ネットが遅くてイライラしてない!?

江戸時代中期、特に明和から安永の頃、吉原遊郭の治安はどのようになっていたのでしょうか。南、北の町奉行所の管轄だったとしたら、どの部署だったのでしょうか?例えば吉原で傷害や殺人事件などが生じたさいに、実際に探索や吟味を行うのは誰なのでしょう?また、町奉行所の定町廻り同心がパトロールする範囲なども教えていただければ有難いです。

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A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の吉原の治安管轄は?

この答えは、NO1.の方の言われるように「町奉行所」の管轄でした。従って、犯罪が起きれば町奉行所で探索や吟味を担当しました。

>>町奉行所の定町廻り同心がパトロールする範囲なども教えていただければ有難いです。

定町廻り同心の範囲は、次のサイトの「墨線(ぼくせん、黒線とも呼ばれた)」の部分でした。
http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html

(よもやま話)
(1)町奉行は、古くは室町時代にまで遡ると言われています。また、徳川実記などでは、三河で松平氏を名乗っていたころ、すでに、町奉行の職務が定められていました。当時は、在所も決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。
江戸が開幕されても、家康、秀忠の時代まで、その形式が続いていました。
しかし、3代将軍家光になって、寛永8(1631)年に、加賀爪民部少輔忠澄を北町奉行に、堀民部少輔直之を南町奉行に任命し、この時、初めて北は常盤橋門内に南は呉服橋門内に、正式に、奉行所を作ったのが始まりとされています。
そして、与力50騎(北25騎、南25騎)、同心120人(北60人、南60人)を配しました。
さて、その管轄範囲ですが、時代とともに、変遷というよりも拡大しています。

(2)御府内の範囲の変遷。
*慶長8(1603)年・・・千代田城二里四方。内神田、日本橋、浜町、麹町、常盤橋など計三百町の町割が完了し、この範囲を町奉行所の管轄地とした。この地域を「古町」と呼んだ。(江戸時代、「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくんじょう)と呼び、庶民は、ただ単に「御城」と呼んでいました)。
*明暦3(1657)年1月18日~20日におよんだ明暦の大火の後、曲輪(くるわ=城を中心とした一定の地域。郭とも書く)内の寺院を江戸郊外に移転させるなどの大規模な都市改造がおこなわれ、郊外として挙げられたのは、深川、浅草、駒込、目黒で、ここまでを江戸と呼ぶこととする。さらに数年を経て、江戸と呼ばれる範囲は五里四方に拡大し、深川、本所、浅草、駒込、小石川、小日向、牛込、四谷、赤坂、麻布、芝までが江戸の範囲と定められたが、これらは「府外」と呼ばれ、「府内」とは、依然として、古町の範囲だけであった。
*万治元(1660)年・・・当時は東の隅田川より向こうは「下総国」と呼ばれており、江戸と下総の両方の国にまたがるということで命名された「両国橋」完成。同時に、両国橋より東も武蔵国に編入され、江戸の市街地に加えられた。
*寛文2(1662)年・・・南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋までを関東郡代から町奉行所に「警察権」のみ委譲。しかし、定町廻り同心の範囲は、依然として、二里四方(サイトに示した「墨線」の部分)。この地域はまだまだ開発がされておらず、田畑が多かったため、犯罪も少なかったので、町奉行が常時取り締まる必要がなかったが、ここで初めて町奉行所の管轄範囲が広がる。
*寛文5(1665)年・・・品川(東海道)、千住(日光街道)、板橋(中山道)、高井戸(甲州街道)の四宿内を江戸内と呼び、江戸内への(庶民の)旅人の駕籠の乗り入れ禁止令を出す。(街道筋での利用は認められていた)。なお、駕籠の乗り入れ禁止令は、たびたび発令されたが守られず、享保11(1726)年に禁止令は解除された。
*明和2(1765)年・・・御番所(庶民は「町奉行所」とは呼ばず、通常は「御番所」と呼んでいました)での判決の中の「江戸所払い」の刑では、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸から追放することと決まる。従って、この範囲までが町奉行所の管轄となった。しかし、内藤新宿は御城から近いにもかかわらず、管轄外であった。
*寛政3(1791)年・・・東は常盤橋門、西は半蔵門、南は桜田門、北は神田橋門の江戸曲輪内四里四方を御府内と定める。旗本や御家人が御府内を出る時には「届出」を必要としたために決めたが、東北東とか西北西などの東西南北以外では、依然、あいまいだった。
*文政元(1818)年8月・・・目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋之儀」というお伺い書が老中に出されたのを契機に、勘定奉行、評定所等で打ち合わせが繰り返され、同年12月に東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川や石神井川下流を結んで、老中が初めて絵図面に朱線を引き、老中としての見解を明確にした。この朱線を「御朱印図」(または「朱引図」)と呼びました。従って、この範囲までの「警察権」のみが町奉行所の範囲。しかし、同時に町奉行所の定町廻り同心の管轄範囲として、二里四方に墨線が引かれてあり、奉行所の「定町廻り同心」は、この範囲を廻っていれば良かった。つまり、犯罪が起きた時だけ、朱線内であれば出張った。だが、ご存知のように、御城近辺はかなりの町割り図がはっきりとしているものの、それ以外は、「田地」「畑地」とおおざっぱであったので、実際に「ここまで」「これ以外」という区別はつきにくかった。さらに、サイトでも分かるように、目黒不動尊の辺りでは、朱引の外に墨線が引かれる、と言う矛盾もあった。
目付は旗本や御家人の取り締まりをする役目。なお、大名を取り締まるのは大目付でした。

(3)江戸は、もちろん、政治の中心地であったが、墨線内(町奉行所の管轄)の半分が武家屋敷、あとは、農地が35%、町地は15%で、朱印内を含めると農地が半分以上を占めていて、政治の中心地とは言っても、意外と「農地」が多かった。

(4)享保6(1721)年頃の人口調査では、庶民は40~50万人といわれ、武士は軍事上の秘密から公表されていないが、やはり、40~50万人位と考えられ、江戸は100万人都市というのが「定説」になっており、当時としては、世界一の大都市だった。また、庶民の男女比率は、男約65%、女約35%と、圧倒的に男が多く、一生涯を独身で暮らした者も多かった。また、そうした男たちの「はけ口」として、吉原が繁盛した。

(5)御府内の年貢は?
寛文2(1662)年に、前記年表にも書いたように、「警察権」だけが町奉行への管轄となったが、年貢の徴収は郡代が引き続き行っていた。
また、旗本や御家人地であればその領主に、寺社地では寺社が徴収していた。また、面白いところでは、町奉行所には南北合わせて50騎の与力がいたが、給料は一万石の知行地をもらい、200石ずつ均等に分けていました。

(6)御番所の与力は、いざ捕り物になると、騎馬に乗って出動したので、与力を数える時は、「騎」と数える。同心は「人」。

(7)大岡越前守が有名になったのは、享保16(1731)年、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ「火あぶりの刑」を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下であった手付同心の1人が「伝兵衛にはアリバイがある」という話を聞き、越前守に上申した。そこで、越前守は直ちに、密かに証拠集めを指示し、ついには、吟味のやりなおしをして「無罪」を言い渡した。当時は、1審制だつたのだが、再審まで断行し「無罪」を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。

(8)南北奉行所・・・どっちが偉い?
南町奉行所がやや上だった。老中などに両奉行が呼ばれた時の座りは、南が一つ上座であった。
「遠山の金さん」でおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11(1840)年に、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたので、老中の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。
しかし、奉行の役高は、どちらも同じく3000石であった。

(9)与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」と呼ばれ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」であった。縁組も同じ役職者に頼るほかがなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったと言われている。

(10)御番所は、割合平穏であった。
凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと、「火付盗賊改め」が強力犯(ごうりきはん=押し込みをして人を殺したりする犯罪)は担当したので、御番所では、せいぜいコソ泥とか、強請り(ゆすり)、たかり、博打の罪とかで、多くは、町民同士の訴訟に判決を下すくらいであった。

(11)目明し
正式には「岡っ引」と呼んだ。与力や同心が犯人を引っ張るのを「本引き」といい、目明しは横から引っ張るので「岡つ引」と呼ばれた。
なぜ「岡」が付いたかというと、当時は「岡惚れ」とか「岡目八目」というように、横からチョッカイを出すことに「岡」が使われた。これには、岡に登れば、あらゆる方角が見え、何でも手を出したがる。というところからきているようだ。
公的な地位はなく、主に同心の下でプライベートに聞き込みなどをした。犯人逮捕で大立ち廻りをするようなことは、ほとんど無かった。TVドラマの「銭形平次」では、子分と2人で犯人を捕まえたりしているが、実際は、岡っ引だけで犯人逮捕はできなかった。これは、TVの視聴率を上げるための所業。とは言っても、野村胡堂によにるれっきとした小説。ただし、例えば、スリの現場を見つけたような時には「緊急逮捕」はできた。特に、スリなどは「現行犯」でしか「証拠」にならなかったためです。
岡っ引は同心から月に一分か二分(20,000~30,000くらい)しかもらえなかったので、当然、それだけでは食べてはいけない。そこで、「飲み屋」や「寄席」などを妻にやらせて生活すると同時に、人が多く集まれば、それだけ情報も集まったというわけです。原則的にはお互いの縄張りがあったが、はみ出して働くこともあった。また、子分を2~3人抱える者もいた。子分は街の噂を集めてきて、親分に話す。そうすると、親分は同心に話しをし、犯人逮捕につながった。しかし、この子分連中は、食事は親分からありつけたが、小遣いなどはなかった。そこで、御用風を吹かせて、事件の関係者に「何もなかったことにする」などと持ちかけて、金をせしめたりしていた。これを「引合いを抜く」といった。さほど大きな事件でなければ、同心も親分も目をつぶった。さらに、情報が種切れしないように、それぞれの親分に仕える子分連中が情報交換所をつくり、お互いに融通しあったりもした。

(12)奉行所近辺の火事
奉行所またはその近辺で火事があると、髪結床が駆け付けた。「梅床」とか「亀床」などという提灯を持ち、「駆けつけ、駆けつけ」と大声で叫びながら奉行所に向かった。もちろん、この声を聞くと、現代の消防車のようなもので、皆、道を空けたという。奉行所の書類は、普段から箱に詰めて、麻縄が掛けられてあったので、どんどん運び出したという。ではなぜ、髪結床だったのか?実は、髪結の仕事は大変な力仕事で、武士の髪を結うには、髪を束ねて、鬢(びん)付け油を塗って、手首に力を入れて・・・と、かなりの力を必要とした。そこで、力仕事のついでに奉行所の書類等の運び出しに選ばれた、というわけです。では、力仕事なら、大工は・・・というと、大工は仕事場がバラバラで集めにくかったからです。

(13)女の取調べ
女に対しては、原則的に、「拷問」などをしないこととなっていた。そして、取調べの最中、少しでも膝小僧から上を出すと、調べは「中断」された。そこで、両膝を縛って取調べをしたが、そうしたことを知っているシタタカな女は、わざと、後ろにそっくり返って、取調べをたびたび中断させたという。

まあ、長々と書きましたが、少しでもあなたのお役に立てば・・・。
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この回答へのお礼

「歴史作家」様
ご丁寧な回答有難うございます。
豊富な知識に圧倒されてしまいました!このページを印刷してじっくり読ませていただきます。この回答文だけで、歴史小説が五本くらい書けちゃいそうですね。お時間を割いていただき、心より御礼申し上げます。 

お礼日時:2008/12/10 23:08

地理的には江戸の外の代官の支配地ですが、幕府公認の為、江戸町奉行の支配下にありました。

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この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。まずは町奉行の管轄と知って、ひとつコマを進めることが出来ました。m(_ _)m

お礼日時:2008/12/09 19:40

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Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Q遊女はどれくらいの借金がありましたか(江戸時代)

遊女は少額で売られてきて、多額の借金を背負ったと聞いたことがあります。
実際にはどれくらいの借金を背負ったのでしょうか?
借金の額はどのような計算で決まったのでしょうか。
また身受けする場合はどれくらいの金額が必要だったでしょうか。

Aベストアンサー

こんばんわ。
私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1641)頃
太夫=1両
明暦年間(1655~1658)頃
太夫=60匁、格子=26匁、散茶=金1分、局=3匁
元禄年間(1688~1704)頃
太夫=37匁、格子=26匁、局=3~5匁
享保19年(1734)
太夫=74匁、格子=52匁、散茶=1分、梅茶=10匁
延享2年(1745)
太夫=90匁、格子=60匁

時代により、現在の金銭の換算は変化をしますが、おおむね・・・。
1匁=約1500~2500円。
ただし、寛永18年の太夫=1両=約25万円。
その10%=2万5000円。
酒食のバックマージンがあったとしても、せいぜい、3万円位。
享保19年では、74匁=約19万円
10%=1万9000円。酒食のバックを入れても2万円少々。
太夫でさえそれ位ですから、太夫以下は押して知るべし。
とても、実家などへの「仕送り」などはできませんでした。
そして、15%を借金の返済に取られましたので、まあ、「苦海(苦界)10年」で、何とか、借金を返して、自由の身になれたのです。

>>2.遊女は吉原から外で出ることはなかったそうですが、本当にそうですか?花見とか月見とか、なじみの客とでかけたりしませんでしたか。

3月には「お花見」などで、主に「上野のお山」へ行きました。
「妓楼」単位で「若衆」の見張り付きで行われましたので、途中で「逃げ出す」ことなどはできませんでした。
次のサイトで吉原の「年中行事」が出ています。ご参考までに・・・。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/bangai/nenjyuugyouji.htm
馴染みの客とのデート・・・これは、「厳禁」でした。
遊女が、もし、その男と姿をくらましたら、折角の商売道具を取られたようなものですから、これはできませんでした。
もし、妓楼から逃げ出したり、男がそれを手伝ったりした時は、男は殺されました。
また、遊女も「遣手(やりて)」によって、竹刀でさんざんに叩かれたり、一晩立ち木に縛られたり、時には、攻め殺しにあうこともありました。他の遊女への「見せしめ」があったからです。
奉行所も、よほどの「たれこみ」がない限り、出張ることはせず、またもし、出張ったとしても、多額の「わいろ」でもみ消されました。

>>病気になって小石川養生所へ移されるとか。

「病」としては、大別して「瘡(かさ=梅毒)」と「労咳(肺結核)」でしたが、働きが良かった(客を大勢取った)遊女は、その妓楼の別宅で養生させてもらえましたが、大部分の遊女は、微熱があろうと、喀血をしながらも、多くの客を取らされました。
そして、いよいよ「ダメだな」となると、妓楼内の日当たりも良くない、薄暗い納戸のようなところへ閉じ込められ、食事もほとんど与えられずに遊女の「死」を待つだけでした。
遊女が死ぬと、腰巻一枚の丸裸にして、菰(こも)に包んで銭200文を付けて「投げ込み寺」へ。
寺では、「総墓」と呼ばれる大きな穴に投げ込み、簡単なお経を読んで供養を済ませました。
従って、小石川養生所などはもとより、医者にかかることさえできませんでした。

>>3.ご祝儀は自分のものにできましたか?

これは、自分のものになりました。
しかし、吉原ができた頃は、主に裕福な「武士」を対象としていました。これには、幕府の考えとして、金持ちの大名や武士が居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と、言う理由から、大名や高級武士、豪商などに限られていました。つまり、散財をさせて貧乏にする、と言う政策でした。
庶民が自由に大門を出入りできるようになったのは、元禄年間(1688~1704)頃からでした。
ですから、当初は「太夫」と言う「超エリート」が大名などにもてはやされ、「書」「読」「囲碁」「将棋」などの素養を必要としました。
だが、庶民が出入りするようになってからは、一晩抱くには、余りにも窮屈で、宝暦年間(1751~1764)頃には「太夫」は消滅をし、そこそこの器量で、そこそこの話題についていける「花魁」に変わりました。
しかし、京都や大阪では「太夫」の名称は残りました。
それは、江戸と違い、京や大阪では、「踊り」などの「芸」に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。江戸の「太夫」ほどの教養は必要としなかった。
また、ご祝儀は「自分のもの」になったとはいえ、庶民にとっては、吉原で遊女を揚げるだけで精一杯でしたので、よほど、お大尽でもなければ、「チップ」はもらえませんでしたし、お大尽になれば、「花魁」や「格子」などの格の上位を指名しましたので、それ以下の遊女は、めったに「チップ」はもらえませんでした。
享保時代に実際に?あつた話として、大工が1カ月かけて、銭200文(約6000円)を貯めて、やっと、吉原へ繰り出した、という話もあります。まあ、せいぜい「次」などの下級の遊女でも買ったのでしょうね。

こんばんわ。
私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1...続きを読む


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