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 過去の質問を検索すれば、人生哲学に関する質問は数多く散見されます。
 でも、私にとって参考になるスレが見当りませんでしたので質問させていただきます。

 つまらない質問で誠に恐縮ですが、私には分かりませんので、どうか教えてください。
 人が生きて行くための「生きる力」とは、いったい何なのでしょうか?

 今回の質問の趣旨をあまり詮索せずに忌憚の無いストレートな意見を
 お聞かせ願えれば大変ありがたく思います。

 よろしくお願いいたします。

 (補足質問はご遠慮ください。)
 (必ずお礼はさせていただきますが、多忙のため遅くなる場合がございます。)
  

A 回答 (24件中1~10件)

生きるのに、理由なんてありません‥‥でも、理由がないゆえの必然性、というのもあるのです。



物質に「目的」はありません。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。
(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)
その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう
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このカテも教育のカテゴリーの中ですから、教育における「生きる力」という観点から、述べたいと思います。


できるだけ具体的に述べたいと思います。

一つは「自立する力」です。子供で言えば、自分で着替えができるとか、ひとりで電車に乗れるなどといった能力的なものです。大人では、自分で生活の糧を得ることができるとか、自炊できるといったことになるでしょう。つまり、個人(や集団)の能力に関することです。
動物界では、適者生存といったようなことが言われます。(私は進化論者ではありませんが。)

しかし、人はひとりでは生きていけません。他者(や社会)との関わりが不可欠です。そこで、もうひとつの条件、「他者と調和する力」、「他者と好ましい関係を築く力」というものも不可欠だと思われます。

この両者が揃ってはじめて、その人には「生きる力がある」と言えるのではないでしょうか。
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ほんとに、みなさんいろいろな意見を持っているのですね!


私も、独自でひとつの考えを持っています。

動物・植物が生きることにより、
私たちには目にみえないエネルギーを生み出していて、
そのエネルギーが必要な、偉大な「何か」によって
生かされているのではないかと‥。
それは、核とミトコンドリアが共存しているような関係‥。

勝手にそう思っています。
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人は、「生きる力」を失った時、死を選ぶでしょう。



どんな人も「幸せ」を求めて生きています。
何を「幸せ」と思って生きるかは人それぞれですが、
自分が「幸せ」と思うものに向かって生きている人は、
「生きる力」にあふれていることでしょう。

しかし、そこに「幸せ」があると思って努力して
たどりついてみると、何もなかったり、
「やった!」と思ったのも束の間で、またスタートに
逆戻り、というのが現実ではないでしょうか?

時間やお金や体力をさんざん使ったわりには、
「得られたものはこれだけか…」とガッカリした経験の
ない人はないと思います。

一体、いつまでこんなことを繰り返すのだろう?
毎日、同じことの繰り返しではないか?
こんな人生に何の意味があるのだろう?

そう思ったとき、生きる意味を感じられず、
人は「生きる力」を失うのではないでしょうか?

意味が感じられないことは、大変に苦しいことです。
「幸せ」を求めて生きている人間にとって、
生きることそのものに意味を感じられなかったら、
これ以上に苦しいことはありません。

「こんなに辛いのなら死んだほうがましだ」
と自殺するのも、生きる意味が感じられないからに
ほかならないと思います。

「どんなに苦しくても、へこたれてはいられない!
これ一つ果たすまでは絶対に死ねない!」
といえる明確な「生きる理由」がハッキリしてこそ、
本当の意味で「生きる力」がわいてくるのでは
ないでしょうか?
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自分のためではなく、自分を超えたもののために生きること。


たとえば家族のため、世の中のために生きるとき、
そこに生きる力が生まれるのではないでしょうか。
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●「人体の秘密」のようなテレビ番組をみていて、私の中の何兆もの細胞が隅々までしっかりと働いていることを知らされ、私の中にも小宇宙があると気づいたとき。


●苦しみや哀しみを乗り越えようとするとき「全ては自分の中に答えがある」のだと知ったとき。
●DNAの神秘。
●孤独だと思っていても、こうしてネットなどで見知らぬ人が真摯に答えてくれるとき、「本当にリンクしているのは人と人との繋がり」だと気づくとき。
●「死」への衝動につかれたとき「生きる力」にぐーっと引っ張られるその反動力。
●本能と五感がこれでもか!と満足したとき。
●人の「愛」を感じる受動性と「愛する」能動性。
●人間だけに残された「意思」を武器に、極限まで自己啓発せずにいられない「私も人の子」であると感じる義務感。

などでしょうか。
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kevinkunさんの「愛です」に一票。


愛とは何か、これが問題になるでしょうが、私としては、好きな人、大事と思える人に対する思いとして定義したい。
itabさんの直裁さや、tomio_1さんの誠実さや、paymentさんの無限定の思いや、aqua565さんのリビドーと権力への意思や。

こまっしゃくれたことを言えば、自身の外側や他者への憧れとか欠損の補完とか、自身の存在の外延とか、目的論的駆動因とか、いろいろ言えると思いますが、なんだろう。どうなんだろう。
自身を沈静化して、内省が何を告げるか探ってみると、何が浮上するのだろうかと考えてみる。
そうすると、独断と無知と偏見が浮上してくるものですが、「生きる力」が個人的なものであることを前提に、ここで試みてみました。

好きな人の前で胸を張って個人として立てることに憧れて、とりあえず明日も起きて外へ出ようということが「生きる力」を持っていることに感じられます。

# aoihoshiさんの「生きる力」はなんですか?明日も立ち上がって外へ出るために是非ご教示ください。よろしくお願いします。
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私が解釈しているところでは、


フロイトはエロス(ここでいうエロスとは生の本能という意味)であり、エロスのエネルギーをリビドーと呼びました。なので、人間が生きる原動力は、生の本能であるエロスであり、そのエネルギーであるリビドーであるとフロイトは言っています。反対に死の本能であるタナトスの存在もフロイトは認めています。これはあくまでフロイトの見解を私が解釈したものです。
 また、ニーチェは権力への意志(力への意志とも訳される)である。と主張していると、私は解釈しようかと思っています。ニーチェは死ぬことによる自己犠牲を自らの意志で選び、求めるため、フロイトのいうエロスは最終的な生の原動力ではなく、権力への意志だと言っているのだと私は解釈しています。

生の本能、生存本能であるエロス。そのエネルギーをフロイトはリビドーと呼んだ訳ですが、生きる原動力をニーチェは権力への意志であると言っているのだと私は解釈しています。

どちらにせよ、人間には生きる原動力としての本能が備わっており、それが生きる原動力となっているのだと思います。人間の本能だと思います。生存への意志も、権力への意志による自己犠牲も。
 またユングは精神的エネルギー一般をリビドーと呼びました。
人間には生きる本能が備わっているため、生きるのだと思います。では、なぜ死ぬのかというと、それは生への意志がねじ曲げられて、歪曲された精神が自暴自棄になり、自殺するとか、そういうことが考えられます。
と解しています。
以上で参考になりましたでしょうか。あくまでフロイトの見解を私が解釈したものであり、またニーチェに関してもそうです。
 私は自己の内奥の生命感が在るので、生きているのだと思っています。それが何なのかと聞かれれば、分かりませんが、生きる意志が人間には元々備わっているのではないでしょうか。
こんなんで参考になります?汗
よろしければ、フロイトやアドラー等の心理学者の本を読んでみてはいかがでしょうか。
リビドーについてのURLを載せておきます。

参考URL:http://www.ne.jp/asahi/village/good/freud.html
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aoihoshiさん、こんばんは。



「生きる力」とは何か──

大いなるものの力。宇宙のエネルギー。
究極のところ、私たちを生かしているのは
そのようなものだと思っています。

#13さんも書かれていましたが、
私もウパニシャッドの「梵我一如」思想には
大きな影響を受けました。

表現こそ違え、古今東西、その大いなる力を
いろいろな方向から表現しようとして、
あらゆる思想、哲学、宗教が生み出されてきた
のだと思います。

そして、それらは私たちの日常生活の中で
「愛」や「希望」など、さまざまな形をとって
表れてくるもののように感じています。

そういう意味で、
自分自身になることと大いなる存在と一つになる
ことはまったく同じことで、私たちの日々の営みは
まさにそこに繋がっているのではないでしょうか。

自由意志と宇宙の力。その調和が私たちに
日々生きてゆく力を与えてくれているのかな……。
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こんばんはー。



哲学分野での回答にはならないかもしれませんが・・

>人が生きて行くための「生きる力」とは?

これを「生きて行くための原動力(力)」と勝手に自己解釈いたしますと(^^;)

 「未熟さ」であると思っています。

人間関係、恋愛、仕事、趣味・・生きている上で関わりのある事は千差万別、十人十色あると思います。

そのある場面、ある場面において「あー、私ってダメだなぁー」や「うーん、こんなはずじゃなかったー」と思うと同時に「今度はこうしてみよう!」や「もっとこう思わないといけないな」と反省というか自分の「未熟さ」や「未完成さ」を感じる事が「生きる力」であると思っています。

生まれもって何一つ不自由のない生活というのは、快楽を至上と感じるために生まれてきたのであれば最高ではあるけれども、私のような凡人には「未熟さ」が多々ある今の人生が「生きる力」であります。

ある分野においては「悟り」、ある分野においては「達観」と呼ばれるような境地に至るためにそれぞれの分野において「精進」を重ねるという事が「力」となり、いろいろな苦難や苦悩を超えていける「原動力」になると考えます。

「生きる意味」ではなく「生きる力」という問いかけであれば
やはり「未熟さ」であると思います。

追記:いつまでも未熟な私なので長生き出来るかな(笑)
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