プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか?

 【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?

 【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?
 それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか?

 【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか?

 自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。

 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。

A 回答 (73件中71~73件)

【Q‐1】ぶっきらぼうはいただけないか。

いただけないと思います。
いたずらに否定はしないですが。

【Q‐2】印象は違って見えると感じます。

【Q‐3】そんな人もいれば、違う人もいると思います。

【Q‐4】相手に対して、情や友好の意思があるという態度。
社交辞令として見せることもあるでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 kanotaさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。お叱りのほうのご回答ですね。
 そして 
 ★ いたずらに否定はしないですが。
 ☆ とおっしゃるごとく さらにまた わたしも 《まっ 罪ではないでしょうが》と言ったごとく 今回は 総じて言って
 ○ 印象
 ☆ の問題だというふうに 受け取るようになってしまいましたが それで いいでしょうかねぇ。

 というのも
 ★ 【Q‐4】相手に対して、情や友好の意思があるという態度。
 ☆ という定義によって これは たとえば倫理の問題にまではなっていないのかなと思ったのですが ううーん どうなんでしょうかねぇ。むろん
 ★ 社交辞令として見せることもあるでしょうね。
 ☆ というマイナスの側面は 別としてです。

 というのも ぶっきらぼう人間であっても けっきょく
 ○ 相手に対して、情は ほとんど示さないが 友好の意思があるという態度は 持っている。
 ☆ ものだからです。そう考えます。
 
 どうなんでしょうか。わたしが 自分に都合のよいほうへ 傾いたでしょうか。どうでしょう。

お礼日時:2009/04/17 21:57

bragelonne様、こんにちは。


トンチンカンなわたくしですが、対話していただけますでしょうか。

【Q‐1】負の印象とは一概に言えないと思います。
何をもって「ぶっきらぼう」とするかにもよります。
仮に「そっけない、つれない態度、所作」「ネット上のやりとり」と限定すると、
「ぶっきらぼう」の正負の印象はあくまでも受け手の捉え方によって異なるのではないでしょうか。

【Q‐2】「愛想のよい」を「相手との対話と続ける上で最小限不可欠な努力」とするならば、「自他共に建設的な」対話や議論が延々と続いていくでしょう。
「愛想がよい」=「ぶっきらぼう(愛想がない)」なのでしょうか。

しかしながら、「ぶっきらぼう」場合のほうがしかるべき努力が欠如しているにもかかわらず、得てして対話を通り越して熱い議論が展開されるように思います。 何故でしょう。
「愛想がよい」以上に「ぶっきらぼう」の何に人は興味を抱くのでしょうか。
対話が白熱してそう映るのか、それとも「ぶっきらぼうの何か」に反応して、対話が白熱していくのか。
愚鈍なわたくしにはさっぱりわかりません。ごめんなさい。

【Q‐3】 現代の管理社会の中であっても人間は一人一人豊かな個性の塊とみなせば、ぶっきらぼうを地でいく人もいるでしょうし、また、天然な愛想の上にそれが態度として表される人もいるでしょう。
更に、ぶっきらぼうや愛想のよさを何らかの思惑や信念のために表層的に故意に表現する人もいるかもしれません。

【Q‐4】 《愛想》とは、自然な発露にせよ作為的なものにせよ、自分以外の他人のために行う人間関係を円滑にする所作で、一般的には社交性があると思います。
ですが個性ある人間同士の関係においては、受け手によってはかならずしも適切な社交性があるとは言えないかもしれません。

であるならば、「愛想がないぶっきらぼう」であっても、社交性がある、と言えるのではないでしょうか。

わたくしには以前から抱く強烈な囚われ、つまり、深い哲学的な思索や文章論述に対する決定的な負の印象がありました。
ですから、厚かましくもbragelonne様の逞しい胸をお借りするつもりで書き込ませていただいた次第です。

で、わたくしの場合を申せば、自分自身が現実に邪な思惑から、常に八方美人でイヤラシイ人間なので、どちらかというと「ぶっきらぼうな人間」のほうが好印象です。
あとね、マメでちょっと煙たいくらいの方がいいかも(笑)


 

この回答への補足

 これはこれは mashumaro2 さん ようこそ。先日は フーコーのご質問にて 横入りで 失礼しました。ふつうに向かい合ってのお話は これが 初めてになりますね。いつぞやは 誰かさんに マシュマロが二つと言われていましたね。それぢゃ 連想――何を?――してしまいますよね。(すみません)。
 ご回答をありがとうございます。

 二件 つづけて ぶっきらぼうに対して好意的なご回答内容を受け取って いささか あれっ どうしたんだろうと思ってしまいました。それもそのはづ この質問の前編にて いやというほど わたしは 潤滑油を切らしたと思われる応答をおこなっていたからです。そのせめてもの罪滅ぼしといった軽い気持ちで――それがいけなかったか―― 設問したわけでした。

 でも No.1補足欄にて触れた北野誠の辛口批評の事件もあるようですから 哲学の問題になるかも知れません。とりわけ 大きな現実の主題として 取り組まれているかに受け取られるご投稿をいただいたということになったようです。

 ふたつの側面に分かれるようですね。先に まづ
 ★ 《愛想》とは、自然な発露にせよ作為的なものにせよ、自分以外の他人のために行う人間関係を円滑にする所作で、一般的には社交性があると思います。
 ☆ という前提を確認することができます。そしてこの前提を踏まえたあとでは
 ★ 「ぶっきらぼう」の正負の印象はあくまでも受け手の捉え方によって異なるのではないでしょうか。
 ☆ というご指摘が 一般的な捉え方になるでしょうか。繰り返すなら 先の前提を踏まえた上では
 ○ 《ぶっきらぼう=愛想がない》は 必ずしも 《愛想がある・社交的である》より つねに 劣っていると見るまでには到らない。

 さて もう一つの主題は つぎの点でしょうか。
 ★ わたくしには以前から抱く強烈な囚われ、つまり、深い哲学的な思索や文章論述に対する決定的な負の印象がありました。
 ☆ この思索や文章論述が ぶっきらぼうとかかわっているなら いまの質問の むしろ 中心課題であるかも知れません。(最初の側面にかんして いくら ぶっきらぼうと言っても 多少のあいさつくらいは 交わしますから)。
 たぶん この場合のぶっきらぼうとは 日常性を超え 生活感からかけ離れた思索を――おそらく ただ論理的にあるいは合理的にのみ―― 繰り広げる文章論述のことなのでしょうか。
 しかも そのように見る反面では 別様の 妙に気になるぶっきらぼうも あるかも知れない。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかしながら、「ぶっきらぼう」の場合のほうがしかるべき〔愛想の〕努力が欠如しているにもかかわらず、得てして対話を通り越して熱い議論が展開されるように思います。 何故でしょう。
 「愛想がよい」以上に「ぶっきらぼう」の何に人は興味を抱くのでしょうか。
 対話が白熱してそう映るのか、それとも「ぶっきらぼうの何か」に反応して、対話が白熱していくのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 思わぬところから 主題を提示されたかっこうです。

 ううーん。どうなんでしょう? これは ほかのみなさんにも 質問趣旨に加えていただいて ご回答を寄せて欲しいところですね。
 
 いま 思うことは ひとつです。あくまで 自分がみづからその主題に向き合って考えたかどうか。自分の思索の歩みにもとづいて 述べているかどうか。ですかねぇ。

 ちょっと ボールを相手のコートに打ち返すのが 早過ぎたでしょうか? どういう展開になるかも ちょっと 見当もつかずにて になります。

補足日時:2009/04/17 10:47
    • good
    • 0

ぶっきらぼう大好き人間なので、ぶっきらぼうに回答したいと思います。


Q1ま、そうでしょうね。人間は基本的に群れることを好む動物ですから、非社会的人間は少なくとも平均的人間(多数派)には好まれない、つまり負の印象を持たれるでしょう。
Q2 対話や議論の文章にその当人のぶっきらぼうさが表現できるかどうかということでしょうか?この文章だけでは質問者様の意図がよく理解できませんが、当然出来ると思いますよ。それがフィクションだったらなおのことでしょう。ひょっとしてぶっきらぼう人間がそういったダイアローグの文章を起こしたら自然に「愛想の悪い文章」になるのだろうかということでしょうか?そういうこともあるかもしれませんね。ただ、愛想がよい悪いは相手があってのことですから、対話の中身自体がそういった反映をしても、それを文章化するかどうかには無関係でしょう。
文章そのものは社交性は当面関係なく、意味が伝わればそれで一応の役目が済むので、愛想のない文章が一般的には普通のことか(むしろ良質だと言われるはずです)と思います。ちなみに、愛嬌がある、あるいは魅力的だということとは全く次元がちがいます。
Q3 普通そう考えられています。しかし、愛想だけで出来上がった人間も巷には存在しています。文学などで「ぶっきらぼう人間」が弱者としてよく魅力的に描かれることがありますが、そんな場合多数派愛想人間は当然ながら背景的に通俗的に描かれるのが普通です。つまり愛想というものは愛想でしかなく、極端な場合中身のある人間には必要とされないし、むしろ屈辱的なものだと考えることも可能だからです。
Q4 人間の社会性を示す、あるいは保つ仮面だといえるでしょう。群れて生きなければならなかった人間が種として必然的に、必要悪的に持つことになった2次的特性でしょうか。仰るとおり「ぶっきらぼう」は社交性を拒否するものでしょう。

この回答への補足

 amazo007 さん ご回答をありがとうございます。

 たのしく読みました。
 そうですか
 ★ ぶっきらぼう大好き人間
 ☆ でいらっしゃいますか。なんらかのお叱りを覚悟していましたので いささか機先を制せられたようにも感じてしまいました。
 ★ (α) 仰るとおり「ぶっきらぼう」は社交性を拒否するものでしょう。
 ★ (β) ちなみに、〔愛想があることと〕 愛嬌がある、あるいは魅力的だということとは全く次元がちがいます。
 ☆ この二点が あたまに残っています。(β)は そこまで考えを伸ばしてみないといけないと感じました。(α)は わたしの場合 社交性に乏しいけれども それを《拒否》してはいないと思ったりという感じです。

 わたしの親父は 若い頃 そして結婚後の数年ないし十数年まで 周りの人から 《電報人間》と呼ばれていたそうです。《する・しない / 要る・要らない / 好き・嫌い》など どちらか一方を言ったり答えたりするほか 何も言わなかったそうです。
 わたしは 多くの人びとと同じように 親に反抗し 違ったことをしようとして来ましたが どうも このぶっきらぼうについては 似たところがあるようです。
 しかも それは とっつきが悪いというだけだとも 長年 思ってきたのですが このところ そうでもない部分があるようだと感じたものですから この質問にあい成りました。《ぶっきらぼう大好き》と言われると 少し拍子抜けのようでもあります。

 【Q‐2】は 舌足らずでしたね。文章とは切り離して捉えてよいようですね。
 そして (β)の 愛想というよりは 愛嬌やその種の魅力の問題 こちらのほうが 大事なのでしょうね。愛想は たしかに つくるという印象が伴ないますから。
 でも
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 Q4 人間の社会性を示す、あるいは保つ仮面だといえるでしょう。
  群れて生きなければならなかった人間が種として必然的に、必要悪的に持つことになった2次的特性でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように 愛想も 一般的であり たとえ《仮面》であっても むしろその余裕を持って つくろうことも 社会一般からすれば 間違いではないだろう。また したがって 愛想を ふつうのこととして 受け取り合っていけば ぎゃくに いちいち 愛想を振りまくことも 必要がなくなってくるかも知れない。――このように 受け取りました。

 (α)ですが 《拒否》には こだわってしまうのですが。つまり たとえば 愛想を振りまくような仕草に対しては わたしは 軽く会釈して 受け取り 受け容れるというところまでは しているつもりなのです。
 別のかたちで 考えるとしますと 
 ○ 社交性とは 話し合いを拒まず むしろ積極的に 互いの考えの異同を 明らかにしていく。その異なる部分を それとして 受け容れる。そうして どこまでも 対話をつづけていく。
 ☆ こう考え 振る舞ってきたつもりですので 《拒否》には 違和感を覚えました。――たぶん 全体から察すると 作り愛想 これは拒否するといった意味合いでしょうか。

 あとは
 ★ 文学などで「ぶっきらぼう人間」が弱者としてよく魅力的に描かれることがあります
 ☆ という点ですが このように特別視されているようだと それは逆に まだ 市民権が 得られていないなというようにも感じられました。

 再度見直した結果ですが
 ★ Q2 対話や議論の文章にその当人のぶっきらぼうさが表現できるかどうかということでしょうか?
 ☆ これについては けっきょく 次のような疑問を描いていたのだと気づきました。
 ○ あいさつや しゃべり方のくせなどではなく 対話や議論の 内容としての 文章をとおして ぶっきらぼうが 見て取れるのだろうか。(ぶっきらぼう人間が 表現しようとして できるかではなくて です)。
 ☆ 一気に そこから思ったことは こうです。
 ○ ぶっきらぼうと思われるのは 《歯に衣着せぬ表現》ということからなのだろうか。
 ☆ です。たとえば 最近 北野誠というタレントが 辛口の批評をおこなって 活動休止となりました。そのような表現のあり方 あるいは 内容として いわゆる真相をどこまで 公表してよいのかなどなどと ぶっきらぼうとは つながっているのでしょうか。とも ふと 思いました。

 ありがとうございました。
 (お礼欄では 字数が おさまらなくて 補足欄に 述べました。ご了承ください)。
 (取りまとめて すっきりした筋にしようと思えば 出来ないこともないとは思いましたが 思いのたどったこのままにて 失礼します)。

補足日時:2009/04/17 09:07
    • good
    • 0
←前の回答 3  4  5  6  7  8

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す