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 健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。
 そこで持ち上がるのが 人生論です。
 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 
 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。

 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。
 1. すべてを 終わり=目的から 始める。
 2. では 終わりは どこにおくか。
 3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。
 4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。
 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。

 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。
 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。
 不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。
 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。
 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

A 回答 (71件中31~40件)

時空間宇宙の実相というやつがズレていたんですね。

とりあえずここだけ・・

>実相と言っても それは 日常の社会生活そのものだと考えるのですが?

「時空間宇宙」という表現をしていますが・・実は適切な表現がよく分からないです。スイマセン。
これを言うなら○○と言うべきだというのがあれば教えてください。

改めて言うことでもないのかもしれませんが、どう表現して良いか・・・
適切かどうかわかりませんが、極端を表現してみます。

「時空間宇宙」は、観察者によらない純粋な物理現象としての宇宙を指しています。
空間つまり距離とか長さというものは光の波長、伝搬速度からくるのですが、
光速移動体から見ると長さはありません。時間は停止しています。
時間が停止しているといういことは、何も無いと言うことに等しいですね。
その時間といっているものは、宇宙の不完全性=変化するということだけなのであって、
過去、未来は一切存在しておらず現在すらない・・・・。
宇宙には、人間が認識している時間も、空間も、無いのです。
時空間は、そのままエネルギーであって、変化そのものであって、安定化する方向へ変化し続けます。
極端には、物質も、重力も、「そのままエネルギー」の範疇であって、人間もその内部だからこそ
強い影響を受けているに他なりません。

一言で極端を言うと・・・変化だけがある・・・不完全性だけがある・・・ということです。

で、人間の驚異的能力といっているのは、この変化を巧みに捉えて、紡ぎ合わせて
時間と空間を作っていることです。
これが日常ですね。今という現在を今にしているのも我々でした。
生きるために獲得してきた能力が「時空間宇宙」をこのように個性的に把握するというです。
そして、この「時空間宇宙」の変化・不完全性がないとこの把握した存在が無くなるという関係になります。

>(c)実体をあらしめているのが我々だと言うことでしょうか。
と、いうことで、この実体というのが「時空間宇宙」側には無いということです。

反論は覚悟の上なんです。そんなわけはありませんね。「時空間宇宙」が無ければ
我々は存在しないのですから・・・・でも変化だけがある・・・不完全性しかない・・・

ということですね。
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この回答へのお礼

 bananasandさん。でしたら いわゆる客観としての《時空間宇宙》ということで それは ふつうの大自然であり宇宙のことですよね。
 ただ 光速度を問題にして捉えることも入っているわけですよね。

 経験世界は 《自然つまり第一次的な自然》と 《第二次の自然でもある社会現象》と この二つに区分して捉えれば よいのではないでしょうか。
 光速度を問題にするので 《時空間宇宙》という捉え方が出てくるのではないでしょうか。ただ 光速移動体は 想像や推論としてわれわれは 捉えるだけであって その光速移動体の視点に立って ものごとを認識する必要は ないのではないでしょうか。
 《変化だけがある》とともに 時間が流れると感じるような変化もある。両方がある でいいのではないでしょうか。その経験世界に われわれは 存在しているし 存在じたいが そういう経験動態である でいいのではないでしょうか。
 
 ただし この経験世界を超えたところ これをも 人間は 想定するというところから 問題が出て来ている。
 ふつうなら こんな想定など 要らないとなるでしょうね。つまり 無神論ですね。
 しかも ただし そういう場合でも 《無神論》あるいは《唯物論》という自己紹介をしているという事実も あります。そうでなければ  こう言うはづです。――《霊》などという領域を想定すること自体が まちがいである。霊が 《ある / ない / ある かつ ない / あるでもなく ないでもない》などと想定すること自体が まちがいである。霊という言葉を持ち出すこと自体が まちがっている。この世界は 経験世界のみなのだから そこを しっかりと認めたまえ。と。
 どうなんでしょう。自然など初めから与えられていたものごとを除けば あとは 人間の考えと行動とが あるのみだという思想の立ち場は どうなんでしょう?
 じつは ちょうど 次(No.42)に そのような内容のご回答をもらっています。ただし その方( bonnnou03さん)は すでにわたしは存じあげているのですが 心の領域をうんぬんされるわけですから どうなるでしょうか。また 進展があるかも知れません。
 このように保留したままですが 進むことにします。あらたに別のかたちで 《思案中》が継続します。

お礼日時:2008/10/06 06:26

オコリザルです。


A38.39について少し考えがまとまりました。
まづデーモン現象について自分なりの言葉に直します。
「狂犬病」です。
悪が内包するのみならず、現実にありうると中途半端に信じる人が悪の共感を求める現象です。
A1のコメントの話ですが。
その存在未確定は「悪」か「罪」か「欲」か?いずれも思い当たるフシのない私にはそれらの情念の霊化が起こります。
唯脳的還元現象としての霊化です。

今まで表現してきた地獄ならざる大霊界は不実(罪)の砦のようです。

この回答への補足

 primeapeさん No.38&39への返答のあと 翌る朝につづっています。

 今回 《デーモン現象》については おっしゃるとおりの内容もあると思いました。
 今まで捉えていた内容は 単純に 《意識の排泄》としてです。自分にとって嫌だ・要らないと思った思いは 怒りや軽蔑とともに あたかも うんこのように しかも 他人に向けて 排泄するのだと理解しています。
 ★ 悪が〔人間の心の中に〕内包〔され〕るのみならず、現実にありうると中途半端に信じる人が悪の共感を求める現象です。
 ☆ おれは たしかに悪いことを考えている だが おまえも そうだろう? 誰だって そうだろう? と言ってのように ただし これらの言葉を 情念を込めて電磁波としてのごとく 以心伝心させる。こういう場合ではないかと考えます。

 さて ほかの箇所については なかなか 理解が行き届きません。頭が回らない感じです。
 ★ 今まで表現してきた地獄ならざる大霊界は不実(罪)の砦のようです。
 ☆ たとえば 《死んでも 意識は 残り続ける》といったような単純な想像 これによって 死をあいまいにしておく。というような形の《大霊界》でしたら ふてくされによって 起こると No.1で わたしは 考えましたが それだと
 ★ 不実(罪)
 ☆ であるかどうか ですが どうですかねぇ。その心の中というのは 《それが ただ 死でも何でも それらを あいまいな形にしておきたいがために 現実を離れて 想像の世界をこしらえておくのだ》と 自分で 知っているのではないでしょうか? ひょっとして その場合 この人生じたいをも あいまいなものとしておきたいのかも知れません。
 人生において 何ごとも まともに相い対するようなことは 単純に 避けたいというのでしょうか。思考することは 避けたい。考えても 現実は どうにもならない。非現実の想像の中で 暮らしていたい。等々と。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 A1のコメントの話ですが。
 その存在未確定は「悪」か「罪」か「欲」か?いずれも思い当たるフシのない私にはそれらの情念の霊化が起こります。
 唯脳的還元現象としての霊化です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここが むつかしいです。単純に考えて こうなのでしょうか。上に述べた《ふてくされ》の実態が 《「悪」か「罪」か「欲」か?》 いづれであるにしても 《いずれも思い当たるフシのない私にはそれらの情念の霊化が起こります》というふうでしょうか?
 ★ 唯脳的還元現象としての霊化です。
 ☆ 《脳》のあり方自体が 一面として この《ふてくされ》の情念を生む構造になっているのだから その骨格だけとしての現象のかたちに還元して 把握しようとする。こうでしょうか?
 ううーん。脳は ふてくされを 無しで済ませるようになっていないでしょうか。

 今回 わたしのほうが 理解がまとまりません。課題を考えることともに 継続審議となります。

補足日時:2008/10/06 05:45
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オコリザルです。


日記風の雑談です。
ここ一日二日、人知をアイスクリームのように霊化することで霊体の承認の可能性を試していました。
この実験は完了して、結果は記憶されていますが、いつものように主観においては立ち会っただけ。
言葉に直すきっかけがつかめません。
私自身はひょっこりひょうたん島とまでこき下ろした人知が、実は「人痴」のワープロ変換ミスに過ぎないことを今回の過程で始めて実感したところです。
哲学において百戦錬磨のbrageloneさんに初めて人知を個人的に承認しえた私にアドバイスをお願いします。
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この回答へのお礼

 primeapeさん。
 そうですね。
 
 こう試考してみましょうか。つまり
 ○ 錯覚としての《霊》も ほんとうの霊との接点を成している。
 ☆ だとすれば
 ★ 人知をアイスクリームのように霊化することで霊体の承認の可能性を試していました。
 ☆ が 《復活》の問題として ありうるということになります。《人知》をより分けて その結晶化でもするかたちでしょうか そこで 霊との接点を成す要素を探り当てることができるか というふうに。
 ただし
 ★ 人痴
 ☆ であっては いけませんが。いや というよりも この《人痴》や《錯覚》であっても 霊との接点たりうるという試行でしたね。

 これは どうですかねぇ。
 結果次第ですね。どうも そういう感じを持ちます。

 ううーん。前回のご回答を承けて 課題をみつけようとしましたが まだ うまく行きません。もう一件 ご回答を得ています。

お礼日時:2008/10/05 23:53

オコリザルです。


A22のお礼で霊の存在が架空のものであることを忘れているとご指摘がありましたが、その通りです。
そんな奈落の底で思索しておりました。
問題点として「盲視」、脳には認知しえるが明白に存在しない事柄。
無意識の証言を借りることになりますが、これは実際にあります。
哲学的に今回のお題目を探求する上では「錯覚をいかに定義するか」の話となります。
心象表現の中から手探りして合意を導くことになるでしょう。

これまで話題にした「霊」に関しては存在未確定ではすまなくて盲視として認知しうる中、けして表ざたに出来ないその事象について空文を承知で論議することを試みた感じですね。

今後の方向性と課題に関してご指示をください。

この回答への補足

 primeapeさん。primeapeさんの現在 採っておられる立ち場は みづから選択された結果ですよね? いやいやながら選んだ結果でしょうか? まづ そういった情況の問題もあるかと思いましたが どうでしょう?

 ★ 盲視
 ☆ は たしかに軽々しく お払い箱に入れるのも どうかと思いなおしました。 
 ★★ (ANo.22) ~~~~~~~~~~~~~~
 霊体は感知可能であり無意識的には認識しうることを表しています。
心理学的「盲視」を了解すると無意識に例えなくてもいいのですが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こんな文脈で 出て来ていました。
 要するに わたしの言葉で表現すれば この質問の趣旨に沿ったかたちで
 ○ 神としての霊と 人との接点。つまり 人が霊に触れる機会になっている可能性がある。
 ☆ と考え直したからです。
 ですから
 ★ 「錯覚をいかに定義するか」の話となります。
 ☆ というように 《錯覚》一般を まづは扱いつつも その中から 霊に触れるという《復活》体験を 取り上げることは 大事だと たしかに 思います。そういう場合である可能性があります。
 ただ そういう体験であったなら いづれは そのことの自覚を みづからの中に 持つと思うのです。意識に上がってくると思います。
 逆に 意識に上がって来ていても それが 何の体験であるのかが つかみ切れないという場合もあるかも知れません。が この場合は あまりこだわらなくても よいように思います。必要ならば いつでも 自覚が生まれるのではないでしょうか。だからです。

 ★ 〔絶対としての霊ではなく そうではなく 夢の中の現実というような ちょっとした想像の世界に抱いた非現実 それを霊と言いかえただけの〕霊の存在が架空のものである〔という世界〕 / そんな奈落の底で思索しておりました。
 ☆ もし この《奈落の底》が この社会の現実であるとしたら それは それなりに 自己表現をするかも知れないですし その自己表現を 行き着くところまで 展開していくかも知れません。
 でも そうではないということを 誰でもなく 他ならぬそこでの住民じしんが いちばんよく知っているのではないでしょうか。知っているけれども どうにも出来ないのでしょうか? 
 ★ 空文を承知で〔論議することを試みた感じですね〕
 ☆ だと思うのです。どうにか しようとしないで 自己弁護するのは 《空文》であり そのこと《を承知》なのだと思います。
 だとすれば おのづから 方向は決まると考えます。
 課題は 次のご回答にて 考えます。

補足日時:2008/10/05 23:37
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おそらく前々回からのズレを引きずっていますね。



存在を時空間宇宙とし非存在を霊としてましたが、

霊の《存在かつ非存在》、有神論、無神論へ移行したように思います。

ちょっと後戻りしますが、

存在を選ぶとその存在理由が存在せず、
非存在を選ぶと時空間宇宙が存在しない。

存在を選ぶというのは、有神論で、それでは、存在理由を説明できないとするのが無神論ですね。
非存在を選ぶというのは、無神論で、それでは、時空間宇宙が存在しないとするのが有神論ですね。

ここで、無神論において、時空間宇宙という存在においても存在理由を説明できない事態になり、
存在が純粋な存在だけでは成立し得ないことが解ったわけですね。
有神論においては、霊の存在自体の証明をすることができず、その形態が人間の精神との類似性が否定される。

(どうでしょうか唯物論が否定され、人格的神の存在は否定されたというところでしょうか。)

そんな状況で、時空間宇宙の実相自体が《存在かつ非存在》の様相を呈してますから、
霊も《存在かつ非存在》に帰結してしまうんですね。

最初の 存在を時空間宇宙 とし 非存在(←時空間宇宙の不完全性の根元)をとしてまして、
存在も存在し、非存在も存在するから、時空間宇宙も存在かつ非存在し、非存在(霊)も存在かつ非存在
するとなってしまいました。


>一般に現代人が
>★ わたしはわたしを見失ってはおらず、むしろ過信しすぎているのでしょう。
>☆ これは 問題ないでしょう。共通認識ですね。
>★  父と子と聖霊は、互いに直交し合ってその交点が我々なのでしょうけど、知解のベクトルがわたしにしか向いていない状態 / なのだと思います。
>☆ わからへん。どういうこっちゃ?

No25 の 15.で、
>聖霊が 意志もしくは愛に喩えられるのは より一層ふさわしい。明・暖であるゆえ。
>そのつてでは 子は 知解であり 父は 記憶である。

と定義されていたので、馬乗りしました。

時間でソートされた記憶の軸と知解の能力軸で構成される知能の平面に、意思を直交させて
貫いているところが人間であって、知解が如何なることを理解しても、理解の方向は<わたし>にしか
向かっていないということです。


>★ 霊が時空間宇宙を含んでいるのは、時空間宇宙の不完全性に霊が帰因するからで、・・
>☆ これは 相対性の世界に生きる有限の人生と能力とを持つ人間にとって その世界を超える領域を わざわざ 想定するという事態のことを言っているはづです。

 そもそも 時空間宇宙の不完全性の根元 非存在/霊としているので、人生の不完全性とは関係がありません。

>《人間は 神なる霊に包まれており その霊を宿すとさえ考えられるのに この霊に逆らって行動する。
>そのような自由意志をも授かっている》。つまり ここで
>★ 独立
>☆ とあるのは そのような 自由意志による・結局は自己に対する背反や反逆のことでしょうか。

 真に、霊に逆らい得る自由意思を持っているのかは、知りようがありません。否定はしてませんよ。
 自らが自由意思を持って選択していると自覚しているまたは思い込んでいることが遊離した存在だとしています。

この回答への補足

 bananasandさん 今回も前回に劣らず 理解が行き届きません。最後の段落は 分かりやすいです。

 前々回から 質問を提出します。文に記号を付しています。
 ★★ (ANo.27)~~~~~~~~~~~~~~~
>(3-1) ★ 時空間宇宙の《日常》と《実相》との違い
 ☆(3-1)について:同一の現象を二人の人が 違って観測した場合。観測の地点や情況やあるいは主観の違いによって 異なりうる。――このこと自体は 超経験と かかわらない。

 ここが、最初にANo.12で記載したとおり、ご質問の一番難しいところです。
 (A) (a)社会性は日常性の上に成り立っていますから、(b)時空間宇宙の実相を改めて日常が完全に取り込む必要があります。
 (B) 日常を作り出しているのは、我々であって、時空間宇宙ではないということですね。
 (C) 当然、時空間宇宙なしには日常は成り立ちませんし、日常の全ては時空間宇宙に包含されてますよ。
 (D) しかし、端的に言うと日常を日常たらしめているのは我々自身ということですね。。
 (E)(a) 時空間宇宙の実相を取り込むというのは、(b)時空間宇宙には実体がないということであって、
 (c)実体をあらしめているのが我々だと言うことでしょうか。
 (F) 今の常識的日常という視点で見た時間と空間は、時空間宇宙の実相とはかけ離れた人間知性に都合の良いいわば解釈である
 ということです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ (あ) 《時空間宇宙 / その実相》について 概念把握があいまいだったかと思います。その理解を求めて 進めます。
 (い) (D)は 経験現実として そのとおりですね。
 (う) そう受け取って (B)を読むと どうなるか。わたしが理解していたことにもとづくなら こうなります。
 (B-1) 日常を生き 日常を作り出しているのは 我々人間であって その社会日常に 自然界の動きをつけ合わせれば その全体世界が 時空間宇宙である。
 ☆ となります。(B)は そうではないですよね?
 (え) 同じように(C)を読むと こうなります。
 (C-1) 時空間宇宙の中の人間の社会生活が 日常世界である。〔(Aーa) 社会性は日常性の上に成り立っています。〕 日常の社会生活が 時空間宇宙を構成している。

 (お) 次の文意が分かりません。
 ★ (A-b)時空間宇宙の実相を改めて日常が完全に取り込む必要があります。
 ☆ 時空間宇宙に《実相》が 果たしてあるのか?から 問題になるように思ってしまいます。実相と言っても それは 日常の社会生活そのものだと考えるのですが?
 (か) 従って (E-a)が その文じたいが わかりにくいです。そして(E-b)では 今度は 《実体》が出て来ます。これも 捉えにくいです。(E-c)では この《実体》というのは 日常生活の事実・実態・現実のことでしょうか?
 (き) 以上をまとめて (F)の意味が取りにくいです。そもそも わたしの場合 はじめの定義として
 ○ 経験世界が 時空間宇宙で 超経験の領域が 霊である。
 ☆ という理解ですが どう違いますか?

 (く) また 定義の関連で
 ○ 超経験の霊の領域が 神と呼ばれる。
 ○ この神は 三つの位格を持つという説明がなされる。
 ○ その父・子・聖霊の三つは しかしながら 神であり霊であるのだから 基本的には 人間や経験世界を超えている。
 ○ そのあと 霊と人間との接点が 想定されてくる。
 ☆ こういった仮構だと思います。

 わたしのほうは こういった情況にあります。

補足日時:2008/10/05 23:00
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沈黙・無記なる勝義諦は、なぜ沈黙・無記なのかについて、例示してみますね。



「現在」を記述しようとすると、それは必ず過去のできごとになっています。つまり、現在は絶対に記述できません。勝義諦は、現在と同じです。記述できないけれども、在らねばならないと想定される概念のことです。それだけです。永遠の現在も、在らねばならないと想定される概念ですが、具体的に実体的に記述できません。これが、無為の世界というものです。有為の世界と全く違っています。

勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。以前にもそのように僕も書きました。ただ、在らねばならないと想定されるという意味です。具体的なイメージではないのです。イメージ化するとたとえ話や虚構になるでしょう。そのような表現上の工夫は、創作物として充分楽しめますし、感心したりもしています。現実と虚構の関係を考察し、探究する中で、見極めて行きたいと思っています。

復活は、虚構としてならば、支持できます。そんなふうに今は思うのです。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ 勝義諦
 ☆ は けっきょく 《真理》のことでしょう? 経験を超え 相対性の世界を超えた《絶対》であり 有神論では 《霊・神》と呼ぶ領域のことではないのでしょうか?
 一説では わたしは そういういわゆる実体ではなく そうではなく 世界を《縁起説=空観》のもとに見ているその視点(しかも 動態)のことだと思っていました。たぶん 両方の説があるのだと思います。
 つまり qsxdrfvgyhさんには では
 ○ 仏性
 ☆ は この《勝義諦=無為=真理=絶対》のことですか?とお訊きしたいと思います。
 
 ★ 勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。
 ☆ でしたら もはや われわれの間の違いは (a)《勝義諦=無為》を それについては沈黙すべきなのだが 沈黙すべきことを分からせるために 沈黙せずに 言葉を使って 指し示すことを行なうか
 それとも (b) 《真理=神=霊》について 言葉で 虚構ないし物語のかたちにして 説明表現するか これだけだと思います。
 《指し示す》とほとんど同じ行為なのです。的確には 《代理表現》とわたしは呼んでいます。
 ★ イメージ化するとたとえ話や虚構になるでしょう。
 ☆ というよりも (b)のように あくまで《言葉を用いて説明する》という手段を採った場合 その時点で すべては 表現の問題になっています。なりきっています。全体が 仮構・虚構・おとぎ話です。

 ★ 復活は、虚構としてならば、支持できます。そんなふうに今は思うのです。
 ☆ これには 二つの側面があります。《復活》は 《神》そのもののことではなく 従って その虚構そのものとして扱うものではなく そうではなく その霊(=風・息)の息吹きが わが生命と存在の全体に吹きかけられて 満ち満ちている状態であろうと思われます。
 つまりは これは 《虚構において説明しているところの神》だけの問題ではなく その神と人間との関係の問題だからです。つまり 虚構を抱く人間の心の志向性つまり《信仰》行為は 現実であるからです。信仰は 生活におさまっていますから。
 ですが ひょっとしたら 信仰の対象(じつは 非思考ゆえ 非対象)は 勝義諦のことであるということになりそうなのですが。

お礼日時:2008/10/05 22:07

 ★ とも言っておられます。

両側面があるということになりますでしょうか。そして そのことは 最後の結論の箇所でのご趣旨に通じているようです。
☆fractalもDrosteも、允に取り留めない世界ですよね。あぁ私の中の解釈ですが。これにいくら関与しても仕方ない、非生産的であると存じます。
 simulacraは創造の原理・仕方で、下降のことですから、自分たちも、じぶんたちのsimulacraに精をだしていたら、いつまでも勝手な世界しか現出しないと存じます。
 そういうマヤカシの仕方から、どう逃れるかが、私の課題です。
 どうかbrageloneさんの明晰な精神でお教えやヒントをいつかご頂戴できれば、幸甚です。

 もう引用しませんが 最後の段落のすべてが 《縦・横の相似関係》を含みつつ 必ずしも ただちに《縦の simulacra 動態》に打って出るというものでもないと おっしゃっているようです。
☆自分の今継続している行の精進と勉強、そして生活の結果がそういうものになるのかもしれません。

 Drosteやfractal現象を 取り押さえて 片づけたあと 対処するということなのか。あるいは その片付けの作業じたいが すでに 縦のsimulacra 動態であると 理論づけされようとするのか。
☆私は、自分の行と勉強を、そして生活をしていくことしか考えられませんので。理論に頼らないということでして。

この回答への補足

 ★ 理論に頼らないということでして。
 ☆ わかりました。
 次は 思いつくままに 引こうと思った箇所です。

 ▲ (創世記1:1~2:4)~~~~~~~~~~~
 初めに、神は天地を創造された。
 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
 夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第二の日である。

 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第三の日である。

 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第四の日である。

 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第五の日である。

 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 天地万物は完成された。
 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

 これが天地創造の由来である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この simulacra で 注目するのは 繰り返し出てくるところの
 ▲ 夕べがあり、朝があった。第○の日である。
 ☆ という箇所です。まづ 当時かれらの間では 夕べから 一日が始まるということで 《夕べがあり 朝があった》という順序での表現になるようです。これは 別とします。
 けれども 《夕べがあり》のあとは じつは 《夜になり》という言葉は ないのです。あたかも きみは《夜へは渡されることなく》 翌る朝を迎えると言っているかのようです。第一日から第六日まで すべて このようです。
 これだけの問題です。そういう simulacrum です。

補足日時:2008/10/05 18:34
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> わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行ない、


> その業を成し遂げることである。
確かに、御伽話もまんざら捨てたものでもない、それどころか
もっときちんと接した方がイイのかも知れないと思いました。
> なかなか 経験思想の範囲内で 哲学として 述べるには むつかしいようです
そうですね。
私の霊は何かを感じたようですが、肉はどう振舞えばいいか分からないようです。
とりあえず、どういう訳か以下の着想を得ました。
> 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても
> 退屈であるのではないか。
ここでいう「千年あるいは五百年」は肉にとっての時間(タイムスケール)ですよね?
霊におけるタイムスケールを、肉のそれで計るのはむしろ不自然ではないでしょうか。
(現代人はアインシュタイン以降の世代なのですから。)

五次元の物体の運動は
我々には四次元での断面(軌跡)としてしか捉えることが出来ないと聞きます。
神や霊を経験思想(人間の理解)から解釈(相似として考える)するのは
ユークリッド幾何学しか知らない者(それを絶対と学んだ者)が
非ユークリッド幾何学を解くようなものではないか?
根本的に間違っているんじゃないか?と
ときどき疑問に思うのです。

霊の時間が肉と同じように連続して一定に流れるとする必然性は
ないのではないでしょうか?
霊の時間は不連続で可変(もしくは相対的)なのかも知れません。

現代人が約80年という寿命に苦しむのは
(それが医学的進歩で150年に延びようと)
古代インド人が輪廻というタイムスケールに束縛されて苦しんだのと
同じようなことではないでしょうか。
仏陀が輪廻から解かれたというのは
現代人が時間的な呪縛から逃れるようなことだとは考えられないでしょうか。

例えば、一期一会とは
瞬間を永遠化することだと考えることは出来ないでしょうか。
無我夢中で「今このとき」に集中できたとき
私は永遠の中に居たのかと思うことがあります。
(するってぇと何かい? 我に返ることが復活かい?)

この回答への補足

 CUE009さん。長考一番 やってくれますね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここでいう「千年あるいは五百年」は肉にとっての時間(タイムスケール)ですよね?
 霊におけるタイムスケールを、肉のそれで計るのはむしろ不自然ではないでしょうか。
 (現代人はアインシュタイン以降の世代なのですから。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そう来ますか。またも 一本取られたようですね。たしかに 神にとっては 千年が一日だとも言います。このように 記憶の中から思い出すことは 一人前であるようです。
 ▲ (詩篇90:1~12) ~~~~~~~~~~~~
 主よ、あなたは世々われらのすみかで いらせられる。
 山がまだ生まれず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。
 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。

 あなたの目の前には千年も 過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。

 あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたに萌え出る青草のようです。
 あしたに萌え出て、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。
 われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。
 あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。
 われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。
 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
 だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れにしたがって あなたの憤りを知るでしょうか。

 われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
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 ☆ だけれども あなたの文章には この詩編の思索も 負けるかも知れません。もう引きませんが かがやかしいともしびです。(光は 神の側にとっておくことにして ともし火です)。
 ★ 霊の時間が肉と同じように連続して一定に流れるとする必然性は / ないのではないでしょうか?

 ☆ 弁明をひとつ します。
 ★ 神や霊を経験思想(人間の理解)から解釈(相似として考える)するのは
 ☆ これは あくまで 《超絶》を大前提とし 《はなはだ不類似ながら》という前提のもとに 仮りの・代理の表現をも与えようとすることです。でも 《すべてを伝えたから これからは 〈友〉と呼ぶ》という表現をも得ていますから 引っ込み思案でなくても よいかと思います。

 最後の段落は その最終の一行に つっこみが入っているように やや 美化し過ぎる動きであるかも知れないと思いました。
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 例えば、一期一会とは
 瞬間を永遠化することだと考えることは出来ないでしょうか。
 無我夢中で「今このとき」に集中できたとき
 私は永遠の中に居たのかと思うことがあります。
 (するってぇと何かい? 我に返ることが復活かい?)
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 ☆ 別の極端を出しますと こうです。《一度会ったことは 一度会ったことだ。二度目は 二度目だ》というように 究極の相対性によって 捉えるのも ひょっとすると 復活にかかわっているかも知れないのではないか?と。
 (するってぇと何かい? 一切がどうでもよいことが復活かい?)

補足日時:2008/10/05 17:33
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未来は、可能性と関連した想定概念で、隔絶していることを理解していただけたようで、回答した甲斐が有りました。

しかし、永遠の現在と復活には、こだわり・思い入れがあるようですね。僕は、これらの虚構を必要としていませんので、どこまでも平行線です。

ただ、「永遠」は、有為の世界・相対領域に馴染まないことを指摘しておきましょう。これは、絶対領域に馴染むように思います。ですから、絶対領域が相転換した、無為の世界には馴染むと考えます。そして、無為の世界こそ、現在だと僕は想定していますので、永遠の現在は言葉の組み合わせとしては正しいと思いますが、有為の世界・相対領域の現実世界の裏でのたとえ話なのです。沈黙・無記の勝義諦に属すので、この世では語ってはいけない用法だと思うのです。ここは前回からの続きになります。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん。有神論と無神論とは 互いに 同じ信仰類型における二つの形態であると ここでは 見てきました。qsxdrfvgyhさんは 無神論 わたしは 有神論という意味です。
 ★ しかし、永遠の現在と復活には、こだわり・思い入れがあるようですね。僕は、これらの虚構を必要としていませんので、どこまでも平行線です。
 ☆ その《平行線》のあり方が 同一の類型の中の二つの形態であると言おうとしています。すなわち
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 ・・・無為の世界こそ、現在だと僕は想定していますので、永遠の現在は言葉の組み合わせとしては正しいと思いますが、有為の世界・相対領域の現実世界の裏でのたとえ話なのです。沈黙・無記の勝義諦に属すので、この世では語ってはいけない用法だと思うのです。
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 ☆ 《無為》は それ自体が《世界》であるのではないと理解していました。あるいは 有為を超えた絶対的なものであるのでもなく 有為の世界を それは 一切が 縁起関係として成り立っていると見るその見方 すなわち 《空》観というその動態のことだと理解していました。
 もし《無為の世界》を想定するのであれば それは 《神・霊》と同じ意味です。しかもそのとき この有神論者は 《有》とするからには それについて 《沈黙》し得ず《無記》とし得ず いろんなかたちで 物語を与えて来たというわけです。
 ですから 《この経験世界を超えたなぞの領域》について 《ある》とするか《ない》とするか その二者択一の選択によって わたしたちは 分かれているのだと考えます。《ない》という判断も それは 経験思考なのではなく 非思考での選択であり 大きくは 信仰だという所以です。そのあとは 神ないし無神のことを 自由に正当にも 放っておくという意味です。 

 ちなみに bonbonnier さんという方の見方として わたしは 自分の質問で 次のように学びました。もちろん qsxdrfvgyhさんとは 互いに独立したご見解です。そこでは 《有神論》のごとく 神を擬人法において物語の中に表現するのではなく さりとて 単に《沈黙・無記》とするのでもなく 《指し示す》という理論が唱えられています。
 ◆(《QNo.3454478 :《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教) =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html》のANo.43)~~~
 勝義諦の真理としての「不死の境地」に対しては、言葉というものは、それを指し示すことしかできません。しかし、言葉により指示しないのであれば、勝義諦の真理そのものを衆生に伝えることができないのも事実です。
 私たち凡夫は言葉の指し示すものに実体があると思い込んでそこに執着します。ゆえに聖者は、涅槃の境地の上から、仮名としての言葉を自由自在に操って、衆生を不生不滅の戯論寂滅の境地に導こうとします。
 私たちが、その教え通り実践し、戯論寂滅の境地に到達したとするならば、そこではじめてこころの奥底にある一切の言葉生成作用、言語による分別意識が止滅します。言葉とは、この言葉の否定に導くために仮設されたものであったことが、はじめてそこで明らかになるわけです。ここを『大乗起信論』は「言に拠りて言を遣る」と表現しています。
 仏の説いた経というものは、勝義諦の真理としての戯論寂滅の境地を直接に表現するものでは決してありませんが、これを仏の教えとしての真実の言葉として信じることにより、逆説的に、言葉そのものが言葉が否定される境地に導くものであるということを知ることになります。『言に拠りて言を遣るを謂うのみ』とは仏の金言としての言葉の有効性を説いたものです。
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 ☆ いづれも 大きく信仰類型において それぞれの位置を持つと思います。次のようにも おっしゃっています。
 ◆(同上の質問のANo.47)~~~~~~~~~~~~
 不死の境地というのは解脱(成仏)の境地ですので、自分の仏教徒の立場からいわせていただければ、何生かかるかはわかりませんが実現できる境地であると私は信じています。・・・
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 ☆ (a)《無記》とし《沈黙》し 《語ってはいけない》と捉える立ち場と (b)《沈黙》すべきであることを 沈黙せずに言葉を用いて指し示すとする立ち場と (c)《無記》ゆえに 《たとえ話》によって あるいはまた《偶像》をとおして おろかにも あたかも言葉を尽くして 指し示そうとする立ち場とです。

補足日時:2008/10/05 16:54
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 brageloneさんはお休み宣言をした後も、なかなか働き者ですね。


 simulacraは想像の意識が自分を見ている対象客体の中に見つめ、孕ませる仕方を、私は表現するために使いました。だから離れた垂直ですね。
 Drosteはそうして生じてきた個人たるものが、論理や想像などで、或いは反省したりする、確証をたよりに自己を自分の奥へ奥へと求めていく、やるせないやりかたと、そのいつまでも同じに続く道を指しています。
 fractalは同じ事がいつまでも、とりとめなく、飽きもせずに繰り返されている、この創造の地上のやりかたについて表現する、私のことばです。

 横の相似関係を指摘しておられました。悪くいえば 互いに同じ穴の狢じゃないかという水平的な視点と視線関係のことです。
 ☆そうかもしれません。

 ★ ここを出る〔には光をさかのぼらないといけません。〕それはものの道理を飛び越えるということで
 ☆このとびこえは、もう確証を頼りにすることが許されないので、多くの偉大なご回答者様に、蹴飛ばされるかもしれない、非か超かの論理や確証のない道のりです。
 不合理なるが故に、・・・でしょうか。信仰ではありませんが。
 別の認識の仕方がどうもあるのでしょうね。そうなってしまうという。
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この回答へのお礼

 たしかに問題を放り出すのは かえって しんどくなりますね。
 考えて分からない場合にも 寝かしておくのであって 放り投げることではないでしょうから。

 でも しかし 今回は 非常に 複雑になってまいりました。
 と言うよりも 前回において わたしが そこまで 奥行きの深さを知らずに 解釈したのが 原因だったようです。

 こうなると文字通り 休憩になるのかも知れません。期限を切らずに 寝かしておいて 芽の出るのを待つ というところでしょうか。

 ★ Droste / fractal
 ☆ は 心理の動き 心理的な人間関係が からんでいるようには 捉えますが にわかには 理解に達しないでしょう。
 ★ simulacra
 ☆ は そうしますと ほぼ前回にわたしの述べたところと 同じ内容だと思われてきます。つまり ひとことでは 《生きる》という現在の動態です。
 ただし
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 ☆☆ 横の相似関係を指摘しておられました。悪くいえば 互いに同じ穴の狢じゃないかという水平的な視点と視線関係のことです。
 ★ そうかもしれません。
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 ☆ とも言っておられます。両側面があるということになりますでしょうか。そして そのことは 最後の結論の箇所でのご趣旨に通じているようです。
 もう引用しませんが 最後の段落のすべてが 《縦・横の相似関係》を含みつつ 必ずしも ただちに《縦の simulacra 動態》に打って出るというものでもないと おっしゃっているようです。

 Drosteやfractal現象を 取り押さえて 片づけたあと 対処するということなのか。あるいは その片付けの作業じたいが すでに 縦のsimulacra 動態であると 理論づけされようとするのか。

 * 復活ということをめぐって そのような理論を用意されているようでしたら ひきつづき ご投稿をください。

お礼日時:2008/10/05 15:37

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