広田外相は極東軍事裁判で文民として唯一人死刑となりましたが、彼はそれほどの大物だったのでしょうか?
広田外相のどのような行動が元で責任を問われたのでしょうか?

A 回答 (4件)

こんばんは。


書物でしたら、城山三郎氏の「落日燃ゆ」が詳しいです。「落日燃ゆ」を読むと、陸軍に翻弄され最後は戦犯として絞首刑となる悲劇の政治家、広田弘毅のことが、よくわかります。(外交の大物と言えます)
「落日燃ゆ」参照URL↓
http://www2u.biglobe.ne.jp/~tkawaka/rakujitsu.htm

極東軍事裁判では、参考URLにように広田外相~広田内閣時の「対支3原則」と「国策の基準」が問題になったようです。(参考URL)
「対支3原則」(3-30 日中外交正常化交渉)と「国策の基準」参照URL↓
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1252/ …

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/kokamoto/8HENKAKU.html
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私の読んだ文献が正しいことを仮定して話しましたら・・・・。


広田弘毅元首相の死刑を要求したのはソ連人判事だったといいます。彼が総理の時、日独防共協定を結び、日本の国としてのスタンスを「反共」として鮮明にしたことから、一貫した日本仮想敵国へとしたのだと思います。広田自身は軍国主義とはほど遠く、かといって強い平和主義者でもなく、優柔不断な普通の人でアメリカは彼の死刑に消極的でしたが、ソ連との関係を鑑み反対はしなかったようです。死刑は勝者のエゴからきた復讐といったものだったのでは。
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この回答へのお礼

皆様ご回答有難うございました
とても勉強になりました
またよろしくお願いいたします

お礼日時:2002/12/20 12:02

長く外務大臣をしており、太平洋戦争に至る侵略を推進した人(実際には止められなかったのでしょうが)として、処罰されています。


大物とは言えないでしょうが、少なくとも、外務大臣、総理大臣経験者ですから。

参考URL:http://www.history.gr.jp/tokyo/#02
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軍部大臣現役武官制を復活させたことです。



これにより、内閣は軍部の言うことを聞かなければならなくなった。
それが、太平洋戦争を招いたと言う罪です
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Q広田弘毅はどうして軍部大臣現役武官制を復活させたのですか?

昭和11年、広田弘毅首相が、軍部大臣現役武官制を復活させたのですが、どうしてでしょうか?
軍部に頭があがらなくなり、自分の首をしめるような行為ではないでしょうか?
お人よしだったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
西園寺公望は二・二六の直後であっただけに軍人首相を避けようとしましたが、第一候補の近衛文麿には健康上の理由で断られてしまった為、何としても広田に首相になってもらわねばならないと思っていたようです。
しかし広田を説得出来たものの、内定した閣僚に軍部が横やりを入れてきました。
ここで広田は軍の無理難題を突っぱねる為に組閣を断念することも出来ましたが、「こんな時に政治空白は避けるべき」という周囲の意見に押されて要求を飲んだと言います。
これを機に軍部は「非常時局打破」を掲げ次々と要望を出してきましたが、「圧力に抵抗してくれるのでは」という西園寺らの期待に遂に広田が応えることはありませんでした。
これはやはり組閣の際に要求を飲まざるを得なかったことが、広田の意欲を著しく損なわせた為と見られているようです。
それを裏付けるかのように、後に近衛内閣の外相を務めた際に戦争拡大を防ぐ努力をまったく見せなかったと言われます。
戦後ただ黙って淡々と罪を受け入れたと言われていますから性格的なものもあったかもしれませんが、最初の躓きで意欲を失ってしまったことが圧力に抵抗する気力を奪ってしまったということなのかもしれません。

こんにちは。
西園寺公望は二・二六の直後であっただけに軍人首相を避けようとしましたが、第一候補の近衛文麿には健康上の理由で断られてしまった為、何としても広田に首相になってもらわねばならないと思っていたようです。
しかし広田を説得出来たものの、内定した閣僚に軍部が横やりを入れてきました。
ここで広田は軍の無理難題を突っぱねる為に組閣を断念することも出来ましたが、「こんな時に政治空白は避けるべき」という周囲の意見に押されて要求を飲んだと言います。
これを機に軍部は「非常時局打...続きを読む

Q極東国際軍事裁判の裁判官・検事・弁護士

極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の裁判官、検事及び弁護士全員の名前と出身国をご存知の方教えてください。

Aベストアンサー

サイトがありますよ。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun41.html

Q226事件の皇道派と北一輝の思想

226事件の皇道派は、資本家を排除し、天皇を中心とした平等社会の設立を目指していたそうですが、
これは要するに、226事件は赤化革命の未遂事件だったということでしょうか。
旧軍部内で皇道派は左派、統制派は右派、と言うことができるでしょうか。

Aベストアンサー

皇道派は、例えばその親分の真崎甚三郎なんかがそうですが、相対的には、ソ連の脅威を強く意識した、『反ソ・反共』派です。
旧軍部を、右派・左派に分けるのはかなり大変ですが、もしどうしても分けるのなら、クーデターによって軍部主導の政治を実現する事も辞さない皇道派が右派で、既存の法体系の中で合法的に軍部が政治をコントロールしようとする統制派を左派、と呼ぶ事ができるかも知れません。ただ、あくまで手段が合法的か非合法的か、という意味であって、それを右・左で分ける事が妥当かという点に付いては、疑問は残ります。

尚、ヒトラーのナチが国家社会主義の略であるように、平等社会とか資本家の排除というのは、共産党に限った事ではありません。また、特に若手将校の中には、農村の貧困に対して義憤を強く感じていた者も多かったと思われますが、そう強く思えば思うほど、昭和維新によって天皇親政を実現しようとしたのですから、左派とは言いがたいです。
平等とかいった言葉から、自動的に共産主義を想像しないようにしましょう。共産主義であれば、天皇親政などという事は100%ありえません。共産党の目標は「プロレタリアート独裁」ですから…

皇道派は、例えばその親分の真崎甚三郎なんかがそうですが、相対的には、ソ連の脅威を強く意識した、『反ソ・反共』派です。
旧軍部を、右派・左派に分けるのはかなり大変ですが、もしどうしても分けるのなら、クーデターによって軍部主導の政治を実現する事も辞さない皇道派が右派で、既存の法体系の中で合法的に軍部が政治をコントロールしようとする統制派を左派、と呼ぶ事ができるかも知れません。ただ、あくまで手段が合法的か非合法的か、という意味であって、それを右・左で分ける事が妥当かという点に付...続きを読む

Q極東国際軍事裁判(東京裁判)、日本人以外の被告

Wikiによれば、東京裁判では、15人の外国人に逮捕命令が出ています。
その内、放送に関与したアメリカ人、オーストラリア人など5人には、どのような判決が出たのですか、教えて下さい。

Wiki「A級戦犯」
http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF 

「外国人戦犯」として記載されている次の5人です。
ジョシアス・パンディユンスト(ラジオ東京・オランダ語放送員)、リリー・アベック(ラジオ東京・ドイツ人放送員)、チャールズ・カスンズ(ラジオ東京・オーストラリア人放送員・オーストラリア軍少佐時に日本軍の捕虜となる)、ジョン・ポーランド(上海ラジオ・オーストラリア人放送員)
ストリーター(東京ラジオ放送原稿係・アメリカ人)
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは

A級裁判(東京裁判)では28人が起訴されましたが、全員が日本人です。
ですからお尋ねの人たちは不起訴ということです。しかし横浜で行われたBC級裁判に移された可能性はありますが、横浜裁判は捕虜虐待などですから可能性は低いと思います(小生、横浜裁判の被告人名簿等は持っていないので確認できません)。

お尋ねの中のチャールズ・カズンズについては若干の資料がありました。
この人は連合国向けの謀略放送、東京ラジオのリーダー格のひとりです。東京ローズ(アイバ戸栗)をアナウンサーに雇ったのはこの人。
戦後まもなくオーストラリアに帰国しています。しかし1946年6月に日本の謀略放送に従事したことで反逆罪に問われていますが同年11月には告訴取り下げになっています。1949年にはサンフランシスコに飛んでローズの裁判で弁護をしました。1964年に死去。(「東京ローズ」上坂冬子/著 中公文庫1995年より)
同書にはリリー・アベック女史が1946年1月にローズと共に巣鴨プリズンに居たと書いてありますが、リリーはスイス人としていますね。

Q226事件の総括

高倉健と吉永小百合主演の「動乱」という映画を見ましたが、その内容が226事件の首謀者にすごく同情的に描かれていることに疑問を持ちました。

映画だけでなくて、事件当時から国民は同情的に見ていて減刑嘆願なども多かったようです。

同情できる点と、しかし悪いことに違いない、という二つの価値観が同居してようです。

当時のあるいは今の国民は、この事件のどこを肯定し、どこを否定しているのか?ということを総括しておく必要があると思いました。

みなさまの226事件についての総括を教えてください。

例えば次のようなことについての考えです。

正しかった点
軍上層部の腐敗の是正
政治家の腐敗の是正
民衆の困窮の是正

間違った点
政治家を殺害したのは犯罪であること
殺害しても何も変わらない、ということを考えなかったこと、など

結論として
あのようなことはすべきではなかった。
もっとうまくやるべきだった
結果として成功しなかったが、とにかく実行して良かった
それでは如何すれば良かったのか?

Aベストアンサー

二二六事件てねー、五一五事件とセットで考えないといけないんですよ。五一五事件なくして二二六事件はあり得ませんでしたしね。
ところがその五一五事件というのは、結局青年将校によるテロリズムだったんですが、国民が感情に流されてしまって青年将校たちに同情してしまったんです。「やった手法はまずいけど、その根本は純粋だ」ということになっちゃった。だから、二二六事件の青年将校たちも「純粋な正義感からの行動だったら国民の支持が得られる」と思ったのです。

しかも二二六事件がややっこしいのは、当時の陸軍内の皇道派と統制派の権力争いというのがあって、その争いに青年将校が利用されたという側面があるのです。重鎮たちは青年将校を煽るだけ煽っておきながら、クーデターが失敗し軍事裁判となると「いや、俺はそんなつもりじゃなかったから」と思いっきり手の平返しをしたのです。
さらに、その裁判は非公開で控訴もなし。一方的に判決が出されるものでした。裁判官だったかどなただったかがきちんと資料を残しておいてくれたのでその裁判の詳細が今は明らかになっていますが、それを残してくれた人は戦後ずっと押し入れに入れて公開しようとしなかったので、長い間藪の中だったのです。

二二六事件単独そのものは青年将校による軍事クーデターであり、一瞬成功しかけたのですが、他ならぬ昭和天皇が激怒し「朕自らが兵を率いて逆賊を討つ」と彼らは逆賊となってしまったので失敗となりました。
ただ、彼らがなぜ行動を起こしたのかというと、五一五事件の影響があったのは間違いないところで、すると五一五事件もセットで総括しなければならないのですが、かつてドイツが選挙という民主的なシステムでナチスとヒトラーを独裁者に選んでしまったように、五一五事件も国民が同情してしまったことで日本がああいう道に進んでしまったという側面があり、それを総括すると天に唾する状況となってしまうので、どういうわけか五一五事件と二二六事件は別々にされてしまっているのです。
でも本当は五一五事件と二二六事件はセットで考えないといけないと思います。

二二六事件てねー、五一五事件とセットで考えないといけないんですよ。五一五事件なくして二二六事件はあり得ませんでしたしね。
ところがその五一五事件というのは、結局青年将校によるテロリズムだったんですが、国民が感情に流されてしまって青年将校たちに同情してしまったんです。「やった手法はまずいけど、その根本は純粋だ」ということになっちゃった。だから、二二六事件の青年将校たちも「純粋な正義感からの行動だったら国民の支持が得られる」と思ったのです。

しかも二二六事件がややっこしいのは、...続きを読む

Qもし自分が武将で敵軍は圧倒的な軍事力があり自分の軍は軍事力ではまったく

もし自分が武将で敵軍は圧倒的な軍事力があり自分の軍は軍事力ではまったく歯が立たないという状況があったと

します 兵数でも兵器の質でもかなわないしかし負ければ自国は滅びるか衰退してしまう
貴方がこの自国の滅亡を防ぐための最後の決戦の総指揮を任されたとすればどうしますか
どのような戦略 奇策 対策 をしますか
地理や将軍たちの質 年代 国などの設定はお任せします

Aベストアンサー

歴史にあまり興味がない方でしょうか?
「勝つ」必要はないんですよね。滅ばない方法としては、過去にいくつもの例が実在します。

朝鮮半島の歴史では、民衆をほったらかしにして、国土を焦土化した後、支配者層だけが島に立てこもりました。ローマでもハンニバル軍に対して同様のことをしています。
敵軍が遠征軍の場合、補給線を押さえ込めば、逃げるだけで勝つことができます。

その応用編として、項羽と劉邦の戦いがあります。劉邦は超大軍ですが協力者の寄せ集め、それに対して項羽という圧倒的な強軍でした。項羽に対して、その補給線を邪魔するゲリラ軍を組織し、劉邦自身は十分な補給線を確保しつつ大陸を逃げ回ります。

国内では、真田幸村のお父さん昌幸さんが、圧倒的な大軍を中山道に釘付けにする、という戦いをしたことがあります。
また、大坂冬の陣自体も、ご指摘の状況での戦い方のひとつですね。実際には軍事以外の理由で失敗をしてしまっていますが、大戦略での劣勢を戦術で逆転させるための理想的な戦いを展開しています。その後の夏の陣では、一発逆転を図る一種の賭けのような戦いを試みています。本陣を一気に突く作戦を多方面で実施している方法ですね。

近代戦では、大規模なレベルでは、オーバーロード作戦に対抗したドイツ軍の最後の大規模な反抗であるラインの守り計画(映画ではバルジ大作戦で有名)も、戦術レベルでの勝利で戦略レベルでの劣勢をひっくり返そうという作戦です。
ドイツ軍に関しては、第2次世界大戦初期のどの作戦も、数的に劣る軍隊が練度に劣る大軍を破っていくものです。

歴史をさかのぼると、ギリシャ諸国へのペルシア軍の侵攻を防いだ幾度もの戦いでも、その例が見られます。大軍を隘路に引き込むと、軍の数ではなく、ひとりひとりの強さがものをいうようになります。この成功例がペルシャ戦争です。で、失敗例が三国志終盤での蜀漢の滅亡。防衛線は最後まで守られ、大軍を相手に支えきりますが、予想外の経路で本拠地を突かれて滅亡します。

拠点を防御することで大軍を支えるというのでは、第2次世界大戦のソビエト戦線で別の実例があります。スターリングラード、レニングラード(戦後の名称ですが)では、家1軒1軒を取り合う局地戦にしてしまい、何年も支え、結局敵が先に別方面の敵から敗退をしてしまうという状況になりました。敵地の中で孤立した自軍の拠点が落ちないと、敵軍の侵攻作戦の選択肢が減り、防衛がしやすくなります。同様のケースは、チトー(ユーゴスラビア軍)の山岳戦でも見られます。アフガニスタンでのソ連軍の敗退、今のアメリカ軍の失敗も同様の状況になっています。

ゲリラ戦では、ベトナムでの対アメリカ戦を調べてみるといいですよ。

歴史にあまり興味がない方でしょうか?
「勝つ」必要はないんですよね。滅ばない方法としては、過去にいくつもの例が実在します。

朝鮮半島の歴史では、民衆をほったらかしにして、国土を焦土化した後、支配者層だけが島に立てこもりました。ローマでもハンニバル軍に対して同様のことをしています。
敵軍が遠征軍の場合、補給線を押さえ込めば、逃げるだけで勝つことができます。

その応用編として、項羽と劉邦の戦いがあります。劉邦は超大軍ですが協力者の寄せ集め、それに対して項羽という圧倒的な強軍でし...続きを読む

Q広田弘毅元外相

広田外相は極東軍事裁判で文民として唯一人死刑となりましたが、彼はそれほどの大物だったのでしょうか?
広田外相のどのような行動が元で責任を問われたのでしょうか?

Aベストアンサー

こんばんは。
書物でしたら、城山三郎氏の「落日燃ゆ」が詳しいです。「落日燃ゆ」を読むと、陸軍に翻弄され最後は戦犯として絞首刑となる悲劇の政治家、広田弘毅のことが、よくわかります。(外交の大物と言えます)
「落日燃ゆ」参照URL↓
http://www2u.biglobe.ne.jp/~tkawaka/rakujitsu.htm

極東軍事裁判では、参考URLにように広田外相~広田内閣時の「対支3原則」と「国策の基準」が問題になったようです。(参考URL)
「対支3原則」(3-30 日中外交正常化交渉)と「国策の基準」参照URL↓
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1252/nikka1.html

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/kokamoto/8HENKAKU.html

Qドイツ外相・リッペントロップの制服

 ナチスドイツは、総統のヒトラーをはじめ、軍人以外の主要幹部も制服を着用している写真が多く残されています。
 多くは親衛隊の制服ですが、親衛隊の階級を持っていない場合は褐色のナチス党制服だったりします。
 しかし、外相のリッベントロップは、しばしば他の幹部と違う制服を着た写真が残されています。(下記はいずれも同じタイミングですが、その他にもペタン元帥とヒトラーの会見時など、同じ制服を着用した写真があります)
◆1938年5月6日、ヒトラーのローマ訪問に随行した際
http://images.google.com/hosted/life/l?imgurl=85f019f9d9bc2f08&q=Joachim%20von%20Ribbentrop&prev=/images%3Fq%3DJoachim%2Bvon%2BRibbentrop%26imgsz%3Dxxlarge%26ndsp%3D20%26hl%3Dja%26safe%3Doff%26sa%3DN%26um%3D1
◆同上、フィレンツェにて
http://images.google.com/hosted/life/l?imgurl=3f7656a8d8c9f235&q=Joachim%20von%20Ribbentrop&prev=/images%3Fq%3DJoachim%2Bvon%2BRibbentrop%26imgsz%3Dxxlarge%26ndsp%3D20%26hl%3Dja%26safe%3Doff%26sa%3DN%26um%3D1
 褐色でなくて黒、帽子の意匠もずいぶん違います。フィレンツェの写真を見ると、右端に写っているボーデンシャッツの着用している空軍の制服に似ている気もしますが、帽子の上部に装着されている国章がばかでかいのが気になります。
 リッベントロップの着ている制服は、どういう種類のものなのでしょうか。また、なぜ彼だけが違う制服を着ているのでしょうか。
 ご存知でしたら教えてください。

 ナチスドイツは、総統のヒトラーをはじめ、軍人以外の主要幹部も制服を着用している写真が多く残されています。
 多くは親衛隊の制服ですが、親衛隊の階級を持っていない場合は褐色のナチス党制服だったりします。
 しかし、外相のリッベントロップは、しばしば他の幹部と違う制服を着た写真が残されています。(下記はいずれも同じタイミングですが、その他にもペタン元帥とヒトラーの会見時など、同じ制服を着用した写真があります)
◆1938年5月6日、ヒトラーのローマ訪問に随行した際
http://images.go...続きを読む

Aベストアンサー

ドイツの外交官制服です。

ナチス時代には
ナチス党員制服
ドイツ官僚制服
ドイツ司法官制服
ドイツ外交官制服
ドイツ東方省制服
アルゲマイネSS制服
武装SS制服
司祭制服
司教制服
陸軍制服
海軍制服
空軍制服
労働奉仕団制服
SA制服
ヒトラーユーゲント制服
処女団制服
などがありました。

Q226事件での「下士官に告ぐ」宣伝について

226で有名な「下士官に告ぐ」の放送がありますが、あれはどういう意図で流したのでしょうか。なにか直属の上司に対する叛乱幇助のようにも聞こえます。さっさとみなで叛乱を起こして帰って来い、軍法会議にもかけないから、という意図なのでしょうか?

Aベストアンサー

> なにか直属の上司に対する叛乱幇助のようにも聞こえます。

その上司の将校達がすでに反乱を起こしているのです。
意図は放送にすべて入っていると思います。反乱軍を離脱して原隊に復帰しろということです。

ラジオ放送「兵に告ぐ」
敕命が發せられたのである。既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。お前逹は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從して誠心誠意活動してきたのであらうが既に天皇陛下の御命令によつてお前逹は皆復歸せよと仰せられたのである。此上お前逹が飽く迄も抵抗したならばそれは敕命に叛抗することになり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じてゐたのにそれが間違つて居たと知つたならば徒らに今迄の行き懸りや義理上から何時までも叛抗的態度を取つて天皇陛下に叛き奉り逆賊としての汚名を永久に受けるやうなことがあつてはならない。今からでも決して遲くはないから直に抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。さうしたら今までの罪を許されるのである。お前逹の父兄は勿論のこと國民全體もそれを心から祈つて居るのである。速やかに現在の位置を棄てて歸つてこい。

戒巖司令官   香椎中將


なお、質問の「下士官兵に告ぐ」は、放送ではなく空からまいた伝単(ビラ)の方の題ですね。

「傳單」
下士官兵に告ぐ
1.今からでも遲くはないから原隊に歸れ
2.抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する
3.お前逹の父母兄弟は國賊となるので皆泣いてをるぞ

2月29日  戒巖司令部

> なにか直属の上司に対する叛乱幇助のようにも聞こえます。

その上司の将校達がすでに反乱を起こしているのです。
意図は放送にすべて入っていると思います。反乱軍を離脱して原隊に復帰しろということです。

ラジオ放送「兵に告ぐ」
敕命が發せられたのである。既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。お前逹は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從して誠心誠意活動してきたのであらうが既に天皇陛下の御命令によつてお前逹は皆復歸せよと仰せられたのである。此上お前逹が飽く迄も抵抗したなら...続きを読む

Q二・ニ六事件後 広田内閣

どうして陸軍に関係のある人でなく、広田が首相になったのですか

Aベストアンサー

城山三郎「落日燃ゆ」(新潮文庫)

>事件そのものは一応鎮圧されたが、不穏な空気は消えていない。新首相にとっては、よほどの政治手腕と、それにもまして、覚悟が必要であった。
 近衛に逃げられた重臣たちは、鳩首協議した。軍部は、右翼的な平沼騏一郎や、あるいは末次信正海軍大将の起用を望んでいた。
 だが、その期待を裏切って、重臣たちが選んだのは、広田であった。広田の外務大臣時代の協和外交の実績や、軍部に対する毅然とした態度、その安定した政治姿勢が、一木喜徳郎枢密院議長に高く買われたためであった。
 西園寺からその意向を示された近衛は、自分が辞退した責任もあって、広田説得に全力を注ぐこととし、まず、広田と親しい吉田茂を使者にたてた。

 広田は「背広を着たやつがいいんだ」という吉田の言葉で、元老か重臣の誰かの意向であることを察し、心を動かされます。天皇は彼に「外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように」を含む四つの注意と共に組閣の大命を下しました。


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