時間って結局のところなんでしょう?
定義できるものなのでしょうか。
きっといろいろな分野から考えることは可能なのでしょうが。
どのような意見でもいいので、ぜひみなさんの考えを聞かせてください。

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A 回答 (22件中1~10件)

変化の記憶

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おもしろい質問なので簡単に考えを書いてみますね。



時間とは何かを他の次元と分離して考えたり定義しようとすると思考が停止してしまいます。

3次元+時間しか体感できない人間から見て、宇宙が本当は何次元なのか知ることは、犬が言葉を話すぐらい難しいでしょう。

しかし、相対性理論の示唆によれば、ブラックホールに落下する時計は止まって見え、ビッグバン直後に発生した光は遙か160億光年先でビックバン直後の時計の針を指しています。しかし、地球周辺は160億年を経験しているわけです。

ということは、時間で言うと、一瞬の中に永遠があり、永遠の中に一瞬があると言うことになり、3次元+時間より高次元の存在があると考えるのが自然です。
そうなると、3次元+時間で考えられる物質が出来て生物が進化し、意識が形成され、時間を認識したとうことが確定しないことになり、意識が、物質を形成した可能性を否定出来なくなります。

一方、当たり前のことですが、常に主観的時間の「今」が現在に存在することは、不思議なことなのだと思っています。なぜならば、160億年の長い歴史の中で今が現在なのですから・・・変な言い方ですが一瞬の側から見ると今が現在なのはすごい確率ですよね。←感覚的にご理解下さい。
こんな当たり前のことで何が言いたいかというと、3次元+時間しか体感できない人間にとって、今が現在に存在することは、時間は永遠であり、それを認識する意識も時間と分離せず永遠であると思われてならないということです。

まとめると、時間は、単独で定義付けできず、人間の感知することの出来ない高位の次元(感知できなくとも、将来、認識出来ると確信してます)を示唆しており、これらの次元は意識との関連性が深いということ・・・・で、これ以上は私の頭では想像が及びません。
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 起きる出来事の順序だと私は思います。


 仮に今私たちが生きている世界とまったく同じ順番で出来事が起こっていて、けれど私たちの物差しで言う一万年前に出来た世界がこの世界と平行して共存しているとします。もし私が一万年までタイムワープして、けれど何かの具合で私たちの世界ではなく、もう一つの世界に行ってしまったとしたら(この場合私はその世界に二人いることになってしまいますが、「同じように出来事が起こる」に沿って、もう一人の私もタイムワープしてしまったことにします)、私に区別は出来るでしょうか。恐らく出来ないと思います。なぜならそこは2005年末の日本で、見慣れたコートを取り出せばそこには使い古した財布があり、中には緊張した面持ちの写真が貼り付けられた学生証があり、いつもと同じ風景が目の前にはあるからです。この思考実験からして、絶対時間は存在しないか、人間には認識不可能かのどちらかであり、どちらにせよ、人間にとっては存在しないのと同じだといえます。
 では人間は何を感じて時間を把握するかというと、順番に起こっていく出来事を、その通りの順番に感じ取ることで発生の前後関係を知り、そうすることで人間にとっての時間を感じ取っているのだと考えられます。時計というのは何となく絶対時間の存在を感じさせますが、あれも針の移動、あるいは数字の変化という出来事である以上、実質は他の出来事と変わりません。人間の目から見て規則的に動いていると認められることで、時間の目安となっているに過ぎません。
 人間は物体を認識するのではなく、出来事を認識するのだと私は思います。そのことと、上のような時間論は相補的であり、どちらかが納得できれば、すんなりと受け入れられる考えだと思います。
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>時間って結局のところなんでしょう?


正解は、「わからない。」

>定義できるものなのでしょうか。
「定義」をどう定義するか?によって定義できることもありますが、定義できない場合もあります。
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結局のところは「時間」とは紛れもなく「概念」です。


定義出来るものではなくある特定の方々が「定義」した代物であります。
発明品といってもよいでしょう。

フロイトやローハイムが語ったところの人間のアナクロニズムな本質・・・退行、固着を容易に起こし得る本質・・・から生まれた極めて非生理的な発明品。(だからこそまさに生理的)
しかしながらこの両者からしてその発明に荷担しているというのは笑えるけれども・・・

現在の時の刻み方にはそれなりの基準があり科学者なるものが管理をしているのでしょうが・・・
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あーこういう質問好きです。


僕学校でレポート書いたんですよね。落とされましたけど。。
内容は「タイムマシンは存在しません」・・・。
なぜなら時間は人間が考えたものなので。。
時間というものはないんです、と。
当然落とされますよね。
僕的には、言葉で説明するのがすごく難しいのですが、「動作」
として認識してます。
例えばドラえもんの「タイムウォッチ」で時間を止めます。
でものび太くんは動いてるので、僕的には「とまってないぞ?」
ってなかんじです。
なので宇宙の始まりも終わりもないものだと勝手に考えてます。
ビッグバンという理論があったりしますが、無視しちゃって
ます。
だって、僕的には時間は人間が考えたものなので。。
ちなみにつっこまれても何も答えられません。
ありがとうございました。
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 ひとつ前のページにある「全知全能問題・再び…」という質問、ご覧になりましたでしょうか? 私が出したものですが。

「時間」が一つ、キーワードになっています。

 それはさておき、ちょっと哲学方面から「時間」論を一つ紹介します。
 フッサールの「生き生きとした現在」というのがあります。エドムント・フッサールは20世紀初頭に活躍したドイツの哲学者で、現代思想の源流の一つ、「現象学」の始祖です。
 で、そのフッサールが最終的に達した「時間」の捉え方が「生き生きとした現在」です。ちょっとややこしいのですが、できるだけ噛み砕いて述べてみます。

 「今」という時間について考えます。
 まず一方で、「今」には「立ち止まろうとする性質」があります。noname#254さんが言われている「時間とはブレーキそのものだ」ということで考えておいてよいと思います。
 しかし一方で、「今」は絶えず次の「今」へと流れていきます。それでこそ時間と言えるわけですから。
 すると、「今」というものは「立ち止まろうとする性質」と「流れていこうとする性質」という矛盾した性格を同時に持っていることになります。フッサールは、この矛盾が時間の根源でどのように折り合っているのかを考えようとしました。「立ち止まろうとしつつ、時間をながすもの」として、時間の根源を考えようとしたのです。「砂時計の真ん中の絞り」の正体を考えようとした、と言ってもいいかもしれません。
 がしかし。(ここからがややこしいです。)
 「考える」という作業は「流されている砂の分際で」やらねばなりません。「考える」という作業は、流される時間の中での営みです。これに反して、「時間を流すもの」は、時間に流されるものではなくて「流すもの」ですから、時間の中にはありません。これを「無時間性」と呼びます。「時間の根源」の性質、その1です。
 そしてこの「時間の根源」は、当然、「考える作業」よりも先にあります。流される時間の中での作業ですから、当然「時間を流すもの」より後なのです。「時間の根源は、考える作業に先立っている」。これを「先反省性」と呼びます。「時間の根源」の性質、その2です。
 このようにしますと、時間の根源というものは「考える」という作業が進む時間の外にあり、なおかつ、「考える」という作業よりも前にあることになります。しかもその上、「考える」という作業を含む一切の出来事は、それによって流された時間の中に置かれています(「原受動性」と呼ばれる性質です)。
 するとそのような「時間の根源」は、「考える」作業が時間の外へ飛び出したり、あるいは時間を遡ったりすることができない限り、決して語りえないものと言えます。「それである」とは決して言えないもの…これが「絶対的匿名性」です。「時間の根源」の性質、その3になります。
 ところが! …なのです。
 現にこうして、流される時間の中で「考えて」いるからには、意識はこの「時間の根源」を受け入れてもいるのです。「砂時計の真ん中の絞り」は、私たちの意識の中にある、とも言える…。
 それで、フッサールの結論です。時間の根源とは、決して語りえない意識の根底である、という形になります。

 元祖「現象学」は「意識の哲学」でした。その「意識の哲学」が達した「これ以上行けないところ」、それが「時間」だったと言えましょう。

参考URL:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=48810,http …
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自分を束縛してくれるものかな?


小学生になったら~ とかって周囲の変化を強制的に発現
させて 人類をよりよく進化させるため~♪(謎
ま~ 何時になったら勉強しよっていうこともできるし便利(^^v 昔の人は正確に農作業などをするために暦があったらしいですよ(^^b
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僕も悩んでるんですよ! 実は今それをまとめていた最中なんです。


(といってもHPの題材としてなんですが)
僕には、考えるべき事は次のような点じゃないかと思ったんです。

・空間的な変化を実現するという意味での時間
 (静止しているモノは「時間に対して運動した」とは言わない)
・意識や認識を実現する要素としての、時間の流れ感覚
・時間の流れ感覚に対する、肉体的・生物学的な時間
 (細胞の冷凍保存とかって、生き物の時間を止めちゃいますよね?)
・熱力学の第二法則

最後に挙げたのは、「宇宙が収縮に転じると、時間も反転する?」という
疑問です。でも、無秩序さ(entropy, disorder)というのは、元から
時間を定義する量ではないですよね。ホーキング氏は、
「収縮過程でもエントロピーは増大する」という答えを導いて納得した
そうですね。本で知りました。

本当に面白いトピックの掲示板(?)だと思います。いろんな見解が
聞けて(読めて)、勉強になります。
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なかなか興味深い質問ですね。


で、いろんな人々のいろんな視点が回答にも感じられて、
これまた興味深い。

で、僕なりの解釈でいってみましょう。


1)blue_leoさんの言うように
『うーん、すべての人に本当の意味で平等なモノ、かな。』
なのかどうか?

これはねー、科学的な計測による時間においては、もちろんそうなんです。
で、主観の世界においては、これ、全くありえません。
世の中にはいろいろな天才がいますが、だいたいにおいて、
天才達は時間の流れを常人よりゆっくりと、感じてるように思います。
能力の違いとか言っちゃうと、それまでなんですが(笑)
長島茂雄氏は調子のいいときは、ピッチャーの投げた玉が
止まって見えたといいます。で、曰く、
「止まってるんだから、叩けばいいの、叩けば。」
これは、常人には体感できない全くもって不平等な感覚です(笑)
逆にちょっと先のことが見えちゃうなんてことを言う人もいます。
写真界の巨匠、故木村伊兵衛氏は、
「2~3秒後に、シャッターチャンスがくるのがわかる」
なんて言ってました。
これは個々に感じる時間の感覚が違っていることの
ひとつの証拠かもしれません。

うがった物の見方をすれば、僕達は個々に時間感覚が違うからこそ、
時計を必要とするのかもしれません。
物理的な時間を定めることによって、そのおかげで、
すれちがいを減らすことが可能になっているような気がします。


2)写真をやっている人間としての意見。
写真は瞬間を切り取ると言われます。
で、瞬間って何秒?

これ凄く難しいです。
写真は必ず、シャッタースピードというものを必要とします。
ここで、問題発生。

写真はとまっているか?

答え:厳密に言えば、写真は止まっていて、動き出すことはないが、
  写真の中にはシャッタースピードという時間が存在します。
  たとえ、1万分の1秒であっても、時間は流れ、物は止まらない。

でも、写真は止まらないわけではなく、現に止まっている。
とすると、写真の中には動いているのに止まっている時間というのが
存在し、それはたとえ1万分の1秒であっても、3時間であっても、
等価に固定された時間として、立ちあらわれることになります。
つまり、両方ともあたかも「瞬間」のごとく存在することになるのです。
写真の上においては。

さて、さて、時間ってなんでしょう。
文明の発達によって、全ての人類が同じ時間単位を共有するように
ならなければ、全く考えようもなかった問題ですね。
間違いなく。

しかし、人間の体感しうる最低限の時間の認識としては、
というか最大公約数としては、やはり、
朝日、夕日という区切りしかないのかもしれませんね。

となれば、それより細かく仕切られた時間というのは、
やはり、生活の利便性から生まれた概念にすぎないんではないかと思います。

では、みなさん、自分の時間を生きましょう。
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Q哲学は非生産的で無価値な学問分野という考え

工学部の教授の講義で、「哲学は非生産的で無価値な学問分野です。何が楽しくて4年間も勉強するのでしょうね?(笑)」
と言っていたのですが、哲学を専攻している人は哲学は非生産的で無価値な学問分野という批判をどのように反論しますか?

Aベストアンサー

私なら反論はしませんね。
質問攻めにします(笑)

まず、生産的・非生産的というのはどういう意味か問います。
生産的というのが、「物質を加工して何かを作る」事であると答えられたと仮定します。
非生産的な事が「無価値」という事は、農業・工業以外のサービス業に従事する人は無価値と言うことになりますね。
今や、日本でサービス業に従事する人は6割以上に昇ります。
つまり、この論理でいけば、殆どの人が「無価値」な事をしてるわけですね。
ということは、「無価値」な事でもそれなりに人間にとって必要ということですよね?(必要ないなら、サービス業は淘汰されねばならないでしょう)
ということは、哲学が「無価値」でも人間にとっては必要ということですね。

また、生産活動とは「人々に幸せをもたらす事」と抽象的な事を仮定したとしましょう。
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しかし、同じように哲学も「知的好奇心を満たす」為の生産活動を行っています。
例えば、哲学者は自分の研究の結果を本という「形」にして世に送り出します。
これは「生産活動」とは言えないのでしょうか?
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例えば、パチンコ店なんてパチンコ好きには価値ある存在ですが、パチンコ嫌いには無価値な存在ですよね?
ということは、哲学も貴方にとって無価値でも私にとっては価値があると言うことになりませんか?

まぁ、ともかく生産的・非生産的徒は何か、価値あるものと価値のないモノの違いは何かを定義してくれなくては、反論のしようがありませんので。
そうそう、私の経験則なんですが、「確乎とした信条・理論(≒哲学)」を持っていない人は、質問攻めにすると必ずボロがでます。

私なら反論はしませんね。
質問攻めにします(笑)

まず、生産的・非生産的というのはどういう意味か問います。
生産的というのが、「物質を加工して何かを作る」事であると答えられたと仮定します。
非生産的な事が「無価値」という事は、農業・工業以外のサービス業に従事する人は無価値と言うことになりますね。
今や、日本でサービス業に従事する人は6割以上に昇ります。
つまり、この論理でいけば、殆どの人が「無価値」な事をしてるわけですね。
ということは、「無価値」な事でもそれなりに人間...続きを読む

Q私の考える幸福の定義は、誤りか意見をください。

先日、幸福な人とはどんな人を指しますか?と言う質問を見かけました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7099980.html

いろいろな意見があるのですが、
私の中では幸福な人とは「幸福を意識していない人」
と定義し、結論付けているのですが、そのような回答を述べた人がいませんでした。


何故そう思うのかと言うと、健康な人間が健康を「意識」する事はありません。
「風邪を引いた」「最近、歳のせいか疲れやすくなった」「体力が落ちているのを感じる」・・・。
そうなった時、初めて健康を「意識」するのだと思います。
(↑「健康マニア」は例外 これは幸福とは何なのか?などを哲学的に考えにふけってしまう「幸福マニア」も含む)




幸福も同じです。幸福な人間は幸福を「意識」しません。
決定的な不幸が襲わなくとも、平凡で安全な何不自由ない生活を送っているが、
なんとなく満ち足りない。物足りない。

そう感じると、幸福を「意識」するようになります。
つまり、そう言う人は幸福では無いと言う事です(比較の問題でその程度なら、劣悪な環境で生活している人たちからすれば、幸福度は決して低いものではないでしょう)


幸福を「意識」すると言う事は、大なり小なり不幸の要素がある人のみ起きると思います。
健康と同じように。


と言う考えでいたのですが、そのような回答を述べている人がいませんでした。
もしかしてこの考えは誤りなのでしょうか?




*因みに私の幸福な人の定義「幸福を意識していない人」と言う「意識」という言葉がポイントです。
これを「幸福を求めていない人」と言う言葉だとニュアンスが変わります。

先日、幸福な人とはどんな人を指しますか?と言う質問を見かけました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7099980.html

いろいろな意見があるのですが、
私の中では幸福な人とは「幸福を意識していない人」
と定義し、結論付けているのですが、そのような回答を述べた人がいませんでした。


何故そう思うのかと言うと、健康な人間が健康を「意識」する事はありません。
「風邪を引いた」「最近、歳のせいか疲れやすくなった」「体力が落ちているのを感じる」・・・。
そうなった時、初めて健康を「意識」するのだと...続きを読む

Aベストアンサー

>幸福を「意識」すると言う事は、大なり小なり不幸の要素がある人のみ起きる

というのはおっしゃるとおりでしょう。
冬を知らない人に春の暖かさが実感できないのと同様です。
ただ、冬を経験することが不幸だと認識する必要はないということも同じく言えるように思います。
なぜなら、春を幸福の比喩とした場合、冬から春へと変わる節目にこそ幸福の要素が凝縮されているからです。
乗り越え超越するその過程にこそ幸福があるような気がします。
この意味で落差が必要で、そのためにはある程度の不幸は必須でしょうが、それも幸福を構成する一因子であるという構造になるのでしょう。
むろん、乗り越え可能な程度の不幸であることが最低条件にはなります。
    

Q「神とは、定義できないものである」と定義する。

 「神とは、定義できないものである」と定義する。

ただし、ちょっとまってね。神だとやっかいそうなので、

 「Gとは、定義できないものである」と定義する。

Gはもともと意義を持たない、単なるラベル。この定義によって、「定義できないもの」という属性概念の名称になる。そして意義が生成する。

Gの性質は、本質的に「定義できないもの」という属性と言うことになり、
「AはG」ということで、「Aは定義できないもの」ということをさす。

そして、定義以外の「GはB」という形式の概念思考はできないとする。
というのは、Gの定義から考えられることは、この定義以外の属性を分析判断することができないと思うから。

それとも、たとえば、「Gは創造主である」とか、「Gは絶対者である」とかでてきますか?


ちなみにこれは、真面目な問いです。

Aベストアンサー

それを定義できないものと定義したならば、それ以上のことは言えない。
定義できないものの名称であるGやAに、創造主や、絶対者という属性を付与することはできない。
しかし、GをAと言い換えることが出来るのなら、そこから何らかの、定義できないものたちの共通項を導き出すことは可能性としては残ると思う。つまり、定義できないものの特性、というものが導き出せる可能性はあるということ。
具体的には、たとえば、全く知らない、見たことも聴いたこともないものについては、定義ができない。
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など。
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確証はなく、希望によって色付けられるものなのではないだろうか。

それを定義できないものと定義したならば、それ以上のことは言えない。
定義できないものの名称であるGやAに、創造主や、絶対者という属性を付与することはできない。
しかし、GをAと言い換えることが出来るのなら、そこから何らかの、定義できないものたちの共通項を導き出すことは可能性としては残ると思う。つまり、定義できないものの特性、というものが導き出せる可能性はあるということ。
具体的には、たとえば、全く知らない、見たことも聴いたこともないものについては、定義ができない。
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Q時と時間の違いあるいは定義、空と空間との違いあるいは定義を教えて下さい

時と時間の違いあるいは定義、空と空間との違いあるいは定義を教えて下さい。引用ではなく、独自の見解でお願いできれば本望です。

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追伸
時空を考えると慢性的難病になりますね。慢性的難病を直す薬が「亀と漁師の無限と有限の話」なんですね。
以下の提案は「亀と漁師の無限と有限の話」に似て慢性的難病を直す薬になりますね。
「無双原理・・哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!つまり、無限とは、限りというものが、本来あるのだけれど、たまたま見えない、触れないなどの事情があって、無のように観察される状態。つまり無限とは、循環の繰り返しのような現象の回数に限りのないこと」
特に、無と空がいいですね。自然現象として無も空も存在しないのだけれど人間の単純な観察では表現の言葉として便利に使える言葉ということですね。言葉が独り歩きしてあたかもそのようなことが実際にあるかのごとく考えて慢性的難病になってしまうところが怖いとこなんですね。「無とは単純にないことの、たわいないことば。哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!」そういうことですね。
(仏教)哲学的では無も空も変転の一つの姿を現している状態でしかないですからね。水は熱で水蒸気になり冷やされて又水になる、更に冷やされると氷になる。こんなことはみな知っているのに水蒸気になると見えないので「無し」というのですね。それを空とよんでも同じですね。なくなっているわけではなく変転の姿ですよね。でも見えないから「無や空」ですね。観察眼的表現で論理を立てても意味がないことですね。
その変転をアインシュタインはE=mC^2と表現し、釈尊は「色即是空・空即是色」といってますね。これは存在の永遠性の表現ですね。無限も「無や空」と非常に似てますね。あまりに多い・大きい・小さいと観察不可能ですから無限・無限大・無限小と言っているだけなのですね。単なる言葉遊びなのですが遊びが学問になると慢性的難病になりますね。
まあ私も重い慢性的難病ですから、更に付け加えると、三次元宇宙・時空というのはたくさんあるのですね。朝。木々の葉についている水滴ですね。いくつもの水滴が木の葉についてますね。あの水滴の一つが三次元宇宙・時空なんですね。次の朝になると水滴の数が違っている。そんなようなものなんですね。
膨張も収縮も変転も何でもありですね。再度、たわごとを言ってしまいました。

追伸
時空を考えると慢性的難病になりますね。慢性的難病を直す薬が「亀と漁師の無限と有限の話」なんですね。
以下の提案は「亀と漁師の無限と有限の話」に似て慢性的難病を直す薬になりますね。
「無双原理・・哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!つまり、無限とは、限りというものが、本来あるのだけれど、たまたま見えない、触れないなどの事情があって、無のように観察される状態。つまり無限とは、循環の繰り返しのような現象の回数に限りのないこと」
特に、...続きを読む

Q東浩紀氏がいうスノビズムの定義って一般的なスノビズムの定義とは違いますよね?

東浩紀氏によると「与えられた環境を否定する実質的な理由が何もないにも関わらず、形式的な価値に基づいてそれを否定する行動様式のことをいう。」
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なぜ、こんな用語の混同が起こるのでしょうか?
御回答よろしくお願いします。

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すいません。遅くなりました。
ちょっと時間がないんですが、いまを逃したらまた遅くなっちゃうんで。
簡単に。

> 「富や地位に対する憧れ」が形式的価値といえるかどうかが疑問です。

何を「富」とし、何を「地位」とするか、というのは、個人が主体的に意味づけを行ったものではありません。すでに決まった価値に依拠して、主体が判断するものにほかならない。だから「形式的」な価値という意味で、わたしはこの言葉を使いました。

『動物化する…』の本文には「名誉や規律」とありますが、「富や地位に対するあこがれ」は「名誉」に含まれるもののひとつでしょう。もちろん、コジェーヴがあげている「切腹」の例にはあてはまりませんが。

たとえば「規律」は、主体が社会化されるプロセスにおいて、むしろ外から押しつけられるもの、という印象が強いかもしれません。
一方、「名誉」というと、主体が進んで求めるもの、自発的に欲望するもの、と誤認されるものかもしれませんが、これも教育のたまものです。

教育というと学校で教わるもののように思われるかもしれませんが、それにとどまるものではありません。

たとえばボードリヤールはそれを「日常的ルシクラージュ(再教育)」と呼んでいますが、わたしたちは常に携帯電話の最新機種や車の最新モデル、ファッションの流行などの情報にさらされ、情報の更新を迫ります。わたしたちはこうやって学習し、「新しいもの」「価値あるもの」の情報を得たところで、自分の欲望を「主体的に」形成していくのです。そこでは「もの」を買うことは、その機能を使用すること、私有することではありません(東さんのこの部分はボードリヤールの「コミュニケーションと交換のシステムとしての消費」ということとは関係がないので、これ以上はふれません)。

ただ、ここで言う「名誉と規律」で質問者さんが出しておられる「炊飯器」はスノビズムの例にふさわしくないんです。

もちろん、現在「米を炊く道具」として利用している炊飯器がまったく壊れていなくて、日々の使用に十分耐えうるものであっても、白く、大きくて、場所を取る。最新型の銀色のIHジャーではない、という「価値」において否定する、それがスノビズムである、といって言えないこともないんですが、それだと結局は消費行動に収斂されてしまう。「動物」ということになってしまいます。

コジェーヴのあげた「切腹」の例にしても、以降のジジェクのシニシズムとの関連づけ方を見ても、ここで言われているのは、もっと実体のないもの、あらっぽくいうと(東さんはこの言葉を使うのを避けていますが)イデオロギーというふうに理解していいんじゃないかと思います。

すいません。遅くなりました。
ちょっと時間がないんですが、いまを逃したらまた遅くなっちゃうんで。
簡単に。

> 「富や地位に対する憧れ」が形式的価値といえるかどうかが疑問です。

何を「富」とし、何を「地位」とするか、というのは、個人が主体的に意味づけを行ったものではありません。すでに決まった価値に依拠して、主体が判断するものにほかならない。だから「形式的」な価値という意味で、わたしはこの言葉を使いました。

『動物化する…』の本文には「名誉や規律」とありますが、「富や地位...続きを読む


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