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 太平洋戦争末期、日本は根こそぎ動員によって200近い師団を編成しました。ただ、兵器が圧倒的に不足していたため、ほとんどが戦闘能力を有していなかったことが知られています。
 しかし、いかに兵器が無くても兵員は徴兵で引っ張ってこられるため、丸腰でも人数はそろえられるかもしれません。しかし、師団長はどうなのでしょう。師団長は普通中将であり、親補職です。戦争末期の日本には200人を超える現役中将がいたということなのでしょうか。また、いちいち親補式を行っていたのでしょうか。

 200人も中将が必要となれば、陸大出身者以外の登用、少将クラスの特別昇進、さらに予備役編入されて長いロートルも引っ張ってこないと間に合わない気がしますが、そのあたりの実態について教えてください。なるべく具体例を教えていただけるとうれしいです。

A 回答 (1件)

 ウィキペディアを信用するのなら、本土決戦師団の総てに師団長として将官がいます。



 ではどんじりの355師の総大将を例にみると・・・
司令官は武田寿中将です。彼の閲歴は、第18師団参謀長の後、第53歩兵団長→第1野戦根拠地隊司令官→第355師団長 という具合になっています。
#因みに18師の師団長は牟田口君でした。

ブービーの354師は山口信一中将。
将官データベースhttp://www.generals.dk/によれば
1939 - 1940 212歩兵連隊長
1941 39旅団長
1945 354師団長
という経歴です。途中で予備役編入とかは無さそうな感じ。
因みに陸大出です。

 逆に天保銭組で、最後に師団長になったのは209師団長の久米精一少将。どっかで聞いたことある野郎だな、と思ったら、”空の神兵”パレンバン空挺の第1挺身団長ですね。この人の途中の経歴は判りませんが、陸大同期で少将は早い方ですから、途中が抜けているとは考えにくいものがあります。

 一方で、予備役召集組としては138師の山本務中将がいます。
5師団長で予備役編入、留守第57師団長を経て138師団長です。

と、ここまで書いて、
こんなページを見つけてしまいました
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikugunsid …
ここで前職が予備役の奴を見つければ、急遽補職された人数の一部が判るはずです(ただし、山本中将のパターンは判らないが)。
早速それをすれば、
96師:飯沼守
139師:富永恭次
149師:佐々木到一
の3人が該当します。

 138師団も加えたこの4個師団はいずれも外地防衛(満州と朝鮮)のための急造師団で、特に100以降のものは満州での根こそぎ動員によるものと判りました。
 その他の師団長の前職をザッと見た感じでは「○○学校付」「○○部付」が多い感じがします。つまり、予備役編入などに待ったをかけて、師団長に回す、という感じがしますが、確証は持てません。逆に切羽詰まった時期であっても予備役編入されている将官もおり、どうなってるのかは不明です。

 さらに、このページを辿ると終戦時の将官一覧
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun …
なんてものまであります。
 これに依れば、終戦時の将官の数は1000人。結構無茶な兼職(部隊長2つとか、軍司令官+師団長事務取扱、とか、本部部長2つとか)もしているようです。

ここまでを踏まえた推測ですが
1)入りを早くして出を遅くすることで人材を確保した
 今の役所がやっている人事政策の逆ですね
2)比較的閑職を兼務にすることで人材を浮かせた
3)そもそも母数が割に多いので、根こそぎ動員で増加した師団ぐらいはやり繰りで何とかできてしまう
といった辺りなのではないかと思われます。
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この回答へのお礼

 精力的に調べていただき、感謝に耐えません。
 帝国陸軍には以外に将官がいたのですね。中将などは限られた一握りの人間だけというイメージだったのですが、ご指摘のようにあらゆる手段を講じてポストを埋めていたのですね。師団長という重職がら、軽々に格下げ(ドイツ軍あたりだと佐官を補任することすらあったようですが)するということはしなかったのでしょう。

お礼日時:2008/08/14 01:59

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