女王国まで帯方郡より1万2千里と魏志倭人伝にあり、1里を漢の基準で約400メートルとした場合、太平洋に行ってしまいますが、単里の約76メートルとした場合はちょうど九州になるという説を読みました。
魏志倭人伝の陳寿の仕えていた西晋は短里を使っていたとか・・・
また、
「韓は帯方の南にあり、東西海をもって限りとなし、南は倭と接す。方4千里」
これは朝鮮半島の事だそうですが、4千里を約400メートルで計算すると、その大きさは朝鮮半島にはおさまらず、日本海に飛び出してしまうけれど、短里で計算するとちょうどあうそうです。
ですが、Wikipdiaの邪馬台国を見ても短里については書かれていません。この短里というのは信憑性が低いのでしょうか?
邪馬台国の九州説を否定する研究家は短里について、どう考えているのでしょうか?
No.1
- 回答日時:
こんにちは。
確かに昔は1里=約400メートルで邪馬台国は南半球あたりにきてしまう、と言われていました。
テレビの邪馬台国の特集番組でも、そう言っていたのを聞いた記憶があります。
しかし、その後、古田武彦さんの「邪馬台国はなかった」において
「魏志倭人伝は短里で記されている」と書かれてあったのを読んで、
「へえー」、と思ったことを記憶しています。
現在の研究者で一里=400メートルと捕らえている人はいないんじゃないかなあ?
一里は研究者によって異なりますが、70メートルから100mというふうに
考えられていると思います。
帯方郡から邪馬台国までの道程は次のようになっています。
http://selfpit.way-nifty.com/selfpit/2008/09/pos …
帯方郡→狗邪韓国→対馬国(對馬国)→一支国(一大国)→末盧国(末廬国)→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国
いろんな説がありますが、だいたい帯方郡~不弥国の比定地は
畿内説・九州説ともに同じだとされていることが多いです。
問題はここからなのです。
不弥国より先は距離ではなく、日数表示となっています。
不弥国→投馬国・・・南へ水行20日
投馬国→邪馬台国・・・南へ水行10日 陸行一ヶ月
まず、この曖昧な表示をどう捕らえるか、という問題があると思いますが、
北九州から畿内へ至るには妥当な日数だと考えられているようです。
ちなみに、唐代に記された「唐六典」に従えば
●船は1日に25.2km進む。20日では504km。10日では252km。
●一日で歩いて移動できる距離は28km。一ヶ月では840km。
となります。
そのため
九州説・・・方角はあっているが、距離が合わない。
畿内説・・・距離はあっているが、方角が合わない。
と従来言われてきました。
そこで、九州説では次のような説がとなえられました。
●「陸行一ヶ月」は「陸行1日」の誤りである。(白鳥庫吉氏など)
●「水行十日陸行一月」は「水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月」という意味である。(畿内説・日本海ルート説においても採用されることがある。)
●【放射式読み方説】(榎一雄氏など)
魏志倭人伝には2種類の道程の記し方があります。
(1)帯方郡~糸都国・・・方角・距離・地名の順番で示されている。
(2)糸都国~邪馬台国・・・方角・地名・距離の順番で示されている。
(2)は連続して読まず、糸都国よりの距離が示されているのではないか、
と榎一雄氏は考えました。
「邪馬台国はなかった」の古田氏もこの読み方を採用していました。
一方、畿内説を唱える研究者は放射式読み方説はとらず、
帯方郡~糸都国~邪馬台国と連続して読んでいます。
No.2
- 回答日時:
「晋書 志第6 律暦志」には、
西晋の司馬炎(武帝)は、儀式で使用する笛の音律の変化を問題視し、泰始9(273)年に中書監の荀勗(じゅんきょく)という人物に命じて調べさた。西晋では魏と同じ尺を使っていたが、どうもその長さが伸びていて音程が変わってしまっている。そこで荀勗は、古い器物や貨幣によって古来の正統尺の復元を試み、約23cmの周尺を再現したという話しが記載されています。
この後日談で、荀勗の仕事は高く評価されたが、これに異議を唱える者がいました。竹林の七賢の一人で阮咸という賢者です。
阮咸は、「荀勗の復元した尺でつくった楽器の音律は高すぎる」と罵り、「音律が高すぎるのは悲しいことだ、これは興国の音でなく、亡国の兆しである」と言ったそうです。
阮咸の死後、始平で古い尺が発見され、これが「始平銅尺(一尺三分七毫 23.71cm )」で、荀勗の尺よりも三分七毫長かったのがわかり、人々は阮咸の音感に感心したと伝えられています。
「律歴志」というのは、度量衡の単位について書かれたものです。
とくに『隋書』の「律歴(暦)志」は、周朝以来の歴代王朝が採用してきた尺について、「周尺」を基準に書かれています。
その中には短里を示すようなものが見当たりません。
6尺=1歩、300歩=1里(1800尺)という関係がありました。
これで当てはめると1里=426.78mになりますので、短里が本当に使用されていたかどうかが不明です。
時代的、地域的にさまざまなモノサシが使われていた可能性がある・・・と主張する学者さんもいるみたいですね。
また地理学者の藤田元春教授は魏略時代の書き記された倭・韓の里はすべて古周尺(1里約100メートル)で説明がつくと論じているそうです。
まだ藤田氏の説を読んだ事がないので古周尺の事はよく分かりませんが、何かしら根拠があるからそう主張なさっているのでしょう。
そのうち読んでみたいと思っています。
また周時代の天文書からは一里が約76メートルになるという説が出されているとか。
洛陽晋墓からは1尺を16センチとするモノサシが出土しているとか。
古代中国での長さ、距離の基準というのは、もっと研究が進められなければならないものなのでしょうね。
回答有り難うございました。
No.3
- 回答日時:
wikipedikaより抜粋
始めて海を1000余里渡ると対馬国(つまこく)に至る。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
対馬国を現在の対馬だとすると、短里で計算すると韓国から対馬までは
数キロしか離れていないということになります。
それに対馬の大きさがとてつもなく小さくなってしまいます。
ということは対馬国は現在の対馬とは全く別の場所だということになりますね。
魏志倭人伝は、ちゃんとした探索隊が結成されて、その調査の結果が記されているというものではないと思います。
「見聞録」というレベルのものだと思います。
もっとも出てくる国の名前はある程度は、フィクションなのでしょうが
いるとは、細かい位置については分からないと思います。
そもそも距離を測定するのは簡単ではないですね。
長い紐を使っていちいち計るのは大変面倒ですし、
現代でも車にメーターがなければ、何キロ運転したかなんて分かりませんし、時計や万歩計をせずに気ままに散歩して、何キロ歩いたか
正確にわかる人間なんていないでしょうから…
No.4
- 回答日時:
No.1です。
前回の回答ではちょっと説明不足だったので補足します。
手元にある資料によれば
素直に魏志倭人伝に従って単里で邪馬台国を辿っていくと
邪馬台国は九州内にはおさまっていません。
不弥国が大隈半島の付け根あたりにきて
邪馬台国は鹿児島県の沖永良部島の東海上となっています。
そこで補足要求をお願いしたいのですが
質問者様の読まれた説では
帯方郡→狗邪韓国→対馬国(對馬国)→一支国(一大国)→末盧国(末廬国)→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国
のそれぞれの比定地はどこだとされていますか?
対馬国が今の対馬で、一支国が今の壱岐で、まつら国が現在の唐津付近という事で、魏志倭人伝によると、ここまでで帯方郡から1万里。
帯方郡から邪馬台国までは1万2千里ですから、残るは二千里。
ですから唐津近辺から半径二千里に邪馬台国があるという事でした。
二千里を一里400メートルで計算すると太平洋上ですが、一里76メートルで計算すると唐津から約152キロの半径となり、九州では南は天草諸島から北は別府のあたりまでになるそうで、その範囲・周囲に邪馬台国はあるだろうという事でした。
回答有り難うございました。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
補足をいただきましてありがとうございます!
対馬国→対馬
一支国→壱岐
ということは、里数は正しいが、魏志倭人伝の南でなく
やや南東にとる、ということですね。
確かにまつら国を唐津付近にとるのであれば
南は天草諸島、北は別府のあたりまでにおさまりますね。
私の手元の史料では
対馬国は対馬ですが、一支国を壱岐とせずに
邪馬台国の記述どおり真南にとって長崎あたりをまつら国としています。
厳密にいえば、方角については魏志倭人伝どおりではありません。
けれども里数についてはあっているということで
一考の価値があると思います。
また短里は研究者によって70メートルから100mというふうに
幅があり
私の手元の資料の方は75mよりも長めにとってあるようです。
>短里というのは信憑性が低いのでしょうか?
一里は時代によって長さが変化しますが
帯方郡から狗邪韓国までの距離が7000里と記されています。
帯方郡(ソウル)、狗邪韓国(釜山)間の距離は約70km
1里=670km÷7000里=約96km
となりますから、魏志倭人伝が短里によって記されていることは
間違いないと思います。
ただし魏では1里=435mとしており、
なぜ魏志倭人伝のみ、短里で記されたのか、という疑問は残ります。
ちなみに一般的は比定地は
対馬国→対馬
一支国→壱岐
末盧国→松浦郡
伊都国→糸島郡
奴国→那珂郡
不弥国→宇美
となっています。
これらは地名の相似点を加味して考えられたもののようです。
いやー、回答する立場なのに、逆に教えてもらっちゃったような形になってしまいました。
ありがとうございます。
ついでと言ってはなんですが、どなたの説なのか
教えていただければ幸いです。
藤井滋さんという方が20年以上前に発表したらしいです。
自分は残念ながらまだその説の載っている本を直接には読んでいません。時々ネット古書店で探すのですが、ヒットしなくて・・・
ただ藤井さんの説は邪馬台国の北九州説をとる研究者に引用とか参考とかにされる事があるようです。
回答有り難うございました。
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