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人はどうして悪に基づいた行動が取れないのでしょうか。

例えば、どんな悪人と言われる人もその人なりにはその行為を正しいと思っていたり、正当化したりします。
正当化するという意味で当人にとって正当な行為を行っているのです。
悪をなそうと悪事を働く人を自分も含めてみたことがありません。

悪の反対を善とするなら、なぜ人は他人の評価はどうであれ「良い」、「善」、「正しい」という行為しか選択できないのでしょうか。

A 回答 (27件中11~20件)

こんにちは、難しい課題ですね。



あくまで推論でしかないのですが、

そもそも、絶対的な善悪というのはあるのでしょうか?
これを言い出すと、哲学的な迷宮に嵌ってしまいそうですが・・・

私たちは、心の発達過程の中で、先ず、他人(養育者)を認識して、
そして翻って自分を認識していきます。

そして、私たちは自分に有利・有効なモノゴトを善と呼び、
私たちに、害を及ぼすモノゴトを悪と名付けています。

つまり“悪”とは、常に自分に立ち向かって来て害を及ぼすものに
つけられた名前だと考えられます。
自分を中心に考えた場合、自分が生きていくこと、
自分に利益があることは、常に“善”だと言うことに成ります。

“悪”は常に、自分に対抗するもの・不利益をもたらすモノの総称ですので
自分が(自分に不利益をもたらす)相手の側に立って、
行為をなす、真に客観的な人間は存在しないのでしょう。

人は皆、自分が基準であり、自分を善と規定して
生きることを肯定しています。地球規模か個人レベルかの
違いはありますが、私たちは、個人というエゴを通して
世界を知るものですから、自分や世界に利益がある(であろう)ことを
“善”と規定して、その対抗としての“悪”があるに過ぎません。

人類が生き延びることを、考えるから、地球温暖化が悪なのであって
人類が滅びても、地球の寄生虫が一種類消滅するだけだと、
考えるならどうでしょう。

善も悪も自分自身のエゴを中心にした相対的な思考だから、
「悪意に基づいた行動ができない」のではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>そもそも、絶対的な善悪というのはあるのでしょうか?

あっても無くてもどっちでもいいと思いませんか?
相対であろうと絶対であろうと私たちは善悪に縛られているのですから。

>善も悪も自分自身のエゴを中心にした相対的な思考だから、「悪意に基づいた行動ができない」のではないでしょうか。

この結論に至るのがちょっと良く分からないのです。
どんな悪事も見方によって善になりうるという意味でしょうか。
他者から見ればそうかもしれませんが、判断しているのは当人なので当人にとって悪であるはずがないと思うのです。

お礼日時:2009/03/04 19:46

 はい、shift-2007さん、今はとりあえず、・・・、とりあえず判りました。


 
 でも、・・・。
 うぅん、ご説明のようなのを、意志とかいうのは困難のような感じがしますね。
 うぅん、何かをする、する羽目でする、することになった。
 人の行為、呼吸や鼓動という生命活動にしろ、私は意志によるものと存じております。
 自動で、自然に行われるものは何もない、全てが当為という原理である。存在とはそういうものである。
 という認識であります。

 そういう中で、仰せの行為はどういう意志もなく、流れるという状態だけです。こういうのを私は存在しているという範疇にいれるのを難しく思っています。話ができない存在の方です。

 仰せのことを理解に努めると、・・・。
 行為と存在があれば、それは意志の発動があり、それは一定の結果と効果への選択である。
 目指した一定の結果と効果とはそれなりに善なるものとの選択による。
 だから行為は全て悪意には基づいては居ない。
 というお話ですよね。

 何か40年前の屁理屈屋の私を想起してしまいました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>目指した一定の結果と効果とはそれなりに善なるものとの選択による。

そうなんですよ、私の言っていることはひどく当り前なのです。
それなりであろうと善に基づいてしか行動できないというところが面白いでしょう?

お礼日時:2009/03/04 19:40

 shift-2007さん


 回答番号:No.12のお礼でのご補足に対面しまして: 
 shift-2007さんのいつものあり方からは奇異な内容のご補足ですね。
 《彼らは彼らなりに現時点で最適な選択肢を選んでいるのではないでしょうか。他者から見て墓穴を掘っていると見えたとしても。》
 ☆まぁ道(徳)学者みたいな善悪の振り分けをするわけではありませんが、これをしもその人の意志が機能して、その結果だという見かたは牽強付会といえませんか?
 ことの本体を単に論理の数式だけで度外視するということになっていないでしょうか?

 《もちろん当人の心中では葛藤》
 ☆葛藤を齎す選択というのはまた、自己を決定で来る人間の意志行為としては矛盾的と存じますよ。

 《『現時点で最適』》
 ☆何かの依存から抜けられない行為を、人の行為といえますか?
  そこに意志が働いているとお思いですか?
  それが本当に最適だと思っての選択だとお思いですか?
  《主観的に良いと》とは思わないで、引きずられている状況でしかないのではないでしょうか?
 
 《私たちは恐らく良いと思われる選択肢しか選択できません。》
 ☆そのようなことは、自己の主(あるじ)として聖なる完成に到った方のみにおいて、名実共にいえるのでしょうね。
 まだ、自己を自分のものとしえない人は、なかなか、自己として意志も働かせることは不完全であるし、その行為の結果は必ずしもよきものとはいえない。
 そして、往々、人は心ならずも、自己のためとは異なること、自己の意志とは異なること、或いは自己の意志の分裂、滅裂をしながら、流れていることが多いのではないですか?
 自己の意志を機能させて行為している場合はどの程度ありますか?
 その自己の意思の根拠しているもの、そしてその識見はどこにありますか?

 shift-2007さんのご質問とも思えないので、回答することを控えておりましたが、私にはご真意が未だにりかいできません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

krya1998さんのおっしゃることはもっともですね。
たぶん私の説明の仕方が悪かったのでしょう。

当人が意識して選択しているかはあまりどうでもよく、
意識的でも無意識でも人は最善(客観的にではなく)と思われる選択をするということです。

例えばアルコール中毒、
お酒という現実逃避によってストレスを解消している。
ストレス解消という行為はどんな人でも行っていますので
方法はともあれ、これ自体が悪いことだとはいえないです。
つまりお酒を飲むことで『ストレスを軽減する』ことは自分にとって
良いことをしているといえるのではないでしょうか。

中毒症状がでればアルコールを絶つことによって禁断症状がでるでしょう。
禁断症状からの苦痛を和らげるためにまたお酒をのむ。
苦痛を和らげるという意味においてお酒を飲むことは一つの選択肢であるはずです。
もちろん、苦しい思いをしても酒を断つのが望ましいのですが、
そこまでする意義、意味を見いだせないのだからその人は酒を飲むのではないでしょうか。

意義、意味を見いだせない理由は問いません、
見いだせないという事実があり、酒を断つよりも酒を飲むことが今の自分にとって
良い選択だと思うからこそ人は酒を飲むのではないでしょうか。

質問の動機はNo.9のお礼に書かせて頂いた部分なのですが、
私はある意味とても低俗な質問をしています。
人間は所詮動物の一種にすぎないと言っているのかもしれませんが、
今はとりあえず受け流してください。

お礼日時:2009/03/04 12:38

余談です。



私の意見を訂正します。

いや、どこか、善しかないことをわかっていたのに、悪を認めたかったのだと思います…。


すごく勉強になりました。
ありがとうございました。


ps. no.9のお話、素敵で嬉しい思いがしました。看板?に書いてある内容に感動し、またその内容を掘り下げて考えてらっしゃることに、すごいっ!という嬉しさです。また書き方が読み物として楽しい思いがしました。

no.11さんの回答
動機がないからという回答、もっともな感じがします。まだ少し納得できない気持ちもあるのですが、シンプルで良いですね!
やっぱり人間は真善美が好きなんですね。


ありがとうございました。
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この回答へのお礼

変な質問にお付き合いいただきありがとうございました。

どう生きるかのヒントはいろいろな所にあるものですね。

お礼日時:2009/03/03 23:32

#12さんへのお礼で


>自分自身では善という選択肢しかもっていません。
これは奇妙だと思いませんか。
:と述べられていますが、これに関連して少し感想を。

以前、どなたかの定義にもあったと思うのですが、「悪は存在しない」ということはあると思います。
ただ、同様に「善も存在しない」と私は考えます。
つまるところ、「悪(だけ)が存在しない」と言うことはできないだろうということです。

今回おっしゃるところの、
「>自分自身では善という選択肢しかもっていません。」
という箇所はさもありなん、という感じですが、私なりに表現を変えさせていただくとすれば、
「自分自身は、生きるという選択肢しか持っていない」
ということになります。
つまり、陳腐ですが、生命力の発露という意味でです。
そもそも、これがなければこの世とやらに(あくまで結果的にではありますが)生を得るという偶然性も得られないわけです。

この生命力に関して善悪という概念は、おそらくなじまないのではないか。
というのが私の考え方です。
あくまで他者の存在、つまり、社会があればこそ発生した概念であると思うわけです。
ですから、
「>自分自身では善という選択肢しかもっていません。」

「自分自身では生きるという選択肢しかもっていません。」
と言い換えると奇妙ではなくなるのかな、という感想を持ちました。
無論、自殺という選択肢もありますが、自らを殺すことを選択するという生き方、という意味も含まれます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>自分自身では生きるという選択肢しかもっていません

確かにすっきりしますね。
それを踏まえてどう生きるかを考えないといけないようですね。

お礼日時:2009/03/03 23:16

 shift-2007さんのご質問だから、多分深い意味性のあることなのでしょう。


 それで、補足がいただけないかと存じまして、少し疑問点を申し上げます。
 何に悪、どういう場合の悪。と考えると仰せのようなお話もありましょうが、所謂る依存的性格、生活。
 依存症にいること、それから抜けられないこと。
 これは悪ではないのでしょうか?
 だから自己という意志がない、流されていくという意志での悪意の行為ではないでしょうか?

 回答部分:
 悪とはあくまでも仮初でしかないからだと存じます。
 そういう意味としての自分でないものが、そういう状態がなすものということではないでしょうか?
 あくまでも本当の行為ではないということでして。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>所謂る依存的性格、生活。依存症にいること、

これはたとえばアルコール中毒やニートなどを指すのでしょうか。

そうだとしても、彼らは彼らなりに現時点で最適な選択肢を選んでいるのではないでしょうか。
他者から見て墓穴を掘っていると見えたとしても。
もちろん当人の心中では葛藤はあるでしょうが選択した結果は『現時点で最適』であるはずです。
主観的に良いと思われる行為をしているのは間違いないのではないでしょうか。

私たちは恐らく良いと思われる選択肢しか選択できません。
そのように作られているとしか言えないほどです。

私たちは善悪をやたらと問題にするくせに、
自分自身では善という選択肢しかもっていません。
これは奇妙だと思いませんか。

お礼日時:2009/03/03 18:08

そもそも、動機がありません。


その選択肢が無いのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

善には動機があり、悪には動機がない。
シンプルですが確かにそれは言えていますね。

お礼日時:2009/03/03 17:48

どちらかというと哲学寄りな質問だと思いますが、回答します。



そもそもが、何を持って「善」何を持って「悪」かというのは、時と場合と場所によって違うのです。
善悪には絶対的な基準がありません。

仮に殺人を例にとった場合でも、
「一人を殺せば殺人犯、世界の半分を殺せば英雄、自分以外を殺せば神である」という言葉はそうした倫理観が元来あやふやである事を示しています。

とは言え、私は殺人を奨励している訳ではなく、現代社会を構築する現代の倫理観を持って「後戻りできないような事はするな」とだけは言いたいのですが、これさえもごく希なケースだとは思いますが、その思想上、人によっては悪に捉える人もいるでしょう。

人がいる分だけ、ビッグバンが四方八方へ飛び出したように、その各々が目指す正義と善があるのです。
そしてあるサンプルと反対方向へ飛び出しているサンプルは、自らを善、相手を悪として捕らえるのです。

自分が振り下ろした拳の先が客観的に見て善悪どちらなのかは分からない。いずれも主観ででしか捉える事ができませんから
そして振り下ろした先の評価は人間社会コミュニティーが行う為、自分が信ずる方向を良かれと思ってやった事でも、後で悪と断罪されるケースがあるのです。

簡単な例として、ムネオハウスで知られる鈴木宗男氏は、今でこそ佐藤優氏らの著作によって、ケインズ型公平分配主義からハイエク型傾斜分配への歴史的イデオロギー変換の犠牲となった事を示されていますが、当時は断罪ムード一色でした。今でもそうかもしれません。
検事が当時の鈴木議員の悪事を探そうと努力したが、結局何も見つからなかった。問題とされたのはやまりんへの政治献金ですが、これは領収書が切ってあり、「やましい献金にどうして領収書を切るのか」と佐藤氏は全くの潔白を主張しております。
そして、検事自身が「一昔前なら問題にならなかったが、今は法律の適用範囲のハードルが低くなるのだ」と言っており、仮に自身が正しいと思う事を遂行していても、後に悪だと断罪されるケースがあるのです。
事実、当時の鈴木議員はケインズ型公平分配主義の世代であれば全く法に触れるような事はしていなかったように思いますが、時代が新自由主義に変換されるに伴い、悪と断罪されたのです。

>なぜ人は他人の評価はどうであれ「良い」、「善」、「正しい」という行為しか選択できないのでしょうか。
これは己の信念に従った結果です。
社会で恣意的、あるいは偶発的に決まる善とは必ずしも一致しません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

あくまで主観としての善悪を問題にしています。
主観的に見て悪といえる行為を人はとれないのはなぜなのだろうと思うのです。

鈴木宗男氏は己の主観によって正しいと思った行為をしたのなら、
逆になぜ間違いであるという行為ができなかったのだろうと思うのです。

お礼日時:2009/03/03 17:47

禅問答みたいですね。



No.6さん、そうですね。
善悪の概念は作ったもので、人それぞれ異なっているから、一概には言えませんよね。

だから主観で、その人の中での悪を行動に移せないのはなぜか?ですよね?

(質問に帰った…)

自分で悪としていることを行動している人もいると思います。ただ表面に悪が表れ、内側に善が隠れてるのかな?
それで、本心は内側だろうということで悪をもって行動できてないということですね?

内側重視で考えるなら、そうかもしれません。
しかし、表面に現れてる思いや行動も、その人のものだと私は思うので、悪を自ら表現している以上、悪意をもって行動できてると思います。

なんか、全部、価値観みたいですね。


余談ですが、表面ばかりだと、内側見てくれー!ってなりますし、
内側重視しすぎると世界がめちゃくちゃになりますね。
何事もバランスですね。
と思いました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに禅問答の様な質問でした。
ある日犬を散歩させていると掲示板のようなものがあって、
そこに、『私は正しい』これが争いのもとである。
と書いてありました。うまいことを言うなと感心していたのです。
そこでなぜ私は正しいのかと考えてみたのです。

お礼日時:2009/03/03 17:37

おそらく悪がかっこいいという感覚があると悪に基づいた行動と表面的には見えるんではないでしょうかね?


ただ本質的にはそうなれません
本質的にはおそらく悪にしろ善にしろ存在せずその要素が存在するだけということになると思います、なので悪に基づくという行為に対しては要素を分解せねばならないので飽和することになります、つまり根っこに悪が基づいていないので悪に基づくということにはならないのではないかと思います、心理学的な見解ではありませんが論証してみました
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

恐らく誰の中にも悪に対する憧れみたいなものはあるでしょうね。
そもそも根っこには善悪はないのだから悪に基づくというのも変な話ということですね。

お礼日時:2009/03/03 17:23

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