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現代社会について思うんですが、いよいよ
今世紀も終わりに近づくなか、I.T革命だの
叫ばれてはいるけれど、自己と他者との対話
がめっきり減り、自己と他者が、ますます
不透明になっていくような気がするのです。
20代のわたしですら、今の十代は、他者
との対話がないがゆえに、例えば、「人を
殺してみたかった」などと発言しているのでは
ないでしょうか?これは、ばかなマスコミが
言っているように、単なる想像力の欠如では
ないとおもうのですが・・・・。

A 回答 (10件)

建て前で強調するべき小規模な共同体の『外部』に対しまして、


日本語では、【三人称命令形】を使える様になっているそうです。

従いまして、身近な環境の下で「建て前」の価値を学べていませんと、
仰る通りに、攻撃的な本音が増徴されやすくなるかも知れませんね。

実際に、米国では「建て前」の価値が軽んじられやすいせいで、
裁判沙汰が多くなっているらしいです。
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必ずしも相手を理解できないとは思いません.


メルロ=ポンティは,赤ん坊が自分の母親が自分の母親と判別できる前に,
母親が笑ったら笑い返す,ということに注目しています.
独我論に陥った場合,相手は決して理解できなくて,
自分がそう思っているに過ぎないとするのでしょうが,
メルロ=ポンティのように間身体論なら,
互いが理解できる可能性がある,ということです.

よく体育祭や文化祭などで一体感を覚えると言いますが,
その時点で他者の一部を相互に理解していると言えると思います.
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自己を考えた場合、かならず他方に他者の存在があります。


自己の存在を価値あるものと考えるならば、同時に他者の存在も価値あるものと認めることが自己を認識する上で欠かせないと考えます。なぜかしら、今現在起こる犯罪等のなかで、マスコミが過剰な演出をした言葉なのかはよくわかりませんが、『人を殺してみたかった』などということを罪を犯したものが言っているとしたならば・・・他人の価値を認めていないことになります。ということは、自らの価値もないことになります。自己を認識できていません。自己の喪失です。犯罪をおかしてしまったとしてもなんら不思議ではありません。その罪をおかしたものにとっては他者は喜びも哀しみをもつ生き物ではなく『モノ』としか考えられないのではないでしょうか?罪を犯すものがなぜ?他者の存在を認められなくなったのか?犯罪を犯してしまった者がこれまで歩んできた中で、自分の存在価値を他者より否定されてきたのかもしれません。それが心のゆがみとなって屈折したかたちで表にあらわれ他人を傷つける結果となっているのではないでしょうか?何気ない一言がいともたやすく他人の価値をも否定してしまうことあります。価値のない存在などないのです。すべての人に価値があるのです。他人を否定・拒絶してしまうことは簡単です、しかしながら自分以外の他人を認め価値あるものと思うこと大事です。
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相手を他者としてとらえると言うことは単に無関心になるとか隷属敵対度を取ると言ったことではないと思います、相手ととことんつきあっていく中で自分から独立した他者としての相手が見えてくると思います。

無関心なのは他者としての相手を認めているのではなく値相手が見えていないのです。だって相手と向き合っていないのに自分から独立した他者だなんてわかるはずないですからね。このようなプロセスを経て他者としての相手が見えてきたときには自分もずいぶん実現していることでしょう。このことも無関心隷属からは出てこないでしょう。他者は自分も生かしてくれる存在であるはずです.もちろんそれはなれ合い別田利のおつきあいから出てくるものとはちょっと質が違うと思いますが
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 自分と他人のコミュニケーション形態について以下のとおり考えてみました。

ご参考にして頂ければ幸いです。

 インターネットや携帯電話による掲示板、メール等でのやりとりでは、情報的には書かれた文字列がすべてです(絵文字等で補完することもありますが)。
 それは本や手紙などの情報伝達手段も同じです。
 その内容の解釈は、読み手(受手)が頭の中に持っている情報、つまり、それまで育った環境や経験によるところが大です。
 書いた人の意図というのはもちろんありますが、その意図と全く同じく読んでもらえるということは期待できません。
 人間として(日本人としてといった方がいいかもしれませんが)、同じ文章を読んで共通に思うことしか伝えることはできません。
 逆に読み手は書かれた内容を自分勝手に読むことができます。
 また、目の前に相手がいないので、自分が発したことに対してどんなレスポンスが返ってくるか、自分のここはおかしいかなぁということに対する自己フィードバックといいますか、配慮はあまりしなくなるかもしれません。

 一方、実際に目の前に相手がいて会話する場合(以下「対話型コミュニケーション」とします)では、音声で文字情報と同様の情報を伝えますが、それ以外にも、言葉の抑揚、目線、表情、身振り手振り、話されているシチュエーション等からより多くの情報が伝わります(伝えることができます)。
 何より、目の前に相手がいますから、相手の反応というのを逐一気にして、自分の次の言動、行動にフィードバックしていると思います。(あるいは無意識的も影響を受けていると思います)

 質問者の懸念を私なりに要約してみますと、
 対面型コミュニケーションの機会が減少したり、または自ら逃避してしまうと、上述のような言葉以外で伝えられていた(伝わっていた)情報が伝わることがなくなってしまう。
 そうすると、自分の外から入ってくる言葉だけを自分の頭の中で勝手に解釈、判断して自分の世界を作ってしまう。(脳内に経験として情報蓄積してしまう)
 その結果、各個人個人が他人との対面型コミュミケーションを通じて、他人の顔色なども見ながら自分の行動の妥当かどうかいうチェックをしていたのが、その機会がなくなることにより自分の行動の制御がきかなくなり、皆が思っても見ない社会的に逸脱した行動をとってしまう。
 以上のような傾向が社会の各構成員たる日本国民の多数を占めた時、対面型コミュニケーションを通じて創発的に形成されていた社会的な自己統制機能が不能となり、大規模的な問題が生じてしまう。
 ということでしょうか。

 ご懸念はごもっともです。
 本来、人間は集団で生きていく社会的動物であり、「他人は関係ない、自分は1人でやっていける」などといって生きていけるほど強い存在じゃないと思ってます。
 だから、初めに生で対面することなく自分と気の会う人を探すことができる出会い系サイトが流行っているんでしょうし、場合によっては、そこで気の会った人と直に会うまでに発展するんでしょう。
 皆が、対面型コミュニケーション自体を全面否定しているものではないといえます。
 多分、学校なり仕事場なりの閉鎖的で束縛的な空間内で半ば強制的に対面型コミュミケーションを強いられているのが嫌なんじゃないでしょうか。少なくとも自分はそうです。

 翻って、このgooの質問コーナーは、電子情報のコミュミケーションにもかかわらず、相手の気持ちをおもばかって親切に回答・助言したりして、思いやりのあるコミュニケーションの場としてうまく機能していると思います。
 むしろ、実際の生のコミュミケーション方がぎすぎすして、表面上の付き合いしかないといったことがあるんじゃないでしょうか。
 私としては、先の出会い系サイトじゃないですけど、各人が潜在的に生のコミュミケーションを求めている状況があれば、他人をとことん無視して何かしようという気運が社会全体まで広がってしまうというところまでには至らないんじゃないかと楽観視してますけど。。。

 確かに、時代の趨勢は、生の対面型コミュニケーションより、より精神負担、緊張感を伴わない電子媒体によるコミュニケーションへと比重を移しているかもしれません。
 しかし、肝要なことはそのコミュニケーション時の紳士協定みたいなルールが自発的に管理主義にならない程度に形成されること。
 そして、伝える情報は文字情報でも例えば小説のような情景や心の動きが分るような文体、それでも足りなければ画像などの視覚にうったえる手段を通じて、単なる文字情報列でしかない無味乾燥なものではなくて、豊かな情報統合型コミュミケーション手段を発展させていくことじゃないでしょうか。
 皆は情緒豊かで生っぽく、かつ、気楽なコミュミケーションを求めているんじゃないでしょうか。 
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僕は、「他者自体が本来全く不明な存在ではなかろうか」


と思うのです。
他者が不明であるのは、例えば言葉の問題について考えて
みた時によく理解されるのではないのでしょうか。
言葉は極めて不透明なものです。言葉で何かを伝えようと
する時、100%は伝わらないものなのです。もし、100%伝
わるのであれば、僕らは心理学や精神分析学を学ばなくて
もいいのです。文学作品の多くは、複数の読み方が為され
ています。それは言葉が決定的なひとつの意味を持ってい
ないからなのです。だから、同じ日本語を話す僕たちの会
話だって同じことで、互いに完全に理解しえないのです。
だとすれば、僕らはお互いに理解しあえないということに
なるでしょう。しかし、僕らは「理解しあえない」ことに
気付くことはできます。そして、僕らはその事実をできる
限り受け入れようと努力できます。或いは、理解不可能な
存在があるのだという意識を常に持つことはできます。
そのことをもう一度考えてみてはどうでしょうか。
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補足読みました。


>良い意味で進化なのかよくわかりません
良い意味も「含めて」のということです。
要は村社会からの脱却という意味からです。
例えば江戸時代の農民なら、自分の村が存在の全てで知識として、領主や幕府のことを知ってるぐらいでしょうか。
しかし現代では、その世界はもっと大きくなっており、知識としては世界中がその範囲に、そしてインターネットを使えば外国の人とでも容易にコミュニケーションがとれます。人間の認識能力の限界として、どうしても情報としてしか置き換えられない部分もありますが、それでも私は昔よりもはるかにマシになってると思います。

>君とぼくとの関係ではないことです。
世の中に親友と呼べるほどの存在になるのは、そんなにいないと思いますよ。

>遠いところのものほど、生命のリアリティを感じない。
これは当然のことで、例えばアフリカの飢え死にした少年の死と近親者の死を同レベルでとらえる人の方が不思議です。
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んーどうなんてしょう。

対話さえしておけば何とかなる問題でもないと思うのですが。先日の爆弾少年だって、犯行に及んだのは彼が知っている土地ではなく、東京の繁華街のエロビデオ屋だった訳で、彼が東京の繁華街のエロビデオ屋に出入りする人間と対話してたことがあったら、そこで犯罪は起きなかったかもしれませんが、きっと別の場所で起きていたでしょう。
あらゆる情報を遮断し、閉鎖的村社会内に閉じ込めておけば、あらゆる他者と密接的な関係を築くことも可能なんでしょうけども、現実これは絵空事です。

現代のような情報化社会では他者すらも情報におきかえられてしまうという、これも良い意味も含めての進化と言えるのではないでしょうか。

この回答への補足

他者すらも情報、つまり物になってしまうのが、
なぜ、良い意味で進化なのかよくわかりません。
最近、非常に寂しいことは、ほとんどの友人と
思っていた人が、彼とぼくの関係(結局、ある出来事
でしか、関係を持てない、つまり、第三者からみれば
利用する物でしかない。)ばかりで、君とぼくとの
関係ではないことです。
 先日の爆弾少年も同じく、恨み或るビデオ屋より
見知らぬビデオ屋に爆弾をしかけたのも、「生命の
遠近法」をよくわかってるからです。すなわち、
遠いところのものほど、生命のリアリティを感じ
ない。物と同レベルの目線でみれるからです。

補足日時:2000/12/07 20:54
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私は、30代の後半です。

しかし、IT関係は結構使ってます。20代前半の子たちとでも。今では、ネットとかメールがないと困りますね。時々、メールで生き方の悩みとかも相談してくるし。昔の手紙みたいな感覚でしょう。なおかつ、手軽。最近の子供の犯罪は気になることですが、今に始まったことではないし。言ってみれば、過渡期的現象としか言いようがありませんねぇ。いわゆる、高度成長時代の子供達が大人になって、子供を産んで育てた結果、ってところでしょうか?今世紀って言っても結局は人が決めた時間枠でしかないし、それに、メールが送られてきて、これは大変だって言う、メールには直接電話したりしてるし、ーーー要は、何を危険と思うか思わないかってところでしょうか?
あるいは、何が痛くて痛くないかってことかなぁ?
やっぱ、想像力の欠如でしょう。
そして、本を読まなくなった結果だと思います。
本を読むことによってこうなると痛いとか、が、分かったと思います。
しかし、受験には本は必要なかった。
そして、自分の興味のある本を数冊読んで犯罪を犯す。
色んな考え方の本さえ読まずにーー

そう言った意味ではネットもそうとも言えるかも知れません。
自分の興味あるいは必要な情報を取得するだけせすからね。
でも、こうして、誰か分からないけれども返事を書き、また、質問をする、こういう関係も新しい人間関係になっていくのではないでしょうか?
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peter8さんが心理学関係者では無いと仮定します.違ったらすみません.


早川書房の「診断名サイコパス」や,草思社の「平気でうそをつく人たち」をご覧になってみてはいかがでしょうか.「人を殺してみたかった」という発言が十分納得いくものであることがお分かり頂けると思うのですが.
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