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一般的に考えられていると予想されるのは、大国主は出雲、ニニギの命は九州(南部)、神武天皇は九州(南部)→大和、のように思われます。
しかし、古事記では、大国主の物語では、木国(紀伊)、越国(北陸)、倭国(大和)と出雲からかなり遠方の地方が舞台にもなります。倭国については、大国主が后のスセリ姫の嫉妬から逃れるための避難場所として、また、スクナヒコナ神と別れた後の嘆く場面で、現れた神が、吾を倭の青垣の東の山へ斎祭れ、と言われ、祀った事。どちらも自分の支配地域でなければ、できない事です。また、国譲りの直前、大国主の子、建御名方神が建御雷神に追われて諏訪まで逃げた事。いくらなんでも、自分のテリトリーの範囲外までは逃げないでしょう。これらを見ると大国主は少なくとも中部地方までは支配地域にしていたと思います。
その後、ニニギの命は国譲りでそれを引き継ぐわけですから、同じ勢力範囲を持っていたはずで、その子孫である神武天皇の代になっても、特に記事が無いのでそれは変わらないはずです。
神武東征と言う言葉がありますが、神武東遷と云う所もあるそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6 …

東征と言うと、九州の端っこから大和まで、征服のためと言うかなり侵略的なニュアンスに聞こえますが、それは、長髄彦との戦いをクローズアップさせたからで、そこまではまったく戦闘などなかったし、長髄彦自身はとんでもない勘違い野郎で「私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%AB%84 …
の誤解で、基本、天つ神に帰依(仏教用語かもしれないが、適当な言葉が浮かばないので)している。正確な情報が長髄彦に行ってなくて、こう言う事態を引き起こした事は、支配地域と云えないのではないか、と言う考えもありますが、通信も発達していなかった事を考えれば「概ね」支配地域であったと思います。
だから、東征ではなく、新しい都にすべき場所を探しに行ったと言うのが正確で、その意味では「東遷」が正確ではないかと思うのですが。

A 回答 (2件)

神話の内容をそのまま受け入れる場合は、おっしゃる通り、日本全域を支配していた大国主から支配権がニニギに譲られ、それを受け継ぐ神武天皇には最初から日本全域の支配権があったということになります。

したがって、征服的な意味合いになり得る「神武東征」よりも、ただ東に移動しただけという意味の「東遷」のほうが良いかもしれません。ただし、「征」の字の第一義は「ゆく。旅に出る」というもので、ただ単に東にいったという意味に解することもできます。たとえば遠征ということばは、部活などでただ単に遠くに行くのにも使います。

<参考>漢字ペディア「征」https://www.kanjipedia.jp/kanji/0003860400/
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
征の字義ですが、角川新字源によりますと、
[なりたち]会意形声。正セイ(ただす、討ちに行く)に[行人偏]を増し加えて、正と区別し、おもに「うつ」「ゆく」意に用いる。 [意味]①うつ(伐)→付・同訓意義。 ㋐討ちに行く。㋑攻めてこらす。 ②ゆく。)→付・同訓意義。㋐進んで行く。㋑遠くに行く。旅をする。 ③とる(取)。利益を取る。④税を取り立てる。また、税。
とあり、成り立ちから「正す、討ちに行く」の「正」に行動である「行人偏」をつけていると説明していますから、第一義は、討つ、と言う事だと思います。

お礼日時:2019/02/10 14:56

斑鳩以前の日本史については確かなことがほとんど何もわかっていない。


なにしろ遺跡すら乏しくほとんど魏志倭人伝に頼るしかないのだ。
その魏志倭人伝によっても、方角と距離が合わない故邪馬台国とやらの位置さえ特定できない。
そこの記述通りに進むと邪馬台国は太平洋はるか沖合になってしまう。
日本書紀はもはや客観的資料ではないというのが定説である。

そういう状況で、質問文のような詳しい状況が特定できるわけがない。
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