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鎌倉には寺社が多く存在しています。
鎌倉幕府の影響と思いますが、どうしてそんなに寺社を集中させる必要があったのでしょうか。
政治的に関東の仏教勢力を取り込む必要があったのでしょうか。
あるいは京都奈良からの移設や関東武士の氏寺として発達したものでしょうか。
よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

鎌倉市に寺院が多い理由は「権力者が多かった」からです。


鎌倉五山の筆頭に挙げられる建長寺は「北条時頼」の開山ですし、二位の円覚寺は「北条時宗」の開山です。
寺院ではないですが、鶴岡八幡宮は「源家」が創建してます。
京都も寺院が多いですが、例えば、金閣寺は足利義満の開山、銀閣寺は足利義政が開山してます。
権力者は自らを供養する「菩提寺」を造りたいのです。
寺院を建造するには莫大な資金が必要ですから、資金を提供する権力者がいなければ寺院は造れません。
鎌倉は、その権力者が多かったから寺院が多く建っただけです。
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スポンサーの問題だと思います。


織田信長時代の安土や徳川宗春時代の尾張藩もそうですけど、金のあるところに人は集まってきて文化が栄えます。
鎌倉時代は鎌倉が日本の中心ですから、仏教界も新興勢力の武士と結びついて一旗上げようと思えば鎌倉に進出するのは自明の理で、鎌倉には禅宗が多いのも、武士を目当てに寺院が建てられたことを示しています。
寺院が建てられれば仏師も鎌倉を目指し、独特の文化が花開いていきます。
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Q鎌倉時代に新仏教が興った理由

鎌倉時代に新仏教が次々と興っています。
その原因はなにでしょうか?

また新仏教が興る前の民衆にとっての仏教とはどういうものだったのでしょうか?
お寺でお葬式をして、お寺に墓を作るというようなことは行われていたのですか?
それとも庶民には縁の薄いものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

簡単にいうと、既成仏教が堕落し、平安時代は貴族のものであった仏教が、武士や民衆のニーズに応えて盛んになったといえるのではないでしょうか。

既成仏教とは南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎の各宗)、天台・真言の二宗です。南都七大寺や、延暦寺・園城寺などの大寺院は、各地に広大な荘園を持ち、多くの僧兵を養うなど、財力・武力を蓄え権力にも介入し、ことあるごとに朝廷に強訴したり、他の寺院に武力闘争をいどむなど、仏教集団というよりも、武力集団となっていたのです。

それは当時の人々の目には、釈迦の教えが力を失う「末法(まっぽう)」の時代の到来と写っていたようです。
末法思想がひろまるにつれて弘まったのが、法然を祖とする専修念仏(浄土宗)です。
平安時代の末期から絶えない戦乱、あいつぐ天災、生活苦などで、どこにも救いを求めるすべがなかった民衆や、旧仏教に絶望していた僧たちが、浄土信仰に引かれていったようです。

鎌倉武士に流行したのは禅宗です。
当時の最高権力者の北条時頼は本格的な禅宗寺院の建長寺を建てています。
なぜ禅宗が武士の間に弘まったかというと、禅宗が中国の風習を取り入れて、葬式や法要を厳粛に行ったため、家門を尊び祖先を大切にする武士に用いられたとする説が有力です。(一般的なイメージだと、座禅による心身鍛錬がありますが)
また中国(宋)の文物や学芸が、渡来した禅僧によって日本に持ち込まれ、禅宗寺院が最新の外来文化の窓口になっていたせいもあるようです。

その他の宗派については長くなるので割愛します。

死から埋葬までに関わったのは、当時は僧侶ではなく陰陽師です。
年忌法要については、武家などの上流階級の場合は、僧侶が関わっていましたが、やはり陰陽師が要所に関わっており、僧侶の独壇場ではなかったようです。

庶民は自分たちの葬儀のために僧侶を呼んだり塔婆供養をするという習慣はありませんでした。庶民を対象とする新仏教の本来の目的は葬送儀礼ではなかったのですから、武士や貴族階級の葬法とは大きな違いをみせています。
死体は道のほとりなどに、山積みにして捨てられていたのです。(集団埋葬地のようなもの、寺の中などではない)葬って墓標が立てられ、誰の墓か分るような物は庶民の墓としては上等でした。また葬儀や埋葬をできる庶民は、僧侶より陰陽師に依頼するのが普通でした。死と死後の諸儀礼は、庶民の中にはほとんど成立してなかったといえます。

簡単にいうと、既成仏教が堕落し、平安時代は貴族のものであった仏教が、武士や民衆のニーズに応えて盛んになったといえるのではないでしょうか。

既成仏教とは南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎の各宗)、天台・真言の二宗です。南都七大寺や、延暦寺・園城寺などの大寺院は、各地に広大な荘園を持ち、多くの僧兵を養うなど、財力・武力を蓄え権力にも介入し、ことあるごとに朝廷に強訴したり、他の寺院に武力闘争をいどむなど、仏教集団というよりも、武力集団となっていたのです。

それは当時...続きを読む

Q日本にはなぜお寺や神社が多い?

この間韓国人旅行客の友達に「日本はなぜ神社やお寺がこんなにも多いのか?」と聞かれました。なんででしょうか?

Aベストアンサー

 李氏朝鮮の廃仏政策により、朝鮮では仏教寺院の大半は山間部に移されました。そのため韓国の感覚から、町の中に寺院・神社が建つ日本の状況を見ると、「多い」と感じるのではないのでしょうか。

Q標高が高いと温度が下がる理由は?

最近、海外の山を登り、とても温度が低かったので、気になりました。

似た質問が4月10日にありましたので参考にさせていただきましたが、まだ良く分からないので質問させていただきます。

標高が高いと温度が下がる理由は「太陽の光を大地が吸収して温かくなり、そのエネルギーで空気を温めている」ということですが、高い台地の上であれば、地面は台地の地面がすぐ下にあるため、地面が同様に太陽の熱を吸収するのではないかと思います。台地の表面が、低地の表面と同様に、太陽光を吸収して、空気を暖めないのはどのような理由でしょうか?(それとも、台地の上であれば、100メートルごとに0.6度づつ気温が落ちるということはないのでしょうか?上空だけでしょうか?)

また、「空気が薄いから」ということについても、例えば、大気のない月の表面では昼間は摂氏100度以上に達するということを聞いたことがあります。(夜はマイナス100度以下ですが)それであれば、標高が高い山の上は、昼間は地上よりも温度が高く、夜は地上よりも温度が低くなるのではないかと思いますが、実際はそうではありません。

こういう風に考えると良く分からなくて混乱してしまいます。どなたか、分かりやすい回答をいただけると助かります。

よろしくお願いします。

最近、海外の山を登り、とても温度が低かったので、気になりました。

似た質問が4月10日にありましたので参考にさせていただきましたが、まだ良く分からないので質問させていただきます。

標高が高いと温度が下がる理由は「太陽の光を大地が吸収して温かくなり、そのエネルギーで空気を温めている」ということですが、高い台地の上であれば、地面は台地の地面がすぐ下にあるため、地面が同様に太陽の熱を吸収するのではないかと思います。台地の表面が、低地の表面と同様に、太陽光を吸収して、空気を暖めな...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。

問題のポイントは2つあります。

1つめは、地球大気の特に対流圏が、下にいくほど温度が上昇する(地面から熱をもらうから)という構造をしていることです。これは、地球大気が太陽光線のエネルギーのほとんどを占める可視光線をあまり吸収しないことが原因です。

2つめは、もし温まった空気が軽くなって上昇しても、断熱膨張というメカニズムで、温度が下がってしまうことによります。上にいくほど空気が薄くなるから単純に温度が下がるのではなくて、気体が周囲の気圧が下がることにより膨張するときに外に向かって仕事をするすなわちエネルギーを使ってしまうことが原因です。

ぜひ、ぜひ、下の参考URLを読んでみて下さい。

では。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=842814

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
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Q禅が鎌倉で幕府を中心に支持された理由や事情は?

宗教に関心を持ち始めて、少し関係の書物等を読み散らしている者です。
で、日本の神仏習合や古代の護国仏法、その後の極楽浄土を期待する仏教、呪術的現世利益期待密教、顕密体制、権門体制、当初は普及が進まなかった易行の浄土信仰や非日本的な法華宗、イエズス会キリスト教などと駆け足で、ようやく戦国期まで来たのですが、律宗や禅宗がサッパリ抜けていると気付いたところです。 鎌倉期から室町、院政期の律宗と五山の禅宗について歴史的、社会学的な、あるいは宗教史的な面から、記載されている書籍を探したいのです。本屋を覗いたり、インターネットで探したのですが、上手く見つけられません。 
 
一番知りたいのは、【幕府と武家は、なぜ】、(顕密の寺院も建立・寺領付与・支援しているし、八幡などへの戦勝祈願もよくやっていたのに、=従来の政権や日本社会の習慣の延長線上にあるように思える。それにも関わらず)【禅宗を支持し、五山まで作っていくようなことをしたのか、なぜ禅宗に入れ込んだのか】です。 これらについて書かれている本を教えていただければ、ありがたいのです。 また、臨済宗、曹洞宗の側は、政権や武士などのパトロンにどのようなアプローチで向かったのかがわかるような本を教えていただければ、ありがたいです。
もしも、二つの王権論に関わる視点であれば、そうした視点で顕密体制に対峙する宗教体制を作ろうとしているのであれば、(文覚や後白河の関係があったにせよ)なぜ、東寺や金剛峯寺などもあそこまで復興させたのか、天台の支援をしたのか、そういうことについても、わかる本や、webあるいは、視点などをお教えいただけると、ありがたいです。
よろしくお願いいたします。

宗教に関心を持ち始めて、少し関係の書物等を読み散らしている者です。
で、日本の神仏習合や古代の護国仏法、その後の極楽浄土を期待する仏教、呪術的現世利益期待密教、顕密体制、権門体制、当初は普及が進まなかった易行の浄土信仰や非日本的な法華宗、イエズス会キリスト教などと駆け足で、ようやく戦国期まで来たのですが、律宗や禅宗がサッパリ抜けていると気付いたところです。 鎌倉期から室町、院政期の律宗と五山の禅宗について歴史的、社会学的な、あるいは宗教史的な面から、記載されている書籍を探し...続きを読む

Aベストアンサー

武士=禅宗

極論すれば、偶然、あるいはその時の優秀な僧侶がどこにいたか、支配者がそれをどう判断したかということ。
鎌倉五山の第一位建長寺
開基北条時頼、蘭渓道隆(開山)
で、時頼はここに葬られています。
円覚寺
開基北条時宗、無学祖元(開山) <時頼の息子ですね時宗、で墓所もここ
寿福寺
北条政子、栄西(開山)
浄智寺
開基北条師時 <実際はおじさんにあたる時宗が弟の宗政(師時の父)のために作った
浄妙寺
開基足利義兼、退耕行勇(開山)<義兼の奥さんは北条時政の娘、つまり源頼朝と相婿です。

つまり北条時頼・時宗父子を軸として五山が形つくられています。
時頼ってのは、偶然執権になった人。本当は兄の経時の系統が本流です。
で、経時はどこに葬られているかというと 天照山蓮華院光明寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82)

浄土宗なんです。

経時がそのまま長命で、北条家徳宗がこの系統に繋がって行ったら、鎌倉五山(的な)ものは浄土宗だったかもしれない。
ちなみに経時の息子は真言宗の僧侶になっています。

たとえば、浄土宗で北条政子が開基した寺院
http://www.bandou.gr.jp/03.htm
というのもちゃんとあるわけで、寿福寺の代わりに、この寺が五山になっていたかもしれない。
まぁ五山というのが、中国の臨済宗起源なのですが、大元はインドの五精舎だから、グループ分けする発想があれば、適当に浄土宗でつくっているかも。
なんぜ京都五山はお寺が6だったりしますので、そのへんは融通無碍。

そういえば徳川家ももともとは浄土宗ですよね。

===ここからは半分以上妄想
五山というのは貞時が浄智寺を五山に定めるというのが最古らしい。
貞時の正妻は宗政の娘で、師時の姉妹。
北条徳宗の面々は、本郷さんの本によれば、武士として統治原理を考えた人々だったので、精神的バックボーンとして臨済宗を採用した。いろいろ宗派があるが、自分たちの血流の正当性に近いのが臨済宗。なんせ浄土宗では、本来の本家である経時の方が嫡流に成るように見えてしまう。

武士=禅宗

極論すれば、偶然、あるいはその時の優秀な僧侶がどこにいたか、支配者がそれをどう判断したかということ。
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開基北条時頼、蘭渓道隆(開山)
で、時頼はここに葬られています。
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開基北条時宗、無学祖元(開山) <時頼の息子ですね時宗、で墓所もここ
寿福寺
北条政子、栄西(開山)
浄智寺
開基北条師時 <実際はおじさんにあたる時宗が弟の宗政(師時の父)のために作った
浄妙寺
開基足利義兼、退耕行勇(開山)<義兼の奥さんは北条時政の娘、つまり源頼朝と相婿...続きを読む


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