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私は古代の日本史を学んで以来、邪馬台国の卑弥呼が大和朝廷
つまり現在の天皇に繋がる存在だと思っていました。
ところが最近、九州出身の方から興味深い話を聞きました。

その内容は邪馬台国は朝鮮半島にあって、天皇とはあまり関係ないらしいこと。
現在の天皇に繋がるのは高天原族という騎馬民族で、
これまた大陸から朝鮮半島を経由して日本を征服していったということです。

この説なら謎とされている邪馬台国が日本に存在しないことも
未だに高天原が見つかっていないことも説明がつきます。

取り敢えず、これらのことはいったん置きまして、
今回お聞きしたいのはタイトルにあるように卑弥呼と天皇の関係です。
上述したように卑弥呼と高天原族は関係が薄いようですが、
この説は既に学説として定着しているものなのでしょうかということです。

A 回答 (6件)

根強いですね…



ご指摘の学説は戦後、記紀に対する史料批判を中心にとなえられ、一世を風靡した「騎馬民族征服王朝説」というものです。

それこそ一世を風靡しましたので、ネットで「騎馬民族征服王朝」や「江上波夫」などで検索すれば、山ほど情報が得られると思います。ただし、現在において「騎馬民族征服王朝説」といった学説は、学界の主流はではありません。失礼な言い方かもしれませんが、もはや現在の古代史の学問レベルから同説を位置づけるのであれば「いささか古風な学説」といった感じじゃないでしょうか…

そしてご質問にもありました「卑弥呼と天皇の関係」こそが、「邪馬台国論争」とよばれる畿内説と九州説の間にある論争を巻き起こしている。と言っても過言ではありません。

簡単にいえば「なぜ邪馬台国の所在地に対する関心が高いのか?」というところで、極論すれば統一的な日本という国家の成立年代がだいぶ変わるからなんです。
邪馬台国が畿内にあったとするならば、3世紀に九州まで統一していたからこそ、畿内にある邪馬台国と古代中国の「魏」が通行していたということですし、九州説によるならば、九州の地域的な政権にすぎない。ようは4世紀のヤマト王権登場まで待たなければならないということなんです。この間、約1世紀(100年)の誤差が生まれるわけですから。
そして、畿内説によるならば、邪馬台国は後に発展してヤマト王権につながり、律令国家そして封権社会といった歴史の流れの端緒となるのですが、九州説による場合は、ヤマト王権とは別ということで、邪馬台国が史書から姿を消すように、いつかの段階で邪馬台国は地上から消え、別に畿内においてヤマト王権が成立・発展するといった事なんです。極論すれば畿内説は卑弥呼が天皇の祖先に当たると言った学説ですし、九州説は天皇の祖先にあたらないといった具合であるとも考えられます。ただし。最近では九州にあった邪馬台国は東遷しヤマト王権を樹立するといった”邪馬台国東遷説”が大きな潮流をも生んでいることには注意が必要かとも思います。

ではその様な論争の中「騎馬民族征服王朝説」の立場は?といえば、東北アジアのツングース系の騎馬民族が新鋭の武器と馬とをもって朝鮮半島を南下。その先端にある任那(加羅)地方に拠点を築き、さらに4世紀には海を越え北九州に侵入した。その時の騎馬民族の王が崇神天皇であり、この段階における建国の事績は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降り立った天孫降臨神話に反映される。そしてその後は応神天皇が騎馬民族を率いて東進し、先住の農耕民を滅ぼし大和朝廷へつながってゆく。といった感じです。
ですから、騎馬民族征服王朝説も邪馬台国と大和朝廷のつながりを指摘しない面で、卑弥呼と天皇の関係には否定的なんですね。

最後ですが「学説として定着しているか」について「していない」という回答をしておりますので、そのあたりも若干ふれたいな、と思います。
実は「騎馬民族征服王朝説」に対し、一部の熱烈な支持者もいるにはいるのですが、研究者の大部分は否定的であり、その都度反論も加えてきたのですが「騎馬民族征服王朝説」もなかなかどうして…変幻自在なんです。まぁ学問を扱ううえで”変幻自在”ってどうなの?というところは目をつぶりつつ、今回は特に注目される”騎馬民族”による征服王朝といった騎馬文化についてだけ簡単に説明させてください。

江上氏は前期古墳に比べ後期古墳には騎馬戦用の武器や馬具の副葬が多くなると指摘し、これこそが騎馬民族の渡来を示す急激な変化なのだ。と主張するのですが、すでに前期古墳からも数は少ないながら、馬そのものや馬具が運ばれ、乗馬の風習や馬の飼育技術が伝えられていたと考えられ、江上氏が指摘するように”急激な変化”ではなく人口の増加により順調にその数を増やし、それに伴い乗馬の技術も向上したとみるのが穏当であり、また武器についても同様な事がいえ、そこには騎馬民族の移動や征服の痕跡を認めるのは困難であり、事実として見いだせていないという事なんですね。

ですから、騎馬民族征服王朝説を越えた部分で、現在の学問水準から後期古墳の馬具等を評価するならば、弥生時代以来積み重ねられてきた水稲稲作文化は次第に成熟し、やがて東アジア各地とも交流を持つほどに発展したこと。そして鉄器や馬具などは、その東アジアにおける交流の中で、ある時は戦争を通じて、ある時は平和裏に海外の文物を入手できる環境にあった。とされているのが現状であります。


長々とスミマセンでした<m(__)m>
もし最後までお読みいただけたのであれば、これに過ぎる喜びはありません。御承知のように邪馬台国や騎馬民族征服王朝説などが扱う「日本国家の誕生」についての論説は、当然のことながら様々に問題が提起され、今回の回答のように一刀両断した雑な説明をするとしても、これだけの量になってしまいます。ですから、表現に忸怩たる思いの部分もあるのですが、僕のマヌケな回答から古代史といった学問の奥行きをも感じ取って頂ければとも思います。
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この回答へのお礼

とてもご丁寧なご回答有り難うございます。
多分、私に話をしてくださった方も熱烈な支持者だと思います。

私はすっかり大和朝廷=邪馬台国だと思いこんでいたので、
力をつけた邪馬台国が東進を開始したと推測しておりました。
邪馬台国も大和朝廷も外国の部隊ならば、もっとも話は早いわけです。

でも、8世紀でも大陸に渡るのは命がけの時代です。
それより遙か前に大量の武器兵器や馬を合戦用に運搬したのでしょうか。
そう考えるとやはりご回答のように緩やかな変化の方が辻褄が合いそうです。

お礼日時:2012/10/20 15:11

・中国の史書に登場する卑弥呼を


天皇家系図に類推し、例えば卑弥呼は神功皇后であるなどという説も存在する。
(しかし、本居宣長は卑弥呼の邪馬台国は天皇家とは無関係な九州の地方政権にすきず、
別の勢力が、天孫降臨で九州の高千穂に移り、さらに神武東征で本州に移動したのが
大和朝廷の天皇家であると否定した。)
手塚治虫の「火の鳥」は、戦後 唱えられた騎馬民族日本征服説に、基づき、
九州上陸した天皇家の祖先が、邪馬台国を滅ぼすのが、えががれている。

天孫降臨、神武東征、邪馬台国の位置、天皇家の出自
いずれも、史書の記述を明確に裏付ける確証は、まだなく
学説として定着あるものは、ない
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この回答へのお礼

江戸時代から邪馬台国≠大和朝廷が言われてたのですね。
騎馬民族説はなんと漫画の題材にもなっていたのですか。
火の鳥は確か映画にもなってましたよね。
あまり興味がなかったのですが、一度みてみたいと思います。

お礼日時:2012/10/20 15:20

”現在の天皇に繋がるのは高天原族という騎馬民族で、


これまた大陸から朝鮮半島を経由して日本を征服していったということです。”
   ↑
この説は確かに存在しますが、圧倒的少数説です。
推測だけなら、結構説得力があるのですが、学説
としては弱いですね。
というのは、学説となるとそれを裏付ける資料が
必要な訳ですが、天皇騎馬民族説を示す資料が
皆無に近い状態だからです。
すなわち、
外から入って来て、日本を征服したとなると、
そこには相当の軋轢があったはずですが、遺跡にも
古文書にもそれを示すものは発見されていません。
また、天皇が馬に乗ったという絵も、記述も存在
しません。
騎馬民族説は、こういう欠点がありますので
殆ど支持されておりません。

尚、韓国辺りの学者は資料無しで事実認定をして
しまいます。
これでは学者と言えません。

”既に学説として定着しているものなのでしょうかということです”
      ↑
卑弥呼から天皇の繋がる、という説は存在しますし
結構有力ですが、定着はしていません。
資料がないので判らない、という状態です。
推測はいくらでも出来ますし、可能です。
しかし、それを裏付ける資料がなければ、それはただの
小説に過ぎません。
日本は韓国とは違うのです。
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この回答へのお礼

>そこには相当の軋轢があったはずですが

この辺も解決の鍵になるような気がします。
なにせ原始日本の頃ですから、どの程度の軋轢があったのか。
圧倒的に組織された武力があれば征服も容易だったでしょう。

アレキサンダー大王がわずかな時間であれほど領土を拡大したのです。
それに比べれば日本領土はあまりに狭いです。
私はどちらかというとシナリオライターなので仮説を立てる方が得意です。
資料待ちなのでしょうが、仮説というのも重要だと思いますよ。
裁判でも状況証拠が採用されることがあるでしょ。

ともあれ、資料が少ないから学説に至ってないことは理解できました。
どうも有り難うございました。

>日本は韓国とは違うのです。

ではなぜ天皇に関する調査がタブーとなっているのでしょうか。
意外と日本と韓国は同じ穴の狢ですよ。
これ以上書くと、また変な人が出てきそうなので、これくらいにしておきますが。

お礼日時:2012/10/20 14:38

邪馬台国=後年の大和朝廷に繋がる という考えももちろん否定はできません


卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳も近畿にあるのだし…

ただ私は邪馬台国はむしろ九州じゃないかと思っています
どうも大和朝廷よりも北九州の豪族 筑紫君磐井に繋がったのではないかと思っています
磐井はのちに朝廷に反旗を翻し反乱を起こしますが 征伐され滅ぼされます
しかし磐井の居た都跡からは邪馬台国の記述と酷似する出土品も見つかっています

吉野ヶ里遺跡でも似たものが見つかっています
天皇の関係者とするなら近畿で間違いないでしょうが…

そもそも天皇も卑弥呼の時代の弥生人も朝鮮半島からの渡来人です
そして元々日本にいた縄文人と交配し日本人が誕生したのです



まぁ卑弥呼が中国の王からもらったと言われる「漢倭奴国王」の金印が出土すればすべての謎が解けます
卑弥呼が皇族なのか 邪馬台国はどこにあったのか…そう すべての謎がね
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この回答へのお礼

朝廷が京都・奈良にあるのだから、
邪馬台国は近畿だろうと少年の頃は思ってました。

成人してからは北九州が適切なんだろうなと思ってましたが、
朝鮮半島という説を聞いて驚いた次第です。

金印が出土すれば邪馬台国の位置は確定しますが
全ての謎が解けるのでしょうか。

お礼日時:2012/10/20 14:21

何も定着してません。

初めて読んだ与太本を定説と思い込む無邪気な人ってだけです。
鳥の雛が初めて見た動く動物を自分の親と思い込むのと同じです。質問者さんもそうですか?
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC% …

「一般の人気や知名度に比べ、支持する専門家は少数派にとどまっているとされ[3]、今日ではほとんど否定されていると言う者もある[4]。」

という意味で、高天原族などを出す段階で、学説云々でいう世界ではない。
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この回答へのお礼

騎馬民族征服王朝説というのですか。
リンク先を見た感じでは確かに説得力はあります。
過去に学会で激論もあったようで、無根拠というわけでもないようですね。

邪馬台国は国でしたが、高天原族については国ではなく
どこかの国に属する士族ではないかとのことでした。

私としては少年時代の記憶をはっきりさせたいと思いましたが
そう簡単に決着がつく問題でもなさそうですね。
どうも有り難うございました。

お礼日時:2012/10/20 14:14

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