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 健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。
 そこで持ち上がるのが 人生論です。
 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 
 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。

 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。
 1. すべてを 終わり=目的から 始める。
 2. では 終わりは どこにおくか。
 3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。
 4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。
 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。

 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。
 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。
 不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。
 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。
 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

A 回答 (71件中21~30件)

>まったく分かりません。


 だとすると、このビジョンはもう一つの宇宙観が加わることになると思いますね。

初めにザッと解答して、後から解説します。
1.《現在を想起し得る》ゆえ 《現在を生きている》と思っているのではないですか?
  肯定されます。
2.とうぜん 現在に属している。と言いますか 現在を生きていると思っている時空間が 現在である。と どうして ならないですか?
  前段が肯定されます。後段は、区別して考えます。後述します
3.《残像》を捉えているから それは 現在ではないというのは 現在を 瞬間として扱ったからだけではないのですか?
  この問いは、問いとして成立しません。後述します。
4.現在を どうして いま持続している幅を持った時空間域として 捉えては いけないのですか?
  どちらの現在かによって答えが異なります。
5.あるいは 瞬間として扱う場合にも 《瞬時に過去になった》その過去をも 現在においてというかたちで 体験している(いた)のではないでしょうか? 
  どちらの現在かによって答えが異なります。
6.繰り返しですが 《現在を生きていると思いこんでいる》かどうかではなく 《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》だと思うのですが そういう考え方は 退けられているのでしょうか?
  《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》 ここが切り口になります。鍵穴です。
7.★《〈純粋変化を消費〉して残像化した世界》ということについてですが 《残像化》というのは 《一瞬前は 一瞬前だ》と言っているだけではないですか?
  否定されます。
8.一瞬にせよ二瞬にせよ そのへだたりを持って 過去となったと言うとすれば その過去の世界のことを そのつどの現在において 捉えている。その脳内作業を わざわざ 光速を持ち出して その光速じたいとしての《時空間宇宙の実相=つまり 純粋変化》とのかかわりで おこなったと分析して規定しているだけではないのですか?
  ここでは光速を一旦おいて下さい。理解の妨げになります。わざわざ光速を持ってくる必要はないのです。
9.すなわち 《純粋変化の消費》と言うというのは 単なる後づけなのではないですか?
  否定されます。


6.から切っていきます。
>6.繰り返しですが 《現在を生きていると思いこんでいる》かどうかではなく 《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》だと思うのですが そういう考え方は 退けられているのでしょうか?
《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》における、《いま》 と 《現在》 の違いを明確に峻別する必要があります。
《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》には、 《いま生きている》 ことと、《現在と呼ぶこと》 がありますね。
《いま生きている》 状態というのは、《現在と呼ぶこと》 や 《現在》 を認識する以前から 《いま生きている》 状態ですね。
 この 《いま》 が知覚、記憶、認知される前の 《いま》 です。
 その 《いま》 の時空間を 《現在》 と呼ぶためには、どうしても 《いま》 を知覚しなければなりません。
 知覚、記憶、認知する過程において、どうしても、時間を必要としますから、《いま》 は 《現在》 ではなくなってしまいます。

 《現在と呼んでいるだけ》は、《いま生きている時空間》を既に知覚、記憶、認知し終えているので、
 この《現在》に《いま》はありません。

1.は知覚、認識後の話なので、肯定されます。
2.>とうぜん 現在に属している。と言いますか 現在を生きていると思っている時空間が 《現在》 である。
  ここまでは、知覚、認識後の話として肯定されます。
  6.の通り、現在を生きていると思っている時空間が《いま》ではありません。
3.《残像》を捉えているから それは 現在ではないというのは 現在を 瞬間として扱ったからだけではないのですか?
  《残像》というのは、知覚、記憶、認知のことですから、それは、《いま》ではありません。
  ここで、《いま》を 瞬間として扱ったからだけではありません。知覚、記憶、認知の過程を通しているからです。
4.現在を どうして いま持続している幅を持った時空間域として 捉えては いけないのですか?
  知覚、記憶、認知の過程を通した現在は、幅を持った時空間域であって、そう捉えざるを得ません。
  しかし、《いま》には、幅は一切ありません。純粋変化と表現しているところです。
  
  理解の手助けとして・・・あくまで理解の手助けですよ。
   映画のフィルムを想像してください。
   映画は、24コマ/秒で静止画を流すことで、動画にしてますね。

   動画にしているのは、フィルム側ではなくて、我々だと言うことです。
   動画なんてどこにも無いのです。我々が作っているのです。

   一枚一枚の静止画には幅は一切ありません。
   この一枚一枚をつなぎ合わせて幅を創造しているのは我々なのです。

5.あるいは 瞬間として扱う場合にも 《瞬時に過去になった》その過去をも 現在においてというかたちで 体験している(いた)のではないでしょうか? 
  知覚、記憶、認知の過程を通した>現在においてというかたちで<、その過去をも体験しています。
  瞬時に過去になる前の《いま》は含まれません。
7.★《〈純粋変化を消費〉して残像化した世界》ということについてですが 《残像化》というのは 《一瞬前は 一瞬前だ》と言っているだけではないですか?
  否定されます。《残像化》は知覚、記憶、認知の過程のことです。
  映画で言うと、スクリーンに映し出されている静止画の1コマ前の静止画の知覚、記憶、認知です。
8.一瞬にせよ二瞬にせよ そのへだたりを持って 過去となったと言うとすれば その過去の世界のことを そのつどの現在において 捉えている。その脳内作業を わざわざ 光速を持ち出して その光速じたいとしての《時空間宇宙の実相=つまり 純粋変化》とのかかわりで おこなったと分析して規定しているだけではないのですか?
  そのつど《現在》 において、捉えることができるのは、過去の世界知覚、記憶、認知の過程を完了していて記憶があるからであって、
  そこに《いま》はありません。失われています。フィルムの巻き戻しは御法度です。
9.すなわち 《純粋変化の消費》と言うというのは 単なる後づけなのではないですか?
  以上から、否定されます。

この回答への補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 おかげさまで 解きほぐしが進みました。わたしの解明具合いを述べます。直前の回答でのやり取りも参照してください。
 そのqsxdrfvgyhさんへのお応えが 総論とすれば ここでは 各論になります。断片的にさえなるかも知れません。

 1.《いま》と《現在》とを使い分けているつもりはありません。どちらも 《瞬間》を言うとすることができるし 《一定の時空域》を言うとも し得ます。
 2.一・二瞬前に《いま》であった時空間が 幅を持った現在時において その現在として 捉えられて 不都合は 何もありません。
 3.なんで このような 柔軟な用語法を採らないのですか?→(6-1)

 4.《フィルム》の比喩は 《理解の手助けとして・・・あくまで理解の手助けですよ》としても 適切ではありません。
 4-1.★《一枚一枚の静止画には幅は一切ありません》――☆ というふうに 時空間が 一枚一枚に分かれるという仮定が 不適切です。そもそも 分割できないでしょう。
 4-2.仮りに このように いわば不連続のものの連続であるとしても 
 ★ この一枚一枚をつなぎ合わせて幅を創造しているのは我々なのです。
 ☆ と どうして なるのか? つまり 《不連続のもの》の すでにわれわれより先に 《連続》であるのです。感知も認識も記憶も みな 連続性として 捉えているはづです。
 4-3.われわれが 時空間を《止めたり 速度を速めたり遅めたりする》ことができるでしょうか? ましてや 《創造している》とは どういうことなのでしょう?
 4-4.或る種の《論理操作》がありうるとだけ 言っているのではないですか? 
 4-5.動画は この現実の世界の過程に 少しでも近づくように 作っているものであって そこから 現実を説明するというのは 順序(秩序)が逆です。

 5.なぜ ★《フィルムの巻き戻しは御法度》なのですか? つまり 現実の時空間の推移でしたら 記憶の中で 巻き戻しも 自由です。《フィルム》を例に持ってくることの具合いのわるさです。

 6.細かいことですが ★《〈残像化〉は知覚、記憶、認知の過程のこと》であるなら 一瞬前の・残像化の始まりの時点は その終わりの時点から見て 過去ですが 《一瞬前は 一瞬前だ》ということを物語っています。その意味は 一瞬前の過去をも含めて 現在域だという見方も できるということです。
 6-1.その可能性を排除しようとしていませんか? おもには qsxdrfvgyhさんですが つまりこれは 《有為・世俗諦》としては ありうるが 《勝義諦・無為》から見ると あり得ないと言おうとしています。それは そうではなく 後者の《真理》から見れば 現在の《瞬間》説も 《流域》説も 絶対ではなく しかも 相対的な見方としてなら どちらも成り立つというふうに言わなければならないところです。

 7.★《 知覚、記憶、認知する過程において、どうしても、時間を必要としますから、〈いま〉 は 〈現在〉 ではなくなってしまいます》。――☆ この場合の 世界認識の方法を 問題にしなければなりません。
 7-1.《現在》も《いま》も 時空域です。《わたし》は この時空域に生きていて 《わたしがわたしである》です。そのわたしの《知覚、記憶、認知する過程》が そのまま 時間の流域です。
 7-2.すでに つねに リアル・タイムなのです。そのあと 分析するというのみです。
 7-3.わたしが 知覚するのであって 知覚が 知覚するのではなく 時間が 知覚するのでもなく 世界が 知覚するのでもありません。
 7-4.純粋変化が 論理操作をするのではなく もし それをするというのなら わたしがするのであり この純粋変化を わたしが 操作して初めて 知覚・認知・記憶するのでもありません。
 7-5.わたしがおこなう論理操作の中に ただ 純粋変化という概念が入っていて これをわたしは用いているというのみです。《純粋変化の〈消費〉》ではないでしょう。

 8.純粋変化は 光速移動体の気分としての《変化のみ》のことでしょうから ★《わざわざ光速を持ってくる必要はないのです》とは言えないのでは?

補足日時:2008/10/07 18:50
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「現在」という語は、日常の言語ゲームにおいて、瞬間ではなく、幅を持つという感覚は、全く正しいと言えます。

たとえば、「現行憲法」下で生きているという時、半世紀以上の時間を引きずって表現しています。でも、この半世紀を現在と言っているわけではありません。現在と過去を混ぜた幅で表現しています。つまり、記述や表現にする時、常に過去を含んでしまうと思われます。有為の世界での用法として、この混在が全く正しいのです。

沈黙・無記なる勝義諦、無為の世界における「現在」は、有為の世界、日常の言語ゲームとは、異質な「現在」になってしまいます。無為の世界で通用するには、有為と決定的に違うのです。ここの違いに、まず気付かねばなりません。本当は、共通した語を使うべきではなかったのでしょう。しかし、適当な語がないので、やはり「現在」とします。無理に造語すれば、「無為なる現在」です。これは、無限の最終数を言うように実現不可能です。厳密なる意味では、有為の世界においては、現在の残像しか認識できないし、「過去化の世界」にしか生きていないと思います。そして、繰り返しますが、現在や未来に関する想起の幅はあるのです。だからこそ、現在を生きていると、日常の、有為の世界では、混在して認識できるとも言えます。

無為と有為の世界の違いが、分かっていないと混乱した思考になってしまいます。brageloneさんは、有為の世界だけでの概念で思考していませんか。「無為なる現在」には、混在がありません。ですから、この場合は、瞬間的だと思います。点です。ゼロです。比喩的に言えば、そのようなイメージです。ただし、沈黙・無記なる勝義諦は、言語化してはいけないので、比喩は、読後破棄扱いです。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 やっと 議論の噛み合わなさについて 原因が分かりました。取りあえず 二点です。
 一点は bananasand さんの場合とも同じようですが 《現在》のことです。その定義をどうするかです。
 二点は 《無為・勝義諦》と 《有為・世俗諦》との関係についてです。前者をどう定義するかです。

 ▲ (ヰキぺディア:法 (仏教)= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8 … )~~~
 ○ 《勝義諦(しょうぎたい)》とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。
 ○ 覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦(《世俗諦》)といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《勝義諦》については わたしは 《真理》と同義と見ていました(*)ので 若干 違いがありますが 問題は それが《無為》と言いかえられるように 《超経験》だということです。《超経験から見た世界の真相》も 経験思考を超えていることでしょう。

 * → ▼ (岩波仏教辞典1989)~~~~~~
 《勝義》[paramaartha]: 最高の真実。原義は《最高の意義》の意。同義語として《真如・実相》などがある。・・・
 《世俗》は 常識的真実 《勝義》は 超世俗的な真実で無分別知の対象である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 そこで もしこの《勝義=無為》を《現在》と呼ぶとすれば それは とうぜん 無であり 空であり
 ★ ゼロです。
 ☆ けれども
 ★ 瞬間的だと思います。点です。
 ☆ は げんみつには まちがいです。《点》は 存在がなくても 位置がありますから。《瞬間》も《瞬間的》も 《無》ではありません。

 さらに言いかえれば 経験世界を超えているということは 時空間を超えていることであり その《無為なる現在》は 時間でも空間でもありません。ところが 《永遠の現在》の《現在》は 経験世界における時間概念であり おっしゃるように 《世俗諦》に属します。その意味は 相対的な内容であるしかなく さまざまに 定義して 用いればよいというものです。
 現在とは《瞬間》であるという定義も 自由です。《一定の生活意識とその現実が持続する時空域を言う》と定義しても 自由なのです。どちらも 互いに対等です。

 いいですか。この時空間を超えているところの
 ★ 「無為なる現在」には、混在がありません。
 ☆ どころか 世俗諦における時間とも空間とも 何ら からんではいません。もっと厳密に言えば そこには 《概念の混在があるかないか これさえ 人間には わからない》のです。わかったら それは 勝義諦ではなく 世俗諦に属する概念です。
 いいですか。それゆえ
 ○ 勝義諦は 語り得ぬもの。
 ☆ なのです。したがって
 ★ 無記
 ☆ は この場合 《勝義諦が あるとも ないとも 人間には 分からない》ことを意味するのです。決して
 ★ 言語化してはいけない
 ☆ のではありません。事実 《勝義諦・真諦・真如・実相》というように 言語化しているじゃないですか。

補足日時:2008/10/07 15:16
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この回答へのお礼

 ○ 言語化しても それは そのもののことではなく そのものを代理する表現である。その限り 自由に用いる。
 ☆ のです。それゆえ ここからは 《真理》をめぐって (a)《指し示し》論と (b)《比喩・物語》論とが はなはだ覚束ない手段でありながらも 表現の手法として 考え出されました。
 いいですか。なおここには 重大な危険が潜みます。
 ★ 言語化してはいけない
 ☆ と言うとき わたしたちは その対象を 言わば《分かった》として 精神の内に取り込んだことになります。《語り得ぬ》のではなく その中身を知った者に言わせれば という恰好です。それを《いや 語ることも ゆるされる》という場合も 同じです。いわば《勝義諦》なるものを 自分が所有したと宣言してしまっています。
 いいですか。《あるとも ないとも 人間には 分からず 語り得ぬもの》を どうして 所有したり 精神の所蔵としたりすることが出来るのでしょう?
 すべては 言語ゲームだったのではないですか。そこでは 《無為なる現在》は 仮りの代理としての表現として用いられて 代理であるゆえに 自由に用いて 議論してよいとなります。ゲームにおいて 合理性があって推論として妥当であるものが 讃えられます。しかも それも 相対的なものです。さらに妥当性に富んだ言説が 出て来ます。

 もし ここで 人間であるゴータマ・ブッダが この勝義諦に立って=つまり世界の真相を見る空観に立って 世界のあらゆる縁起共生の関係を捉えていたとすれば そのときには こうなります。
 (あ)ブッダは 勝義諦=無為=真如=超経験の領域の住人であるとするか      
 (い)人間は 経験存在であるが けっきょくのところ 誰でも 超経験の領域に通じることが出来るとするか  
 (う)ブッダのみが 特殊に 《真如を体現した人間であった》と見るか    
 (え)ブッダは 錯乱していた と見るかです。
 ☆ この(え)や(あ)の場合の延長に 次の見方も成り立つかも知れません。
 (お)ブッダは 《指し示す》理論(a)ではなく 《比喩・物語による説明》理論(b)を 方便として用いたと解釈する場合です。――むろん この(お)は 聖書の立ち場ですね。(イエスは特殊です)。

 ちょうど 趣旨の同じ議論が 次のご回答にも続きます。

お礼日時:2008/10/07 16:02

>せっかく 張り切って 解釈しているのに そんな言い方をされては 気持ちが醒めてしまいます。



そうなのですか?
逆に、私は、私に適切な表現力が無いことを、本筋でないことでつこっまれているように感じています。
brageloneさんの方が表現力、読解力、理解力は格段に上です。おそらく読書量もとてもかなわないでしょう。
物理的な話は別として、このあたりの話は、既に承知されているはずではありませんか?

「またぁ、・・・解っているくせに・・・」というのが心象です。半分はそうでしょう?

私も自分に錯誤があるかもしれないまでも、ビジョンが無いものや訳が解らないものを言葉ゲームで
紡いでいるのではありません。

>☆ この《純粋変化を消費する》というのは どういうことか 分かる人は いるでしょうか? 

>これが 《時空間宇宙》だったのですよ。
それは、そうです。《純粋変化を消費する》と得られるのは、日常側の時空間宇宙であり、
我々が認識しているいわゆる時空間宇宙そのものです。

では、仕切直しで、失礼してqsxdrfvgyhさんのお言葉を勝手に拝借します。
>瞬時に過去になり、残像化した世界しか体験していない
>「現在」を生きていると思い込んでいますが、決して「現在」には属していない
>現在も未来も想起し得る能力を人類は持っている

ここで、世界 と 残像化した世界 としますが、 残像化した世界が、 上述の日常側の時空間宇宙であり、
我々が認識しているいわゆる時空間宇宙そのものです。

世界が 時空間宇宙の実相 です。 そして、我々は、日常側の時空間宇宙しか体験していない。

それが故に、>「現在」を生きていると思い込んでいますが、決して「現在」には属していない 訳です。

このまさに「残像化」をやっているのは、我々自身ですよね。
我々も当然に 世界 の一部ですから、我々であるところの世界の一部が、「残像化」をやっていることになりますね。
世界というのは、純粋変化であるので、「残像化」をやってのけている過程で、その純粋変化を
使っているということになります。これを 《純粋変化を消費する》と表現しています。

《純粋変化を消費》して残像化した世界にいてもなお、
>現在も未来も想起し得る能力を人類は持っている
ことを私は驚異的能力だと表現しています。

この回答への補足

 bananasandさん そうなんですか。
 ★ ビジョンが無いものや訳が解らないものを言葉ゲームで / 紡いでいるのではありません。
 ☆ つまり わたしだけが 《時空間宇宙》論を知らないということのようなのですか。それは qsxdrfvgyhさんに 次のように指摘されたことと 同じ内容でしょうか?
 ◆(ANo.31)現代の時間論とかなりずれているようです。

 ☆ まったく分かりません。復活論にとっては 過程であると思って 部分的に分かるところを頼りに 先へ進めるかたちを取って来ました。途中で 全く分からなくなったところで その旨をお伝えしました。少し解釈が出来かけて来た。・・・そういう経過です。

 時空間宇宙についての一般的な常識を知らない者が 質問します。できますれば お答えをいただきたく思います。次の議論にしぼります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>瞬時に過去になり、残像化した世界しか体験していない
>「現在」を生きていると思い込んでいますが、決して「現在」には属していない 
>現在も未来も想起し得る能力を人類は持っている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 1.《現在を想起し得る》ゆえ 《現在を生きている》と思っているのではないですか? 
 2.とうぜん 現在に属している。と言いますか 現在を生きていると思っている時空間が 現在である。と どうして ならないですか?
 3.《残像》を捉えているから それは 現在ではないというのは 現在を 瞬間として扱ったからだけではないのですか?
 4.現在を どうして いま持続している幅を持った時空間域として 捉えては いけないのですか?
 5.あるいは 瞬間として扱う場合にも 《瞬時に過去になった》その過去をも 現在においてというかたちで 体験している(いた)のではないでしょうか? 
 6.繰り返しですが 《現在を生きていると思いこんでいる》かどうかではなく 《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》だと思うのですが そういう考え方は 退けられているのでしょうか?
 7.★《〈純粋変化を消費〉して残像化した世界》ということについてですが 《残像化》というのは 《一瞬前は 一瞬前だ》と言っているだけではないですか?
 8.一瞬にせよ二瞬にせよ そのへだたりを持って 過去となったと言うとすれば その過去の世界のことを そのつどの現在において 捉えている。その脳内作業を わざわざ 光速を持ち出して その光速じたいとしての《時空間宇宙の実相=つまり 純粋変化》とのかかわりで おこなったと分析して規定しているだけではないのですか?
 9.すなわち 《純粋変化の消費》と言うというのは 単なる後づけなのではないですか?
 10.でも それが 復活論のために必要だということでしたら ぜひ進めていただきたいと思います。そのためにも (1)から(8)までの疑問について ぜひ納得させてくださるようお願いいたしたいと思います。
 仕切りなおしまして どうぞよろしくお願いいたします。

補足日時:2008/10/07 04:08
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コミュニケーションから社会性までは進めていませんよ。



>★ AさんがAさん自身を認識して、Aさんが確実な存在であると認識するときも、不完全性に不完全性を重ねた / 結果だということですね。
>☆ この文については 質問が飛びます。
>1.自己の存在の認識は 主観の問題です。

 そんな話をしていません。
 Aさんが単純に「我思うが故に我あり」と言っていることは、

 純粋変化であるAさんが、自らの純粋変化を消費して得られた結果であるいっているのであって、
 これが不完全性に不完全性を重ねるということです。

 そうです。純粋変化を消費している過程は、論理思考上の手続きのようなことです。
 人間独特のアーキテクチャです。

 ANo.47 qsxdrfvgyh さんの 最終段落の話をしていて、
  >現在も未来も想起し得る能力を人類は持っているのも事実 からの飛翔からさらに社会性へ広げようとしています。
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この回答へのお礼

 せっかく 張り切って 解釈しているのに そんな言い方をされては 気持ちが醒めてしまいます。
 考えてみてください。簡単に理解できることなのでしょうか?
 簡単に理解できるよというのでしたら もうわたしは 降ります。
 無理です。

 もう一点。ここの解釈は合っているという場合には そのように きちんとおしえてください。一つひとつ こなして行かないと 理解は無理です。
 ★ 純粋変化であるAさんが、自らの純粋変化を消費して得られた結果
 ☆ この《純粋変化を消費する》というのは どういうことか 分かる人は いるでしょうか? これが 《時空間宇宙》だったのですよ。

お礼日時:2008/10/06 22:37

 ○ 仏性


 ☆ は この《勝義諦=無為=真理=絶対》のことですか?とお訊きしたいと思います。

仏性は、《勝義諦=無為=真理=絶対》の前3つではありません。可能性であり、未来にも通じる面があり、その点で「絶対」にだけは関連しそうです。
 
 ★ 勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。
 ☆ でしたら もはや われわれの間の違いは (a)《勝義諦=無為》を それについては沈黙すべきなのだが 沈黙すべきことを分からせるために 沈黙せずに 言葉を使って 指し示すことを行なうか
 それとも (b) 《真理=神=霊》について 言葉で 虚構ないし物語のかたちにして 説明表現するか これだけだと思います。
 《指し示す》とほとんど同じ行為なのです。的確には 《代理表現》とわたしは呼んでいます。

指し示しは非言語なのです。(a)の「言葉を使って」指し示すものではありませんし、(b)言葉で 虚構ないし物語のかたちにして 説明表現するものでもありません。どちらも有為の世界の手法であり、沈黙・無記なる勝義諦の「沈黙・無記」を理解していないようですね。残念です。

 ★ イメージ化するとたとえ話や虚構になるでしょう。
 ☆ というよりも (b)のように あくまで《言葉を用いて説明する》という手段を採った場合 その時点で すべては 表現の問題になっています。なりきっています。全体が 仮構・虚構・おとぎ話です。

そのとおりです。たとえ話や虚構は、理解を助けるけれども、究極の理解においては、これらを捨て去り、超えねばなりません。「沈黙・無記」に至る境地であり、無為の世界は言語ゲームを超えて体得した境地なのです。非言語経験なのです。そして、信仰は、勝義諦とは関係ありません。

勝義諦も現在も、認識しようとした瞬間に、有為の世界(世俗諦)、過去に転換されてしまい、決して言語化したり、記述できません。そこのところが理解できれば、永遠の現在も、全く認識できず、瞬時に過去になり、残像化した世界しか体験していないことに気付くはずです。つまり、「現在」を生きていると思い込んでいますが、決して「現在」には属していない・有為の世界(過去)に主に属していると分かると思います。ただし、現在も未来も想起し得る能力を人類は持っているのも事実なのですよ。この幅を理解できた人は、覚者の初心者であると思います。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん 概念についての定義内容が 互いに 錯綜しているようです。また わたしの記述について 見落としておられるところがあります。

 次の二点です。
 ☆☆(No.33補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~
 (a)《無記》とし《沈黙》し 《語ってはいけない》と捉える立ち場と (b)《沈黙》すべきであることを 沈黙せずに言葉を用いて指し示すとする立ち場と (c)《無記》ゆえに 《たとえ話》によって あるいはまた《偶像》をとおして おろかにも あたかも言葉を尽くして 指し示そうとする立ち場とです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★★(ANo.36) 勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。以前にもそのように僕も書きました。
 ☆ ゆえに 上の(a)(b)をまとめて ここで(a)とし (c)を(b)としたのですよ。

 ○ 永遠の現在
 ☆ は 対照的な二つの概念を合わせた表現の妙であるに過ぎません。しかも なかなか その内容が伝わる言い方であるようです。
 それから 現在というのは すでに書いたように 時間の幅を持っています。ブッディスムが生まれたときから 今までは その問題意識が つづいていますから 現在時が それだけの幅を持って あります。形骸化したとすれば 過去になっていると見ます。
 現行憲法が発効してからは その憲法という問題意識にかんして その時から 現在が続いています。戦前までは 46年憲法にとっては 過去です。仮りに さらに新しい憲法がつくられるとすれば その時は 未来です。その憲法が すでに問題意識を持って 作成され始めたなら 将来であると同時に すでに 現在でもあると言えるような状態だと考えます。
 問題意識 あるいは 生活意識 あるいは 生活現実 つまり要するに 現実であるとき 現在です。一点の瞬間とだけ捉える必要はないと思います。

お礼日時:2008/10/06 22:25

ここらで少々箸休めはいかがでしょう。



この数年、私の仕事においては「消費行動の男女差や世代差」が
同僚・同業者間における大きなテーマになっていました。

消費行動の男女差について
私が得た知見を簡単にまとめます。
●多くの男性は目的を消費する
●多くの女性は行動を消費する
定性調査ベースの知見ですので、統計的には不十分ですが
経験的には7割ぐらいの確率で当たっている感じがします。

●多くの男性は目的を消費する
私は「結果志向の目的消費」と呼びます。
要するに「目的買い」です。
何を買うか、獲得目標をきちんと定めてから消費行動に入ります。
●多くの女性は行動を消費する
私は「過程志向の行動消費」と呼びます。
彼女たちにとては「買い物に行くこと」自体が目的で
何を買うか?は「言い訳」のようなものです。
「男の人って、真っ直ぐ買って、真っ直ぐ帰るのよね」と
不思議がっていた女性の発言が印象的でした。

とある同業者(厳密には同業ではありませんが)は
以下のようにまとめます。
********************************
無理を承知で態度・行動面での性差をまとめてしまうと
男は課題志向的・結果志向的だが
女性は過程志向的な傾向が強いと言えよう。
恋愛や結婚生活、また買い物行動において、
男は狩りを好み、女は巣作りを好む。
現代、自殺をするのは圧倒的に男性が多いのだが、
男は、毎日の生活での小さな喜びや苦労にあまり意味を見いだせず、
結局、人生に成功したのか失敗したのかといった発想をしがちだ。
そうした男性が、自殺によって事態の解決を図ろうとすることが多いから
片寄ってしまうのだろう。
http://www.tama.ac.jp/blog/relay/doc.php?p=133
********************************

私がインタビューした中では
「生きてるだけで丸儲けじゃないですか」と言う女性が多かったことと
「(専業)主婦は(つきあいが狭いから)小さな幸せを寄せ集めることが重要なのに
 旦那は分かってくれない、些細なことだとかツマラないとか言う」と
いった不満を持つ子育て主婦が多かったのが印象的でした。

このQ&Aサイトへの投稿は匿名ですから
ユーザーのデモグラフィックが分かりませんが
哲学カテゴリーの住人のほとんどは男性ではないかと思います。
よく「形而上学的な普遍性」みたいなことが求められますが
女性から見たら「そんなの男性特有の思い込みだ」などと言われるのではないかと
最近よく思うのです。

少し元に話を戻すと
●男性は存在理由志向
●女性は存在志向
ではないかと、そんな仮説をもっています。
蛇足ですが
男性は来世を気にするが、女性は前世を気にする、といった
眉唾な話があります。
若い女性に宝飾品などを売る場合「あなたの前世は高貴なお姫さま」
なんて占いをサービスすると売れるのだとか…
男性にとっては「今」は常に出発点で
女性にとっては「今」は常に終着点なのかも知れませんね。

> するってぇと何かい? 一切がどうでもよいことが復活かい?
それは男の理屈だと思います、多分(笑

今回の回答は軽くご笑読頂ければ幸いです。

この回答への補足

 この場を借りて soliloquy です。

 bananasand さんや qsxdrfvgyh さんには わるいですが わたしの知る範囲で捉えて言うならば その文章というのは 永井均が論理をふりかざす手法を 自分のものにした結果が 現われているのではないでしょうか。
 1.論理の整合性は 歓迎ですが 別様にも 整合的な理論は ありうるということを ないがしろにする傾きが ちらっと見られます。互いに 比較対照するという視点が 足りません。
 2.一応 整合的な論理であるなら それは 人間ないし社会の総合的な理論になると思っているきらいがあります。論理整合性から ただちに 理論が生まれるわけではありません。
 
 独我論(唯我論)が 問題になっていることを 最近知って 永井均を 数冊読んでいますが 前提としての《わたしがわたしである》については ふつうの理論を構成しています。そのあとが なんとも 捉え難い。
 前提として確認した《わたし》を あとは もう 人びとよ かまわないでくれ そおっとしておいてくれ という防御柵を張り巡らせているように思います。
 若き人よ こころを開きたまえかし。
 

 この場をお借りしました。
 これから お二人のご回答にご返答をいたします。

補足日時:2008/10/07 14:01
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この回答へのお礼

 CUE009さん 箸休めをありがとうございます。

 唱和しても あまりおもしろくないので 突っこみを入れることだけを書きます。

 ★ 哲学カテゴリーの住人のほとんどは男性ではないかと思います。
 ☆ いえいえ わたしの知っている人だけでも a-さん  k-さん  l- さん m-さんの四人 女性もいらっしゃいますよ。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 少し元に話を戻すと
 ●男性は存在理由志向
 ●女性は存在志向
 ではないかと、そんな仮説をもっています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは なんとも 見当がつかないですね。男尊女卑だった昔には 女性が《存在理由志向》だと 存在理由志向の男性について行ったということかも知れないですね。でも 従ってでも そうしたとすれば どうなんでしょう? ただし 自由である現代において 存在理由志向の女性というのは あまり聞きませんね。やはり 性差は ありますかね。
 たしか韓国では 《春香伝》という作品が書かれるまでに 貞節で 一本気をつらぬいたという実在の女性(春香)を伝えていたと思います。
 《トリスタンとイゾルデ》や《アベラールとエロイーズ》などの恋愛ものは 不倫や坊主の恋ですからね。男女の愛としての一本気な存在理由志向ですけれどね。
 日本人は どうなんですかねぇ。

 おもしろいお話をありがとう。(ややっ 隠し味で ご回答を寄せておられるわけですかぁ。つまり 男と女の二人ともが 承諾しうる存在理由論であれば 存在そのものを生かすものになるのだと。あやぶかった。もう少しで 書き上がりのクリックを押すところだった。油断も隙もあったものじゃない)。

お礼日時:2008/10/06 21:29

一人で突っ走ってしまった方が良さそうなので・・・社会性は抜きにして、結論めいたことまで記載してしまいます。



純粋な変化を持ち出しているのは、日常性と社会性 それと 結局、生と死をどう把握するかに関わるからです。

日常性や社会性は、リンゴが確実に存在していなければならないことがベースであって、
社会、経済、教育、法律、政治・・・等々の諸事項をあくまでそのベースを発展させる形で
復活や理想社会を形成するという模索なら、そのベースから見た霊を思考します。

霊はそのベースには無いとするからこそ、それが帰因する「時空間宇宙」の不完全性に
こだわっています。

AさんがAさん自身を認識して、Aさんが確実な存在であると認識するときも、不完全性に不完全性を重ねた
結果だということですね。

で、飛翔といっているのは、方向性を見出してそこへ飛ぶと言うことです。
我々が時空間宇宙から遊離した存在であることが、その可能性を秘めていると思っている訳です。
この驚異的能力の先にあるものです。
私なりの結論は、不完全性に不完全性を重ねることでそこから遊離した存在を作り上げているのですから、
意思をもってそれを還元することによって、<わたし>なるものの消失とすることです。そうです、完全な消失は不可能です。
しかし、ぎりぎり、わたしの 存在 非存在 がそこに出現するわけで、そこではじめて、客体だった時空間宇宙と同相に辿り着きます。

この回答への補足

 bananasandさん えらく論理を走らせていらっしゃるのですね。まちがっているかも知れませんが 解釈してみました。

 ★ 純粋な変化を持ち出しているのは、日常性と社会性 それと 結局、生と死をどう把握するかに関わるからです。
 ☆ けっきょく 何ごとについても 究極のかたちを模索するということなのでしょうか。
 ★ (α)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 日常性や社会性は、リンゴが確実に存在していなければならないことがベースであって、
社会、経済、教育、法律、政治・・・等々の諸事項をあくまでそのベースを発展させる形で
復活や理想社会を形成するという模索なら、そのベースから見た霊を思考します。

霊はそのベースには無いとするからこそ、それが帰因する「時空間宇宙」の不完全性に / こだわっています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうも ここが 結論にかかわると思われるのですが 保留です。
 ★ AさんがAさん自身を認識して、Aさんが確実な存在であると認識するときも、不完全性に不完全性を重ねた / 結果だということですね。
 ☆ この文については 質問が飛びます。
 1.自己の存在の認識は 主観の問題です。
 2.そして そのあやふやな主観どうしが 言葉をとおして 意志疎通を図るならば そこで 間(かん)主観性が 成り立ち 互いの存在を認め合ったということになります。それは ですから 《見なし》です。
 3.言葉によるコミュニケーションは それだけに 重要です。何も根拠などないのに 人間どうしとして 相互の承認が 成り立つというかたちになります。
 4.ところが 
 ★ 不完全性に不完全性を重ねた結果
 ☆ という見方を提出されています。わたしの言葉で こうなりますが 合っていますか? つまり あなたとわたしが コミュニケーションをするとき あなたの《純粋変化》(=光速度において飛ぶ時空間宇宙)とわたしの《純粋変化》を掛け合わせるようにして 互いの存在を承認し合う。つまり そういう論理思考上の手続きのようなことを おこなって 存在を確定するのだと。
 5.ただし それは 単なる論理操作ではなく
 ★ で、飛翔といっているのは、方向性を見出してそこへ飛ぶと言うことです。
 ☆ ともおっしゃる。
 6.でも 
 ★ 我々が時空間宇宙から遊離した存在であることが、その可能性を秘めていると思っている訳です。
 ☆ というのであれば つまりすでに《遊離し》ているのであれば 《飛翔》の必要はなく ただ 論理操作だけで済ませるようにも 思われます。そして 次も 結論にかかわるところですが むつかしい。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この驚異的能力の先にあるものです。
私なりの結論は、不完全性に不完全性を重ねることでそこから遊離した存在を作り上げているのですから、
意思をもってそれを還元することによって、<わたし>なるものの消失とすることです。そうです、完全な消失は不可能です。
しかし、ぎりぎり、わたしの 存在 非存在 がそこに出現するわけで、そこではじめて、客体だった時空間宇宙と同相に辿り着きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 分かりませんが 解釈します。ひょっとして 光速を重視していて あたかも この光速移動体は 超経験の霊と経験世界との接点ないし接線ないし接触面であるというふうなのでしょうか? この《純粋変化》を 論理上(?)頼りにして 人間も この霊との接触の場に行き着くのだという説でしょうか?

 保留した(α)の中で たとえば
 ★ 復活や理想社会を形成するという模索なら、そのベースから見た霊を思考します。
 ☆ これは 純粋変化を交錯させるようにして コミュニケーションの場で 互いの存在を確認し合ったという《ベース》から見て 霊の世界を《志向》します ということでしょうか。
 とりあえず ここまでを 報告します。

補足日時:2008/10/06 20:59
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>この二つの側面を まとめて 捉えている人間がいる。

これで よくないですか?

 これでは不足していると思われます。

 例をあげます。

 ある任意の1秒の間にAさんが太陽光を反射しているリンゴを見ています。

 Aさんは、リンゴを検知し、今の完全な存在としてリンゴを認識しているとします。

 リンゴは、素粒子、電子等が動き回る、太陽光の吸収しきれない光を反射するという変化です。
 Aさんの方も素粒子、電子等が動き回っていている変化です。

 AさんのAさん自身が獲得する最終結果は、「今、完全にリンゴが存在する。」です。

 りんごを完全な存在にしているのは、リンゴの実相たる変化を、Aさんの実相たる変化を使って、
 Aさんが、今の完全な存在としてリンゴを認識しているということですね。

 今を作っているのも、リンゴをリンゴとしているのも、完全に存在しているとすることも、
 AさんがAさんの変化を既に使ってやっていますね。

 AさんがAさんの変化を使うというのは、「時空間宇宙」の実相を使っていると言うことです。
 その時点で・・いうなれば、感覚的表現ですが「時空間宇宙」真の今は既に消費されているのです。
 これを消費した時点で、真の今は(この今は、ちょっとニュアンスがずれるかもしれません)もう
 無いのです。

 Aさんは、何をやっているのでしょう。Aさんは、記憶にリンゴのクオリアを格納して
 常に呼び出しているといういこともやっていて、これではじめて、「今、完全にリンゴが存在する。」
 となります。

 これは、変な話、リンゴから見れば、Aさんの非常に独特で個性的作業ですし、
 この時空間宇宙の変化を消費している以上、Aさんの「今、完全にリンゴが存在する。」は、時空間宇宙から遊離
 しています。

 以上のことは、どうということはないのですが、その完全に存在するとする認識が、
 リンゴの不完全性とAさんの不完全性から紡ぎ出されていて、非存在=霊に帰因してると見えるところ、そして、
 日常と社会性への飛翔がこのご質問の難しさだと思っているわけです。

この回答への補足

 bananasandさん ご説明をありがとうございます。

 そうですね。精確な認識を行なおうとしている とまでは  分かったのですが その中身が どういうことか まだ はっきりしません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 以上のことは、どうということはないのですが、その完全に存在するとする認識が、
 リンゴの不完全性とAさんの不完全性から紡ぎ出されていて、非存在=霊に帰因してると見えるところ、そして、
 日常と社会性への飛翔がこのご質問の難しさだと思っているわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 結語ですから 取り上げますが。
 (1) ★ 日常と社会性への飛翔
 ☆ とは どういうことか? いま・ここにいて 生活していることが 日常であり 一人でいるのでない限りで 社会性として すでに あると考えられるのですが いったい どういう厳密さを ねらっているのでしょうか? 《飛翔》という捉え方についてです。
 (2) ★ 非存在=霊に帰因してると見えるところ
 ☆ 《非存在=霊》は 初めの想定で 現われるもので 《超経験》であるからには それとして 《経験世界》と 関係しているという想定が 帰結されています。何かが この霊に《帰因している》というのは あくまで 虚構の中に捉えられる仮りの出来事です。そこから 問題が起きるというよりも はじめの想定から そういう出来事が 帰結しているという順序だと考えます。
 (3) ★ その完全に存在するとする認識が、/ リンゴの不完全性とAさんの不完全性から紡ぎ出されていて
 ☆ たぶん 認識じたいは 視認なら視認によって また 生物学の知識をとおして その果物の特徴が分かることによって すでに その《りんごは りんごであり それとして そこに ある》ことは 確定します。そのあと 《完全な認識》もしくは《完全に存在するとする認識》が どうして 必要なのか。どういう性格の認識として実現するのか。なんとも まだ 分かりません。
 (4) ★ 不完全性
 ☆ を なぜ そんなに 問題にするのかも 分かりません。有限で可変的で相対的な存在である人間にとって その存在とそのあり方が 完全ではないことは そもそもの初めからの認識事項です。
 でも 視認することができます。人間以外の生物また自然・現象は 人間の思考において 認識されます。人間にちなんで 存在ということも 言葉としては 使われます。それだけでは 足りないのですか? どうしてですか? それで 何も 不都合はないと思われますが?
 視認は 光速という変化をつかうというよりも 光の運動をとおしてであると思うのですが? 時空間宇宙という純粋変化を持ち出してくる意味が 分かりません。

 というような情況です。

補足日時:2008/10/06 15:45
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>時間が流れると感じるような変化もある。

両方がある でいいのではないでしょうか。

 ズレは、まさにここですね。

 時間が流れると感じるのは我々側ですね。変化には時間はありません。

 両方がある・・・・変化に時間はなく変化だけがある。人間は時間が流れると感じる。

 これらは 全く別のものです。

 変化を感じるには、人間が変化を使わないとそれができないのです。
 つまり、変化を感じるには、それ自体に時間を必要とする、時間を消費してしまっているのです。
 変化を感じるには、変化を使っているのです。

 我々は、時空宇宙の不完全性を、我々が時空間宇宙の不完全性を使って、
 完全なものに仕立て上げています。

 だからこそ、我々は、時空間宇宙から遊離しています。
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この回答へのお礼

 bananasandさん むつかしいです。

 単純にわたしは こう考えています。
 ★ 両方がある・・・・変化に時間はなく変化だけがある。人間は時間が流れると感じる。 // これらは 全く別のものです。
 ☆ これでよいと思うのですが。この二つの側面を まとめて 捉えている人間がいる。これで よくないですか?

 ★ 変化を感じるには、人間が変化を使わないとそれができないのです。
 ☆ 人間は 一方で 《時間が流れると感じる》。他方で 《時間はなく変化だけがある》ところの《光速移動体の気分としての〈変化〉》は それとして 捉えていれば 何も問題ないと思うのですが?
 この後者の《変化》を人間は 《感じ》なければいけないのですか? そのために 《〈変化〉を使わないと》いけないというのは なぜですか? どうして 光速移動体の気分を――つまり その推論し想像したものを―― 時間の世界に持って来なければならないのですか?
 なぜ
 ★ 完全なものに仕立て上げています。
 ☆ という事態になるのですか? そうする必要はあるのですか? すでに そうなっているのですか? 
 ★ だからこそ、我々は、時空間宇宙から遊離しています。
 ☆ という事態は その時間の変化の感受を 過剰におこなっているということではなかったのですか? でも 必要だということでしょうか? 

お礼日時:2008/10/06 13:51

bragelone様 お久しゅうございます。

もうお忘れかも知れませんがbonnnou03です。ご無沙汰しております。久々に思い立ちましたので投稿させて頂きます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

さて、総ては波がなせる業と思います。喩えば大海原を思い浮かべてみてください。ある時はのどかに凪ぎ、ある時は荒れ狂う大波。海水は潮流や風など無ければその場から移動せず、ただ波のエネルギーを伝播させる媒質であると聞きました。時折、様々なエネルギーの波(複合的な原因)が思いも因らぬ高さの波(フリーク波・結果)を生む訳です。強引と思いますが、我々の一人一人はこの「思いも因らぬ高さの波」のようなものであり、大海原は宇宙その物とお考え下さい。つまり、もともと我と宇宙は一体であり、(脳の理解を超える)気まぐれな波の相互作用(複合的な原因)の結果が個の我々であるかも知れないと…。波が立てばこの物質世界に現れ存在し、波が凪げば死を迎えるのです。

しかしその実、大海原は凪いでいても数々のエネルギー(波)を内在しています。寧ろ、その内在している大きなエネルギーがより本来の我々(大雑把に仮に「魂」や「霊」でよろしい)であり、生まれ出でた表層の波は肉体。経験や体験を伴って日々浮かび上がる想いは「泡」過ぎぬと…。我々の多くが飛沫や泡を「我」と思い込み呻吟の日々を過ごし、本当の「我」を知ることなくその波(人生)の終息を向えているのかも知れません。そして再び波(個の自分)は様々な波(原因)の折り重なりによりいづれ復活し消滅もするが大海原は無くなることは無い。その場所(個の自分の領域)は変わらずとも波によりその場所(個の自分の領域)は過去を記憶(とりあえず「過去世」)し生滅を繰り返す。…我々とはそのような者ではないか?と思います。復活もするし、本来不死であると。クドイですが総ての存在は波(波動)が成せる業と思う訳です。因果律により如何なる理不尽な事も総てです。と言いますか、このように考えれば宇宙の生業自体にドラマチックな意味無くなる訳ですが、これも一つの真理と思います。

因みに肉体が滅べば「脳」が無くなるので「思考」する事は無くなると思います。何が言いたいのかと言いますと、巷には目には見えないとされるものをの存在(魂や霊、亡者の意志の発露)を平気で見てきたかのように表現する輩が居りますが、私は「魂」や「霊」は能動的に意志を発信する事無いと思うのです。存在(とりあえず「魂」や「霊」)としての波動が肉体を持つ人の波動と干渉したときに、その肉体を持つ人の現世での過去からの体験に基づく考え方、想い方で色付けした「想念」が湧くだけのことと言う解釈を私は持つからです。…まぁ、ほとんど遊び話ですね(笑)。

自由な見解をとのことでしたので放言を述べさせて頂きました。申し訳ありませんが補足・解説をする気はありませんので素人の戯言としてお聞き流し下さい。bragelone様のご活躍を祈念しております。ありがとうございました。

この回答への補足

 bonnnou03さん こんにちは。しばらくです。ご投稿ありがとうございます。

 さて 直前のご回答への返答で 《霊そして霊にまつわるところの復活》にかんしては 《霊の想定じたいが まちがいである。この世界にあるのは 経験的な自然現象と社会行為関係だけである》という見解が わたしの中に思い浮かんだのでした。このbonnnou03さんのご回答をも先に読んでいたから そのような見解につながったのか もともと その可能性を覚えていた・覚えていたけれども これまで触れて来なかっただけだったのか よく分かりませんが
 よく分かりませんが いま分かっていることは 大局観だけを述べてくださったことと 補足要求が叶わないこととです。
 
 心の問題については わづかに 鬼籍にある人と生身の人との交流(?)として 最後のほうに取り上げておられるだけです。
 ★ 存在(とりあえず「魂」や「霊」)としての波動が肉体を持つ人の波動と干渉したときに、その肉体を持つ人の現世での過去からの体験に基づく考え方、想い方で色付けした「想念」が湧くだけのことと言う解釈を私は持つからです。
 ☆ この輪廻転生に けっきょく わたしは 手を焼くのですよね。菅原道真の霊が祟るという恐れを 現代の何の関係もない人が抱くとした場合 それは 道真がこうむった左遷などのいじめと同じようなことを 自分も 誰かに やってしまったから その良心の呵責からであろうと ふつうは 推測します。
 つまり アーラヤ識の種子のはたらきが有るかどうかを別にして そういう判断を下すはづです。それ以上のことは 判断を下しても 欄外のおまけであると見なすと思います。
 ★ その肉体を持つ人の現世での過去からの体験に基づく考え方、想い方で色付けした「想念」が湧く
 ☆ とは 上のような内容に解します。

 そうしますと 結局は 人間関係そして それぞれの個人が 主役に現われますし その人の覚り あるいは 浄福が いかにあるかに帰着すると考えます。
 人生は波である / 波乗りの理論は 雄大な視野を開いてくれて おもしろいし おおむね当てはまっているように思われます。思われるのですが ひとつ 物足りないのは 一人ひとりの人間ということだと思います。波は群がっているように見えるとき しかし 人は 孤独であると言った場合 これをどう扱うか。

 ★ 大海原は無くなることは無い。・・・我々は・・・復活もするし、本来不死であると。
 ☆ もしこれで 安堵し泰然自若したとしますと どうでしょう? この現世では運がわるかったが 次に生まれたときには いいめぐり合わせになるかも知れないよ ということになるでしょうか?
 つまり 波乗り理論ですと このサーファーたちは 一人ひとり 大海原にすべてを預けて 生きよということで基本ができたとすれば 社会ということは・つまりサンガとしての社会ということは どうなるでしょう? 苦をともにし 友となり 広く社会が 和解し合うというサンガ共同体・縁起共生は どうなるでしょう? 行き当たりばったりということにゆだねられるでしょうか?
 大局観なのだと思うのですが。つまり 究極の相対性理論だとも思うのですが 《〈勝義諦〉の指し示し理論》のごとく 言葉は要らないのだという大前提に立つ恰好ですし。大洋に雨が降り嵐がやって来ても 一人ひとりが 悠久の大海原を信じて ケ・セラ・セラの心で 《一隅を照らせ》ばよいの精神で 生きる。ということのようで 暗くないですか? ――無明から明知への転換!!!!です。と思いますが ほかのみなさんから見ると どうなのでしょう?

 この近日来は特に 《Q:われは 有る?ない? どちら》などの質疑応答を見直していたので ご投稿にて お久しぶりに接しても 特別おどろきはなかったようです。では いつかまた お会いする日まで。

補足日時:2008/10/06 10:33
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