プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

クリスマスが近づくと、毎年、平和について考えてしまいます。
今年は例年になく厳しい状態が続くようですが。

ところで、戦争のない世界を多くの人は望んでいますが、その根拠としてはどのようなことがあるのか、私自身も、戦争のない世界を望んでいるのですが、ひょっとすると、戦争のない世界などは、過去に存在しなかったし、今後も存在しない、ということが証明可能かもしれません。
戦争のない世界を信仰として望むことを否定するのではなく、学、あるいは哲学として、存在しないし、今後も存在しないものについて考えることは、まったくの徒労になってしまいます。

そこで、戦争のない世界について、哲学的考察は可能なのでしょうか。
まずは、
1)戦争を現象学的に還元して、人間本性から起因しているもので、戦争はなくならない。という仮説について吟味してください。
2)1)の結果に関わらず、戦争のない世界について、哲学的な考察は有益なのでしょうか。
ひとつは、戦争のない世界はいかにして可能か。
もうひとつは、戦争がなくならないのならば、その悲惨をやわらげる方法を考えることは哲学か。
さらに、戦争がなくなるのかなくならないのかは解らない、それに関して何が語りえるのか。

3)これは、関心のある方だけご回答下さい。
ありもしないものについて考えることは、そもそも哲学なのでしょうか。
つまり、哲学の限界について、皆様のお考えをお聞かせ下さい。

質問を読んでいただき有難うございます。
こんな感謝の意思表示が許されるのかどうか分かりませんが、
お楽しみ下さい

A 回答 (26件中11~20件)

平和を愛する殺人集団は、今日も平和と正義を求めて人殺しでございます。


戦争はもはや当事国の戦闘員や一般市民のみならず人類の存亡を左右する危険性が
ある事象でございますので、現象学的になくならないなどと達観できる立場など
あるのでございましょうか。
人間本性は、人間を殺すものであることは非常によく理解できます。
それは、戦争遂行者、テロリストや無差別殺人犯等の問題ではなく、私の問題でございます。
詮方尽きた状態において、なお、他を殺さず、自を殺さない道のことでございます。
家を焼かれ、土地を奪われ、家族を殺され、まさに自らも殺されようとしているところの
ことでございます。
しかし、殺さなければ殺される、そして、殺してきたからこそ生き残っているのでございます。
せいぜい殺してきた私が、戦争はなくならない言うには、その業があまりに重すぎる
のでございます。
殺したものが生き残る・・・戦争はなくならない・・・
私は、絶望と希望の狭間で悶え苦しむのであって、戦争はなくならないんだと言ってしまえれば、
こんなに楽なことはございません。
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この回答へのお礼

またまた、お礼が遅くなり、大変申し訳ありません。
なるほど、よくわかりますし、同感です。
しかし、質問者としても、戦争はなくならないと、達観しているわけでもありません。
こうして質問して、ジタバタしてるんです。

実際、他のご回答者様の指摘どおり、先進国では実際の戦争はなくなっていますが、そのかわり、暴力的な武器を合法的な通貨という武器に変えて、殺人を繰り返す、企業集団も存在するのではないでしょうか。
ということは、経済戦争は、暴力的な実際の戦争を、回避する装置として、経済戦争を肯定してしまうような、「屁理屈」は可能なんだろうか、皆様の回答を通じて、私自身も、あれこれ考えているんです、むろんなんの役にもたたないのですが。

ご回答有難うございました。

お礼日時:2008/12/28 07:07

2008年12月24日になりました。

クリスマスイブですね。
20世紀を振り返ると、世界大戦を2回も、人類は経験しました。
第二次世界大戦、アジア太平洋戦争では、未だに遺骨を収容できない深海や洞窟に眠ったままの御霊がたくさんあります。
アメリカ合衆国と日本は、まだ、先の世界大戦の戦後処理を終わらせていないような気がします。法律で、外交で、賠償金で決着がついたと思う人もいるでしょうが、思想的、哲学的には、何も解決していません。
「戦争」という一般的な話をしても、空虚です。普通、日本人が「戦争」とか、「世界大戦」とか、「アジア太平洋戦争」といえば、家族、親戚に戦死者、被爆者をもつ、たった一つの戦争しかありません。
哲学は、問題のたてかた、問題のつかみかた、が大切です。
1929年の世界大恐慌から始まり、1930年代の日本の歴史を、今振り返ってみることは、十分に意味があると思います。
話は、急に飛びますが、NHK大河ドラマ「篤姫」の江戸城無血開城の、戦闘回避の政治交渉には、感動しました。女性が光り輝いて見えました。「戦争」「戦闘」のない平和な地域や民族には、母系制度の安定があるようです。
それぞれの学問には、守備範囲があるようです。そして、学問は、未来をさししめすことができますが、一度動き始めた歴史の歯車は、人間個人の意思を無視して、とまらないようです。世界と、日本が、新しい秩序を求めて胎動を始めました。もうだれにも止められません。私たちにできることは、この出産の痛みをやわらげて、母子ともに生き続けられように、出血を最小限にすることだけではないでしょうか?多分、舞台は、政治、経済の利害対立と闘争になると思います。議会と討論、論戦で新しい秩序ができるとよいのですが。
「戦争」については、個別具体的な戦争について、大いに議論をして、戦争終結のための政治交渉、外交努力を求めます。
「日本国憲法」前文と第9条をもつ、「日本」が、戦争放棄と核兵器廃絶の歴史的使命をもっていると確信しています。世界中に「第9条」を広げましょう。なぜか、ベートーベンの交響曲第9番が、くしくも人類の友愛を説いています。こどもの夢のような、お話で失礼しました。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。
クリスマスも終わって、この質問も、賞味期限が迫っていますね。

>「戦争」については、個別具体的な戦争について、
戦争一般に関して考えるのか、個別の戦争の解決について考えるのか、この区別は重要ですね。

大変示唆に富んだご回答を頂き、考え込んでいます。
一つ目は、戦争一般に関して考えることが、空虚なことになるのか。
確かに現実にあるのは、今朝のニュースのイスラエルによるガザ地区のハマスに対する空爆、そしてハマスの報復宣言、暴力の連鎖で、これはやはり政治の問題であり、哲学の出る幕など限られているのでしょう。
それでも、哲学は個別のことには関われないとしても、戦争一般に関して、空虚にならない議論・考察の可能性を探るしかないですね。その結論が、不本意な「戦争はなくならない」と言った事に成ったとしても。

二つ目は、戦争の経験ということでしょうか、戦争を経験していないものは、戦争を知らないわけで、そうであるのならば、戦争を知らないものが、戦争に関してあれこれ語ることは、僭越かつ越権行為である、と。
こんなふうに考えると、やはりこの理屈はおかしい。しかし、自身の経験以外の知識は、結局、他者の言説か、マスコミその他の媒体による知識でしかない。媒体の定義上、そこから得られる知識の背後には、他者の独断・信念・欺瞞・利害等々。

あれ~、私は戦争に関して質問する資格など無かったのでしょうか?

第九の季節に九条を大切にするのもしゃれてますね。
色々考えさせられるご回答を頂き、有難うございました。
それではよいお年をお迎え下さい。

お礼日時:2008/12/28 08:02

<<magga様は、戦争の要因として「無知」を挙げられます。

では以下の三段論法には、どう対応されます。>>

<<A戦争の原因は「無知」である。>>

はい。

<<B人間は神ではないので「全知」は不可能である。>>

「神」は定義が広くてよくわかりませんw
「全知」とは六根を有るがままに知ること、捏造しない誤知のないデータをありのまま観ること、悟ること、と考えています。

そしてその道に至る方法をブッダが懇切丁寧に語っていると感じます。

しかしながら、ほとんどの生命が無知に覆われていますね。

大抵の人は使える理性をもってそれほど大きな問題を起こさずに暮らしています。しかし無知を根絶やしにしない限り危険ははらんでいます。環境が整えば無理を起因として怒り欲で概念構築し外の世界と戦うことになります。

そしてブッダの語る一見「当たり前じゃん」ともいえる言葉。
その道を進もうとする人は数少ないでしょうね。
自分を守る当たり前のことを多くの人は嫌いますもんね。

<<Cよって、人間にとって「戦争のない世界」は不可能である。>>

よって常に危険をはらんでいるのが思考を伴う生命である人間だと思います。

常に争いに向かう危険をはらんでいるからこそ、自己を守り、戒め、他者を多く感情的に導かないように、他者をも守る事が、争いの世の中から離れるために避けるために必要なことになるのだと思います。

善と悪があり、堕落と向上があり、発心があり、試しがあり、…


<<「無知」を戦争の原因として、「無知」をなくせば「戦争のない世界」が来ることは、「根拠」としては弱い、つまり、「無知」だけが原因ではなく、他の要因もあるのでは、といった疑問が沸いてきます。>>

無知が全ての悩み苦しみの原因と考えてます。
無知が無ければ怒りも貪りも無いと言うこととおもいます。
無知と怒りと貪りが無い人が人と争うことがどうしてありましょう。

戦争の原因にしては根拠は十分と思います。
私はねw

無知は感情と概念と現象の軋轢の原因だと思っているので。
精神的、概念的に概念・現象との軋轢なきところに争いは起こりえないと思います。

他の要因となると、物質・物理的なことになりますが…


<<最小単位の問題や、消費活動関しても、興味深いアドバイスを頂きました、そうすると…>>

自分の出来る範囲でです。

ココにこだわって無知を育てては元も子もありません。
怒りをもってもいけないんです。やるなら慈悲の念を持ってやらなければ無知を育むことになってしまいます。

何か参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

お礼がまたまた大変遅くなりました。
雑用に手間取ったこともありますが、どうお礼してよいやら、さっぱりイメージが湧かなかったのです。第一印象としては、宗教を根拠にして、一定の整合性をもった世界を簡潔に語れる器量が、羨ましい。しかし、こんな事ではまともな御礼にならないし、時間をおいてまた読むと、結論的には、大した違いは無いとも受けとれたり。時には、相対主義的な寛容と慈悲の違いが気になったり。なんとなくつかみきれない部分が残ったままですね。

このあと、寛容について少しお話してみようと考えていたのですが、結局、巧くまとまらず、そうこうしているうちに、また雑用、今朝、また始めから書き直すより、質問者の考えの移ろいをそのまま書いておこうかと思いました。

magga様の悟りの境地が、羨ましいのは確かですが、それに同意できない私がいることも確かです、このことは質問と関係ないと思われるかもしれませんが、私としては関係しているんです。「戦争のない世界」がくるのかどうか分からない、どちらにも根拠がなさそう、にもかかわらず、「戦争のない世界」を求めたり「戦争のない世界はありえない」として、次善策を考えるにしても、その根本となる根拠がない。
私事で恐縮ですが、私の場合、基本的には、消極的な「独我論」に近いと申しますか、但し書きの沢山付いた「独我論者」のような気がします。そうすると、私が知りえることは、厳密に私の主観でしかないわけで、magga様のように、宗教のような外部世界に根拠を求めることは、私の場合、矛盾してしまうはずです。

今回のお礼、巧く書く必要もないのですが、誤解されやすい文章だと思います。
今朝、新しいご回答も頂いた様で、時間もあまりかけられません(もう十分時間の掛けすぎですが(笑。)
年の瀬に、帰し方のことなど、あれこれ考える参考になります。有難うございました。

お礼日時:2008/12/31 05:53

戦争は彼らにとって必要だからです。

人間は増殖力が旺盛で人口コントロールには戦争が最適なのです。少なくとも過去4000年の大きな戦争は、同じ血統の人たちによって引き起こされています。人間は奴隷として45万年ほど前に遺伝子操作によってオリオン座の方からきた宇宙人の細胞から作られました。それから暫くして人間らしく感情を持つようになりましたが、逃げ出せない様に体が死んだら生前の記憶を失うように作られていました。そして3次元に閉じ込められることになったのです。創造主が去った後地球に我々よりも長く住んでいる爬虫類人が地上に出てきて人間と血縁関係を結び、13血統をヨーロッパに広げました。エリザベス女王や殆どの王族そしてアメリカ大統領の44人中43人は爬虫類人と混血です。 貴方が人間だと思っている世界のリーダーたちが人間ではないからです。特徴は目に出ます。爬虫類の目ですね。

彼らは世界中の政治、経済、文化の中心を押さえているので、日本の新聞やテレビを見ても必要な情報はほとんど流れていませんね。天皇陛下も英国皇室とは関係が深いですが、血統の違いで(白人ではないのでと表向きは言われています)世界のリーダーの仲間には入れてもらえないようです。芸能人にもずいぶん潜入しています。

何億年前にも、地球人(人間ではありませんが、基本的には同じです。)は今の我々と同じような状態にありました。そして核戦争や滅亡の危機にあいプレーディアン星人らの友好的な宇宙人に助けられ、自分たちが宇宙の創造の一部であり、全てはひとつの意識から始まったのだと理解できて5次元に移りました。映画未知との遭遇に出てくる宇宙人がそうです。彼らは今でも地球に住んでいますがいつもは地球内部にいてたまにUFOに乗ってコスタリカの上空に現れたりしています。 
大惨事を免れて3時元に残っていた少数の地球人(人間の先祖)は、だまされて遺伝子操作をされ奴隷にされてしまいましたが、2013年にアクエリアス時代に入り我々が愛と意識にめざめる時代になり、再び自由になる時がきたのです。アクエリアス時代とは、今までは個人を独立したものと感じていた意識が、全てはひとつなんだと気ずくようになるのだということです。でも日本ではなぜ誰もこの話しを知らないのでしょうか。ノルウエー政府は国民の半分を助ける用意をして地価避難所を2011年までに完成しょうとしているのに、日本はエリートだけを助けるつもりで、羊は勝手に死ねという官僚体制が明らかですね。
http://www.youtube.com/watch?v=JBM_Utij9u4
大幅にカットされた人類創世記に書かれているように、人間は宇宙人との遺伝子操作によって誕生しました。聞いたことがないのは当然で、羊である、知能程度の低い人間に教えるはずはありません。そうです。彼らは、我々を家畜程度と思っています。彼ら爬虫類人は、このところ人間の姿を保てなくなり多くの人に変体している現場を目撃されるようになりました。混血率が50%の場合爬虫類の姿になることが出来るのです。彼らは人間の体を保つためには、月経の血を飲まなければなりません。そして人間の内臓を皮膚にこすりつけたりするそうです。(すいません気持ちが悪いですね。わたしも考えると吐きそうです。)コモドドラゴンがヤギを食べている感じでしょうか。コモドドラゴンは別にヤギを憎んでいるわけではありませんよね。生贄の儀式には、4次元の爬虫類人たちを呼び出す為に行われます。かれらは非常に知能指数が高いので、呼び出してはいろいろと解らない事などを質問します。儀式に参加した人間にのりうつることもあります。日本のリーダーも参加しているので当然彼らの仲間です。エリート達は、宇宙人からもらった未来を予想する機械を持っています。これは使う人達の気分で結果が異なります。エリート達の見た未来は、第三次世界大戦、地球壊滅、人類滅亡と言うものでした。爬虫類人の思いどおりですが、笑えるのは自分達も一緒に滅びると出たことです。ハリウッドも彼らの支配下ですので、ドキュメンタリーや地球未来計画のつもりで見てください。参考までに映像だけでも見てくださいね。

我々は3次元の世界を卒業して5次元の世界へ行きます。爬虫類人達はDNAの関係で4次元までしか行けないので、家畜と馬鹿にしていても人間と混血になって5次元に行きたいのです。しかし2012年が近ずくにつれそれは不可能なことがわかっています。そこで我々をだまして3次元に留めようとするはずです。彼らは魂を集めることが出来るので、羊を納屋にとどめておく為に9/11のように、テロに見せかけた核戦争や自然災害に見せかけて多くの人を殺そうとするはずです。貴方が不思議と思われていることは、綿密に計画された地球侵略計画の結果なのです。
http://www.anti-rothschild.net/lecture/current/i …
ちなみにクリスマスはイマニュエル(キリストと呼ばれている人)の誕生日ではなく冬至に行う爬虫類人の儀式の日です。イマニュエルの誕生日は2月3日です。西洋、中近東の宗教は、家畜をコントロールするように彼らが作ったので、戦争を継続する為には非常に効果的ですね。
PS;これを読まれた方全てが目覚められますように。是非you tubeを見てください。
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この回答へのお礼

safecity様、お礼が遅くなり、大変失礼しました。

いや~驚きましたね。こういう考えもあるのですか、知りませんでした。
>創造主が去った後地球に我々よりも長く住んでいる爬虫類人が・・・
この件に関しては、なんともコメントが見つかりません。
編集された部分に、何か有ったかもしれませんが、残念ながら機会を逸してしまいました。

一番下のURLは少し覗いてみました。
結局利子の問題ですが、この件も、今の所、確かな判断はできません。

そもそもこの質問は、利子の問題まで自分の思考を上方に向かって転換するか否かのポイントです。
私の思考は、下方に向かって掘り下げ、確固たる岩盤・根拠を探っているのですが、いつまでたっても、金鉱にも岩盤にも当りません、そこで、そもそもそんなものはないのではないかという疑いを、戦争という比喩・代理を使って検討してみようという下心ですね。貨幣の哲学とか価値の哲学では、もう飽きられてしまったようで。

どなた様に置かれましても、自分の信じる道を、行くしかありません。
ちょっと心配ですが、来年も頑張ってください。よいお年を。

お礼日時:2008/12/31 06:24

kigurumiです。



fushbowlさんは、戦争はどうのようにして引き起こるとお考えでしょうか。


>アメリカにとって戦争は、やっぱり日本の公共事業だったのか

イラン・イラク戦争。
そんな戦争があったことすら知らなかったのんきな私ですが、原因はよくわからないが、宗教派閥の違いか、領土問題か そのらあたりかなー と思っていました。
冷戦時代に戦争をしていたらしく、いまどき旧人がやるような行為を、まだ現代においてもしている とあまり関心を持たなかった。

ブラックジョークかどうか知りませんが、両国で話し合って、戦争をしていたとかなんとか。
国民を統一するには、国民に「あれが敵だ」と示せば、自分たちの敵は政府ではなく隣国だとして、ターゲットをそっちに向けてくれる。
そして一致団結して、今まで不満に思っていた政府の味方になる。
それに、失業対策にもなるとか。


ビデオ。
確かに私にとっても理解が難しかったですが、戦争に関心を持たない国民に戦争を支持させるには、どうしたらいいか が説明されていましたよね。
日本は真珠湾を奇襲攻撃したわけじゃない。
わざと情報を隠すことで、アメリカ国民が日本に対して怒り、アメリカ国民が戦争を支持するように操作した。
そのために、ハワイの住民に犠牲になってもらったわけです。

で、なんでそこまでして、戦争を起こす必要があったのかがビデオで説明されています。
日本が参戦することになったのも、作為されたから。
と私はビデオを観て理解したんですね。

もう立ち上がれないほどボロボロの日本に、大量破壊兵器を使いましたよね。
使う必要がなかったのに、必要の無いことを何故やったのか。
消費しないと儲からないってことなのでしょうか。

あのビデオの1は、イエスの真実。 2は9.11の真実。3は戦争の真実。
という感じじゃないかと。
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この回答へのお礼

kigurumiさん、たびたびすみません。
その上お礼も、大変遅くなってしまいました。
取り敢えず、ビデオの(1)見てみました。
(3)を見た後ですから、わりとまともな事をいっているようで、ただ、神話や伝説は似たものが多いのは世界共通で、それを、捏造とか模倣とか批判しても・・・尤もアメリカには、創造説を信じていられる方が多いから、このような主張が出てくるんですね。

そう言えば、先日のの新聞、
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/ …
「同意の上で装着」と有りますが、ビデオ(3)のチップを体内に埋め込むことでしょうか。
「装着」との表現ですが、首輪とか大昔の刺青とか、ちょっと怖いですね。

>戦争はどうのようにして引き起こるとお考えでしょうか。
≫アメリカにとって戦争は、やっぱり日本の公共事業だったのか
あっと、これは一種の皮肉と受けとってください。狭義での戦争は、国とか共同体の間で起きるものですから、その原因は複雑だと思います、集団の中には賛成派もあれば反対派もいることでしょう、代表者が独裁者でない限り、そのバランスを取りつつ、大勢側に則して判断するしかありませんね。そこで、プロパガンダが出てくるのですが、これは賛成派も反対派もやることで、偽りで出来た宣伝は問題でしょうが、プロパガンダとか宣伝とかはしょうがないと言うか、現在の先進国家では主権は国民ですから。

よく似た話に、モードの革命がありますね。
T型フォードは、大量生産で高嶺の花だった自動車を一般の人が買える価格にまで低くしました、ところが、T型フォードを二十年くらい作り続けると、T型フォードでは満足しない市場が出来てくるのです。この過程にはメディアの宣伝は有ったのでしょうが、結局は、人びとが消費のための消費を受け入れ、車はモデルチェンジというモードの消費に移ったといえるようです。

第二次世界大戦や原爆の話は、歴史の話でしょうか、事実がどんなものか私には測りませんが、私が思うに、自分や自分たちの能力が、他を凌駕していれば、その能力を使ってみたくなるのも、人間の性でしょうか。
おっと、これは口が滑ったでしょうか、訂正して遺憾の意を表明します。広島・長崎の皆様すみません。
ご回答有難うございました、残りのビデオは来年見てみます。よいお年を。

お礼日時:2008/12/31 17:05

もう体は大丈夫です。

 ご心配ありがとうございます。  いろいろ歳でたいへんなんですが、 鍛えてもいますのでその勝利という感じもあります^^。

もし、キリストの言葉を そのお話の中の奇跡物語とかの幼稚な御伽噺とは別に、人生の具体的な生活の中にしっかり根づかせているならば、  クリスマスとは「今」のすべてでしょうし、  12月の25日という日は関係なくなるで笑。

久しぶりに、訪れてみましたら 大変なことになってますね^^。

宇宙人論的なご回答まで飛び出してきましたね。 

2012年、5次元移行論?はともかく、そこに出ていたURLの中の金融の歴史については、勉強になりました。

自由・平等・博愛 という社会目標も なんか変だなとは思ってましたが裏で そういうきれいな大衆の好みそうな言葉としてそこに置かれて、お金持ち幻想欲(造語ですが^^)のためのだましのテクニックに使われてもいたんですね。

前回 kigurumiさんの紹介されていたURLのjyapann1,2,3、を見ていませんでしたが、  それも見てみて これは大問題と思いました。

私は新約聖書は 高校生の時に読んだだけでしたが、 これは新約聖書のキリストの言葉が出てる部分に関しては 何度も何度も思わず読んでしまったところですし、 その後 それは私の人生に大きな影響を与えています。

しかし、これが、なんで中世の暗黒時代とか十字軍のような宗教戦争などの残虐性にむすびついたのか、そのへんは謎のままでした。

言われてることと真逆ですからね。

でも、どうやら ラザロの復活とか、海の上を歩いたとか、十字架後の復活とか 私が御伽噺も混じってるなと高校の青二才の時ですら思って読んでたのを、 大の大人達が 本気で信じたりしてきてしまったのがキリスト教の大筋の歴史だったのでしょう。

そのyoutubeでの主張ですと 最後には、キリストは実在しなかったとの結論となっていますが、 でもこれは 私には疑問です。

キリストの言葉が、過去の神話に同じようなものが同じように出てきたというのではなくて、 後から作った物語的な部分 処女信仰とか 3人の博士が貧しい馬小屋の中に救世主を見つけただとか、いう部分だけをその後の奇跡とかのいかにも神様(笑)的な部分をとりだして、 昔の神話の数々と比較して論じても、    この本来はそうした神話の不完全性に反逆した鋭い知性の素朴な大工さんが実在しなかった証拠としては不十分すぎると思えます。

歴史家が当時たくさんいたのに 歴史家の誰もが彼を記述していない、それほどの奇跡を行ったのに!   というのは 奇跡で目立った超人だったことが前提となった話で、  そうではなく ほんとうに庶民の深い知恵をもった、ほんとうに庶民の一人だったとしたら、 これも話が違ってくる話です。   昔の時代に ただの大工さんのことを それが何人かの漁師達とかを迫力で圧倒したような話し方も出来たとして、 だれが気づくでしょう。

こうなると、かってにいろいろな人がいろいろなことを言えてしまいます。

いつしか商戦に利用されるようになったのもその一つでしょう。

感性教育が遅れている?ということへの疑問とともに、これだけ長い間に中身のすばらしさがわかっていながら、 その中身こそを哲学的に厳密に具体的な生活の中でその意味合いを語ってこれなかったキリスト教哲学者達にも疑問がわきます?

ただ、 何世紀の思索の歴史といっても、 人間の一生で考えたら、おじいさんが数十人さかのぼれば、もう数千年昔になってしまうわけですから、

すべてを客観視できる位置にいる情報化時代の私たちこそ、 歴史に本物の部分を学び直すべき当の主体なのでしょうね。 私もふくめ 自らを自省すべきときなのでしょう。



無学なもので、 カントやルソーやロックは ほとんど名前しか知りませんし、 ロールズやホップスは始めて聞く名前という感じで申し訳ないのですが、

紹介くださった文面は わたしなりに理解できますので、 また重要な地点と思われますので、 回答させていただきますが、

紙数と 文の区切りから ここは 二つにあえて分けさせていただきます。

OKウェブの元兼社長ご自身、 宗教の無い世界を歌うジョンレノンの歌に感動し、対話の広場を作られる大きな動機を得たとのこと、

平和への重要度を考えれば くだらない長い回答も多いだろう中、すこしぐらいは規則違反しても しかたないかと思います。

(つづく)
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
両方、拝見しました。
あわててお礼すると、また口が滑りそうで、
来年、纏めてお礼させて頂きます、よいお年を。

お礼日時:2008/12/31 17:22

 No.1&7です。



 fishbowl66さんは わたしの回答を完全に無視したと受け取りました。確認です。

この回答への補足

それは、誤解だと思いますが。

補足日時:2008/12/31 05:53
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりました。
さて、一般的には、お礼が遅れた場合、まずお詫びをし、その上で、お礼が遅れた理由や言い訳を披露する義務が生じそうですが、この事に関して、私自身、お礼が遅れた、或いは、お礼を遅らせた、この本当の所の原因や理由は、いまだに結論がつかないのです、つまり、私自身わからない。

とはいえ、bragelone様のご回答に対して、まず、お礼をする・しない、の選択で悩みました。つまり、bragelone様との対話は、はっきり申し上げて、あまり良い方向には向いていないからです。それでも、今お礼を書いて、対話の再開の可能性に賭ける理由は、一つには、共に対話を必要としているらしい、もう一つは、お礼がこれだけ遅れた理由の、良い言い訳を思いついた(上記の如くあくまでも言い訳ですが)ということです。

さて、文字数が限られていますから、挨拶は程々にして、本題に入らなければなりません。

この数ヶ月は、1)戦争を現象学的に還元して、人間本性から起因しているもので、戦争はなくならない。という仮説について吟味してください。
この事ばかり考えていました、そしてこの言葉の前提として、戦争・経済競争・他者との比較・人間性といった事象を一つの同じ傾向の発現様式の違いと考えているということ。また、人間性・人間本性と表現されるものが、取り敢えず、存在していると仮定していること、等々。
ところが、私は一方で、人間とは社会的動物である、という表現を究極的な意味で肯定しているのです。言い換えると、人間は生命としては自然の一部ではありますが、人間を生命と区別する人間の特質は社会性であるという意味で、究極的な肯定をしているわけです。

そうすると、前者の前提と後者の肯定は、はたして矛盾なく両立するだろうか、という疑問が沸いてくるのです。bragelone様の文脈で申し上げると、《〈戦争から自由である〉人間の境地》とは、1)の仮説や、その前提と両立するのでしょうか。また、私の質問の意図から《〈戦争から自由である〉人間の境地》を《〈競争から自由である〉人間の境地》と書き換えた場合、このような境地は、はたして可能なのでしょうか。

この質問は、もう誰も、覚えていないでしょう、簡単に結論の出ない本質的なところに留まって、ある種の不毛な考察を続ける、こういったことに楽しみを見つけられるようでしたら、お返事頂ければ幸いです。

お礼日時:2009/03/15 16:27

No16から続けます。



哲学カテで重要な質疑がある場合 いつも思うのですが、性能のいい車が精密でしっかりした構造を持ちながら車軸の大事な走りの要にてその歯車のかみ合いに《ゆとり》が必要なように、  私たちの生活が最高に快適であるため いや幸せであるための論議にも それが哲学的であるほどに こうした表現の《ゆとり》が必要だったりするところだなと  思ってしまいます。

本気度に応じて そして平和や愛との関りに応じ、その緻密さ高度さに応じて許されるべきところかと 。



続けさせていただきます。

事を解かりやすくするために 図で整理しなおしてみました。

便宜上の図ですが、シンプル・イズ・ベストを求めてのもの。

まず 三つの円を横にならべた図を描きます。 

円は 生物でもあり人間でもある存在の意識の世界を現します。

右側の円は、動物の意識状態がその完全性のある特徴を示す意識状態を表わしています。

(実際の動物の心理は ほんとうはもっと複雑で豊かなところもあるはずと思っていますが、 深入りはここでは避けます。)

つまり、 その意識内に 例えば「仲間意識」とか あるいは毛づくろいのような優しい感情があったとしても、そのすべては自己保存本能意識内の感情であり意識だという意識状態を表現する円だということです。

人間の場合の例ですと、 嘘をつくなという道徳にしても、完全に嘘をついたら金儲けの場でも信用がなくなる分損だという範囲でしか受け付けない状態^^とかいった意識ということです。 それ以外なら平気で嘘をつくとかとか^^。

それにたいして では真ん中の円はというと、 これは楕円としてみたのですが、説明は、先に左側の円の説明の後にまわします。

一番左の円は、 その中心に「幸せ」、あるいはそう呼べる感性の世界という一点が明確にあり、 そこからは放射状に 円を突き抜けて他の人間(他の意識→他の円)にまで向かっていくというエネルギー線の描かれる図をイメージしてみてください。

感性が高まり、そう呼べる点、「幸せ」と呼べるだけの一点となったときのエネルギーは これを真心よべる他の存在他の意識への思いやり、深い関心、ともに幸せであろうとする人間意識、 苦しかったらそのままでいることは同じ人間として出来ない、という自然な利他の意識となってゆく あるいはなっている、ということを表現する円と線です。

では、 その時真ん中の楕円とは、 これが道徳意識円という名で呼べる図だと私は思うわけなのです。

プライド、人間としてのプライド、文化人としてのプライド、誇りの高さ
がゆえの、道徳意識、 これはしかして、 円は両側の円の間を両方に引っ張られながらゆれてる姿とも例えられるでしょう。

もし、深くあいする家族とか 大好きな恋人の寝息に 無限の幸せを垣間気づくひと時とか  ふるさとの海辺にどさっ寝転び 聞こえる潮鳴りの中でやがて心が始めて一番星にきづくような安らかなひと時とか、 のそんな充実した心のうちには、 プライドもなにも超えた真心しかないでしょう。  それが ほんの弱い放射エネルギー線でも それは必ず同じ人間の存在へのリスペクトをともない他への真心と呼べる線として描かれるという意味合いの図が、 繰り返しになりますが左の円として、

真ん中の円は 裏の心は極端には間逆であるばあいさへある 嘘も可能なそんな揺れ動く不安定な、、そういう楕円の円ということです。

その時、 ご紹介くださったカントという学者の哲学にその楕円の円の左右への引っ張られ具合とゆれを見るのは おそらくわたしだけではないとおもわれましたが  いかがでしょう。

わたしなりに、
>ここからまた逆に平等への欲求が来る。それは、誰にも自分を上まわる優越を確立してほしくないという欲望と、他の人間がそうしてしまうかもしれないという懸念において、表現される。この過程は事柄の本質を表現しているので、身分や地位を得ようとする抗争、偽善や競争、嫉妬や忘恩や意地の悪さのような文化の悪徳を、徐々に惹き起こすにいたるのである。<
とのロールズの《カントにおける悪徳感》についての描写を一つ一つ分析することも可能ですが、  全文とかを読めない状況下でもありますし、   私の言わんとしている意味合いは すでに通じているかとおもいますので、いちいちの分析は これ以上は、ここでは差し控えさせていただきます。

しかし、次の>善の素質<との文は、 この図で言えば やはり真ん中の楕円をそれ自体抜け出していない 善 の素質 の事を意味していることは文脈全体から明らかであることは指摘しておきたいところです。

これに 悪徳が接木されるということは確かに充分に考えられるとことであり、 それでは名誉欲を刺激されてのアーミーの存在や狭い責任論の世界を抜け出せない論理となってもしかたがないところ、おそらく そのへんのカントの平和論も 左右に揺れて不安定なものであったろうと想像されてしまいます。

おそらく そこにその難解さの必然性があるのかとも思いました。

ロックとルソーとの間の揺れも まさに その楕円性を意味しているのではないでしょうか?



>ところで、ロールズの解釈「悪徳が善への素質に接木されている」に従えば、質問に挙げた仮説にまた戻ってしまいます。<

そうですね。 確かに真ん中の円に哲学がとどまるかぎり、 哲学は過去に作り上げられた経済の仕組みやそこからの政治権力の流れに対して これからも無力なのでしょうね。



細木数子さんのことは、イソップの北風と太陽のシンプルな寓話を受けての“ここでの平和論からは少しずれてもいるお話”ですし、 ニセkigurumiは 親しさをおぼえての冗談^^です。

ノータッチで、結構です^^。

ただ、このとき 「北風と太陽」の話自体は、はずせないところと私は思っています。   

世界を牛耳るほんの数百人のお金支配者がいたとして、 そいつらも同じ人間として接する以外に、 平和はやってこないでしょう。

そいつらにこびる^^なんてことじゃないすよ。  そういうチャンチャラ可笑しい笑いばなしがここに必要な哲学なのではなく、 そういう人たちも含めて  三つの円がそなわった同じ人間として、  神様に少しでも近い愛情や友情で接し 同じ人間としての 「幸せ」を何もかも過去のことを忘れて 想えるようなそういう哲学が必要だということです。

なんで、人を支配して 幸せなんですか? なんで、ダイヤを支配して幸せなんですか?  そんなむなしい人間では、大きな庭があっても 貧しい人がぼろぼろの窓に雪が降ってきことを感動するあたりまえの心にもおよばない感性にどんどんなってってしまうだけですよ。 ということです。

そのへんをどれだけ これからの哲学が すべての人により深く、より解かりやすく よりドラマチックの語れるか?

この道は、存在しています。  困難かもしれなくても ここに山は 存在しています。  人間に涙と笑いがあるかぎり。  絶対です。(あ

また感情的になってしまいましたが^^)。

この回答への補足

あらためて、三つの輪の図式の中で「道徳意識」と言う言葉が表れますが、道徳に関しては、道徳感情と道徳感覚(社会規範)と言う一般的な対立があります、この辺りを避けるために、「道徳意識」と言う表現をお使いになったと想像しますが、道徳感情というより、感情自体について、なかなか難しい問題があります。以下の二つの文章を読んでみてください。

「われわれの生活には、実際には変更不可能な要素と、良かれ悪しかれ、変化に左右される要素がある。生活における変更不可能な要素は、われわれの心を動かさないが、変動する要素は希望と恐怖を生み出す。人間の感情は確かなものよりも不確かなものに向けられるから、人間の感情的な性格は、その人が住んでいる社会組織の影響を直接受けて決定される。収入が変動しなければ、人間は金銭についてあまり考えないし、社会的地位が変わらなければ、家柄を鼻にかける俗物などにならないだろうし、自国が強大であり外的も歯が立たないならば、熱狂的な愛国者にはならないであろう。」
(『人生についての断章』バートランド・ラッセル)

「感情は、これまで、行為者の合理的な行為選択を誤らせる非合理的な攪乱要因と見なされるのが一般的であった。抑えがたい怒りが余計なひとことを言わせたり、失敗に対する恐れが本当の失敗を引き起こしたり、過度の愛情がかえって恋人を去らせたりする、というのはよくある話だろう。では、感情は一体何のために存在するのか。感情は、人間の進化の中では、たまたま選択された別の機能Xの副産物として残ってしまった厄介なお荷物にすぎないのだろうか。しかし、感情が行動や認知に及ぼす影響の甚大さを考えるなら、感情がたとえ悪役であっても、自然淘汰を生き延びてきた主役ではなく脇役だ、ということは考えにくい。・・・つまり感情が主役級の悪役なら、自然淘汰の矛先はほかならぬ感情にこそ向けられ、人類の初期の段階できれいさっぱり消し去られていたであろう。それゆえ、現在の人類に感情が現に具わっているということは、感情がその機能のゆえに淘汰を生き延びてきたということの証拠としては不十分かもしれないが、感情がトータルとして淘汰の対象となるほど悪しき結果を人類に及ぼし続けてきたわけではない、ということの証拠にはなるはずだ。」
(岩波講座哲学5 機能する感情・幻想する感情 柴田正良)

各々の文章は、私の読書録の中から取り出したもので、その都度、役に立ちそうな文章を拾い出していますから、単独で読めば、それなりの納得できる文章です。しかし、こうして二つ並べると、どうでしょうか、前者は感情を社会的として扱い、後者は感情を遺伝的に捉えています。前者は外部に後者は内部に感情の原因を見つけますし、ラッセルの言葉を踏まえれば、前者は変えられる物、後者は変えられない物と言うことになります。

arayata333様には、どうしてこんな細かいことが気になるのか不思議でしょうね。
これは、考えることの土台の問題です、例えば、
A感情は、自然的でもあり非自然的でもある。
B世界は、自然的なものと非自然的なものにに分けられ、それ以外のものは存在しない。
C自然的なものは、決して非自然的なものではなく、非自然的なものは、決して自然的なものではない。
Dしたがって、自然的でもあり非自然的でもあるものは存在しない。
結論、感情は存在しない。
これは、屁理屈というのでしょうが、論理的には正しいと思うのです、このことの是非はともかく、私の場合はこのような形式の考え方をすることが多いのです。お礼欄で、arayata333様のご回答を直観的・感性的と勝手に決め付けてしまいましたが、私の記述方法は、意味を優先するあまり、気持ちが伝わりませんし、結果として、直感に反する(感情は存在しない・戦争のない世界は存在しない)結論に頭を抱えているわけです。この長い文章の中で、補助線についての説明をしたつもりですが、上手く行ったかどうか、心許無い所ですが、時間を掛け過ぎたようですし、ひとまずここまでにします。

arayata333様は、感情に詳しそうですから、率直な感想を頂ければ幸いです。

>細木数子「 もっと与えなさい。 与えなさい。 与えなさい!」
そうすれば、人間の本性は、変わるのでしょうか?

お蔭様で、普段使わない、脳の歯車の隅々まで、ギシギシと音を立てて回転させました。歯車にゆとりが出来たか、逆に、歯が欠けて、空回り状態に陥ったのか、よく判りませんが、大変考えさせられるご回答を頂、お礼が遅れたことを含めて、心より感謝いたします。

補足日時:2009/03/22 16:35
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この回答へのお礼

arayata333様、お久しぶりです。
いつのまにか、桜の便りが聞かれる季節になってしまいました。
この数ヶ月、回答をよく吟味すれば、どんなお礼が良いのか、ある種の結論が出せると考えていたのですが、結局それは間違っていた事に気がつきました。つまり、熟慮の結果の結論は出せませんでしたが、お礼が遅れたと言う結果が原因となって、未消化のままお礼を書く事しか出来そうもないと言う事です。
この事は、去年まで否定的だった循環論を受け入れざるを得ないと言う、一つの方向転換を余儀なくされています。
この経緯については質問の内容と無関係ではないので、もう少し判りやすく説明した方が良いでしょう。

去年の暮れに、準備していたお礼の内容にはarayata333様のご回答が未消化であると記録されています。そこで、お礼をかけない私が、お礼を遅らしてゆっくり検討すべきだという私に押し切られ、「ひま薬」とか「人の噂も七十五日」と言った常套句の上にあぐらを掻いていたのでしょうか、それが、先月頃から、お礼が二ヶ月以上遅れた時期に、私自身の行為というより不行為の結果が原因になっていることに気がつきました。と言うのは、当初のご回答に対してお礼をすると言う事とは、別の次元で、結果が原因に転化しているわけです。これは、因果関係の連続とか、風が吹けば・・・ごく当たり前のことかもしれませんが、自己の同一性の中の循環論と表現すればよいのか、適当な言葉が見つからないままで・・・

出来の悪い言い訳は諦めて、実のところここのお礼も正直苦労しました。arayata333様様の気持ちは痛いほど伝わりましたが、正確な意味がもぅ一つはっきりしません。特に、三つの輪の図式の辺りですが、なかなか意味が伝わってこなかったのです。
その原因が、おぼろげながら想像が出来ましたので、補足欄を利用して、説明してみます。
あらかじめ、簡単に要約すると、直観的・感性的な記述と論理的・鉄仮面状の記述の違い、と、解釈してみました、もし違っていたら、申し訳ありません。その理由は、三つの輪に区別する場合の、境界線と言うか幾何学で言う補助線のようなものが私には見つけられなかったと言うことです。

これから、付け加える補足は、引用も多く長文になりますし、これが正しいと主張するものでもありません。私の脳の中は、こういう図式になっているようだ、と言う独り言です。

お礼日時:2009/03/22 16:35

<<magga様の悟りの境地が、羨ましいのは確かですが>>



悟ってませんよw

<<それに同意できない私がいることも確かです、このことは質問と関係ないと思われるかもしれませんが、私としては関係しているんです。>>

仏教の語る、科学的な手法を持って心・生き方に関して語られた「教え」に心から納得がいかないのはいわば当たり前のことと思います。

心から実体験としてなっとくがいけばもう、悩み苦しみから脱して悟っている人ですからねw

簡単な例でいけば「生命は必ず老いるし病になるし死ぬ。」と言うこと自体誰もが当たり前と言う事実で、納得しているんだ。と言っても恐怖や不安が有るということは、心から納得してないと言うことと思います。

我々は無知ですから主観で観ることになりますね。

そこで理性を重要視して物事を出来るだけ法則に則って観れるように気をつけながらその能力を育むことが、幸福を求める苦しみの滅を求める人にとって必須の項目になると思います。

それでも主観の根を抜くまで破るまでは主観ですから、「これこそ正しいほかは間違っている。」としたり「これの見解は私である。私のものである。それは私の<我>である。」と観ることは事実を見ることの障害となり、現実もしくは他の見解との軋轢を生み感情的になり争いを生み、ついには犯せない悪が無くなってしまう。

だからこそ、自己の見解は柔軟に範囲と根拠を求める姿勢で反証を受け入れる姿勢を保ち、知っていないことわからないことは保留し、その見解自体に自己を投影しないことが必要になってくると思います。

少しでもマシな、事実に沿った見解に至るように。

いずれ主観を破れるように。

<<「戦争のない世界」がくるのかどうか分からない、どちらにも根拠がなさそう、にもかかわらず、「戦争のない世界」を求めたり「戦争のない世界はありえない」として、次善策を考えるにしても、その根本となる根拠がない。>>

人間の多く抱いてしまう「私は悪くない、周りが悪い。私に責任は無い、他にあるんだ。」と言うことについて注視しながら、世間の動向を見ることをオススメします。

結構ずるくこの心が隠れているように私は思いますよ。

「戦争のない世界」
「戦争のない世界はありえない」

このような思考見解が生まれる原因由来について
前提条件・感情面・データなど何に支えられて生まれたものなのか
同じデータを元に他の見解は創れないかなど

今一度よく吟味してみてください。

苦しむのは誰の責任でしょうか
悩むのは誰の責任でしょうか
怒るのは誰の責任でしょうか
争うのは誰の責任でしょうか

心は結構ずる賢いですから注意深く見る必要がありますね

「私は悪くない、周りが悪い。私に責任は無い、他にあるんだ。」そのような思考で心で多くの人が思考・言葉・行為を運用すれば軋轢が生まれますね。

<<私が知りえることは、厳密に私の主観でしかないわけで、magga様のように、宗教のような外部世界に根拠を求めることは、私の場合、矛盾してしまうはずです。>>

残念ながら私の学ぶパーリ語の仏典には外部の根拠(これこそ事実という思い)を作るような信仰の世界は推奨されません。どちらかと言うと反宗教的な理性を育てる教えですよ。信仰は危険をはらみますからね。

自ら五感と意識の六根とそれぞれの対象となる外部の物質の接触によって生まれる触によって生まれる認識、苦・楽・不苦不楽の感覚、そこに入り込む妄想…。そこに発見できる法則…。

この体の動き・感覚・心の流れ・そこで観える法則などの四つを見ることを推奨します。

実際の根拠と言えると思います。

信仰より信<根拠の有る確信納得>(範囲と根拠のある主観)
信よりありのままを観る事で得られる智慧を重要視します。

もちろん論理的に成り立たないならば、もう捨てる。

非常に厳密に語られていると感じます。

サンガ出版の「仏法」やスマナサーラ長老の書籍はオススメです。
長老の無料のポッドキャストも多くあります。

何か参考になれば幸いです。

この回答への補足

それでは、ふたたび、「無知」について、お願いします。
前回は、曖昧な「神」など持ち出したため、軽く肩透かしを食らいましたが、今回は、「無知」に関してもう少し詳しく考えて見ました。

最初のご回答に、
>「原因は人間のありのままに知ることが出来ない誤知つまり「無知」により「自分勝手な妄想概念」を事実とし、他は間違っていると言う「邪見」に陥り、その見解・希望と現実との軋轢に「貪り」「怒り」を抱きその責任を他者に転嫁することに有ると考えてます。」

この>「ありのまま」とは、どのようなことでしょうか。
私たち、と言うと、magga様には異論があるかもしれませんが、敢えて、私たちは、カント、フッサール、構造主義哲学等々を通して、「ありのまま」と言う共通認識の不可能性を確認したのではないでしょうか。つまり、>「いずれ主観を破れるように。」これが不可能だからこそ、主観と主観の対話による相違点から、間主観的(複数の主観における一般的意見の一致)立場に至るような努力が必要なのではないでしょうか。
しかし、上記引用の後半部に注目すると、magga様の「無知」には、私が今言った事と、若干レベルの違う、感情・偏見といった、個別特殊な原因があるようにも受け取られます。

この件は、戦争の原因を個人に還元するか、考えている途中で、社会や共同体の要素をもう少し評価する必要があるかと言うことに関わってきます。
「それにも拘らず、これらの傾向性は、諸人の心にいたく迎えられるのである。さればこそ経験論は、どんな狂信よりもはるかに危険なのである、――狂信なら、多数の人達の常住的状態となることは、決して有りえないからである。」実践理性批判カント
カントの先験主義(経験論批判)と「決して有りえない」は一先ず保留して、傾向性の個別特殊性と習慣・文化といった比較的一般的な、二つの源泉の区別を区別する必要があると思いますが、magga様の「無知」とは、個別的なことか、一定の一般性をもったものか、どちらに分けられるのでしょうか。
もし、狂信の部類ならカントほど楽観できないとしても、特殊な事情さえなければ、多数の支持を受けて戦争の原因とまでなることはないと考えてしまうのですが。

「無知」についてもう一つ
戦争の原因としてではなく、もっと本質的といってよいのか、「争い」とか「苦しみ」の原因として「無知」を考える事にしてもよいのですが、「無」と「知」を分けた場合、例えば「苦しみ」の原因として「無知」を問題にする時、「知」が全くないのか、それとも、ある特定の「知」がないのか、そして後者の場合、ある特定の「知」が問題ならば、そのある特定の「知」とはなんでしょうか。

サンガ出版に関しては、サイトへ行ってまいりました、本のタイトルをみると・・・
図書館も調べましたが、検索には引っかかってこなかったです。

「理性は伝統的に正しい判断に導くとされてきましたが、現在では、理性が我々の判断をゆがめている」最近、このような意味合いの文章に出会った記憶があるのですが、その資料が、一向に見つかりません。ひょっとすると私の記憶違いかもしれません、この事に関しても、magga様のご意見をお聞きしたかったのですが、根拠のはっきりしない事柄を、あれこれ取り上げても、無駄ですから、資料が見つかったらまたお尋ねします。興味深い話題ですが、今回は、パスしておきます。

長々書きましたが、お礼に書いたように、気が向きましたら、ご返事下されば、幸いです。

補足日時:2009/03/29 16:31
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりました。
magga様には、どんな説明で、私の非礼をお詫びいたしましょうか。
「質問の商品化へのレジスタンス」とでも申しておきましょうか、勿論、この理由は最初から意図されていたことではなく、お礼が遅れたことによって、その遅延を正当化する、私のずるさを見つけることもできますが。「質問の商品化」といっても、このようなサイトでは当然のことで、問題にするのが間違った事かも知れませんが、この哲学という分野で、正確な答えのない(この事自体このサイトの規定に違反するのかもしれませんが)問題を抱えている場合は、質問を締め切り(つまり質問を消費し)、お礼を書き、ハイめでたく一件落着、という訳にはいかないのです。また、質問を締め切り、装いを少し変え(モデルチェンジ)新しい質問を立てても、結局、消費されて、廃棄物の山を築く手助けをしているようなものです。私の課題は、考え続けることです。今回は、結構長くこの問題を考え続けることができました(私の幸福がご回答者様の災難の元と成ったことに関してはお詫びするしかありません)。

この様に書いてきて、誤解されないように付け加えれば、私の質問へのご回答や他の質問者様のQ&Aを廃棄物などと示唆しているのではなく、ここのシステムの関係上、一つの質問は、時間が経てば、自動的に沢山の質問の奥に隠れて、賞味期限が切れ、消費または、ほぼ廃棄される、という意味合いです。また、システム自体、当然の構造であり、このシステムを批判しているのでもありません。単にこのシステムに対して、抵抗できる方便を模索しただけと、言っておきましょうか。結果として、今回は私の一人相撲ということになりそうですが、人とは変わったやり方は、最初は抵抗に出会うものです。最終的にどんな批判に出会うのかわかりませんが、なんでも試してみるしかないでしょう。

さて、下手な言い訳で、700文字強の廃棄物を作ってしまいました。
magga様には、まだまだお聞きしたいことが沢山あります。
別途、補足欄を利用して、私の疑問を整理して見ますが、もし関心がまだ残っているようでしたら、ご意見伺えれば幸いです。すでに、ご関心が消えてしまったなら、また何処かで、真摯な意見交換ができることを希望しております。今までのご回答に改めて、感謝いたします、本当に有難うございました。

お礼日時:2009/03/29 16:31

kigurumiです。



>>戦争はどうのようにして引き起こるとお考えでしょうか。

>狭義での戦争は、国とか共同体の間で起きるものですから、その原因は複雑だと思います、
>集団の中には賛成派もあれば反対派もいることでしょう、代表者が独裁者でない限り、
>そのバランスを取りつつ、大勢側に則して判断するしかありませんね。

ビデオを観て気づきませんでしたか?
人々は戦争を<望んでいなかった>→望んでいなかった時は、戦争は起こらなかった。
マインドコントロールされて、人々は<戦争を望んだ>→望んだ時、戦争は起こった。

とってもシンプルなことですよね。
意志が、戦争のある世界を起こした事例。

で、なんで戦争を望まなかった人々が、戦争を望むようになったかは、工作されたからですよね。そのビデオを見ると。
戦争が起こるように誘導して、誘導された者が誘導した人の思惑通りに戦争を起こして、望まなかった他の人々も、戦争を望ませるように誘導し、結果世界大戦になった。

誘導されても、戦争はこの世に存在してはならないと、戦争の存在を否定しつづけたら、戦争は起こらなかったわけです。


>「同意の上で装着」と有りますが、ビデオ(3)のチップを体内に埋め込むことでしょうか。

うーーん 宇宙人に拉致されて、何か埋め込まれたという人がいますが、宇宙人じゃなくて、実際は政府によって体内に埋め込まれた??
というのは冗談っぽいですが、実際動物では鳥に足輪をして、移動経路を調査したり、陸上の動物にも装着して、行動範囲を調べたりしていますよね。現実。

その記事を見ると、足輪のようです。
ですが、アメリカの政府は国民の体内に埋め込む方向で、いろいろやっているようです。
今の段階では、磁気カードかなにかにチップが入っていて、その人がそのカードを持っていれば、今どこにいるかわかる。

携帯電話なども、持っていれば、今持っている人がどこにいるかわかりますよね。
今のところ、医療で、その人の既往歴・受診暦などが登録され、どの病院でも情報が引き出せ、かかりつけの医者でなくても、対応できるようにしようとしているようです。
そのために、国民にカードを持ってもらう→チップを埋め込む→国民の一挙一動を監視できる という方向になっているようです。

そのために国民に了承してもらわなければならないので、いろいろ工作をしていると思えます。
恐怖心を起こさせることで、政府が国民を監視することを国民に了承させましたよね。(9・11)

you tubeでマッドっぽいのを見たことがあります。
googleで自分の住所を打ち込むと、自分の家まで見える。
マッドでは、googleで自分の家をモニターで見て、ドアの先の状況も見れて、モニターを見ている自分もモニターに写っていると。。。。
恐ろしいです。他人が今私が何をやっているか、世界のどこからでも盗撮できる。
このシステムが完成すれば、ストーカーにとっては朗報でしょうね。
家にいながら、女性の風呂場も覗けるようになるんですから。
(まっ 壁を通過して撮影できるカメラを開発しなければ、盗撮は実現しませんが)

ここまでじゃなくても、もう目の前に政府が国民を箱庭で飼えるような状況に近づいていっているんですね。

このシステムを国民に証人してもらうために、9・11を起こして、何千人も殺したとなると、アメリカ政府ってすごいですね。

日本も遅ればせながら、住民基本台帳を作っています。
今のところ、高速道路を清算なしに利用できるシステムですが、このままいくとどの施設を利用しても自動的に清算され、今国民がどこで何をやっているのか、一目瞭然なシステムになるかもしれないですね。


>人びとが消費のための消費を受け入れ、車はモデルチェンジというモードの消費に移ったといえるようです。

先日ネットサーフィンをやっていて、100万近いステージア(エレクトーン)を子供に買ってやるべきかどうか悩んでいる人がブログにこんなことを書いていた。
正確には覚えていませんが、こんな感じ。

「コピーを商売としている友人が、『もし100万するエレクトーンを子供に与えたら、与えられた子供は、将来どんな人になるのだろう』と言っていた。 さすがプロだ」

親が3歳か5歳だかの子供に100万を投資したくなる名文句。
消費意欲を増しますよね。
消費しないと、生産力が上がらない、ゆえに消費し続けないといけない。
節約は、経済を停滞させてしまう。だから不景気の時、公定歩合を引き下げ、国民に貯蓄じゃなくて消費をどんどんさせようとするわけです。

兵器メーカーは、どんどん消費してもらわないと生産できない。儲からない。
だから 戦争を是非やっていただきたいわけです。
そのためには、いろいろ工作して、人々が戦争を望むように仕向けるわけです。

国連のやったこと知ってます?
国連は兵隊持ってませんよね。 戦争が起こっているところに平和を呼びかけるのが国連?
A国とB国に兵器を密輸して、両方に戦争をさせた。
兵器の運搬途中で、車が故障してバレちゃった。

政府が煽ろうと、国連が戦争を起こしてくれと必死に願おうと、人々が「絶対にイヤだ」と決意を持ち続けている限り、戦争は起こらない。
そう思いません?

この回答への補足

>人々は戦争を<望んでいなかった>→望んでいなかった時は、戦争は起こらなかった。
>マインドコントロールされて、人々は<戦争を望んだ>→望んだ時、戦争は起こった。
>とってもシンプルなことですよね。

今回の補足では、この部分(戦争一般ではなくアメリカの戦争の原因)だけを取り上げてみます。その前に、またまた言い訳ですが、kigurumi様のようなご判断が、概ね常識であり、真実であると、お断りした上で、少々異常者の屁理屈として、お聞き下さい。

さて、ご紹介頂いたビデオ(3)の内容に関して個々の分析は煩雑になるだけですので、此処では控えましょう。ビデオでは繰り返し、アメリカの多くの戦争の背後に、黒幕・利害関係者の存在が示唆されていたようです。その結論は、kigurumi様の仰るように、とてもシンプルなことです。

しかし、まず一つ目に、このビデオには作者がいて、ある意図を持って制作され公開されているということ、つまり、ビデオの背後には、作者の主観があるわけです。この作者が批判する、権力による偽装のプロパガンダと、ご自身の意図の違い、つまり、政府は嘘を使って、国民を騙しているが、私は本当の事を言っている。「私は本当の事を言っている。」この根拠はどこから来るのでしょうか。映像と言葉の力でしょうか。メディア論でよく言われますが、映像とか言葉を切り貼りして、単純な図式を作ることは、広告でもなんでも使われる、一般的手法です、人々は単純な結論が欲しいからでしょうか。

さて、二つ目は、もっと異常な偏見です。
この作者に以下の意図があったかどうかは不明ですが、原因には二つの種類があるようです。一つは、論理的な因果関係と言って良いでしょうか、後で、矛盾が出るかもしれませんが、取り敢えず、適当な言葉がありませんから、もう一度、因果関係の説明と言う要素が一つと言っておきましょう。二つ目は、原因と言っても、正当性の理由のようなものがあります。今回のビデオに、二つ目の正当性の理由を当て嵌めても、単純な図式が表れてきます。戦争の原因は、権力者の偽装によるプロパガンダで、国民が騙されたから、もし国民が騙されていなかったら、戦争は起こらない。ハッピーですが、本当でしょうか。

三つ目は、二つ目の裏表かもしれませんが、原因そのもの、因果関係そのものに関する疑惑です。自然科学には、実験と言う手法があって、実験を繰り返せば、例外なく同じ結果が現れる、この場合、その実験の過程を因果関係としても法則としても理解できるし、証明もある程度できるでしょう。しかし、社会科学や現実の世界の出来事、歴史と言った事柄では、実験はできません。箱庭を作って、アメリカの独立戦争や南北戦争を再現するわけには行きません。この場合の原因の特定は、実験の過程ではなく、現在から過去を振り返る、歴史的な思考の産物とでも申せばよいでしょうか、或いは、多数決によって決められた、最も解りやすい説明が、原因として脚光を浴びることになるのではないでしょうか。この場合、仮に多数決だとすれば、原因として特定する、根拠は怪しいものです。

ところで、この三つ目の問題点まで書いてきて、これ以上この原因について書き続けると、自分の中の矛盾が噴出しそうで、ちょっと拙いです。予定を変更して、一歩後退。

質問に戻ります。御礼を遅らせた御蔭で(勝手な言い草は、笑って許して)考えることにアンカーが付けられた感じです、時間が有れば、お礼の遅れのことを考え、長い間考え続けることが出来たようです。質問した当時と比べると、私の問題意識は、ずいぶん変わってしまいました。
1)因果関係と無縁な社会的出来事があるのではないかと言う、とんでもない考え。
2)人間の本性など、そもそも無かったとのではと言う、この質問に対する後悔。
3)自然の法則と社会の法則と言う、二重基準と、この場合の二元論の橋渡し。

特に3)が三つ目の問題点まで書いて混乱した理由のようですね。

kigurumi様は、私の吃驚する様な事を沢山ご存知のようです、前回ご紹介頂いたビデオは、批判的なことばかり書きましたが、あのような物の存在さえ知りませんでしたから、大変有り難かったです。また何か面白いことが見つかりましたら、教えてください。

補足日時:2009/04/05 17:08
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりました、まだ覚えてますでしょうか。
今回のkigurumi様のご回答に、実は大変ショックを受けて、考え込んでしまいました。

>とってもシンプルなことですよね。
最初は、kigurumi様のように聡明な方が、この様な考え方をなさることに驚きました。
kigurumi様でも、こんな考え方をしてしまうのか、と。
でも、普段から、いろんなこと知ってられるな~と、敬意を抱いていた方の考えと、自分の考えが違うような場合、自分が間違っている可能性が高くなる訳ですが、自分が間違っている事に気づくのは、なかなか骨の折れることです。正月休み以降、例年の倍以上の本の乱読でした。いまだに、頭の中の整理ができていません。そこで、今回は、先に、補足欄で自分の混乱した頭の中を率直に文字にしてみました。今読み返しましたが、ひどい文章です、よほど、今週はお礼をパスして、来週に仕切り直しを、と考えましたが、来週になってうまく書ける保証もありません。取り敢えず読みにくい文章を、このまま、記載しておくことにしました。

9.11の事や国連のことに関しては、考えるゆとりも、事実関係もさっぱりわかりません。
コピーライターの名文句は、興味をそそる、面白い話題ですが、この様な面白い話題について語る遊び心が、欠乏しています。そういえば、こちらの地方は、不況のどん底、質問以来、のんびり旅にも出ていませんでした。それで、身体が硬くなって、脳までおかしくなったのかも。
「人間は、矛盾を織り込んで同一性を変化させながら、その同一性を不変とみなすことができるとても不思議な存在である。そして、その不思議なことができる人が正常で、無矛盾を生きようとする人は異常だというパラドックスこそがヒトを人間たらしめているのではないか、というのが目下の私の考えである」(『遺伝子不平等社会』池田清彦)これは、補足の、異常者の正当化です。

最近読んだ本のなかに「お礼は、早すぎても、遅れすぎてもいけない」と言った意味の言葉を見つけました。お礼を遅らせた、不慣れな状況の中で、kigurumi様の贈与への返礼としては、甚だ不釣り合いなものとなってしまいました、私にできる感謝の表現は、こんなぎこちないものです、大変有難うございました。

お礼日時:2009/04/05 17:12

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