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 健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。
 そこで持ち上がるのが 人生論です。
 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 
 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。

 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。
 1. すべてを 終わり=目的から 始める。
 2. では 終わりは どこにおくか。
 3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。
 4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。
 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。

 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。
 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。
 不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。
 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。
 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

A 回答 (71件中41~50件)

復活とは、死後の問題ではなく、この今の人生において、悟りの境地を体験後に、自己再認識を経て、再生することを意味しているのでしょうか。

その時、永遠の現在を生きていると言いたいのでしょうか。

僕は、人間が「永遠の現在」を生きると言われた時、ひどく馬鹿にされたように感じてしまいます。つまり、人は過去も未来も想起できる知的な存在で、主に今を生きる動物の認識水準とは、少しだけ違っていると言いたいわけです。過去も未来もイメージできる能力を持つ、決して現在だけではない時間的な広がり(幅)の中で生きていると言うべきだと思うのです。

>未来は この現在という時が そのまま空間移動するかのように 推移するものと思われます。

ここの空間化した時間感覚が、現代の時間論とかなりずれているようです。未来は、イメージできるが、断絶(隔絶)しているのであり、現在が移行して実現すると考えることは錯覚です。連続的な移行の先に繋がっていると考えるから、いつまでも現在が続く「永遠の現在」になってしまっているのです。隔絶した未来を理解するキーワードは、「可能性」です。「現実性」ではありません。

涅槃経に、ミルクのたとえ話があります。ミルクの中にヨーグルトの元(仏性のたとえでもある)がすでにあったのかどうかという問答です。結論としては、ミルクの中には、ヨーグルトになる可能性があっただけで、まだヨーグルトの味や固形化状態はないわけです。しかし、加工方法を間違えるとヨーグルトにはならず、腐ったミルクになるのです。未来は、可能性です。予期せぬ事態が生じることは多々あるのです。予想外だからこそ、未来は隔絶しているという感覚を持ちますし、日常的な言語ゲームでも、予想外の未来を想定して上で、会話しています。「通り魔も怖いけど、雑居ビル火災も怖いよね」とかです。

「永遠の現在」は、知的で哲学的な人には、あまり魅力的な用語ではないと思います。また、「復活」よりも「自己研鑽」、「修行・修練」の方が、日常的にはしっくり来ると思います。あくまでも、個人的な感想ですが。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん。これまでにも 対話のやり取りを重ねて来ましたし それほど 互いに見解が異なっているとは 思えません。
 用語の問題であるようにさえ 思えます。
 今回のご指摘では 次の二点を別とし得れば おおよそ 共通の認識に立っていると考えます。
 ★ 現代の時間論
 ☆ これをわたしは たしかに 身につけなければいけないと思います。
 ★ 「永遠の現在」は、知的で哲学的な人には、あまり魅力的な用語ではないと思います。
 ☆ この感覚がなかったので 再検討すべきかも知れません。たぶん そうでしたら 魅力的である・ないの二つに分かれるのではないでしょうか。

 あとは 細かいところについて 例によって 質問者が 反論を提出します。
 1. 《終わりから始める》という方針については 人間性の問題と 行為関係ないし社会現象の取り扱いの問題とに 分けて 捉えるとよいと考えます。
 2. 人間性については そのまま もろに 《終わり=目的の成就》という地点から始めてよいし 始めるべきだと考えます。
 3. ミルクからヨーグルトを作るという人間の行為については 設計図としては やはり 頭の中の《終わり》から始めますが その作業や努力の成否は まさにおっしゃるように《可能性》の問題になります。
 4.従いまして 現象にかんしては 紆余曲折・有為転変が そのまま 起きます。つまり
 ★ 《予期せぬ事態が生じることは多々あるのです。予想外だからこそ、未来は隔絶しているという感覚を持ちますし・・・》
 ☆ であると同時に 人間性の問題では このような《現象》の問題につきものの変化から 影響を受けつつも 基本的に 自由だと言いたいという意味があります。

 5. すなわち 現象には 復活という概念がなく 人間性には どうも ついて来るようだと言おうとしているわけですが その意味は こうです。すなわち 《現在》が 《可能性》の問題からあたかも自由になって すでに・いま・ここにおいて 《現実性》として 起きている世界動態である という感覚です。その実現が 復活です。

 6. 現在とは いま生きているという意識かつ問題意識が 持続している時空間です。問題意識に即して 生きることが 持続しているその範囲が定まります。
 7. ミルクだけを飲んでいた時空間(時代)は ミルクを飲みそれをヨーグルトにしても食べる時空間とは 別の問題意識になりますから 過去です。過去のそのこと(ミルクを飲む)自体が 新しい時空間でも 引き続き持続するのは かまわないわけです。

 8. 未来は 未来と将来とに 小区分されます。
 9. 仮りに ミルクやヨーグルトから 何か新しい成分への変化が起こるとすれば その問題意識を持った時点から それとしての現在が始まります。その問題意識に 科学的な可能性があると認識されたなら その《新しい成分の利用》の時代は 将来という時空間になります。《将(まさ)に来たるべき》時代です。
 10. 言いかえると その問題意識が まだ 芽生えていなかった時に その新しい時代を 仮りに捉えたとすれば それは 《未だ来たらざる》未来です。

 11. けれども 人間性の問題として 永遠の現在を生きる人にとっては それらの可能性を考えたり実現させようと努めたりしつつも また未来が将来になり 将来が現在になるという変化を とうぜん 見つつも 人間としての境地は 基礎が出来てからは それほど 《大変》ではないと言おうとしています。

補足日時:2008/10/05 15:09
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この回答へのお礼

 * 《通り魔 / 雑居ビル火災》についても その現象と人間性の問題とを分けて考えるべきだと思います。前者では 法律・行政が 科学の助けを借りて 対処します。
 後者の人間性の問題は 被害者・加害者・関係者また第三者と呼ばれる大きく社会的な関係者 すなわち すべての人びとにかかわった問題です。思想と行為とそれらの関係 その関係どうしの相互作用ないし因果関係を 一人の人間についても 社会全体的な視点からも 解明し合っていくこと。
 解明だけではなく もちろん 互いの信頼関係のもとに 悪い可能性をあらかじめ防ぐという日常生活での言語ゲームを――井戸端会議を―― 繰り広げていくのがよいと考えます。

 * 復活した人びとの社会が そういうかたちであり かれらは 三分の一いれば まづ 安心だと思います。安全の網が はたらくでしょう。

 * そのときには これらの人びとも 《勉強》しますが それは 《終わりから始める》方式です。
 ★ 「復活」よりも「自己研鑽」、「修行・修練」の方が、日常的にはしっくり来ると思います。
 ☆ を 悪いと言おうとするのではなく そうではないのですが それでも 《永遠の現在》方式は じつは じつに 逆なのです。 
 ○ 「自己研鑽」、「修行・修練」よりも 「復活」
 ☆ なのです。

お礼日時:2008/10/05 15:12

 brageloneさん、たくさんのお話ありがとう。


 似像と書くのですか。関連して私の神話もお伝え致します。
 創造の意識の面、そこへ意識を向けた存在は、原材料のオーム界に自分を見つめるという仕方で、つまりsimulacraで構成、紡いでいると存じます。これは私の創造過程の理解です。同じ事をやはり人間はいろんなところで、simulacraしています。これも相似でしょうね。
 創造意識のsimulacraの、光(意識)を通すフィルムの一つが、個々としてではない人(ひとり子━普遍意識)なのでしょう。
 そして個々の人も個々の世界紡きということをしているのでしょう。
 これをbrageloneさんは単なる想像、語りものとされますか。
 実は私は西洋のバイブルやヒンドゥの聖典を理解しております。すべて相似(Droste そしてfractal)ですので、ここを出るには光をさかのぼらないといけません。それはものの道理を飛び越えるということで、何にもないときに観念とことばでの受け取りなのです。

この回答への補足

 krya1998さん。遅れたおはようございますです。

 krya1998さん ご明察のとおり 《司法》は 《神の法》とは はなはだ不類似です。似ても似つかない状態の部分も あるかも知れません。あるいはまた すでに《立法》したあとの法律条文の解釈をなすのみであって 摂理あるいは もう少し経験具体的な自然法 からも 遠ざかってしまっている現状にあるのかも知れません。じっさい そういう問題がありますよね。

 しかも 先天的に授かっている・人類にとっての大いなる記憶体系があり そこから立法し司法するのだとすれば その法体系は あたかも 父なる神の記憶行為の 模像であると言えるかも知れません。というより 自由にさまざまに論じ合い そういうあり方に持っていくのが 人間であると思いますが いかがでしょうか? つねに 過程であるでしょうし 過程であっていいという前提で 作業を重ねていくものと考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  実は私は西洋のバイブルやヒンドゥの聖典を理解しております。すべて相似(Droste そしてfractal)ですので、ここを出るには光をさかのぼらないといけません。それはものの道理を飛び越えるということで、何にもないときに観念とことばでの受け取りなのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃることの実質的な意味は たとえば上のような意志行為にあると 愚考します。
 そして どちらかと言えば いままでは 《 simulacra / 相似(Droste そしてfractal)》について krya1998さんは 横の相似関係を指摘しておられました。悪くいえば 互いに同じ穴の狢じゃないかという水平的な視点と視線関係のことです。ですが 今回は
 ★ ここを出る〔には光をさかのぼらないといけません。〕それはものの道理を飛び越えるということで
 ☆ というふうに 明確に 《人が人を超えるとき》についても ついに 触れたという恰好です。
 つまり これは これが 垂直的な縦の相似関係ですね。
 たしかに そこで
 ★ 個々の人も個々の世界紡きということをしているのでしょう。
 ☆ が出てくると思います。

 ★  創造意識のsimulacraの、光(意識)を通すフィルムの一つが、個々としてではない人(ひとり子━普遍意識)なのでしょう。
 ☆ まだまだ 慣れない表現ですので この表現をぴったりとした理解に持っていくには ただちには 行き届きません。ぼちぼちとにします。
 (印象批評としてなら こうです。《人の子》は 肉につくられましたが 表象し得ないと思われ 《フィルム》にも現像されないかも知れません。と思うのですが しかも このことについて 人間の意識とのあいだの橋渡しの作業が 望まれるということのようです。そうすると それは フィルムへの現像というよりは simulacra としての模像であるかも知れません。模像・偶像であって しかも 《ここから出て》 説明をもたらす表現であらねばならない。うんぬんです)。(いつも 説教口調で すみません)。

補足日時:2008/10/05 10:40
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霊が時空間宇宙を含んでいるのは、時空間宇宙の不完全性に霊が帰因するからで、・・


我々が時空間から遊離しているのは、我々が脳のシナプスの情報のやり取りで形成されたところの
独特のアーキテクチャで構成されているから、物質、脳内の信号は時空間宇宙に属してはいても
結果である我々はそこに属していない独立した存在となってしまっています。
我々が我々としている意識は、時空間宇宙側の存在とは言えません。

霊の側でもないことも、明らかです。脳細胞を使ってますからね。

>この日常の社会生活において われわれは 《わたしが わたしである》状態を見失っている ということでしょうか?

 わたしがわたしである状態がどこから見ても(わたしから見ても、時空間宇宙から見ても、霊から見ても)現実である
と錯誤を起こしているといういことでしょう。わたしはわたしを見失ってはおらず、むしろ過信しすぎているのでしょう。
 父と子と聖霊は、互いに直交し合ってその交点が我々なのでしょうけど、知解のベクトルがわたしにしか向いていない状態
なのだと思います。

>☆ これを わたしも さらに 追ってまいります。にわかには 思考が進みません。
 
 核心に入って着ましたね。でも、時空間宇宙の不完全性とその実相からすると、有神論、無神論の互いの関係が振動し始めたところで
 8割方、もう見えているではありませんか。超えるべき壁は日常性と社会性だと思うのですが・・

>* 特異点は あくまで 経験世界に属するのでは?
 特異点の存在までは経験世界です。
 特異点の存在理由は経験世界を超えています。

この回答への補足

 ううーん。bananasandさん。全体として ようわからん。です。

 ★ 特異点
 ☆ は 勉強不足ゆえ。

 ★ 8割方、もう見えているではありませんか。超えるべき壁は日常性と社会性だと思うのですが・・
 ☆ こういうふうに言われると あせるからでしょうか。余計にわからなくなるのだと思う。
 ★ 時空間宇宙の不完全性とその実相からすると、有神論、無神論の互いの関係が振動し始めたところで
 ☆ という情況なのですが 《振動》が 何のことか?

 一般に現代人が
 ★ わたしはわたしを見失ってはおらず、むしろ過信しすぎているのでしょう。
 ☆ これは 問題ないでしょう。共通認識ですね。
 ★  父と子と聖霊は、互いに直交し合ってその交点が我々なのでしょうけど、知解のベクトルがわたしにしか向いていない状態 / なのだと思います。
 ☆ わからへん。どういうこっちゃ?

 ★ 霊が時空間宇宙を含んでいるのは、時空間宇宙の不完全性に霊が帰因するからで、・・
 ☆ これは 相対性の世界に生きる有限の人生と能力とを持つ人間にとって その世界を超える領域を わざわざ 想定するという事態のことを言っているはづです。
 ★ 不完全性
 ☆ を 人間の生きる姿に あてはめても しょうがないとちゃうん? もともと 不完全ですと返されておしまいに成りがち。と言うか 不完全のまま 不完全を受け容れて 不完全と共に 《遊離した魂を焼き尽くす》ところの復活の生かつ共生を生きるのじゃなかった? bananasand さんのご議論は。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 我々が時空間から遊離しているのは、我々が脳のシナプスの情報のやり取りで形成されたところの
独特のアーキテクチャで構成されているから、物質、脳内の信号は時空間宇宙に属してはいても
結果である我々はそこに属していない独立した存在となってしまっています。
我々が我々としている意識は、時空間宇宙側の存在とは言えません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの言葉では こうなります。《人間は 神なる霊に包まれており その霊を宿すとさえ考えられるのに この霊に逆らって行動する。そのような自由意志をも授かっている》。つまり ここで
 ★ 独立
 ☆ とあるのは そのような 自由意志による・結局は自己に対する背反や反逆のことでしょうか。

 以上は 《思案中です》との中間報告でした。時間を与えたまえかし。

補足日時:2008/10/05 09:59
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全体の流れをほとんど見ていませんので、かなりずれた回答になってしまいますが、お許しください。


「永遠の現在」というキーワードは、brageloneさんのお気に入り用語だと思うのですが、これが究極的に虚構でしょう。僕たちは、現在という時間分類にだけ属し、生きていると暗黙に了解しているようですが、ここに矛盾が生じます。もしも、僕たちが永遠の現在に生きているならば、思い出も現在に属し、想像・予測・予定も現在に属していると言うべきです。しかし、すべての時間を永遠の現在に包摂するような一元化の発想は、過去や未来を区別したい僕たちの日常的な言語感覚から乖離した特殊な言語ゲームになっています。そのような時間感覚には、違和感を持ちます。僕たちは、過去に生きた痕跡を残し、未来に生きる可能性を孕みながら、決して現在だけではない、時間的な広がりの中で存在しているものと感じています。ですから、「復活、不死」と「永遠の現在」との間には、相当密接な関係があるようであり、僕たちの日常的な言語ゲームから乖離した別の世界(虚構)を形成していて、現実世界から隔絶していると思われてしまいます。そのような印象です。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。
 いま一つ 語弊があると言いますか 表現があいまいで 誤解を生むような主題を扱っているという点 これを 指摘していただきました。 前回では 《霊魂 / 復活 / 不死》が 誤解を招きやすいということでした。この直前のNo.27で bananasand さんからも ご指摘を受けました。
 
 でも 《霊》を持ち出したことに 積極的な意味もあるように思います。それは このきわめて曖昧な霊という概念を きちんと 規定し それにまつわるいろいろな概念のことをも 交通整理しておけるなら 願ったり叶ったりだと思うからです。

 さて 今回は 《永遠の現在》 これを 経験思想において きちんと 定義せよ。こういうお叱りだと受け取ります。
 No.2などで CUE009さんが指摘してくれたことなのですが 要は 《この肉(身体および精神)が朽ちること つまり わが存在が死ぬということ この経験事実を 受け容れよ》 こう言っているだけだとも 言えるのではないでしょうか。つまり そうし得た魂は 《永遠の現在》を 生きることになるのだという意味です。

 解きほぐします。と言いますか すでにこの今 死を 観念においてにしろ 経験事実の問題として 受け留め 受け容れざるを得ないと観念している人は もう あとの生は 死生観に変化を生ずることなく 生きる。これだけで よいと思うのですが。

 過去は この現在時に あたかも収斂してくるでしょうし――ただし 過ぎ去ったことは 過ぎ去ったことです―― 未来は この現在という時が そのまま空間移動するかのように 推移するものと思われます。むろん その動態の過程において さまざまな思考も行動も おこなうのです。新しい事態が 次から次へ起こることに ちがいは有りません。ですから 《一元化》ではないのです。
 言いかえると 《日常的な言語ゲーム》としては 皆とまったく同じ生活を送ります。わづかに その基礎もしくは枠組みもしくは原動力もしくは《わたし》 これらが 新しくなっているということです。すなわち あたかも《復活》したからです。

 あらためて 微妙に違った表現で 説明します。まったく同じ《日常的な言語ゲーム》なる社会生活にあって 《永遠の現在》派は どこが ちがうか。たぶん 人びと一般は いつか来る死へ向かって進んでいる。それに対しては すでに死んでいる。これを言いかえれば 《死への一本道》が その人の心根において 死んだ。つまり 死が死んだ。死が死なしめられた。つまり 生きている。わたしが わたしとして 生きている。この現在が 永遠の現在として 推移するという恰好です。いかがでしょうか。

 日常生活から乖離していくのではなく そうではなく――なぜなら 井戸端会議だと言っています―― 日常生活が 《一回転》するのだと見ます。あるいは《方向転換》すると言えるのではないでしょうか。
 つまり念のために言えば 復活と言っても 死んだあとのことを どうにかして 考えておこうという問題ではありません。

補足日時:2008/10/05 00:49
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最初に・・


”霊”という漢字を使っているのですが、幽霊とか、それこそ日常で使う 霊 の意味とは全く別のことを
表しているので、継ぎ接ぎで読んでいる方には誤解を受けるでしょうね。

それはさておいて、

選択においては、
《ある》が故に《ない》ではない。
《ない》が故に《ある》ではない。
で終わります。
同一の論理をもってしても、正しさが異なる場合、理解に方向性を持ちますので、
《ある》かつ《ある》、《ある》かつ《ない》、《ない》かつ《ある》、《ない》かつ《ない》
ですね。

そこで、(3)の《ある》かつ《ない》、《ない》かつ《ある》で、

>(3-1) ★ 時空間宇宙の《日常》と《実相》との違い
 ☆(3-1)について:同一の現象を二人の人が 違って観測した場合。観測の地点や情況やあるいは主観の違いによって 異なりうる。――このこと自体は 超経験と かかわらない。

 ここが、最初にANo.12で記載したとおり、ご質問の一番難しいところです。
 社会性は日常性の上に成り立っていますから、時空間宇宙の実相を改めて日常が完全に取り込む必要があります。
 日常を作り出しているのは、我々であって、時空間宇宙ではないということですね。
 当然、時空間宇宙なしには日常は成り立ちませんし、日常の全ては時空間宇宙に包含されてますよ。
 しかし、端的に言うと日常を日常たらしめているのは我々自身ということですね。。
 時空間宇宙の実相を取り込むというのは、時空間宇宙には実体がないということであって、
 実体をあらしめているのが我々だと言うことでしょうか。
 今の常識的日常という視点で見た時間と空間は、時空間宇宙の実相とはかけ離れた人間知性に都合の良いいわば解釈である
 ということです。

  >――このこと自体は 超経験と かかわらない。

   そうですね、この段階で超経験とは関わりません。
 
>(3-2) ★ 《特異点》の問題:
☆(3-2):★ 《特異点が日常ではないにしても当選確実だからですね。是非ここまでは経験の範疇に入れてください》という表明のとおり なおまだ《経験世界》のことなり。

 特異点定理で特異点は避けて通れない問題となりました。量子重力論などによって特異点の数学的点は否定される
 日が来るでしょうけど、微少の特異量子(造語)の存在は間違いないでしょう。
 この特異点は、《ある》かつ《ない》を最も端的に実証するものの一つです。

>(3-3) ★ 人間精神を超えた霊が 精神の中に入り込む事態
☆(3-3):これは 《接点》の問題として捉える。じつは (3-1&2)の場合にも 超経験は 経験現実とかかわらないけれども すでに 接点を持っているかも知れない。《超えている》ということは 《包んでいる》そして ゆえに《接している》と想定しうる。

 我々はどうしても「時間」を消費しないと思考できない存在ですからこればかりはどうしようもありません。
 物質、エネルギー、時間の要素を含まない精神的なものを思考しているのですから・・・かといって、否定しうる根拠も半分しか見あたりません。
 霊との直接接点はありませんし、実体は知り得ません。だから、《ある》《ない》のみの思考となります。

>☆(3-4):おそらく《これゆえ 人間知性は 驚異的能力を持つ》。ただし 《霊との直接対面が 人間にとって 絶望的である》のは 初めからの想定事項だ。
 そうですね。

>☆(3-5):このような《霊と人間》との関係は しかしながら 《二元の対立》ではあり得ない。どちらかと言えば 《越えたほう・包むほう》が 根元だ。その霊を分有するかのように《宿す》ほうは その霊に 基本的に 従属している。要するに 人間に勝ち目はない。
 勝ち目かどうかは解りませんが・・・超えているものが根元でしょう。
 霊は時空間宇宙を包んでいるでしょうね。しかし、我々は時空間宇宙から遊離してしまっているのです。
 つまり、我々の脳細胞は霊に包含されていても我々はそこから遊離しています。独立してしまっているのです。

>☆(3-6):ゆえに ・・・・・・・・・・・・・・最大限に尊重しようとして 出来た理論なのではあるまいか。

 時空間宇宙の実相、即ち、《ある》かつ《ない》からのインスピレーションに過ぎないと思いますよ。 極く単純です。

>以上は 《包摂》観を実相とする思想に立つと 日常生活でわれわれは(わたしは) 身動きがとれないようになるのではないかと恐れて 考えたところです。一応 ボールをお返しできたかと思います。

 そうですね。日常の延長線上に社会性がありますから、今の日常に、単純にこれを入れると
 身動きがとれなくなるというところもこのご質問の非常に難しいところだと思います。恐怖でさえあります。
 そこに潜在力があり、遊離した「生」を焼き尽くし、復活させる熱さがあります。
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この回答へのお礼

 bananasandさん。総じて 前回のわたしの応答でよかったと思います。

 最後の箇所 すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 今の日常に、単純にこれ(* 霊は存在でありかつ非存在である両面肯定論)を入れると / 身動きがとれなくなるというところもこのご質問の非常に難しいところだと思います。恐怖でさえあります。
 そこに潜在力があり、遊離した「生」を焼き尽くし、復活させる熱さがあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを わたしも さらに 追ってまいります。にわかには 思考が進みません。

 一点 ひっかかっているところが あります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  霊は時空間宇宙を包んでいるでしょうね。しかし、我々は時空間宇宙から遊離してしまっているのです。
 つまり、我々の脳細胞は霊に包含されていても我々はそこから遊離しています。独立してしまっているのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《時空間宇宙から遊離してしまっている》なら 《霊》の領域にある ということでしょうか? その《独立》とは これいかに?

 ちょっと 分かりません。上にあらためて掲げたわたしにとっての新知見のほうで
 ★ 遊離した「生」を焼き尽くし
 ☆ というふうに 《遊離》が使われています。もし この意味あいで捉えるなら どうなるでしょうか。或る種の仕方で 《我々またその脳細胞 あるいはつまり われわれの生》 これが 霊の領域に行ったというのではなく そうではなく 単純に さまよっているというところなのでしょうか?
 この日常の社会生活において われわれは 《わたしが わたしである》状態を見失っている ということでしょうか?
 もしそうでしたら No.25の補足欄に 或る程度のことを書きこみました。よろしかったら たたき台にしてください。

 それこそ 火花が散りましたね。
 そして 有神論と無神論のほかに 非思考(信仰)などどうでもよいと主張したがる第三の道 これは ありうるかの問題にも 一定の回答が得られたのではないでしょうか。よかったと思います。

 * 特異点は あくまで 経験世界に属するのでは?

お礼日時:2008/10/05 00:11

お久しぶりです。


質問の文面からは、「復活」に関する執着からまだ自由になれていないように推察しました。心身二元論なのですね。デカルト的な発想なのでしょうか。大方の常識では、心身一如だと思いますよ。魂だけが、分離し復活してほしいという願望は、悲しみの反作用として理解できますが、復活は事実じゃないでしょう。事実であるならば、数百億の実例が示されていて、取るに足りない論点になっているはずでしょう。無いもの探しは止めませんか。まともな知識人ならば、寓話とするテーマだと思います。
以前、どこかで、自己の死は、(究極の)他者になることだと書きました。このことが、浅学の私が見聞きした現代哲学の到達点ではないかと思います。他者のアラヤ識において再生(復活)するということならば、同意ですが、実体的な霊魂の復活観は、物語だけにしてもらいたいと思います。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。

 ただ 少し 趣旨が 違うように思いますよ。
 《復活 / 不死 / 霊魂》とくれば ご回答に書かれているように解してしまうという場合も あるかと思います。思いますが これまでの質疑応答をたどっていただければ 復活が 魂だけの永遠であるとかの議論とは およそ 似つかないものだと了解していただけると思います。

 つまり 質問趣旨の中でも
 ○ 復活とは 真理が すべてにおいて すべてであること
 ☆ という一つの定義をしています。すなわち
 ★ 自己の死は、(究極の)他者になることだ
 ☆ とおっしゃるとき いくつかの点で その内容を 包摂しつつ 違いを出していると思いますよ。
 1.《死》を迎えるかどうかを この復活論においては 問題としていない。あるいは その焦点とはしていません。
 2.《他者になる》かどうか これも どちらであっても よいのです。
 3. しかも 《真理が 真理として すべての人間関係において はたらく》情況を 復活というのですから その《他者になること》をも 包摂しているはづです。
 4. ですから ふつうの日常生活において 人間関係 それとしての行為関係 それらの社会的な次元における錯綜的な相互作用関係 つまり これらの《縁起関係》が 分かる。分かるようになる。それに応じて 行動することができる。互いに その自由さを 支え合い 促し合うまで行けたら さらによい。・・・

 これが 復活という事態です。吟味していただくと おもしろいかと思いますよ。ちょっと 勇み足だと思いますよ!!

 * 有神論・無神論の信仰が出ているのは 上のように 現実社会の中身が分かるようになること それには 《非思考》としての信仰のはたらきが 欠かせないのではないか。こういう趣旨です。

お礼日時:2008/10/04 20:56

 brageloneさん


★★ 相似
 ☆ ということを おっしゃっています。イエスとわたしたち一人ひとりとが この相似関係なのではないでしょうか? ブラフマミンの度合いにおいても そうなのだと思いますが いかがでしょうか?

 相似というのは創造されている、この創造界映画の為され方の通則的あり方を、私の思索(そんな大それたことなどしてない愚かな思索)での思いです。ですが私の精進している教えの大元の考え方にはそれほど矛盾してはいないと存じます。つまりはこの世界は複雑そうにみえ、そういう複雑さで私たちに迫ってきてはいるが、正体は何のこともない、単純な遣り方だ。その一つが同じありようややり方の、位置と角度を調合しながらの、繰り返しではないか。と私は見切ったのです。
 それは手を変え品を変えて、見せているfractal構造と、Droste効果の取り留めないやりかただ。創造にかかる、私たちの眼前の映画はそんあものでしかない。
 ということを説明したいが故のことばであります。
 
 構造的にイエスと私たちが相似かどうか。
 そこに超えがたい川や障壁を、イエスも創造者も設けているとは存じません。基本的にはそうなのですが、そういうありかたで日常の自分を生きていられる存在と、そうでない存在っていう差はとても大きいのです。甘くはありません。
 創造の父となった神が、原初的vibrationを発して、そこに自己を反射させて。創造界はそういう意味で、相似であり、にすがたです。
 こういう表現では私たちは説明はされてはいませんが、私自身個人の見切りということです。だから創造者、イエス様、創造界、そしてその中に右往左往させられ、していて、エンタングルしている、まみれ・まろびいる私たちも、本当の姿、実体は正に同じであるといえるのではないでしょうか。差の大きさはもちろん別にして。

 brageloneさん、教えてください。
 よくにすがたっていいますね、これって似姿と単語登録してもいいでしょうかね。もっといい字やことばってないものでしょうかね。
 どなたかが使っていたような記憶があって、よし記憶したぞ、思いながら、今になって、その使用されていた字が思い出せないのです。

 やはりここ数ヶ月、急激に衰え、機能低下がはなはだしいのです。
 いけないことに、すぐに逆上して、57や53の甥を怒鳴っています。困ったものです。

この回答への補足

 似像のお話。

 ▲(創世記1:26~27)~~~~~~~~~~~
 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。 ・・・」
 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 1.わたしは 自分がまちがいを犯すと 我に帰って 申し訳なさと悔しさを伴なって あぁ これが 自分だと思う。
 2. 誰かに欺かれると 我に帰って あぁ しかしながら これが いまのわたしであり 自分だと思う。
 3. 《わたしが わたしである》ときは 現実に起こると思う。
 4. わたしは 自分が わたしして生きたいと思う。

 5. おそらく そもそも先験的に 《わたしがわたしである》という記憶が 誰にも 備わっている。
 6. この記憶が あたかも自己表出するなら それは 《わたしがわたしである》という知解である。
 7. 記憶の内容を知ったわけである。
 8. 《我は我なり》という記憶内容および知解内容 これらを あたかも第三のわたしが 思う。

 9. 《記憶》において わたしは わたしがあるという《第一のわたし》のことを 覚えている。これが 自己表出すると 同じ内容としての《第二のわたし》が あたかも生まれる。そのことを知っている。けれども わたしは さらに《第三のわたし》がいると予感している。そのわたしは 第一の記憶としてのわたしと 第二の知解としてのわたしとを 捉え 思っている。
 10. 《思う》というのは 大事にするということだ。育てよう・生かそうとする。つまり 第三のわたしは 《意志》であり《愛》である。

 11. 記憶と知解とにおける姿としての《わたしがわたしである》ことを 思うとは どういうことか。記憶内容と知解内容とをまとめて 総合的に 全体たるわたしとして 生かそうとする。つまり 《わたしがわたしする》ところの意志行為である。
 12. 一般に 記憶と知解の両者をむすぶ役割を担い 良く意志しようとするゆえ 《愛》の行為である。

 13. 記憶と知解と意志とが 子の父と 父の子と 父および子から発出する聖霊とに それぞれ 相似してのごとく 対応すると捉えられる。
 14. 神は 光にたとえられ 父は 《光源》に 子は そこから生まれるかのような《発耀》に そして 聖霊は それら両者から発出するかのような《明るさ・暖かさ》に それぞれ 喩えられる。
 15. 父も子も 《聖》であり 《霊》であり また 《愛》であるが 聖霊が 意志もしくは愛に喩えられるのは より一層ふさわしい。明・暖であるゆえ。そのつてでは 子は 知解であり 父は 記憶である。もちろん これら三つの位格は 一体である。

 16. 人は 神にかたどり 神に似せて つくられたと推し測られる。記憶と知解と意志とが――はなはだ不類似ながら 神の三位一体に似せてつくられており―― 一体性を備え これを人は享受している。享受しうるように生きるのが よろしい。
 17. 〔不評でしたが〕 社会にあっては 順に 《司法・立法そして行政》に喩えられるのではあるまいか。  

補足日時:2008/10/04 18:18
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この回答へのお礼

 これから 野暮用で 出かけます。帰ってから あらためて考えます。

 ★ 相似
 ☆ は おおむね そう考えることもできる ということで よろしいのですね? それなら それは よかったです。

 ★ 右往左往させられ、していて、エンタングルしている、まみれ・まろびいる私たち
 ☆ おもしろい表現ですね。

 ★ 似姿
 ☆ 似像と書いて にすがた と読ませる場合に よく 遭います。
 《かたち(むしろ 像 のほうとして)》が いろいろな面を見せるというその局面が 《すがた(姿)》だとすれば 《像》のほうが 合っているかと推し測られます。
 ただし 《すがた=素・形》という意味から成っているとすれば この和語のほうが 合っているようにも感じます。

 草草にて ごめんください。

お礼日時:2008/10/04 11:51

>《存在 / 非存在》の両側面を ひとりの人が 合わせて 同時に 捉えると どうなるでしょう? 


>じつは この《ある / ない》というのは あくまで 経験的な存在にかかわる概念です。
>逆に言えば 霊は この・ものごとを有るか無いかで判断するところの経験世界を超えています。

そうでしょうか。
連続した時空間内でAさんの周辺は動いているのに、Bさんの周辺は停止している。
1つのものがA地点とB地点に同時に存在する。
そこを見たときはあるのに、見ていないときはない。
一の移動体がA地点からB地点に到達するにAさんから見て10年必要なのにBさんから見ると瞬時に移動している。

どちらも、互いに否定し合う必要などなくて、両方とも正しいことはいくらでもあります。
これらに神の視点とか裁きとかはありません。

確かに、日常ではありません。
しかし、時空間宇宙の実相を見れば、これが本来の姿であることに驚愕します。

>同時に 認めるということは この超経験を 経験理性が その頭脳の中に 取り込むことになるではないのでしょうか。

上述までは、超経験の手前だと思います。特異点が日常ではないにしても当選確実だからですね。是非ここまでは経験の範疇に入れてください。

両者肯定は、一方を肯定したとき、必然的に他方が否定されることが起こらないのです。そもそもは、一方だけを肯定する態度が
ないのです。原則的には、一方だけに視点を移した瞬間に両者肯定が崩壊します。

で、この先が超経験だと思うんですね。

>3. ゆえに 精神の中に入り込んだ霊は 《精神的なもの》として 現われている。

まさしく、そうなんです。そしてまた、これが人間知性の驚異的能力でもあるのですが、
それこそが霊への直接対面を絶望的にしている所以ですね。

>霊が このように 精神という経験世界に入り込んで来ているとすれば 無神論は もはや 成り立ち得ないと言っているに
>等しいと思われるのですが どうでしょう?

これはそう単純ではありません。
我々にとって、今が常に今であり続ける事実は、2元対立の狭間で一方へと安定化してはいないことが実相だといういことを表しているのではないでしょうか。。
そうでなければ、まだ始まっていないか、既に終わっているはずで、奇跡だとして追いやることの方が違和感があるんですね。

2元対立の両者肯定は、4つのパターンへ分化し複雑化しますが、時空間宇宙が安定化していないことからの
単純な帰結をそのまま受け入れてゆく以外ありません。

神はあるのか、ないのか。
正確には、あるとも言えるしないとも言えるではなくて・・・あるとする肯定とないとする肯定を同時に把握します。
その状態が立場、視点、都合によって変わることを許さない(変わることを包含した)唯一の答えなのです。
なぜならば、それが時空間宇宙の実相だからです。

この回答への補足

 おはようございます。

 そうですね。一つひとつの事項を きちんと 検証していかねばならないと思います。

 まづ 次の考えは 魅力的であると思い 重ねて掲げます。
 ★★(No.21)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) 不幸、失敗、悩みの本質であるところの / 「生」を焼き尽くすということを基盤としての社会性が成り立つと思うんですね。それが現実としての、 生 の復活となるのではないでしょうか。
 
 (β) 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として満たされたとき、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして(α)は 表現を わたし風に編成して そのまま 結論としてのように持ちたいと思います。そのわたしにとっての骨子は
 ○ 旧き人を脱ぎ 新らしき人を着よ。
 ☆ になります。
 ですが (β)は 魅力的であるにもかかわらず 実際の生活態度――それが 思想だと思うのですが――にとっては なんとも 受け容れがたいですね。受け容れても 使い勝手が 定まらないのではないでしょうか?
 さて その(β)の《霊にかんして 存在 / 非存在なる両側面を同時に肯定する理論》についてです。
 (1) 最も単純な反論として: 
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この経験世界を超えた領域を 霊として 想定するのは よい。また それは 《ある/ない》を超えているからには 仮りに規定するとすれば 《ある》か 《ない》か 《ある かつ ない》か 《あるでもなく ないでもない》か それら四通りのどれでも 選んでよい。じつは そうであって そうなのだが 一つを選んだ者は 他の三通りを 同時に 認めていなければならない。それが 《良心・信教の自由》という公理なのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (2) 次に 上の反論事由の中の《四通り》は 実際には 前二つの二通りしかないということを 論証します。まづ 《あるでもなく ないでもない》という仮りの規定をえらんだ場合です。
 これは あたかも 時と場合によって 仮りに《ある》であったり《ない》であったりするのだと考えられます。けれども これなら 《ある》の一本として選んだ場合と 同じことになります。《ある》つまり有神論に立つという場合にも 神はあたかも現われたり隠れたりしているのですから。
 あるいは もし そういう顕在潜在といった側面とは まったく関係ないとするのならば それは 《ない》という選択つまり無神論を標榜するに等しいわけですから。
 (3) さて 《ある かつ ない》の両者の同時肯定論についてです。いくつかの角度から 捉えることになると思います。
 (3-1) ★ 時空間宇宙の《日常》と《実相》との違い
 (3-2) ★ 《特異点》の問題:
 (3-3) ★ 人間精神を超えた霊が 精神の中に入り込む事態
 (3-4) ★ これが人間知性の驚異的能力でもある〔と同時に〕
    それこそが霊への直接対面を絶望的にしている所以だ
 (3-5) ★ 〔しかも その事情ゆえに 知性と霊との――つま
    り 人間と神との〕2元対立の狭間で一方へと安定化してはい
    ないことが実相だ / そうでなければ、まだ始まっていない 
    か、既に終わっているはずで、奇跡だとして追いやることの方
    が違和感がある
 (3-6) ★ 〔以上の繰り返しではあるが〕神はあるのか、ない
    のか。/ 正確には、あるとも言えるしないとも言えるではなく
    て・・・あるとする肯定とないとする肯定を同時に把握〔す
    る〕。/ その状態が立場、視点、都合によって変わることを許
    さない(変わることを包含した)唯一の答えなのです。 / な
    ぜならば、それが時空間宇宙の実相だから。

 ☆(3-1)について:同一の現象を二人の人が 違って観測した場合。観測の地点や情況やあるいは主観の違いによって 異なりうる。――このこと自体は 超経験と かかわらない。
 ☆(3-2):★ 《特異点が日常ではないにしても当選確実だからですね。是非ここまでは経験の範疇に入れてください》という表明のとおり なおまだ《経験世界》のことなり。
 ☆(3-3):これは 《接点》の問題として捉える。じつは (3-1&2)の場合にも 超経験は 経験現実とかかわらないけれども すでに 接点を持っているかも知れない。《超えている》ということは 《包んでいる》そして ゆえに《接している》と想定しうる。

補足日時:2008/10/04 11:33
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この回答へのお礼

 したがって 《霊が精神の中に入り込む》というのは 《身体(感性)》とも《接点》を持つのだから 《霊は 肉(つまり身体および精神)に宿る》という想定事態だ。
 ☆(3-4):おそらく《これゆえ 人間知性は 驚異的能力を持つ》。ただし 《霊との直接対面が 人間にとって 絶望的である》のは 初めからの想定事項だ。
 ☆(3-5):このような《霊と人間》との関係は しかしながら 《二元の対立》ではあり得ない。どちらかと言えば 《越えたほう・包むほう》が 根元だ。その霊を分有するかのように《宿す》ほうは その霊に 基本的に 従属している。要するに 人間に勝ち目はない。
 ☆(3-6):ゆえに これまでは 有神論の場合の分析であったが これを 無神論者は ひとつのことを除いて 認めない。《霊が人間に宿る / 〔ちなみに〕人間には 仏性がある》を ちゃんちゃら おかしいと見る。ただし認めざるを得ない一つのこととはこうである。 《霊》とも呼ぶ《超経験のなぞ》については 一度は それと対面した体験を持つということだ。Uターンして来ただけだ。(未体験であっても いま このことを聞いた瞬間 あたかも 体験した恰好となろう。もしそうでなければ その人にとって 人間は あたかも全知全能だとなる。つまり 《なぞ》は一切ないという立ち場に立つ。ただし これは 非現実だ)。
 この人間にとっては 有神論と無神論とのあいだで 揺れることもあろうし 一たん決めた良心の選びも 変えることは 自由だ。
 おそらく 《存在かつ非存在》の包摂論は この《信教の自由》というその《自由》を 最大限に尊重しようとして 出来た理論なのではあるまいか。

 以上は 《包摂》観を実相とする思想に立つと 日常生活でわれわれは(わたしは) 身動きがとれないようになるのではないかと恐れて 考えたところです。一応 ボールをお返しできたかと思います。

お礼日時:2008/10/04 11:42

 brageloneさん、お休みに賛成です。

お休みですから、応答はどちらでも結構ですよ。

1. ANo.18関係のお礼の欄でいわれている潜在力ってよくわかりませんでした。

2. それと、私はあまり心理が精妙でないのか、私自身は仰せのような心理を自覚しておりません、というか実は何もないのです。考ええても思ってもいないのです。自分で自覚していないのかも知れません。判らないのでしょうかね。

3. 仰せの、みんなブラフミンではないかということについて━そのに2 イエスたちのブラフミンとわたしたちのブラフミン(?)
 お礼のところで、長大な引用を頂いておりますね。
 その中で、
 イエス様が自分につながれ、とか、いろいろいわれているのは、その通りなのでしょうね。
 日月星辰、花鳥風月、森羅万象、万物で神、つまりイエスのものでないものはこの世にありえないし、それから離れた存在というのはないでしょう?
 考えられませんよね、ありえないですよね。
 でも尚且つ、イエスがあらためて、自分につながれというのは、人間たる存在であるならば、人間として、もっと自分性を、本来性を自覚し、主体的に為りなさい、ということをおっしゃっているのではないでしょうか?
 自分は根源のものだと自覚し、そういうふうにいうことのできる、イエスさまと、そうでない、ただ根源から為されるままにこの地上に来てしまっている意識存在とは天地の差がありますよね。同じように根源と一体だといっても。
 イエスのように、根源の中に自己を覚醒してしまうことは、普通の(いくら根源から生まれているといっても)覚醒しない人が、覚醒することは、根源者の意志無くしては絶対に不可能ではないかと存じます。
 雲泥の差以上です。
 そういうイエスだから、どこの界であろうと、自分と根源者の意志と思いで、自由に、どういう形でも必要に応じて赴けるのではないですか?そういう意識と常人の意識を同じブラフミンということばではいえないでしょうね。
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この回答へのお礼

 おはようございます。

 ひとことです。

 ★★ 相似
 ☆ ということを おっしゃっています。イエスとわたしたち一人ひとりとが この相似関係なのではないでしょうか? ブラフマミンの度合いにおいても そうなのだと思いますが いかがでしょうか?

 なら 潜在力も そこに すでに 入っていると思います。

お礼日時:2008/10/04 10:04

オコリザルです。


A16について、答えを期待して更なる謎かけです。
「聞き分けのよい子」
幼年期のしつけ次第です。

以下の歌を著作権を無視して引用します。
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ
ねぼけたひとが
みまちがえたのさ
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

ほんとに おばけが
でてきたら どうしよう
れいぞうこに いれて
カチカチに しちゃおう
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

だけど こどもなら
ともだちに なろう
あくしゅを してから
おやつを たべよう
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

おばけの ともだち
つれてあるいたら
そこらじゅうの ひとが
びっくり するだろう
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

おばけのくにでは
おばけだらけ だってさ
そんなはなし きいて
おふろにはいろう
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

一般には無頓着かもしれませんがbrageloneさんなら霊への対処法として意味が理解できるのではないですか?
日常における霊への対処としてこの歌は正解です
1章は私が序盤で話した錯覚の話。
2章は現実的な霊への対処。
冷蔵庫に入れてカチカチは存在を固定するの意味とも申しましょうか。
3章は個人的マイブームのポケモン挨拶運動です。
存在するものをあえて霊化することもありうると示しています。
脳は失う能力はありません。
4章、霊体は感知可能であり無意識的には認識しうることを表しています。
心理学的「盲視」を了解すると無意識に例えなくてもいいのですが。
5章、除霊法です。
水に流す心象です。
お化けの国とは無意識が丸ごと大霊界的価値基準に汚染された様で、度が過ぎる人はあまり見かけませんが(哲学カテにはよくいる)霊症とでも言いますか大抵の人は何らかの形で影響を受けます。霊媒師の側に回った私も例外ではありません。

この回答への補足

 primeapeさん 答えがあるとは 思えません。というのが わたしの答えになります。

 すでに 最初に
 ★ (ANo.1): 大霊界の住民の証言をしても馬鹿らしいのですが存在不確定のまま生と死に関わるいろんな妄想をして主観を翻弄します。
 ☆ と書いておられます。つまり すべては
 ★ 妄想
 ☆ なのです。それを 《霊》という言葉に置き換えたに過ぎません。そういう問題を扱っておられる。のではないでしょうか。
 つまり この《妄想》というのは 夢を いくらか 現実に近づけた内容のものだと考えます。睡眠中に見る夢を 言葉にして その内容が あたかも この現実にかかわっていると言おうとしたもののたぐいだと思います。

 どんな内容であるにせよ 夢を見ること自体は この現実世界に属しています。見た夢を 語っても かまわないわけです。虚構の世界という扱いを受けます。
 この妄想は この夢のたぐいを 現実であると見なして――それは 全面的にでしょうか あるいは 半ばにおいてでしょうか―― つまりは みづからが そのように錯覚を起こして 錯覚とともに 生きるというものです。

 このように 自己の演出するショウ(演劇ないし演技)とその舞台が さらに自己錯覚ないし自己催眠をつうじて 《カチカチ》に固められていきます。この舞台が《整う》と あとは 半ば ほんとうの現実であるかのように・すなわち《ワ゛-チャルな現実》として 妄想は 《おばけの世界》となって現われます。

 最後の一連で
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 おばけのくにでは
 おばけだらけ だってさ
 そんなはなし きいて
 おふろにはいろう
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言い放って
 ★ 除霊
 ☆ したようなのですが ルフランが やはり
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だけどちょっと だけどちょっと
 ぼくだって こわいな
 おばけなんて ないさ
 おばけなんて うそさ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と やはり 繰り返しています。《仮想現実》であると ちゃんと 知っているのでしょう。しかも この《仮想現実》を容れた大きな現実 それこそが ほんとうの現実だと思っているのかも知れません。

 つまり すべては 《自作自演》の狂言であるということを 知っていると思われますが あるいはひょっとして 忘れてしまったのでしょうか。ほんの少し 忘れるひとときがあって欲しい / あれば いいがと思っているのでしょうか。
 そんなところだと思います。

補足日時:2008/10/03 23:40
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