ジメジメする梅雨のお悩み、一挙解決! >>

先日、親戚が亡くなったですが、その人が亡くなった事実より、人が死んでいく様が印象的で、非常に恐怖を感じました。
それから、夜になると、人は死ぬとどこへ行くんだろう、どうなってしまうんだろう、なぜこんなに怖いんだろう、と考えるようになりました。

哲学的に言うと、人は死ぬとどこへ行くのでしょうか。
以前、哲学の授業で、デカルトは人は精神と肉体が一緒になってる存在だとか学んだ記憶があるのですが、これで考えると、人が死ぬと肉体は滅びるけど精神だけは残る、という事でしょうか。
では、残った精神はどこに行くのでしょうか。

なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。

「死」は未知なるもので、それに対して確定的なことは何もわからないから、自分がどうなってしまうのか分からなくて怖いのでしょうか。

皆さんの意見をお聞かせ願えませんでしょうか。
宜しく御願い致します。

乱文・長文、失礼致しました。

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A 回答 (25件中1~10件)

デカルトは昔の偉人ですがいってることが正しいとは限りません


何しろ証拠がありません、ただ彼の考え方です。
どうすれば怖くなくなるかとかそういう風に考えすぎると逆に恐怖が
増えてていってしまうのではないのでしょうか
どうすれば恐怖を抱かないか?ではなくとりあえず怖いものは怖いで
目をそらしバカ騒ぎでもして忘れてしまえばいいのではないのでしょうか?
一般論ですいません。
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こんばんは。


死は怖いですね。
私もよく死について考えました。

死んだらどこへ行くんだろうと
考えても考えても
私はやっぱり死んだことがないので結論なんて出ませんでした。
ここを見てる人はみんな死んだことがないので
分かるはずないと思います^^;


主さんは
今持っているもの、
たとえば頑張って貯めたお金で買った何トカとか。
自分の周りに存在する人が消えたら嫌ですよね?
怖いですよね?

これが死に対する恐怖心ではないのでしょうか。
この世の人、ものとは離れてしまうわけですから。
大切な人とも会うことがなくなってしまうわけですからね。

うまく伝えれたかどうか分りませんが
私が「死」について考えた答えでした★
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哲学的には死とは無いものです


なぜなら死ぬまで死を理解できないですし
死んだらまた理解できません
他者を他者と自分の空想の人物と分けることが出来ない以上
他者の死を観察しても意味はありません
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人の思考の構造は、過去に体験したことや知っていること、イメージできることを使って、そのことを理解しようとしたり、新たに創造しようとします。


自分の知らない世界には、自然と自己防衛の意識が働いてしまうのは、本能ともいえるし、教養で身につけてきたともいえるでしょう。

死の世界を知る由もない世界であれば、生きている世界で知ること、体験できることで理解しようとしてもできません。それを、追求した結果、極的な世界を描いてしまったのが、神や地獄ではないかと考えます。

死の世界を知るには、生きるとは何かを知ることが必要でしょう。生きることは何かを知り、その世界を全て創造的否定ができることができれば、死の世界を知ることができるのかもしれません。

私も父方の祖母が亡くなった時に、゛一人の命の重さは地球よりも重いはずなのに、亡くなってもこの街は一瞬も止まることがないのはなぜだろう″と切ない想いにかられたことがありました。
不思議ですよね。生きること、死ぬことは。
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>なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。


>「死」は未知なるもので、それに対して確定的なことは何もわからないから、自分がどうなってしまうのか分からなくて怖いのでしょうか。

信頼できる死後の知識を得た後、あるお通夜で初めてお年寄りの死体を目の当たりにしました。
これがうわさに聞く死ぬという状態なのかと、さすがに知識を得ていても、少々うろたえる経験であるとは正直なところ感じます。
もっとも戦ばかりの時代には死体などいくらでも転がっていたのであり、珍しくも何ともなかったのでしょうけど。
要は慣れなのかな、と思います。

それで何にうろたえたかと申しますと、昨日まで精神を持って動いていたそれが、今はもぬけのからになり、動かない肉人形になっている、その奇妙さに対してではないかと思います。質問者様もそういう、普段考えられない奇妙さ、自分もそうなるという事に恐怖を感じるのではないかと思います。
親しき相手ならば別れに対する恐怖そして悲しみもあると思いますが、質問者様はそれよりも、自分が死んだらどうなるのか分からなくて怖いという事が問題なのではないかと思います。

死後どうなるかという説には2つあります。つまり死後精神は魂として存続するという考え方と、いいや脳死によって精神は存在が消えてしまう、つまり無になるんだという考えです。
今死後どうなるかという議論にはこの2つの選択肢のどちらかしかありません。
ところでこの2つとも冷静に考えれば恐ろしいことではないと思います。死後に精神が継続するならば、生前も死後も心に変わりはないのだから恐れる必要はありません。生前と同じく楽しんだり苦しんだりする自分という存在はそのままでしょう。性格が変わるとか、環境がどうなるかは保証しませんが。
死後無になるのなら、恐怖すら無になるのだから、死後を想定して恐れる必要もありません。

だから、死者の肉体から精神が抜けた、又は無になった、そして肉人形になったからといって、本人にとって恐ろしい結果にはなってないってことです。傍から見て、自分もなる分からない状態を奇妙でおどろおどろしいと感じるだけです。要は慣れです。

あと、考えられるのは現世の自分に対する自己愛があります。現世での肉体と環境を持った自分を愛して執着し過ぎると、現世での自分を失うことに恐怖を感じる可能性があります。
そういう場合は、現世での自分は永遠に存続するほど価値のある存在ではないという謙虚な認識によって、恐怖から解放されるのではないかと思います。
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宗教(一種の哲学)の多くは、死後、精神が別世界に行って永遠の生命を愉しむという考えを述べています。

これを信じれば貴方は死の恐怖を減じる事が出来るはずですが、信じる事が出来ないのですね。
孔子をはじめとして哲学者は余り死後の事を語らなくなりました。誰にも確認できないからというだけではなくて、精神が肉体と密接に結びついているだけでなく、不可分のものだということが分かってきたからだと思います。
死の恐怖のひとつが自分の消滅と世間からの忘却だと考えたひとは、巨大な墓やモニュメントや銅像を作らせたりしましたが、一般庶民には余り勧められません。それでせめて自分の精神だけでも後世に残そうと様々な試みを続けてきました。そのひとつが芸術なんだろうと思います。生きているうちにそれを作って、よし!これで死後も絶えることのない名声を保てそうだという確信を得れば、死ぬ事もさほど苦痛ではなくなります。他にもモニュメンタルな業績を自分の活動範囲に残し、忘れられないひとになる方法はあるかもしれません。
ご参考になれば。
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"死って何?(

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1456099.html )"との題の質問に対する、NO10の私のカキコみを挙げて、且つこの中の2b)での"悩ますて"を"悩まさなくて"へ修正して、私の死生観を明確化させて置きます。

更に、今回の場合は質問者さんは非常に恐怖を感じている模様ですが、そうであろうが、自殺の形で進んで死を選ぼうが、"死は即ち不可避な概念でジタバタした所で仕方ないのでは?"とも私は捉えています。

確かに恐怖を感じても仕方ないのかも知れませんが、自殺者一覧なるURLがある位ですので、質問者さん程には死に対する恐怖を感じず、拠って自発的に、その生涯を閉じた向きが実在した点も付記して今回の拙いカキコみを終えます。 失礼致しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA% …
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vvgvgvさんのいうとおりです。

我々の本質は、光の生命体です。本当かうそか、2012年12月22日(日本時間)にはっきりするかもしれません。2012年12月22日に25800年の周期を終えて2013年3月28日からアクエリアス時代に入り、我々は3次元の世界を卒業して5次元の世界へ行きます。マヤ人によると2012年12月ごろのある日突然世界中が3日ほど暗闇に包まれるそうです。これは、地球が銀河系の中心平面を通過しているということです。このときもし地球の南北が入れ替わり回転軸の位置がずれるとハリウッド映画のようになります。

このとき青い強い光が銀河の中心から注ぎますので、この光を浴びてください。これによりあなたのDNAは新しくなり5次元にいくことが出来ます。5次元の世界は、3次元の時のように死にません。体は魂の一時的なよりどころで必要な時に新しい体に変えられます。もはや地位やお金の奴隷ではなくなるのです。でも爬虫類人たちが我々を自由にさせまいとたくらんでいます。6000年ほど前に、我々よりも長く住んでいる爬虫類人の一部が地上に出てきて人間と血縁関係を結び、13血統をヨーロッパに広げました。エリザベス女王や殆どの王族そしてアメリカ大統領の44人中43人は爬虫類人と混血です。ブッシュやオバマはエリザベスの親戚です。彼ら爬虫類人は、このところ人間の姿を保てなくなり多くの人に変体している現場を目撃されるようになりました。混血率が50%の場合爬虫類の姿になることが出来るのです。なかなか写真が取れませんが、殺されたダイアナさんの事故現場写真の顔を見ればあごに角が2本出ているのが分かります。

彼らは世界中の政治、経済、文化の中心を押さえていろので、日本の新聞やテレビを見ても必要な情報はほとんど流れていませんね。天皇陛下も英国皇室とは関係が深いですが、血統の違いで(白人ではないのでと表向きは言われています)世界のリーダーの仲間には入れてもらえないようです。芸能人にもずいぶん潜入しています。

我々は3次元の世界を卒業して5次元の世界へ行きます。爬虫類人達はDNAの関係で4次元までしか行けないので、家畜と馬鹿にしていても人間と混血になって5次元に行きたいのです。しかし2012年が近ずくにつれそれは不可能なことがわかっています。そこで我々をだまして3次元に留めようとするはずです。彼らは魂を集めることが出来るので、羊を納屋にとどめておく為に9/11のように、テロに見せかけた核戦争や自然災害に見せかけて多くの人を殺そうとするはずです。この難しい状況を乗り越えた、先代の地球人は、光の生命体になって5次元に移りました。映画未知との遭遇に出てくる宇宙人がそうです。彼らは今でも地球に住んでいますがいつもは地球内部にいてたまにUFOに乗ってコスタリカの上空に現れたりしています。 
大惨事を免れて3次元に残っていた少数の地球人は、だまされて遺伝子操作をされ奴隷にされてしまいました(我々の祖先)が、2013年にアクエリアス時代に入り我々が愛と意識にめざめる時代になり、再び自由になる時がきたのです。アクエリアス時代とは、今までは個人を独立したものと感じていた意識が、全てはひとつなんだと気ずくようになるのだということです。でも日本ではなぜ誰もこの話しを知らないのでしょうか。ノルウエー政府は国民の半分を助ける用意をして地下避難所を2011年までに作ろとしているのに、日本はエリートだけを助けるつもりで、羊は勝手に死ねという官僚体制が明らかですね。
http://www.youtube.com/watch?v=JBM_Utij9u4

PS;これを読まれた方全てが目覚められますように。是非you tubeを見てください。
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死とは、自己が終焉し、「自分以外のもの」になってしまうことだと思います。

この「自分以外のもの」のことを「究極の他者」と言うことができるのではないかと思います。

>・・・その人が亡くなった事実より、人が死んでいく様が印象的で、非常に恐怖を感じました。

「他者の死」を体験すると、その類推適用で、「自己の死」を想定し、恐怖するというのは、誰でも経験するものですが、自己の死を誰も体験できません。体験は、自己の死の直前までで、自己の死自体は誰も体験できないのです。つまり、自己の死以降は、自己の人生の出来事ではないのです。

>それから、夜になると、人は死ぬとどこへ行くんだろう、どうなってしまうんだろう、なぜこんなに怖いんだろう、と考えるようになりました。

「どこへ行くんだろう」は、愚問になります。なぜならば、自己の死以降は、自己の人生の出来事ではないのです。分からないから、怖く、不安になるという点は、充分理解できますが、超経験ですから、分かるはずがありません。

>哲学的に言うと、人は死ぬとどこへ行くのでしょうか。

繰り返しになりますが、超経験ですから、分かるはずがありません。

>以前、哲学の授業で、デカルトは人は精神と肉体が一緒になってる存在だとか学んだ記憶があるのですが、これで考えると、人が死ぬと肉体は滅びるけど精神だけは残る、という事でしょうか。
では、残った精神はどこに行くのでしょうか。

「精神だけ残る」ということは、そもそもありません。残らないのですから、「残った精神」がどこかに行くということも起きません。

>なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。

自己の死は、自己が終焉し、「自分以外のもの」・「究極の他者」になることと定義しても、心理的に何の解決にもならないのも事実なのです。恐怖・不安・拒絶感は避けられません。これらは普通の反応です。反射的とも言えそうです。避けられないものには、慣れるのみです。恐怖感を麻痺させるか、違うことを考えて、意識を反らすかして、誤魔化すだけでしょうね。何かに没頭することで忘れてしまうという具合です。

>「死」は未知なるもので、それに対して確定的なことは何もわからないから、自分がどうなってしまうのか分からなくて怖いのでしょうか。

そのようです。未知です。超経験です。誰も分かりません。分かったという人は嘘つきです。自己の人生の出来事ではないのですから、分かるわけが無いのです。想像しているだけでしょう。でも、本物の哲学者ならば、恐れつつも、死について探究し続けて、それなりの結論に達する過程で恐怖心を克服してきたと思いますよ。
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死をわが身のこととして感じてしまわれたのですね。


参考になるかどうか、独り言のようなことを書きます。

人は死ぬと三途の川を小舟にのって向こうの世界へわたってゆくのだと
子どもころから聞かされています。

向こうの世界では閻魔大王様の尋問を受け、その御判定にに従って、
次なる世界へと旅立つもの思っています。
思っているだけですから真実という確証はありません。

どこから来てどこへ向かうのか?

これが閻魔大王様が尋問において問うてくる内容であると勝手にその傾向と対策を想定しています。
勝手にと書きましたが、かなり信憑性のある傾向と対策ではないかと自分ながら感じております。

ギリシャ・アテナイのアポロン神殿にかかげられていた神託によく似た言葉があります。「汝自身を知れ」

あのエジプトのスフィンクスもそこを通過せんとする者に同じような問答を仕掛けているのではないかと勝手に想像しています。
「お前は何者か?」と。

閻魔様もアポロン様もスフィンクス様も一様に同じ尋問を投げかけ続けているのではないかと思っています。


閻魔様もアポロン様もスフィンクス様も私の人生の隅々までも知り尽くしているのにその上で私に聞いてくるのです。
「お前は何者か?どこから来た?どこへ向かうのか?」

うまく答えることが出来るのでしょうか。
対策らしいものは何一つありません。一発勝負の尋問です。

こうして既にお亡くなりになった方々は向こうの世界へ旅立っていかれたのだと思います。

三途の川を渡る小舟から見える錦のようにきらめく川面のそのきらめきのひとつひとつの光の中にこれまでの人生のエピソード(誕生のときから死を迎えるまでのすべてのエピソード)が、まるで再現ドラマのごとく映し出されていくのではないかと想像します。
それは閻魔大王様の尋問に備えて、今一度、自分の人生を振り返るために。それを眺めることによって、きっと、初めて自分の回答が見えてくるのではないかと思っています。

旅立つとなれば、向こうの世界でいろいろの手続きがあるのだと思います。
それはそのときに考えればよいことですから、今はこの世でしっかりと生きていくことに専念することが大事だと思っています。

夜になってから死のことを思い怖いと書いていますが、夜は暗いですからそのまま死にも暗いイメージが付きまとってしまいがちです。
確証のないイメージにとらわれてしまって、勝手に恐怖を感じるのはいいやり方ではないと思います。

人生の中で大事なものを見つけてください。このためになら命も惜しくない、といえるほど大事なものを。見つけられたらこれ以上強いものはないです。見つけようとする気持ちでいることだけでも強くなれると思います。死をもいとわぬくらいの大事なものですから。

そのためには世界をじっくり観察しなければいけませんよね。自分にとって大事なもの。気が張り詰めて緊張していてもダメですよ。大事なものは最高のリラクゼーションと癒しをもたらしてくれるもののはずですから、気を楽にしてあせらず待っている感じがいいと思います。

私は向こうの世界に旅立つとなれば、ある歴史上の人にあってそのお話を直接伺ってみたいと考えています。そんなことが出来るのは死んでからでしょうし、本当に出来るのかどうかは別として、そんな気持ちでいます。死そのものへの恐怖は消えませんが、その先のお楽しみもあれば少しは和らぐ感じですよ。

輪廻転生という言葉がありますが、この世では私たち一回性のものとして人生を送っていますよね。ですから、この人生を大事にしなければならないと思っています。
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Aベストアンサー

どうもお礼文ありがとうございます。

>結局、私から独立した真の他人、という地点にはいたらないような

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■□■良回答の選考基準は以下の通り■□■
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2、ひとりよがりにならず、説得力があること(自分らしさとひとりよがりは別の物です)。
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 こんにちは8942です。私にポイントを出していただきありがとうございます。 

つたない文章ですが、また参加します。

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「クリエイティブ」ってどういう意味ですか?また、こういった「日常でよく聞く言葉だけど、意味がよくわからない」というものを、どうやって調べたらいいですか?ちなみにgooの辞典なんかを使って「クリエイティブ」と調べてみましたが、分かりませんでした。つまらない質問でごめんなさい。

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Q心がどこにありますか?

 心がどこにありますか。脳、それとも胸?
 よく言われていますが、なかなかわかりにくい”心”とは、一体何を意味する
のでしょうか?

Aベストアンサー

 
ここで尋ねられている「こころ」というのは、哲学的、大脳生理学的、または心理学的な意味での「精神」「精神機能」「意識」「意識機能」などは何か、また、それらの機能の機構は何で、どこの器官がそういう機能を司っているのか、というような質問とは少し違う疑問だと考えます。

上にあげたような問題は、哲学的問題と一般に考えられるので、その場合、「こころ」に関係して色々な似たような概念が出てきます。例えば、「魂」「精神」「意識」「霊」などです。これと「心」または「こころ」はどういう関係にあるのか、また、「身体」「肉体」などとの関係はどうなっているのか、というようなことも問題になります。

しかし、この質問は、日常的な言葉の用法に見られる、例えば、「真心をこめて」とか「こころが感動する・こころが痛む」などの「真心」とか「こころ」は何か、どこにあるのか、というような質問だと考えられます。これも心理学の問いだということになります。

「こころ」の用法としては、その他にも、「ああいう殺人犯は、人間でない、こころなどないのだ」とか「こころのこもっていない言葉」とか、「こころから感動しました」などがあります。

あまり厳密な話でありませんが、「こころ」は、胸、大体、心臓のあたりにあると考えた方が妥当です。この場合、心臓のあたりに「実体としてのこころがある」のでは「ない」のです。人間を解剖すると、心臓のあたりに「こころ」が見つかるという話ではありません。

phantom limb という概念があります。日本語では、「幻肢」または「幻覚肢」といいます。これは、怪我や手術などで、手や脚などが切断されてない人が、何かの折に、生き生きと存在しないはずの手足が「ある」と感じる現象です。ないはずの手足が痛むこともあり、これを「幻肢痛」といいます。

どうして、こういうことが起こるかというと、人間の大脳のなかには、「身体図式」と大まかに言うのですが、「身体の姿」についての記憶の形があり、普段は、実際の身体から送られる感覚などと、この身体図式の身体の認識が重なっているので、身体図式は分からないのです。

しかし、手や脚などが失われた場合、身体図式は、かなり安定したものらしく、手足の喪失に応じて身体図式は変わりません。それゆえ、何かのきっかけで、身体図式の方の足や手が認識されたとき、失われているはずの手足が、存在するような感覚が起こり、これを、「幻肢」というのです。

「幻肢」について述べたのは、心が胸にある、と言ったとき、この「胸にある」というのは、一種の「幻心」のようなものとして、胸のあたりに感じられる・認識されるということです。心が大脳にあるのか、精神や霊という、肉体を超えた実体にあって、それを大脳が認識し、更に、胸のあたりに位置つけているのか、はっきりと分かりません。ここは昔から議論されているのです。

しかし、「幻心」とか言いましたが、日常的な体験で、「心」が胸のあたりにあるように感じられる、感じるというのは事実なのです。従って、こころは胸あるいは胸のあたり、心臓のあたりにある、と考えて差し支えないということです。

どうしてそうなるのかといえば、「心身相関」というものがあり、感情的に強く心が動かされると、身体にも生理的変化が生じ、内臓などにも変化が起こるのですが、第一によく感じられるのは、心臓の鼓動であり、これと関係して胸の筋肉などに、ある程度の感覚が生じるためだと思えます。

「胸がときめく」というのは、比喩ではなく、実際に心臓が動悸するのです。「胸に痛みを感じる」というのも、「思考や感情レベルでの認識」に応じて、胸のあたりに、痛みの感覚が実際に生じるのです。

この場合、「心臓の鼓動」は、胸にある心臓という臓器の活動で、はっきり胸で感覚が起こっていることになりますが、「胸が痛む」場合は、胸の筋肉が実際に痛みをもたらしているのか、大脳の感覚運動-感情心理システムのどこかで、胸の痛むが生まれているのか、場合場合で違うことになります。

「胸が痛む」とは「大脳のなかのできごとだ」というのは、多分そうなのかも知れませんが、ここまでいうと、精神機能はどういう機構で成立しているのか、精神や魂は、何が実体化という問題になってきます。

そういう問題に入らなくとも、「こころが痛む、胸が痛む」というのは、実際に、胸や心臓が痛むのであり、そこから、もっと広い意味で、比喩的に、別に胸など痛んでいない評論家などが、「こういう事件を聞きますと、胸が痛みますね」などというのですが、こういう表現の起源は、やはり、感情的に痛切なことがある場合、「胸が実際に痛む」ので、成立したのだといえます。

キリスト教では、人間を四元論的に捉えると述べて、その具体例を説明した文章があります。以下の参考URLです。

この場合、英語については、「魂」に対し、mind, soul と二つ書いています。実は、mind も soul も、「魂」というよりは、日本語でいう「こころ」に近いものです。「魂」と「心」はどう違うのかという話は難しいですが、大体、おおまかな所では、「魂」は、生命の根拠である何かの実体で、これが失われると、人は死ぬか、または、「魂の抜け殻」というような表現があるように、その人固有の「人である根拠」が消え、あたかも、身体だけが残っているようになるというようなものです。

それに対し、「心」は、「魂」の持つ機能だとも考えられるのですが、魂の働きで、主に調和的で、健全な働きを行っている場合の魂の状態、あるいは、そういう状態の魂の特定の位相、見え方だといえます。

「魂がない人」は死んだ人ですが、「心ない人、心のない人」は、「魂のない人」ではなく、無論、死んだ人でもないのです。(魂の働きが不調和な人、健全でない、マナーに合わない人ということになります)。

「こころ」があるかないかは、人と人との交流、関係で、その言動などが、「広義のマナーにかなっているかどうか」の問題だということになります。そして、「広義マナーにかなっているかどうか」というのは、自然な感じ方では、例えば、愛する人が亡くなったりすれば、「心が激しく痛む」のです。あるいは、「憐れみの心」というのか、不幸な人や悲惨な目にあっている人を見ると、「同情の心」が起こり、これはやはり「胸の痛み」として感じられるのです。

ラテン語で、心を、cor といいますが、これはフランス語の coeur(クール)という言葉が派生していますが、クールは、ラテン語の元の意味がそうであるように、「心臓、胸、心、心情、本心、真心、勇気」などの意味があります。「勇気」も、やはり、心臓の鼓動に関係するのです。

フランス語で、cordial(le) という形容詞が cor から派生してあり、副詞もあります。英語はこれを受けて、cordial とか cordially という形容詞、副詞があります。これは「心から」というような意味になります。

「心ない人」とか「真心をこめて」などの「心」は、ラテン語やギリシア語では、内臓器官としての「心臓」と同じ言葉になります。英語でも、heart というのですし、「ハート」は、心臓の意味と、心の意味の両方があります。ドイツ語では、これに当たるのは、Herz といい、これも心臓と真心などの心の両方を意味します。

「魂」という概念を出すと、「心」と「魂」は連続しているように把握され、英語の mind とか soul は、前者は、「心の機能、魂の機能」などを主に意味するラテン語の mens から派生したのですが、「魂」の意味ももつのです。soul は、英語というか、ゲルマン語族に固有の独特の言葉で、「魂」とも「心」とも言え、かなり難しい微妙な概念の言葉です。

しかし、soul(ドイツ語では、Seele)は、やはり、心臓・胸のあたりにあると考えられます。

「こころ」は、胸のあたり、心臓のあたりにあるのです。この場合、「ある」というのは、「あると感じられる」のです。心が感動するとき、痛むとき、茫然として心が失われるとき、実際に、胸や心臓で、そういう感覚が起こるのです。

それは、みかけの話で、実は、大脳にあるのだ、というような話は、「心の実体」「心の機能の実体」の所在を問題にしていることになり、それは色々な説や解釈があるのだということになります。

こころとは何か、というのは、人には意識や感情があり、心身の相関で、それはまた身体にもあるとも言え、意識や感情を感じる機能が「こころ」であるということになります。

そして、このような意味での「こころ」はどこにあるのか、と言えば、それは胸や心臓のあたりにある、というのが答えです。

(「冷血」というような言い方は、心に衝撃を受け、心が消えるような体験の場合、心臓や胸のあたりが、実際に、冷たくなるという経験があるので、そこからこういう表現が成立したのだとも考えられます。「冷血漢」というのは、血液が冷たいのではなく、心臓=心が冷たく、それゆえ、血も冷たいので、「心ない人」「心の冷たい人」と同じような表現だと考えられます)。
 
>No.361230 質問:キケロの格言の原文
>http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=361230
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=361230

 
ここで尋ねられている「こころ」というのは、哲学的、大脳生理学的、または心理学的な意味での「精神」「精神機能」「意識」「意識機能」などは何か、また、それらの機能の機構は何で、どこの器官がそういう機能を司っているのか、というような質問とは少し違う疑問だと考えます。

上にあげたような問題は、哲学的問題と一般に考えられるので、その場合、「こころ」に関係して色々な似たような概念が出てきます。例えば、「魂」「精神」「意識」「霊」などです。これと「心」または「こころ」はどういう関...続きを読む

Q人間にとって言葉とは

人間にとって言葉とは、どのようなものなのでしょう。物が先か、言葉が先か・・・・・。なぜ、言葉というものがあるのか・・・・。
レポートなのです。全く分かりません。自分なりの答えも見つかりません。どうか少しヒントをください。お願いします。

Aベストアンサー

「サピア=ウォーフの仮説」というヒントになりそうなキーワードを差し上げておきます。これは、物が先か言葉が先かという問題に対する一つの論の試みです。「仮説」なのでなんとも言えません。それを批判する(正しいものは受け入れ、違うと思うところは違うと主張する)ことで、何か言えるんではないでしょうか。

なぜ、言葉というものがあるのか、ですが、1として「言葉がもしもなかったら、どんな世界になっていたか」ということ、2として「言葉はどのようにして生まれたか」ということを考える必要がありそうです。

あと、言語を記号とみなす考え方もあり、これもちょっと厄介ですが、「記号論」というキーワードを差し上げます。深入りすると大変かもしれません。せいぜい「シニフィアン」と「シニフィエ」あたりの理解にとどめるのが、大学のレポートのレベルだと思います。

人間にとって言葉とは何か、ということですが、それはいろんな方法で知ることができます。たとえばここで回答者の意見を伺うというアンケートから総括するでもよし、また自分も人間の1人であるから、個人的な意見としてはこうだということを主張してもよし、だろうと思います。視点はいろいろですね。

あと、いくつかこんな論題も考慮すると面白いかもしれません。
「言葉を使うのは人間だけか」
参考キーワード:チンパンジーの言語学習、アマラとカマラ
「言葉は本当に正しく物を表せるか」
参考キーワード:範疇、「りんご」と「そのりんご」の違いなど

もう1点、「人間とヒト」は区別しなくてはならないかもしれないと今思いました。学習能力という面で言えば生物学的にヒトと捉えた方がいいでしょう。人間というのは多少なりとも社会的な側面があるので、やはりそういうことになるのかもしれません。

道具であるとか、コミュニケーションの手段であるとかいうのは、今までによく言われていることで、斬新さには欠けますが、tsukajiさんが何かもっと奇抜な発想で思い付けたらいいなぁとは思います。

「サピア=ウォーフの仮説」というヒントになりそうなキーワードを差し上げておきます。これは、物が先か言葉が先かという問題に対する一つの論の試みです。「仮説」なのでなんとも言えません。それを批判する(正しいものは受け入れ、違うと思うところは違うと主張する)ことで、何か言えるんではないでしょうか。

なぜ、言葉というものがあるのか、ですが、1として「言葉がもしもなかったら、どんな世界になっていたか」ということ、2として「言葉はどのようにして生まれたか」ということを考える必要があ...続きを読む

Q哲学の授業でレポートを書くのですが・・・

テーマを、「主体の構造 自己意識と存在への開き」「意志の構想と意義への問い」「人間の共同存在の哲学的解明」のどれかから選ぶのですが、本を調べようにも一体何に関する本を探したらいいのかもわかりません・・・。
何でもいいので、何かヒント・キーワードなど教えてください!お願いします!

Aベストアンサー

 
まず、何の質問をされておられるのでしょうか?

哲学概論または哲学通史の授業のレポート課題で、こんな問題が出るはずはないとおもいます。もっと特徴的な哲学者に固有の用語を使っている場合とか、タームとしてある程度限定されたものを使って課題が出されている場合、それは、誰の考えにあるとか、いうはなしになります。

けれども、ここまで一般的で、しかも現代哲学のテーマであると同時に、哲学史を通じて問題になっている主題をあつかう場合、これだけでは、何のことか分かりません。

つまり、授業で実際に、どういう話を先生が行ったかで、全然、考える方向が違ってきます。

たとえば、「人間の共同存在の哲学的解明」とは、「間主観性」の問題を尋ねているのか、または、独我論に対し、哲学はどのように、主体の共同存在性を確保してきたのか、という問題を尋ねているのかで、答えが違ってきます。また「間主観性」といっても、独我論に対する反論として問題が立ちます。

「主体の構造」「存在への開き」「人間の共同存在」というと、現代哲学の問題のようにおもえますが、カントの哲学についての現代からの批判的展望として、こういう問題を立てることもできます。

これは、先生が授業で何を話したのか、ということが問題になります。授業に出ていれば、これらの課題で、何を尋ねているのか、分かるはずです。何か具体的な、特定の話や、現代倫理学概論のような話が、授業で行われたのだとおもいます。

だから、こういう問いは、その先生の授業を受けていたひとに、どういう哲学者の名前がよく話に出ていたか、どんな話があったか、参考書として何があげられていたか、を教えてもらうほうが、よほど有効です。

その上で、さらに、質問するというのは具体的なアドヴァイスが可能だとおもいますが、現在の質問内容では、アドヴァイスはできません。

これらの三つの課題を眺めると、現代倫理学の実践的課題についての理論的考察の問題のようにおもえます。そういう概論的話を、先生が授業でしたのだとおもいます。

現代倫理学入門というような本をみると、これら三つの課題に対応した問題提起が記されている可能性があります。内容を確認していませんが、比較的に安くて、入手しやすい本として次のような本があります。

>> 「現代倫理学入門」講談社学術文庫
>> 加藤 尚武 (著) 文庫 (1997/02) 講談社
>> 価格:¥820

次のような本もあるようですが、高いですし、入手は難しいとおもいます。(内容は分かりません)。

>> 「エチカとは何か―現代倫理学入門」
>> 有福 孝岳 (編集) 単行本 (1999/11) ナカニシヤ出版
>> 価格:¥2,400

現代倫理学入門というのは、新書で、そういう本がいくつか出ているともおもいます。授業に出ていたひとに尋ねることと、もうひとつ、大きな本屋に行って、現代倫理の入門書を探してみて、目次を見て、先の三つの課題に対応するような問題があつかわれているようなら、その本を参考にするのがよいでしょう。

本全体を読む必要はなく、それらしい話のある部分をもとに、自分なりに、課題に合うように、まとめるのがよいでしょう。
 

 
まず、何の質問をされておられるのでしょうか?

哲学概論または哲学通史の授業のレポート課題で、こんな問題が出るはずはないとおもいます。もっと特徴的な哲学者に固有の用語を使っている場合とか、タームとしてある程度限定されたものを使って課題が出されている場合、それは、誰の考えにあるとか、いうはなしになります。

けれども、ここまで一般的で、しかも現代哲学のテーマであると同時に、哲学史を通じて問題になっている主題をあつかう場合、これだけでは、何のことか分かりません。

つまり...続きを読む

Q東大の理1と理2の違いは?

僕は次から高1になるのですが、大学は東大の理系を考えています。
理3が医学部だということは分かっている(し、行く気はない)のですが、
理1と理2の違いがあまりはっきりしません。
学部進学の際、どのように振り分けられるのですか?
できれば具体的な人数なんかのデータがあればいいのですが・・・。

Aベストアンサー

>工学が1、農学が2、理学部ではそんな変わんないって感じでしょうか。

理学部はひとくくりにできませんよ。
物理学科、数学科などは理1優勢ですし、化学科だと同じくらい、生物学科なら少し理2優勢といった感じです。
#2で示した集計表のとおりです。
細かいこと言い出すと、工学、農学も学科によって色合いがかなり異なりますよ。

大まかなことを言えば、#2の文中に示した進学振り分けについての資料にありますが、
理科一類 工学部・理学部・薬学部・農学部
理科二類 農学部・理学部・薬学部・医学部・工学部
↑は、それなりに人数比率も反映した順番になっていて、理1なら工・理が大部分を占めるし、理2なら農・理・薬が大部分を占めます。

ここまでいろいろ書きましたが、どちらかというと、momomoredさんには#2の集計表とにらめっこしてほしくありません。
むしろ、大学側からの「進学のためのガイダンス」(http://www.u-tokyo.ac.jp/stu03/guidance/H16_html/index.html)や、#2の進学振り分けの資料の中の各学部の紹介とか、あるいは、各学部のホームページ(学部ごとにホームページをもっています)を見て、できれば研究室のホームページまでチェックして、具体的に何がやりたいか、そしてそれをやるためには東京大学のあの研究室で学びたいんだ、ということをしっかりと意識することのほうが大切だと思います(それがなかなかできないわけですが…ハイ)。

あくまで#2の集計表とかは参考までにね。#2で書いたように、入ってから行きたくても行けない学部・学科なんてものはほとんどないですから(文転もありですよ)。
目標高く勉強のほうがんばってください。

>工学が1、農学が2、理学部ではそんな変わんないって感じでしょうか。

理学部はひとくくりにできませんよ。
物理学科、数学科などは理1優勢ですし、化学科だと同じくらい、生物学科なら少し理2優勢といった感じです。
#2で示した集計表のとおりです。
細かいこと言い出すと、工学、農学も学科によって色合いがかなり異なりますよ。

大まかなことを言えば、#2の文中に示した進学振り分けについての資料にありますが、
理科一類 工学部・理学部・薬学部・農学部
理科二類 農学部・理学部・薬学部・...続きを読む

Q赦すと許すの意味の違い

赦すと許すの意味の違いを教えて下さい
どこからかの引用ではなく、言葉で解りやすく説明してくれるとありがたいです

Aベストアンサー

意味としては、どっちも同じ使い方ができるんですが。私の解釈
赦す:罪などをなしとすること。宗教的なところで使われることが多いですし、そういう意味合いが強いかと。恩赦とかいいますしね。

許す:上の意味もありますけど、何かをすることを認める、許可するという感じかと。


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