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 あらためての設問です。前回ご投稿くださった方には 大変申し訳なく思っております。お詫び申し上げるとともに よろしくお願い致しとう存じます。

 日本人論です。
 コミュニケーションの問題です。そのうち 非言語による場合です。
 《言霊(ことだま)》のくにであり 《言挙げせず》とも互いに分かるという意味合いで 《互いに相手を神と思っている》と表現したものです。

 ・最近知ったのですが 井沢元彦の持論によると 日本は 和と言霊の国であるが 言霊は 司馬遼太郎の言葉で《念仏平和主義》に通じるゆえ あまりよくない習慣であるだろうということのようです。(非公式ファンサイト)
 ・そもそも《しかれども 言挙げぞ我がする》とも言って来ていますから 綜合的に捉えて どうなのでしょう。最近は 公けにも 討論が盛んですし。
 ・とうぜんの如く ほかの国の人びととのコミュニケーションは どうあるのがよいかを知りたいと思います。
 ・なお 生活感覚として 外国のことをわたしは知らないので 質問では 《日本人は・・・》と特定する形になっています。そのような現実的な事柄としても おしえていただければ幸いです。 

A 回答 (37件中21~30件)

1つ書き損じ。


>自らが作り変えたこの地上の環境にするのは当然です。
自らが作り変えたこの地上の環境に適応するのは当然です。
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この回答へのお礼

 《人間(現実)が変わる》という標語を持っています。

お礼日時:2008/05/04 23:18

primeapeです。


何故人知に憎まれるのか、その笑いのエッセンスの解説です。
ちょっと演説めいた言い方です。

私(達?)真実の愛に目覚めた本来の人間は人知にとってあらかじめ予見された恐怖の大王そのものです。(ここで笑ってください)
自らが作り変えたこの地上の環境にするのは当然です。
そのための全人類の進化は不可避です。
予言にあったイエス様の再臨。
禅(自由)を知るものにはこの名前の束縛は無意味です。
自分自身が何者でもない感覚は人知に走るよしも無いでしょう。
何者でもない普遍的な人間(霊長を使いたいじれったさ)として今生で起こる自然淘汰をただ見守るだけで居てください。
私たち(愛の体現者は)はすっかりその気です。

これがハルマゲドンです。
2001年には実際に恐怖の大王封印の魔道大戦をしていまして、さらに、終焉する心象世界を見守るだけの状態ともおさらばしつつあります。
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この回答へのお礼

 人びとから《恐怖の大王》ではないかと思われる場面があるかと推し測られます。次のくだりを思い出しました。

  汚れた霊に取りつかれた人が・・・大声で叫んだ。
    ――いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、
     苦しめないでほしい。
  イエスが、
   ――汚れた霊、この人から出て行け。
  と言われたからである。
  そこで、イエスが、
   ――名は何というのか。
  とお尋ねになると、
   ――名はレギオン。大勢だから。
  と言った。
  (マルコ福音5:1-20)

 なぞを残したかたちにて。

お礼日時:2008/05/04 23:17

primeapeです。


人知に関して待つゆとりを持って欲しいのでコメントします。
人知とはかつて芸術家がひょっこりひょうたん島として表現した物です。
ただしお笑い種にしては討ち漏らすので今度はそれが無いように機会をうかがっています。
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この回答へのお礼

 この《人知》 これは 意外と 力強いです。
 しぶといです。《人知》であるというだけの信念で どこまでもねばるという振る舞いに及ぶようです。という印象です。
 つまり 感情に染まったり押し流されたりするのではなく 知性によって 知性を頼りとして 通俗に言わば くいついてくる場合があります。
 わたしの場合 人知を《お笑い種にして》の事例はなかったように思います。

 みなさん わかりづらいかと思いますが 情念を背景に持った知性が さ迷う場合が起こるようです。
 少し中味が違うかも知れませんが 参考にできるかも知れません。つまり 次です。

   神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはな
  らない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみつい
  てくるだろう。( マタイ福音7:6)

お礼日時:2008/05/04 21:23

primeapeです。


エスパー論を書きたいのですがその前に、

>イデアの偶像というように 何らかの装置を作り出したりすることがあるというのでしたら それは わたしには 出来ないのだと分かりました。

ひな人形、五月人形などの節句人形のことです。
この伝統は現在も起源と一致します。
人知に狙われているのが人間の命だからイデアの偶像と表現したまでです。
人によってはGIジョーでもりかちゃん人形でもかまいません。
幼児体験と一致するのはむしろ好都合です。

軋轢の中の七転八倒で、私は事故または緊急避難としてSF小説のエスパーみたいな体験を何度かしました。
そのような体験は恐れを伴いました。
人類種の進化の流れの中でこのような才能は抹殺、又は淘汰される。
そんな自分の未来への恐れです。
ところが以心伝心といえばごく平凡な現象。
噛み付いてくる誰かの心の断片も今では理解できて、ようするに誰かに自分を見つけて欲しい。自分自身で解決できない無意識の寝ぼけ眼ゆえです。
実際のテレパシー能力がお粗末な使い道しかないのでしょうがないでしょうが、人知の描くエスパー像はどこかゆがんでいて、従ってこの手の霊能力も落とし何処というか、どのくらいが人間らしいかが結論が出ていません。
ただ生命として(全生命にいえるが)人間の脳は進化しかしておらず退化はありません。
したがって失う能力ではないのは確かです。
人間ではなく霊長という言葉で諭そうかとも思ったのですが人知はレベルが低すぎて無知ゆえののほほん顔で相手になりませんでした。
今すぐ人間の将来像を描くのはかなり困難です。
しかし愛の体現という言葉で希望が持てます。
もう少し気持ちを落ち着けたら現状で人知と認識されている現象がいかにあほらしい勘違いか明かせそうです。
お見通しなんですが文章が長くなって判りにくいので明かさないだけです。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 今回 議論がかみ合います。かなり分かったように思います。ただし その骨格として もしくは その事例や説明がかかわる主題が 人間関係の中で どこに位置づけられるのかとして です。

(1) ただし《人形》としての《イデアの偶像》は いまひとつ つかめていません。でも 一般にはおおげさに聞こえるでしょうが
★ 人知に狙われているのが人間の命だ
★ 噛み付いてくる誰かの心の断片
☆ というのは 体験しており 分かります。そのとき 《狙っている / また 噛みついてくる》当の本人は 案外 そのことを意識していないのです。かれらが意識しているのは こちら(わたし)が憎いという気持ちだけです。この《憎い》というのは どうにかして自分の陣地に こちら(わたし)を引っ張って来たいという気持ちが おもな中味だと思います。
 《どうにかして》という情念には すさまじいものがあります。そうして 知らず知らず その情念や感情や執念を そっくり こちら(わたし)の心の中に 輸出して来ます。もしくは 自分は 自分の心の全体と成りきって そっくりそのまま わたしの心の中に入って来ます。
★  軋轢の中の七転八倒
☆ が 時には 起こります。放っておけばよいというのが これまでのわたしの体験とその教訓です。つまり その過程で 何らかの言葉で判読できるメッセージがあれば それに答えてやればよいからです。
(こんなことを書いてもよいのでしょうか。いづれ 分かるようになると思うから 書いてみるのですが)。

(2) 上に触れましたが 新発見があります。
 《以心伝心》と言い《非言語的コミュニケーション》と言いますが 結局のところでは これは 《言葉にして伝達しようとしている》と言うべきです。口に出して言われてはいないわけです。

(3) そうすると わたしの場合 前回も 《終始 受け身である》と述べましたが そして情感や感情を共有する状態もありますが エスパーではないですね。つまり《超感覚的な知覚( Extra Sensory Perception )》ではないようです。
 《超》ではなく《ただ感覚の共有による知覚》か それとも むしろ 《口に出して言われておらないけれど 言葉にして 以心伝心で伝えようとするメッセージを受け取って=つまりは むしろ 知性による判読によって 捉えた知覚》の問題であるようです。なるほど
★ 〔ところが〕以心伝心といえばごく平凡な現象。
☆ のようです。

(4) 分類として こうなりますか。
 A:言語によるコミュニケーション(ことばを介する)
  A-1:発声・文字によって言葉を伝える場合(以声伝心・以字伝心)
  A-2:発声・文字にはよらないが言葉で伝えようとする場合(以心伝心)
 B:言語外のコミュニケーション(ことばを介さない)
  ・感覚的な知覚 および 超感覚的な知覚( ESP )

 (A-2)を 非言語的コミュニケーションと いままで呼んでいたわけです。

(5)もし わざわざ 言霊に関係づけるならば 
 (あ) 全体について その基礎として 事霊=言霊が想定しうるの
   かも知れない。生命というような大前提のことだと考えられる。
 (い) 一般に (A-1)の以声伝心において 第二次的な言霊思想
   が 応用(ないし利用)されているかも知れない。すなわちそれ
   は 《言葉霊》である。(一般に 困ったものだ)。
 (う) (B)の言語外コミュニケーションは そこにはもう《言葉
   霊》のインチキはお呼びでないとはっきりさせるとともに きわ
   めて ていねいに 科学の眼を伴なって 問い求めなければいけ
   ない。

 こんなところでしょうか。

補足日時:2008/05/04 21:11
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primeapeです。


イデアの偶像について解説です。判断材料にしてください。
これは名前の拘束を回避するための人形劇です。
「仏の現代語訳が人間」これが私の普遍的人間性への見解です。
ところがそこまで主観の認識がたどり着いていない方の心に触れるとき、お互いの間違った人間性がちぐはぐにならないように偶像を立てて会話します。
ここで相手がただの自分ひとりの妄想だと思っているとなかなかやめてくれないのでこまります。
よく考えてみると普通の日本人ならわら人形と呼ぶやつですね。
テレパシーといっても役に立たない妄想のお手伝いが大半です。

涅槃といいますか、自分から神を語らない私にもむしろ「天界」と呼んだ方がふさわしいのですが、そこからは仏の現代語訳が人間とは正解であるとのお墨付きをもらっています。
ところがそうすると人間とは貪り殺しあう醜いものだと思っている方と軋轢が生じます。現状ではその醜さが人知を支えていて、したがって人知と格闘しています。

もう1つ、初お目見えの心象を表す言葉ですが、無意識の使う脳内言語的言葉のうち真言とでも言うべき強烈な言霊は「つげだし」と呼んでいます。
非常に拘束力のある言葉です。何かの足しにしてください。

この回答への補足

 そうですね。むつかしいですね。

 むつかしさの質が分かりました。わたしの場合 すべて受け身だからです。primeapeさんも 初めは白紙の状態で 受け身でいらっしゃるでのでしょうが 通信が始まったあと イデアの偶像というように 何らかの装置を作り出したりすることがあるというのでしたら それは わたしには 出来ないのだと分かりました。

 わたしの場合 受け身 そして 初めも途中も終わりも すべて 受け身であり ただ 何らかの対話として 答えを返しているだけのようだと分かりました。
 《名前の拘束》というのも あらためて むつかしいように思います。

 人びとが《人知》に根拠をおいており こちらは 対話において この《人知と格闘》しなければならないというところは そのとおりだと思います。と言いますか これは 言葉を用いての議論においても ありますね。むしろそれが ほとんどです。
 その意味で《「仏の現代語訳が人間」》というご見解が 鍵となるでしょうか。表現の問題ですが わたしの場合は 《我れは ブッダなり》といったかたちを想像していました。

 ★ 初お目見えの心象を表す言葉ですが、無意識の使う脳内言語的言葉のうち真言とでも言うべき強烈な言霊は「つげだし」と呼んでいます。 / 非常に拘束力のある言葉です。
 ☆ これも むつかしい。よく理解のいきとどくかたちに持っていくようにと 暗示のごとくおしえてくださったのだと思いますが 《つげだし》は 《告げ出し=告げ始める》という意味でしょうか。
 ぼちぼち まいります。

補足日時:2008/05/04 13:45
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 家族などは、一々何から何まで言わなくても、判っていると思って暮らしているし、それが錯覚だったとか、きめつけだったなと気づくこともあります。


 それは違和ということでの気付きでしょうから、広範な大部分は、うまく進行しているのですね。こういうことがなければたいへんですね。
 その広範な大部分も勿論、違うこともありましょうが。
 これは鍋、釜を共にすると譬えている、職場や仲間でもそういうものですね。
 《言挙げせず》ことばをお好みのようですが、そんな生活ですので私(達)の殆どの生活では、《言挙げ》をサボっています。

 bragelone様は西欧の思想にもご通暁なのですが、やはりsympathyって基本かなと感じるのですが、何事にも。
 中国では仁とか、インドではなんでしょうか慈愛や何かでしょうか。
 日本では武士の情けとか相み互いとかいうことばもありますし。
 意気に感ずるとかありますね。
 大石内蔵助が、宿場で本物の垣見五郎衛門ですか、にでっくわしたときとか。
 山岡鉄舟と西郷隆盛の会見なども我々はとても、よくわかりますね。
 浪花節や講談の世界かしらね。
 
 私の日常心理を曝けてみました。あまりご参考になりませんが、言語外のコミュニケーションはたいへん多いと存じます。錯覚や思い込みもありますが、生活を機能させているのは、発している言語ではないような、自分の内側の言語のような気がしております。
 
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご投稿をありがとうございます。
 
 今回のご回答は ゆったりとした調べの音楽を聞かせていただいた恰好です。
 わたしの反応を覚え書きのごとくに つづります。
(1)コミュニケーションの基礎は 人と人との直(ぢか)のまじわりである。
 ・ その意味で 非言語によるそれが 活躍すると捉えられる。
 ・ 議論の問題の基礎と土壌に 生活の問題がある。
 ・ ちなみに 《意思疎通》とか 《まじわり・交通・対話・話し合い》などなどと言いますが この《 communication 》に適切な訳語はないでしょうか。

(2)《意気に感ずる》ところの《 sympathy 》をめぐって 西欧社会では 議論が百出したようである。
 ・ J.-J.ルウソ(ルソー)の言葉らしいのですが A.スミスが 理論としても広めたようです。同感(sympathy)という仲間意識(fellow feeling)。そしてまた 共同主観(common sense)・間主観性へと発展したのでしょうか。
 ・ 研究者の成果のいいとこ取りとして 《Q:アダム・スミスも「修身斉家治国平天下」みたいなことを言っていますよね。= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3788688.html 》への回答にまとめたことがあります。 
 ・ スミスも《道徳感情〔の理論〕 〔 The theory of 〕moral sentiments 》と表現していますが 《同感》を 理性による自律の次元(?)へ持っていったようでもあります。
 ・ この西欧流のコミュニケーションの様式と どう つきあっていくか。 
 ・ 新しい意味で 《義理( 倫理的また論理的な妥当性=同感 )と人情( ゆたかな情感・共感 )》が思い浮かびます。この両者のあれかこれかではなく あれもこれもという方程式のように思われます。

 またまた 蜀を望むわるいくせが出たでしょうか。

 * 《仁》――この言葉をめぐる思想を学んだ頃が いかに遠くなってしまっているかと感じました。(自分の所為ですが。いい意味でもよくない意味でも 神秘性が感じられないからでしょうか。分かりませんが。《同感》といい勝負でしょうか。時代はちがいますが)。

お礼日時:2008/05/04 11:59

6です。


人麿ですか。。。それは凄みのあることですね、扱いは容易ではないでしょう。
まあ、特異な歌人と思います。枕詞など実景のイメージを巧みに使いますね。紋切型ではないですね。
それこそ、言挙げをとりおこなう歌人としての凄みがあります。

葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国
然れども 言挙げぞ吾がする ....

葦に邪気を払われ、みずみずしい若穂の揺れる豊かな日本は、
すなわち神なので (モノやウラを、つまりあらわでない心の部分を) 口にしない国だ、
というところは、自分の行為に凄み・重みを持たせるのに好都合な、前置きなわけですが、

言幸く ま幸くいませと

言霊に守られて無事に、無事にいってらっしゃいと、
自分が言ってあげるというわけですね。
人麿の言葉によって、守られて行きなさいと。

発さなければ言は無い、また事も無い、というところに、
このように言葉で何物かを屹立させるというのが、人麿ですね。

以心伝心とは逆ではないでしょうかね。
穢れなく清く美しい島の日本は言霊に守られる国であるから、
という返歌もまた、自分がこうして歌うと効力があるでしょう、ということです。
たいしたものです。

ところで、モノやウラを口にしない国だというのは確かにそのとおりですね。
それで、もの悲しやうら寂しが正体不明のまま問われずにある文化です。
ラテン語のres(もの)だって似たようなところがありますけれども。
神であることは、本質を隠したものであること、という思想は、
万物に宿る物の霊をよくとらえたものと思います。
心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず、禁忌に触れることになる。
仮の姿、仮の言葉が、なにかぼやかしているような感じでしょうか。

だからといって、「無事にいってらっしゃい」を口に出さない国柄というわけではないですね、そこは歌のレトリックです。

お返事いただいた補足にありました、言葉に出さないことと、呪文祝詞魔法めいた生き生きした力の側にある語との関係ですが、
皆に言わなくても一人の人間に抱え込ませる言葉が、呪(まじな)いです。
暗い穴とせむしの象形を持ちますが、この犠牲者一人においては少なくとも言語化されたという事実が必要なのです。
暗い穴に閉じ込められた言霊もあるということです。
言祝ぎは、皆に披露する言葉であり、祭壇とせむしの象形を持ちます。
言葉に出さないことは力を持たないことであり、言葉に出すことは恩恵と力を得ることだという思想は、日本に古来からあるわけです。
分をわきまえないような力を持たないということとも繋がっているのでしょう。

最後に、外国との安易な比較は無理です。一般に、本質というものについてそうとうな観点の相違があります。
パンとはなんですか、どのようなものですか、と聞くだけで、
一般的な日本人と一般的な欧米人の答える観点が違うことに気付かれるでしょう。
言葉で示そう(示しうる)とするものについて根本的に違う部分がたしかにあるのです。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 俄然 雲行きが 良いほうにかあまり芳しくないほうにか あやしくなってまいりました。

 ここでは みなさんからもお許しを乞うて 邪道ですが 謬見を作業仮説として用いつづけるというかたちを取ります。つまり 《言霊》は 《事霊》として 初めには=基本的には 言葉を口に出さない状態にあってはたらくという仮説です。怪我の巧妙になるか あるいは やはり謬見であったと明確に分かるか 探究を続けたいと考えました。
 直前のご回答へのお応えを承けての内容になります。次の部分を ここにも 掲げます。
     *
 どうも 《言霊》には 第一次のそれと 第二次のそれとが あるように思われて来ました。
 空で放電現象という《事》があって これを《いかづち / かみなり》という《言》で受ける。もしくは そのように発音を伴なって成り立った時点で それは単なる《事の端⇒言の葉・言葉》と捉えたかも知れない。
 したがって 《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。つまりこれら両者が 第一次と第二次とです。
     * 
 というのも 雷は つまり神鳴りは 事であり 神というからには その《事》に 《いか(厳)つ(の)ち(霊)》ということだまが宿ると捉えられた。雷光は 稲の生育に 霊の息吹きを宿させるという観想によって《いなつるび(稲と雷電との交接)》あるいは《いなづま(稲妻もしくは 稲夫〔夫も つま と読む〕)》と表現した。生育というよりは 稲が孕むということのようです。
 だとすれば このような《こと(事)》とその《霊》の観想が 初めにあって そのあと《言霊》や《言挙げ》が続くと思われて来ます。
 
 もっと言うならば――あとで掻く恥のことを忘れるとするならば―― たとえば《のりと・のろい・まじない・言祝ぎ》は 第一次の《事霊》の現象を 再現しようという・したがって 第二次的な人間の側の知恵であり努力であるとなります。
 ★ ところで、モノやウラを口にしない国だというのは確かにそのとおりですね。
 ☆ というのは 以上のような事態と現実とを言い当てた見方ではないでしょうか。すなわち つづけて
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それで、もの悲しやうら寂しが正体不明のまま問われずにある文化です。
 ラテン語のres(もの)だって似たようなところがありますけれども。
 神であることは、本質を隠したものであること、という思想は、/ 万物に宿る物の霊をよくとらえたものと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし さらに続けて
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず、禁忌に触れることになる。
 仮の姿、仮の言葉が、なにかぼやかしているような感じでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このとき 《心はそれらを知っていても、それを言挙げすることはできず》は そのとおりだと思うのですが もし言挙げできると思って言挙げした場合 《禁忌》かどうかは これも 第二次に人間が作った取り決め事であるように思われて来ます。
 あるいは 初めには ずべてが《禁忌》であったかも知れません。というよりは 禁忌と取り決めなくても 言挙げすることは出来ないという思いがあったのかも知れません。やがて 言挙げするようになって(知恵の木の実を食べて) しかも その言葉どおりに行かなかった場合 そのような場合について 禁忌と規定するようになったというように。

 必ずしも整理しないまま 提出します。

 * なおこうなると 以心伝心にも 第一次の交通・交流と 第二次の人間のはからいによるそれとが あると考えられて来ます。さあ 果たして このわたしたちの探求は いかがあい成るでしょう。
 * 字数が多い場合には お礼も お礼欄ではなく 補足欄に書くことにしています。

補足日時:2008/05/04 01:31
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アバウトにしかわかりませんが、言霊って<真言>のことだと思います。



日本の真言教ってありますでしょ?

マントラのことで、真の名前を適切な時に適切な場所で唱えると、実体化する とされる。

呪術が関係している。


日本は昔、諱 というものがあった。
徳川家康の場合は、徳川次郎三郎源朝臣家康が名前ですが、次郎三郎が通称。

で、普通は通称を用い、親とか信頼できる相手にしか、真の名前は教えなかったんですね。

どうしてかというと、真の名前を敵に知られると、呪術で呪われ殺されるから と信じられていた。

通称 とか 仮の名前を使って呪術で呪いをかけられても、それは本体を呪っていないので、無駄なわけです。


ですが、相手の本質を洗わず真の名前を使うと、本体に呪いをかけることができ、<適切な場所で、適切な言葉を使うと、実体化する>ので、殺される と信じられていた。


人間はいろいろなものに名前をつけましたよね。
それによって区別ができるようにはなった。
「うめぼし」と言われて、唾液が出るのは、うめぼしがなんたるかを知っているからですよね。

アメリカ人に「うめぼし」といっても、真言は発動しない。


>井沢元彦の持論によると 

ん? 一冊もってますよ。持ってる本に書いてあったかな?
あ、、二冊持ってた。 こっちですね。 えっと・・・。

そうです そうです。 私が上で上げた真言の意味と同じです。

『日本人は今でも知らずのうちに言霊を信じている国民である!

言葉は霊力を持ち、単なる記号ではないということは、言葉は生きものだということです。
記号ならいいけれども、生き物はうっかり使えない。
下手をする人を噛むからである。
要するに、言葉の内容を実現させる力があるということです。
もっとわかりやすく言えば、言葉はすべて「呪文」であるということです。』

はい マントラってわけですねぇ。

『例えば、「幸せになってください」と言うのは単なるあいさつではありません。そう言うことによって、言霊、言葉の霊力を発動させ、その霊力によって実際に人を幸せにする。 それが言挙げです。』

『皆さんは、言葉にその内容を実現させる力があるなんて迷信だろ思うかもしれません。
実際、「ここにあるカップ、金になれ」と言ったって、金になるわけはありません。
そういう意味では、言霊は確かに迷信と言えば迷信です。
しかし、実は日本人には、生まれたときから、知らず知らずのうちに言霊の考え方が心の中に刷り込まれているんです。』


んで、例をあげると、旅行に行く人に「お気をつけて」と言ったとする。
「いってらっしゃい」じゃなく 「お気をつけて」
その人が旅先で事故にあったとする。
「お気をつけて」と言った人が「お前がそんなこと言うから」と非難された場合、非難した人は、言霊の力を信じている わけです。

逆にオリンピック候補者が怪我をしたとする。
新聞記者は「金は取れないだろう」とは書かない。
「金メダル確実」と書く。
言霊を信じているからです。

「金メダル確実」と書いて、金が取れなかったとしても、書いた記者は非難されない。
「金メダルは無理だろう」と書いた場合、金メダルが取れなかったら、記者は「お前のせいだ」と非難される。
言霊を信じているからです。

青天なのに、「雨が降るかもしれないから傘をもっていけ」と言われ、無理やり押し付けられたとする。
夕方雨が降った。
「おお 言霊が実体化した」なわけです。

で、言霊は神か?
うーーん。
例えば「傘もっていけ」と無理やり傘を押し付けたかーちゃんは神か?
かーちゃんの予想が当たったときだけ かーちゃんは 神になるのか?
なわけないですよね。


プラシーボ効果 ってご存知でしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%91%E3%81%AE% …
『呪いの効果については、実際に呪われたという人はいるものの科学的に実証されたわけではなく、誰かが自分を呪っていると認識することで、自己暗示にかかってしまい、呪われたと感じるため(マイナスプラシーボ効果)であって気にしなければ何も起こらないという研究結果もある。』

プラシーボ効果は、「勝つ 体が軽くなる 素早く動ける 」など自己暗示としてオリンピック選手も活用している。

信じるものは救われる バージョン。

マイナス思考の人が何故失敗するのか。
自己暗示により失敗するよう自分の気持ちをもって行っているから。

<やるべきことは全てやった あとは天運に任せる。>
   ↓
もう 勝った気なので勝てる。


マントラの母に相当するマントラはカーリーの創造の言葉Om(オーム)。
カーリーが宇宙を生むときに発した言葉がオームだったから。

産む じゃなく オム? うーーーん

ヒンズー教は、正しいマントラを心得ていさえすれば、全てが成就すると信じていた。
「正しい順序で、正しい時に、正しい方法でもといられさえすれば効果がある」と信じていた。

「呪わば穴二つ。」
呪った側も呪いにかかる。
それは、「あの女 こうやって 呪いの藁人形で殺してやる~」と毎晩丑の刻参りに精を出せば、そりゃあ 寝不足だし、精神錯乱なので、やつれて動くもの辛くなりますわなぁ。

他には、イザナミとイザナギの国作りの時、最初の方で失敗したじゃないですか。
で、主神が、「男の方からいわにゃあ 駄目」って順序が逆だと教えて、その通りにしたら、やっと形あるなんでしたっけ?・・・なんとか島ができたんでしたよね。
ほーら 日本列島自体が言霊でできたという話。

他には聖書の創世記の天地創造も「光あれ」と言霊使ってますよね。
神が言霊を唱えたことになっている。


で、日本人はお互いを神だと思っていませんが、意外と言霊を信じているから「お前があんなこと言ったから雨が降ったじゃないか」とか言うわけです。
だからといって、「お前が」という人が非難した人を神だと思っているわけじゃない。

が、言霊の力をうっすらと信じているというか、関連づけて、八つ当たりしているだけ。
じゃなきゃ どこにこの怒りをぶつけていいのか。
「天にばっかー」と言えばいいが、天に罪を追求したところで、反応ないので、反応ある人間に八つ当たりするわけです。

「ほーー 私のせいか じゃあ もう1つ言霊使うぞ」って言った場合、どうなるでしょうね。

「ちょっとまて 俺が悪かった」というでしょうか?

「お前にそのような力は無い」といいつつ、なんか不幸が起こったら、「あいつののろいで。。。あやまっとこ」ってなるんじゃないか と。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 《言霊》――ますます 分からなくなって来ました。
 井沢元彦の所説も明らかにしていただいたのですが あたまがこんがらがって来ました。

 疑問点。
(1) マントラ・呪文つまり呪いあるいは暗示(他者へのおよび自己への)――これらと 以心伝心との関係や如何に?
 呪いにせよ プラシーボ効果のごとく引き立てるにせよ それらが 効果を発揮する場合 あるいは 発揮しなかったことによって 影響を与える場合 などなど そのような場合というのは けっきょく 一方交通であるように思われます。《対話ないし コミュニケーション》ではないと感じられます。意思疎通の問題から どうも 外れているように思われます。

(2) その感覚を大事にして 考え続けると どうも 《言霊》には 第一次のそれと 第二次のそれとが あるように思われて来ました。
  空で放電現象という《事》があって これを《いかづち / かみなり》という《言》で受ける。もしくは そのように発音を伴なって成り立った時点で それは単なる《事の端⇒言の葉・言葉》と捉えたかも知れない。
 したがって――いま初めておこなうまったくの推測ですが―― 《言霊》は 《言葉霊》とは ちがうと言わなければならないかも知れない。つまりこれら両者が 第一次と第二次とです。 

 もし――べらぼう話になってきましたが もしお天道さんが西から昇ってきたとしたならの推測ですが もし―― 第二次の《言葉霊》としてのことだまなら それは どうでもよいわけです。
 ですから 《念仏平和主義》というのも 第二次の言葉霊であれば 少々乱暴に言ってしまえば ばかげている。雨よ今日は降るな 明日降れ / 恵みの雨よ こちらには降れ しかし 敵の田畑には降るな などなど 勝手にほざきなさいとなります。
 ただし 悪人にも善人にも わが敵にもわが仲間にも あまねく等しく 雨よふりたまえというように 素朴な人間存在とその社会形成の次元での・つまり第一次の《事霊=言霊》については このうそつきの生物ながらそのこころの赤き真実も 失われていず なにがしか多少なりとも 現実味を帯びていると考えられて来ます。また この第一次の自然本性としての言霊にもとづいてこそ かなり迷信じみた第二次の言葉霊が 成り立っていると見なされてくることになります。

 ここまで書いて 次のご回答へのお応えに移ります。

補足日時:2008/05/04 00:40
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primeapeです。


A8について補足です。
以心伝心とは無意識同士で日常的に当たり前のように行っている対話で、そこに主観の介在したものが確認の出来るテレパシーではないでしょうか。
そのように考えるとA7の友達との会話が本来なら意識する必要のなかったもので、さらに伝えるつもりも無かったので少々判り難い事も納得がいきます。
心象を表に現しすぎる日本人の無意識の感性は外国に比べて無防備で幼いのでしょう。
それから一般的な無意識は自覚しないで寝ぼけ眼で以心伝心を扱っています。
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この回答へのお礼

 日常生活で 互いに知り合いになり 交わっているなら それで すでに《以心伝心》の関係状態にあると思えて来ました。
 そのとき 或る時点で 意識的に
★ そこに主観の介在したものが確認の出来るテレパシーではないでしょうか。
☆ こういうふうで いいんでしょうか。
 ただ
★ 心象を表に現しすぎる日本人の無意識の感性は外国に比べて無防備で幼いのでしょう。
★ それから一般的な無意識は自覚しないで寝ぼけ眼で以心伝心を扱っています。
☆ となると 《コミュニケーション》としては 他愛ないものごとが おもであると言うべきかも知れないですね。
 もっとも この他愛ないことが 大事な対話の行方を左右するような転換点になることもあるかも知れません。

 ということは 言霊は むしろ あくまで 一対一の対話においてや 少人数の集まりにおいて あるとすれば コミュニケーションに 或る種の仕方で 与かっていると言える場合があるのかも知れません。

お礼日時:2008/05/03 23:37

primeapeです。


いきなり特殊な話に引っ張り出されましたね。
もう少しそ知らぬふりをしてボケ役を演じないと誰も付いてこれないんじゃないですか。
私の場合霊感的感性はbrageloneほどの才能が無いし自覚も足りません。
携帯電話でも使ってお互いに話し合うような現象はわたしも父と一度だけ経験しました。
それからこの友達とは心を開いて心象を霊視してもらったことがあります。
あとは確かめようがありません。
心の暗闇を救い出すというかほじくるといいますか、相手自身の知らない心の暗闇を治療するような行動が多いです。
欲望から売られたけんかを喜んで買うような姿勢です。
この暗闇は「イデアの偶像」というのが今までに使った言葉で一番しっくり来ます。
暗闇を覗いた経験では名前で拘束されるとお互いににっちもさっちも行かなくなってしまう傾向があります。

それからこの前の件でこちらからもお礼を言いたかったのですが、
愛の体現こそが本望、
この言葉を
愛の体現こそが幸福。
このように言い換えて投げかけたらその水面には波紋がひろがらないで喜びの予感がしました。
一人で考えていたらこんなにわかりやすくは出来なかったと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 ANo.7を読み返してみると 必ずしも分かっているのではなかったと思いました。それは 今回の《心の暗闇 / イデアの偶像》が 分からないというので よく噛みしめようとしてのことでした。

 たぶん わたしの場合は 《霊視》ですとか そういう治療の関係は あまりないと思います。あるとすれば それは 通信つまり対話です。案外 これが その以心伝心で済むようです。
 これが 言霊だとは まづ思っていなかったですし いまも ピンと来ていません。

 愛の体現 これは むつかしいですよ。知らないところで あたかも愛がはたらいていたというような場合が あるかに思っていますが 自分の意志でこれこれの行動をして 愛を実践したというのは 無理なように思っています。
 ただ その人との関係や周りを含めてのひとまとまりの集団について あたかも 愛の軌道にあって歩んでいるという感じを持ったこともありましたが 次の場面では もう局面が変わっているというような経験です。
 つまり わたしの得ている教訓は 愛にはこだわるなかれです。その場の問題や課題に応じて 考えを出し合って行動してゆくこと この単純な方程式が 基本です。
 とりとめなくなりましたが。

* 言霊は やはり 事霊であって ことば以前の人と人との関係性と捉えると わかるような気がしてはいます。

お礼日時:2008/05/03 23:24

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