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クリスマスが近づくと、毎年、平和について考えてしまいます。
今年は例年になく厳しい状態が続くようですが。

ところで、戦争のない世界を多くの人は望んでいますが、その根拠としてはどのようなことがあるのか、私自身も、戦争のない世界を望んでいるのですが、ひょっとすると、戦争のない世界などは、過去に存在しなかったし、今後も存在しない、ということが証明可能かもしれません。
戦争のない世界を信仰として望むことを否定するのではなく、学、あるいは哲学として、存在しないし、今後も存在しないものについて考えることは、まったくの徒労になってしまいます。

そこで、戦争のない世界について、哲学的考察は可能なのでしょうか。
まずは、
1)戦争を現象学的に還元して、人間本性から起因しているもので、戦争はなくならない。という仮説について吟味してください。
2)1)の結果に関わらず、戦争のない世界について、哲学的な考察は有益なのでしょうか。
ひとつは、戦争のない世界はいかにして可能か。
もうひとつは、戦争がなくならないのならば、その悲惨をやわらげる方法を考えることは哲学か。
さらに、戦争がなくなるのかなくならないのかは解らない、それに関して何が語りえるのか。

3)これは、関心のある方だけご回答下さい。
ありもしないものについて考えることは、そもそも哲学なのでしょうか。
つまり、哲学の限界について、皆様のお考えをお聞かせ下さい。

質問を読んでいただき有難うございます。
こんな感謝の意思表示が許されるのかどうか分かりませんが、
お楽しみ下さい

A 回答 (26件中1~10件)

<<私が、価値判断と言う言葉を拡張したのは、私たちの内にある、判断の中で、無意識的・前意識的に分析すること、つまり、具体例をあげたように、無意味な音の連続から、意味のある音を区別する過程を、無意識的に行っていた、極端に表現すれば、認識自体が価値判断に値する。

と言う、これは私の考えですが、このような考えを説明するために、あれこれ書いた次第です。>>

『六根と情報との接触によって生まれる「識」と苦・楽・不苦不楽に分類する「受」。「価値判断・自分勝手な尺度」のトッピング。』

あるいは感情まで(ここまでは入らないかな?)。

の性質を分類わけすることが出来ない。
全て同時に起こる。

同時に起こるので、この領域には何も出来ない。

とお考えなのかな?

あと無意識があると。

ここは集中力と落ち着き、洞察力を高め感覚観察をする必要がありますね。僕は「滑らかな一定のスローモーションの体の動きの感覚を実況中継する」という方法でチャレンジしているところです。



<<この事は、質問の内容からは少し外れますが、この誤解・相違は、言葉上の瑣末な問題なのか、それとも、仔細な事ながら、重要な事柄なのかは、私にはよく判らないところです。>>

意味の幅をいろいろ言わなければなかなか伝わらないものですよねw
「完璧に伝えること」自体は困難なことと思いますね。

<<「認識=価値判断(広い意味)=ありのままのデーターの『編集』」と言う構造は、私にとっては背骨に当たります。これなくして私はありえません。>>

僕の考え方は「認識=六根とそれぞれの対象の接触によって生まれるもの」「その認識に良い感じ・どってことない・嫌な感じの分類過程」があって、その次に「~べき」という「価値判断・尺度」が入りそれを繁栄させ感情が出ると思ってます。

そして「私」(変わらない私・アートマン・魂といいましょうか)は無いのだろうな。というのが今の私の憶測です。「私」という錯覚があるから「~べき」となるのだろうと。

<<とはいえ、10年後、私が当時間違っていた、と告白する日が来ないと断言するわけではありませんが、その時、私は、今の私ではないのでしょう。>>

「今の私」は今のみにあると僕はおもってます。一瞬一瞬違う要素の組み合わせになっていると。

なので、ともに柔軟にデータにもとづいて見解を常に更新可能な状態にして「生きること・生命とは」という研究をなしていきましょうw

<<一冊の本の中には、別の本の情報が埋もれています、宝探しのつもりで、楽しんで見ます。これで、誤解が解けるとよいのですが。有難うございました。>>

お釈迦様や能力あるお坊様方は、「生きるとは?生命とは?」という根本的な問題について、「理性的論理的に実証的」に語っています。頭で解るが、実感としてわからないことも確かめる方法も教えてくれます。

化学式と実験手引きが載っている「参考書」のような感覚があります。

当時のいろいろな考え方についても、「ここが間違ってますよ」と多く論破なされているように感じます。現在ある論も大抵はこの中に入っているように感じますね。

(当時の厳密で複雑wな論理のインドの哲学が相手ですからね。その相手も言葉だけ聴くと「何じゃそりゃ。バカなの?」と捨ててしまうようなものもよくよく見れば結構深く考えられているものが多くあまりバカには出来ないのですが(矛盾点はあるもののw))

昔、ある信仰を重視する宗教の学者陣が相手の宗教を潰す目的で研究し穴を見つけそこを足がかりに改宗させるということがなっされていたようです。

その方々が、お釈迦様の教え(パーリ語の仏典)にチャレンジしたが逆に自分の信仰の矛盾を見せられ、、無理だったようで、その中でも逃げずに挑戦した方々が、仏教の研究に専念したそうです。その方々の研究の成果のおかげで仏教を学ぶ私達はいろいろな恩恵を受けています。

この方々のように見解に執着せず、柔軟に保ち「理性」を重要視し、いつでも捨てられるように精進いたしましょう。


生命の全ての誤解が解けますように。
では幸福であれノシ

この回答への補足

マッガさん、とんだ失態を演じてしまい、ご迷惑をお掛けしました。補足欄では設定によってはメールが届きませんね、これで最後になってしまうかもしれません。すべて私の不徳の致す所と、深く反省。

価値判断の件で、少し引っかかってしまいましたが、例えば、視覚、ある範囲の波長の光以外は見えません、聴覚、同じくある範囲の周波数の音しか聞こえません。身体の器官が受容する情報と受容しない情報を区別しているわけですね、身体と言う器官を考えると、この時点での選別と、有意識的思考による価値判断が、本質的に違っているとは考えていない、前者が大いに固定されたもの、後者が固定されていないもの、といった大きな枠の中で考えている、と言ったことですが、なかなか正確にお伝えするには、私の能力不足を痛感する次第です。

閑話休題

見つけ出した本は、やっと読み終わりました。
一回目は、なにやらよく判りませんでした。対談形式の本は私は元々苦手の部類で。そこで、再度、スマナサーラさんの話だけを追って行くと、なんとなく判ってきました。多分、養老さんの話も、そこだけ追っていけば、判るんでしょうね。

そこで感じたことは、こんなことを言うと、そのスマナサーラ老師に叱られるかもしれませんが、『それでも私は知りたいし考えたい』格好付けていえば、『私の幸福より、知りたいんだ!』と。
ですから、老師の仰る事は成る程、もっともな事です、全然反対しません、老師も仏教も、自ら考えることを肯定していましたから。そこでやっぱりここでも、些細な言葉の問題、『無知』『無常』『無我』でしょうか。

無●●に関しては、一言あるのですが、長くなりますから、最も重要と思われる『無常』について、私の反論を書いておきます。

無常と言うのは、言うまでもなく、常に変わっていくと言うことですが、Aが時間空間的に位置を移動してA’と成る状態ではなく、A→Bに時間的に変化する状態の方に重点が置かれていると思います。尤もどちらの場合でも同じなのですが、移動にしても変化にしても、それを知るためには、不動の観測点か如何しても要請されざるを得ない、と言うことです。時計がボ~ンと八回音がして、後一回鳴るのか、八回目の音を聞いたAが、そのまま、九回目の音を聞かなければ、時計の音は何回なっても、一回しか鳴らないのでは、ないでしょうか。
この事は、100年前にベルクソンが持続と言う言葉を使って、表現したものですが、その持続の間は「無常」を否定せざるを得ないということになります。
我ながら、こんな細かいことを、自分自身嫌になるのですが、『無常』をすべては無常であるとすると、そこには、常であると言う状態が要請されてしまうという、矛盾に陥ってしまいますね。

そこから、絶対的一神教が、この問題に自覚的であり、仏教が無自覚だった、といった短絡的な結論を導くのではなく(私は宗教に関して全く知識がありませんから判断できません)おそらく、仏教・お釈迦さまにしても、自覚的に修行とか瞑想とか、色々有って多分乗り越えているのでしょうが、私の場合は、こうした些細な矛盾を、論理的にも合理的にも、上手く説明できるのではないか、と考えてしまうのですね。

その一つが、kigurumiさんと話していた時に出た、こちらも些細なことですが、原因と結果の一対一の関係に関する批判的な考慮と共通するのですが、私が常に変わっている、ということを認めると同時に、常に変わらない私もいるとも言える為には、一対一の因果関係で考えるのではなく、多くの原因が一つの結果をもたらしたり、一つの原因が多くの結果をもたらすことがある、と認めればよいような気がするのです。当然、私は単数名称ではなく複数名称と言うことにもなりますが。こういった説明が可能だと考えるのも、一種の信仰なんですがね。

この本の最後には、スマナサーラ老師の「生きとし生けるものが幸せでありますように。」と言う言葉で終わっていますが、このような状態が、「戦争のない世界」以上に、現実にありえる状態なのがどうか、神とか桃源郷とか、例の超越論的仮象、ふと、ため息を漏らしつつ、この質問を締め切ることにします。念のため、来週あたりにしておきましょう。
最初に申し上げましたように、私の失態から、最後に変なかたちになりましたが、長い間お付き合い頂きまして、大変有難うございました。

ポッドキャストと言うのですか、動画があるのかなと探してみましたが、残念ながら見つけられませんでしたが、色々な情報がありましたね、取り敢えず、自転車で走って、頭の中を空っぽにして、風になり切るのが、私の修行ですね。雨続きの休日、自転車のお掃除ついでに、お寺で頂いた、凡字のお守りのステッカーを貼って、これで私も、仏教徒、かな。

補足日時:2009/05/17 15:40
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この回答へのお礼

とんでもない失敗をしてしまいました。
改めて、お礼させていただきます。
つまり、もう暫く、締め切りを遅らせます。
個人的な事情でご迷惑でしょうが、宜しくお願いします、有難うございました。

お礼日時:2009/05/04 18:54

<<「無知」と言う言葉の意味にずれがあるようですが…認識から「価値判断」を弱める=「データの捏造」をしない。

>>

「価値判断(自分勝手な)」を弱める
=「価値判断」に対する執着を弱める
≒「価値判断」を無常である現実の生命ネットワーク内で軋轢を生まないものに変える

と私は理解しているのであって
≠「データの捏造をしない。」
とは理解してません。

「価値判断」を滅する=「データの捏造をしない。」
と理解してます。


<<ところが、最近、此処にも意味が現れだしたのです。最初は「シーマ」「メイシャー」。前者は、相槌・そうなの、と言った意味で、後者は、大丈夫・気にしない、です。これらはわりと単独で発話されるため、気づくのも早かったのですが、「ハンピョランハンピョランイタリーノ」この音の最後のイタリーノが中国語ではなく、いわゆる外来語をそのまま発音しているのに気づいたのは、一連の音の流れの中から、イタリーノを区切って取り出すことができたからです。前半の「ハンビョラン」も「ハン」で区切って、とっても、後ろは、綺麗・美しいと言う意味でらしいです。このような具体例を使って、私がお伝えしたいことは、データの分析とデータの捏造は紙一重・コインの裏表のようなもので、言葉で示されるような、はっきりした区別があるのだろうか、と言った疑問です。>>

これが「こうあるべき」というような「価値判断」とどのように関係しているのかチョッとわかりません。

たとえば「老・死」という決定的な事実がありますね。
事実でしょう。誰も違うとなかなかいえたものではありませんね。
なら何で「老い・死」を嫌がるのでしょう。
怖れるのでしょう。悲しむのでしょう??

そこには執着を持った対象(自分も他人も物質も)が「老いるべきではない」「死ぬ(壊れる)べきでない」という価値判断が根付いていないでしょうか?

人は多くは「安定」を求めます。しかしすぐに違う境遇が瞬間瞬間「生」じてしまい、安定していては対応出来ないので何とか頑張ってその変化に適応しようと「安定」しようとしますね、「生」を嫌います。

「生れるべきでない」という価値判断があるのではないでしょうか?

「病」も同じで「病になるべきでない」と。

嫌いな人・物とあいたくない。好ましい人・ものとあいたい。等等。

このようなものを「価値判断」といっています。

<<結局、ご紹介頂いた本が、図書館ではなかなか見つからないのが、困ったことで。あれこれ探して、「希望のしくみ」と言う本が見つかりました。以前のご回答に有りました、スマナサーラという名前を見つけましたが、「テーラワーダ」というご回答にない名前が付いていましたが、兎に角読んでみようかと、思っています。>>

えるものは多いと思いますよ。
80冊以上もの著書を出版なされてます。
無料のポッドキャストもネット上に何十時間分もあると思います。
そちらもオススメです。

<<最後に、私はどうして、平和の原因について尋ねなかったんだろう?と自問しています。>>

「柔軟な理解」と「慈悲喜捨」や「布施・愛語・利行・同事」「慙愧」が平和の原因といえましょう。

「やさしいってどういうこと?」という書籍もオススメです。

多くの笑顔が舞い降りますように☆☆

ノシ
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この回答へのお礼

マッガさん、またしても、ご回答有難うございます。
ご指摘の通り、価値判断と言う言葉の、一般的使用法から逸脱した意味を「価値判断」と言う表現に拡張・追加したことにより、うっかり、誤解の種を撒き散らしてしまったようです。

前回からの「あるがまま」「無知」等々の表現に関して、多少のずれが有ったと思います。
今回、具体例をあげて、説明を試みた事柄は、価値判断と言う言葉に、拡張・追加した部分を説明するためでした。

つまり、「価値判断」と言う言葉を拡張したのは、他に適当な言葉がなかったからです。心理学の分野でギブソンと言う人が「アフォーダンス」と言う言葉を「価値」と言う言葉を言い換えて使っています。それを簡単に言えば、環境の中にある生態的な意味、と言う事になりますが、「価値」と言う言葉を使うと、哲学的な外部に実在・主観の内という、余計な論争の負荷がかかる為、「アフォーダンス」と言う言葉を使って、生態的な意味の外部に実在する事を強調しようとしたのではと思います。
そこで、私が、価値判断と言う言葉を拡張したのは、私たちの内にある、判断の中で、無意識的・前意識的に分析すること、つまり、具体例をあげたように、無意味な音の連続から、意味のある音を区別する過程を、無意識的に行っていた、極端に表現すれば、認識自体が価値判断に値する。と言う、これは私の考えですが、このような考えを説明するために、あれこれ書いた次第です。

この事は、質問の内容からは少し外れますが、この誤解・相違は、言葉上の瑣末な問題なのか、それとも、仔細な事ながら、重要な事柄なのかは、私にはよく判らないところです。

認識から「価値判断」を弱める=「データの捏造」をしない。
ご指摘通り、この表現には、緊張感が不足していたようです。
しかし、私の考えでは。
「認識=価値判断(広い意味)=ありのままのデーターの『編集』」と言う構造は、私にとっては背骨に当たります。これなくして私はありえません。

とはいえ、10年後、私が当時間違っていた、と告白する日が来ないと断言するわけではありませんが、その時、私は、今の私ではないのでしょう。

一冊の本の中には、別の本の情報が埋もれています、宝探しのつもりで、楽しんで見ます。
これで、誤解が解けるとよいのですが。有難うございました。

お礼日時:2009/05/04 05:29

kigurumiです。



返信があったとのメールを受け取けとって、まだ閉じられていなかったのか と気づきました。笑


ショックですか? そう???

>まず一つ目に、このビデオには作者がいて、ある意図を持って制作され公開されているということ、つまり、ビデオの背後には、作者の主観があるわけです。

はい、人は得た情報でしか分析できない。
それは誰もそう。 全てを全部知ることはできないし、人によって同じ現象でも捉え方が異なる。

で、「戦争に突入だ」と煽動する人。
または、「戦争はすべきではない」と抑える人。

どっちが人間的だと思います?

戦争肯定の集団の未来と、反対の集団の未来 違いますよね。


前、「どうして人を殺してはいけないのか」という質問があって、かなりの人々が回答を寄せていた。
私も回答した一人ですが。

私の回答した内容は、和辻哲郎氏の考えに影響を受けたもの。
人は殺す能力がある。が能力がありながらしない。これが人を人たらしめるもの。
能力がありそれを行使したものは、自由を拘束され、時には害獣と同じ扱を受ける。
人ではもう無くなったとされるから。


何を望むの? 人が人を殺さない世界を望むの?
それとも人が人を殺す世界を望むの?

そう考えたとき、意思次第だと思いませんか?
意志が未来を作っていくと思いませんか?



>国民が騙されたから、もし国民が騙されていなかったら、戦争は起こらない。ハッピーですが、本当でしょうか。

人々がどういう情報を得ようと、望まなければ、共食いは起らなかったと思います。
幸福とは満足のことですよね。

以前、私は日本がイラク戦争を支持するかどうかで、あるネットで対話していたことがある。

ある人は<コベントリーの悲劇>を用いて、戦争は悪だが、それによって人々が幸福になるのなら、犠牲を払ってもいたしかた無い と、戦争の存在を肯定した。

もし、コベントリーの悲劇をご存知無いなら簡単に説明すると、チャチルはコベントリーの人々を犠牲にすることで、イギリス国民を守ったというもの。

少数の犠牲を払っても、大勢の命が助かればそれはいいのではないか → 戦争賛成。


という主張に対して、私はコベントリーの悲劇はゆがめられたもので、実話じゃない と反論。
チャーチルはコベントリーの人を見捨てる決断をしていなどいない と反論。


世間では政治家でも、コベントリーの悲劇を持ち出し、小数の国民を捨てても国民を守るべきであると言う人がいる。
歴史でそうあって、結果 良かったじゃないかと言う。

「ちょっと待った 歴史上 そんな実例は無い」

と押しかえさないと、その話を鵜呑みにすると、戦争賛成に集団が傾く。

そんな激論を見る人が多いサイトで戦わせていたが、そのさ中、日本政府はイラク戦争を支持する決断をしてしまった。

あうち!

では私の努力は無駄だったのか?
戦争を支持してはいけないという私なりの活動をしたが、失敗に終ったが、その議論をしているとき、ある人が聖書の一遍を用い、自分らしい生き方を示してくれた。

<自分は善いと思うことをやるだけです。太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだと聖書に書いてあります。>みたいな言葉をいただきました。

戦争は誰にとっても善いことじゃない。(一部の人にとってはそれで利益が得られるので、善いことになりますが。)

じゃあ 善いと思わない戦争をどうして支持するのか。
支持しちゃダメでしょ?

戦争を回避し、解決を模索するのが、知恵を持つ特殊な人間という動物ができることでしょ?
他の獣と同じことをやったら、人間じゃなくなるじゃないですか。
人間ではなくなったものは、獣として扱われることになるじゃないですか。
日本の法律では、獣は生き物じゃなく物です。



>自然科学には、実験と言う手法があって、実験を繰り返せば、例外なく同じ結果が現れる。

条件が一致すれば、結果は同じになる。
同じことをやったのに、結果が違った場合、条件がどこか違っていたから。


>しかし、社会科学や現実の世界の出来事、歴史と言った事柄では、実験はできません。箱庭を作って、アメリカの独立戦争や南北戦争を再現するわけには行きません。

うーん、、、
SWATだったか忘れましたが、特殊部隊の番組を見たことがあります。

過去の事件のデータをコンピュータに蓄積していて、事件が起こると今回の情報を入力し、どのパターンによる突入だと、人質に何人どの程度の犠牲が出、犯人のうち何人死亡し、何人捕らえられることができ、特殊部隊側にどの程度の犠牲が出るか までわかる。

成功率○○%と出て、その通りになるのだそうです。
死者の数も一致するそうです。


このパターンだとどうだ っていろいろやって、どのパターンで突入するのが最善だとして決行するらしいです。


ニキータって映画みたことあります。(ドラマの方。)
ドラマの方もリュック・ベッソンが統括責任者らしく、彼の思想が繁栄された作品なのかも。

この組織は世界平和の実現のための、影の組織って設定。
政府や警察が表向きできないことを、代わりにやる秘密組織って設定。


オペレーターは部下に全部の情報を与えない。
目的達成に必要な情報だけ、工作員に渡す。

ニキータは天性の稀なる戦闘本能を持っている、が説得では彼女を動かせないと上の人は知っている。
だから、任務成功率が極めて高い彼女を利用しないと、計画は成功しないので、もっと深い情報は渡さない。
世間で流れている表向きの情報や、その一下層下の情報程度を流す。

その情報の下にもっと複雑なものがあり、それらによって上の情報がなりたっていると と教えない。

S1のオペレータの望む世界を実現させるのに、ニキータの判断は不要。
彼女はオペレータの計画を成功させるための駒。
ちなみにオペレータと呼ばれる人は、組織S1の最高責任者。
操作する人だからオペレータね。
彼の望む世界を実現するため、駒(工作員)を操作する。

オペレータは世界平和の実現のためには、犠牲もやむおえないという考え。
時には邪魔になる善良な人も死ぬわけです。


これは架空のドラマですが、現実 部隊が突入して、市民に犠牲犠牲者が出たら問題になります。
部隊の存続の危機になります。


で、現実のオペレータは、優先順位を決めるわけです。
どうすれば、市民から反発されず、平和を維持するために、どう解決するか と。

コンピュータがはじき出す成功率や、詳細は現実その通りになることから信用できる。
何を目的に、どう戦略するか、コンピュータの意見を参考に決断するのは人間。


という私からの情報を得た後でも(1)(2)(3)は変りませんか?


>9.11の事や国連のことに関しては、考えるゆとりも、事実関係もさっぱりわかりません。

というのをもっと現実的に言えば、「誰か賢い人が政治をやってくれるだろうから その賢い人に丸投げ」という思想は危険だと言えますよね。
自分の無関心さにより自分が害を受ける。

全部を見ることはできないから諦めようと人間はしないところに、明るい未来があると思えるんですね。


遺伝子不平等社会。
読んだことないですが、書かれている言葉を読んで思った感想。
ナポレオンは英雄ですが、大量殺人鬼でもある。
ヒトラーはあの頃英雄でしたが、今では差別主義の冷酷・非情な人というイメージ。

今までとは違うことを考え出した人は、革命家と呼ばれるが、大体はその時代には理解されず、制裁を受ける。
後の時代では、その人の価値が逆転する。
早く生まれすぎた思想家 とでもいいましょうか。

人は変化を嫌う。 が 退屈も嫌う。
で、世の中は無常なので、嫌だと言っても変化する。
で、結局 自然淘汰ってものがあって、変化する環境に適応できないと、絶滅する。

だから、人は大きな流れが起ると、それに追従することで、生存を果たそうとするんじゃないか と。
でも、世の中は無常なので、どうしても異質が出てくる。


現存する最古の神話。
神々はティアマートから生まれたのですが、反逆し、ティアマートを殺した。

Y染色体はmtDNAから分裂したという説が有力。
それまではmtDNAは自己分裂をして増幅していたが、Y染色体を作り出し、交配して異種を作り出したと考えられる。

Y染色体はmtDNAの構造に比べとてもシンプル。
特徴は凶暴。

何故mtDNAは単独生殖をせず、Y染色体と交配するようになったのか、よくわかっていません。

ある人は、異種交配したほうがいろいろな種類が出てきて、一種類だったら、敵によって全部が全滅させられるが、いろいろな種類がいる状況だと、全部がやられず生き残るから とされている。
例を挙げると、ウイルス。
エイズウイルスが入っても発病しない人もいる。
抗体を作り生き残る人もいる。
その事からも異種交配の方が生き残る率が高いから、そうなったのだという人もいる。

でも、実験では自己増幅した方が強いらしいです。
異種交配する価値は見当たらないらしいです。


多くの人は遺伝子が違う。
一卵性双生児は全く遺伝子が一緒。
だけど、身体的な特徴は一致するが、思想においては別の考えを持つらしいです。

ということは、遺伝子が全てを決定しているわけではないってことですね。

なんか わけわからん返答になってしまってすいません・・・。
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この回答へのお礼

kigurumi様、やっと、追いつきました。
まぁ~だやってるのと、あなたは、又、笑ってしまうのでしょうね。

さて、今回のご回答では、どうも前回の補足欄に記入した内容について、もう一つ正確にお伝えすることが出来なかったようです。
一つ目は、価値判断ではなく事実判断を取り上げて、いわゆる、伝聞、に関する事実判断はいかにして可能かと言うことです。ほとんどの場合、価値判断の前提として事実判断があると思います。戦争を煽る人も、戦争に反対する人も、事実判断を単純簡略化して、価値判断を強要する構造を構成するため手法に、不可避的に或いは意図的に「データーの捏造」が混入してきます。上記のような、伝聞・情報の事実判断は、極端な表現を使ってみると、信じるか信じないかと言った、信仰のレベルでしかないのではないか? こんなふうに、お伝えしたかったのですが、価値判断の方ばかりが、伝わってしまったようです。
二つ目も、前記の内容の続きです。kigurumi様のご指摘通り、多くの人は、自身での事実判断と言う、苦しい仕事は好きではないようです。最初の問題同様、極端な表現を使えば、人々は、騙されがっている。物語的因果関係という解り易い結論の中に安住して居たいのでしょう。この点では、私とkigurumi様の違いは、表現された文字と、例えの事例が違うぐらいで、本質的な意見としては、同じだと思いますが、どうでしょうか。
三つ目、これが不出来で、kigurumi様に誤解を与え、ミスリードの原因でしょうか。
今、改めて読み直すと、A因果関係は理性が作り出したものではないか・B因果関係は自然の領域にあるものと社会の領域にあるものとで、違いがあるのではないか・C二つ目であった物語的因果性、等々が混在したまま、弁別できていないですね。これでは確かに、チンプンカンプン。

字数=簡略に私たちの相違を指摘してみますが、

因果関係は一対一の関係になるのでしょうか?

戦争の原因はプロパガンダであるとすると、その対偶は、多分、プロパガンダかなければ、戦争は起こらない、と言う事になるのでしょうか。直観的に後半は真ではないと判断できますが、この事に関して、どう反応するのか、たぶん、このような些細な細部に小さな差異があるんでしょうね。

そろそろ、時間が来たようです、kigurumi様も楽しまれたことを祈っています。

お礼日時:2009/05/03 08:17

マッガです。



<<「無知」について、お願いします>>

私のような拙い理性においてなせる範囲で書いてみます。


<<>「原因は人間のありのままに知ることが出来ない誤知つまり「無知」により「自分勝手な妄想概念」を事実とし、他は間違っていると言う「邪見」に陥り、その見解・希望と現実との軋轢に「貪り」「怒り」を抱きその責任を他者に転嫁することに有ると考えてます。」この>「ありのまま」とは、どのようなことでしょうか。>>

六根に対象が触れて認識し、感受が生まれると思います。

そこに主観的な価値判断が入るという意味をもって「ありのままに知っていない」「データの捏造」と呼んでいます。

主観(行為・認識・価値判断)において「価値判断」を滅した「認識」を「捏造の無いデータ」「ありのまま」と呼んでいます。

「価値判断」によって「理想の自分・理想の世界(他の生命も含む)」という「こうあるべき」という思惟を抱いて、現実と理想の差異・軋轢に、「こうあるべきなのに」と「怒り」で撥ね付けようとし「貪り」で引き入れようとするもしくは、想定外過ぎて「無知」によって混乱・眠気に陥る。

「データの捏造」が苦しみの根本で破るべきはそこにあると思ってます。

<<私たち、と言うと、magga様には異論があるかもしれませんが、敢えて、私たちは、カント、フッサール、構造主義哲学等々を通して、「ありのまま」と言う共通認識の不可能性を確認したのではないでしょうか。つまり、>「いずれ主観を破れるように。」これが不可能だからこそ、主観と主観の対話による相違点から、間主観的(複数の主観における一般的意見の一致)立場に至るような努力が必要なのではないでしょうか。>>

もちろん「理性のある方々にとって」異論の立たない道徳論なども重要でしょう。生命の希求・十善十悪・八正道・などにも詳細に説かれていると思います。

そのような思索をするにも「データの捏造」が多くては問題になりませんねw

減退する滅する努力は必須となりましょう。

「データの共通認識」は不可能でしょうね。現象は全て一度きりですから。しかし「データの法則性の共通認識」は可能と考えてます。

<<しかし、上記引用の後半部に注目すると、magga様の「無知」には、私が今言った事と、若干レベルの違う、感情・偏見といった、個別特殊な原因があるようにも受け取られます。>>

データの捏造です。

<<この件は、戦争の原因を個人に還元するか、考えている途中で、社会や共同体の要素をもう少し評価する必要があるかと言うことに関わってきます。「それにも拘らず、これらの傾向性は、諸人の心にいたく迎えられるのである。さればこそ経験論は、どんな狂信よりもはるかに危険なのである、――狂信なら、多数の人達の常住的状態となることは、決して有りえないからである。」実践理性批判カント。>>

憶測するに、捏造データを経験と事実と捉えそのデータを元に「これこそ事実、他は間違っている」とすることについて「狂信・妄信」の危険性を指摘したつもり何ではないでしょうか。(読んだこと無いので相当の憶測ですw)


<<カントの先験主義(経験論批判)と「決して有りえない」は一先ず保留して、傾向性の個別特殊性と習慣・文化といった比較的一般的な、二つの源泉の区別を区別する必要があると思いますが、magga様の「無知」とは、個別的なことか、一定の一般性をもったものか、どちらに分けられるのでしょうか。>>

恥ずかしながら私の知らないワードがチョコチョコありますがw

習慣文化なども一つの見解でしょう。
個別的なものも一つの見解でしょう。

もうチョッと深く観ると習慣・文化・歴史・宗教などは、総じて個人的な見解のうちに入るものと思います。ただある範囲で統一性があるように見えるだけで。。。

<<もし、狂信の部類ならカントほど楽観できないとしても、特殊な事情さえなければ、多数の支持を受けて戦争の原因とまでなることはないと考えてしまうのですが。>>

「価値判断」には「私は正しい。ほかは間違っている」「私の責任ではない。全て他者のせいだ。」という性質が多くあると思います。

「価値判断」によって、生命を殺すことすら正当化されます。

宗教や歴史を見ればよくよく見られることでしょう。

<<「無知」についてもう一つ、戦争の原因としてではなく、もっと本質的といってよいのか、「争い」とか「苦しみ」の原因として「無知」を考える事にしてもよいのですが、「無」と「知」を分けた場合、例えば「苦しみ」の原因として「無知」を問題にする時、「知」が全くないのか、それとも、ある特定の「知」がないのか、そして後者の場合、ある特定の「知」が問題ならば、そのある特定の「知」とはなんでしょうか。>>

「知」とは「智慧」のことと思います。
「智慧」とは捏造無く「ありのまま」を観る力だと思います。

「無知」とは、「智慧」を、「ありのまま」を観ることを、邪魔する因子、「捏造」「事実と反する見解」などのことをさすと思います。

「無知」たる「価値判断」を少なくするほどに「智慧高き人」と称され、「無知」たる「価値判断」を滅すれば「智慧の人」「ありのままを観る人」「目覚めた人」と称されると考えてます。

<<サンガ出版に関しては、サイトへ行ってまいりました、本のタイトルをみると・・・図書館も調べましたが、検索には引っかかってこなかったです。>>

リンクはっておきます。

<<「理性は伝統的に正しい判断に導くとされてきましたが、現在では、理性が我々の判断をゆがめている」最近、このような意味合いの文章に出会った記憶があるのですが、その資料が、一向に見つかりません。ひょっとすると私の記憶違いかもしれません、この事に関しても、magga様のご意見をお聞きしたかったのですが、根拠のはっきりしない事柄を、あれこれ取り上げても、無駄ですから、資料が見つかったらまたお尋ねします。興味深い話題ですが、今回は、パスしておきます。>>

文面を見るとこの人の「理性」という言葉の解釈と私のそれとはまったく違うものと思いますw

価値判断が昔のほうがマシだったということを良いたいのでは?といった感想です。

参考になれば幸いです。
では、幸福であれノシ

参考URL:http://www.samgha.co.jp/products/shinkan/buppou. …
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この回答へのお礼

相変わらず、御礼が遅く、申し訳なく思います。「無知」と言う言葉の意味にずれがあるようですが、そのずれが、どのようなもので、どの程度なのか、思案投げ首・・・こんな日本語ありましたかね。

認識から「価値判断」を弱める=「データの捏造」をしない。
この事に関して、最近の私の気づきに即して、説明してみます。

本を読むときに、映画を流しています。BGM代わりです。以前は英語の音を聞いていましたが、しょっちゅう聞いていると、その内意味が伝わってきて、気になってきます。そこで、去年辺りから、中国・香港辺りの映画を流しています。

ところが、最近、此処にも意味が現れだしたのです。最初は「シーマ」「メイシャー」。前者は、相槌・そうなの、と言った意味で、後者は、大丈夫・気にしない、です。これらはわりと単独で発話されるため、気づくのも早かったのですが、「ハンピョランハンピョランイタリーノ」この音の最後のイタリーノが中国語ではなく、いわゆる外来語をそのまま発音しているのに気づいたのは、一連の音の流れの中から、イタリーノを区切って取り出すことができたからです。前半の「ハンビョラン」も「ハン」で区切って、とっても、後ろは、綺麗・美しいと言う意味でらしいです。

残念なことに、最初から意識して実験したわけではありませんから、その間、時々字幕なども読んでしまいます、意味が判った理由は字幕を読んだですが、最初、一連の音のつながりでしかなかったものに、区切りを入れると言う操作は、重要なような気がします。

このような具体例を使って、私がお伝えしたいことは、データの分析とデータの捏造は紙一重・コインの裏表のようなもので、言葉で示されるような、はっきりした区別があるのだろうか、と言った疑問です。

結局、ご紹介頂いた本が、図書館ではなかなか見つからないのが、困ったことで。あれこれ探して、「希望のしくみ」と言う本が見つかりました。以前のご回答に有りました、スマナサーラという名前を見つけましたが、「テーラワーダ」というご回答にない名前が付いていましたが、兎に角読んでみようかと、思っています。

さて、永遠平和の問題もそろそろ一区切り、この連休のうちに整理したいと思いますが、最後に、私はどうして、平和の原因について尋ねなかったんだろう?と自問しています。
愚問に鄭重にお付き合い頂き、大変有難うございました。

お礼日時:2009/05/02 17:05

fishbowl66さん、こんにちは。



ずっと気になってたんですけど、
)戦争を現象学的に還元して、
って形相的還元ってことですか?

といってももうあきれ果てて見ていらっしゃらないか。
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この回答へのお礼

時すでに遅し。
いまさら、お礼を書いても仕方がないのですが、
確か、サラダボウルさんでしたか、一つの質問と、一つの回答を残されて、去ってしまった本当の事情は分かりませんが、この回答にお礼が付かなかったことが原因だとすれば、本当に申し訳ないことをしたと、お詫びするしかありません。

このお礼を書き終えて、投稿すれば、自動的にお礼の通知メールが発送され、宛先のない電気信号は何処をさまよい続けるのでしょうか、或いは、届いた先が宛先と、誰ぞの呪文を唱えて書いておきましょう。

形相的還元、う~ん、難しい言葉ですね、そのような区分けが有る事は、恥ずかしながら知りませんでした、取り敢えず、ググっと。

以下の文章が見つかりました、
『現象学的還元は形相的還元も役割としてもつ。形相的還元とは簡単に言えば、「理念化(一般抽象化)」することである。文字通り「形相=本質=理念」へ「還元する」ことである。偶然の個別の流動する心理的な現象、事実から、共通的な普遍的な「本質」「理念」をみてとることである。現象学の記述は、その理念の記述であり、何度反復してもその理念を言い当てているよう言語により確定していく。』

コピペしておきながら言うのもなんですが、よくわかりません。
文学では「間テクスト性」というものが有るらしいです、私は、単語一つにも同様なことが有るような気がします、最も単語の場合は、共通性より恣意性のほうが、私個人としては気になるところです。
上記の文章では、「本質=理念」「言語により確定」と言った表現が疑問ですね。
文字数の関係で、「本質=理念」だけ取り上げると、たぶんこの表現は、古い哲学者影響だと思いますが、私の場合「本質≒理念」で、理念には私なりの物語がくっついている、それは「平和は理念である」と「存在するものと存在して欲しいものの混同」柄谷流に「超越論的仮象」等々。

と言う事で、今回の質問は、
「平和は理念である」
「理念は超越論的仮象」
「存在するものと存在して欲しいものの混同」
の、三点セットから、
「平和は、存在するものか、存在して欲しいものか」
「存在して欲しいものとは、存在しないものの事なのか」と。

とはいえ、回答内容をリードする意志も能力もありませんから、質問の成り行きは風まかせです、どの道、届いたいた所があれば、其処が宛先なのですから。

お礼日時:2009/04/26 17:01

1.>ひとつは、戦争のない世界はいかにして可能か。


2.>もうひとつは、戦争がなくならないのならば、その悲惨をやわらげる方法を考えることは哲学か。
3.>さらに、戦争がなくなるのかなくならないのかは解らない、それに関して何が語りえるのか。

あまり理知的なことはわからないので簡略化します。

戦争の起こる原因はkigurumiさんの意見に賛同します。
>特定の人の自己利益により仕組まれており、国民は情報操作されて、踊らされ、平和より戦争をと望むようになるのではないか

その通りでしょ。
日本も北朝鮮、韓国、中国と竹島やなんたらかんたらとマスコミと韓国政府は煽りますが、あれはアメリカ(を支配に置いている人達、ザイアン)の政策です。東アジア圏内でいつも反発し合って統一しないようにすることで彼らの思うがママにコントロールできます。

面白いのが従軍慰安婦、竹島問題、日本人拉致事件などマスコミが騒ぎ立てる時ほど日本国内では大きな地震などが起こっています。
なんで?

日本の大きな地震は人災です。15年ぐらい前の大きな地震は地下核爆発を2箇所(島と山)でしたそうです。
最近ではHAARPという装置を使って天然災害にみせかけた人工災害を起こしています。
私が見てるかぎりではアメリカのカトリーナ(州政府の力を弱め、中央政府の力を強めるため)、中国の四川大地震(核施設破壊のため)、日本の数回にわたる大きな地震(兵器の実験結果採取、インサイダー取引、政府コントロールによる金稼ぎ)

HAARPは気性操作と災害、マインドコントロールができると多くのジャーナリストはリポートします。
http://310inkyo.jugem.jp/?eid=89
http://310inkyo.jugem.jp/?eid=832

音のならない雷を見たらケムトレイルが巻かれてると判別してください。
これはHAARPによる電磁波を行き来しやすくするように飛行機から巻かれているそうです。
そのケムトレイルにナノテクノロジーで病原菌が混ざっています。
http://taruwosiru.seesaa.net/article/73111791.html
(そういえば昔、O157はあえてばら撒かれてると聞いたことがありました。)

一応、2chでも話題になったので反HAARP論も出てきました。http://ameblo.jp/worldfact/entry-10107786298.html
何が本当で嘘かは自分の目で見抜いてください。

戦後の日本は完全なるアメリカの植民地です。
日本の財政はアメリカに貢いできました。15年前の時点で65%の日本資産はアメリカ国債です。他国は金保有率は50%以上ですが、日本はわずか3%です。それはNYの国連銀行にありました。郵政民営化にした理由はなんでしょう?世界の資産65%は郵便貯金にあるとききました。350兆円。それが民営化になることで元竹中財務大臣は240兆円のアメリカ国債を購入したそうです。

つまり、金です。

”戦争のない平和はありえない。”と一般で言われますが、”金儲けのない平和はありえない”とも言い換えられます。
戦争は最大の金儲けです。

本題に戻ります。
1.>ひとつは、戦争のない世界はいかにして可能か。
2.>もうひとつは、戦争がなくならないのならば、その悲惨をやわらげる方法を考えることは哲学か。
3.>さらに、戦争がなくなるのかなくならないのかは解らない、それに関して何が語りえるのか。

1.上記に述べたように戦争の無い世界は日本のように憲法第九条を持ち、実験国家になることです。大衆心理、コントロール、人工災害、それにより株価などの金儲けさえできればなにも問題はないでしょう。
http://www.anti-rothschild.net/main/01.html

2.その悲惨を柔らげることは政治です。元小泉首相のようにアメリカに媚を売る為に靖国神社参拝をし、アジア諸国にケンカを売り、自衛隊を派遣することによって日本ではテロが起こりませんでした。彼は日本の資産をアメリカに差し出すことで日本の平和が保てました。マスコミが良く騒ぎ立てるほどにそれはアメリカ寄りと見てよいでしょう。逆にマスコミが悪く騒ぎ立てるほどにそれは日本寄りと見て良いかもしれません。故田中角栄は日中国交正常化し、ロッキードで叩かれました。その後、脳卒中で倒れ、最後、回復真近でまた倒れました。これは完全に”暗殺”だそうです。(私の知り合いの人も同じ薬を戦中に経験したそうです。)その後、橋本龍太郎、小渕恵三も暗殺の疑いがあります。
http://310inkyo.jugem.jp/?eid=342
その後、盗聴法成立の反対をした栗本慎一郎は暗殺未遂に終わりました。
http://310inkyo.jugem.jp/?eid=257

極論ですがこれは現実です。
日本の為に働く政治家はマスコミに叩かれ、終いには暗殺されます。
日本を売る政治家は売国奴とも呼ばれますが、私腹を肥やし、日本に平和をもたらします。
それは日本が実験国家であることが至上命題です。
何が良いのか解りませんが、マスコミは真の統治者による大衆洗脳集団です。

繰り返しますが、”戦争の無い平和はありえない”=”金儲けの無い平和はありえない”とのことでしょう。
平和な上でいかに巨額の富を稼げるかが彼ら(ザイアン)の至上命題なのでしょう。

人工地震のもう一つの証拠!岩手・宮城地震発生前、岩手地盤の建設株にまたインサイダー!
http://310inkyo.jugem.jp/?eid=737

最終的には彼らの王国を作り、そこに世界中の税金が集まる仕組みを現在作っているそうです。
”2013年(?忘れました。汗。)までに3分の2のゴイムは死滅し、3分の1のゴイムは我々のために働くだろう”ユダヤ・プロフェシーより
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この回答へのお礼

HIKARU0321様、御礼が遅くなりました。
既に忘れてしまったことを、いまさら蒸し返されても、とお怒りかもしれませんが。

>戦争の起こる原因はkigurumiさんの意見に賛同します。

この件に関しては、kigurumi様への遅れたお礼で、別の見方を提示させていただきましたが、私の考え自体がいまだに未消化ですし、また再度kigurumi様から新たなご意見も頂いております。まだ詳しく見てはいませんが、興味深いお話を頂き、自分の考えを再度整理し直せるのではないかと、楽しみにしております。

HAARPのお話は面白かったですね、以前、日本でも、「白装束」の集団が話題になっていましたが、彼らも電磁波かなんかを気にしていたみたいですね。

>何が本当で嘘かは自分の目で見抜いてください。
うむ~今回の質問の奥には、この事の不可能性を意識しているのですが、簡単に説明できませんが、私達が見聞きしたものは、直接見たのか、信頼できる権威ある発信もとの情報か、或いはそれ以外の情報か、と言った区別により、(恣意的)ランク付けされているのではないでしょうか。この辺りは考えは、kigurumi様と共通のようですが、多少違っていて、どこが違っているのかを、今後発見していければと思っています。

>”戦争のない平和はありえない。”と一般で言われますが、”金儲けのない平和はありえない”とも言い換えられます。
戦争は最大の金儲けです。

この表現はちょっと難しかったですね。戦争で金儲けをする人はいますし、朝鮮戦争は日本にとっては経済成長のための一つの要因だったようです。しかし、そのような戦争の見方は、一つの見方であって、それだけに限定してしまうのは、ちょっと行き過ぎかも。
それと、戦争のない平和と言う表現が、微妙に気になりましたが、ともかく、金儲けだけはなくならないという、ご意見と受け賜っておきましょう。

そうすると、金儲けとはなんなんでしょう。

ご紹介頂いた、アンチ・ロスチャイルドは、銀行・金融に対する批判のようですが、その対策が、金利のつかないお金・地域通貨とすると、私は疑問が残りますね。

栗本慎一郎さん、懐かしい名前ですね、自民党とは以外でした、他にも面白い話、あっ郵便貯金の話は一寸した書き違いでしょう、文字数の関係で触れられませんが、他にも面白いお話を聞かせていただき、大変有難うございました。

お礼日時:2009/04/19 16:57

kigurumiです。



>>戦争はどうのようにして引き起こるとお考えでしょうか。

>狭義での戦争は、国とか共同体の間で起きるものですから、その原因は複雑だと思います、
>集団の中には賛成派もあれば反対派もいることでしょう、代表者が独裁者でない限り、
>そのバランスを取りつつ、大勢側に則して判断するしかありませんね。

ビデオを観て気づきませんでしたか?
人々は戦争を<望んでいなかった>→望んでいなかった時は、戦争は起こらなかった。
マインドコントロールされて、人々は<戦争を望んだ>→望んだ時、戦争は起こった。

とってもシンプルなことですよね。
意志が、戦争のある世界を起こした事例。

で、なんで戦争を望まなかった人々が、戦争を望むようになったかは、工作されたからですよね。そのビデオを見ると。
戦争が起こるように誘導して、誘導された者が誘導した人の思惑通りに戦争を起こして、望まなかった他の人々も、戦争を望ませるように誘導し、結果世界大戦になった。

誘導されても、戦争はこの世に存在してはならないと、戦争の存在を否定しつづけたら、戦争は起こらなかったわけです。


>「同意の上で装着」と有りますが、ビデオ(3)のチップを体内に埋め込むことでしょうか。

うーーん 宇宙人に拉致されて、何か埋め込まれたという人がいますが、宇宙人じゃなくて、実際は政府によって体内に埋め込まれた??
というのは冗談っぽいですが、実際動物では鳥に足輪をして、移動経路を調査したり、陸上の動物にも装着して、行動範囲を調べたりしていますよね。現実。

その記事を見ると、足輪のようです。
ですが、アメリカの政府は国民の体内に埋め込む方向で、いろいろやっているようです。
今の段階では、磁気カードかなにかにチップが入っていて、その人がそのカードを持っていれば、今どこにいるかわかる。

携帯電話なども、持っていれば、今持っている人がどこにいるかわかりますよね。
今のところ、医療で、その人の既往歴・受診暦などが登録され、どの病院でも情報が引き出せ、かかりつけの医者でなくても、対応できるようにしようとしているようです。
そのために、国民にカードを持ってもらう→チップを埋め込む→国民の一挙一動を監視できる という方向になっているようです。

そのために国民に了承してもらわなければならないので、いろいろ工作をしていると思えます。
恐怖心を起こさせることで、政府が国民を監視することを国民に了承させましたよね。(9・11)

you tubeでマッドっぽいのを見たことがあります。
googleで自分の住所を打ち込むと、自分の家まで見える。
マッドでは、googleで自分の家をモニターで見て、ドアの先の状況も見れて、モニターを見ている自分もモニターに写っていると。。。。
恐ろしいです。他人が今私が何をやっているか、世界のどこからでも盗撮できる。
このシステムが完成すれば、ストーカーにとっては朗報でしょうね。
家にいながら、女性の風呂場も覗けるようになるんですから。
(まっ 壁を通過して撮影できるカメラを開発しなければ、盗撮は実現しませんが)

ここまでじゃなくても、もう目の前に政府が国民を箱庭で飼えるような状況に近づいていっているんですね。

このシステムを国民に証人してもらうために、9・11を起こして、何千人も殺したとなると、アメリカ政府ってすごいですね。

日本も遅ればせながら、住民基本台帳を作っています。
今のところ、高速道路を清算なしに利用できるシステムですが、このままいくとどの施設を利用しても自動的に清算され、今国民がどこで何をやっているのか、一目瞭然なシステムになるかもしれないですね。


>人びとが消費のための消費を受け入れ、車はモデルチェンジというモードの消費に移ったといえるようです。

先日ネットサーフィンをやっていて、100万近いステージア(エレクトーン)を子供に買ってやるべきかどうか悩んでいる人がブログにこんなことを書いていた。
正確には覚えていませんが、こんな感じ。

「コピーを商売としている友人が、『もし100万するエレクトーンを子供に与えたら、与えられた子供は、将来どんな人になるのだろう』と言っていた。 さすがプロだ」

親が3歳か5歳だかの子供に100万を投資したくなる名文句。
消費意欲を増しますよね。
消費しないと、生産力が上がらない、ゆえに消費し続けないといけない。
節約は、経済を停滞させてしまう。だから不景気の時、公定歩合を引き下げ、国民に貯蓄じゃなくて消費をどんどんさせようとするわけです。

兵器メーカーは、どんどん消費してもらわないと生産できない。儲からない。
だから 戦争を是非やっていただきたいわけです。
そのためには、いろいろ工作して、人々が戦争を望むように仕向けるわけです。

国連のやったこと知ってます?
国連は兵隊持ってませんよね。 戦争が起こっているところに平和を呼びかけるのが国連?
A国とB国に兵器を密輸して、両方に戦争をさせた。
兵器の運搬途中で、車が故障してバレちゃった。

政府が煽ろうと、国連が戦争を起こしてくれと必死に願おうと、人々が「絶対にイヤだ」と決意を持ち続けている限り、戦争は起こらない。
そう思いません?

この回答への補足

>人々は戦争を<望んでいなかった>→望んでいなかった時は、戦争は起こらなかった。
>マインドコントロールされて、人々は<戦争を望んだ>→望んだ時、戦争は起こった。
>とってもシンプルなことですよね。

今回の補足では、この部分(戦争一般ではなくアメリカの戦争の原因)だけを取り上げてみます。その前に、またまた言い訳ですが、kigurumi様のようなご判断が、概ね常識であり、真実であると、お断りした上で、少々異常者の屁理屈として、お聞き下さい。

さて、ご紹介頂いたビデオ(3)の内容に関して個々の分析は煩雑になるだけですので、此処では控えましょう。ビデオでは繰り返し、アメリカの多くの戦争の背後に、黒幕・利害関係者の存在が示唆されていたようです。その結論は、kigurumi様の仰るように、とてもシンプルなことです。

しかし、まず一つ目に、このビデオには作者がいて、ある意図を持って制作され公開されているということ、つまり、ビデオの背後には、作者の主観があるわけです。この作者が批判する、権力による偽装のプロパガンダと、ご自身の意図の違い、つまり、政府は嘘を使って、国民を騙しているが、私は本当の事を言っている。「私は本当の事を言っている。」この根拠はどこから来るのでしょうか。映像と言葉の力でしょうか。メディア論でよく言われますが、映像とか言葉を切り貼りして、単純な図式を作ることは、広告でもなんでも使われる、一般的手法です、人々は単純な結論が欲しいからでしょうか。

さて、二つ目は、もっと異常な偏見です。
この作者に以下の意図があったかどうかは不明ですが、原因には二つの種類があるようです。一つは、論理的な因果関係と言って良いでしょうか、後で、矛盾が出るかもしれませんが、取り敢えず、適当な言葉がありませんから、もう一度、因果関係の説明と言う要素が一つと言っておきましょう。二つ目は、原因と言っても、正当性の理由のようなものがあります。今回のビデオに、二つ目の正当性の理由を当て嵌めても、単純な図式が表れてきます。戦争の原因は、権力者の偽装によるプロパガンダで、国民が騙されたから、もし国民が騙されていなかったら、戦争は起こらない。ハッピーですが、本当でしょうか。

三つ目は、二つ目の裏表かもしれませんが、原因そのもの、因果関係そのものに関する疑惑です。自然科学には、実験と言う手法があって、実験を繰り返せば、例外なく同じ結果が現れる、この場合、その実験の過程を因果関係としても法則としても理解できるし、証明もある程度できるでしょう。しかし、社会科学や現実の世界の出来事、歴史と言った事柄では、実験はできません。箱庭を作って、アメリカの独立戦争や南北戦争を再現するわけには行きません。この場合の原因の特定は、実験の過程ではなく、現在から過去を振り返る、歴史的な思考の産物とでも申せばよいでしょうか、或いは、多数決によって決められた、最も解りやすい説明が、原因として脚光を浴びることになるのではないでしょうか。この場合、仮に多数決だとすれば、原因として特定する、根拠は怪しいものです。

ところで、この三つ目の問題点まで書いてきて、これ以上この原因について書き続けると、自分の中の矛盾が噴出しそうで、ちょっと拙いです。予定を変更して、一歩後退。

質問に戻ります。御礼を遅らせた御蔭で(勝手な言い草は、笑って許して)考えることにアンカーが付けられた感じです、時間が有れば、お礼の遅れのことを考え、長い間考え続けることが出来たようです。質問した当時と比べると、私の問題意識は、ずいぶん変わってしまいました。
1)因果関係と無縁な社会的出来事があるのではないかと言う、とんでもない考え。
2)人間の本性など、そもそも無かったとのではと言う、この質問に対する後悔。
3)自然の法則と社会の法則と言う、二重基準と、この場合の二元論の橋渡し。

特に3)が三つ目の問題点まで書いて混乱した理由のようですね。

kigurumi様は、私の吃驚する様な事を沢山ご存知のようです、前回ご紹介頂いたビデオは、批判的なことばかり書きましたが、あのような物の存在さえ知りませんでしたから、大変有り難かったです。また何か面白いことが見つかりましたら、教えてください。

補足日時:2009/04/05 17:08
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりました、まだ覚えてますでしょうか。
今回のkigurumi様のご回答に、実は大変ショックを受けて、考え込んでしまいました。

>とってもシンプルなことですよね。
最初は、kigurumi様のように聡明な方が、この様な考え方をなさることに驚きました。
kigurumi様でも、こんな考え方をしてしまうのか、と。
でも、普段から、いろんなこと知ってられるな~と、敬意を抱いていた方の考えと、自分の考えが違うような場合、自分が間違っている可能性が高くなる訳ですが、自分が間違っている事に気づくのは、なかなか骨の折れることです。正月休み以降、例年の倍以上の本の乱読でした。いまだに、頭の中の整理ができていません。そこで、今回は、先に、補足欄で自分の混乱した頭の中を率直に文字にしてみました。今読み返しましたが、ひどい文章です、よほど、今週はお礼をパスして、来週に仕切り直しを、と考えましたが、来週になってうまく書ける保証もありません。取り敢えず読みにくい文章を、このまま、記載しておくことにしました。

9.11の事や国連のことに関しては、考えるゆとりも、事実関係もさっぱりわかりません。
コピーライターの名文句は、興味をそそる、面白い話題ですが、この様な面白い話題について語る遊び心が、欠乏しています。そういえば、こちらの地方は、不況のどん底、質問以来、のんびり旅にも出ていませんでした。それで、身体が硬くなって、脳までおかしくなったのかも。
「人間は、矛盾を織り込んで同一性を変化させながら、その同一性を不変とみなすことができるとても不思議な存在である。そして、その不思議なことができる人が正常で、無矛盾を生きようとする人は異常だというパラドックスこそがヒトを人間たらしめているのではないか、というのが目下の私の考えである」(『遺伝子不平等社会』池田清彦)これは、補足の、異常者の正当化です。

最近読んだ本のなかに「お礼は、早すぎても、遅れすぎてもいけない」と言った意味の言葉を見つけました。お礼を遅らせた、不慣れな状況の中で、kigurumi様の贈与への返礼としては、甚だ不釣り合いなものとなってしまいました、私にできる感謝の表現は、こんなぎこちないものです、大変有難うございました。

お礼日時:2009/04/05 17:12

<<magga様の悟りの境地が、羨ましいのは確かですが>>



悟ってませんよw

<<それに同意できない私がいることも確かです、このことは質問と関係ないと思われるかもしれませんが、私としては関係しているんです。>>

仏教の語る、科学的な手法を持って心・生き方に関して語られた「教え」に心から納得がいかないのはいわば当たり前のことと思います。

心から実体験としてなっとくがいけばもう、悩み苦しみから脱して悟っている人ですからねw

簡単な例でいけば「生命は必ず老いるし病になるし死ぬ。」と言うこと自体誰もが当たり前と言う事実で、納得しているんだ。と言っても恐怖や不安が有るということは、心から納得してないと言うことと思います。

我々は無知ですから主観で観ることになりますね。

そこで理性を重要視して物事を出来るだけ法則に則って観れるように気をつけながらその能力を育むことが、幸福を求める苦しみの滅を求める人にとって必須の項目になると思います。

それでも主観の根を抜くまで破るまでは主観ですから、「これこそ正しいほかは間違っている。」としたり「これの見解は私である。私のものである。それは私の<我>である。」と観ることは事実を見ることの障害となり、現実もしくは他の見解との軋轢を生み感情的になり争いを生み、ついには犯せない悪が無くなってしまう。

だからこそ、自己の見解は柔軟に範囲と根拠を求める姿勢で反証を受け入れる姿勢を保ち、知っていないことわからないことは保留し、その見解自体に自己を投影しないことが必要になってくると思います。

少しでもマシな、事実に沿った見解に至るように。

いずれ主観を破れるように。

<<「戦争のない世界」がくるのかどうか分からない、どちらにも根拠がなさそう、にもかかわらず、「戦争のない世界」を求めたり「戦争のない世界はありえない」として、次善策を考えるにしても、その根本となる根拠がない。>>

人間の多く抱いてしまう「私は悪くない、周りが悪い。私に責任は無い、他にあるんだ。」と言うことについて注視しながら、世間の動向を見ることをオススメします。

結構ずるくこの心が隠れているように私は思いますよ。

「戦争のない世界」
「戦争のない世界はありえない」

このような思考見解が生まれる原因由来について
前提条件・感情面・データなど何に支えられて生まれたものなのか
同じデータを元に他の見解は創れないかなど

今一度よく吟味してみてください。

苦しむのは誰の責任でしょうか
悩むのは誰の責任でしょうか
怒るのは誰の責任でしょうか
争うのは誰の責任でしょうか

心は結構ずる賢いですから注意深く見る必要がありますね

「私は悪くない、周りが悪い。私に責任は無い、他にあるんだ。」そのような思考で心で多くの人が思考・言葉・行為を運用すれば軋轢が生まれますね。

<<私が知りえることは、厳密に私の主観でしかないわけで、magga様のように、宗教のような外部世界に根拠を求めることは、私の場合、矛盾してしまうはずです。>>

残念ながら私の学ぶパーリ語の仏典には外部の根拠(これこそ事実という思い)を作るような信仰の世界は推奨されません。どちらかと言うと反宗教的な理性を育てる教えですよ。信仰は危険をはらみますからね。

自ら五感と意識の六根とそれぞれの対象となる外部の物質の接触によって生まれる触によって生まれる認識、苦・楽・不苦不楽の感覚、そこに入り込む妄想…。そこに発見できる法則…。

この体の動き・感覚・心の流れ・そこで観える法則などの四つを見ることを推奨します。

実際の根拠と言えると思います。

信仰より信<根拠の有る確信納得>(範囲と根拠のある主観)
信よりありのままを観る事で得られる智慧を重要視します。

もちろん論理的に成り立たないならば、もう捨てる。

非常に厳密に語られていると感じます。

サンガ出版の「仏法」やスマナサーラ長老の書籍はオススメです。
長老の無料のポッドキャストも多くあります。

何か参考になれば幸いです。

この回答への補足

それでは、ふたたび、「無知」について、お願いします。
前回は、曖昧な「神」など持ち出したため、軽く肩透かしを食らいましたが、今回は、「無知」に関してもう少し詳しく考えて見ました。

最初のご回答に、
>「原因は人間のありのままに知ることが出来ない誤知つまり「無知」により「自分勝手な妄想概念」を事実とし、他は間違っていると言う「邪見」に陥り、その見解・希望と現実との軋轢に「貪り」「怒り」を抱きその責任を他者に転嫁することに有ると考えてます。」

この>「ありのまま」とは、どのようなことでしょうか。
私たち、と言うと、magga様には異論があるかもしれませんが、敢えて、私たちは、カント、フッサール、構造主義哲学等々を通して、「ありのまま」と言う共通認識の不可能性を確認したのではないでしょうか。つまり、>「いずれ主観を破れるように。」これが不可能だからこそ、主観と主観の対話による相違点から、間主観的(複数の主観における一般的意見の一致)立場に至るような努力が必要なのではないでしょうか。
しかし、上記引用の後半部に注目すると、magga様の「無知」には、私が今言った事と、若干レベルの違う、感情・偏見といった、個別特殊な原因があるようにも受け取られます。

この件は、戦争の原因を個人に還元するか、考えている途中で、社会や共同体の要素をもう少し評価する必要があるかと言うことに関わってきます。
「それにも拘らず、これらの傾向性は、諸人の心にいたく迎えられるのである。さればこそ経験論は、どんな狂信よりもはるかに危険なのである、――狂信なら、多数の人達の常住的状態となることは、決して有りえないからである。」実践理性批判カント
カントの先験主義(経験論批判)と「決して有りえない」は一先ず保留して、傾向性の個別特殊性と習慣・文化といった比較的一般的な、二つの源泉の区別を区別する必要があると思いますが、magga様の「無知」とは、個別的なことか、一定の一般性をもったものか、どちらに分けられるのでしょうか。
もし、狂信の部類ならカントほど楽観できないとしても、特殊な事情さえなければ、多数の支持を受けて戦争の原因とまでなることはないと考えてしまうのですが。

「無知」についてもう一つ
戦争の原因としてではなく、もっと本質的といってよいのか、「争い」とか「苦しみ」の原因として「無知」を考える事にしてもよいのですが、「無」と「知」を分けた場合、例えば「苦しみ」の原因として「無知」を問題にする時、「知」が全くないのか、それとも、ある特定の「知」がないのか、そして後者の場合、ある特定の「知」が問題ならば、そのある特定の「知」とはなんでしょうか。

サンガ出版に関しては、サイトへ行ってまいりました、本のタイトルをみると・・・
図書館も調べましたが、検索には引っかかってこなかったです。

「理性は伝統的に正しい判断に導くとされてきましたが、現在では、理性が我々の判断をゆがめている」最近、このような意味合いの文章に出会った記憶があるのですが、その資料が、一向に見つかりません。ひょっとすると私の記憶違いかもしれません、この事に関しても、magga様のご意見をお聞きしたかったのですが、根拠のはっきりしない事柄を、あれこれ取り上げても、無駄ですから、資料が見つかったらまたお尋ねします。興味深い話題ですが、今回は、パスしておきます。

長々書きましたが、お礼に書いたように、気が向きましたら、ご返事下されば、幸いです。

補足日時:2009/03/29 16:31
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりました。
magga様には、どんな説明で、私の非礼をお詫びいたしましょうか。
「質問の商品化へのレジスタンス」とでも申しておきましょうか、勿論、この理由は最初から意図されていたことではなく、お礼が遅れたことによって、その遅延を正当化する、私のずるさを見つけることもできますが。「質問の商品化」といっても、このようなサイトでは当然のことで、問題にするのが間違った事かも知れませんが、この哲学という分野で、正確な答えのない(この事自体このサイトの規定に違反するのかもしれませんが)問題を抱えている場合は、質問を締め切り(つまり質問を消費し)、お礼を書き、ハイめでたく一件落着、という訳にはいかないのです。また、質問を締め切り、装いを少し変え(モデルチェンジ)新しい質問を立てても、結局、消費されて、廃棄物の山を築く手助けをしているようなものです。私の課題は、考え続けることです。今回は、結構長くこの問題を考え続けることができました(私の幸福がご回答者様の災難の元と成ったことに関してはお詫びするしかありません)。

この様に書いてきて、誤解されないように付け加えれば、私の質問へのご回答や他の質問者様のQ&Aを廃棄物などと示唆しているのではなく、ここのシステムの関係上、一つの質問は、時間が経てば、自動的に沢山の質問の奥に隠れて、賞味期限が切れ、消費または、ほぼ廃棄される、という意味合いです。また、システム自体、当然の構造であり、このシステムを批判しているのでもありません。単にこのシステムに対して、抵抗できる方便を模索しただけと、言っておきましょうか。結果として、今回は私の一人相撲ということになりそうですが、人とは変わったやり方は、最初は抵抗に出会うものです。最終的にどんな批判に出会うのかわかりませんが、なんでも試してみるしかないでしょう。

さて、下手な言い訳で、700文字強の廃棄物を作ってしまいました。
magga様には、まだまだお聞きしたいことが沢山あります。
別途、補足欄を利用して、私の疑問を整理して見ますが、もし関心がまだ残っているようでしたら、ご意見伺えれば幸いです。すでに、ご関心が消えてしまったなら、また何処かで、真摯な意見交換ができることを希望しております。今までのご回答に改めて、感謝いたします、本当に有難うございました。

お礼日時:2009/03/29 16:31

No16から続けます。



哲学カテで重要な質疑がある場合 いつも思うのですが、性能のいい車が精密でしっかりした構造を持ちながら車軸の大事な走りの要にてその歯車のかみ合いに《ゆとり》が必要なように、  私たちの生活が最高に快適であるため いや幸せであるための論議にも それが哲学的であるほどに こうした表現の《ゆとり》が必要だったりするところだなと  思ってしまいます。

本気度に応じて そして平和や愛との関りに応じ、その緻密さ高度さに応じて許されるべきところかと 。



続けさせていただきます。

事を解かりやすくするために 図で整理しなおしてみました。

便宜上の図ですが、シンプル・イズ・ベストを求めてのもの。

まず 三つの円を横にならべた図を描きます。 

円は 生物でもあり人間でもある存在の意識の世界を現します。

右側の円は、動物の意識状態がその完全性のある特徴を示す意識状態を表わしています。

(実際の動物の心理は ほんとうはもっと複雑で豊かなところもあるはずと思っていますが、 深入りはここでは避けます。)

つまり、 その意識内に 例えば「仲間意識」とか あるいは毛づくろいのような優しい感情があったとしても、そのすべては自己保存本能意識内の感情であり意識だという意識状態を表現する円だということです。

人間の場合の例ですと、 嘘をつくなという道徳にしても、完全に嘘をついたら金儲けの場でも信用がなくなる分損だという範囲でしか受け付けない状態^^とかいった意識ということです。 それ以外なら平気で嘘をつくとかとか^^。

それにたいして では真ん中の円はというと、 これは楕円としてみたのですが、説明は、先に左側の円の説明の後にまわします。

一番左の円は、 その中心に「幸せ」、あるいはそう呼べる感性の世界という一点が明確にあり、 そこからは放射状に 円を突き抜けて他の人間(他の意識→他の円)にまで向かっていくというエネルギー線の描かれる図をイメージしてみてください。

感性が高まり、そう呼べる点、「幸せ」と呼べるだけの一点となったときのエネルギーは これを真心よべる他の存在他の意識への思いやり、深い関心、ともに幸せであろうとする人間意識、 苦しかったらそのままでいることは同じ人間として出来ない、という自然な利他の意識となってゆく あるいはなっている、ということを表現する円と線です。

では、 その時真ん中の楕円とは、 これが道徳意識円という名で呼べる図だと私は思うわけなのです。

プライド、人間としてのプライド、文化人としてのプライド、誇りの高さ
がゆえの、道徳意識、 これはしかして、 円は両側の円の間を両方に引っ張られながらゆれてる姿とも例えられるでしょう。

もし、深くあいする家族とか 大好きな恋人の寝息に 無限の幸せを垣間気づくひと時とか  ふるさとの海辺にどさっ寝転び 聞こえる潮鳴りの中でやがて心が始めて一番星にきづくような安らかなひと時とか、 のそんな充実した心のうちには、 プライドもなにも超えた真心しかないでしょう。  それが ほんの弱い放射エネルギー線でも それは必ず同じ人間の存在へのリスペクトをともない他への真心と呼べる線として描かれるという意味合いの図が、 繰り返しになりますが左の円として、

真ん中の円は 裏の心は極端には間逆であるばあいさへある 嘘も可能なそんな揺れ動く不安定な、、そういう楕円の円ということです。

その時、 ご紹介くださったカントという学者の哲学にその楕円の円の左右への引っ張られ具合とゆれを見るのは おそらくわたしだけではないとおもわれましたが  いかがでしょう。

わたしなりに、
>ここからまた逆に平等への欲求が来る。それは、誰にも自分を上まわる優越を確立してほしくないという欲望と、他の人間がそうしてしまうかもしれないという懸念において、表現される。この過程は事柄の本質を表現しているので、身分や地位を得ようとする抗争、偽善や競争、嫉妬や忘恩や意地の悪さのような文化の悪徳を、徐々に惹き起こすにいたるのである。<
とのロールズの《カントにおける悪徳感》についての描写を一つ一つ分析することも可能ですが、  全文とかを読めない状況下でもありますし、   私の言わんとしている意味合いは すでに通じているかとおもいますので、いちいちの分析は これ以上は、ここでは差し控えさせていただきます。

しかし、次の>善の素質<との文は、 この図で言えば やはり真ん中の楕円をそれ自体抜け出していない 善 の素質 の事を意味していることは文脈全体から明らかであることは指摘しておきたいところです。

これに 悪徳が接木されるということは確かに充分に考えられるとことであり、 それでは名誉欲を刺激されてのアーミーの存在や狭い責任論の世界を抜け出せない論理となってもしかたがないところ、おそらく そのへんのカントの平和論も 左右に揺れて不安定なものであったろうと想像されてしまいます。

おそらく そこにその難解さの必然性があるのかとも思いました。

ロックとルソーとの間の揺れも まさに その楕円性を意味しているのではないでしょうか?



>ところで、ロールズの解釈「悪徳が善への素質に接木されている」に従えば、質問に挙げた仮説にまた戻ってしまいます。<

そうですね。 確かに真ん中の円に哲学がとどまるかぎり、 哲学は過去に作り上げられた経済の仕組みやそこからの政治権力の流れに対して これからも無力なのでしょうね。



細木数子さんのことは、イソップの北風と太陽のシンプルな寓話を受けての“ここでの平和論からは少しずれてもいるお話”ですし、 ニセkigurumiは 親しさをおぼえての冗談^^です。

ノータッチで、結構です^^。

ただ、このとき 「北風と太陽」の話自体は、はずせないところと私は思っています。   

世界を牛耳るほんの数百人のお金支配者がいたとして、 そいつらも同じ人間として接する以外に、 平和はやってこないでしょう。

そいつらにこびる^^なんてことじゃないすよ。  そういうチャンチャラ可笑しい笑いばなしがここに必要な哲学なのではなく、 そういう人たちも含めて  三つの円がそなわった同じ人間として、  神様に少しでも近い愛情や友情で接し 同じ人間としての 「幸せ」を何もかも過去のことを忘れて 想えるようなそういう哲学が必要だということです。

なんで、人を支配して 幸せなんですか? なんで、ダイヤを支配して幸せなんですか?  そんなむなしい人間では、大きな庭があっても 貧しい人がぼろぼろの窓に雪が降ってきことを感動するあたりまえの心にもおよばない感性にどんどんなってってしまうだけですよ。 ということです。

そのへんをどれだけ これからの哲学が すべての人により深く、より解かりやすく よりドラマチックの語れるか?

この道は、存在しています。  困難かもしれなくても ここに山は 存在しています。  人間に涙と笑いがあるかぎり。  絶対です。(あ

また感情的になってしまいましたが^^)。

この回答への補足

あらためて、三つの輪の図式の中で「道徳意識」と言う言葉が表れますが、道徳に関しては、道徳感情と道徳感覚(社会規範)と言う一般的な対立があります、この辺りを避けるために、「道徳意識」と言う表現をお使いになったと想像しますが、道徳感情というより、感情自体について、なかなか難しい問題があります。以下の二つの文章を読んでみてください。

「われわれの生活には、実際には変更不可能な要素と、良かれ悪しかれ、変化に左右される要素がある。生活における変更不可能な要素は、われわれの心を動かさないが、変動する要素は希望と恐怖を生み出す。人間の感情は確かなものよりも不確かなものに向けられるから、人間の感情的な性格は、その人が住んでいる社会組織の影響を直接受けて決定される。収入が変動しなければ、人間は金銭についてあまり考えないし、社会的地位が変わらなければ、家柄を鼻にかける俗物などにならないだろうし、自国が強大であり外的も歯が立たないならば、熱狂的な愛国者にはならないであろう。」
(『人生についての断章』バートランド・ラッセル)

「感情は、これまで、行為者の合理的な行為選択を誤らせる非合理的な攪乱要因と見なされるのが一般的であった。抑えがたい怒りが余計なひとことを言わせたり、失敗に対する恐れが本当の失敗を引き起こしたり、過度の愛情がかえって恋人を去らせたりする、というのはよくある話だろう。では、感情は一体何のために存在するのか。感情は、人間の進化の中では、たまたま選択された別の機能Xの副産物として残ってしまった厄介なお荷物にすぎないのだろうか。しかし、感情が行動や認知に及ぼす影響の甚大さを考えるなら、感情がたとえ悪役であっても、自然淘汰を生き延びてきた主役ではなく脇役だ、ということは考えにくい。・・・つまり感情が主役級の悪役なら、自然淘汰の矛先はほかならぬ感情にこそ向けられ、人類の初期の段階できれいさっぱり消し去られていたであろう。それゆえ、現在の人類に感情が現に具わっているということは、感情がその機能のゆえに淘汰を生き延びてきたということの証拠としては不十分かもしれないが、感情がトータルとして淘汰の対象となるほど悪しき結果を人類に及ぼし続けてきたわけではない、ということの証拠にはなるはずだ。」
(岩波講座哲学5 機能する感情・幻想する感情 柴田正良)

各々の文章は、私の読書録の中から取り出したもので、その都度、役に立ちそうな文章を拾い出していますから、単独で読めば、それなりの納得できる文章です。しかし、こうして二つ並べると、どうでしょうか、前者は感情を社会的として扱い、後者は感情を遺伝的に捉えています。前者は外部に後者は内部に感情の原因を見つけますし、ラッセルの言葉を踏まえれば、前者は変えられる物、後者は変えられない物と言うことになります。

arayata333様には、どうしてこんな細かいことが気になるのか不思議でしょうね。
これは、考えることの土台の問題です、例えば、
A感情は、自然的でもあり非自然的でもある。
B世界は、自然的なものと非自然的なものにに分けられ、それ以外のものは存在しない。
C自然的なものは、決して非自然的なものではなく、非自然的なものは、決して自然的なものではない。
Dしたがって、自然的でもあり非自然的でもあるものは存在しない。
結論、感情は存在しない。
これは、屁理屈というのでしょうが、論理的には正しいと思うのです、このことの是非はともかく、私の場合はこのような形式の考え方をすることが多いのです。お礼欄で、arayata333様のご回答を直観的・感性的と勝手に決め付けてしまいましたが、私の記述方法は、意味を優先するあまり、気持ちが伝わりませんし、結果として、直感に反する(感情は存在しない・戦争のない世界は存在しない)結論に頭を抱えているわけです。この長い文章の中で、補助線についての説明をしたつもりですが、上手く行ったかどうか、心許無い所ですが、時間を掛け過ぎたようですし、ひとまずここまでにします。

arayata333様は、感情に詳しそうですから、率直な感想を頂ければ幸いです。

>細木数子「 もっと与えなさい。 与えなさい。 与えなさい!」
そうすれば、人間の本性は、変わるのでしょうか?

お蔭様で、普段使わない、脳の歯車の隅々まで、ギシギシと音を立てて回転させました。歯車にゆとりが出来たか、逆に、歯が欠けて、空回り状態に陥ったのか、よく判りませんが、大変考えさせられるご回答を頂、お礼が遅れたことを含めて、心より感謝いたします。

補足日時:2009/03/22 16:35
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この回答へのお礼

arayata333様、お久しぶりです。
いつのまにか、桜の便りが聞かれる季節になってしまいました。
この数ヶ月、回答をよく吟味すれば、どんなお礼が良いのか、ある種の結論が出せると考えていたのですが、結局それは間違っていた事に気がつきました。つまり、熟慮の結果の結論は出せませんでしたが、お礼が遅れたと言う結果が原因となって、未消化のままお礼を書く事しか出来そうもないと言う事です。
この事は、去年まで否定的だった循環論を受け入れざるを得ないと言う、一つの方向転換を余儀なくされています。
この経緯については質問の内容と無関係ではないので、もう少し判りやすく説明した方が良いでしょう。

去年の暮れに、準備していたお礼の内容にはarayata333様のご回答が未消化であると記録されています。そこで、お礼をかけない私が、お礼を遅らしてゆっくり検討すべきだという私に押し切られ、「ひま薬」とか「人の噂も七十五日」と言った常套句の上にあぐらを掻いていたのでしょうか、それが、先月頃から、お礼が二ヶ月以上遅れた時期に、私自身の行為というより不行為の結果が原因になっていることに気がつきました。と言うのは、当初のご回答に対してお礼をすると言う事とは、別の次元で、結果が原因に転化しているわけです。これは、因果関係の連続とか、風が吹けば・・・ごく当たり前のことかもしれませんが、自己の同一性の中の循環論と表現すればよいのか、適当な言葉が見つからないままで・・・

出来の悪い言い訳は諦めて、実のところここのお礼も正直苦労しました。arayata333様様の気持ちは痛いほど伝わりましたが、正確な意味がもぅ一つはっきりしません。特に、三つの輪の図式の辺りですが、なかなか意味が伝わってこなかったのです。
その原因が、おぼろげながら想像が出来ましたので、補足欄を利用して、説明してみます。
あらかじめ、簡単に要約すると、直観的・感性的な記述と論理的・鉄仮面状の記述の違い、と、解釈してみました、もし違っていたら、申し訳ありません。その理由は、三つの輪に区別する場合の、境界線と言うか幾何学で言う補助線のようなものが私には見つけられなかったと言うことです。

これから、付け加える補足は、引用も多く長文になりますし、これが正しいと主張するものでもありません。私の脳の中は、こういう図式になっているようだ、と言う独り言です。

お礼日時:2009/03/22 16:35

 No.1&7です。



 fishbowl66さんは わたしの回答を完全に無視したと受け取りました。確認です。

この回答への補足

それは、誤解だと思いますが。

補足日時:2008/12/31 05:53
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなりました。
さて、一般的には、お礼が遅れた場合、まずお詫びをし、その上で、お礼が遅れた理由や言い訳を披露する義務が生じそうですが、この事に関して、私自身、お礼が遅れた、或いは、お礼を遅らせた、この本当の所の原因や理由は、いまだに結論がつかないのです、つまり、私自身わからない。

とはいえ、bragelone様のご回答に対して、まず、お礼をする・しない、の選択で悩みました。つまり、bragelone様との対話は、はっきり申し上げて、あまり良い方向には向いていないからです。それでも、今お礼を書いて、対話の再開の可能性に賭ける理由は、一つには、共に対話を必要としているらしい、もう一つは、お礼がこれだけ遅れた理由の、良い言い訳を思いついた(上記の如くあくまでも言い訳ですが)ということです。

さて、文字数が限られていますから、挨拶は程々にして、本題に入らなければなりません。

この数ヶ月は、1)戦争を現象学的に還元して、人間本性から起因しているもので、戦争はなくならない。という仮説について吟味してください。
この事ばかり考えていました、そしてこの言葉の前提として、戦争・経済競争・他者との比較・人間性といった事象を一つの同じ傾向の発現様式の違いと考えているということ。また、人間性・人間本性と表現されるものが、取り敢えず、存在していると仮定していること、等々。
ところが、私は一方で、人間とは社会的動物である、という表現を究極的な意味で肯定しているのです。言い換えると、人間は生命としては自然の一部ではありますが、人間を生命と区別する人間の特質は社会性であるという意味で、究極的な肯定をしているわけです。

そうすると、前者の前提と後者の肯定は、はたして矛盾なく両立するだろうか、という疑問が沸いてくるのです。bragelone様の文脈で申し上げると、《〈戦争から自由である〉人間の境地》とは、1)の仮説や、その前提と両立するのでしょうか。また、私の質問の意図から《〈戦争から自由である〉人間の境地》を《〈競争から自由である〉人間の境地》と書き換えた場合、このような境地は、はたして可能なのでしょうか。

この質問は、もう誰も、覚えていないでしょう、簡単に結論の出ない本質的なところに留まって、ある種の不毛な考察を続ける、こういったことに楽しみを見つけられるようでしたら、お返事頂ければ幸いです。

お礼日時:2009/03/15 16:27

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