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 健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。
 そこで持ち上がるのが 人生論です。
 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 
 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。

 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。
 1. すべてを 終わり=目的から 始める。
 2. では 終わりは どこにおくか。
 3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。
 4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。
 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。

 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。
 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。
 不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。
 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。
 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

A 回答 (71件中51~60件)

まず、霊の存在/非存在と我々の接点は、直接的にありません。


時空間宇宙を薄いカーテンとしてその向こう側に存在/非存在しています。
霊は、時空間宇宙の実相を通して二次的に直感する(この言い方も正確とは言えませんが)以外ありません。
霊は、物質的要素、エネルギー的要素、そして時間的要素のうち我々が時間として捉えている概念を一切含みません。
霊は精神的なものであってもいわゆる精神とは完全に異質です。

では、>非存在と見なすことまでは 同じでも その非存在は 文字どおり ゼロ(無)ですから

おそらくここが微妙にずれているから、有神論と無神論へと地滑りが起こるんですね。
我々から見て、確かに非存在は「無」です。しかし、あくまでも存在/非存在なのです。

この時空間宇宙の中でさえ、brageloneさんの時計は永遠に時を刻んでいるのに、私の時計は停止している
という空間が同時に(変な言い方ですが・・連続した空間の中に)存在しますね。
絵空事とは言えない現実です。果たして、どちらが真の永遠なのか・・・・

両者の違いは歴然としてますが、両者肯定は決してあやふやとは違います。
納得とは違うかもしれませんが、エネルギーを内在したまま、答えを獲得するのです。

>《虚構》と言うのは 無神論との橋渡しのためです。

承知しています。それは、片側の話で、未だ時空間宇宙内に留まるに必要なものですね。
でも突き詰めればここにも存在と非存在の狭間に炎が顔を出しますね。

>★☆ この今現在の世界が 復活であり 不死の境地であり 地獄・楽園をひっくるめて社会そのものだ。

後段の地獄・楽園をひっくるめて社会そのものではありますが、それ自体は復活であり 不死の境地であろうはずは
ありません。 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として
満たされ、かつ、それがシステムとても機能したときに 復活 が成立します。

また、出演者が主役であって舞台は舞台に過ぎません。
霊との間で、>接点を見ないということは 互いに 火花を飛ばすような展開もないということです。
いえいえ、霊との間に直接接点はありませんが、時空間宇宙の不完全性の原因としての位置づけがありますから、
言い換えると、霊との直接の接点がないからこそ、時空間宇宙の存在と いわば不完全性としての 非存在の
間で我々が炎の中に置かれることになるわけです。

幸不幸や成功と失敗、マイナス側の悩み、プラスの悩み・・いずれも個人それぞれの中に存在して当然です。
《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として満たされたとき、
各個人の不幸、失敗、マイナスな悩みが炎に焼かれそれが消え去るのでなくて、その不幸、失敗、悩みの本質であるところの
「生」を焼き尽くすということを基盤としての社会性が成り立つと思うんですね。それが現実としての、 生 の復活となるのではないでしょうか。

この回答への補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 行き違いがありました。前回 大股で歩いて はや 結論に達したかと思ったのですが 概念の用い方に 食い違いがありました。
 確認しつつ つまりむしろ初めに戻って確認しつつ まいりたいと思います。そして 最終的に 補足要求となりました。

 ★ 霊が 存在 / 非存在 である。
 ☆ そうではなくて わたしの場合は 人間という経験存在から見れば その存在世界を超えていると想定するのですから 《不在》として 霊を 捉えていたのでした。
 したがって 有神論――つまり 霊を神として抱く信仰――においては この不在のものが あたかも この経験世界に 現在するというのですから そこでは 人間という存在と 接点を持ち 信仰動態において 火花を散らすであろうと見たのでした。

 たしかに 
 ★ 霊は 同時に 存在でもあれば 非存在でもある。
 ☆ と規定できると思います。《存在》という一面に特化すれば 有神論ですし 《非存在》を全面的に採用すれば 無神論になるからです。というように 言ってみれば 便利な用法をもたらすひとつの定義だとも思います。思いますが どうでしょう。
 この規定にもとづいて 《存在 / 非存在》の両側面を ひとりの人が 合わせて 同時に 捉えると どうなるでしょう? じつは この《ある / ない》というのは あくまで 経験的な存在にかかわる概念です。逆に言えば 霊は この・ものごとを有るか無いかで判断するところの経験世界を超えています。
 超経験の領域に 経験的な概念である《ある / ない》という規定を 同時に 認めるということは この超経験を 経験理性が その頭脳の中に 取り込むことになるではないのでしょうか。
 そして そう言えば たしかに すでに
 ★★(ANo.19)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 前回表現した、”時空間宇宙の向こう側の精神的なもののみ”とか「霊」を解く鍵は、 / それが思考の範疇にはあるということですね。
  *
 いわば、永遠も、無限空間も、霊さえも思考の中にあるというわけです。
 しかし、我々自身が我々自身から見て時空間宇宙から遊離して成り立っている不可思議 / はあるにせよそれも脳細胞無くして成せる技ではありません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうにも 述べておられました。まさに
 ★ 霊さえも思考の中にあるというわけです。
 ☆ これですね。すなわち
 ★ ”時空間宇宙の向こう側の精神的なもののみ”
 ☆ という表現は 複雑であって 
 1. 霊は 超経験であり 人間の精神を超えている。
 2. その霊を 人間の精神は みづからの思考過程に取り込む。
 3. ゆえに 精神の中に入り込んだ霊は 《精神的なもの》として 現われている。
 ☆ というかたちで いくつかの局面から成り立っているのですね。

 ここで 一点 短所のように思われることは こうです。無神論との理論的な通底性を捉える上で 霊が このように 精神という経験世界に入り込んで来ているとすれば 無神論は もはや 成り立ち得ないと言っているに等しいと思われるのですが どうでしょう? 
 言いかえると 無神論は 霊が この世界にやって来るという考え方は いっさい しないのであり 受けつけないと思われるからです。
 不倶戴天の敵どうしだとなります。どちらか一方しか 真実ではないと言っていることにならないでしょうか?

 そして それは 霊に相い対して 人が それを《有り》として仮りに捉えるか それとも《無し》として もう放っておくか 二つに一つの信仰選択であるにもかかわらず 《有 / 無》の統合論を立てたところに帰因するのではないでしょうか? 包括的に 無神論を 取り込んだのが かえって 無神論との矛盾を露呈する結果になったのではないでしょうか?

 分かりませんが とりあえず このように 今回 捉えたかたちで 考えました。いかがでしょうか?

 * その他 すでに進展していたところは 一たん 保留になります。今回の結語としての
 ★ 不幸、失敗、悩みの本質であるところの / 「生」を焼き尽くすということを基盤としての社会性が成り立つと思うんですね。それが現実としての、 生 の復活となるのではないでしょうか。
 ☆ この鋭く追究した箇所も 一たん 保留とさせていただきます。
 ★ 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として満たされたとき、
 ☆ という条件に立つものですから。

補足日時:2008/10/03 22:38
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 ▲( コリント前書4:7)~~~~~~~~~~~~


 いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
 ◎はい、その通りと存じます。

 ★ 自己都合でなく、どこにでもいかれる、自由な人
 ☆ では 自分は ないから あまり 引っ張りださないで欲しいということでしょうか? 
 ◎私がそのような人ではありません、ということを、言うまでもなく、ということをもうしあげたのです。

 わたしは 自分で自分を引っ張り出す人になるのが 自慢をしない人だと思いますと お伝えしているだけですが。
 わたしも 同じく《もちろん自慢などできない、低俗きわまる、未熟そのものの者》ですと呼応し ああ芽出度しめでたしとなるのでしょうか? 潜在力がゼロであるとおっしゃるのであれば 別ですけれど。
 ◎あぁ仰せのことは少しも頭にも、気持ちにも動機にもどこにもありませんの。

 ★ 究極原理からの孤立も独立も、絶対にありえない。極く当然のお話として承りました。
 ☆ ということは 潜在力にかんしては 問うまい / 人が問うものではない / 問うてはいけない というおしえでも あるのでしょうか? つまり 認識だけをおこないなさいというおしえでも あるのでしょうか? それなら 別ですけれど。
 ◎そんなお話になるとは存じませんでした。そんなところに頭が働きません。潜在力って何なのでしょうね。認識だけを行いなさいとは、何がなんだかよくわかりません。
 いつものように、すみませんと引き下がります。全部削除してください。
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この回答へのお礼

 きょうは 応答で てんやわんやでした。

 それだからというわけではありませんが ここらへんで 休みましょうか。

 完全に分からないのは 最初のご応答です。
 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▲ ・・・もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
 ◎はい、その通りと存じます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 二つの解釈ができます。
 (1) はい その通りに 《もらっていないもののように誇る》ことをします。→《もっと 能力をください。もっと 欲しい》。
 (2) はい その通りに 《もう もらっていないもののように誇る》ことは しません。《いまもらっている持ち前の能力を生かして 自分も生き 社会の中で共生を目指します》。

 (2)のほうでしたら 《認識だけをおこなう》のではないと存じます。そういう意味ですが。

お礼日時:2008/10/03 16:13

前回表現した、”時空間宇宙の向こう側の精神的なもののみ”とか「霊」を解く鍵は、


それが思考の範疇にはあるということですね。

まずは・・霊は、この時空間宇宙の不完全性を強引にも補完しようとする精神作用の
発現でもあるし、時空間宇宙の非情な不可逆性からの避難所でもあるわけですが、
人間が空想した虚構で片付けることはできません。

時空間宇宙は、究極において、永遠と停止は同じもの。無限空間と一点は同じもの。
永遠に続く無限空間と完全に停止した極小点は同じものですね。

しかし、これでは足りないのです。完全にすぎます。こんなことでは、宇宙が走り出しません。
宇宙には不完全性が必須で、そうでなければ我々も存在し得ません。

それが故に、こういったことは全く含まれない=精神的なもののみを直感するわけですね。
重力、エネルギーにさえ、影響を受けない存在/非存在ですね。

走っているのは宇宙なのか我々なのかは、別にしても、
我々の思考も、そのものは時空間宇宙から遊離して=脳細胞から遊離して、
我々自身から見て、時空間を所有したり占有したりはしていないんですね。
そして、時間を作り出しているのも思考そのものとも言えますね。
いわば、永遠も、無限空間も、霊さえも思考の中にあるというわけです。
しかし、我々自身が我々自身から見て時空間宇宙から遊離して成り立っている不可思議
はあるにせよそれも脳細胞無くして成せる技ではありません。

そこで、元に戻りますが、物質、エネルギー、時間無くして精神/霊が成り立つか
という問いには、成り立つ根拠が全くない、それが故に、時空間宇宙から完全に遊離した
純粋な霊のみになるんですね。それは、存在とは言えず、非存在とも言えません。

時空間=エネルギーという時空間宇宙の肉体の存在にその肉体とは切り離された純粋な霊が宿っている
(存在しているのではない)と直感するんですね。
この霊は、時空間宇宙の物質、エネルギーでないが故にこれらから自由で、我々から見て、大きさも
形もなく、精神的であるにもかかわらず我々のような時間の概念がありません。

あれこれ、書いてしまいましたが、仮に、このような霊の存在/非存在の真偽とか虚構とかを、
メルヘンとして片づけたとしても、その直感のもとになっているのは、我々が知ってしまった時空間宇宙の
不完全性なのであって、霊は、その裏に厳然と影の如く存在/非存在しています。

 ☆ 《存在》と《非存在》とは 同時並行して 《込み》だと考えるといいかも知れないと思いました。
そうなんだと思います。相反する矛盾したものを両方とも同時に肯定するというある種の理解なんですね。
真理が すべてにおいて すべてである と時空間宇宙内で言い切ってしまうと逆にこの理解から半分が
外れてしまう不思議さがあります。

とまぁ、ここまではいいのですが、社会/理想社会には、確かにいぶかしげです。
楽園なのか、失楽園なのか・・・・ここには、  地獄より光に至る道は長く厳しい。 が、嵌るんですね。
イザヤ書がのみこめているかどうかは解りませんが、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここで、主を、存在/非存在の両者を同時に表現しているなら、現実の生の楽園を表現してますし、
物質的状況に変化のない社会的 復活 さえも象徴的に表しているようにもみえます。

思うに、《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える 立場が
共通意識として満たされるなら、現状の地獄も呑みこんでしまって、楽園も呑みこんで、
生きることとしての 《存在》と《非存在》の狭間に打ち震える炎で焼き尽くす 別の意味の楽園
が・・・理想としてではなく、当たり前のようにあるのかもしれません。

これは、個人ではなく、社会ですから、システムとしてそうでなければ成り立たないので、
そうであることが常識とか日常でなければならないということでしょうね。

理想社会と言うには、違和感が残るのですが・・・
その悩みというものの発生が永遠に止まるわけでも、みんなが必然的にハッピーになるとはいえない楽園だから
でしょうね。

この回答への補足

 ふううーむ。
 ★☆ この今現在の世界が 復活であり 不死の境地であり 地獄・楽園をひっくるめて社会そのものだ。
 ☆ とおっしゃっているでしょうか?

 まぁ 《永遠の現在》と言うわけですから そのご見解ににじり寄っていきましょうか。
 ということは いま現在の意志行為 これにあるということでしょうか? そのためにこそ 認識・知識がある。またその努力の 成功・失敗は 意志行為という人間関係つまり社会 としての基礎・土壌の上に 繰り広げられるのだから 問題ではない。あってよい。幸不幸も あって とうぜんだ。
 問題は 人間という《存在》が 何だか分からない《霊》なる《非存在》とのあいだに 火花を散らして繰り広げるその舞台である。まづは 舞台のほうである。そういう人間および社会の基礎構築である。あとは 自由に遊べ。生きよ。――それが 《復活》だ。《解脱》などしていなくとも よい。していようと していまいが 全部 織り交ぜて われらが社会だ。われらのための社会であり われらが生きる社会である。

 ひとつの確認と ひとつの希望があります。
 定義の確認です。精神は 思考や意志判断の能力として 神経細胞(身体)とともに成り立っており 経験的なものだと思います。霊は 経験を超えているという想定です。この霊と 精神が接点を持つと言えても 身体(感性)も 同じように 持つと言えるということでしょうから。精神と霊との区別を確認したいと思います。

 希望は 無神論との兼ね合いを 説明することです。
 霊を 非存在と見なすことまでは 同じでも その非存在は 文字どおり ゼロ(無)ですから われわれ人間の存在と 接するとは 捉えません。接点を見ないということは 互いに 火花を飛ばすような展開もないということです。
 かすかに 無神と言って それも 《なぞの何ものか》であって 〔かすかに〕それへの畏怖の念を持つかも知れませんが あとは 世界は 経験的な現象と行為のみであるとします。
 たしかに ブッディスムなら そこから あたかも《永遠の現在》なる境地を 描き出そうとしますし その修行もおこなうのだとは思いますが その思想との 比較対照は 未だしの感が しきりです。無神論たるブッディスムとの対話が 是が非でも 望まれるのではないでしょうか。

 * イスラームは よく分からず わたしの手に負えるものではありません。
 * もっとも ブッディスムも
 ★ 時空間=エネルギーという時空間宇宙の肉体の存在にその肉体とは切り離された純粋な霊が宿っている / (存在しているのではない)と直感するんですね。
 ☆ というところに 
 ● 仏性
 ☆ というものを 持ち出してはいるのですが。どうも これが うなぎを掴まえるようなもので なかなか 理解が定まりません。有神論そのものであるとさえ 認識すべきかも知れないにもかかわらず 依然として ブッディストは 沈黙もしくはのらりくらりを 繰り返しているのではないでしょうか。ブッダ葬送を掲げる所以です。
 
 * 《虚構》と言うのは 無神論との橋渡しのためです。

 大股で歩くご回答をいただきました。ありがとうございます。

補足日時:2008/10/03 15:49
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 ★ 輪廻転生


 ☆ は いちいち 反対しようとは思いません。~~
 ★krya1998:そうですね。想像をしても始まりません。

 そうおっしゃるなら わたしたちは 一人ひとり みな
 ★ ブラフミン
 ☆ です。イエスは 言いました。
 ★krya1998:イエスやそのほかの方についてはなんともいえませんが、私が創造界に究極意識(原理)の要求を達成するために来た、その原理も、創造界のどんなことも知っている人間とは思いません。
 そういう方はどこでどういうあり方を取るかは、自分の意志と意識で主体的に決められなければおかしいですものね。

 つまり イエスは われらが長子であり 友であるのですから わたしたちは みな ブラフミンであるとなります。その香りは ブラフミンであるでしょう。
 ★krya1998:ブラフミンをそういう意味のことばとするならば、その通りであります。創造をなさっている究極原理のなすところにより、誰しも、他律的に、しかも、究極原理から瞬時も刹那もわかれることなく存在している、そうであらざるを得ない。究極原理からの孤立も独立も、絶対にありえない。極く当然のお話として承りました。

 ★ そういう自己都合での誕生でなければ、どの世界にいようと同じですから
 ☆ どうして そのように自己を誇るのですか? 潜在力を余しているという自慢を どうして いつまで つづけるのですか?
 ★krya1998:私自身がどうして、そんなひとでありましょうか。
  自己都合でなく、どこにでもいかれる、自由な人はどの世界に居ても、好きだの、嫌悪だの、何だのはありませんね。そうでなければおかしいですね。ということです。
 私はもちろん自慢などできない、低俗きわまる、未熟そのものの者だということや言うまでもありません。断るまでもありません。
 言い訳ではありませんが。
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この回答へのお礼

 乗りかかった船です。生来のわが厚顔無恥が この出しゃばりを助けます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私はもちろん自慢などできない、低俗きわまる、未熟そのものの者だということや言うまでもありません。断るまでもありません。
 言い訳ではありませんが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ では 次の文章は どうお読みになりますか?
 ▲( コリント前書4:7)~~~~~~~~~~~~
 いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 自己都合でなく、どこにでもいかれる、自由な人
 ☆ では 自分は ないから あまり 引っ張りださないで欲しいということでしょうか? 

 わたしは 自分で自分を引っ張り出す人になるのが 自慢をしない人だと思いますと お伝えしているだけですが。
 わたしも 同じく《もちろん自慢などできない、低俗きわまる、未熟そのものの者》ですと呼応し ああ芽出度しめでたしとなるのでしょうか? 潜在力がゼロであるとおっしゃるのであれば 別ですけれど。

 ★ 究極原理からの孤立も独立も、絶対にありえない。極く当然のお話として承りました。
 ☆ ということは 潜在力にかんしては 問うまい / 人が問うものではない / 問うてはいけない というおしえでも あるのでしょうか? つまり 認識だけをおこないなさいというおしえでも あるのでしょうか? それなら 別ですけれど。

お礼日時:2008/10/03 14:53

 brageloneさん。


 たくさんの難しい、夫々の方々のご回答も読み、brageloneのまじめさから、ご対応されなくてはいけないのに、私のものまでにも、私宛の判りやすいことばのご返事を賜り、ありがとう御座います。

 ◎私自身はどうかもう一度繰り返さないでいいように、と願っていますが。
 これについては、単に又父母を持って、保護された育ちの時期を経たくないという気持ちです。そして少年、青年、壮年と、各時代はじぶんなりに最善の積りで生きたのですが、今考えると、波・風に翻弄されての過誤があまりい多いと振り返っています。今を将来振り返れば多分、同じように過誤が多いと思うかも知れません。
 そういう、同じ人生は繰り返したくない。
 そして不完全で、私の存在基盤の判断と原理で、まだ不完全だ、やり残しができていない、という真実の存在である奥の私がいうならば、また女性のおなかに入り、誕生するのでしょう。そのよに存じております。

 ◎意味があればいいのですが。そして残されていることがあれば仕方ないですよね。
 仮に漫然と生まれてくるのでなく、目的と使命、役割、意図と意志でうまれてくるなら、自由も、選択も、認識もあるから言いと存じます。
 ただ、もうこの次は、なんとなくでは、生まれてきたくない。
 ということです。
 ブラフミンはブラフマンを体認識している存在であると教えられていますが、まぁカーストの最上位ですね。これは世襲のではなく、人の本性の質を階級にした場合のことですが。この人たちは、二度生まれている人とも言われますが、本来、自己の原因や自己の動機やよくぼうだはなく、宇宙創造界の創造次元の目的と理由で生まれた人という意味だそうです。釈尊やイエスのことだそうです。
 そういう自己都合での誕生でなければ、どの世界にいようと同じですから、復活とか、再誕も有意義だと存じます。
 完全な、隅々にわたる意識を持っての存在であれば、可能ですね。
 自分の不完全や、今やらなければ成らない自分の義務などが遣り残しで、生まれてくる状況に出来るだけならないようにしたいと存じます。

 輪廻転生を信ずるかどうか、そうあらざるを得ないという、現在の認識ですが。

この回答への補足

 がらっぱちが えらそうにお応えします。
 ★ 輪廻転生
 ☆ は いちいち 反対しようとは思いません。その思想によって 弱気になっていたり あるいは その弱気が昂じて やぶれかぶれの強気に転じてしまったりしているところでは 批判をしていきたいと思います。現在の世界において 因果関係が分からないからと言って 安易に 前世や来世にまで 想像力をたくましくして 言い訳や言い逃がれをするべからんや?と。

 そうおっしゃるなら わたしたちは 一人ひとり みな
 ★ ブラフミン
 ☆ です。イエスは 言いました。

 ▲(ヨハネ福音15:1~)~~~~~~~~~~~
 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
  わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの場合 母と父とも もう五・六年 生きているようにと願ったのですが かなえられなかったので そのことは 白状しておきます。

 つまり イエスは われらが長子であり 友であるのですから わたしたちは みな ブラフミンであるとなります。その香りは ブラフミンであるでしょう。
 ★ そういう自己都合での誕生でなければ、どの世界にいようと同じですから
 ☆ どうして そのように自己を誇るのですか? 潜在力を余しているという自慢を どうして いつまで つづけるのですか?

 がらっぱちが えらそうにぶちました。

補足日時:2008/10/03 10:37
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またまたオコリザルです。


思索がさらに進んだので備忘録をかねて投稿させていただきます。
明快な逆説と受け取れるたとえ話。
一言でそれとわかる嘘。
こういったものの字面だけを眺めて言質を取ったつもりになる心象。
これが大霊界たる混乱に結びついているようです。
意味が二分される弊害とはこのように発生しているのではないかと思い至りました。
仮説です。

この回答への補足

 前回につづくものと思います。

 つまり じつは 今回のご回答は よく把握できていません。
 どう分からないかを述べます。

 ★ 大霊界たる混乱
 ☆ これは 最初の若い番号での質疑のやり取りで出て来たように もともと 死の受け容れを拒む・つまり 死をはっきりした事態としては捉えようとしない こういう態度から 派生して現われていることだと思うのですが。それでも 何か別の筋からの問題があるということでしょうか。あるいは 前回・前々回に継いで 第三の道のことでしょうか。

 ★ 意味が二分される
 ☆ のではないと思うのですが。つまり 信じる・信じないという二つの形を取る一つの《信仰》であるのですから 《意味》は 同じ一つだと思うのです。――つまり このことの証明・説明を 行なおうとして みなさんから知恵をお借りしたいという質問趣旨でもあります。

 たしかに そうですね。有神論か無神論かは 意味が二分されるのではなく そうではなく 生活態度が 二分されるのだと見ています。意味は どういう形態を取ろうと 人間性あるいは社会性 としては 同じ一つの類型にまとまる《信仰》なのだということですが。
 これでは 弱いですかね。弱いと見て 質問しているわけですが。ううん。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一言でそれとわかる嘘。
 こういったものの字面だけを眺めて言質を取ったつもりになる心象。
 これが大霊界たる混乱に結びついているようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いま 少し気づいたのですが これは わたしの言っている《信仰類型論》が はじめに虚構つまり《うそ》を出して来ているので その端(はな)から 人びとは 受けつけない・ばかにしている というようなことでしょうか? だから 信じる・信じないの二つの道ではなく 別の道があるはづだと 固く信じるようになる ということでしょうか? つまり
 ★ これが大霊界たる混乱に結びついているようです。
 ☆ なのでしょうか? ううん。

 つまり 人びとは 
 ○ 自然界の驚異や美しさ あるいは 人間の不思議 つまりこれらの《なぞ》に対して 何も 感じない
 ☆ といったところなのでしょうか?

 そして あらためてつけ加えるとすれば
 ○ 何に限らず 二者択一を迫られるということが いやだ
 ☆ というような事情でしょうか?

 みなさん どうなんでしょう?

補足日時:2008/10/03 06:25
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オコリザルです。


ごく個人的な悩みの相談です。

私は霊を否定も拒否もした覚えが無いです。
ただ信じる信じないの話ではないと認識しているのみです。
ところが高次元の霊体を名乗るセールスマンが大慌てで営業に来ます。
このあたりで歩み寄った話し合いをするいいきっかけがつかめないでいます。
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この回答へのお礼

 前回につづきます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私は霊を否定も拒否もした覚えが無いです。
 ただ信じる信じないの話ではないと認識しているのみです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに 問題は 前回(No.15)でわたしも応答しましたように
 ○ 有神論か無神論かの二者択一ではなくて 第三の立ち場が あるのではないか
 ☆ こういう問いかけであるようです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ところが高次元の霊体を名乗るセールスマンが大慌てで営業に来ます。
 このあたりで歩み寄った話し合いをするいいきっかけがつかめないでいます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては わたしも どういう事態であるのか まづ にわかには 分かりかねています。
 超経験の領域を 神あるいは無神として 信仰の問題に行きつくというかたちではなく そうではなく 第三の道のことを言おうとされているのでしょうか? 
 ★ 高次元の霊体を名乗るセールスマン
 ☆ これが 第三の道に当たるのでしょうか? 第五次元とか あるいは 第八次元まであるぞとか言って 異次元の世界を説くのは 同じ《霊》という言葉を使っているけれど 《信仰》の問題として 扱っているのではなく 無神論でさえなく 何か別の人間の取り得る態度を 示しているということでしょうか?

 おそらく それは かと言って 経験合理性にもとづこうとする経験科学の立ち場でもないのでしょう。
 《異言》ということばが 聖書には出て来ますが そういうたぐいのことなのでしょうか? でも それは 経験合理性で判別できない内容のことを言っているのですが あくまで 信仰から来るものであり 信仰として自己表現する一歩手前の《自動表出》のごとき表現です。有神論という道に含まれます。
 では どうなのでしょうか? 何なのでしょう?

 わたしは 《幸福の科学》を思い浮かべたのですが その中身をよく知らないので いま 何とも 答えられません。
 わたしも 保留です。

お礼日時:2008/10/03 05:58

オコリザルです。


今回も前進を図るための材料です。
人知の特徴について思い浮かべることがありました。
人知には無形のものを含めて創造する力が無い。
承認のみです。
貪欲に貪る姿の連想を呼びますが、記憶を強固にするために承認は不可欠です。
果たしてそれは必要かどうかには判断が及びません。

霊に関しては存在未確定を宣告した私の意見が及んでいまして、もはや作業仮説といって良いものかかなり突っ込んだとこまで言及していますが、霊の完全否定は弊害を呼ぶのを身をもって知って居ます。
この点は慎重にご判断ください。

この回答への補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 たしかに いま在るこの時空間 四次元の世界 そこに起こるすべての現象――これらを超えるということを 考えるのが まちがっているのかも知れません。
 ただし その超経験の領域は やはり 考えるのではなく ただ単に想定するだけだと思います。
 ★ 人知には無形のものを含めて創造する力が無い。
 ☆ というとおり この《神》の領域は 人間が 想像し作ったものでは ありません。《経験思考》が止まざるを得ないところ その《非思考》の領域を やはり 想定しているだけです。
 そこに起こっていることは 非思考――つまり 不可思議なるなぞ ですね―― これを 信仰と呼んでいるという
 ★ 承認のみです。

 ★ 果たしてそれは必要かどうかには判断が及びません。
 ☆ については 必要・不必要の二つに分かれると 見て来たわけです。すなわち
 ○ 《なぞ》の承認
 ☆ のあと つまりは そこに《非思考》なる《信仰》がありうると捉えたあと わざわざ 人は その信仰の対象を 神なら神と呼んだわけです。神とは何ぞやと訊かれても わからないので 《霊》と言いかえます。
 * つまり 《風》だとか 《息》だとかの意だそうです。漢語としては 《雨が等しく降るありさま・そのように恵み深い神の力》であるらしいです。《たま・たましい(魂)》は 《丸い玉》から来ていると言います。《玉が 美しい輝きを見せるそのさま》が あたかも 《〈なぞ〉の何ものかが きらっと その光りを見せた》と捉えたのでしょうか。(くわしくは おしえを乞います)。

 このとき
 ★ 霊に関しては存在未確定を宣告した / 霊の完全否定
 ☆ という意味が よく伝わって来ません。《想定》を否定しても 仕方がないはづです。
 ということは 上に提起されていた《信仰というおこないが 必要かどうか》にかかわるのでしょうか。すなわち 必要・不必要の二つに一つという在り方そのものを 否定するということなのでしょうか?

 つまり 《霊》についての《存在未確定 / 完全否定》というよりは その霊とわれわれ人との関係を想定することを 否定するということでしょうか? 信仰の必要・不必要 つまりは 有神論か無神論か この選択を迫るような世界の結構(かまえ) これが 気にくわないということでしょうか? 
 * これは 以前に テーラワーダ・ブッディスムの方が取ろうとした態度ですね。ただし その指導者である人は 《神は いない》と述べて 無神論に立つということを明らかにしていました。

 どうでしょう。《なぞ・霊・信仰》 これらの想定じたいを 避けるという立ち場は ありうるでしょうか。
 《存在未確定》は 態度の未決定を意味すると思います。信仰する・しないを まだ 決められないという状態ではないでしょうか。
 《完全否定》は 無神論の表明を意味するはづです。
 どうなんでしょう? 有神論か無神論かのいづれにも当てはまらない第三の立ち場は あるでしょうか? どうでしょう?
 この問いも 質問につけ加えさせていただきたいと思います。 

補足日時:2008/10/03 05:39
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オコリザルです。


今回のbrageloneさんは冴えまくっていて試行錯誤の要素がありません。
A5の魂についてのしどろもどろな私の意見に関しての補足です。
ヒントに出来れば幸いです。
A5の表現は魂と言うよりは「絆」に言及しています。
絆は自己の探求に及ぶ隠し球です。
肉体と精神の一致に考えが及ぶ場合生命力を運ぶ絆です。
霊にはどうやらこれが無いようです。
したがって生きる力の源は魂を頼ります。
心理学的には「自己の同一性」がキーワードです。

なんとなくですが、「私たちは生きている」この言葉が素直に共感を呼ぶ理想を思い浮かべました。

この回答への補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。
 わたしの分析は こうです。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 肉体と精神の一致に考えが及ぶ場合生命力を運ぶ絆です。
 霊にはどうやらこれが無いようです。
 したがって生きる力の源は魂を頼ります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 
 ○ 魂 = 肉(すなわち 身体=精神)
 〔* 魂=アニムス・アニマ → アニマル=動物〕
 ☆ というかたちの
 ★ 自己の同一性
 ☆ のことです。つまり 
 ★ 霊にはどうやらこれが無いようです。
 ☆ という類型における信仰 すなわち 無神論のことです。

 つまりは 他方で 有神論にあっては この
 ★ 絆
 ☆ が 《霊》との接点にあります。そういう信仰の類型であり形態であるのだと思います。
 どちらも 互いに対等です。

 つまり じつは 有神論においても 経験的な存在としての《わたし》の自己同一性は むろん 認識しますし 無神論においても じつに 《無神》として選択して捉えた《霊》との《絆》が 一たんは――この霊の領域との対面の瞬間において―― 結ばれかけたわけです。わづかに 結ばれた現実としては 経験世界の《わたし》という存在 つまり おっしゃるように《魂》であるわけです。

 《わたしがわたしである / わたしがわたしする》という自同律 これは 誰もが 持ちます。ここに そのまま 《絆》を結ぶのは 無神論の立ち場です。有神論では この経験世界を超えたところの《霊》というあたかも力と 絆を結ぶという虚構に立ちます。bananasand さんは 《非存在》という言葉を用いて それとわれわれ存在との関係具合いを取り上げています。

 無神論は 虚構を持ち出さないゆえ 現実に即しているとは言っても それはそれで 経験現実という可変性の世界に 絆を結ぼうというのですから きわめて その基盤は あやういという側面を持っていることになります。

 ともあれ どちらの類型においても
 ★ 「私たちは生きている」
 ☆ つまり 《縁起共生》でしょうか――あるいは《連帯》でしょうか―― これは おっしゃるように おおかたの共感を呼ぶと思います。
 ★ 自己の探求に及ぶ隠し球
 ☆ に 二つの互いに同等の類型があるということだと思います。
 つまり しかも この二つの類型は たがいに けんかをしているのではないでしょうか。現代においては かなり両者とも 近づいて来ているように聞いていますが その近づきと和解の 理論的な基礎 これを わたしたちは ここで 求めたいと思うのですが いかがでしょうか。

 * またまた 一方的に 躊躇なく しゃべってしまいました。あしからず お受け取りいただきますよう お願いいたします。

補足日時:2008/10/03 00:04
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人生論 現在の肉(身体=精神)


再生=復活あるいは不死の境地 真理が すべてにおいて すべてである
理想社会

これらは、視点が違うというか、まな板が別ですよね。
もちろん、関連性は強いのですが、共通して貫くことは非常に難しいですね。
交通整理ですか。考えさせられます。

我々は、存在と非存在の狭間に驚愕していて、始まりと終わりの区別が
つきません。始まっているかさえ証明できませんね。

でも、時空間宇宙の実相が完全に厚みのないものであることを直感します
ので、その向こう側は、なにか精神的なもののみであるようにも思えます。

物質、エネルギー、時間を必要としない精神的なものは存在しえるのか
ということになるのですが、結局、その非存在性と完全性こそが、我々を存在の
海の中に投げ込んでいるということになるのではないでしょうか。

真理が すべてにおいて すべてである のは、我々側ではない、
やはり、そちら側に安定して存在し、かつ、安定して非存在する
と言わざるを得ないのでしょうね。

またしても、両者肯定になってしまいました。

仮にこれを原点に置き、社会に共有する概念となるなら、
既にその状態が始まることもなく終わることもない
幸福でも不幸でもない生そのものとしての共通意識が
成り立つかもしれませんね。

そうでない視点から見た生の復活であり、解脱とか涅槃とは異なるでしょうけど、
不死の境地(死ぬことがないということでなく終わりがないということ)を
知る(垣間見る)永遠(瞬間)としての共通認識ではないでしょうか。

それでもなお、幸福であれ不幸であれ、その悩みなるものこそが我々が生と呼んでいるものである
ところに連帯というか、社会に対する当然の帰結が見えるんだと思います。

この回答への補足

 あぁ bananasandさん お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。

 ★ 再生=復活あるいは不死の境地 真理が すべてにおいて すべてである / 理想社会
 ☆ これらのつながりについては No.10補足欄とNo.11お礼欄をごらんください。物語つまり虚構ですが なにがしか うったえるものがあると思います。
 * ただし 《生まれ変わる》という考えが入るかどうか どうなのでしょう。入ると 微妙になりますが。つまり 前世・来世ということになると 分からなくなりますが。

 ★ 交通整理ですか。考えさせられます。
 ☆ ありがとうございます。自信がつきます。

 ★ 我々は、存在と非存在の狭間に驚愕していて・・・
 ☆ そのとおりだと思います。非存在つまり不在と言い変えますが この 《〈不在のもの〉の現在》ということをよく言います。

 ★ 時空間宇宙の実相が完全に厚みのないものであることを直感します / ので、その向こう側は、なにか精神的なもののみであるようにも思えます。
 ☆ No.7のCUE009さんへのお応え欄をごらんください。定義〔だけ〕の問題ですが 《向こう側》は 《霊》と呼びます。そして精神は 霊ではないというふうに げんみつに扱いたいと思いますが どうでしょう? よろしくどうぞ!!

 ★ 結局、その非存在性と完全性こそが、我々を存在の / 海の中に投げ込んでいるということになるのではないでしょうか。
 ☆ 《存在》と《非存在》とは 同時並行して 《込み》だと考えるといいかも知れないと思いました。(No.7お応え欄)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 真理が すべてにおいて すべてである のは、我々側ではない、
 やはり、そちら側に安定して存在し、かつ、安定して非存在する
 と言わざるを得ないのでしょうね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 《復活》のあとでは あたかもこの経験世界に実現すると 聖書は言おうとしているようです。
 ▲ (イザヤ書11:9)(→No.10お応え欄)~~~~
 わたしの聖なる山においては
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。 
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もっとも これは この世界のあらゆる自然現象および人為的かつ社会的な行為関係とその相互作用――つまり 縁起共生の関係――を人が 知るということと通じていることなのかも知れません。必ずしも虚構であるだけではありません。

 最後の結語の部分は すごいですね。もう再掲しませんが たぶん その基礎かつ基本命題を さらに中身を充実させつつ 展開していってくださるのではないでしょうか。
 人間どうしの中立的だが 基礎としての 関係。その土壌。
 ★ 幸福であれ不幸であれ・・・の連帯
 ☆ そこに 《不在なものの現在》が 垣間見られるかも知れません。そこまでいけば もう《解脱とか涅槃とか》とわざわざ言わなくても よいかも知れません。・・・よいはづです。

 《事件》が おかげさまで 進展しています。進展していきます。

補足日時:2008/10/02 22:22
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