

No.2ベストアンサー
- 回答日時:
こんばんわ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86% …
↑
上にあるように、法隆寺では聖徳太子が創建した当時のままであるという伝承が伝わっていました。
法隆寺のサイトではその伝承にもとづいて略縁起を書いているようです。
しかしながら法隆寺にはかねてより再建論と非再建論がありました。
再建論の根拠となったのは『日本書紀』に天智天皇9年(670年)に法隆寺焼失の記述があることでした。
これに対して非再建論の主張 は、
・法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。
・薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているが、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。
・薬師寺などに使われている基準寸法は(大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。
・日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。
というものでした。
1939年(昭和14年)、発掘調査により、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘され、現在は再建説が有力となっています。
No.5
- 回答日時:
再建説が有力ですが、それでも飛鳥時代の様式を伝える世界最古の木造建築です。
#2の方が詳しく回答されていますが、勝手ですがその続きを書きます。
2004年に、火事で焼失した寺の金堂や塔の壁画の破片が大量見つかっており、創建法隆寺の焼失を裏づける有力な物証になっています。
若草伽藍(創建法隆寺)の焼損壁画
http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200412 …
さらにホットなニュースがあります。
「金堂内の天蓋に創建時期の古材」
http://i.asahi.com/entertainment/OSK200805300044 …
法隆寺の心臓ともいうべき金堂内に吊るされた天蓋の部分に、聖徳太子存命中の半世紀も前の古材が使われていたという新たな謎が浮上しています。
法隆寺は再建されたというのが通説ですが、創建当初から続いているとする「非再建説」もあり、この謎を巡って議論されています。
金堂内には3基の天蓋があり、その内の「中の間」の天蓋の天井板部分に606年ごろ伐採の木材が一部使われていたのです。
しかし、この天蓋の最も新しい板の年輪は654年です。
つまり制作されたのは654年以降となります。
「西の間」の天蓋で最も新しい板の年輪は663年です。
伐採された年は推定できますが、天蓋を作るために加工し、制作した年は不明です。
日本書紀には、670年に法隆寺全焼と記されています。
全焼なら天蓋も焼けてしまったはずです。
こんなに古い天蓋が残っているのは、金堂が焼けなかったからだという主張もありますが、
伐採した木を保管していたとも考えられ、再建説を打破するほどの根拠にはなっていません。
No.1
- 回答日時:
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