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最近時代劇の庶民の長屋をみて思ったのですが、大小便はどのように処理していたのでしょうか。そして便所は家のどこにあるのでしょうか。また着物をきていた状態で男女はどんな下着をはいていて、大小便をするとき脱いでいたのでしょうか。また当時、食べ物の残りの骨など、どのように処理していたのでしょうか。よろしくご回答お願いします。

A 回答 (6件)

大小便(汚わい)の処理においては、江戸が世界でも一番発達していたと言われています。


長屋の共同(公衆)便所、武家屋敷の、旅籠の、遊郭の、商店の便所、これらをどのように処理するかは、考えてみれば大問題です。
この汚わいの処理こそ、その国の文化度のバロメーターといえるのではないでしょうか。

江戸は、町の多さから八百八町といわれていますが、もう一つの特徴はその町を縦横無尽に川が流れていたということです。
もちろん川は今の高速道路のようなもの、てくてく歩くより舟に乗る方が時間の短縮にもなり、また、廻船問屋などが海を回って遠くの農産物や海産物を河口の港に着けた荷物を、小さな船に積み替えて町の中心まで運ぶ幹線道路のようなものだったのです。
そして、川のもう一つの重要な役割が、各家家、各施設などから出る「汚わい」を「汚わい舟」で運び、畑の肥料を必要とする、近郷近在のお百姓さんに売りさばいたのです。

近世のフランスなどは、このような処理方法が確立していなかったので、二階の窓からも大声と共に汚わいが降り注ぐ有様で、町中が不潔で悪臭に塗れていた時代が長かったらしいです。

日本の汚わい処理は、水路の発達によって家家から農地へと、見事なまでのリサイクル処理が、既に江戸時代に完成していたということですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2007/02/11 21:26

幕末に江戸を訪れたイギリス人アーネスト・サトーは、「江戸の街はきわめて清潔である」と言い残しています。


多くの回答者様が指摘しているように、江戸時代の長屋の便所は共同で、糞尿は肥やし(汚わい)となります。
汚わいは、その長屋の大家が農民までの間の仲買業者に売り、そのお金は長屋の雨漏りの修繕などに使われたそうです。
今でいうなら、アパートの管理費みたいなものでしょうね。
生活用水の多くは井戸水ですが、一部地域には木製の地下水道管も通っておりました。道の下に木管が通りそこから長屋の井戸に配水され庶民の生活用水になっていました。
江戸東京博物館には、その様子をジオラマにして展示してあります。
また、深川江戸資料館には、質問者様の疑問である長屋の便所と井戸、ごみ溜めが、そのまんま再現されております。
百聞は一見にしかず、素晴らしい展示なので見学されることをお勧めします。

参考URL:http://www.kcf.or.jp/fukagawaedo-museum/index.html
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2007/02/11 21:28

 NO.1です。


 NO.4さんが不思議に思うこと「人糞をなぜ乾燥させて使わないか?」について
 大便と小便は用便の仕方から完全に分離することはできません。
 小便だけ貯める甕を置き(小便所)、或る程度分離は出来ましたが、完全分離は難しく、どうしても水分の多いものになってしまいます。
 乾燥させるためには、屋根付きの建物の中で長期間放置して自然乾燥させなければならない→べら棒な高コストの肥料になってしまう。
 今ではほとんど見かけなくなりましたが、畑の道に近いところに、大きな甕を埋め、そこに人糞を貯めていました。ここで少し醗酵して腐るのでチョッとマシになりました(稀にこれにハマル人がいました)。
 考えて見れば流体というのは便利なもので、手を触れずに肥桶と柄杓で撒けます。
 (以上実際に天秤棒で肥桶を担ぎ、臭いものを撒いて食料増産に貢献した経験者ヨリ)
 
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2007/02/11 21:28

江戸時代は大小便は、お金になりました。



大名屋敷の糞が最も高級で、次が武家屋敷。
糞に小便が混じると値段は極端に落ちました。
プロは、色と匂いで何を食っているのか分かったそうです。

糞も、半年も乾燥させると
全く匂わない良い肥料に変える事が出来ました。

野菜の残りなどは土に埋めれば肥料になります。
殆ど無駄無く、有効に使っていたそうです。

貝殻も粉にして肥料にしています。(カルシウム)
石灰の代わりです。
この観点から、骨も粉砕したのではないでしょうか?

石臼も、専門の研ぎ師がいて、微妙な加減で粉に出来たそうです。

>男女はどんな下着をはいていて
女性は昭和初期まで下着ははいていません。

デパート火事で下に飛び降りると見えるのが嫌だと殆どの女性が逃げられずに焼け死ぬと言う事件があり、
この後、女性の下着が考案されたようです。

男子の場合、ふんどしは横から出す。
また、紐を外さずに外すと後ろに行くので着物と巻いて横に。

私が不思議に思うのは、
乾燥させずに肥え(糞)使う事です。
(2年寝かせる場合は安全な肥料となる)

江戸時代の庶民は綺麗好きで清潔であったそうです。

むしろ、衛生面では戦前の方が悪くなってはいませんか?
米軍に毛ジラミ駆逐でDDTを散布され、
野菜からの寄生虫については猛抗議だったそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2007/02/11 21:27

江戸時代は、便は資源でしたから、長屋などでは共同便所を作って、そこで用を足し、それを農民が買って肥料にしていました。


これで有名なのが、葛西権四郎という人物で、江戸城のトイレを一手に引き受けて財を成し、糞尿を運ぶ船を、通称「葛西船」と称するようになりました。
同時代のヨーロッパでは、道で用を足したり、オマルの中身を公道にぶちまけたりしていましたから、日本は非常に清潔な街といえます。

当時の下着ですが、男性は時代劇に出てくるように「褌(ふんどし)」、女性は腰巻ですから、今の感覚ではスッポンポンですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2007/02/11 21:26

共同便所です。

長屋の端にありました。もちろん水洗ではなく、汲み取りでした。お百姓が畑の肥料にするので汲み取りにきます。
 井戸も共用で一箇所ありました。おかみさんたちは、ここで亭主の愚痴をコボしたり、噂話をしました→井戸端会議。
 下半身の下着は男はふんどし、女は腰巻で、パンツやズロースははいていません。
 男の小便:脱がずに少しずらして、イチモツを取り出します。着物の前を少し広げて立小便。
 男の大便:脱がずに前をはずして行います。着物は上のほうへたくし上げます。
 女の大小便:上の方へたくし上げて行います。
 魚の骨や野菜くずなどのゴミは、穴を掘ったゴミ捨て場へ捨てます。いずれ腐って土のなかに消えてなくなります。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2007/02/11 21:25

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