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宗教を必要なのは心が不安だからだと思いますが  

何故人間は人生が安心でなくてはいけないと決めるのでしょうか   

人生は不安であると思ってしまえば宗教は必要ないのではないでしょうか  そして争いも無くなる・・・。

事実人生は電車の乗ってる如く不安定です。

A 回答 (27件中21~27件)

人間の学名はホモ・サピエンスですから字義通り解するなら、"苦"位難なく、跳ね除けられられる存在にも映りそうです。


しかし、"そうは問屋が卸さぬ"場合が往々にして起き、その時に(質問者さんが仰る如く、心が不安に陥り易くなり)縋り付く対象として先人の誰かが編出した、のが宗教ではないでしょうか?

そして、上述の"苦"は"病苦""生活苦""仕事(or勉学)上の苦悩"etcとして表面化し、当然の事ながら、中身も千差万別且つ同一状況に置かれていても苦に感じぬ層も有得るかも知れません。
ですけど、「残念ながら"苦"と感じてしまう層が有史以来いて、(2008年3/18)現時点でもい続ける故に宗教がある、と言え、多分将来も人類が消滅する瞬間迄、良い意味でも悪い意味でもあり続ける」と私は思いますね。
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この回答へのお礼

動物には宗教という概念ないでしょうから苦は有るでしょが苦悶はしないと思われます(苦しいから楽へ)脳がそこまで発達していないからでしょうが、いつ頃から宗教・神・死という概念が脳の発達により目ざまたのでしょうね、ですからご存知だと思いますが動物には死がないんですね、これが死だ生だと概念化できないですから、もちろん人間の分別から見ると死はありますが、ある人が人間は進化したのか退化したのか解らないといったお方がいますがホモ・サピエンスより猿くらいで止まってた方が良かったかも知れません、人間だけですから自殺するのは、厳密にいうと違うかもしれませんが。

人間は苦・楽  幸福・不幸と概念化し2つに分別しますが、そして人は生きづまるともう(解決できない様な)駄目だと死を選びがちですが、よくよく心を観察してみますと「Aという生きずまりという(解決できない)事柄が有ったしても、時が経つとAと言う事は厳然と有るのですが苦痛でなくなっている事は多々ある事です、私自身も経験してる事ですが。
ですから安心・幸福を意識的に目指さなくてもと思ったりもするのですが。
貴重なご意見有り難うございました、学ないものですから文章にまとまりがありません失礼しました。

お礼日時:2008/03/19 20:16

不安は、蓄積されると心身に害を及ぼします。


不安定は、慣れます。上手にこなせるようになれます。
ふたつは根本的に別のものです。
不安は、安心の欠落であって、本来安心があるべき姿。
恋人と二人で疑いもなく幸福感に浸るのが真の姿か
相手に猜疑心を抱くのが本来なのか。
不安は、人間の弱さだという人もいます。
おそらく、本質は愛であって、すべての他人を信頼し
ゆだねる心を持つことでしょう。

野島 伸司脚本の「薔薇のない花屋」を見ていて親の愛
を知らない子供と愛されない大人。宗教というより愛し信頼する」
ことが、「安心」の礎かなと ふと
そんなことを思いました。
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この回答へのお礼

>不安は、蓄積されると心身に害を及ぼします

そうかもしれませんね。

>すべての他人を信頼し
ゆだねる心を持つことでしょう。

それは理想ですが人類がそうなれば争いは無くなくなり、多数の不安がなくなると思います、しかし心はそう簡単に他人を信頼し
ゆだねられます、あなた様の心は、仮定の話になりますが、愛する人が他人奪われたとします、その人を愛し信頼できますかゆだねられますか?  

心とコロコロ雲のようにと変わるという事実を認識し自分の心で有りながらコントールできないと自覚・認識したなら、幸福を求めようとか安心を得ようとか余りしなくて良いのではないでしょうかそれが「本当の意味の安心」じゃないでしょうか。

年間、日本で3万数千の人が自殺で亡くなられる方がおられますが、心は行き詰って良いんですよね、行き詰る人は行き詰りますから、生活をしていれば心は変わりますから。理想も感情も変わっていきますから。だから不安でもいいと思うのです。

あまりまとまりのない文章ですいません、ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/19 22:56

 《人生は不安であると思ってしまえば宗教は必要ないのではないでしょうか  そして争いも無くなる・・・。

/ 事実人生は電車に乗ってる如く不安定です。》
――宣長でしたか 身内にしろ近しい人にしろ 人が死ねば悲しむ ただ悲しむ これが神ながらの道だと言っていると思います。コッカシントウは その信仰を 集団としてのかたちに束ね そこに何やかや儀礼をつけ加えて 厄介ですが。

 《宗教が必要なのは心が不安だからだと思いますが・・・》
――とは わたしは考えません。《群れる》という習性から来ているとまづ思います。《人という字は 互いに支えあっているのだ》という大理論にまで発展しています。
 そのあと この群れには 居心地の悪さという側面もあるはづですが それをも克服する道は こうです。つまり 金儲けという道への変身もさることながら やはり支配欲の充足が一番にあるのではないか。
 世俗から離れた道徳を看板にして その内容を説くことによって 人を統率するという行為 ここには 《たとえ仲間の間に支配という関係があったとしても それは 聖なる支配であると弁明し得て 実質的に支配欲が満たされる》というところです。
 《心や病気の不安》 これは 一つの筋として 大きな要因だと思いますが それをも吹っ飛ばすのは 人を動かすという自己充足行為であるのではないか。こう考えます。
 宗教の批判は とっくに終わっています。あとは その組織の解体に向かうものと考えます。 
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この回答へのお礼

読ませて頂きました、参考に成りました有り難うございます。

お礼日時:2008/03/19 22:08

気づくと思いますが



安心や真の幸福、そういったものは
現状のものを否定します。

いきなり、何も役に立たないと言われてみてください。
論理上の強盗です。

愛や慈悲を説くことで自らを限りなく善人に仕立てて
おきながら、言論上の暴力行為をはたらく。

これが宗教です。

注意深く見ると、宗教を擁護する言論の中には、脅迫的言動
たとえば、耐えられますか?などが数多く含まれています。

しかし、そのことを知って、
聖者になるべく、宗教の要求する、レベルの段階まで
苦難に耐えて目指すべきものを目指すと言うのであれば、話は別です。

時々、宗教がとてつもないもの生み出しています。
芸術にしろ、人間にしろ。

問題なのは、宗教を、騙しに騙して
あなたの幸せを考えていると、商売することです。

大丈夫、あなたは救われます。

なんて詐欺行為でしょう。
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不幸があると また 不幸になると思う人は必要なのです


ごく当たり前ですが自分に神が味方していると感じる人は
必要有りません これが自分の心の問題なのです
実際の幸不幸は関係なく 起こることなのです
一度その状態になると宗教でも信じないと生きて行けなくなります
大半の人はその様なことは考えません 今日も明日も同じと思うのです
だって大多数人には今日も明日も同じです
でも人には切れ目があります その切れ目を乗り切ると問題ないですが
その時に失敗すると大事が起きます
一番の切れ目が学生から社会人になるときです
次が結婚することです 今結婚をいやがる人が多いいいです
明日が見えなくなるからです
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この回答へのお礼

色々参考のなりました有り難うございます。

お礼日時:2008/03/19 21:57

>>何故宗教は必要ですか?



健康で、生活が安定していれば「宗教なんていらねー」ってなるのが普通の人だと思います。でも、すべての人間は、確実に死んでいきます。健康だと思っていたのに、いきなりの「余命1年のガン宣告!」なんてのもあります。
さしあたって自分はしばらくは死なないとしても、両親や親友が死んだり、最愛の恋人や自分の子供が死ぬことがあります。

また、もっと多くの確率で死にめぐりあうことがあります。それは「ペットの死」です。ペットロス症候群っていうのもありますね。(ほんとに、猫はかわいいですからね。旦那よりも子供よりも猫が大切って方もいるようですし・・・)

「先祖のたたりじゃあ。この壺買わんと救われんぞ」って脅しではありませんが、「死の恐怖」や「最愛の人との別れの苦しみ」が誰にも確実に襲ってくるから、心の平安を得るためにも宗教が必要なんですね。

溺愛したニャンコが先に死のうと、長年の連れ合いが先に逝こうとも、「あの世で再会できる」って思えば、「しばしの別れ」ってことで、心は慰められます。でも、「あの世」の存在証明なんて、しばらくは科学的には不可能に思えるので、「信じる」しかなく、それは「宗教」の領域になるわけです。


ちなみに猫や犬も転生輪廻しますが、ペットとして買われた猫や犬は個性を持っていて、さらにほんとうに愛された猫や犬は、天国での飼い主との再会を待つために、「わたし転生しないで待っている」っていう子もいます。霊感ある友人は死んじゃった猫ちゃんとよく会話していますが、「転生しないで待っているからね」って言われているようです。なんか「早くこっちに来て」って言われているようで、ちょっとイヤな気もしますが(笑)

肉親、子供、ペットがどんなに死んでも、そして自分自身が「余命半年!」って医師に宣言されても、まったく平静にいられて、静かに死んでいけるなら、そういう方には宗教は不要かもしれません。(凄い人だと思います)
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この回答へのお礼

死は怖いですし、最愛の人との別れは苦しいです、その通りだと思います、人間は死が怖いように出来ていると思います、それが事実だと思います、その事実を宗教に触れる事で変えられますか?(安心を得られますか)

「先祖のたたりじゃあ。この壺買わんと救われんぞ」といわれれば不安だと思います、不安で良いんじゃないんでしょうか、安心に成ろうとするから引っ掛かるのではないのでしょうか?

少し生意気をいいましたがお許しください、ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/18 12:43

安心ではなくてはいけないと決める、というのはちょっとおかしくないでしょうか?


不快な事を避けようとするのは人間の当り前の行動です。
不安の中にたまに安心があるからこそ安心が心地よく感じるのではないしょうか。(宗教を信仰しているか否かに関わらず。)
そして宗教を信仰している人達はその心地よさが、自分の信仰している宗教のおかげだと思っているんでしょうね。

そんな私も不必要だと思います。
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この回答へのお礼

色々勉強させて頂きました。


>そんな私も不必要だと思います。

何をおしゃいますやら、絶対必要です^^。有り難うございました。

お礼日時:2008/03/18 11:59

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