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傲慢→傲慢が無ければ、他人の言葉に惑わされたり、傷付いたりしてしまう
嫉妬→嫉妬があるから、なりたい自分になろうとする
憤怒→憤怒が無ければ、政治を批判出来ない
怠惰→怠惰があるから、世の中が便利になる
強欲→強欲があるから、出世出来る
暴食→贅沢で、家族の絆を強める事が出来る
色欲→キリストでなければ否定出来ない

A 回答 (8件)

普通はみんな、ある感情で必要か、の問題ではない。

個々によって持たなかったり、誰に対してか、もつ感情の大きさによる、自分の中で解釈し、抑制し、対処したりするもので、すべては一人一人に与えた良くないと見なした感情の例かもね
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わりとこういう反語的な表現は洋の東西を問わず


あるようです。伊達政宗の遺言もこんな感じです。

伊達政宗の五常訓(処世訓)

仁に過ぎれば弱くなる
義に過ぎれば固くなる
礼に過ぎれば諂い(へつらい)となる
智に過ぎれば嘘をつく
信に過ぎれば損をする

ここで問題となっているのは、欲望を全肯定すると人間は禽獣となり社会が成立しないが、
かといって宗教などの戒律でガチガチに固めると無味乾燥な人間になってしまうということでしょう。

西洋では中世までは宗教でモラルを縛るのが主流でしたが、近代に入ると欲望をある程度は肯定して
世俗主義でやっていくことになりました。(ヘンリー8世が破門されたり、30年戦争で宗教と政治が分離したり)
現代もこの流れを汲んで、欲望はわりかし肯定的に扱われていて、欲望を刺激して経済を回すのが
称賛されています。(資本主義)
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本能や感情を短絡的に出しては、社会は成り立たない。


それらは感覚=生理的=生物的個体として生きるため
に発達してきたものであり、有史以来1万年足らずの
社会的ニーズには対応していない。

おまけに認識は、肉体に付属した感覚器官に依存して
行われるため、よほど思索を深めねば、自己チューに
陥りがちであり、宗教やモラル、法規などは、そうした
自己中心性を抑制して、社会的行動に導く本質を持つ。

認識、理性、善といったものは、決して短絡的欲求を
否定するものではなく、社会生命的必要に応じて制御
して発露させる事で、長期的にはより大きな達成を成す
ためのものだ。
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これらは、いずれも人間が持っているものです。


だから、質問者さんのように、これを正面から
肯定してしまったら、歯止めがきかなくなります。

これらは罪として、ブレーキをかける、それで
良い具合に調整される、ということでしょう。

人間の知恵の一環だと思います。


色欲が無ければ恋愛も、生殖もなくなるでしょう。
でも色欲は、非常に魅力的であり、これにおぼれて
人生を棒に振る人も少なくありません。
これを正面から良いものと認めてしまったら、
家族が崩壊してしまうでしょう。
だから、色欲は罪だ、ということにして、少しでも
ブレーキをかけようとした訳です。
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「七つの大罪」ではありません。


「七つの罪源」です。

それ自体が罪なのかは良く分かりませんが
罪の原因になるものです。
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傲慢→傲慢は快感だ。


嫉妬→嫉妬が生きる糧。
憤怒→怒りを爆発も快感だ。
怠惰→辛いことからの逃避は快感
強欲→強欲は生き甲斐
暴食→暴食は快感。
色欲→エクスタシーだ。

必要というか、無くしてしまったら自分でなくなるな。
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○キリスト教的「七つの大罪」は仏教的に言えば「欲にまみれた」という意味ですね。


人間で生きているかぎり欲はあるものですから欲が悪いわけではありません。欲がなくなった人を死人といいますね。食べなければ餓死しますしね。つまり、七つの欲があるがまみれてはいけませんよという戒めだけですね。なんでも極端がだめだということですね。
それから、色欲→キリストでなければ否定出来ない。はこれもありませんね。12弟子の中のトマスやフェリポの福音書にはマクダラのマリアがイエスの奥さんであったことが記されていますからね。聖書から除外されているだけですね。色欲もまみれなければいいのですね。
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簡単に


短所は長所
長所は短所
と考えれば済みます

しかし極端であった場合、偏っていた場合は
短所は長所
長所は短所
では済まなくなります

必要であるからこそ精進しなさいよ、て事ではないかなと私は受け取っていますが(^^ゞ
仏教で言う煩悩と同じですよねぇ~
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