A 回答 (9件)
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No.8
- 回答日時:
返事が遅くなってごめんなさい。
補足欄を拝見して、わたしの回答は質問者さんにとっておそらく必要ないのだろうという気がして、回答を書くのがどうにも億劫になっていたのです。
質問者さんが書いておられることは、結局のところ、ある種の問題をふたつの立場から見たうちのひとつであって、自分たちの見方以外はあり得ないと主張するものです。結局は話を簡単にして「誰が悪いか」という犯人探しをするものではないのでしょうか。そして、そういう発想は、きわめて非フーコー的と言えるのではないでしょうか。
確かに「どちらが正しいか」「誰が悪いか」という問題設定は、政治的には一定の有効性を持つものなのでしょう。けれども、そういった問題は、果たして短期的なスパンで回答が出せるものなのでしょうか。
わたしはそんな議論に対して、何も言う言葉を持ちません。どうか政治のカテゴリーでご意見の展開をなさってください。
すでに書いたことの繰りかえしになりますが、フーコーは権力とは、ある主体によって所有されたり奪い取られたりするようなものではない、としています。つまり、わたしたちが権力を分析するときは、独裁者や権力者をイメージしてはならない、ということです。むしろ、無数の点から出発した、不均等かつ可動的な「力のゲーム」として分析されるべきものである、と。
フーコーは、人びとが見ていながら、見えてはいないもの、見そこなっている「自明性」を打ち壊すハンマーと新たな礎を刻み込むノミが収められた「道具箱」を人びとに提供する、としています。おそらくその思想を学ぶことは、権力の問題や政治問題、社会問題を考えていくとき、大きな武器になることでしょう。けれども、それはフーコーの用語の一部を借りて、フーコー風味のおしゃべりをすることとはちがうとわたしは思います。
どうか、腰をすえてじっくり勉強なさってください。
そのとき、万が一にもわたしの回答が助けになるとしたら、願ってもない喜びです。
わたしの拙い回答を読んでくださって、そうして長いことおつきあいくださってどうもありがとうございました。
質問者さんの考察が実り多いものであることを祈っています。
No.7
- 回答日時:
前の回答はえらく不親切でしたね。
引用は単に「戦略」の使い方を例示するつもりだったんですが、重要なところだったんで、どうしても内容に目が行ってしまう。前後関係もわからず、そこだけひょいと出てきたら、とまどいますよね。どこまで書いたらいいか、迷うところなんですが。
まず、お礼欄の方から。
1.> いいかれれば、「社会に内在する力」が、個々人に対して条件付けるというか無意識を身体化するところのものが、「権力」というように言っているように思うのですが。
その理解の仕方で大丈夫だと思います。
2.> 日本社会においては、その最たるものは、マスメディア(=知識人)ということになりますね。
えーと、マスメディアと知識人を等号で結ぶことには多少躊躇があるんですが、確かに「書く」という行為は、人びとのものの見方・考え方を統御していくという側面は大きいですよね。マスメディアによって媒介された「知識人」の言説が、多くの人びとに影響をもたらすということはあると思います。
けれども、その「知識人」のある特定個人に何らかの目的があって、人びとをこっち方向に誘導していこうという明確な意図があってその言説を行うとき、というのは、かえって「あれはプロパガンダ(政治宣伝)だ」というふうに、人びとに警戒されてしまうのではないでしょうか。
メディアのなかで、書き記す人びとはつねに複数であり、特に内容を検討したり、確認しあったりしているわけではありません。むしろ、そういう人でさえ、知らずに従属していた統御規則というようなものがあるはずではないでしょうか。
そうして、わたしたちにその書いたものに関して、反発であれ、賛成であれ、とりあえず理解ができるということは、その統御規則をわたしたちも共有しているということでしょう。
メディアに乗って発信している人は、まったく気づいていないかもしれない、100%自分の考えとして発信しているかもしれないのだけれど、その人の書き、語る行為を制御しているものは存在します。そうして、わたしたちも同じものに制御されているからこそ、理解できる。その制御しているものこそが、ある時代の、ある社会における言説の生産を決定づけています。
たとえば「出会い」というタイトルで作文を書かせたら、ほとんどの人が自分の経験を掘り起こして、「すばらしい出会い」という形で文章をまとめると思います。「出会い」というのは言葉のひとつに過ぎないのだけれど、決して無色透明の言葉ではない。「愛」にしても、「平和」にしても、「戦争」にしても、「環境」にしても、たいていの言葉は、その時代、その社会によって、微妙に色合いを変えていきます。それは、使う側も、受けとる側も、無意識に参照している「参照軸」のようなものがあるからです。
それはいったい何なのか。それは「物」ではないし、「人」でもない。だから、直接目で見ることはできません。けれど、さまざまな言説を読むとき、わたしたちが無意識に参照している「参照軸」を見つけることができれば、その目に見えない、実体としてはつかむことのできない「それ」を、浮かび上がらせることができるのではないか。
そういう言説の分析は、おもに『知の考古学』のなかでなされています。『監獄の誕生』や『知への意思』は非言説的分析、と分けることができるかと思います。
3.> 小沢秘書問題も検察という「権利主体」が、マスメディアの規範と価値を代行しているってことになりませんか?
これはどうだろうなあ。わたしはそうは思いません。
小沢秘書問題に関して言うと、荒っぽく言ってしまえばふたつの立場があるわけでしょう?
あれは国策捜査だ、っていう見方と、違法は違法だ、という見方と。
要は二種類の参照軸があるんだと思う。
マスメディアにしても、識者にしても、自分をどちらかの側に置いて、そのどちらかの参照軸に沿った発言をしているに過ぎない。わたしは寡聞にしてそれ以外の発言を聞いたことがありません。もちろん検察もその参照軸に従って実践しているわけですが。
誘導とか、そういうものではないと思いますけれど。
補足欄の方はどこまで書いたらいいか、よくわからないんで、また考えます。
この回答への補足
3.> 小沢秘書問題も検察という「権利主体」が、マスメディアの規範と価値を代行しているってことになりませんか?
「これはどうだろうなあ。わたしはそうは思いません。小沢秘書問題に関して言うと、荒っぽく言ってしまえばふたつの立場があるわけでしょう?
あれは国策捜査だ、っていう見方と、違法は違法だ、という見方と。」
法は形式なんですが、政治資金規正法では、形式的に政治団体から寄付されればその名前(未来研?)を書いて、報告書を都道府県の選挙管理委員会に提出しなければなりません。実際はの寄付の出所が西松であって、送金名義人(=形式)を書いて出さねばなりません。西松と書いて出せば形式的には違法ですから、都道府県選管は、訂正を指導します。
だから、小沢言うように、西松からであれば、自分の政党支部に寄付という形式を取れというように訂正を指導されるのですよ。
従って、「違法は違法だ」ではないのですよ。検察は、小沢の秘書が実際は、西松が金の出所であるという認識にもかかわらず、それを隠していたという内面の問題も問題として「違法だ」といっているのですよ。
これは、特捜検察がすごい事を犯罪容疑だといい始めたということです。
国策捜査であるかないかはともかくとして、これは凄いことだと思いますね。検察ファッショと言い得ると思うのですが、その点ともかくとして、フーコー的にいえば、
Selon le philosophe francais Michel Foucault,le pouvoir n est pas une autorite s exercant sur des sujets de droit, mais avant tout une puissance immanente a la societe, qui s exprime dans la production de normes et de valeurs.
「フランスの哲学者ミッシェル・フーコーによると、権力とは権限ある主体によって行使される権威ではなく、規範と価値の生産を体現するところの、何よりも社会に内在する力である。」
この判りやすい意訳からすれば、小沢秘書の逮捕については、国家機関の一環である特捜検察機関(権限ある主体)よって行使された権威ではなく、規範と価値の生産を体現するところの、何よりも社会に内在する力(日本国民の意識の水準力やマスメディア等の報道力の関係の総和としての力)として起訴権限(国家権力)が行使されたもの=「権力」という理解が、フーコー的な理解ということになるのでは。
又、お時間あれば、ご意見くださいませ。
No.6
- 回答日時:
すいません。
新学期になって忙しくて遅くなりました。> もっと強力かつ積極的に規格化をおこなうのであって
この規格化というのは、normalization だから、「規範化」と訳しても全然問題はありません。「規範」ではなくて「規範化」です。中山さんの本には「規範化」とされています。
だけど、
> 詳細な規範を規定して個体の身体まで管理化する。条件反射的に「規範」に従うように作り上げられる
というのは「規範」と言っちゃうと、少しちがうかな、という印象を受けます。
「規範化」あるいは「規格化」というのは、監禁システムの目標です。つまり、人間の身体を、ある型に合わせて完全に矯正しようとする、ということです。
17世紀の兵士というのは、遠くからでも見分けのつくような、立派な身体であることが理想とされていました。ところが18世紀も公判になると、兵士の身体は「作り上げられるもの」とみなされるようになる。農民であっても、「規範化」「規格化」によって、兵士とすることができる。
この「規範化」「規格化」を可能にする方法がディシプリン(規律)です
たとえば時間管理を分単位、秒単位で精密化する。時間厳守が鉄則となり、身体は時間に拘束されて動くようになる。
あるいはまた、椅子のすわり方やペンの持ち方、筆順など、「上手な字」を描くための身ぶりが規定される。
こうした規律によって、身体は「規格化」されていくのです。
ディシプリン(「規律」と訳されている場合もあります)と「規格化」の関係はこのようなものです。だからこの文章では「規律」とか「ディシプリン」と言った方がいいかな。
用語というのはむずかしいものです。
でも、囲碁にしても将棋にしても、ルールを覚え、定石を覚え、言葉を覚えながらやっていくものでしょう? 哲学とか、思想とかもそれと同じだと思うんです。
慣れないうちは「何だ、これ」と思うかもしれないし、いたずらに難解な言い方をしているように思うかもしれないけれど、全部理由がある。楽しく碁が打てるようになるためには、そんなややこしいプロセスを省略するわけにはいかない。わかりにくいから、と、自分の使いたいように用語を使うのは、そういう考え方をしない人もいるでしょうが、わたしはちがうかな、と思います。だから、がんばってみてください。
> フーコーの訳語で「戦略」という言葉も良く使われてますね。
戦略というのは、戦術と対にして考えるとわかりやすいかもしれません。
「戦」とあるように、もともとこれは戦争に関連する用語でした。戦争に勝つために作戦を立てる。個々の作戦を立てる前に、総合的・長期的な見通しが必要ですね。それが「戦略」です。戦術というのは、その戦略をもとに、具体的・実際的に立てていくものです。
「戦術核兵器」が、部隊や陣地など軍事目標を攻撃する核兵器であるのに対し、都市や軍事施設・工場密集地帯などの戦略目標を攻撃するのが「戦略核兵器」というでしょう?
そこから転じて、日常語でも「我が社の販売戦略」「顧客戦術」みたいな使い方をします。
さて、フーコーの本には、戦略という言葉がよく出てきます。
「権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。耐えざる闘争と衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲームである。」(p.119『性の歴史I 知への意思』)
このように権力を勝負、ゲームととらえているから、「戦略」という言葉が出てくるんですね。
こんな箇所はどうでしょうか。
「性とそれを引き受ける真理の言説に話を戻せば、解決すべき問いは、従って、かくかくの国家的構造である以上、いかにして、また何故、〔国家〕権力が性についての知を制度として作りださねばならないのか、という問いではない。……
そうではなくて、その問いはつぎのようなものだ、すなわち、性に関するかくかくの型の言説において、歴史的に、しかも特定の場所に現われる真理の強奪のかくかくの形において(少年の身体のまわりに、女の性に関して、産児制限の実行について等々)、そこで作動する、最も直接的で最も局地的な権力の関係とはいかなるものか。……
どのようにして、これら権力の関係が、ある一つの総合的戦略に論理に従って互いに結びつけられるのか、しかもその戦略は、翻って見ると、性に関する統一的でかつ積極的に介入する政策の様相を呈するのであるが。」(p.125-126)
この三世紀というもの、性に関しての言説は一種の爆発を見せている。それは、権力が、人びとに、性について語ること、告白することを要請したからだ。なぜ、そういうことが要請されるようになったか、という文脈に置いてみると、この「戦略」ということもとらえやすくなってくるのではないでしょうか。
この回答への補足
有難う御座います。戦術との比較では大変「戦略」という意味はよく判りました。しかし「そこで作動する、最も直接的で最も局地的な権力の関係とはいかなるものか。…どのようにして、これら権力の関係が、ある一つの総合的戦略に論理に従って互いに結びつけられるのか、しかもその戦略は、翻って見ると、性に関する統一的でかつ積極的に介入する政策の様相を呈するのであるが。」(p.125-126)
1、「直接的で最も局地的な権力の関係」って、性という次元、男女関係とか家族関係という次元の話なのでしょうか?
2、「これら権力の関係(男女関係の次元と家族関係の次元?)が、ある一つの総合的戦略に論理に従って互いに結びつけられるのか(一般的な権力概念に結び付けられる?)」ってことでしょうか?
3、ここでの戦略というのも上手く理解できません。
お時間あれば、よろしく!!
「さらにそれが進行していけば、パノプティコンすらも存在する必要はなくなります。囚人たちはパノプティコンを内在化することによって、規律正しい主体となっていく。」というように別の解答欄の所で述べておられますが、これって、フーコーにとって「権力」というのは、ある「規範と価値」を作りだし、それを、個々人の身体に内在化(主体化)する。いいかれれば、「社会に内在する力」が、個々人に対して条件付けるというか無意識を身体化するところのものが、「権力」というように言っているように思うのですが。
1、これって、俺の勝手解釈かな?
2、「権力とは権利主体の行使する権威ではなく、社会に内在する力であり、規範(規格化)と価値の産出を体言する」ものであれば、日本社会においては、その最たるものは、マスメディア(=知識人)ということになりますね。規範と価値という言葉を産出する一番の力というか影響力を持っているものですから。
3、小沢秘書問題も検察という「権利主体」が、マスメディアの規範と価値を代行しているってことになりませんか?法的には全く問題にならないものであって問題化している「権力」ってことになりませんか。勿論、社会における関係性の総和によって権力が行使されるものであってもですが。まあ、簡単明瞭に図式的にいってしまっておりますが。又、お時間のあるときにでもレクチュアお願いしたいです。
有難うございます。
No.5
- 回答日時:
1.司牧権力について
以下の回答はフーコーが1981年におこなった講義「全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて」(『フーコー・コレクション6 生政治・統治』所収)をおもな典拠としています。
キリスト教では、特にプロテスタントで聖職者のことを「牧師」と呼びますよね。その「牧」がどこからきたか。英語では「牧師」は pastor 、すなわち「羊飼い」です。司牧権力というのは、羊飼いの権力、ということです。
ギリシア・ローマ時代にはなじみのない考え方だったのですが、神や国王・首長が「羊飼い」である、という考え方をヘブライ人は発展させていきます。
ヘブライ人にとって、神は羊飼いでした。そうして王国の創立者であるダヴィデは、神によって羊の群れを呼び集める役割を託されます。
フーコーはこの考え方が、キリスト教思想と諸制度のなかでどのような重要性を帯びていったかを考察していきます。
1.羊飼いは大地にではなく、羊の群に対して権力を行使する
2.羊飼いは群れを呼び集め、みちびき、引き連れていく
3.羊飼いは群れの安全を確保する。渇きや飢えに苦しまないように日常的に心を配る
4.羊飼いは群れに対して献身的である。羊の群れが眠っているとき、羊飼いは眠らずに見張っている。さらに、一頭一頭、個別的に配慮する。
フーコーは、莫大な数の人びとの群れを、ひとにぎりの「羊飼い」が支配する、という不思議な権力のテクノロジーの源泉を、ここに見て取ります。
この「羊飼いのテクノロジー」は、そののちのキリスト教の世界になると、このように変貌を遂げていった、と説明します。
1.キリスト教では羊飼いは、単に羊の群れ全体に責任を負うばかりではなく、「羊たちが行う可能性のあるすべての善と悪について、羊たちの身におこるすべてのことがらについても心を配らなければならな」(p.325)くなった。
2.キリスト教では羊飼いと羊の絆は(ギリシャ時代のように法や意思によるものではなく)、個別的な絆、個人的服従の絆であると考えられるようになった。
3.キリスト教では羊飼いは一頭一頭の羊の状態
a.物質的欲求を知り、それを満たす
b.群れのなかで何が起こり、個々の羊たちが何をしているか知っておかなければない
c.個々の羊の魂のなかで起こっていることも知り、隠された罪をさぐりあて、神の道へ戻してやらなければならない
と考えるようになった
4.さらに、良心の究明、告白、指導/従属というキリスト教の技術は、個々の羊に、現世における「抑制」に向けて導く、という目的を持つ。つまり、このことは現世と自己の放棄を強いるものとなる。
この初期のキリスト教の理念は、中世において生かされていたかというと、そうではない。というのも、中世の農村経済や文化水準そのものが低かったことから、理念としては残っていったけれども、「権力」として現れることはなかったのです。それがはっきりと現れるようになったのは、16世紀に入って近代国家が成立し始めてからです。
フーコーは近代国家の形成の理念となった書物を検討していきます。
そこに「ポリティーク」(国家政策)と「ポリツァイ」(国家行政管理)という原理を見いだします。
このポリティークが敵国や国内の敵と闘う原理であるのに対し、ポリツァイは国家の生命力を維持するものです。そうして、国家が国民のひとりひとりに世話をやく状況というのは、近代国家が新しい政治形態のなかに、古いキリスト教の権力テクノロジー、「羊飼いのテクノロジー」を導入したことを見てとるのです。
近代の国家権力は、羊飼いが羊の群れを把握するように、国家の人口を把握し、数量的に管理し、データを作成し、分析できるような「知」を発展させた。それが「司牧権力」と呼ばれるものです。
ここでの権力は、規律型の権力のように、身体を統制するだけにとどまりません。生かす権力、命をコントロールの対象とする権力です。
2.コレージュド・フランスでの講義に限定すると「治安・領土・人口」が重要です。
筑摩書房から出ている『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』に所収されています。
なにをわかりやすいとするかは人によってちがいますが、わたしはどちらかというと、まとまったものの方が読みやすいように思います。『言葉と物』はある程度哲学史の知識(とくにカント)がないとつらいかな、と思いますが、『監獄の誕生』や『性の歴史―I知への意思』なんかは非常にクリアな論理の進め方で、もちろん書いてあることはむずかしいんですが、たとえばドゥルーズなんかにくらべると、よほど読みやすい印象を受けます。
とりあえず『監獄の誕生』を手に取られてはいかがでしょうか。
引用されているのは#4の方がご指摘の『監獄の誕生』だと思います。
この回答への補足
ご説明大変感謝しております。ところで、
1、「すなわち、権力はイデオロギーによる働きかけ、あるいは抑圧や排除に甘んずるどころではない、もっと強力かつ積極的に規格化をおこなうのであって、現代社会におけるイデオロギー的抑圧は、実はこの規格化が本質になっている。」の「規格化」というのは、法的、社会的道義的、性的な善悪判断基準という意味なら日本人には判りやすい「規範」(詳細な規範を規定して個体の身体まで管理化する。条件反射的に「規範」に従うように作り上げられる)という言葉はどうでしょうか?
2、因み、フーコーの訳語で「戦略」という言葉も良く使われてますね。俺なんかには意味が良く判らず違和感を覚えるのですが、この意味は?なにか適当なフーコーの「知」と「権力」に関連する所での引用なんかであれば、それで説明いただけたら・・・なんて勝手に考えているのですが。
「とりあえず『監獄の誕生』を手に取られてはいかがでしょうか。
引用されているのは#4の方がご指摘の『監獄の誕生』だと思います。」
有難う御座います。早速、『監獄の誕生』を図書館で借り出そうと思っています。
No.4
- 回答日時:
No.2です。
お礼を拝見致しました。ありがとうございます。
お尋ねの仏文の和訳ですが、まず文字化けの箇所のアクサンを省いた状態で以下に書き直させていただきますね。
間違っていたら訂正をお願い致します。
「Selon le philosophe francais Michel Foucault, le pouvoir n'est pas une autorite s'exercant sur des sujets de droit, mais avant tout une puissance immanente a la societe, qui s'exprime dans la production de normes et de valeurs.」
「フランスの哲学者ミッシェル・フーコーによると、権力とは権利主体に行使される権威ではなく、何よりも社会に内在する力であり、規格と市場価値の生産を表すものである。」
う~ん、全て読破しきっていないので、出典もわからずじまいです。
でも何となくSurveiller et Punir『監獄の誕生』からの抜粋のような気がするんですけどね~。
酔っ払っているので限りなく自信があまりありません。
ごめんなさい~。
ちなみに1.2は『フーコー・コレクション(ちくま学芸文庫)』の4(権力、監禁)と6(生政治、統治)でおおまかに網羅してありますのでよろしかったらどうぞ。
あと、『性の歴史I知への意志(新潮社版)』の第5章の前半部もなかなか良いと思います。
また何か発見したら回答させて下さいませ。
ゴーストバスターさんが詳しく解説して下さることを私も期待しております。来て下さらないかなあ♪
この回答への補足
有難う御座います。1、「権力とは権利主体に行使される権威ではなく、何よりも社会に内在する力であり、規格と市場価値の生産を表すものである。」というフーコーの権力概念の規定は面白いですね。「規格」とされている所を「規範」として、「市場価値」とされている所を「社会価値」もしくは「価値」だけのほうが日本人にはわかりやすいのでは。
2、『フーコー・コレクション(ちくま学芸文庫)』の4(権力、監禁)は昨日図書館で借りてきて読んでおります。フーコーと蓮実との対談のところで、フーコーは自分の権力概念を説明しておりますね。
叉、そこのところで、蓮実は、フーコーが「国家権力」と「権力」の違いを、『性の歴史:知への意思』の序文で書いていると言っております。
これも借りてこようと思っております。叉、アドヴァイス頂いた『フーコーコレクション6(生政治、統治)』もチェックしてみようと思っております。彼の切り口は、方法の問題ではない(方法の問題でない方法?)といっておりますが・・・・
自分の分析方法を「道具箱」というようなことを言っておりますが、ともかく全くマルクス主義と違う視点というか、眼差しで世界を、個別問題をとらえようとしているように思えるのですが。じっくり勉強したいと思っております。
No.3
- 回答日時:
補足欄、拝見しました。
質問者さんの問題意識のポイントがわかったように思います。
できるだけわかりやすく書こうと思いますので、ついてきてください。
『監獄の誕生』で何よりも重要なのは「身体」ということです。
以前、権力の機能と考えられていたのは、あくまで「力」でした。
ある人物Aが、人物Bに対して、自分の思い通りにするために行使する「力」。それが権力だった。たとえばマルクス主義の国家権力を暴力装置とする考え方がそれです。
一方、支配されている人物Bも、実は支配されることを望んでいるから、AとBのあいだに権力関係が成立するんだ、という考え方は、ヘーゲルの主奴論から始まって、実はマルクスもそのことを考察していたし、ウェーバーの権力論(たとえば『支配の諸類型』など)でも、ジンメルの「支配」でも、ずっと問題にされてきたことです。
なぜ人は権力者の前にひざまずくのか。権力論はそれを解き明かそうとしてきました。
その流れのなかで、ウェーバーもジンメルも、ディシプリン(規律訓育)ということを考察しています。すなわち、本来なら、服従する者は服従しない自由もあるはずなんですが、権力がディシプリンというかたちをとるとき、服従しないという可能性そのものが、服従者には立ち現れてこない。
このように、すでに「見えない権力」という考え方は、ウェーバーやジンメルにおいて出てきています。
そういう社会学方面から考察されてきた権力論とフーコーが一線を画すのは、「身体性」ということでした。人間は身体を持ちながら、思考し、認識するのではありません。身体があることで初めて認識も思考も可能になる。
このことによっていったい何が言えるのか。
主体がまずあって、権力作用のなかに入っていくのではなく、わたしたちが「主体」となるということは、それ自体として独特な形式の権力に対する従属化の産物である、ということです。つまり、権力への従属なくしては「主体」もありえない、ということ。
これはものすごく重要なことなので、頭にたたき込んでおいてください。
わたしが「権力が発動(行使)」という言葉に覚えた違和感は、「発動」というメタファーに対する違和感です。
つまり、「エンジンを発動させる」というとき、エンジンは動いてませんよね。エンジン稼働率ゼロ状態から、「発動」させることによって稼働率をあげていく。
同じように「権力が発動される」というとき、あたかも「権力ゼロ」の状態が想定されているのではないか、そうして「発動」というメタファーによって、一種の実体化がなされているのではないか、と感じたのです。
エンジンとはちがって、「権力ゼロ」の状態はありえない。「権力から自由になる」というのも無意味なお題目です。
もう少し、実体化、ということを書きます。
フーコーの『監獄の誕生』には、ベンサムの考えた「パノプティコン」という監視装置が出てきますよね。
パノプティコンが真ん中にどーんと立っているために、囚人たちは常に監視されている(ちょっとでも怠けていれば処罰されるかもしれない、すなわち身体に直接苦痛が与えられる)という恐れから、規律正しい行動をおこなうようになる、というものでした。
つまり、この「規律権力」というのは、抑圧によって行為者の意思をくじくのではなく、そのようなことを自発的に意志できるような主体を育成すべく、作用したのでした。
ここでパノプティコンに注目してみましょう。
パノプティコンが「権力」として「発動」されているのはどんなときか。
パノプティコンがもっともその機能を発揮するのは、そこに看守が「いない」ときです。誰も見ていないのに、見られているという「可能性」が権力として作用している。つまり、監視人は必要ない。
さらにそれが進行していけば、パノプティコンすらも存在する必要はなくなります。囚人たちはパノプティコンを内在化することによって、規律正しい主体となっていく。
もう少し、ちがう例を考えてみましょう。
銃を持った銀行強盗が金を出せ、と入ってくる。周囲の人びとに対しては、動くな、と威嚇する。
人びとはこの強盗の言うがままになるでしょう。
けれどもそれは「銃で撃つ」という暴力行為が実際には「なされてない」からこそ、権力の作用を及ぼしているわけです(現実に撃たれて殺されてしまえば、その人にはもはや権力は及びません)。その銃がモデルガンであろうが、弾がこめられていまいが、周囲の人びとが、「銃」を脅威、あるいは「力」と認めることによって作用する。
たとえば国家権力を暴力装置として実体化する考え方というのは、看守が、あるいはパノプティコンが人びとを弾圧している、強盗の銃(の威力)が人に対して言うことを聞かせている、とする見方です。この見方は、権力が実際には「発動」されていないときにこそ、作用しているという点を見落としています。
「見えない権力」「隠された権力」というのは、権力の裏につねに暴力が存在していて、その力が隠されている、というのではない。「権力」はそれ自体としては、まったく空っぽなものなんです。空っぽ(抽象的)であるにもかかわらず、これに従属する者の視点に対して、時間的・空間的に、完全に普遍化されている。
そんなことはないじゃないか、実際に、政治権力はわたしたちを支配しているではないか、実体がないと言ったって、現に支配されているじゃないか。
当然こういう疑問が出てくるかもしれません。
そのことに対しては、こう答えることができるように思います。
まず第一に、わたしたちはある完全に抽象的な権力に従属することを通して、主体となっていく。
その上で、第二に、わたしたちによって自覚的に選択された支配者の支配が重ねられる。
この支配者が、抽象的な権力を代行(具現)するのです。
たとえば先ほどの銀行強盗の例をもういちど考えてみましょう。
銃を持った強盗が銀行に入ってきます。わたしたちはとっさに「危険だ」「身体に危害が加えられたら大変だ」という恐れから、みずからを「銀行強盗によってとらえられた主体」として形成していきます。そこでの「銀行強盗」というのは、わたしたちが自覚的に選択した支配者なんです。
あるいは民主主義のもとで、わたしたちは自らの支配者を自覚的に選択することによって、わたしたちを主体として形成した抽象的なもの、見えない支配を、見えるようなものへとしていきます。
たとえばフーコーも「国家権力」という言葉の使い方もしているのですが、これはあくまでもそういうものとして使われていると理解してください。
>最近の特捜検察の小沢秘書逮捕、起訴などみていると、昨年から検察権力の動きなどをみていると、勿論、逮捕後は、マスメディアや検察のリーク情報によって、「関係の総和」という社会状況を作り出し、起訴、裁判手続というように、検察特捜という司法権力が発動されているように、……
ここで質問者さんは「検察権力」「検察特捜という司法権力」という言葉を使っておられますが、これらの「権力」は、わたしたちが及ぼされている支配を、これらの言葉によって対自化していることを理解しておいてください。
わたしが先の回答で「実体化しているのではないか」と言ったのは、そういう意味です。
> フーコーの方法論を勉強して、日本の現実の社会政治問題に適用、応用できるのではないか
フーコーの登場以降、「権力はあまねく偏在している(わ、畳語だ)」とか、わたしたち自身の個人的関係や日常的活動に刷りこまれている、とかいう考え方は、一種のスタンダードになってきたと思うんです。そして、この「気づき」というのは、ものすごく重要なことだと思う。
加えて、フーコーは、思想は社会の中で役立つ「ツール」でなければならないと考えていたそうです。だからフーコーを勉強することは、有意義じゃないかと思います。
そのうえで、フーコーの権力論は、ずいぶん変わっていっています。
初期の『監獄の誕生』から『性の歴史 1.知への意思』を経て、〈生-統治〉へと至る。
たとえばジェノサイドとか、民族浄化ということは、「規律権力」からだとうまく説明できないんですが、〈生-統治〉、あるいはバイオ・ポリティックスなら、説明が可能になる。たとえば「医療」や「健康」の問題を考えていくときに、この視点は非常に有効だと思います。
ただ、現実の社会問題に応用しようとするなら、やっぱりしっかりと「思想」として勉強しておかないと、ほんとに用語だけを借りてくることになっちゃう。
「支配」「権力」ということを考えるなら、やはり社会学系の本はとても参考になります。
熊沢誠の『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』(現代教養文庫)とか藤田弘夫の『都市の論理 ─権力はなぜ都市を必要とするか』(中公新書)とか、具体的な考察がなされていて、おもしろかったので、よかったら読んでみてください。
この回答への補足
大変有難う御座います。ちょっとバタバタしており、時間をかけてじっくり読ませていただきます。ところで、この下のフランス語は日本語ではなんと訳されてますか?叉、原書はなんというタイトルでしょうか、ご存知であれば、ご教示願いたいのですが。
Selon le philosophe français Michel Foucault, « le pouvoir n'est pas une autorité s'exerçant sur des sujets de droit, mais avant tout une puissance immanente à la société, qui s'exprime dans la production de normes et de valeurs »
1、「そういう社会学方面から考察されてきた権力論とフーコーが一線を画すのは、「身体性」ということでした。人間は身体を持ちながら、思考し、認識するのではありません。身体があることで初めて認識も思考も可能になる。このことによっていったい何が言えるのか。
主体がまずあって、権力作用のなかに入っていくのではなく、わたしたちが「主体」となるということは、それ自体として独特な形式の権力に対する従属化の産物である、ということです。つまり、権力への従属なくしては「主体」もありえない、ということ。
これはものすごく重要なことなので、頭にたたき込んでおいてください」
いや~~~~~これは、仰るとおりです。
2、「ここで質問者さんは「検察権力」「検察特捜という司法権力」という言葉を使っておられますが、これらの「権力」は、わたしたちが及ぼされている支配を、これらの言葉によって対自化していることを理解しておいてください。」
(これって、権力を具体的に対象化された言葉として使っていることを、俺に理解しときなさいよ、ということですよね。)
3、「わたしが先の回答で「実体化しているのではないか」と言ったのは、そういう意味です。」
この点の、文章の繋がりと「実体化している」という意味は?
No.2
- 回答日時:
No.1様がご指摘なさった『監獄の誕生』(新潮社)の312~316頁の「フーコー覚書」の抜粋を以下に記します。
ご参考にしていただければ幸いです。
「第一に、伝統的な左翼の論法では、権力はそれを獲得した階級の占有と考えられているが、フーコーによれば権力とは一つの占有であるよりは一つの戦略なのである。【権力は所有されるよりむしろ行使されるのであり、支配階級が獲得もしくは保持する≪特権≫ではなく支配階級が占める戦略的立場の総体的な効果である(本書31ページ)。」
「第二に、伝統的な観点では権力とは国家権力にほかならず、それは一つの国家装置の中に局在すると考えられているが、フーコーの新しい権力観では、国家じたいも政治体を構成する多様な歯車の総体的な結果の一つにすぎないのであって、権力を一定の装置=場に固定したものとする把握は誤まっていると考えられるだろう。本書における最も根本的な考え方の一つは、近代社会を≪規律・訓練≫中心の社会とするその規定であるが、より積極的には、権力が、厳密には≪規律・訓練≫的な権力が、ある一定の装置=場に還元しえないどころか、むしろ、あらゆる装置=場を一貫して作用するという主張は、私には斬新かつ説得的であるように思われる。」
「第三に、国家装置のなかに具現される権力は、ある生産様式、つまり一定の下部構造に従属すると考える伝統的な措定にもフーコーは否定的な立場をとる。
なぜならば、フーコーは権力を「微視的物理学」の立場で分析していったのちに【権力のさまざまの本源と規律・訓練的な諸技術は、相互に結びつく多数の線分状の部分(家庭、学校、兵営、工場、必要ならば監獄)を形づくる、そうした権力の内在性】を明らかにするからである。」
「第四に、従来の権力観では権力は抑圧によるかイデオロギーをとおして作用するという考え方が普通であったが、この点についてもフーコーの分析は新しい。
すなわち、権力はイデオロギーによる働きかけ、あるいは抑圧や排除に甘んずるどころではない、もっと強力かつ積極的に規格化をおこなうのであって、現代社会におけるイデオロギー的抑圧は、実はこの規格化が本質になっている。
要するにフーコーのこうした新しい視座には、単にブルジョア的な国家理論のみならずマルクス派の権力論も修正をせまる「理論的変革」が認められる。」
「政治権力にたいするフーコーの第一義的な視点は、権力によってしいたげられる者のそれである。現に権力を行使する階層と、それと対抗しいずれ権力者たらんとする階層という公式的な階級対立論とは異なって、フーコーの思考は、つねに服従させられ、しいたげられる者に力点をおいている、彼の分析によると、服従を強制するものと強制される者の賭金は、つねに後者の身体である。前者は後者の身体に規律・訓練をたえず加えていくわけで、その顕著な例証は第四部「監獄」に詳しい。そのなかでも、権力装置が違法行為を管理し、「監獄が非行性を生み出す」という第二章の論点、とりわけ、権力には≪排除≫機能のみならず、逆説的には≪生産≫機能がそなわるという主張は、注目にあたいするといえるだろう。」
>フーコーの方法論を勉強して、日本の現実の社会政治問題に適用、応用できるのではないか
ごく平凡に想起しがちな現代日本における管理社会化に対するアンチ・テーゼとは別に、この著書を用いて新たに社会政治問題にアプローチをするというのも、面白いかもしれませんね。
この回答への補足
大変有難う御座います。ちょっとバタバタしており、時間をかけてじっくり読ませていただきます。ところで、この下のフランス語は日本語ではなんと訳されてますか?叉、原書はなんというタイトルでしょうか、ご存知であれば、ご教示願いたいのですが。
Selon le philosophe français Michel Foucault, « le pouvoir n'est pas une autorité s'exerçant sur des sujets de droit, mais avant tout une puissance immanente à la société, qui s'exprime dans la production de normes et de valeurs »
御礼のコーナーで書くのもなんですが、1、フーコーが「司牧権力」というようなことを云っていたと思うのですが、これはどういうような権力という概念になりますか?
2、コレージュド・フランスでの講義の中で、彼の「権力」概念について語ったものはありますか?講義なら判りやすいか・・・・・なんて思い、その点ご存知であればご教示願いたいと思い一筆啓上した次第です。
有難う御座いました。
No.1
- 回答日時:
どのレベルの回答を求めていらっしゃるのかよくわからないので、ごく一般的な回答を書きます。
さらに詳しいことが知りたい場合は、また補足してください。>1、フーコーのいう「権力」とはなんですか?
フーコーの『監獄の誕生――監視と処罰』という本は、冒頭、1757年の国王を殺害した人物が、大衆の集まる場所で拷問にかけられ処刑されたことから始まっていきます。
そうして、つぎのパラグラフでフーコーがそれと比較するのが、19世紀半ばのパリ少年感化院での規則表です。少年犯罪者たちは、六時起床、黙って五分で着替え……というふうに、起床から就寝に至るまで、分単位で一日が決められている。
このふたつのちがいがわかります?
公開処刑というのは、国家がみずからの主権に刃向かった者に対して、どのような処罰をおこなうか、権力を誇示したものです。
それに対して、パリ少年感化院での規則表は、収容者たちを心身ともに服従させる「権力」です。規律を課し、訓練を施すことによって、自分から進んで社会の諸価値に従属する主体となるよう、調教していくものです。
フーコーが注目するのは、後者の、より見えにくい、19世紀に誕生し、監獄や学校、工場、兵舎、病院などの施設として制度化された権力です。
フーコーは、ふたりの人間が向かい合うとき、そこにはつねに「権力」が働いている、といいます。
親が子供をしつけ、教師が生徒に知識を教え、専門的職業領域では試験があって、その一員となるために必要な知識・技術が規定される。
これらはすべて権力関係である。
それだけではありません。「あの話、知ってる?」というレベルの会話さえ、知っている伝達者と、知らない受信者のあいだには、権力が働いている。
教えたり、示したりする者はすべて、権力をともなっています。
教わり、学習する者はすべて、服従しなければなりません。
ここで重要なのは、「権力は、無数の点を出発点として、不平等かつ可動的な勝負(ゲーム)の中で行使される。」(『性の歴史 ――知への意志』渡辺守章訳 新潮社)ということです。マルクス主義の「国家権力」のように、奪取したり、掌握したり、譲渡したり、分割したりするようなものではない、ということです。
人は、親や教師、あるいは上司や先輩から、こういうのが「よい生活」だよ、こういう生活を送るのが「あなたのため」だよ、と勧誘されて、社会のなかに入っていきます。そうして、その一員として「正しく」ふるまえるよう、規律を内面化し、言われている「よいこと」を自分の「よいこと」としていき、その「よいこと」を身につけているかどうか、試験され、さらにはやがて「自分の意見」をそこに付け加えることさえする。知らないうちに規律に服従している。
そこで問題になってくるのは、「誰が権力を握っているのか」ではなく、それが実際にどのように働いているのか。自分自身にどのように作用しているのか、ということです。
そこがフーコーの権力論のポイントだと思います。
> フーコーは「国家権力」とはなにか、ということは書いていませんか。
ええと、これはちょっと説明するのに時間がかかるので、また後日書きます。
ゴメンナサイ。たらたら書いてたら時間がなくなった。
> 「権力の発動は関係の総和」
総和、というのが微妙にひっかかります。
総和って、なんとなくあるものを実体的にとらえてるから出てくるような言葉かな、と。
人びとが社会のなかで、他の人びとと関係を持ちながら自己の欲望を追求するなかで発生する〈場〉として権力をとらえていったんだ、というふうにわたしは理解しているので、この言葉にはちょっと違和感を覚えます。ただ、コンテクストによってはこの表現がふさわしいかもしれないので、これだけだとなんともいえません。
この回答への補足
1、「二つの違いは」良く判りました。
2、関係の総和というのは、貴方が説明された点においても、「権力関係」の全体性というか総和として、社会的権力(企業、組合や社会団体等などの)であれ、党派権力であれ、政治権力であれ、司法権力であれ、行政権力であれ、父権力であれ母権力であれ、「権力が発動(行使)」されてくるものというようになりませんか?
歴史的、文化的、伝統的な関係、それに現在の社会、政治状況的な関係から、勿論、その前提としてなんらかの契機、機縁があって「権力が発動」されているように思えるのですが。権力及びその行使に関して本質的にフーコーが云った言葉のように思うのですが。
最近の特捜検察の小沢秘書逮捕、起訴などみていると、昨年から検察権力の動きなどをみていると、勿論、逮捕後は、マスメディアや検察のリーク情報によって、「関係の総和」という社会状況を作り出し、起訴、裁判手続というように、検察特捜という司法権力が発動されているように、フーコーの言葉を応用して見ているのですが。フーコーの言う眼差しでもって、日本の政治、社会状況を見ているつもりなのですが。
「網の目状」というフーコーの言葉も、多様な次元での関係、己に身体化された関係を含めての「権力関係」ということではないでしょうか?
なんか判らん事を書いてしまいましたが・・・・・・・
「総和って、なんとなくあるものを実体的にとらえてるから出てくるような言葉」ではありません。「関係」という見えないもの、見えない「権力関係」の総和というか全体性という意味のように理解しているのですが。
判りにくい無能書きを書いてしまいました。
フーコーの方法論を勉強して、日本の現実の社会政治問題に適用、応用できるのではないかと思い勉強を始めたものです。よろしくお頼みします。
1、「フーコーが注目するのは、後者の、より見えにくい、19世紀に誕生し、監獄や学校、工場、兵舎、病院などの施設として制度化された権力です。」
2、「人びとが社会のなかで、他の人びとと関係を持ちながら自己の欲望を追求するなかで発生する〈場〉として権力をとらえていったんだ、というふうにわたしは理解しているので、」
ああそうか、現象学で云う「関係性」は「空間性」だから、フーコーは全ての関係を権力関係と見ているので、「場」という概念になるのでは???
いい、事例を出して頂き、有難う御座いました。
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