「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たる
ことが出来る。と見るべきか? 


 




3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びするこ
とである。

4. 孤独とは 孤独関係である。

5. この自己了解から われは いま・ここなるわれに立ち戻って来て 社会的な不
自由や不安やまた広く孤独関係に向き合ってあゆむものか。

6. それとも われが社会にあって孤独関係なるわれに立つとき むしろおのが孤独
なる固有の存在に立ち還っていると見るべきか。

7. 《わが固有なるとき》こそが われのわれたる所以である。か?

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    ★ つまり 「あなたが現にあるがままのあなたであるがゆえに、全人類が唾を
    吐きかけてきた」ら・・・?
    ☆ まづ《唾を吐きかけられるほどの存在》である われは。と思うでしょうね。

    何もしない・現にあるがままのわたしにして それくらいの存在ではある。

    自殺は関係ないでしょうね。するとしたら むしろ人びととつながったという喜び
    のあまりそうするかも分かりません。

    そしてその《気づき》をわたしが得たなら 人びとは目聡い者だと思うのですが
    おそらくわたしの傍に寄って来るのではないでしょうか。おまえは 人間が出来て
    いると思うのでしょうね。

    これで めでたし めでたし! ――てなもんや ですね。

    シオランは あいにく知りませんで勘弁を。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/23 13:50

A 回答 (13件中1~10件)

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。

そして瀬里香さん。

二日ほどこちらを見ていませんでした。
今、先の「質問」に大方のお礼を投稿してきました。
すみません、肝心のお二方は、もう少しお待ちください。(心の中ではお礼済みではありますが)

わたしがらみの質問

>ぐらす_るーつさんの質問の関連ではあります。この質問です。

であり、瀬里香さんのご指名であれば自分の意見を簡単に述べようと思います。
(もっともわたしにはそれが限界で、ぶらじゅろーぬさんの「更なる深みへ」は、ついていけそうにないことを、予めご了承ください。)



>1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

「孤独って?」

孤独とは、物理的に、肌寄せ合う人がいないことか?

或いは精神的な繋がりを誰とも持つことが出来ないという感覚か?

では「孤独」の対義語はなにか?「帰属」?「社会」?「集団」?

個人的には「孤独」と対の言葉は「友」

孤独からの帰還を切に願いますが、それは「誰それへ」或いは「どこそこ」への帰属ではなく、
自分が自分でいることを保証してくれる「Someone」との友好関係です。

『孤独はいいものだ。けれども、「孤独はいいものだ」と、語り合える誰かがいることはもっといいことだ』(バルザック)
これが理想です。


>2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか? 

帰属することによって、個が埋没してしまうことは避けなければならないと思います。
これは「孤独のパラドクス」ですが、「わたしが完全にわたしであることを容認してくれる相手」が友と呼びうる人であり、
わたしが殺人を犯していようと、ジャンキーであろうと、受け容れる人です。(わたしは「友」が犯罪者であっても一向に構いません)

>ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。

これは全く同意見ですが、その前提としては、孤独地獄からの帰還イコール「社会への帰属」ではない、ということかと思います。


>3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。

>4. 孤独とは 孤独関係である。

無論そうでしょう。孤独の状態こそわたしが完全にわたしである状態だと思っています。(で、あるから「孤独」に陥るのですが)
その「わたしがわたしである」状態を認めてくれる相手との交流、それが「孤独」の交流ではないかと思います。

5.は解読不可能

6は7と同じように思うので

>7. 《わが固有なるとき》こそが われのわれたる所以である。か?

わたしがわたしである状態は「孤独」に立脚するとはいえ、それをサポートしてくれる存在=愛が必要です。

つまり「わたし」が「わたし」であるためにはそれを認め、支えてくれる存在が必要です。
無論これを一般化するつもりはありません。あくまでわたしの個人的な意見に過ぎません。

結論としては、先ほどのバルザックの言葉のように、「孤独を認め合える友」が理想です。

『寒いねと、いえば「寒いね」と、こたえる人のいるあたたかさ』 (俵 万智)

孤独を考えるなら、その片割れである「友」とは何かをも同時に考えなければならないのでしょう。
(孤独の対概念が友と考えているのはわたしですから、それを考えるのもわたしですね)

以上、完全なる「非哲学的」私見を述べさせていただきました。
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この回答へのお礼

つづく№7を読み合わせて ううーんとうなってしまいました。

ぐらす_るーつさん まづはご回答をありがとうございます。
こちらのスレッドであらためて こんにちは。

そうですね。まづ思い浮かぶのは

 承認欲望

でしょうね。《わたしがわたしである》ことが 社会的でなくてはならない
ので 何らかのかたちで・われ以外の同じ人間という存在によって 確認さ
れる必要がある――といったひとつの理論ですよね。

《確認》だけなのだとわたしは理解しているのですが。

つまりは あぁ きみは孤独のうちにおのれ自身としてのあり方を築いて来
たんだねというような言葉がかけられること。これだけでよいとは思ってい
ます。

でもね。ぐらす_るーつさんは――つまり 《ううーんとうなった》ことに
ついてなのですが――すでに ほかの孤独に立つ人たちにその《他者による
確認》の声をかける側にある。のではないかと感じたのです。

われのもうける対話の場に来てくれるなら その《声掛け確認》をご用意し
ていますよとまで言っていそうな《文体》なんだなぁ。と思ったからです。

ご自覚はないのかも知れません。ひょっとすると。
ただし そのような庭が見える縁側の席に人びとをまねいておられる。

わづかに あれっ ちょっと・・・と思うことは ご自身がなおへりくだり
の蓑をつけているので その姿が凹みのかたちをしているかに見えることで
す。

じっさい:
▲ 『寒いねと、いえば「寒いね」と、こたえる人のいるあたたかさ』 
(俵 万智)
☆ といった形だけのおもてなしだとすると ちょっと月並みである。それ
ゆえなのかどうなのか ご自分は一歩身を引いて話し合いを持とうとしてお
られる。

★ ~~~~~~~~~~
『孤独はいいものだ。けれども、「孤独はいいものだ」と、語り合える誰か
がいることはもっといいことだ』(バルザック)
これが理想です。
~~~~~~~~~~~~
☆ これをすでに実現してしまっている。つまり そのことの確認をたとえ
ばこういった質疑応答の場で しっかりと現実なのだと知ろうとしている。

文体を こう受け取りました。

これでやっとボールは打ち返し得たかなと。ふうーうです。
そちらからは テニスなどしていないと言われそうですが。

お礼日時:2016/04/20 16:56

そうですね。

ちょっと小休止。

>ぷらぽた氏が みなさんのやり取りに頻りに潤滑油をそそごうとしていましたが るーつさんの登場は おとなしい常識派にとっ
ては うかうかしていられないといった驚きといくらかの恥づかしさをもたらしているでしょうね。

ぷらぽたさんとは比べのものにはなりませんよ。ぷらぽたさんはわたしをどう見るでしょうね?興味があります。

>11への補足ですが、あんな感じがいいですね。

>これで めでたし めでたし! ――てなもんや ですね。

これは、「ひとが真面目に質問しているのに!」という感じではなく、一緒に笑っちゃうという感じ。

このシオランで質問をしましたが、みなさん、(当たり前でしょうけれど)正攻法で攻めてくる。

このぶらじゅろんぬさんの補足やいつもの瀬里香さんのようなちょっとズレてる感じが本当は望ましいのですが。

この11への補足などは、縁側哲学の「実践」ではないかと思います。


作用・反作用、緊張と緩和については、庭とか縁側にはひとは緊張からの弛緩を求めてやってくるわけですから、

「弛緩の場ゆえその反作用としての緊張を生む」という考えでは、じゃあ、人は何故寄席に行くのか?何故コンサートにを聴きに行くのか?
という妙な問題になってきます。
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この回答へのお礼

★ 「弛緩の場ゆえその反作用としての緊張を生む」という考えで
は、じゃあ、人は何故寄席に行くのか?何故コンサートにを聴きに
行くのか?
という妙な問題になってきます。
☆ とわたしも書きたかったぁ。縁側派になっていました。

シオラン。何か考えついたとしたら 投稿します。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/23 15:29

お礼に対するお礼を。



ぶらじゅろんぬさんが、どなたかの質問に添えられていた「正解は不要」というような言葉を挙げておられましたね。
あれはおもしろいですね。わたしもこの言葉に大いに共感します。

現時点ではぶらじゅろんぬさんの理論に大いに理解するところもあり、(先ほどの「美学」と「哲学」の差、などは
読んでいてなるほどと感心しました。)
またこちらの理解が及ばない部分も多々あり、同じく、理解はできるが自分とは違うと思うことも。

でもこうして話しているのが苦痛ではない。
結構慰めになっている。そういう感想を持ちます。

今後の展開に期待します。

誰ということなく、あまり「道理」とか「理論」「理屈」で押しまくられると、サッと身をかわしたくなりますから(苦笑)

PS.

シオランは稀代のシニシストです。でも何故だか惹かれます。
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この回答へのお礼

一たんやすみましょうか。

と言っていて またすぐに投稿したくなるかも分かりませんが。



ぷらぽた氏が みなさんのやり取りに頻りに潤滑油をそそごうと
していましたが るーつさんの登場は おとなしい常識派にとっ
ては うかうかしていられないといった驚きといくらかの恥づか
しさをもたらしているでしょうね。



シオラン。・・・
ゴッホは どの作品を見ても飽きないほど好みです。
ボードレールは読んだことがあります。
あとは ヘッセは読んだと言っても もう覚えていないですし。
マチスもあやふやですし。
ブランクーシは わたしはサティが好きなのですが その友だっ
たとかそうでもなかったとか。

・・・
ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/23 14:39

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。



>こういうことを言った人がいましたね。:
▲(ヨハネによる福音書/ 15:18―19) ~~~~~~~
世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

うーん、これは先ず「文章として」ストンと頭に収まりませんね。(苦笑)
一行目では、「あなたがた」は、「世に属していながら憎まれている」と取れます。
でも二行目では
「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。」
と云ってる。

解読不能です!

☆ したがって(!?):
▼  You are nobody till you love yourself and that you realize when you love yourself, you are loving somebody or anybody, everybody at the same time.

つまり「自分を愛することはすなわちすべての人を愛すること」
これは難しいですね。わたしにとって、自己を愛することは、先ず「己が愛し得る存在であるという保証」を得た後はじめて可能な事です。
これじゃあ、卵が先かにわとりが先かの堂々巡りになってしまいます。

瀬里香さんが「世界の孤児」だと云ってましたね。「世界に属していない」状態は、「属さない」という主体的な選択ではなく、
「属せない」或いは「世界から遺棄されている」のではないでしょうか?


ここで思うのは、では愛されるためには何かしら「自己である」以外の方法が存在しているのか?ということです。
つまり「わたしがわたしである限り」は永遠に愛されそうもない。では何がしか自己を変革することが必要なのだろうか?
例えば「無理にも」「自分を愛すべき存在である」と「自己を偽ってみる」とか?

わたしはここのところ、ここの「哲学」の質疑の場をうろついていますが、主だった人で、自分に似ているなと感じた人はまだいません。それはokwebでも同じです。
基本のところでは瀬里香さんとも違います。

・・・で、こういことを言いだすと、「哲学ではなく人生相談である」と言われるわけです。当然です。わたしは生き辛くて仕方がない。わたしにとって最も重要なのは、いかに生き易くなるかです。

先にokwebで引用したエミール・シオランの言葉です

『あなたが、現にあるがままのあなたであるがゆえに自殺するのはよい。だが全人類が唾を吐きかけてきたからといって自殺するべきではない』
この言葉、いま考えています。

つまり

「あなたが現にあるがままのあなたであるがゆえに、全人類が唾を吐きかけてきた」ら・・・?

あまり考えがまとまりません。アウグスティヌスも、難しい(苦笑)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

シオランを知らないので弱っていますが まづはご回答をありがとうございます。

ヨハネ福音の二行で言っていることは 《世の中で疎外されても心配するな。悩
むことはない。権力関係や世の風潮といった社会力学としてのチカラ関係だけの
問題だ》だと思います。

イエスが ユダヤの民族神としてのヤハヱ―を外に開き普遍神へと揚げて棄てた
ことにより――理論じょうは 《疎外》がじつは反対なのだと人びとは もとか
ら知っていたごとくさとるようになり―― この生活世界は 弟子らおよびそれ
と同じ庶民たちのものになる。世界は 民主制へとあゆんで行くのだと。

いま現在 まだまだ理論のみの状態ですが。

★ つまり「自分を愛することはすなわちすべての人を愛すること」
☆ そこまでの内容は――理論としても――言っていないんです。

《自分という人間を――いかに世から疎外を受けていたとしても――愛するなら
わづかにでも ほかの人たちの存在につながっていてそのかれらをも愛し始める
ことになるかも知れない( you are loving everybody at the same time. )》
と言おうとしていました。

★ わたしにとって、自己を愛することは、先ず「己が愛し得る存在であるとい
う保証」を得た後はじめて可能な事です。
☆ これは もったいない。あるいは むしろ贅沢ですね。
 
だから やがてはりつけになることを見越してイエスという男は そんなおれで
も 自己の愛は持っている 最大の被疎外者であるわたしを思って 自己愛を捨
てないようにと言ったかなんですが。
(《木(十字架)に懸けられる者は のろわれている》と言われるくらいの・世
の中の屑であっても ほこりは持つゆえと。)

★ 「世界に属していない」状態は、・・・「世界から遺棄されている」のでは
ないでしょうか?
☆ 誰かが言っていた作用・反作用の法則ではないですが 世のことわざは常に
その向きを逆にした反対の極をも表わし得るばあいが多いですね。

王は僕がいないと 王でも何でもない。といった論理。
《世界から遺棄されている》のは 逆の立ち場の側のことをも意味し得るのでは?

その隠された意味を見ないことは もったいない。また その理論がただちに目
の前で実現してくれ おれは待てないと要求するのは 贅沢である。

補足欄へ。

お礼日時:2016/04/23 13:40

追記



「孤立」というのは、帰属する集団・社会との関係性でしょう。
「会社内での孤立」「家庭での孤立」「クラスでの孤立」

でも「孤独」は単に存在の状態/形態ではなく、「こころの状態」「内面の在り様」だと思います。
ですから単に社会との関係性の中で、「属する」「属さない」のみではとらえられないものではないかと。
ぶらじゅろーぬさんが、そういう捉え方をしている、というのではありません。
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この回答へのお礼

なあんだ。るーつさんは 哲学専攻だったんぢゃないですか。
いつかどこかで聞いたような感じもするんですが このところは そういう
こととは知らずに相対していました。

ご回答をありがとうございます。ツッコミありません。

言わずもがな:
▲ (アウグスティヌス:精神は むしろ自己に付加したものを取り去らな
くてはならない) ~~~~~
それでは 精神はどのように自己を問い求め見出すのであろうか という不
思議な問いがある。

しかし 精神は愛をもって思惟する感覚的なものすなわち 物体的な
ものに愛によって慣らされているゆえに それらの〔* 感覚的なもの・物
体的なものの〕似像(にずがた)なくしては自分自身のうちに存在し得ない
のである。その点で精神の恥ずべき誤謬が発生する。

精神は知覚された事物の似像〔* または視像〕を 自己だけを見つめるた
めに自己から見分け得ないからである。それらの似像は愛の膠(にかわ)に
よって不思議な仕方で精神にへばりついている。これが精神の不純である。

というのは 精神は自己のみを思惟しようと努めるとき それなくしては自
己を思惟し得ないものを自己であると思いなすからである。

したがって 精神は自己自身を認識するように命じられるとき あたかも自
己から取り去られたもののように 自己を問い求めてはならない。むしろ自
己に付加したものを取り去らなくてはならない。
 

そこで 精神はより内的であるから その愛の情念を感覚的なものへ向ける
とき 自己自身から或る仕方で外に出る。
感覚的なものは多くの意志の志向の跡として精神の中に残る。
この跡は 外側に存在する物体的なものが知覚されるとき いわば記憶に刻
印されて たといその事物が不在のときでも その似像は思惟する人々〔の
内〕に現在するのである。

だから精神は自己自身を認識せよ 不在なもののように問い求めないで 他
のものの上にさ迷っていた意志の注視を自己自身へ固着し 自己自身を思惟
せよ。

しかし 精神は他のものを自己と共に愛することによってそれを自
己と混同し 或る仕方でそれと癒着したのである。かくて 精神は異なるも
のを一つのもののように抱懐することによって 異なるものを一つのもので
あると思いなしたのである。(『三位一体論』 10・8-9 中沢宣夫訳)
~~~~~~~

お礼日時:2016/04/22 10:55

こんばんは、ぶらじゅろーぬさん。



>《承認欲望》ですが これは おそらく無視することは出来ない相談だと見ていますが
けれども ほとんど要らないかのような要素ではないか。

>また矛盾したことを言いましたが 一方で基本として 《孤独》と言ってしまえば そこには関係性・社会性がふくまれています。社会の中にいないなら・そして社会がないなら その一人の人間は 《孤》とも《独》ともあるいは《個》とも言わないと思われるからです。

>《無視し得ない要素》だと見るのは まさに社会としての人間関係の中におのれも存在するゆえ その関係性の一部として自分の主観の中にも入りこんでいる。と思われるからです。

>自分を見失っている人もいるということだと思います。

>生まれつきの状態としての自然本性には 関係性がそなわっている。だとしたら 社会性を確認する声掛け運動は 必然的に成るように成る。と。

最初の「積み残しの解説」もちょっとわかりませんでしたので、理解できる範囲で。

仰る通り、「孤独」は関係性です。では「何との」相関性なのでしょう?「社会」?「社会」ってなんだ?
「人間」?
「孤独でない」状態から考えてみると、例えば仕事を持ち、家庭を持つということは一応「孤独から免れた」状態のようですが、
どうも結婚したから、組織に属したからというような「社会性」を持つことが「孤独じゃない」かというとそうでもないようです。

そこで、自分をありのままに承認し受け容れてくれる「誰か」がいるか、いないかではないかと思います。

昔の歌にもありましたね " You are nobody till somebody loves you " って。
そういう人の不在が孤独の状態で、大きく「社会」とか「集合体」との関係性かどうかは疑問です。
またこのSomebody は必ずしも「人間」ではないかもしれない。「自然」かもしれないし、「動物」かもしれない。
「受け容れられる」対象は必ずしも「人間」とは限らないのかも。

>★ ~~~~~~~~~~~
「寒いね」

「うん。寒いね」

の「あたたかさ」なんです。(笑)
~~~~~~~~~~~~~
☆ つまりそれでしたら すでにそういった仲に成っている・すでに条件は満たされているとも思われるのです。
《月並み》と言ったのは 隣近所の人とでも そういった会釈とあいさつはすると思ったからです。

これは「寒いね」という「対話」を、どのレベルで捉えているかで随分見方が違ってくると思います。

確かに八百屋の親父さんともこういう対話は成立するでしょう。お隣と顔をあわせれば当たり前のように出てくる言葉でしょう。

でも、わたしの中で、「寒いねといえば、寒いねと、答える人のいる温かさ」という歌が表現しているのは、いまそこにいる、かけがえのない存在との交流です。ただ、これは一枚の絵をどう見るかが、人それぞれであるように、全く個々人の感受性に基づくものなので、
わたしはこの歌に「かけがえのない大切な存在」との交流を感じたという、わたしの感じ方を説明できるだけです。

「縁側哲学」のほうは、yy8さんや瀬里香さんとのやり取りを参考にまた発言させていただきます。
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この回答へのお礼

お早うございます るーつさん。ご回答をありがとうございます。

飛躍します。飛躍したところでも 飛んだ推理とトンデモない発想をして
みます。

こういうことを言った人がいましたね。:
▲(ヨハネによる福音書/ 15:18―19) ~~~~~~~
世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたこ
とを覚えなさい。
あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したは
ずである。だが、あなたがたは世に属していない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ したがって(!?):
▼  You are nobody till you love yourself and that you realize when
you love yourself, you are loving somebody or anybody, everybody
at the same time.

☆ つまり 神を愛するなら 神などはいないと思って行動することにす
るのだ。

わづかに それでも神が普遍神であるなら 人間はおのおのただ独り独り
なのではなく互いにカカハリを持つ。

神が無根拠であるなら――義無きを以って義とするなら―― 人と人との
関係性は 絶対である。
(義があると思ったら その人間の考える義によってその範囲内で人びと
は互いにつながっている・・・ことになる)。

孤独と孤独との互いの承認 これは 言わば自然史過程にあって必然的に
成ると思ってよいのではないかとも。



俳句の世界は 一瞬ごとの感性のうごきに――また その感性のウゴキの
対象を模写したその表現の中から――世界を見るというのでしょうか。

わたしの場合は そのことをものごとの超越論的な思惟をとおしておこな
っているのかなと思いました。

俳句哲学は 縁側も然ることながら 茶室哲学であるようですね。
ピッチでの世界選手権との兼ね合いでは 道遠しだなぁと思わざるを得ま
せん。
ですからわたしは これまで神学という場で試合をして来ました。

でもですね。音楽では 法螺貝や尺八のブオーッというひと吹きで世界を
見るとも言います。これを哲学にできればいいのでしょうけれど。

生活体験とその歴史で 世界とあい対するしかないのかという問題にもな
るかも分かりません。

お礼日時:2016/04/22 06:52

こちらにも、ちょっと感想めいたことを。



>《わたしがわたしである》ことが 社会的でなくてはならないので 何らかのかたちで・われ以外の同じ人間という存在によって 確認される必要がある――といったひとつの理論ですよね。

そうですね。わたしがわたしであることが、社会性を持つことが出来るといいですね。
でもこれはぶらじゅろーぬさんの「クウキ」ではありませんが、「個」を排除しようとする社会ではなかなか難しいことだと感じています。

シューマンだったか、ベートーベンについてこんなことを言っています。

『彼は表と裏の顔を使い分けるということができなかった。だからいつでも孤独だった』と。

個性を、合わせようとしない人を、「疎外」するというのは、人間の性(さが)のようなものなのかもしれません。

>ぐらす_るーつさんは――つまり 《ううーんとうなった》ことについてなのですが――すでに ほかの孤独に立つ人たちにその《他者による確認》の声をかける側にある。のではないかと感じたのです。

>われのもうける対話の場に来てくれるなら その《声掛け確認》をご用意していますよとまで言っていそうな《文体》なんだなぁ。と思ったからです。

>ご自覚はないのかも知れません。ひょっとすると。
ただし そのような庭が見える縁側の席に人びとをまねいておられる。

ええ、自覚はありませんし、わたしが何かしらを「与える」側の人間になるということがあまり考えられません。
これは「与えようという気持ち」の有無ではなく、「与えるもの」の有無でしょう。
わたしは「無一物」だと思っていますので(苦笑)

ぶらじゅろーぬさんは、わたしの「文体」に、よそよそしさ、自己韜晦のようなものを感じられたのでしょうか。

だとするとそれは意図してそうしたのではなく、叩かれ続けてきた者の臆病さのようなものかもしれません。

>『寒いねと、いえば「寒いね」と、こたえる人のいるあたたかさ』 

これは「寒いね!」

「じゃあおれがあっためてやるよ」

ではなく、

「寒いね」

「うん。寒いね」

の「あたたかさ」なんです。(笑)

『寒いねと、いえば、抱きしめてくれる人のいる暖かさ』とはちょっと違う。(こちらもいいですが(笑))

また考えがあれば書きますので、もう少し開けておいてください。
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この回答へのお礼

ぐらす_るーつさん お早うございます。
ご回答をありがとうございます。

積み残しからです。
★★(回答№6) 5.は解読不可能
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~
5. この自己了解から われは いま・ここなるわれに立ち戻って来て 社会的な不
自由や不安やまた広く孤独関係に向き合ってあゆむものか。
~~~~~~~~~~~~~~

☆☆ いま・ここなるわれに立ち戻って来て
☆ ここが しみったれた表現でした。《時間的空間的に・現象として 立ち戻る》と
いう意味でした。

《そこでは 孤独と孤独の関係が じっさいにそのことを口に出して人びとがうったえ
ていることにもなっている。それにも実際に向き合う》 でした。


《承認欲望》ですが これは おそらく無視することは出来ない相談だと見ていますが
けれども ほとんど要らないかのような要素ではないか。

また矛盾したことを言いましたが 一方で基本として 《孤独》と言ってしまえば そ
こには関係性・社会性がふくまれています。社会の中にいないなら・そして社会がない
なら その一人の人間は 《孤》とも《独》ともあるいは《個》とも言わないと思われ
るからです。

《無視し得ない要素》だと見るのは まさに社会としての人間関係の中におのれも存在
するゆえ その関係性の一部として自分の主観の中にも入りこんでいる。と思われるか
らです。

自分を見失っている人もいるということだと思います。

生まれつきの状態としての自然本性には 関係性がそなわっている。
だとしたら 社会性を確認する声掛け運動は 必然的に成るように成る。と。


★ 無一物
☆ は 孤独とほぼ同義ではないかと。

★ ~~~~~~~~~~~
「寒いね」

「うん。寒いね」

の「あたたかさ」なんです。(笑)
~~~~~~~~~~~~~
☆ つまりそれでしたら すでにそういった仲に成っている・すでに条件は満たされて
いるとも思われるのです。
《月並み》と言ったのは 隣近所の人とでも そういった会釈とあいさつはすると思っ
たからです。

★ 『寒いねと、いえば、抱きしめてくれる人のいる暖かさ』とはちょっと違う。(こ
ちらもいいですが(笑))
☆ 《抱擁》は 【Q:縁側】のほうで考えます。

《自己韜晦》も 保留です。

お礼日時:2016/04/21 10:13

追加



つまり「孤独」は避けるべき状態ではなく、「孤独からの生還」でもなく、
「わたしの孤独を受け止めてくれる」誰かを。「孤独を保証」してくれる「誰か」を求めています。

わたしにとって孤独とは、「わたしが、まさにわたしであるが故に」生じる状態です。それは「わたしの本来の状態」です。
であれば、それを損なうことなく包み込んでくれる存在が必要なのです。

「我を孤独たらしめる愛(友情)(繋がり)」
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この回答へのお礼

№6のお礼欄で 《渾身の筆を揮いました》ので いましばらくは 言葉が
ありません。

あっ。ひとつ。かろうじて思い浮かびました。
★ 「誰か」
☆ はやっぱり 神しかいませんよ。ドン引きでしょうけれど。

お礼日時:2016/04/20 17:00

こんばんは、ぶらじゅろ~ぬさん。



クリスマスツリーの華美で豪華な飾りに目を奪われている人に、莫大な言葉と時間を使って【樅の木を見よ!】と切々と訴えたところで、果たしてどれぐらい伝わるのでせうか。というやうなことが先月plapotiさんから届いた手書きのお便りに書かれてゐました。

相変はらず僕は【宇宙のみなしご】だから、こそ、ときどきどうしても友達と手を繋ぎたくなります。




勝手ながら場所をお借りします。
grass_rootsさん、この質問に回答してみてください。わたしはあなたの質問に次の回答を書こうとしていますが次は少し遅くなります。明日も仕事なのでもう寝ます。おやすみなさい。
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この回答へのお礼

こんばんは。ご回答をありがとうございます。

ぐらす_るーつさんの質問の関連ではあります。この質問です。

いくらかいぢわるな(へその曲がった)受け答えをしますが:
★ 【樅の木を見よ!】
☆ とは言っていません。飾りといっしょに樅の木をも見よです。

対立する二項について その対立を見よという言い方をしたくあ
りませんし 二項のうちの一方だけを見よというふうにも言いた
くありません。

そう言えば しかしながら この質問の趣旨説明でも その言い
たくない言い方をしていると受け取られても仕方がないようであ
るとは 思いました。
――そうだったんですねぇ。残念ながら。

お礼日時:2016/04/18 23:07

No.3です。


「★ 私の場合は、孤独の状況でも寂しくないような自分を普段から作っている。そんな人生観です。☆ という同じ趣旨で この質問を問うています。よ」
→そうでしたか。
そう読み取れませんでした。

「ですから 生活日常にあっても ひとつの基礎は むしろ孤独なるわれということに置いていることが 出来るのではないか。そういう行き方もあるのでは
と尋ねていたのです」
→そうでしたか。それであれば、その通りでしょうね。
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この回答へのお礼

そうでしたか。それは 奇遇なのか それとも少ないが基本なのか。

ご回答をありがとうございます。

もう少し開いています。

お礼日時:2016/04/18 21:39

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