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 健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。
 そこで持ち上がるのが 人生論です。
 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 
 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。

 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。
 1. すべてを 終わり=目的から 始める。
 2. では 終わりは どこにおくか。
 3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。
 4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。
 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。

 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。
 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。
 不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。
 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。
 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

A 回答 (71件中11~20件)

★ 虚数


☆ は 実数の部分をも含む複素数のことでは なかったですか? つまり どうしてもわたしのほうをも生かしていたい のですが。

慎重さに欠けていました。「無為」の例示なので、やはり、「純虚数」としなければならないでしょうね。恐らく、ご推察のとおりです。

☆ 実部( a )も虚部( bi )も 0(ゼロ)でないときの《虚数》であれば 《生きて 復活している》という状態が 夢想されます。か?《思い出》だけでは さびしいという煩悩満開からの強引妄想でした。たたき台にでもなりますか?

そうですね。実部も虚部もゼロで無い複素数の場合も、「無為」の例示としては、否定できないかもしれません。となると、虚部の解釈では、「もうすでに死んでいる時のこと」を連想しますが、実部の解釈では、生者を連想できそうですね。しかし、実部と虚部を別々に解釈すべきではなく、一体・一如とするならば、虚実並存の化け物のようにも思われます。この世のものではなさそうです。いかがでしょうか。所詮、たとえ話の解釈遊びのようですが。結局、復活イメージって、どのようなものでしょうか。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 註をつけたり 質問をしたりになります。独語のごとくです。
 (1)☆☆ 《思い出》〔や 《歴史的評価》〕だけでは さびしいという煩悩満開
 ☆ これは 生き永らえたいという意味ではなく 意思疎通が行なえて 互いに了解し得るということ つまり コミュニケーションの成立を願うという意味です。
 間主観性というのでしょうか 互いに異なるところと同じところとを 互いに認めて 全体として 社会的な共同主観(コモンセンス)が 形成されている。そういう情況・動態のことです。

 (2) 実数は 正負とも 経験現実に対応すると思いますが――つまり単純に言って 《あるか ないか》だと思いますが―― 《純虚数》は どうなんでしょう? わたしは 残念ながら 知識がすらすらとは伸びません。
 (2-1) 複素数において
 ★ 実部と虚部を別々に解釈すべきではなく、
 ☆ ということでしたら 両者を含む全体が 生者としての経験現実になり得るのかどうか。 
 (2-2)細かく
 ○ 無為は 複素数(《虚数》としての)なのか 純虚数なのか。
 ○ 有為は 実数なのか。複素数にまで 伸びるのか。
 (2-3)いづれの場合にも
 ★ 実部と虚部を別々に解釈すべきではなく、一体・一如とするならば、虚実並存の化け物のようにも思われます。この世のものではなさそうです。
 ☆ この《一体・一如》について どう捉えるか。
 ○ 無為が 有為に接しているというのは 《一体・一如》であるというのか。そうなり得ると言おうとするのか。

 (3) あるいは むしろ 
 ○ 生と死とは どう違うのか?
 ○ 生者が死者になるという経験現実があるとき 生者にしろ死者にしろ その人にとって 復活とは どういう事態として 想定されるのか?
 ○ (前項の註として:)生者と死者とは 横並びであるのではないか。どちらも 経験世界に属するのではないか。
 ○ (同じく:)復活は 人にとって 縦の関係 あるいは 立体的な関係 あるいは その動態的な関係 あるいは その四次元を超えたところとの関係。だというとき どのように代理表現し得るのか。


 * もとに戻って 取りあえず ここまでを考えました。バトンタッチです。

お礼日時:2008/10/10 11:51

またまた、感想を書かせていただきます。


No.57の補足欄の記載は、素晴らしい論理的な整合化を見ることができました。brageloneさんの120%の読解力と理解力に基づく、解説(読み解き)を尽くしたご返答は、僕の回答を全く生かすものになっています。そして、「無為なる世界」と「有為なる世界」が、《接している》という表現は、なかなかいいですね。そこで、次のように思い付きましたので、書いてみます。

「有為なる世界」は、(正負に及ぶ)実数の世界であり、「無為なる世界」は、虚数の世界であり、隔絶しつつ、《接している》が、単純に接点を見出せないところに、深い洞察力を要する例示となっていると思います。単純に、ゼロを境に正負が接しているという例示では、有為と無為の差異を充分に表現できていないと思うからです。

無為、現在、沈黙・無記なる勝義諦、無為なる絶対、虚数・・・復活
有為、過去、空観縁起なる世俗諦、顕現なる相対、実数・・・思い出

僕の連想言語ゲームでは、やはり、永遠の現在に生きる「復活」は、「思い出」との対比関係だと思うのです。他者のアラヤ識に降り積もり、他者がその時々に現に思い出す回想の中で、復活できるだけに過ぎないという解釈です。様々な記録を通じて、僕たちは全く会った事も無い人のことを想像したりもします。それも含めて言えば、「思い出」では正確な表現ではないでしょう。「記録・思考の跡から推定した人物像」などを思い描くこと・・・「歴史的な評価」とでも言うような言葉でしょうか。brageloneさんの復活とは、現時点でどのようなイメージですか。定義すると、どのような記載になるのでしょうか。中間的なまとめかもしれませんが、示していただけたらと思います。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 今回 もっとも大胆になって 思ったままを述べます。勇み足を いさめてください。
 ★ 僕の連想言語ゲームでは、やはり、永遠の現在に生きる「復活」は、「思い出」との対比関係だと思うのです。
 ☆ 「思い出」だけでは さびしい感じがしました。
 ★ 他者のアラヤ識に降り積もり、他者がその時々に現に思い出す回想の中で、復活できるだけに過ぎないという解釈です。
 ☆ という《思い出す回想》というからには この《他者》は 現に生きているけれども 《思い出される》ほうのわたしは 死んでいるということですよね。ううーん。わたしも 生きていたいですね。単純に。
 ★ 様々な記録を通じて、僕たちは全く会った事も無い人のことを想像したりもします。それも含めて言えば、「思い出」では正確な表現ではないでしょう。「記録・思考の跡から推定した人物像」などを思い描くこと・・・「歴史的な評価」とでも言うような言葉でしょうか。
 ☆ 「思い出」から 広がりましたが 「歴史的な評価」でも もうすでに死んでいる時のことですよね。
 ★ brageloneさんの復活とは、現時点でどのようなイメージですか。
 ☆ もし間違っていたら 訂正してください。
 ★ 虚数
 ☆ は 実数の部分をも含む複素数のことでは なかったですか? つまり どうしてもわたしのほうをも生かしていたい のですが。
 
 ▲ (ヰキぺディア:複素数=
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E7%B4%A0% …)~~~~~
 複素数 z ( z = a + bi )が実数ではない、すなわち虚部( bi )が 0 ではないとき (Im z ≠ 0)、 z は虚数(きょすう、imaginary number)であるといい、実部( a )が 0 のとき (Re z = 0)  z は純虚数(じゅんきょすう、purely imaginary number)であるという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 実部( a )も虚部( bi )も 0(ゼロ)でないときの《虚数》であれば 《生きて 復活している》という状態が 夢想されます。か?
 
 《思い出》だけでは さびしいという煩悩満開からの強引妄想でした。たたき台にでもなりますか? 

お礼日時:2008/10/10 04:33

こちらのスレが こんな論議展開になってるのは気がつきませんでした。



体調がよくないためです。

そのため じっくりここまでの論議を読むゆとりなしに ということになってしまいますが、  bragelone様との論議の火花を求めるのであれば、こちらにも書くべき時が来たと思いました。

もし、すでに論議されていることであったり、結論とかが何か生まれている内容であれば、そのあたりを教えてください。

私の復活論?は 単純です。 論と言えるものなのかどうかもよく解っていません。

あくまで 感性が深くなり豊かになれば、人生の意味感も同じく深く豊かになってしまうわけですから、 そんな意味がこの存在に存在してっると知ってしまっては、 存在の謎の裏に神という超自然の知性が存在しないということが考えられなくなってしまうのですが、  

かりに それでも神無しにも その謎がそれだけすばらしい世界を生んでくれているのならば、やはり希望としての「復活感」も自然なものとなるのではないかとは思います。  でも この「無心の信仰」というあたりは、いまいちピンとはきません。

いずれにしても、神がどれだけ物質をコントロールしているかとか しうるかとかも私には非思考でいい世界としか思えないところ、 人間にとってはいずれにせよ神が「創造主のような存在」そのような能力とともにあることは あたりまえのこと?なんです。  非思考なのにそのへんを「あたりまえ」のことなんて言えないかもしれませんが、 要は「謎」の中の究極は「自分という主体の存在」ですから、 それを再び存在させる力が神という存在に無いということは やっぱり考えられないことなんです。

なんでこれが むずかしい論議の世界となるのかが解らないわけです。

それよりも、現在の時間の方が気になるというのが私の立場です。

すみません。 その前に まだ私の復活論(単純なそれ)についてはまだ書いてませんでしたね。

神のその能力があればそんなことはなんの壁のある問題ではないのですから、、 感性がもし

日々、新鮮であれたら、それだけでもなんらかの形での“人間の「復活」”は あたりまえのことと感じるようになる  あるいは 感じるようになりかかる  というものです。

「何億光年もの時間の後に やっととどいた一秒の地球を7回り半もしてしまう光」が今地球で見えている星の光だよ」 と聞いても そういう言葉を記号としてしか感じない人や、 「へえ考えてみればすごいな」程度で終わってしまう人が いる中で、 物理学者でグライダーの趣味の人で計算と現実の距離感空間感覚がいつしか一致してしき ほんとうに広大な宇宙をこの生物の身にても感じられるという人がいました。

でも その人がもし、がゆえにか?地球の空間を小さく感じているのだとしたら、その感性が宇宙大だとは、わたしは少しも思わないでしょう。

しかし、その物理学者の感性もまた、まだ私たちの一般人の知らない感性、感じる心自体の そういう存在のすごさ、可能性のすごさを意味しているものの一つです。

日々新鮮であれると同時に、私たちは、その感性の大海のほんの海辺のすなづぶのような存在なのです。 神という言葉が ここにてまだ不自然というなら、《その「謎」の前にては》と言ってもいいです。

ノーベル賞のニュースは 活力や活気をなんとなくですが与えてくれるという意味では明るいニュースであるのでしょうけど、 くわしく知らないで言うので正確な文言と思わないでほしいことなのですが、  30年も50年も物理の世界は 止まってしまっていたことが明らかになったという実は暗いニュースなのかもしれません(^^)。  ほんとにまともに受け取らないでくださいね。

 いまや物理や科学は応用科学が次の課題としてあるのみというところまできているのだとしたら、マスコミやノーベル・システムは そのへんをもっとアピールすべきなのでは と思うのは私だけではないのではないかと思います。

人間の小ささを知り 互いに助けあうことに学問が向かうように、いよいよその時が近づいているし、その努力を開始し始めるべきときだということを科学者や哲学者が   そのことからも語り始めるべき時代なのではと思うのですが、

この生物の身でありつつ、 同時に健康であるとき まだ意識がはっきりしてる時って、その感性の可能性は 人間に贈られてあるその贈り物のすごさは エベレストのそのまた上のそのまた上の、 まだまだ見果てぬ先が存在する世界なんです。

こうして体調の悪い時には私自身 生物の神経の身として、秋の澄んだ青空に流れ行く雲の糸たちの広大さを見ても その高ささへあまり感じません。  でも もはや、私の知性は、そのすごさへの謙虚さを忘れることは無いでしょう。

緑の葉の色合いの豊かさも無限です。 気がつけば 無限です。 しかも日々新たにそのすばらしさは 別々のように新たに心に入り込んできます。  ここ幾週間の私は感性も衰えていて日々新たではないですよ。

これが 私たちの現実だと 思うのですが…。

でも、私にとって復活というのは 自然に受け入れられる何かの希望なんです。  意味の延長です。   

もしかしたら、 だからかなり簡単に いつ自分自身は消えて無くなってもいい。みんなが幸せなら という気持ちになれるのかも。  ととと

この気持ちですけど、ならば二重に大したものじゃないんですよ。

私は もし戦争状態にでもなって生物としての恐怖の極限におかれたら、たぶん人を殺してでも自分は逃げてしまうようなそんな弱い者でしかないです。  

でも 平和の中に今生きていて 健康をごく普通に知っているならば、私たちは、 この存在してる不思議を あるいは生かされてる大地をしっかり見つめ、  助けられないかもしれないけど少しでも助けたいという人間にしか出来ない状態の現実の世界に、目を向けるべきと思います。

ううむ。 存在(最後から考える?)を信じてるから 言えるのでしょうか?

また この感覚、 やそこからの知的理解は どこか甘い世界なのでしょうか? 

これから じっくりここでの他の論議も読んでいきわたしなりに検討もしていってみたいと思いますが  どうしても複雑な問題とは思えない者なのですが?

この回答への補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 感性がもし日々、新鮮であれたら、それだけでもなんらかの形での“人間の「復活」”は あたりまえのことと感じるようになる  あるいは 感じるようになりかかる  というものです。
 ★ でも、私にとって復活というのは 自然に受け入れられる何かの希望なんです。  意味の延長です。 
 ★ どうしても複雑な問題とは思えない者なのですが?
 ☆ なるほど。あたらしい――と言いますか 迂回路を通らない――ご回答であり ご見解なんですね。迂回生産を拒むかたちのように受け取りました。
 
 この《復活》論としての質問では わたしは 聖書を簡単に引いています。信仰は みづからを出さないとき 生きると考えている者ですが ここでは その方針を難なく破っています。表現力のおよばないゆえです。まだまだ応用の段階には 慣れていないので 出発点より前の原点にさかのぼろうという意図でもあります。 
 そこで どういうわけか ご回答に接して 次の聖書の箇所が思い浮かびました。まづ 掲げます。注目点は イエスも怒ったという点です。

 ▲ ~~(マタイ21:12~17)~~~~~~~
 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
 そして彼らに言われた、
  ――『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてあ
   る。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。
 そのとき宮の庭で、盲人や足なえが みもとにきたので、彼らをお癒しになった。
 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、イエスに言った、
  ――あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか。
 イエスは彼らに言われた、
  ――そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの
   口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないの
   か。
 それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ イエスが怒った / しかも 商売の台をくつがえすほどの暴力を振るった。これいかに? という主題です。
 《祈りの家》であるべきなのに 商売をおこない それを通じて 強盗の巣にしているという理由だと言います。

 ★ ううむ。 存在(最後から考える?)を信じてるから 言えるのでしょうか? // また この感覚、 やそこからの知的理解は どこか甘い世界なのでしょうか? 
 ☆ というふうに《甘い》かどうかが 問いかけられていたから この一節を記憶から蘇らせたのか よく分かりませんが 出て来ました。
 わたしは なんとも 理由づけも出来ず 言い訳の効かない愚行だと思うのですが――つまり 《目に見える神殿なり聖域を大事にしている》だけですし どう考えたものかと思うのですが―― この問題などは やはり あるいは たしかに 迂回思考では らちが開かないかも知れません。ということで ふと 思い浮かべたのかも分かりません。 いかがですか?

補足日時:2008/10/09 22:34
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> わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行ない、


> その業を成し遂げることである。
簡単にネットで検索して20~30件の記事を読んでみたのですが
う~ん、何というか、子供騙しにしか感じられない説教譚が多くて
正直、辟易してしまいました。
ネットで軽く調べる、なんて態度がいけないのでしょうが
この読みこなしはライフワークになってしまいますね。
(今の自分には正直そこまでの切実さがありません。)
あらためてbrageloneさんに期待します。

付け焼刃であれこれ言うのは怖いのですが
ここでは、霊的な次元での現状認識や時の認識について
弟子たちとイエスの違いが強調されていると思います。
違うことを念頭に置け、と。

霊の食べ物がイエス(の言葉)であり
イエスの食べ物が「イエスを遣わした方の御心を行ない
その業を成し遂げること」といった記述を多く見かけたものの
霊の食べ物がイエスであるというのが
(キリスト者ではない私には?)理解困難で
(一応、キリスト教幼稚園卒なんですが…)
信仰関係を築くことが霊の糧であるというようにしか
とりあえずは理解できません。

仮に霊的な次元での現状認識や時の認識が
肉的な次元のそれと違うのであれば
それは理解すべき類のものではなく、むしろ
肉である私たちの口には馴染まない類のものであり
それであってもただ信じて受け入れよと説いているように思われます。

その解釈がもし正しければ
復活や永遠というのは、(信仰という行為の)単なる結果であり
むしろ、それを目的にしようとするのは
間違いであるように感じられます。
(まさに真理が全てに於いて全てだと思います。)

自分の浅薄な仏教解釈をココに披露するのは恥ずかしいのですが
シッダルダという人(あえて人と書きます)は
●思い通りにならない世界、思い通りに出来ない自分を、いかに受け入れるか?
という(案外絞られた、具体的な)課題に紆余曲折試行錯誤し
ようやく受け入れらるようになった~それが「悟り」と呼ばれ
「いかに受け入れたか?」を説くことを乞われる「仏陀」になった
~とりあえずはそういうことだと思っています。
受け入れた、という行為の結果、超越的存在になったかどうか分かりませんが
もし成ったのだとしても、それはあくまで結果であり
「良くなりたい」「悟りたい」という欲求を入り口にするのは間違い
(良くなりましょう、悟りましょう、を呼び水にするのは間違い)
あくまで「受け入れる」という行為が入り口になっていると考えます。
(だからもし、シッダルダのみが解脱し
他の仏教者が解脱できないのだとしたら
シッダルダが人ではなかったか
もしくは、仏教者が最初からボタンの掛け違いをしている
としか思えません。)

さて、ここで(やや作為的な嫌いがあるかも知れませんが)
シッダルダが示したアプローチも
イエスが示したアプローチも
私には本質的に同種のものではないかと感じられます。
●霊(という肉の口に合いにくいもの)を受け入れられる限り、霊は死なない。
●信じないと、信じてもらえないと、霊は死ぬ。
というと、また美化している嫌いがありますか。

この世が受け入れなれなくて、あの世が受け入れると思ってるのか?
こっちの水が辛いからって、あっちの水は甘いと思うのか?
なあ、お前、天国ちゅうとこは、そんな甘いもんやおまへんで~(by フォーククルセイダーズ)
といった感じでしょうか>そんなふうに思っているのは私だけでしょうか?

宗教が、解釈学になってしまっていると思うのです。
(まるで小乗仏教のようです・・・生活者である私にはリアリティがない)
そうではなく、思い通りにならないことを受け入れていくことを
サポートなりアシストなりするのが、救済としての宗教の役割ではないでしょうか。
受け入れを拒む要素・・・現代社会では何なのでしょう?
いささかワイドショー的発想ですが
例えばそれを仮に資本主義とか新自由主義といったものだとします。
だとすれば宗教が果たさなければならないのは
カウンターカルチャーやカウンターコミュニティーとしての役割でしょう。
それが出来ていない。
まだNPOとかNGOとかの方が、マシに見える。
もう「宗教」と名乗る限りダメかもしれんです。
信用がない。

な~んて書くと、急に青臭く、型にはまっちゃった感じですけど
今はこの辺が私の限界です。

最後に。
> 八十年か 百年か あるいは さらにもう一期間か わたしは
> これこれを ここまでやった。そろそろ 意志の休日である。
ダメですよ。肉は最後まで使い切らないと。
それまでは、まだ休みはあげません。

この回答への補足

 アウグスティヌスの見方をご紹介します。少しくさいかも知れません。(2008・10・25)

   *

 私の見た・・・光は 油が水の上にあり 天が地の上にあるような仕方で私の精神の上にあったのではなく 私を造ったがゆえに私の上にあり造られたがゆえに私はその下にあったのです。真理を知る者はこの光を知り この光を知る者は永遠を知る。それを知る者は愛です。

 おお 永遠の真理 真理なる愛 愛なる永遠よ! あなたこそはわが生命 あなたを求めて私は日夜あえぐ。はじめてあなたを知ったとき あなたは私を引きよせて 見るべきものがある だがそれを見うるだけの者にまだ私はなっていない ということをお示しになりました。そしてはげしい光線をあてて弱い私の視力をつきはなされたので 私は愛と恐れにわななきました。そしてあなたからはるかにへだたり 似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。

 そのときはるかに高いところから

   私はおとなの食物だ。
   成長して私を食べられるようになれ。
   食べると言っても 肉体の食物のように
   おまえが私を自分のからだに変えるのではない。
   逆に おまえが私に変わるのだ。

というみ声を聞いたように思いました。
(アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)

補足日時:2008/10/25 07:43
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この回答へのお礼

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 まづ そのくだりを掲げます。
 ▲ (《ヨハネの筆によるよき知らせ》4:31~38)~~~~
 ・・・弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、
   ――わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。
 と言われた。
  弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
  イエスは言われた。
   ――わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を
    行ない、その業を成し遂げることである。
     あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言って
    いるではないか。
     わたしは言っておく。
     目を上げて畑を見るがよい。
     色づいて刈り入れを待っている。
     既に、刈り入れる人は報酬を受け、
     永遠の命に至る実を集めている。
     こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
     そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』というこ
    とわざのとおりになる。
     あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるため
    に、わたしはあなたがたを遣わした。
     他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっ
    ている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしも きっかけには なりましたでしょうか。
 ▲  他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。
 ☆ つまり ほかの人びとが労苦し いま わたしはその労苦の実りにあずかっています。

 補足要求も どうぞ。(余裕のこきっぱなし)。

お礼日時:2008/10/09 15:57

少しだけ追記します。


No.50の補足から

 いいですか。この時空間を超えているところの
 ★ 「無為なる現在」には、混在がありません。
 ☆ どころか 世俗諦における時間とも空間とも 何ら からんではいません。もっと厳密に言えば そこには 《概念の混在があるかないか これさえ 人間には わからない》のです。わかったら それは 勝義諦ではなく 世俗諦に属する概念です。

無為なる現在に、過去や未来が混在していないと人間に分かるはずがないと言っているようですが、無為は、絶対領域の相転換だと僕は定義していますので、混在は無いという想定です(絶対性、唯一性が貫かれている)。そして、相対領域の顕現たる有為の世界の裏(?)に張り付くようなイメージ(虚構)で、又は、アスペクト変換のようなイメージで、無為なる世界を想定しています。そういう世界観です。非ユークリッド幾何学、たとえばリーマン幾何学があるように、僕の絶対・相対/有為・無為の世界観は、様々な世界観の一つとして、別に強制はしませんが、気に入って使用しているだけです。できるだけ、疑問点にはお答えして、精緻化したいと思っています。

前提が違えば、答えも違います。「世俗諦における時間とも空間とも 何ら からんではいません。」とbrageloneさんが書いていますが、僕はそう考えていません。裏(?)であり、アスペクト変換であるというような関係として、勝義諦とは関係しているからこそ、たとえ話で擬似的に接近し得ると思います。しかし、これが高度な思考訓練を要するので、納得したと思うのは、なかなか困難ではあります。不二の法門の極地であり、沈黙・無記と示されて、体得する「超感覚」のようです。「ひらめき」という語が、一番近いのでしょう。言語化する前の一瞬の間に出現するから、過去化の前であり、無為なる現在に最も近い時ではないかと想像しています。ぼんやりとでもイメージできますでしょうか?表現力の至らなさゆえに、さらなる誤解を生みそうですが、非言語的な理解のイメージは、このように考えています。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん 追加修正のご回答をありがとうございます。

 おっしゃるとおりでした。二点とも そのとおりに修正いたします。

 経過を振り返ります。
 まづ CUE009さんの観想によって 超経験なる霊の領域を 経験世界の時間の観念によって測ってはならないとの里程標が得られました。
 ところが そのあと qsxdrfvgyhさん そして bananasand さんとのいくらかの――わたしにとっては――暗中模索のあとで qsxdrfvgyhさんから 《無為》の領域にこそ ほんとうの《現在》を想定すると聞いて わたしの視野が さらに 開けたのでした。
 有為の・経験世界の現在のことではなく 無為の・つまり霊としての《現在》というわけです。
 ここで 一気に 《必死で》 応答を書いたのですが そこで 見直しがなおざりになってしまったようです。

 ☆☆(誤)そこ(=《無為なる現在》)には 《概念の混在があるかないか これさえ 人間には わからない》
 ○(正) 無為なる現在には 経験世界で言う時間の概念があるかないか これさえ 人間には わからない。
 ☆ と修正します。
 ○ 無為なる領域は 《ある かつ ない》という《混在もしくは包摂》が 論理上は ありうるけれども それだと 日常の生活態度(つまり思想)としては なんとも 使い勝手が わからなくなる。
 ☆ と言っていたのでした。

 ★ そして、相対領域の顕現たる有為の世界の裏(?)に張り付くようなイメージ(虚構)で、又は、アスペクト変換のようなイメージで、無為なる世界を想定しています。
 ☆ この点につきましては もともと 霊なる超経験の領域が 経験世界を超えていて しかも 《超える》ことにおいて――特に 有神論にあっては―― 経験世界を《包む》と言っていたのでした。この《包む》もしくは《接点》が おっしゃるところの《相対領域の顕現たる有為の世界の裏(?)に張り付くようなイメージ(虚構)》のことです。

 従いまして
 ★ 「世俗諦における時間とも空間とも 何ら からんではいません。」とbrageloneさんが書いていますが、僕はそう考えていません。
 ☆  これも おっしゃるとおりです。《接している》という想定で もともと わたしも 捉えています。上に述べた《経過》の関係で 文章の見直しが効かなかったようです。
 言いかえると 《何ら からんではいない》という《超絶》の側面と しかもその超絶ゆえに 同時に 《包摂・接触・そして時に 強引に言えば 介入》としての《絡み》の側面とが 想定されます。《人間は 神を見ることができない》(超絶の側面)と 同時に 《神の背面を見ることが出来る》(接触の側面)とです。後者は やはり おっしゃるように
 ★ アスペクト変換であるというような関係として、勝義諦とは関係しているからこそ、たとえ話で ≫擬似的に接近し得る≪ と思います。
 ★ ≫体得する「超感覚」≪  のようです。≫「ひらめき」≪ という語が、一番近いのでしょう。
 ☆ といった表現の意味するところと 同じです。わかっていただけたでしょうか? この二点では 同じ見方であります。
 おわびし ご指摘を感謝して 訂正します。

 そう言えば 以前の《QNo.4279578 :ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4279578.html》でのqsxdrfvgyhさんとのやり取りでも すでに 相当のところまで行っていたのでしたね。《復活》論にまで たどり着いた恰好だったようです。
 《神をみつけた》とまで 言っておられました。それなのに わたしのほうは――おそらく その発見ゆえにこそ 直後の情況として いくらか 考えが揺らいでいらっしゃったのだろうと わたしが推し測っていてもよいのにもかかわらず ただし これは そおっとしておいて差し上げたほうがよいと思ってでもあるのですが―― ポイントも差し上げずに 質問を締めたのでした。
 このように 《リセット》させていただきます。

補足日時:2008/10/09 15:10
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では、水入りにしましょう。


人間の驚異的能力からの理想社会の話へ移れなくて残念でした。

確かに定義が変化していってます。 
最近の定義らしきものに合わせて、訂正しておきます

次行も入れておいてください。

ある任意の1秒の間にAさんが太陽光を反射しているリンゴを見ています。

 ★★(ANo.44)~~~~~~~~~
 1秒の間のAさんは、《いま》のリンゴを検知し、《いま》のリンゴを《現在》の完全な存在として認識しているとします。
 ・・・
 1秒の間のAさん自身が獲得する最終結果は、「《現在》、完全にリンゴが存在する。」です。

 《いま》のりんごを完全な存在にしているのは、《いま》のリンゴの実相たる変化を、《いま》のAさんの実相たる変化を使って、
 1秒の間のAさんが、《いま》のりんごを《現在》の完全な存在として認識しているということですね。

 《現在》を作っているのも、《いま》のリンゴを《現在》のリンゴとしているのも、完全に存在しているとすることも、
 1秒の間のAさんが《いま》のAさんの変化を既に使ってやっていますね。
 ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《いま》には 1秒の間の という前提はつきません。
 《現在》はAさんが知っています。

この回答への補足

 アウグスティヌスから 次の一節を見つけました。(2008・10・25)
 《言葉に言い表わし得ぬもの》《沈黙》そして《言語ゲーム》に関連すると思いました。

   *

 神は言語に言い表わされない。
 それ故 如何に相応しい語でも神には適合しない。それはただ 相応しいものを言おうとする意志の表現に過ぎない。

 しかのみならず 《言い表わされない( ineffabilis )》という述語そのものが既に一つの矛盾を含んでいる。《言い表わされない》ということによって既に或るものを言い表わすのであるから。

 しかしこの矛盾を弁証的に解くよりはむしろ沈黙を以って蔽わねばならない。

 そして神自らも 何等適切なものが彼について言い表わされないにも拘わらず しかも人間の言語の奉仕を許し 我々が人間の言語によって彼を讃えて喜ぶことを欲し給うた。それ故我々は彼を神( Deus )と呼ぶ。

 勿論 彼は神という語の音声によって真実に認識されるのではない。それにも拘わらず この神という音声を聞くとき 我々の言語を解する総てのものは 最も完全な 不滅の存在を想起する。・・・
(アウグスティヌス:神の国について 1・6 服部英次郎訳)

補足日時:2008/10/25 07:50
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この回答へのお礼

 ★ 人間の驚異的能力からの理想社会の話へ移れなくて残念でした。

 ☆ ぜひ 移ってください。
 《いま・現在》に いろんな定義の仕方があると 共通に認識できれば ご見解の披露へと進むことができると思います。

 ★ 《現在》はAさんが知っています。
 ☆ この考え方でしたら 主観を大事にしたかたちですから 互いの見解を認め合って 話を進めるという恰好だと思います。

お礼日時:2008/10/08 00:56

オコリザルです。


論議の流れから少し思い浮かぶことがあったのですが、記憶を過去のみを表しその延長としての現在なり未来なりがあると考えるか、記憶そのものに「過去」「現在」「未来」の三様があると考えるかで違ってきます。
記憶を過去のみと捉える中での延長は間違いでしょう。
大霊界語録の中では、この世と現実は異質なものだよと指摘した感覚と、他の方が指摘した今と現在は異質なものだよとのご指摘はこのような記憶の流れについての一致した見解を表していると思います。

鬼神の冒険紀行の証言となりますが、過去は過去で大切にしながらもこの混乱のドグマから向けだす試行錯誤が復活なり蘇生なりとも表現しうるでしょう。
鬼神を持ち出したのは混乱の原因は誰も内包し得ないからです。
探しても絶対に思い当たるフシなんて出てきません。
この点は人間観察で錯乱しているな、との言動を発見することがありますが指摘すると自覚もなく軌道修正して痕跡を残さず忘却します。
元凶を探ると大霊界に行き着きますが、今日の思索で霊体を承認するならそこから幽体が離脱するのを放置するしかないとの考えに及びました。
霊魂に続いて幽霊、この言葉も相容れない概念をこじつけたものになります。

これは小言めいてますが仏教徒を代弁したお話ですが、イエスもまた予言の実現のあかつきには葬送を執り行うべきで、これもまたそろそろではないかと思います。
大霊界現象の発生を仏教徒に任せるのは良く分かります。
入滅した釈迦の墓場荒しを放置していますから。

この回答への補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 前半は それほど深い論議を必要とするお話ではないように感じましたが 後半は この一回のお応えでは 呼応し切ったということにはならない内容があるように やはり 感じました。

 精神の三つの行為能力として 記憶と知解と意志があると考えているのですが そのうち 記憶は 覚える能力を中核とするというよりは 精神の秩序過程として はたらくその働きだと わたしは 捉えております。
 秩序とは 覚えることや覚えたものごとを整序するはたらきです。
 また秩序とは 順序のことでもあって おそらく ものごとを時系列において整序することであろうと考えます。時系列と言えば 過去・現在・未来です。
 いま思う結論を そのまま 述べますが――というより アウグスティヌスの請け売りですが―― 時間として記憶されているものごとは 過去としての現在 現在としての現在 そして 未来としての現在というふうに区分整理されているのではないでしょうか?
 問題意識・生活意識にあるのは つまり 生活現実であり現実であるのは 《現在としての現在》です。
 たとえば 狩猟・採集・漁労〔のみ〕の時代は 過去です。記憶にあるとするなら 過去としての現在です。たとえば いまあるエネルギとは別の何かがエネルギとなる時代は――単なる想像であるに過ぎないこととして―― 未来です。想像にのぼっているのなら 未来としての現在です。

 このような時間観に関連して言えることは 復活としてのたとえば《真理が すべてにおいて すべてとなる》という命題は どの時間域・どの時代であるかに関係なく あてはまるということです。そういう意味で あとは 文学的な表現として・つまり ただ雰囲気として 《永遠の現在》と言ってみたりするということだと思います。

 後半は 一筋縄では行きません。
 まづ 中段ですが ひょっとして 《霊》というとき――つまり ここでは その霊に関連して 《鬼神・大霊界・霊体・幽霊》などの語を持ち出すとき―― それは 《霊の世界 もしくは その世界における復活》のことを いま現在において 《先取り》しているのかな と思いました。憶測です。

 最終の段落では イエスについて こういうお話を述べます。つまり 将来すべきと 気持ちとしては 思っている未来社会においては キリストのキの字も出ないということ それが この望まれる未来社会の実現となるのだと考えます。言葉としても死んだとき キリスト・イエスの心は生きるという意味です。これは 自説であり 憶測です。

 ★ 入滅した釈迦の墓場荒しを放置していますから。
 ☆ 墓場から 骨や あるいは さも周りに立ちこめているとでも思っての霊気とやらでも 自分のものとして 得たい というようなところなのでしょうか? あるいは そうではなく むしろ 経文じたいを 《墓場》にたとえておられるのでしょうか? いまや現代において 仏教のお勉強は 墓場荒らしに過ぎないのだと。
 イエスの葬送は ほんとうに 生きるという現実の実現のためです。ブッダの葬送は もはやすでに ほんとうに引導をわたすためであるでしょうか? それとも イエスのように ほんとうに再生するためのものになるでしょうか?

補足日時:2008/10/08 00:00
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brageloneさんの補足から brageloneさんが解らないということが見えます。



 1.《いま》と《現在》とを使い分けているつもりはありません。

  そうでしょうね。話が終わってしまいました。

  これを峻別しないと後のご質問に答えることさえできないのです。
  説明ができないのですよ。

  《いま》と《現在》は全く違うものです。はっきりと見えています。

   リンゴの皮の表面から《いま》反射した光は、1mはなれたAさんの目に
   約3.3ns後に到達します。網膜に映し出され、視神経を通り、
   約20ms後に脳細胞に知覚されます。これでもまだAさんは知覚していません。
   その後、神経回路網で多数のニューロンを通して
   Aさんがリンゴの《現在》を知覚するまでには、約400msもの
   時間を使わなければならないと言われています。

   数値はともかくとして、《現在》は《いま》に遅れるのです。
    この《いま》と《現在》を峻別しているに過ぎません。
   《現在》を知覚しているときには《いま》はどこにもありません。

   そして、《いま》と《現在》とを使い分けないと、qsxdrfvgyhさんの言う最も豊かな
   そして、人間の驚異的能力としての《現在》を浮き彫りにすることができないのですよ。

   
   《いま》なんてものがそもそもあるのか・・という言うのは、一度峻別してからの
   話だと思うわけです。
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この回答へのお礼

 bananasandさん qsxdrfvgyhさんと同じように 水入りにしますか。
 
 ひとつのヰ゛ジョンに もう一つの宇宙観が加わるといった意味のことを述べておられましたので そういうふうに 理論や見解は 人それぞれにあるという前提に立てたのではないでしょうか。
 これは こちら側の論理と都合ですので さらに突っ込んでもらって まったくかまわないのですが 復活論にたどりつくには いま少し 冷却期間をおくのもよいと思いました。

 そう言っておきながら 挑発的になるようなことで 今回のお応えをつづります。つまり 一点のみです。次のように bananasandさんも ご自分の定義にのっとって 《今》という言葉を使っておられる。そのことを指摘しておきます。引用は 脈絡を重んじないで 《今》という語を含む文だけを 拾い挙げただけのものです。

 ★★(ANo.44)~~~~~~~~~~~~~~~~
 Aさんは、リンゴを検知し、今の完全な存在としてリンゴを認識しているとします。
 ・・・
 AさんのAさん自身が獲得する最終結果は、「今、完全にリンゴが存在する。」です。

 りんごを完全な存在にしているのは、リンゴの実相たる変化を、Aさんの実相たる変化を使って、
 Aさんが、今の完全な存在としてリンゴを認識しているということですね。

 今を作っているのも、リンゴをリンゴとしているのも、完全に存在しているとすることも、
 AさんがAさんの変化を既に使ってやっていますね。
 ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この時点の文章は 修正していかれるかも知れませんが 要は 自由に定義して 用いていけばよいのだと考えます。

 といったところですが いかがですか?

お礼日時:2008/10/07 23:09

> * 《現在》の定義として それは 《無為》つまり《霊》の世界のことだとお聞きしてから わたしの視野が開かれました。



《霊》の世界かどうかは、分かりませんが、「現在」と「無為」が深く関連していることが、理解していただけたようで、回答した甲斐がありました。ここの共通認識は、今後も重要だと思います。

>《非言語的な理解》という表現から、言い逃れを感じます。わたしだけですかね。何も分かっていないことを言い訳しているように聞こえます。(一部、若干修正しています)

ここは、ある意味、見抜かれていたようですね。説明を省略するために、そのように書いたわけです。なぜならば、沈黙・無記の勝義諦に至るたとえ話は、本一冊で済まないかもしれないからです。そして、ここでの問答の限界を超えますから、残念ながらここまでとしましょう。ほんの少しだけ、論点に接近したということで今回は退散します。では、また、今度の機会まで・・・
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 ブッディスムについての説明を聞くと いつもと言っていいほど 肝心なところでは 言葉では説明できないという落ちに辿りつくように思えます。(ちょっと たけだけしくなっています)。一気に 言ってしまいました。

 その意味で 結論の部分にもたどり着きたかったですが 一たん 水入りとしましょう。また お会いしましょう。

お礼日時:2008/10/07 22:36

全く、がっかりです。

必死に返答していただきましたが、論点がずれてます。本当に、僕たちは、「現在」に属しているのですか?「過去」に属し、「過去」こそ、僕たちの安住の地だと思いませんか?その身近な過去を現在と錯覚しながら、幅のある時間感覚で認識していると思いませんか?永遠の現在なんて、錯覚でしょう?だから、復活も永遠の現在も破綻していると思いませんか?過去に視点を移した時間論こそ、最も内容豊かな時間論になっています。「現在」って、薄っぺらだと思いますよ。ですから、復活の根拠も薄っぺらなのです。

『沈黙・無記なる勝義諦は、言語化してはいけないので、比喩は、読後破棄扱いです。』と書いたはずです。破棄せずに、比喩を引用してはいけません。無為を有為に転換すると、間違い表現になってしまいます。そこを理解するには、体得する以外にはないのです。非言語的な理解です。辞書の定義に束縛されていては、理解できないでしょう。今までの僕の回答を通読してみてください。論点は限定的かつ明晰です。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん お応えします。

 ★ 本当に、僕たちは、「現在」に属しているのですか?
 ☆ 言葉の力というものについて 少しは 驚かなければいけません。主観ごとに ものごと(概念)の意味内容が 違っていても 総じて 意志疎通が成り立っていきます。
 つまり わたしたちが属しているところを 世界なら世界と言う という結構(かまえ)なのです。出発点なのです。わたしたちが生きているときを 現在と言う ということです。そういう順序です。
 世界も社会も世の中も 現在も今もこの瞬間も劫(カルパ)も おおざっぱでも 通じます。その意味は いろんな定義を 自由に つくればいいというものです。

 ★ ・・・「過去」に属し、「過去」こそ、僕たちの安住の地だと思いませんか?その身近な過去を現在と錯覚しながら、幅のある時間感覚で認識していると思いませんか?
 ☆ そういう世界観を だれも 否定しようと思って議論しているのではないですよ。互いの定義を つき合わせているだけです。とりあえずは。交通整理と言った所以です。

 ★ 永遠の現在なんて、錯覚でしょう?
 ☆ これは 厳格に言えば 定義でさえありません。修辞学上の言い回しです。永遠は無為 現在は有為 これらをつなぎ合わせて おもしろがっているだけです。それでも 言葉のちからは あなどれないからでしょうか うまい具合いに いくばくか 伝えるものがあるのではないでしょうか?

 ★ だから、復活も永遠の現在も破綻していると思いませんか?
 ☆ いくら超経験=霊について 語っていると言っても あくまでわたしたち人間が 経験思考によって 言葉で考え表現しているだけです。そもそも 《破綻しうる》思想をあつかっているです。しかも ふたたびみたび 言葉の力がはたらくのでしょうか 霊の領域に あたかも 達することができたかに思うときがあるのです。むろん 主観ですよ。そうして この主観を 互いに 披露し合っているのです。何の根拠もないのに 意味内容が通じるときがあるのです。

 ★ 過去に視点を移した時間論こそ、最も内容豊かな時間論になっています。「現在」って、薄っぺらだと思いますよ。ですから、復活の根拠も薄っぺらなのです。
 ☆ とおっしゃるところを 復活論として 述べてください。定義が違っても その世界観を わたしたちは 共有することができると思いますよ。異同を 説明し合っていけば いいのです。

 ★ そこを理解するには、体得する以外にはないのです。非言語的な理解です。
 ☆ そうおっしゃらずに 体得したところを 言葉にして ご披露してください。《非言語的な理解》ということばを聞くと――ちょうどあなたが《永遠の現在》という言葉を聞くと ばかにされたように感じると言われたのと似ているかどうか 分かりませんが そして これは 一般論ですが―― 相撲取りが八百長を必死で否定するときのような言い逃れを感じます。わたしだけですかね。何も分かっていないことを言い訳しているように聞こえます。
 辛辣ですかね。

 * 《現在》の定義として それは 《無為》つまり《霊》の世界のことだとお聞きしてから わたしの視野が開かれました。

補足日時:2008/10/07 19:22
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