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 あらためての設問です。前回ご投稿くださった方には 大変申し訳なく思っております。お詫び申し上げるとともに よろしくお願い致しとう存じます。

 日本人論です。
 コミュニケーションの問題です。そのうち 非言語による場合です。
 《言霊(ことだま)》のくにであり 《言挙げせず》とも互いに分かるという意味合いで 《互いに相手を神と思っている》と表現したものです。

 ・最近知ったのですが 井沢元彦の持論によると 日本は 和と言霊の国であるが 言霊は 司馬遼太郎の言葉で《念仏平和主義》に通じるゆえ あまりよくない習慣であるだろうということのようです。(非公式ファンサイト)
 ・そもそも《しかれども 言挙げぞ我がする》とも言って来ていますから 綜合的に捉えて どうなのでしょう。最近は 公けにも 討論が盛んですし。
 ・とうぜんの如く ほかの国の人びととのコミュニケーションは どうあるのがよいかを知りたいと思います。
 ・なお 生活感覚として 外国のことをわたしは知らないので 質問では 《日本人は・・・》と特定する形になっています。そのような現実的な事柄としても おしえていただければ幸いです。 

A 回答 (37件中1~10件)

>われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか


そんな人がいたら、会ってみたいものです。

「人」が「神」を騙るなど・・
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この回答へのお礼

 趣旨説明でも 通じませんか。
 アドヴァイスをありがとうございました。

お礼日時:2008/05/03 11:01

何を聞きたいのかがさっぱりわかりません。


議論目的でしたらアンケートカテゴリーでどうぞ。
http://oshiete1.goo.ne.jp/c713.html
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この回答へのお礼

 残念です。
 ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/03 10:59

「われわれ」とはどういうグループですか?


日本人全員というなら回答不能です。
ちなみに私はつゆほども思いません。
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この回答へのお礼

 ご回答のとおりに受け取りました。ありがとうございました。

お礼日時:2008/05/03 10:58

いつもお世話になってます



これは回答では有りませんが、他の方もおしゃってますがbragelone様の場合、何を言いたいのかが判りにくいですね、誤解されての回答が有るように思います。


私などは哲学、宗教の知識レベル一定まで達してないのも有りますが

それ以前に文章自体が判りにくいでね(私自身の学力の無さかもしれませんが)

もう少し判りやすく書き込まれた方がbragelone様にとっても良いのではないでしょうか

私自体の文章も判りにくいでしょうが、学力がないものですからお許しください。

お気を悪くなされたなら申し訳ありません。
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この回答へのお礼

 お世話さまです。ありがとうございます。

 前回通じたものですから うっかりしていたかも知れません。でも それは もう一つ前の質問と関連していたので 通じたということかも知れません。
 補足説明ができないのは情けないのですが この趣旨説明のままで ご回答を待ちたいと思います。

 司馬遼太郎の《念仏平和主義》のばあいは 《平和を希求する》と言挙げするのですが その言葉にした場合にも 平和なら平和という言霊が やはり はたらいて その希求が現実になるというような意味あいがあるようです。
 それではいけないと言っているのですが もし言霊が生きているとすれば それは 非言語的なコミュニケーションをとおして 意思疎通が出来たということになる。もちろん仮りにの話ですが つまりは 人びとの心理的なつながりの側面で 幻想としてなりに なんらかの働きがあるのではないかという理論です。
 そして そのことを つまりそのような情況を 《互いに相手を神と思っている》と表現しています。実際に思っていなくても あたかも そのような表現があてはまる人間関係が 日本人のあいだには 一般的にですが あるのでしょうか。ないでしょうか。と問うています。
 神ということばの定義もしていないのですが そのまま
 《一般にわれわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか》
と問います。まづは 感覚的にでもどう受けとめていらっしゃるのか 知りたいです。おそらく その受け止めのあと みなさんも この情況について お考えに思い当たって その内容を披露していただけるのではないかと考えます。
 
 言霊の国だというが そうではない / いや そうである。
 言霊の国であるが それを《互いに相手を神と思っている》という表現に替えるのは おかしい / いや 部分的には 考えられるかも知れん。などなどです。

 つけたしですが ときに われわれ日本人は 日本に来ている外国人のことを 或る種の仕方で 神だと思っているというような心理現象はないですか。なかったですか。

お礼日時:2008/05/03 11:40

>《言挙げせず》とも互いに分かるという意味合いで 《互いに相手を神と思っている》


あ、そういう意味での「神」は、日本特有とみて間違いないし、悪しき習慣ですね。

この場合、自分が何もしゃべらなくても自分の意思が相手に伝わっていることを期待している、
という意味で、実際には人間にはそんなことできない、神でないとできない
ということから、「相手を神と思っている」わけです。
更にひどいことに、自分も相手のことをわかってないのにわかったふりをしています。
(《言挙げせず》とも互いに分かる、といっている。)

で、どうすれば「話さなくてもわかる」状態になるかというと、
皆の価値観が同じならそういう状態に多少なりとも近づくわけで、
「相手を神と思っている」イコール「自分の価値観と違う相手の排除」です。

大陸だと、民族が入り混じっているから、価値観が各自違い全員を趣旨換えできないのは自明。
ですから、自分の意見を伝えるためには自分から何らかの行動に出ないとならないわけで、
「相手を神と思っている」人がいたら、「何も発言しない。何考えているかわからない。いや、何も意見を持っていないアホだ。」
とまわりから評価されるだけです。
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この回答へのお礼

 ★ 「相手を神と思っている」イコール「自分の価値観と違う相手の排除」です。
 ☆ 《ワーオ !!》と思わず言ってしまいました。心の中でですが ここまできびしいと 気持ちいいです。
 たしかに たとえば今村仁司の《排除の構造》論などをも思い浮かべます。《第三項》の排除というそれです。価値観の共有ができない第三項です。あるいは masa2211さんの論理でいくと 《互いに 話をしなくても わかったふりをする》という価値観の共有というのもありなんですね。

 わたしのように昔の人間は 《思いやり / 察し合い / あるいは 惻隠の情》などなどという言葉が にぎわっていました。人と仲良くやっていくためには 馬鹿にならなければいけないよという文句も 花盛りでした。

 ★ そういう意味での「神」は、日本特有とみて間違いないし、悪しき習慣ですね。
 ☆ たぶん このようなきちんとした見解が出て やがて 《思いやり》のいい面を保ちつつ また新しいわが国が 新しい社会として 作られていくのでしょうね。

 ★ 大陸だと、民族が入り混じっているから、価値観が各自違い全員を趣旨換えできないのは自明。
 ☆ 島国の問題なのですが この主題では こうも ふと 考えたことがあります。この極東の島々にやってきた人びとは 意外と雑多であり また 何波かに分かれ かつ いくつかの民族(言語習慣文化の違い)にも分かれていたのではないか。それが 行き止まりの土地ゆえに 雑種でありながら 一つの民族に統合されていったのかも知れない。だからこそ 進取の気風や外国のものに対して柔軟に自由に受容するという性質を持っているのだと。
 おそらく 血液などの調査で 日本民族は それほど分散するような生物学な存在ではないと分かるとするなら それでも 外に開かれた気質ではあると思うのですが それにしても コミュニケーションのことでは 何かと まずい一面が 目立つようですよね。なんとかしたいですね。

お礼日時:2008/05/03 15:17

これはコミュニケーション論ですか。


非言語コミュニケーションの。
ということはつまり、言語情報科学から見れば、言語コミュニケーションの問題でもあるところの。
で、ご質問の核心は、発話行為論ということでよろしいのですか。
言語内行為と言語外行為について、日本人のありかたは、外国人のありかたは、という。

それとも、言語を発すること(なにしろ言語を口から出さないと言霊は出ませんよ)と黙することで、
相手を何と捉えるかの違いを問うているのでしょうか。

言挙げせずとも互いに分かるということと、言霊思想とのあいだに一定の関係があるかどうかについては、すでに自問済みですか。
沈黙のなかには言霊は無いのですが。。。

万葉集から。
言霊のやそ(八十)のちまたに夕占問ふ

ことだまの幸はふ国、である大和の国から考察をはじめ、社会や文化にどのような独自性があるかを考えるならば
「日本語を深い理解のもとに用いる上で、指示の対象化はどのようにして起こるか。主体-客体は、どのように形成されるか」
という問いをお持ちなのでしょうか。

ところでどの言語であっても字源を見れば古くは万象と結びついた形と音から発生したもので、
語というものは、呪文とも祝詞とも魔法とも見える生き生きとした力の側にあったものです。
今もなお、呪文も祝詞も魔法もないという言語文化は皆無です。
どの言語であっても、適切な理解のもとに言語を用いるかどうかでコミュニケーションは変わり、
また適切な理解のもとに沈黙するかどうかでコミュニケーションが変わるのです。

「精神」との表記を知る漢字圏の人々は、人間のうちに神のつくものがあると考えているはずですが、
自分には精神があるが、相手には精神がないと思っている人間はどこの国にもおります。
「spirit」の語は印欧語全般にわたると思われる「息吹」のラテン語から派生していますが、
人のうちに息吹があるかどうかもまた、天地と神につながる精という思考を含んでいます。
自分のspirit以上に人のspiritを尊重するという人間もまた、どこの国にもおります。

対人態度や振る舞いと言語の、相関関係についての比較文化論というご質問でしたのなら、
言葉に重みがあるということと言霊とは無関係に、
重い言葉を使う人と軽い言葉を使う人には、精神-息吹のちがいがあり、
国語文化によらず各言語や各国家の一枚岩でもないと述べておきます。
そしてむしろ、表現の質と沈黙の質という問題は、国家政治経済の問題として、抑圧、生産/消費形態から考えねばならないでしょう。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 重大な勘違いをしていました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 言挙げせずとも互いに分かるということと、言霊思想とのあいだに一定の関係があるかどうかについては、すでに自問済みですか。
 沈黙のなかには言霊は無いのですが。。。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言は事で 言霊も 言葉を発しなくとも 事のあり方だけで 事霊が はたらくと思っていました。だから 《言挙げせず》が 日常生活のくせ(エートス)なのだとです。たとえば

  葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国
  しかれども 言挙げぞ我がする ・・・(十三巻・3253番)

  磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ (3254)

 《神ながら 言挙げせぬ国》というのが 基本であると思っていました。《神ながら》というのが 《事霊》のちからであるとです。そのような口には出さない《言霊(事霊)の助くる国ぞ》であるのだが その上に なお《しかれども 言挙げぞ我がする》のであって だから《きみよ ま幸くありこそ》と言葉を発することもおこなおうと言っているのだと。
 つまりは 《言挙げせぬ 神ながら》なる・口に出しても出さなくても言霊のさき(咲き⇒幸)はふ国ゆえに 《人は 互いに相手を神と思っているのだろうか》と問うたのでした。

 うぅーん。どうしましょう。
 質問の趣旨は 早い話が 《以心伝心》です。これを コミュニケーションにおいて どう位置づけるかです。さらに 日本人論(したがって 外国人との比較対照)として どう捉えておくかです。
 あとは この質問は 次の質問から出たものです。
 《Q: 日本人は 人間ではないでしょうか=   
    http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3893969.html
  (つまり コミュニケーションの問題をあつかっています)。

 ★ ところでどの言語であっても字源を見れば古くは万象と結びついた形と音から発生したもので、 / 語というものは、呪文とも祝詞とも魔法とも見える生き生きとした力の側にあったものです。
 ☆ このとき 言語以前と言いますか いえ 言語をすでに伴なっていていいのですが それでもそのとき 《言わない・言葉に出さないという態度》(大雑把に 事霊として)と 《呪文・祝詞・魔法とも見える生き生きとした力の側の語》(言霊)との関係は どうなんでしょうと問うても よろしいですか。それによって 問題がはっきりするように思うのですが。
 あるいは 
 ☆ 以心伝心 というのですから 関係の側面また交通・交流そのものに焦点があたっていて
 ★ 表現の質と沈黙の質という問題
 ☆ とは 微妙に異なるとも思ったりします。その主題はおもしろそうですが。

 あと wiki の《言霊》には 指摘していただいた《息・風( spirit / pneuma / ruah )》が 軽く 触れられていました。確認です。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A

 たぶん wikiの定義からいくと わたしの失態ですが これだけをお伝えして 《以心伝心》の問題を論じていただければさいわいですし うれしいです。もちろん それが 全体観とのかかわりを抜きにしては 論じ尽くせないという事情でしたら ことと場のゆるす範囲で おしえていただければ もうそれ以上のことはないと思います。
 この質疑応答のため・つまりみなさんのためにも そもそもコミュニケーションとは何かから始めていただく形であっても それにも わたしのできる限りで ついてまいりますので あとは 自由なかたちで ご投稿いただければと存じますが。

 * そうですね。いくつか指摘していただいた論点や学の分野は それとしては 質問を改めたほうがよいかも知れませんね。

補足日時:2008/05/03 16:32
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いつも通りの自己紹介からはじめます。


私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれます。
これは自己の同一性が高いから出来る芸当で、自分自身をよく知っているつもりです。

一般にはあまり違和感なく使いこなす言霊として、心の言葉に表れる自分ではない誰かさんを体験した人は多いと思います。
たとえば友達について考える時、その友達の言いそうなことを想像して一人きりで友達と心の中で対話するという現象です。
大半の人が自分だけの妄想(この妄想という言葉が曲者)と捉えています。
しかし、よーく考えて見ると、自分の心の中に誰か他の人が住んでいるのは奇妙な話ではありませんか。
その心の中の友達(の偶像)はひとりで対話している瞬間に自分自身は一人であるという自己の同一性から切りはさされています。
この不思議な存在の正体を見極めることがポイントでしょう。

これは私にとっても目の前にあるもう少しでたどり着けそうな真実です。
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この回答へのお礼

 primeapeさん 前回の質問につきましては たいへんご迷惑をおかけして 申し訳ありませんでした。すぐさまには 心の整理ができませんでしたが あらためて設問いたしました。どうぞよろしくお願い致します。
 
 おおーお。現在進行形の情報をいただきました。ありがとうございます。
 こう言ってはいけませんが 一見すると いわゆるテレパシーのようですが それでは まちがいですか。
 こうなったら わたしも 白状します。父が 存命中に テレビ電話が発明されたというニュースに驚いていたので テレパシーなら出来るよと言ってやりました。翌日 離れていた時 かれは 送信してきたのです。わたしが 答えてやったものですから あとで顔を合わせて びっくりしていましたが その後 もう二度と そのことには触れませんでした。
 親しい間柄では 多少の通信をできると思います。特別にする必要もないとは思いますが。
 たぶん 友だちの場合には わたしの例でも
 ★ その友達の言いそうなことを想像して一人きりで友達と心の中で対話するという現象です。
 ☆ というかたちです。つまり 一方通行です。それが その次 会うときに 貯金されたかたちになるかも分かりませんが。ただし 無理に 溜めておく必要もないようです。

 そういえば 《言霊》と結びつけては 捉えていませんでした。
 
 体験でわかるところまで ついてまいります。 
 わたくしの場合 身内など ごく限られた人たちにしか このような内容を話したことはありません。でも 話を持ち出されると 思い出すものですね。ただし 《対話》と呼べるような通信ができるのは 限られています。わたしの場合です。
 
 ということは 一般的に言って 以心伝心は かすかにでも 起こりうると見ておくのが よいでしょうか。

 一般のみなさんは この対話を 変に思われるでしょう。理論にしようとは わたしの場合 思っていないのですが。また この以心伝心ができることや その《技術》をみがくことが 目的ではないので ただの挿話のごとく 受け取っておいてください。

 primeapeさん 異同はありますか。

お礼日時:2008/05/03 19:39

primeapeです。


いきなり特殊な話に引っ張り出されましたね。
もう少しそ知らぬふりをしてボケ役を演じないと誰も付いてこれないんじゃないですか。
私の場合霊感的感性はbrageloneほどの才能が無いし自覚も足りません。
携帯電話でも使ってお互いに話し合うような現象はわたしも父と一度だけ経験しました。
それからこの友達とは心を開いて心象を霊視してもらったことがあります。
あとは確かめようがありません。
心の暗闇を救い出すというかほじくるといいますか、相手自身の知らない心の暗闇を治療するような行動が多いです。
欲望から売られたけんかを喜んで買うような姿勢です。
この暗闇は「イデアの偶像」というのが今までに使った言葉で一番しっくり来ます。
暗闇を覗いた経験では名前で拘束されるとお互いににっちもさっちも行かなくなってしまう傾向があります。

それからこの前の件でこちらからもお礼を言いたかったのですが、
愛の体現こそが本望、
この言葉を
愛の体現こそが幸福。
このように言い換えて投げかけたらその水面には波紋がひろがらないで喜びの予感がしました。
一人で考えていたらこんなにわかりやすくは出来なかったと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 ANo.7を読み返してみると 必ずしも分かっているのではなかったと思いました。それは 今回の《心の暗闇 / イデアの偶像》が 分からないというので よく噛みしめようとしてのことでした。

 たぶん わたしの場合は 《霊視》ですとか そういう治療の関係は あまりないと思います。あるとすれば それは 通信つまり対話です。案外 これが その以心伝心で済むようです。
 これが 言霊だとは まづ思っていなかったですし いまも ピンと来ていません。

 愛の体現 これは むつかしいですよ。知らないところで あたかも愛がはたらいていたというような場合が あるかに思っていますが 自分の意志でこれこれの行動をして 愛を実践したというのは 無理なように思っています。
 ただ その人との関係や周りを含めてのひとまとまりの集団について あたかも 愛の軌道にあって歩んでいるという感じを持ったこともありましたが 次の場面では もう局面が変わっているというような経験です。
 つまり わたしの得ている教訓は 愛にはこだわるなかれです。その場の問題や課題に応じて 考えを出し合って行動してゆくこと この単純な方程式が 基本です。
 とりとめなくなりましたが。

* 言霊は やはり 事霊であって ことば以前の人と人との関係性と捉えると わかるような気がしてはいます。

お礼日時:2008/05/03 23:24

primeapeです。


A8について補足です。
以心伝心とは無意識同士で日常的に当たり前のように行っている対話で、そこに主観の介在したものが確認の出来るテレパシーではないでしょうか。
そのように考えるとA7の友達との会話が本来なら意識する必要のなかったもので、さらに伝えるつもりも無かったので少々判り難い事も納得がいきます。
心象を表に現しすぎる日本人の無意識の感性は外国に比べて無防備で幼いのでしょう。
それから一般的な無意識は自覚しないで寝ぼけ眼で以心伝心を扱っています。
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この回答へのお礼

 日常生活で 互いに知り合いになり 交わっているなら それで すでに《以心伝心》の関係状態にあると思えて来ました。
 そのとき 或る時点で 意識的に
★ そこに主観の介在したものが確認の出来るテレパシーではないでしょうか。
☆ こういうふうで いいんでしょうか。
 ただ
★ 心象を表に現しすぎる日本人の無意識の感性は外国に比べて無防備で幼いのでしょう。
★ それから一般的な無意識は自覚しないで寝ぼけ眼で以心伝心を扱っています。
☆ となると 《コミュニケーション》としては 他愛ないものごとが おもであると言うべきかも知れないですね。
 もっとも この他愛ないことが 大事な対話の行方を左右するような転換点になることもあるかも知れません。

 ということは 言霊は むしろ あくまで 一対一の対話においてや 少人数の集まりにおいて あるとすれば コミュニケーションに 或る種の仕方で 与かっていると言える場合があるのかも知れません。

お礼日時:2008/05/03 23:37

アバウトにしかわかりませんが、言霊って<真言>のことだと思います。



日本の真言教ってありますでしょ?

マントラのことで、真の名前を適切な時に適切な場所で唱えると、実体化する とされる。

呪術が関係している。


日本は昔、諱 というものがあった。
徳川家康の場合は、徳川次郎三郎源朝臣家康が名前ですが、次郎三郎が通称。

で、普通は通称を用い、親とか信頼できる相手にしか、真の名前は教えなかったんですね。

どうしてかというと、真の名前を敵に知られると、呪術で呪われ殺されるから と信じられていた。

通称 とか 仮の名前を使って呪術で呪いをかけられても、それは本体を呪っていないので、無駄なわけです。


ですが、相手の本質を洗わず真の名前を使うと、本体に呪いをかけることができ、<適切な場所で、適切な言葉を使うと、実体化する>ので、殺される と信じられていた。


人間はいろいろなものに名前をつけましたよね。
それによって区別ができるようにはなった。
「うめぼし」と言われて、唾液が出るのは、うめぼしがなんたるかを知っているからですよね。

アメリカ人に「うめぼし」といっても、真言は発動しない。


>井沢元彦の持論によると 

ん? 一冊もってますよ。持ってる本に書いてあったかな?
あ、、二冊持ってた。 こっちですね。 えっと・・・。

そうです そうです。 私が上で上げた真言の意味と同じです。

『日本人は今でも知らずのうちに言霊を信じている国民である!

言葉は霊力を持ち、単なる記号ではないということは、言葉は生きものだということです。
記号ならいいけれども、生き物はうっかり使えない。
下手をする人を噛むからである。
要するに、言葉の内容を実現させる力があるということです。
もっとわかりやすく言えば、言葉はすべて「呪文」であるということです。』

はい マントラってわけですねぇ。

『例えば、「幸せになってください」と言うのは単なるあいさつではありません。そう言うことによって、言霊、言葉の霊力を発動させ、その霊力によって実際に人を幸せにする。 それが言挙げです。』

『皆さんは、言葉にその内容を実現させる力があるなんて迷信だろ思うかもしれません。
実際、「ここにあるカップ、金になれ」と言ったって、金になるわけはありません。
そういう意味では、言霊は確かに迷信と言えば迷信です。
しかし、実は日本人には、生まれたときから、知らず知らずのうちに言霊の考え方が心の中に刷り込まれているんです。』


んで、例をあげると、旅行に行く人に「お気をつけて」と言ったとする。
「いってらっしゃい」じゃなく 「お気をつけて」
その人が旅先で事故にあったとする。
「お気をつけて」と言った人が「お前がそんなこと言うから」と非難された場合、非難した人は、言霊の力を信じている わけです。

逆にオリンピック候補者が怪我をしたとする。
新聞記者は「金は取れないだろう」とは書かない。
「金メダル確実」と書く。
言霊を信じているからです。

「金メダル確実」と書いて、金が取れなかったとしても、書いた記者は非難されない。
「金メダルは無理だろう」と書いた場合、金メダルが取れなかったら、記者は「お前のせいだ」と非難される。
言霊を信じているからです。

青天なのに、「雨が降るかもしれないから傘をもっていけ」と言われ、無理やり押し付けられたとする。
夕方雨が降った。
「おお 言霊が実体化した」なわけです。

で、言霊は神か?
うーーん。
例えば「傘もっていけ」と無理やり傘を押し付けたかーちゃんは神か?
かーちゃんの予想が当たったときだけ かーちゃんは 神になるのか?
なわけないですよね。


プラシーボ効果 ってご存知でしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%91%E3%81%AE% …
『呪いの効果については、実際に呪われたという人はいるものの科学的に実証されたわけではなく、誰かが自分を呪っていると認識することで、自己暗示にかかってしまい、呪われたと感じるため(マイナスプラシーボ効果)であって気にしなければ何も起こらないという研究結果もある。』

プラシーボ効果は、「勝つ 体が軽くなる 素早く動ける 」など自己暗示としてオリンピック選手も活用している。

信じるものは救われる バージョン。

マイナス思考の人が何故失敗するのか。
自己暗示により失敗するよう自分の気持ちをもって行っているから。

<やるべきことは全てやった あとは天運に任せる。>
   ↓
もう 勝った気なので勝てる。


マントラの母に相当するマントラはカーリーの創造の言葉Om(オーム)。
カーリーが宇宙を生むときに発した言葉がオームだったから。

産む じゃなく オム? うーーーん

ヒンズー教は、正しいマントラを心得ていさえすれば、全てが成就すると信じていた。
「正しい順序で、正しい時に、正しい方法でもといられさえすれば効果がある」と信じていた。

「呪わば穴二つ。」
呪った側も呪いにかかる。
それは、「あの女 こうやって 呪いの藁人形で殺してやる~」と毎晩丑の刻参りに精を出せば、そりゃあ 寝不足だし、精神錯乱なので、やつれて動くもの辛くなりますわなぁ。

他には、イザナミとイザナギの国作りの時、最初の方で失敗したじゃないですか。
で、主神が、「男の方からいわにゃあ 駄目」って順序が逆だと教えて、その通りにしたら、やっと形あるなんでしたっけ?・・・なんとか島ができたんでしたよね。
ほーら 日本列島自体が言霊でできたという話。

他には聖書の創世記の天地創造も「光あれ」と言霊使ってますよね。
神が言霊を唱えたことになっている。


で、日本人はお互いを神だと思っていませんが、意外と言霊を信じているから「お前があんなこと言ったから雨が降ったじゃないか」とか言うわけです。
だからといって、「お前が」という人が非難した人を神だと思っているわけじゃない。

が、言霊の力をうっすらと信じているというか、関連づけて、八つ当たりしているだけ。
じゃなきゃ どこにこの怒りをぶつけていいのか。
「天にばっかー」と言えばいいが、天に罪を追求したところで、反応ないので、反応ある人間に八つ当たりするわけです。

「ほーー 私のせいか じゃあ もう1つ言霊使うぞ」って言った場合、どうなるでしょうね。

「ちょっとまて 俺が悪かった」というでしょうか?

「お前にそのような力は無い」といいつつ、なんか不幸が起こったら、「あいつののろいで。。。あやまっとこ」ってなるんじゃないか と。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 《言霊》――ますます 分からなくなって来ました。
 井沢元彦の所説も明らかにしていただいたのですが あたまがこんがらがって来ました。

 疑問点。
(1) マントラ・呪文つまり呪いあるいは暗示(他者へのおよび自己への)――これらと 以心伝心との関係や如何に?
 呪いにせよ プラシーボ効果のごとく引き立てるにせよ それらが 効果を発揮する場合 あるいは 発揮しなかったことによって 影響を与える場合 などなど そのような場合というのは けっきょく 一方交通であるように思われます。《対話ないし コミュニケーション》ではないと感じられます。意思疎通の問題から どうも 外れているように思われます。

(2) その感覚を大事にして 考え続けると どうも 《言霊》には 第一次のそれと 第二次のそれとが あるように思われて来ました。
  空で放電現象という《事》があって これを《いかづち / かみなり》という《言》で受ける。もしくは そのように発音を伴なって成り立った時点で それは単なる《事の端⇒言の葉・言葉》と捉えたかも知れない。
 したがって――いま初めておこなうまったくの推測ですが―― 《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。つまりこれら両者が 第一次と第二次とです。 

 もし――べらぼう話になってきましたが もしお天道さんが西から昇ってきたとしたならの推測ですが もし―― 第二次の《言葉霊》としてのことだまなら それは どうでもよいわけです。
 ですから 《念仏平和主義》というのも 第二次の言葉霊であれば 少々乱暴に言ってしまえば ばかげている。雨よ今日は降るな 明日降れ / 恵みの雨よ こちらには降れ しかし 敵の田畑には降るな などなど 勝手にほざきなさいとなります。
 ただし 悪人にも善人にも わが敵にもわが仲間にも あまねく等しく 雨よふりたまえというように 素朴な人間存在とその社会形成の次元での・つまり第一次の《事霊=言霊》については このうそつきの生物ながらそのこころの赤き真実も 失われていず なにがしか多少なりとも 現実味を帯びていると考えられて来ます。また この第一次の自然本性としての言霊にもとづいてこそ かなり迷信じみた第二次の言葉霊が 成り立っていると見なされてくることになります。

 ここまで書いて 次のご回答へのお応えに移ります。

補足日時:2008/05/04 00:40
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