渡れっこないよ。渡って何になるんだ。というのです。
 よく聞く寓話ですね。
 どっちの蛙が、・・・。
 そして私は、彼に降参したのです。
 挫折と行き詰まりを乗り越えたのです。
 小5、小6の時からの決意と思考を、そこで変更し、乗り越えたのです。
 補足のご説明に感謝します。挨拶としてコメントを書き込みます
 自分は古希、長男ですので皆が今日はもう集まりました。そんな思いを常に持して、また世の付き合いに階下に下りて70パーセント以上馬鹿になりながら、孫悟空の、山賊の役をやるのです。これから。
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この回答へのお礼

遅くなら申し訳ありません。

そして私は、彼に降参したのです。
 挫折と行き詰まりを乗り越えたのです。
 >小5、小6の時からの決意と思考を、そこで変更し、乗り越えたのです。
    

降参して行き詰まりを乗り越えたその通りだと思います。

>また世の付き合いに階下に下りて70パーセント以上馬鹿になりながら、孫悟空の、山賊の役をやるのです。これから。

ごもっとも。

古希おめでとうございますまた何処かでお会いしましたらご指導ください。

有り難うございました。

お礼日時:2008/03/24 22:04

人間には、色々な人がいます。

必要としない人もいるし、必要とする人もいます。又、同じ人でも必要な時と、必要ではない時もあります。

人間が根本的に、宗教を必要とするには訳があります。それは、人間が自分自身に、少なからず、疑問を抱いている事です。その疑問は「人生とは何ぞや」とか「自分は何ものか」とか「自分は何処から来て何処へ行くのか」そういう疑問や、又、悩みを抱く事が有るからです。

それでは、その疑問はどこから来るのでしようか?それは、自身の心から、湧き上がってきます。それでは、自身の何処から湧き上がってくるのでしようか。その事を突き詰めてゆく時に人は不安に襲われます。

人間として、生きてきて、だんだんと便利になってきて。生活も昔の人達とは、比べ物にならないくらいに、良くなって見えます。ですが、「何か物足りなさ」というものが在ります。その事が関係します。

その事は自身の中に働く「自分自身」が知らない者というものがいて、絶えず自分を圧迫しているのではないのだろうか、という気がします。もっと言えば、自分とは、相反する考えの者がいて、その者との矛盾が自分の悩み、苦しみではないのか、とさえ思えます。

その事を証明するには、二つの事を挙げれば分かりやすいと思います。

一つ目は「禅問答」です。これは、宗教的な第三の目が開かないと解けません。

二つ目は人間の脳の事です。

1,980年代にアメリカンのスペリーという、神経心理学者がノーベル賞を授与される事になった「分離脳」の研究成果の事です。その当時、テンカンの治療のために、左右の脳をつないでいる脳梁の切断が行われていました。今は、弊害が有ると言う事で行われなくなったようです。

その研究の結果分かった事があります。左右の脳には其々、違う人格が存在すると言う事です。もう一つの事実は、左右の脳の機能が違う、という事です。

左脳には、意識が有る、左脳の機能は言語がある、論理的な事を専門としていると言う事です。すなわち分別脳と言う事が言えます。

右脳には言語がない、言葉を持っていないと言うことです。空間の認識、喜怒哀楽、イメージ的、芸術的、スポーツ、言葉の無い世界、(無意識界を統率している)( )内は、私の独断と偏見です。

その研究の成果を踏まえて、禅問答」に話を戻してみると、かなり分かりやすい気がします。

普段私達が、意識している(使っている)脳は、左脳という事です。それで、禅匠は「分別を捨てろ」と言います。そして「禅問答」が解けた時の、確認の言葉に「生死の問題は解決したかどうか?」その答えは「生まれる前の自分の心持が分かった」とそんなことです。

人間が成長して、多くを学んでゆく時、どうしても論理的になります。その論理的な考え方では、ゆきずまってしまい、心の自由を失ってしまいます。その典型的なものが「神経症」と言われるものです。是は論理的に、自分の心をコントロールしようとして、感情がもつれてしまい、心が、流れなくなる事です。それは自分の意思と自分の心の認識の誤りから起きます。

人間が悩み、苦しむのは、自分の「実存」からの問いかけ、かと思われます。その問が発せられる所に、又、答えが有ります。その答えも又、自分で用意しなければなりません。その問うものと、その問いが一つになる時に。「天国に一番近い者は、幼子」と言う事が分かります。

右脳に在る意識とは「自分の働きそのもの、或いは、仏性、と言った人もいました」そこで、今までは「禅」と言う事を簡単に説明出来ませんでした。今度は出来るようになりました。「禅」とは右脳が主導権を持って生きてゆく事。或いは、自分の働きそのもので生きてゆく事、或いは、自我が余りでしゃばらなくて、従になって生きてゆく事。といえば良いと思います。

又、「精神疾患」という事は、右脳を無視して、又は、任せられなくて解けない問題に立ち往生している左脳の意識。という言い方も出来るかと思います。右脳の意識は「宗教」そのもので出来ています。宗教は人間が生きてゆく「働きそのもの」と云ってもいいような気がします。
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この回答へのお礼

読ませて頂きました。

なんだかんだ理屈(分別)をこねても答えの無い人生を(心の問題といった方が言いいのかもしれませんが、これも理屈(分別)ですが)答えの無いまま生きて行くのだと自覚ました。人生も光陰矢のごとしで終盤戦入ってき、死と言う事を考える(分別)ようになりました、若いときはあの世などないと思って(分別)ましたが、今も思ってますが、分別計での判断ですので無分別で観ると有るとも無いとも、究極の所解らないのだと思います。変な言い方ですが少し死が楽しみに成ってきました。

わからない人生をわからないまま終盤戦を進もうと思います。そしてわからないまま死んでいくのかも知れません。

 脳のお話し面白く読ませて頂きました。貴重なご意見有り難うございました。

お礼日時:2008/03/23 04:11

重ね重ね恐縮です。



質問者さまの意識の中には、他者とのかかわりが強く感じられます。

他人は自分の人生に影響を与えない。
自分が、影響される事態を意識しない限りは。
私はそう思います。

たとえば、何か自分に隠したいことがあるとします。バレたら困る。
あるいは、自分がやるべきだと思ったことから逃げていたりすると
それが誰かから咎めだてを受けないか不安になるでしょう。

そういう時、思わぬところから「他人」があなたの人生に関与してきます。
でも、そういう「不安」の根源を生み出しているのは自分自身。

競争社会ですから他人を蹴落とさないと自分が何かを得られないと
いう気になります。でも間違い。
状況自体が、意識によって変化します。
未来は変幻自在。
たとえば、就職試験。内定をもらうには、他人を蹴落とすのでなく自分の個性
優位性を正しく伝えればいい。
自分のやりたい仕事、得たい富は、得たい幸福は他人を押しのける
必要なく得られるのです。
競争意識という低い次元でなく、創造性の次元を生きるためには
自分を信じることが必要なのです。
生きていく過程は、経験を通じて未来を自分の意識で創造しうるという
真理を実感することなのです。
それを宗教と呼ぶ人もいる。宗教は既成の型であってもいいし、
ニューエイジなんたらでもいいし、成功哲学でもプラス思考でも
哲学でもなんでもかまわない。
自分が信じるに値するものを生きながら、経験の中から見つけていく
そういうものでしょう。
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この回答へのお礼

>頑張ってますね。

疲れました、がらにもなく哲学カテで質問しましたので(笑い)

読ませて頂き色々と勉強になりました、も少し感想等を書き込みたいのですが少し疲れましいますのでごりょうしゃ下さい。また何処かでお会いする事がありましたらご指導ください。

お礼が遅れて申し訳ありません有り難うございました。

お礼日時:2008/03/23 19:08

頑張ってますね。



何のために、世界に61億人も、人間がいるのでしょう。
61億人全員がひとつの幸福にひたりえのは明らかです。
というか、全員の幸福感を一人の意識が体感することがそもそも
困難なのです。
仮に人間が61万人全員が幸福(安心立命)になったとしても
その何万倍もいる他の生物の幸福はまだ満たしえないです。

というか、そもそも他者との意識の共有、共通の体験ということ自体
一種の個別限定の世界です。
生きるというのは、限られた人と時空と意識を共有することです。

意識は、出来事を創造します。疑い、不安が裏切りや不幸な出来事
を招き、夢や明るいビジョンや愛や感謝が幸福を作り出す。
自分の意識に内包された「創造性」を信頼することが実は宗教の
意味なのです。

自殺者や病や貧困は、見てみぬふりをするのでなく、本来の姿では
ないということで、よき姿へ励ましたり、本人の創造力を思い出させたり
すべきなのです。
どうあがいても他人の人生は変えられません。
自分の人生は自分の考え方次第でいくらでも変えることができる。

>愛する人が他人奪われたとします、その人を愛し信頼できますか
>ゆだねられますか?  

簡単なことです。そういう出来事を創り出したのは自分の意識なのです。
意識しない不幸な出来事は起きません。
突然、阪神淡路大震災で圧死したような人でさえ、実は突然の死を招く
意識があったのだと私は思っています。お気の毒ではありますが。

>自分の心で有りながらコントールできないと自覚・認識したなら、
それは、人間として生きる目標や楽しみを放棄していることです。
主体性というものを持たないと、偶発的な幸運の到来を待つだけに
なりませんか?

>幸福を求めようとか安心を得ようとか余りしなくて良いのではないで
>しょうかそれが「本当の意味の安心」じゃないでしょうか。
仏教的諦観ですね。

>生活をしていれば心は変わりますから。理想も感情も変わって
>いきますから。だから不安でもいいと思うのです。

他人はそれでいいでしょう。私自身はそれでは嫌ですね。
もっと広い家に住んで、もっと美味いものを食って、いつまでも若く
健康で、カネを稼いで人に尊敬されたいです。
でも、他人にそれを求めません。自分の課題。
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はじめまして。



ご質問1:
<何故宗教は必要ですか?>

人が謙虚でいるためです。

信じるものは何も神だけでなくていいのです。人によっては、お先祖様、大スター、教組などなど、「絶対的な信頼を置くもの」は異なっていいのです。

それが、その人の「神」=「心のよりどころ」となります。

そういう人がいれば、その人が見てると思えば、恥ずかしいこと、悪いことはできなくなります。「お先祖様に顔向けできない」ことはできなくなるのです。

人は全能だと思い込むと、何でも許されると勘違いしてしまう、愚かな生物です。それを諭すために、個人にとっての「全能の神」が必要になります。

この考え方は「人間は悪である」「人間は業を持つ生物」という性悪説からきています。殆どの宗教の根底にはこの性悪説があります。

では、性善説の人は?というと、彼らもまた、信じるものが必要です。信じるものは、上記の通りお先祖様でも、大スターでも、主義でも何でも結構です。彼らの信じるものの下では、全てが自分と同じく「謙虚」であると信じているからです。そう信じることで心の安定を保っているのです。


ご質問2:
<宗教を必要なのは心が不安だからだと思いますが>

そう思われるのは、宗教が人を救ってくれるもの、と思い込んでいるからです。

宗教は人を救ってくれません。

信じる心が自分を救うのです。他力本願ではなく自力本願です。

信じるものがあれば、そのものの前では自分は謙虚になり、してはならぬこと、するべきことが明瞭になります。

自らがプラスに働きかけることで、プラスのオーラが自らを守ってくれます。それが、気づかないうちに人を強くしていきます。


ご質問3:
<何故人間は人生が安心でなくてはいけないと決めるのでしょうか>

誰も決めていないと思います。

平穏で幸せな人生を敢えて選ばず、波乱に富んだ劇的な人生を選ぶ人もいます。

どんな人生を選ぶかは、運命も然りですが、本人の意向次第です。


ご質問4:   
<人生は不安であると思ってしまえば宗教は必要ないのではないでしょうか  そして争いも無くなる・・・。>

人生が不安であるならば、なおさら信じるものは必要になると思います。

不安でいたい人は別ですが、不安や混沌、争いを望む人は、それ自体が彼らに「安定」をもたらすのです。自ら好んでその状況を作り出しているのです。

個人の先天的・後天的な性質、生活環境、慣習などによって、人さまざまですから、そういう人もいるのは、しょうがないと思います。


ご質問5:
<事実人生は電車の乗ってる如く不安定です。>

不安定ですか?考え方次第です。

動いているものは常に安定していません。それを不安ととるか、刺激ととるか。

この電車はどこに着くのだろう、と不安になる人もいれば、どこに連れて行ってくれるのだろう、と行程を楽しみながら到着点をわくわくしてまつ、という人もいるでしょう。

未知の時間、未知の世界は、確かに不安ですが、考え方次第で刺激的な楽しい時間・世界になるのです。


以上ご参考までに。
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この回答へのお礼

色々なご意見を聞かした頂いて勉強になりますた、

>ただ他力本願ではなく自力本願です。

・・・これはそうなのでしょうか、一年に3万数千の人が日本で自ら命を絶ってます心の問題を自力解決しようと思い、他力とは心の問題が他力つまり絶望希望不安安心どうでもいいのです。もちろん自力で解決できている場合はそれでいいと思います。自殺される人は自力では解決できない、にっちもさっちもいかなくなっているんですね。親鸞聖人は煩悩は有るものだと自覚してますからはからいをしないんですね(自分で解決しない(他力)  禅も最初は自力ですが自力が折れて他力だと思います。

生意気言いまして申し訳ありません、有り難う御座いました。

お礼日時:2008/03/22 00:19

およそこの世に生を受けたものは皆


その生を全うしようとする姿が本来の生の姿なのではないでしょうか
その生と死の狭間にある生に
人の
生に対する苦しみは生じる
洗面器の中のザリガニが共食いをして最後の一匹になるまでにその種を存続させようとする執念は野生そのもので悩ましい
人も
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この回答へのお礼

>およそこの世に生を受けたものは皆
その生を全うしようとする姿が本来の生の姿なのではないでしょうか

あのとおりだと思います。

>その生と死の狭間にある生に人の生に対する苦しみは生じる

そのとおりだと思います、先人は苦の問題に取り組んだのしょうが、結局の所、人間から苦は取れないと自覚したと私は認識してます、だからこそ限られた短いこの世で人々仲良く仲良く仲良く過ごそうよと先人の知恵だと思います。それ以上でもそれ以下でもないように思います。

苦や不安を取り払おうとし過ぎるが故に妄信的になり反社会的の行動走る事も有るような気がします。

貴重なご意見有り難うございました。

お礼日時:2008/03/20 14:09

死は摂理として受け入れているのが


貴方にはそう見えているだけなのではないですか
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この回答へのお礼

死の摂理を受け入れる受け入れないでなく、受け入れたくなくても死は摂理・来ます。事実だと思います。事実は変えられないと思いますが。

動物にも本能的な脳の発達は有るでしょうから、危険が迫てば逃げると思います、動物も不安・苦は有ると思います不安・苦から安心・楽の分別が出来ない、或は人間よりできないのではないでしょうか。苦悶がない。

例えば野球でバッターボックスに立ちます、身体に当たりそうになる、こうでそうだ危険だ(分別)を使わずよけます、分別を使っていたら怪我をします。

お礼日時:2008/03/22 14:02

ご苦労様です



>いつ頃から宗教・神・死という概念が脳の発達により目ざまたのでしょうね、ですからご存知だと思いますが動物には死がないんですね

それが分かりますか?
何故動物は他の動物に食べられようとすると逃げようとするのでしょうか?
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>何故人間は人生が安心でなくてはいけないと決めるのでしょうか


それについては、まず、決めていません、と答えます。
>人生は不安であると思ってしまえば宗教は必要ないのではないでしょうか  
 不安である、幸せである、は、宗教の必要性には無関係です。 
>そして争いも無くなる・・・。
これはなんら関連しません
>事実人生は電車の乗ってる如く不安定です。
よくわかりません、電車は不安定ではありません。揺れている、という意味でしょうか?

なぜ宗教が必要か?という命題ですが、それに端的に答えると「生きているから」です。「生きるから死ぬ」それが宗教が人間に必要とされる理由です。宗教が要らない人は、生活の中で、生死を深く考えないで、過ごせる人です。こういう方が大半を占めると思います。宗教が必要な人は「生き死に」に向き合っている人です。思春期、晩年、病気など。

ですので、このご質問の、第一行目の肯定文から、考え直さなければなりません。本当の宗教とは、教祖やモノにすがるものではなく、人の心の中にあるものです。
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この回答へのお礼

あなた様の自覚も、釈迦の墓・達磨の墓どちらも参らづですか。参ら

有り難う御座いました。

お礼日時:2008/03/21 21:31

>宗教を必要なのは心が不安だからだと思いますが



その通りだと思います。
実効性はともかくも、宗教は、人間の影であり、人間の不完全性の補完、理想と現実の穴埋め・・不安や不安定の解消の為に有ります。

安心でなければいけないと決めているのではなくて、
埋められない理想が有るから補完が必要なのでしょう。
理想がない人や宗教に変わるものを持っている人には必ずしも必要ではありませんね。

屍肉を食らい、糞をたれ、惰眠を貪り、他人をねたみ・・・・
それを繰り返しては、懺悔する・・・というようなところに宗教が発生したんじゃないでしょうか。

  
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この回答へのお礼

有り難う御座いました色々勉強させてもらいました。

お礼日時:2008/03/21 21:19

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