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纒向遺跡や箸墓古墳などの調査が進むに連れて、邪馬台国近畿説が有力になっているようです。
様々な書籍が出版されていますが、あまりたくさんが出版されているので、どれから読んだら良いのか分かりません。
そのたくさんの書籍の中で、必読書を教えてください。
もちろん、あなたの主観で結構ですし、あなたの邪馬台国の位置に関する見解を添えていただくことも、歓迎します。
よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

pinaisa-laさん、こんにちは。



 私は今神功皇后の小説――といっても突飛な設定のモノですが――を書いていまして、その資料として読んだものの中から関連のありそうな本を紹介しておきます。

『倭人伝を読む』        森浩一編 中央公論社
『邪馬台国 魏志が歩いた道』 丸山雍成 吉川弘文館
『西日本古代史紀行』     河村哲夫 西日本新聞社

 邪馬台の読みは当時の中国ではヤマト。確かに近畿説優勢ですね。私的には本居宣長説がいちばん近いのではと思っています。勿論ご存知だとは思いますが、九州(?)の女酋が倭王を僭称したというアレです。ヤマトは近畿、卑弥呼(ヒメミコ)は九州。本居説は別として、これもなかなか面白い(笑) 東夷伝倭人条の可七萬餘戸は大和で、卑弥呼がいたのは筑紫の山門。そこには祭祀遺跡がポツンと一つあったりして・・・。
  
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

いろいろな方がいらして、非常に楽しいものです.

小説ばかりでなく、映像になると、衣服や景観なども、常時触れざるを得ないから面白そうです.

3冊、読んでみます.

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/01 04:17

歴史人 2013年6月号


『卑弥呼と邪馬台国の謎』
雑学雑誌で、バックナンバー購入になってしまいますが、専門的なものということでなければ、「ここまで変わってきているんだ」というのが結構わかりやすく面白かったです。
但し、邪馬台国東遷説については15~6年前と全然変わっていないし、卑弥呼の鏡については最近取り沙汰されている『画文帯神獣鏡』説には触れていない等あります。

今でも新発見が出てきても、相変わらず何も変わっていないかのような『東遷説(九州説)』が結構真相に近いのかなと思っています。魏書東夷伝倭人条の性格から、距離や国の規模をうのみにする必要はないので、邪馬台国に吉野ケ里ほどの規模すら不要ではないかと思っています。

根拠もなく、私見に値するほどのものもありませんが、当方は昔から原大和政権(最近の纏向遺跡の規模はすごいですよね)こそが、邪馬台国連合が最も恐れた『狗奴国』だと思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

たしかに、臆測も含めれば、千変万化の展開が可能な状態だとおもいます。

纒向遺跡を 狗奴国 とする説も可能だと思います.

古墳を開ければ 90%の説は 葬り去られるでしょう.

早い時期にお願いしたいものです.

歴史人 読んでみます。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/01 04:13

No.3です。



>たくさんある書籍の中には、あなたのような見解を生むものが含まれていることは知っています。

残念ながら、既存の書籍(魏志倭人伝は除く)には、私の書いた見解を生むものは1つもありません。
ただもし、魏志倭人伝を読むことがあれば、頭の隅にでも入れて読んでみてください。

# 読み返して、よくあれだけコンパクトに纏められたと、自分で思ったもので。
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この回答へのお礼

再答ありがとうございます

古代中国の書籍を読む時には、現代日本語訳、現代中国語訳、英語訳のうち、何故かいちばん遠いはずの英語訳が、いちばん分かりやすいという経験はつんでいます。

魏志倭人伝も、三国志から読み解くほどの語学力はありませんが、現代日本語訳に潜む、様々な隘路に気をつけて読み直してみます。

忠告ありがとうございます。

たしかに、わかりやすい言葉です。

お礼日時:2014/05/30 06:55

●「研究最前線 邪馬台国 いま、何がどこまで言えるのか」 朝日新聞出版 2011年


http://www.amazon.co.jp/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%9C …

この本は一人の研究者が書いたというような本ではなく、研究者達の討論会・講演を基に九州説や近畿説を解説したもので、近畿説、または九州説に偏っているという内容ではありません。
近畿説、九州説の主張理由と、それぞれの問題点なども解説されています。



●「邪馬台国と纒向遺跡」 学生社 2011年
http://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F …

題名の通りこの本は纒向遺跡に焦点を当てている本で、纒向遺跡に関する研究者達のシンポジウムを基に編集された本です。複数の研究家がそれぞれの立場・視点から語っています。邪馬台国=近畿説の本です。
纒向遺跡 =邪馬台国説の立場をとる人にはお勧めの本です。



●「邪馬台国への旅 日本全国・比定地トラベルガイド50」  東京書籍 2006年
http://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F …

題名の通り、色々言われている日本各地の邪馬台国の候補地を紹介している本です。
詳細な研究本ではありませんが、その候補地が何故、邪馬台国の候補地なのか簡単に分かりやすく説明してくれています。
「魏志倭人伝」の原文と、その読み下し文も載っていて参考になります。
また候補地やその周辺の遺跡や古墳、資料館への行き方も載っているので、実際に候補地に行ってみようという方にはとてもお薦めです。
とりあえず邪馬台国の場所はどこだったのか、気軽に知りたい、ちょっと思いを馳せてみたいという人にはお勧めの本です。




■>あなたの邪馬台国の位置に関する見解を添えていただくことも、歓迎します。

まず、「魏志倭人伝」の地理に関する記述はあてにならないと考えています。
中国の現存する最も古い地図集は宋の時代に描かれた「歴代地理指掌図」というのですが、これに「三国鼎峙図」という図が載っています。中国の三国時代、つまり卑弥呼が魏に使者を送った時代の中国の地図です。
この地図は当時の中国国内を描いたものですが、物凄く不正確なのです。
国内の地図すら正確に描けていないのですから、国外の邪馬台国への道筋が正確に「魏志倭人伝」に書かれているとは思えないのです。
だから「魏志倭人伝」に書かれている道筋を元に邪馬台国を発見しようとしても、それは難しいのではないか思っています。
それに千数百年前の話ですから、その間に地形が大地震などの自然現象で変化する可能性もあるでしょう。
だから、遺跡の発掘で出土する物で場所を判断するしかないのではないかと思っています。

正直、九州だろうと近畿だろうと邪馬台国のあった場所はどちらでも構いません。
どちらにもロマンがありますから。
ただ切実に希望するのは私が生きている間に確たる証拠が出土して邪馬台国の場所が判明してほしいという事です(苦笑)

この回答への補足

ありがとうございます
読了いたしましたが.ほかにも 興味深い書籍をご紹介していただいていますので そちらも読了してから 自分の考えというか感想をまとめてみたいと思いますが まだまだ 不明な部分が大きそうです。

どうも、ありがとうございました。

補足日時:2014/06/06 17:57
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

最も望んでいた回答です。

推薦いただいた書籍は、地元の図書館で所蔵していましたので、借りる手続きをいたします。

日本神話も、旧約聖書も、恣意的な読み方を強制する勢力の前では、正しい読み方など無力な場合もあります。

しかし、恣意的な読み方を許さない、確固たる筋道を見分け、付ける方法があるものと考えています。

宮内庁管理の全ての墳墓が公開されるときには、そうあって欲しいと考えます.

御高説によって、今一度、身を引き締めることができました。

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/30 02:03

最近は書店とも縁遠くなったため、必読書籍については存じません。


これまでに接してきた書籍やテレビでの発掘ニュース、古代史解説などからの総合的判断ですが、箸墓古墳が邪馬台国大和説の有力な根拠とされていることは、早くから承知していました。
一方で、邪馬台国九州説も有力で、未だに未解決らしいことも承知しています。
論争の焦点は、魏志倭人伝(魏志・烏丸鮮卑東夷伝倭人条)の解釈にあるかと思われます。この書簡は、魏王の使いとして派遣された帯方郡の一官吏の報告書を元に編纂されたもので有り、来訪者の自著とは認めがたい上、『倭』の国名をはじめ各地名・人名・官職名なども『悪字』を宛てて表記されており、文字を持たなかった倭人の発音を、言語体系の異なる帯方郡司がどれ程正確に表記し得たかに大きな疑問があります。
見聞録編纂の際に、編集者の誤読や独善解釈、文字の誤読や誤写が混入したことも考慮しなければなりません。『邪馬䑓国』は『邪馬壹国』の誤記説も有り、邪馬台は『やまと』とも読めるという牽強付会?の説も有ります。
地名等については、風土記編纂の下令において『好字二字を宛てよ』とされたことから、弥生期の地名などはズタズタにされています。弥生人の発音を好字の漢字二字を用いて表記することなど、不可能ではなかったでしょうか。
帯方郡の使者は、邪馬台国王に面会していません。恐らく邪馬台国に到達もしていません。
さて、箸墓や巻向は古墳時代の初期の墓制で有り、大和政権との関わりは否定できませんが、邪馬台国の卑弥呼は弥生時代の人で有り、宗女伊予とその前の男王も明らかに弥生の人ですから、時代を画することとなる大型古墳に埋葬されたとは思えません。百歩譲って、仮に卑弥呼や伊予が皇室の先祖としても、記紀に反映されないはずがありません。このことからも、箸墓の被葬者=卑弥呼論はこじつけでしか有りません。
以前出雲勢力圏には、四隅突出型古墳が多いとされていましたが、現今では、出雲型墳墓は古墳には数えられていません。時代が異なるためです。
『漢倭奴国王』印の出土は、邪馬台国九州論を後押ししますが、『親魏倭王』印とは別物でしょう。倭国王に近しい身分の人が、足利氏が日本国王を名乗って勘合貿易の利を独占したように、大王名を騙ったのかも知れませんが、決定的な証左ともなりません。
神武天皇のような地方豪族が力を得て、日向の姶良盆地地方から、出雲勢力の助力を得て東遷したとするのは、小生の私説です。約2千年前には姶良カルデラ付近の火山活動が復活し、海の幸・山の幸にも恵まれていたこの地方が、王城の地とするに相応しくなくなったため、脱出を図ったと見ます。この地方の火山活動の再燃については、気象庁HP「火山」で説明されています。
日向(宮崎県)の西都原古墳群の中に、大きな四隅突出型墳墓が有り、宮内庁が管轄しています。このことは、神武東遷以前には、出雲との関わりが深かったことの傍証で有り、大和王権成立直後には、国の守り神として三輪山に出雲の神を祀っています。それより遙か後の世に編纂された日本書紀には、ことさらに出雲を軽く見る記述が目立ちますが、それは大和の権威付けのため。ここに至るまでの神武王権と出雲王権の親密な関係は否定できません。
荒神谷遺跡の発掘は、関西の特徴である銅鐸と、九州の特徴である銅剣・銅矛など多数を出土しましたが、出雲風土記の記述や関連する伝説が、まんざら根も葉もないことでも無いことを示しました。
応神紀には神功皇后が武内宿禰とともに、朝鮮征討に際して敦賀経由日本海岸を九州に至った記載があり、この経路は、明治の後まで重要視されていました。当時の太平洋岸は、大陸・半島地域との交易・交流の観点からは、日本海岸に『表日本』の地位を奪われていたのです。
オオクニヌシの国造り伝説では、越の国から国の余りを引き寄せ、新羅の国からも同様に引き寄せたとされています。これを文字通りに解釈すると正しく荒唐無稽ですが、それら地域の工芸技能人の
集団を移住させたと見れば、難なく了解出来ますし、大和政権誕生直後まで、政治的にも経済的にも、九州地域と並ぶ中心地であったと思えます。
邪馬台国が九州から見て東方に位置するとすれば、大和の他に出雲も十分にその候補地資格を備えています。
邪馬台国発見には、マダマダ多大な研究・発掘・真摯な討議に基ずく検証の努力とともに、宮内庁の学問への貢献・協力のための陵墓参考地等の発掘認可が必要でしょう。
記述的には必ずしも学問的正確さはありませんが、私見ながらご参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私説まで披露していただき、感謝申し上げます。
僕には、たいへん勉強になる見解ですが、理解力が伴っているかどうか、疑問です。しかし、楽しく拝見いたしました。

大和王権は 最近 ヤマト王権 と記述される人が多く、 久しぶりに漢字で見せていただきました。

宮崎ばかりでなく、宮内庁管理の全ての墳墓群を、研究者の手ににゆだねるようなことがあって欲しいとは思いますが、研究者の中で主導権を握る人が誰かによって恣意的なものにも成りそうで、怖いとも考えます。

記紀への理解が少しばかり立体的になったような気がします.

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/30 01:20

書籍のことについては分からないのですが、とりあえず邪馬台国は忘れてください。

考古学的に分かっているのは、そこにヤマト王権につながる勢力が台頭したということだけです。
土器や古墳の形の遷移やといった細かい話や、日本全国で分布がどのように遷移したかといった大きな流れから、当時の日本でどのようなことがあったのか、そしてヤマト王権に繋がっていったのか、見えてくると思います。

纒向遺跡は纒向遺跡です、邪馬台国の都などという話は根拠がないです。それより、失念しましたが何とかという天皇の時代にその場所が市場として栄えたことが日本書紀だったかに書かれていますので、ヤマト王権に繋がる重要な遺跡であることは確かです。

箸中山古墳(箸墓古墳)は箸中山古墳です。なんとか姫の墓という証拠はありません。古墳期の初期に造られた、時期的にはとびぬけて大きな墓であることは確かですが、誰が葬られたのかどころか、被葬者が女性かどうかも分かっていません。


ちなみに邪馬台国は久留米。2度の魏使があったことが書かれていますが、1度目は福岡から南下、2度目は佐賀平野に抜けて東に行っています。2度目の魏使の時には卑弥呼は死んで、すでに台与が女王であったことが書かれています。倭(日本)からの使い(朝貢)は、1度目が卑弥呼(これで1度目の魏使が来た)、2度目は不明だが男王の可能性あり、3度目は台与(この年に2度目の魏使が来たが、これは倭から2度目の朝貢のお返しのためであり、邪馬台国の苦境をなんとかするためではない)が送っています。魏志倭人伝に書かれているのはこのような事です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

たくさんある書籍の中には、あなたのような見解を生むものが含まれていることは知っています。

しかし、僕が教えていただきたいこととは違っています。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/29 13:24

私は、日本史を語る前提として、日本の「国史」とは呼ばず「日本史」などという、戦後アメリカの指導の元で作られていった教科書と学校教育のでたらめをまずクリアにしてから、考察していかなくてはならないと強く信じる者です。

特に、全共闘、左翼インテリなどの工作で、日本の薄められ、捻じ曲げられた歴史を今一度見直す必要があるでしょう。
邪馬台国についての捉え方としては、私は竹田恒泰 さんの考え方を推奨します。まず、日本の左翼教育の垢を落とした上で、歴史を学ばないと真実が頭に入ってこないからです。
というわけで、私は竹田さんの「日本人はどうして日本の歴史を知らないのか」という秀逸な一冊を推薦します。邪馬台国についても語られていますので、参考に為さってみては如何でしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
日本文学 vs 国文学 と同じレベルの問題提起なのでしょうか。
もしそうならば、僕の質問への回答としては、的外れですね。
竹田さんがどのような方かは存じませんが、あなたの推薦の仕方では興味を持てません。
誰かの演説の真似でなく、自分の読書体験や経験、自己の思索に基づく、自分の言葉での見解を賜りたく思います。
よろしくお願いします。

お礼日時:2014/05/29 13:20

それこそ まだ確たる結論も出ていないし


九州・機内 あるいは第三の場所を巡って拮抗状態
そんな中でどの書物を読み漁っても書いてる事は一緒です


ちなみに
卑弥呼の系統と邪馬台国がその後 北九州の豪族 筑紫造盤井につながっているなら邪馬台国は九州説
卑弥呼の系統と邪馬台国がその後 大和朝廷に繋がっているなら邪馬台国は機内

というところでしょう
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確たる証拠の無い時に、どのような表現をするかによって、ライターの基本姿勢が分かりますので、ぜひご推薦ください.

お礼日時:2014/05/29 13:13

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