
【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか?
【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?
【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?
それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか?
【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか?
自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。
【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。
No.34
- 回答日時:
>☆ 要は これらの重要な術語が 多義的であると言うことですね? 解釈の幅をゆるしているということですね?
そうです。ですが、その幅の問題も然ることながら、術語に幅を生み出すフーコの言説が、そもそもどういったものだったのか(それは哲学なのか、歴史なのか、はたまた、人間としての生き方なのかという、フーコ自身の受け止め方)という点もあります。
世間が評価するフーコ像と、ご本人はどうだったのかって、案外違うじゃないですか。
そして、フーコのシンパというのは、ずっと後になってあまり穏やかではない記録を作っていたりもします。こういうのを見通して、「無主体は~云々」と仰っていたのかなと思っていましたが、どうでしょうか。
僕は、「本の世界」に留まるフーコは尊敬しますが、そうではない場合は、少し警戒するようにしているんです。
>☆ 三つの術語が そこまでの解釈可能性を持つということですか? げぇーっ。そして 《ホロコースト》にまで到る? ぎゃおっ。
でも、毛沢東の例もありますから、少し後に資料をつけました。あとはご自身で、判断してください。
> ☆ このような可能性を考慮すればよいのではないですか? 意味も意義も 同じような意味です。
仰る通りだと思います。そんな大げさなという声は、まったくその通りだと思うんですが、けれど少しだけ笑えない気がするのは、フーコが実践主義者だったからです。
おそらく大西雅一郎氏の訳だと思いますが、ウェブにちょうど情報があがっていました。あまり読まれないテクストだと思いますから、お読みいただくとわかります。
・
http://members.jcom.home.ne.jp/thinking-reed/dow …
抜粋しますと(5/6)、
私はかつて狂気の歴史について本を書きました。ブランショやバルトといった数人を除いては、その本の反応は余り芳しくありませんでした。最近でもなお、大学では、学生にこの本の話をするときには、それは医者の手になるものではなく、従ってペストと同じように警戒しなければならないと注意するのが普通だったのです。ところが、あることが私を驚かせました。ここ数年前からイタリアではバザリアを中心にして、またイギリスでも反精神医学と呼ばれる運動が展開されています。もちろん、これらの人々は彼ら自身の考えと経験に基づいて運動を展開してきたのですが、彼らは私の書いた本のなかに一種の歴史的な正当化を見て取っていて、彼らはいわばその本を改めて引き受け、考慮に入れ、ある点まではその中に自分たちの姿を認めたのです。このようにしてこの本は実践的な成果というべきものを得つつあるのです。ところで率直に言うと、私は少々嫉妬深いので、今度は自分自身でやってみたいと思うのです。人々に引き継がれて実践的に司法を問題にするような司法の歴史の本を書く代わりに、私は司法の問題化から始めてみたいのです。
このように語ったフーコは、ちょうど同じ時期に、デリダから受けたテクストの批判に対して、こんなふうなことを回答しています。――デリダの批判は、『狂気の歴史』とそれに続くテクスト群が、つまり哲学の外側にあるという点を問題にしている。けれどそれは、フランスにおける哲学が、常に実践され経験されているような他の仕方に対して、常に外から見ているだけのものであったから、だから(デリダの)批判が注目されるものに映っているだけだと答えたんです。
ずっと昔に読んだ本ですが、70年代を迎えたころに、彼は何らかの線を越えたのだなと思います。
この回答への補足
passcard さん むつかしい。そのむつかしさというのは きわめて複雑に 事項もしくは(/ ならびに)視点が 入り組んでいて 何を 議論の焦点にすればよいのか 迷うところです。
ご回答をありがとうございます。
でも ひょっとすると 最大の論点は 案外 はっきりしているかも知れません。
【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?
→【Q‐2a 】 ぶっきらぼうは 文体をつくるか。
→【Q‐2b 】 《文体は 人間である》に 例外があるか。
要するに わたしは 先の質問【Q:けんかをしては・・・】において この例外となるかに思われる事態に出会ったのです。(具体的には 四人の数にのぼります)。この失敗ないし敗北のありさまを しっかりと 分析しておかねばならない。
で
★ フーコが実践主義者だった
☆ に 少しだけ 触れるなら 二点 あります。
1. 文体は――そして ぶっきらぼうも 文体であるなら ぶっきらぼうも―― 《実践》である。要するに 生活が 実践である。
2. 迂回生産も あるのだから とうぜん 悠長な研究や著作活動も 実践であり 《生産》である。
☆ 何だかんだと言っても いちいち 実践に 実践主義などと 主義の語をつけるところが どうも 気に食わぬ。意味があるのですか?
井戸端会議が 生活であり 実践です。その上に 経済・政治ないし文化活動は すべて 乗っているでしょう。
★ 世間が評価するフーコ像と、ご本人はどうだったのかって、案外違うじゃないですか。
☆ これにつきましては 両方の見方があると見るべきでしょう。あるいは ひとの数だけ 見方があると言うべきでしょう。さらにあるいは 一人のひとにとってさえ いくつかの見方があるかも知れません。
言いかえれば その像の一つひとつを 必要に応じて 取り上げて 論じていけばよろしいのでは?――〔あぁ この提言をしも 実践主義と言いつべきかな〕。
★ 〔ずっと昔に読んだ本ですが、70年代を迎えたころに、〕 彼は何らかの線を越えたのだなと思います。
☆ これも――まづ 何を言おうとしているのか にわかには 分かりがたいものがあるのですが―― このひとつの像を取り上げるのなら それとして しっかりと 問題提起すればよいのだと考えます。どうでしょう? オブスクランティスモは よくないのぢゃなかっぺ? それとも 自分の視線まで 上がって来いと呼びかけています?
passcard さん ご回答をありがとうございます。
その後 昼寝(夕寝)して いま起きたところ。
ざっと読んだら ここに言うフーコたぁ おれのことかぁ?
あとは 夕食と夕刊のあとにします。
No.33
- 回答日時:
本当に伝わっているかどうか懐疑的な面があり、【Q2】についての補足をします。
なぜ訳文が正しいかの決定的な点を挙げますと、この文章がどこに所在したものかはわかりませんが、少なくともこの文章はフーコの解説ではあっても、フーコの主張ではないという点が明確だからです。原作者はフーコの用語を用いて、何かを主張する際にこの文章を用意している。これくらいは、ブラジュロンヌさんだってお分かりでしょう。
例えば、生産(la production)、基準(de normes)、価値(de valeurs)という用語は、この文章が用いられる場の何かを表現する「複合的な記号」であって、その記号からどのような意味を剥ぎ取るかについては、決定不能の要件を満たしたままです。言い換えれば、それらを「死」、「罰」と「罪」と捉えれば、ホロコーストを現象化することにも繋がりかねない曖昧さを持ち合わせます。
このような「意味」の接続と「意義」とは、念入りに区別する必要があります。訳者が市場経済に留め置かれたのは、むしろ良心的とも言えるでしょう。道具の恐ろしさは、それが用いられたとき、「フーコがそう言っている」と語られる点にある気がします。
この回答への補足
passcard さん ご回答をありがとうございます。
あぁ
★ 本当に伝わっている
☆ とは言えません。
フーコ自身の文でないことは 分かります。ただし そのフーコの一応に言うところの真意に 忠実な思想を反映している文章であると思って 受け取っていました。ちがうのでしたら 《本当には 伝わっていません》。
ただし そのための説明には bragelonne さまのご理解を得られるかとなると 少々 うたがわしいところが出てまいります。
★ 例えば、生産(la production)、基準(de normes)、価値(de valeurs)という用語は、この文章が用いられる場の何かを表現する「複合的な記号」であって、その記号からどのような意味を剥ぎ取るかについては、決定不能の要件を満たしたままです。
☆ 要は これらの重要な術語が 多義的であると言うことですね? 解釈の幅をゆるしているということですね?
★ 言い換えれば、それらを「死」、「罰」と「罪」と捉えれば、ホロコーストを現象化することにも繋がりかねない曖昧さを持ち合わせます。
☆ 三つの術語が そこまでの解釈可能性を持つということですか? げぇーっ。そして 《ホロコースト》にまで到る? ぎゃおっ。
★ このような「意味」の接続と「意義」とは、念入りに区別する必要があります。
☆ 奇奇怪怪な表現に わたしには 映ります。
(1) 著者の一応の真意(じっさいに 意識した《つもり》)
(2) 語じたいが 文脈にも逆らわずに持ち得るいくつかの意味の可能性
(3) その選択肢からの決定
(4) 多少は 原文に逆らってでも 自由解釈をおこなって 意識的に 別様の意味を 取りだすその意味
(5) 時代や地域や言語の違いによって 意図せずとも 解釈に 違いが生じてくるときのその意味
☆ このような可能性を考慮すればよいのではないですか? 意味も意義も 同じような意味です。
★ 訳者が市場経済に留め置かれたのは、むしろ良心的とも言えるでしょう。
☆ これは 実際のその書物を 全体的に捉えたあと 判断できるのとちがいますか? それまでは 何とも分からない。
★ 道具の恐ろしさは、それが用いられたとき、「フーコがそう言っている」と語られる点にある気がします。
☆ これは 理解に苦労しません。
ソフィストとまでは言わないけれど 学識が まぶしいと申し上げておきます。それで どうなんですか?
No.31
- 回答日時:
>把素加度先生 □好! 我非常感謝□的答応。
我覚得有好意思。但是太複雑。何を興奮しているのでしょうか。
>☆ こんなややこしいことを。《われは かく思う》で ええのとちゃいますか? フーコさんは これこれの意味で書いているだろうけれど 実際には これそれと考えられるでは いけませんか?
どうでしょうか。でも、せっかくちゃんとした訳文をマシュマロさんが提示してくれてるのにですよ? それを解釈する側が足りるとか足りないとかと、ぐずぐず質問をあげて論評している姿勢があるわけでしょう。
そういうのは、すべて揚げ足取り以外にないじゃないですか。
誰が何と言おうとも、フーコの言ってるのは、訳文どおりで間違いないです。「力」をどう解釈するか。ふつう、そういう読み手の注釈は本文ではなく脚注で書かれるべきものです。文字に変わったテクストとは別に、どう訳せば良かったか、その概念を考え続ける訳者の姿勢は常に正しく尊いものです。その姿勢に対してですよ、誰かが「こうだ」と一方的に決めるもんじゃありません。
注釈は概念ですから、認識の範疇に留めるべきものです。
言いたいのは、「Q2」でお書きの事は「姿勢の」問題だという点です。
passcard さん ご回答をありがとうございます。
誤解です。誤解です。
★ でも、せっかくちゃんとした訳文をマシュマロさんが提示してくれてるのにですよ? それを解釈する側が足りるとか足りないとかと、ぐずぐず質問をあげて論評している姿勢があるわけでしょう。・・・
☆ これは わたしが一般論で そちらが 特定の文章についてのお話ですから すれ違っています。つまり たしかに
★ 言いたいのは、「Q2」でお書きの事は「姿勢の」問題だという点です。
☆ この一般的な姿勢については 書いたつもりです。
言いかえると 翻訳にせよ一般に読みについては――いつも わたしは 言っているぢゃないですか 相手が まづは 正しいと信じて 読むと―― 自分をなくしてでも 受け取り受け容れるわけです。
ですから そのあとです。そのあとの 自分の発信のことです。発信=自己表現に及べば 解釈が 当然 入るという意味です。
★ 誰かが「こうだ」と一方的に決めるもん
☆ なのです。それでこそ 弁証法過程は 有効に すすむのです。誤解があれば そこでこそ 正されていくものです。どんどん 自己の《誤解》を出すべきです。《表現》とは そういうものでしょう?
同感 同感 今回は 同感のみあり。同感しかありません。
中文が なんで 《興奮》なの?
No.30
- 回答日時:
こんにちは。
ぶっきらぼうと愛想との関係性についてですが、少し思うところがあり、回答を補足してみます。質問文の【Q2】「愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?」というところでしょうか。
ここで取り上げるのは、「愛想」と「対話や議論の文章」についてです。例えば、
---Selon le philosophe francais Michel Foucault, le pouvoir n'est pas une autorite s'exercant sur des sujets de droit, mais avant tout une puissance immanente a la societe, qui s'exprime dans la production de normes et de valeurs.
適当に見繕ってみましたが、 このような文章があったとします。
妥当な訳としては、「フランスの哲学者ミッシェル・フーコーによると、権力とは権利主体に行使される権威ではなく、何よりも社会に内在する力であり、規格と市場価値の生産を表すものである。」と、このようになるでしょう。
ところが、文中のふたつの名「pouvoir」と「puissance」について、これをどう取り扱うについては、度々議論にあがることがあるようです。ともに「力」を現わす語ですが、この解釈問題(同一性命題)についての哲学的考察は、まさに『ぶっきらぼう』問題、強いては「愛想」と「対話や議論の文章」との関係性になってきます。
似たような問い語りにおいて、この質問の少し上にある『神の存在』という質問に、あらましを投稿しておきました。質問者様にとっては、ご参考になればと思います。
ところで、命題に対する立ち位置として、事実命題と価値命題のあいだのジレンマというのがあります。訳と言うのは本来、前者に所属する問題であり、それを後者で論じようとすれば、そこには必ずジレンマが生じるでしょう。
何故ならば、意味は同じでも意義が異なるからです。それを他者が指摘するとき、世間では(別な表現を借りれば)、「揚げ足とり」などとも呼ばれたりするようですが、僕の用語で言えば、「ひとり踊り」ということになるのでしょうか。
さて、「pouvoir」と「puissance」についてですが、何時だったか、両者の違いを禁止「~できない」と、当為「~すべき」だと説明したことがありました(覚えておいででしょうか)。前者は、何かを可能にする力、後者は、一般的には権力ですが、史的に語るならば、la tout-puissance divine(能動因としての全能性とでも呼びましょうか)に出自を見ることができるでしょう。
ですから、古典的には一者がもたらす可能因と、能動因の違いというふうに呼びかえることもできるわけです。こういうこましゃくれた事を手っ取り早く説明するために、禁止と当為だとお話したのですが、きっとお忘れになられたんでしょうね?
「どう訳すか」と「どう解釈するか」この違いを明らかにして楽しむためには、先に書いたジレンマを弁える必要があるでしょう。愛想といいますか、個人的には、このような悶々とする感じって、好きなんですけどねぇ。むしろ、悶々にとらわれ過ぎて、「対話や議論の文章」という事実を見落とす事のほうが憂慮されるべき問題だと思います。
把素加度先生 □好! 我非常感謝□的答応。我覚得有好意思。但是太複雑。
□:ni =あなた。(入力できず)。
複雑:ややこしい。
★ 「pouvoir」と「puissance」
★ 前者は、何かを可能にする力、後者は、一般的には権力ですが、史的に語るならば、la tout-puissance divine(能動因としての全能性とでも呼びましょうか)に出自を見ることができるでしょう。
☆ さよか。知らなんだ。ほなら 王権神授説に近いのかなぁ? やっぱり 降って湧いた《まなざし関係》かいな。
《和を以って貴しと為す》のは いまや 大自然のいとなみと等しいちから( puissance )があるからね。《当為》をさえ 突き抜けています。えらいちからやね。かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き・・・。
あとは むつかしいです。
★ 「どう訳すか」と「どう解釈するか」この違いを明らかにして楽しむためには、先に書いたジレンマを弁える必要があるでしょう。愛想といいますか、個人的には、このような悶々とする感じって、好きなんですけどねぇ。むしろ、悶々にとらわれ過ぎて、「対話や議論の文章」という事実を見落とす事のほうが憂慮されるべき問題だと思います。
☆ こんなややこしいことを。《われは かく思う》で ええのとちゃいますか? フーコさんは これこれの意味で書いているだろうけれど 実際には これそれと考えられるでは いけませんか?
★ 事実命題と価値命題のあいだのジレンマ
☆ どう考えても 価値命題のほうが えらい。それゆえに 事実命題も 事実認識に 正確を期す。単純でいこまいか。
と言うと ランボーではないけれど
○ sans coeur !
☆ と言われるのかなぁ。これが ぶっきらぼうだろうか?

No.29
- 回答日時:
bragelonne様、おはようございます。
そしてお礼を拝見致しました。 いつもご教授を賜りまして本当にありがとうございます。
【女性のぶっきらぼう、のっぺらぼうに対するふるまい】
>一般に男よりもすぐれて 包容力を発揮してのように 難なく 接し 対処していくことができる。
はい、男女における脳のメカニズムの差異につき、概して女性は男性以上に「他者との対話もしくは心情吐露しつつ思考していく」傾向があるようです。
女性の他者との関係を重んじる態度や他者への許容度合いなどにおいては、男性のそれよりも優れているのかもしれません。
もちろん個人差によるところも大きいと思われますが。
【《まつり》を中心とした生活→余剰をあてにした歴史知性の発生と「効率性」】
縄文時代において少人数規模の狩猟の結果生じるような「余剰」の概念と、稲作のような大規模共同作業の結果生み出される「余剰」とでは、「時間の長さと時間概念に対する囚われ感」も自ずと異なっていたと思われます。
そして「いま目の前に存在する余剰をどう再分配するか」と、現代社会における大きな価値観「余剰をあてにする、もくろむ」とでも、全く意図するところのものが違うのではないでしょうか。
後者は現代の貨幣経済における最重要命題「効率性」に則っていて、将来この命題が放棄されるとは今現在想像つきかねるのです。
では、≪ヨセ歴史知性≫から≪イリ歴史知性≫へ思想の流れを変えるには、この「効率性」を今後いったいどのように捉えていけばよろしいのでしょうか。
南北問題、発展途上国問題におきましても、経済発展は国の最大の悲願でもあり、なかなか容易には理解され得ないように懸念するのです。
【偏差値的価値観】
>のっぺらぼう史観でしょうか? それとも 同時に ヨセ史観をも含むでしょうか?
効率的なカリキュラムのもと、ある意味訓練とも言える一律な教育内容を課す。
そして数値化された試験結果を基準として相対的に判断した後、能力と適正を階層的に管理するという点においては、フーコ的のっぺらぼう史観によって上手く解釈できるかと思います。
「イリ」「ヨセ」の各史観ではどのように解釈することができるでしょうか、逆にお聞きしてみたくなりました。
【脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価】
>☆ ここで やはり 《絶対》は 言い過ぎでしょうね。
>★ ≪主体≫至上
>☆ の《至上》も 言い過ぎだと思います。
集団における相対的な序列化、生徒の学習評価を人数割合に応じて各段階に分類する「相対評価」は、偏差値的価値観と密接な関係があると思います。
逆に、他者との比較ではなく、あくまでも生徒本人自身が「どれだけ自己目標に到達し得たか、学習内容が身についているか」を他者との比較無しに評価する「絶対評価」という見方があります。
これを多少比喩的に「本人≪主体≫の絶対評価」と軽い気持ちで表現してしまいました。
で、このたびの件もふまえて、≪主体≫≪絶対≫≪至上≫などという言葉選びに関しては、哲学カテにおいて特に慎重を期さねばならないのかな、と真面目に思いました。
そしてまた、各種思想によってもその語彙の適用に関しては差異が生じる余地があるのでしょうか。
何度も例えて恐縮ですが、フーコの思想においては、考察、解釈するところの語彙は多少の拡大解釈もしくはリンクするところが大きいようで、むしろ一義的に厳格にあてはめることは良しとしない、という趣旨を対話集(コレクション)上でふれています。
ですが、これすら各思想によりかなり異なるものなのでしょうか。
先日関連する仏文和訳を試みた拙文に対し、別カテ内にて回答者様から辛口批評を頂戴した上で今後一層精進したいと思う次第です。
(拙文の稚拙さ未熟さは疑いようもありません。ですが、
出典先も不明な中、ワン・センテンスだけピックアップして訳すのは、どの著書の内容に基づくかによっても語彙選びが異なってくると思い、わたくしには荷が重かったです。)
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4881447.html
こちらの質問における命題とはかなりズレて恐縮ですが、この点につきましても、bragelonne様からご教授いただけたらありがたいです。
お手すきの時で結構ですので、どうぞよろしくお願い致します。
この回答への補足
mashumaro2 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
まづ No.26で 考えが――昨夜ですね――まとまらなかったので 今朝 あらためて考えたところを No.21補足欄そして続いてNo.24お礼欄にて したためました。どうぞご覧になってください。
★ フ―コ関連の仏文ですが 全体観を持てていませんので わたしには 自信がありません。例によって Pさんに頼みましょう。
○ le pouvoir / une autorite / des sujets de droit / une puissance / 〔la production de〕 normes et de valeurs
☆ これらの術語が 著述全体の中で どういう使い方をされているか 明るくありません。どうも 《世間のならわし( normes et valeurs )》を言っているように わたしには 思えます。しかも わたしの見方としては そのような《世間の目( une puissance )》のあり方は 《アマテラス・マツリゴト》( l'autorite s'exercant sur des sujets de droit )から発生しているもののように映ります。
全体として 人びとも それぞれ その場に参画している社会力学の情況であるように捉えています。
★ 拡大解釈・言葉選び
☆ これは 自由だと思います。ただちには 分かりませんでしたが。《絶対評価》という語が 使われているのですね。
ただし 問題は 《学力》に特定し限るとした場合には 別の話になると考えます。わたしが No.26へのお応えを補足した追加(No.21+No.24)では この(α)【偏差値的価値観】について 比喩的な解釈をしています。《学力》ではなく ひとが社会において占める位置を ただ現象として・また結果として それのみを取り上げた場合の《人間力》と捉えて応用しました。
(β)【脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価】では 位置の占め方あるいは そもそも歩き方もしくは世界観が ちがっているところから 出発しているので 次元がちがうと見ました。《ゆづる思想》であり これは 現実に損な役回りですし また こんなふうに次元がちがうと言っているのは 負け惜しみだと言われるであろう哲学になります。
★ フーコ的のっぺらぼう史観によって上手く解釈できるかと思います。
★ 「イリ」「ヨセ」の各史観ではどのように解釈することができるでしょうか、逆にお聞きしてみたくなりました。
☆ これらには 追加補足のほうで おおむね お応えできたかと思います。
★ 【《まつり》を中心とした生活→余剰をあてにした歴史知性の発生と「効率性」】
☆ きわめて思弁的に考えただけかも分かりませんが 次の見方をしています。
○ 資本主義を 勤勉キャピタリスムとガリ勉キャピタリスムとに分ける。
☆ ガリ勉のほうは 勤勉資本主義が 自己目的となったものです。生活の中で 剰余のほうから計算するという経済行為をおこなうだけではなく その《はからい》そのものを 自己の生活とする。
ガリ勉なる思惟の形式のもとに 人びとをも経済行為をも 寄せる場合だと見ます。
一般に ふつうに 経験合理性にもとづき 経済行為をいとなむという行き方の勤勉資本主義が ガリ勉資本主義の有力に どれだけ 寄せられて行くかだと考えます。当面は ですし 当面は まだまだ 後者は ブルドーザーのごとく 一人歩きしていくかも分かりません。
インタムライスムの共同自治のあり方が このキャピタリスム経済の動きを どれだけ 軟着陸させうるか。だめかも知れないですし だめでも 経済活動は それ独自の動きとして ガリ勉思考をどこまでも突き抜けて行ったときには 一般に 共生という主題にたどりつくのかも知れません。
思弁的なものですから 一種の山師のような言説であることをお断りします。
こんなふうに考えています。翻訳については Pさん よろしくお願いします。

No.28
- 回答日時:
オコリザルです。
簡潔かつ明瞭の精神は大切ですが、その言葉を装飾すると聞き手の知解の幅が広がるようです。
より柔軟な思考を集めることが出来るなら意味があるでしょう。
ただし、焦点のぼやけた文章と受け止める人もいるかもしれませんので、そのバランスは考慮する必要があります。
そうすると主観的に自らの心に受け止めて、思いやりをこめて文章を膨らますことになるでしょう。
この場合の思いやりは武器でもありまして、マジギレ、けんか腰、見当違い、などは心をこめた作文を心がける事で実際に回避できます。
この回答への補足
primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
primeape さんのご質問に わたしは投稿しなかったのですが 考え方を述べます。正義は 旧い言葉ではないか。経験合理性にもとづく思考過程とその内容の妥当性 このことを ひとに対して 特別に訴えようとして 用いる主観語なのではないか。
そして もしこのようであるなら たしかに その表現の古さについて 思考を及ぼし いわば整理しておこうという意図としては 考えられるというように捉えました。
死については これも 同じように それを考えるということは 或る種の仕方で やはり 古い。なぜなら 基本は 生を問題にするのみである。したがって そのやはり 死をどう扱うかという問題の立て方の古さを きちんと 考えまとめておいて あらたな出発をするという意図としては 捉えました。ただ 死を二分し 考慮すべきものほうについては やはり残しておこうとおっしゃっている。さらに突き抜けてしまってもよいと思いました。
さて 今回 投稿していただいた内容は ぶっきらぼう論の正統であるように まづ 思います。しかも もし 横目で眺めると ちがった見方もできるという なかなか めんどうな問題点を孕んでもいるように考えました。
★ 簡潔かつ明瞭の精神は大切ですが、その言葉を装飾すると聞き手の知解の幅が広がるようです。
☆ なのですが――なのですが―― ぶっきらぼうとしましては 別の基準 つまり《必要性》 をも用いると思ったのです。
ぶっきらぼうは 基本的に 《装飾》はしないのですが 《簡潔かつ明瞭の精神》を発揮しているときというのは 伝達や意思表示にとって 必要なことを漏らさず 表現していることを意味すると思うのです。
しかるがゆえに 味気ないぶっきらぼうだと言われかねないのですが 必要なら言う 必要でないなら言わない という基準があると思うのです。
★ より柔軟な思考を集めることが出来るなら意味があるでしょう。
☆ これも そうなのです。もし愛想や愛敬を発揮するというときには
★ ただし、焦点のぼやけた文章と受け止める人もいるかもしれませんので、そのバランスは考慮する必要があります。
☆ ということになるかと思うのですが ぶっきらぼうの場合には 必要かどうかで決めますから 《バランス》の問題だとは考えないのではないでしょうか。
★ 思いやりをこめて文章を膨らますことになるでしょう。
☆ これに対しても きわめて ぶっきらぼうなのです。必要ないと判断すれば 思いやりも 表現しません。言いかえると 思いやりが必要だと考えるというよりは――という意味は 相手のことについて あれこれ 思いめぐらせて 決めるというよりは―― 自分の意思表示にとって 必要不可欠かどうかを しっかりと 判断する。その結果 思いやりが発揮されればよい。という考えです。
結論として
★ この場合の思いやりは武器でもありまして、マジギレ、けんか腰、見当違い、などは心をこめた作文を心がける事で実際に回避できます。
☆ このように 《武器》もしくはそれとしての《愛想や愛敬》を あたまの中で 考えていないのだと思います。ぶっきらぼうの精神は です。
こんな細かいこと――重箱の隅を ほじくってみました。どうでしょう?
ふたつの行き方があるということになるのでしょうか? そして 愛想や愛敬というよりも 親切や世話の問題になるのでしょうか?
必要かどうかをつらぬくか。それとも 相手のことを 最初から頭に入れていて 必要性の問題ではなく 親切心を 自分の信条として 発揮するかどうかの問題になるか。多少要らぬお世話になっても 親切心を出しきらないよりは 出したほうがよいという考え。きちんと 正統な世話や助けあいの精神を 遺憾なく 発揮するという問題。
ううーん。どうなんでしょう? ぶっきらぼうも 相手の存在のことは とうぜん あたまに入っているのです。相手との関係においてこそ 考えているのですから。でも――これは もちろん 主観としてですが―― 装飾だと思ったら 表現しないですね。
《親切で必要な装飾》 こういう概念は 成り立つか。こういった問題にもなってまいりました。
No.27
- 回答日時:
bragelonneさん、再びです。
つっけんどんな私の回答にご丁寧なお返事を頂戴しまして、嬉しい驚きを感じております。
さて、実に興味深い内容のお返事を頂きましたので、こうして間を置かずにしゃしゃり出て参りましたが、まあ私は猪口才な人間ですから、どこまで貴方様のお求めになるベクトルでお答えできるかは、わかりません。
> ○ ぶっきらぼうは 愛想のない状態である。☆ として捉えていました。
なるほど。私は、ぶっきらぼうというものを「(愛想のない)状態」と捉えるならば、その状態に至る理由は、様々あるはずですから、それを愛想のあるなしでは判別できないと考えています。
> ○ 愛想は いわゆる潤滑油ではなくて 或る種の人間性である。☆ と見ておられるでしょうか?
人間性とは何ぞや?ということになってくるかと思いますが、愛想というより、愛敬でしょうかね。人間性という観点で言えば。
>ぎゃくに わたしの感覚的な定義ですが それは
○ 人間性は 愛想の以前にも ある。いま・そこにいるただの存在であること これが これで 人間性である。
なるほど。bragelonneさんが仰った言葉の、人間性から「性」を除いて、
人間は、愛想の以前にもある。いま・そこにいるただの存在であること。これがこれで人間である。
とするならば、私も全く同感となります。
>それは 《社交性》にまで行かなくても ひととの関係性は 持っている。生まれながらに 持っている。と考えるものですから けっきょく 《ぶっきらぼう》でも――つまり 愛想がなくても―― 一般的に言って 《社会人》であるとは 思っているのです。つまり それは
★ そもそも人は人と協調して行きたいという想いを持っているものではないでしょうか。
☆ とおっしゃるところに いちばん 近いと思いますが どうでしょう?
はい。私の意図するところをきちんと解釈してくださってるようです。
>(1) 《仏頂面》は 愛想がないと思われますが 社交性は あるでしょうか?
>(2) 同じく 仏頂面のままで ひととまじわり 話をするとき それは 社会性が欠けているわけではないと思われますが 社交性に欠けていますか?
二つまとめてお答えするという怠慢をしてみたいと思います。
仏頂面は、協調性の中に含まれ、協調性は、社交性の中に含まれるという点で言えば、仏頂面は社交性が「低い」とはいえても、「欠けている」とはならないでしょうね。
>(3) ぶっきらぼうは 愛想はないのですが 社会に生きるのですし ひととの交通(まじわり)も ふつうに おこないます。だとすれば これが 人間の《地》であるようにも見られますが どうでしょう?
>(4) 仏頂面は ただその場の表情のみを言ったものです。したがって 言いかえると 人間は 地が ぶっきらぼうで 図が 片や 仏頂面であったり 片や 愛想のよい状態であったりするという見方を してみたのですが いかがでしょう?
これについては、そもそもが、人間の本質的な部分をオールオアナッシング的な考えをするのかどうかで、答えは変わってきてしまうのではないでしょうか?
bijou0 さん ご回答をありがとうございます。
なぜか ちょうど これまでの考えから少し違った見方が 出来るのではないかと 思ったところがあったものですから まさに お訊きしてしまいました。
おおむね お互い 同じ方向において 捉えているとも分かったようで お訊きしてよかったと思います。
★ 愛想というより、愛敬でしょうかね。
☆ これは これまでのご投稿にもありましたので よく分かります。
★ 人間性から「性」を除いて 人間〔とする〕
☆ このご議論も 理解できました。《存在》の問題として 同じように理解しますから。
あとは 《仏頂面》のところで――それが にわか仕立てだったゆえもあるかと思いますが―― いくらか 違いがある というよりも 事情が 複雑になるでしょうか。複雑になるというよりも 場合を規定しなければ決められないというところでしょうか。
仏頂面と愛想とを 互いに 相容れないものと規定する必要があるようですね。
そういったところでしょうか。さらに きっかけにしてまいりたいと思います。いちおう このかたちで ありがとうございましたとお伝えいたします。

No.26
- 回答日時:
Ah! C'est bizarre, n'est pas?
bragelonne様、お礼をどうもありがとうございます。
ね、先のP様への言及は、息子をたとえにして、拙い私なりの理解の再確認も意図していたのです。
偏差値的価値観=他者との相対化=「構造主義」
対して
脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価=アンチ「構造主義」
これって、おかしいのです?
ごく当たり前と囚われがちな社会システムや既存の価値観は、普段はあまり気づかないような類いの性質で、bragelonne様がおっしゃるところのご主張は、この「のっぺらぼう」=「イリ歴史」の再認識並びに再評価を基にした≪主体≫至上なidee、と考えてよろしかったのですよね?
わたくしは、これを意図していたわけでして、何も我が子の教育の悩みを打ち明けたわけではないのです、なのに・・・凹
C'est bien ma chance!!
この回答への補足
mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。
★ Ah! C'est bizarre, n'est pas?
☆ どうも さくじょは 以前からのわたしの質問を あたかも ねらっていたかのようです。今回は 全部 間接的であれ 質問趣旨の延長線上にあると思うのですが。これだけにとどめます。
まづ ひとつ 修正=確認をしたいと思います。
○ 女性は ぶっきらぼうに対しても のっぺらぼうに対しても 一般に男よりもすぐれて 包容力を発揮してのように 難なく 接し 対処していくことができる。
☆ こう表現すべきでした。男が ものごとの処理能力に欠けるというのではなく そうではないのですが ひととの接触に際しては その接点を狭く捉えて 互いに その箇所を突っつきがちである。のかも知れないと。
もう一点は 今頃ですが ぶっきらぼうの定義をしてみました。(=直前のNo.25へのお応え)
○ 人間は 地が ぶっきらぼうである。その地の上に 図として 一般に表情や人との接し方が 片や 仏頂面である場合と 片や 愛想のよい場合とがある。
☆ こういう見方をしてみました。途中から 軌道修正のようでもあります。もしそう考えるなら 今回提出いただいた世界理解につきましては かなり 違ってくるかも知れないと思うことになります。そういう見方も 考慮に入れてみてください。
《のっぺらぼう》について あらためて 説明してみます。
○ その昔 木から木の実を採る単純な仕事が 稲から米を育てる歴史時間をともなう仕事に移るにつれ 人間の知性も 時間的な・歴史的なあり方をとるようになった。
○ もともと 子育てとしても 時間過程とともに 生きていたけれど 自然環界との絡みにおいて 狩猟で獲物を採ったり 木の実を採集したりするのとは違って 最終の収穫に到るまで 時間をかけて 手を加えるという作業を伴なうようになった。
○ このとき―― 一般に 縄文人から弥生人への移行として―― ひとは ヨリなる原始心性から 世界へイリ(入り)したと考えられ これを イリなる歴史知性の獲得と呼んだ。
○ しかも こうなると 今度は 木の実や稲の実のほうから ものごとを捉え考えるに到った。あたまの中で 剰余ないし利潤が先行するわけである。
○ 実りをかみがみに捧げたという《まつり》を中心とした生活から 今度は 余剰をあてにした別種の歴史知性のあり方が 発生した。発生させた。
○ この場合は 人びとを寄せるというよりは 生産物とその活用を おのが知性のために 寄せる。この意味でも ヨセなる超歴史知性。
○ やがて この剰余価値としての実のりが 巨大古墳として《結実》したと言うべきか それとも 巨大古墳として結実させるために 収穫をより多くあげようと努めたと言うべきか。それにしても 土木技術も発達したわけだけれど。
○ ここで 《のっぺらぼう》というのは 自分が 時間的存在であることを自覚する《イリ》なる歴史知性に 一たん 成っているのに あたかも その時間的過程を やはり 無くすかのようにして すべてを のっぺらぼうに見立ててしまう場合である。
○ 巨大古墳の造成といった高度成長の成果として ゆたかになったからなのか。あるいは 逆に その作業に こき使われて やぶれかぶれになってしまったからなのか。
○ あのとき こう言ったとか その時には こうだったとかという時間のことを それが過去になってしまえば 忘却のかなたへ葬り去る。みなが 似たりよったりの顔をしていると見てしまう。投げやりなのか それとも むしろ 自信に満ち溢れているゆえなのか。
《構造》とは このとき
○ ヨセとイリとの関係において 前者から後者へ まなざしが注がれるという行為関係およびその社会的な総合
☆ を言うと思います。このとき
○ イリ史観としては ヨセが そのように意志して おこなっていると見る。自分は そのまなざしに対して 《まつらふ》ことを選択した。非戦論であり そういう国ゆづりをした。
○ のっぺらぼう史観なら この場合 あたかも 《〈構造主義〉主義》としてのように 社会ないしその構造は 誰がどうして かれがこうしたというのではなく ひとの意志にかかわりなく このまなざし関係が 成り立ってくるものだと見る。
○ ヨセ史観からみれば 事態は おのれであれ おのれの崇める英雄であれ そのスーパー歴史知性の徳のなせるわざであると見る。
★ 偏差値的価値観
☆ というのは どうなんでしょう? むしろ のっぺらぼう史観でしょうか? それとも 同時に ヨセ史観をも含むでしょうか?
★ 脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価
☆ ここで やはり 《絶対》は 言い過ぎでしょうね。
★ ≪主体≫至上
☆ の《至上》も 言い過ぎだと思います。
要領をえない部分が残ったかにも思いますが 少しづつ すすめていければと思います。いかがでしょう?
No.25
- 回答日時:
はじめまして。
面白い議題ですね。
ぶっきらぼうと愛想を対置させる感覚が不思議です。
【Q‐1】負の印象かどうかは、全て程度問題、およびTPO次第ではないでしょうか。
【Q‐2】対話や議論の文章に影響するかどうか、ですが、こちらも上と同じような原理+その議題自体への関心の度合い・相手への関心の度合いなども大きく影響するのでは?
【Q‐3】極論ですが、「誰に対してもいついかなる際でも」全く愛想のない、という人間はいないのでは?
愛想の程度ということについて言えば、自分への賞賛を求めて愛想を「振りまく」という場合も往々にしてあるでしょうし、また緩衝材として意図的に「振りまく」場合もあるでしょう。
ですが、それとは次元を異にして、そもそも人は人と協調して行きたいという想いを持っているものではないでしょうか。
その意味で「振りまく」という意識が潜在的に行われていると考えます。
【Q‐4】愛想が「誰に対しても」「いついかなるときでも」、よければ、それは人格者であるとも言えると思いますね。
そうなると、それを社交性という括りで表現するのは、随分傲慢な視点となるのでは?
ですが、恐らく私含めた一般人の大多数はそのような「人格者」には到底なれないという暗黙の了解があるでしょうから、必要に応じて愛想を社交性のツールの一つと出来るかどうかということではないでしょうか。
自分への賞賛欲しさに愛想よくする人も多いですから、それだけで社交性があるとは私は思いません。
この回答への補足
bijou0 さん こちらこそ はじめましてのお方ですね。ご回答をありがとうございます。
全体として 一概に決まっているものではない。つまり逆に言えば 人と場合と かかわっている主題とそして相手の人との関係等々によって 決まってくるであろうと お答えいただいたと思います。
これまでのそのたぐいのご回答よりさらに その情況との関係について 強調しておられるように受け取りました。
はじめに 次のように指摘なさった点 すなわち
★ ぶっきらぼうと愛想を対置させる感覚が不思議です。
☆ とおっしゃるのは 意外です。つまり
○ ぶっきらぼうは 愛想のない状態である。
☆ として捉えていました。
さて 【Q‐3】と【Q‐4】のご回答を合わせて受け取ったのですが それは やはり 《愛想とは何か》にかかわります。
★ 極論ですが、「誰に対してもいついかなる際でも」全く愛想のない、という人間はいないのでは?
☆ とおっしゃるとすれば
○ 愛想は いわゆる潤滑油ではなくて 或る種の人間性である。
☆ と見ておられるでしょうか?
★ 愛想が「誰に対しても」「いついかなるときでも」、よければ、それは人格者であるとも言えると思いますね。 / そうなると、それを社交性という括りで表現するのは、随分傲慢な視点となるのでは?
☆ このあたりが じつは 上の愛想とは何かにかかわっているように思えてくるのです。ぎゃくに わたしの感覚的な定義ですが それは
○ 人間性は 愛想の以前にも ある。いま・そこにいるただの存在であること これが これで 人間性である。
☆ と考えているのです。いわゆる《人格者》というのとは違うと思いますが その人間性だけで すでに 人格を形成しているとまで 思っているのです。
それは 《社交性》にまで行かなくても ひととの関係性は 持っている。生まれながらに 持っている。と考えるものですから けっきょく 《ぶっきらぼう》でも――つまり 愛想がなくても―― 一般的に言って 《社会人》であるとは 思っているのです。つまり それは
★ そもそも人は人と協調して行きたいという想いを持っているものではないでしょうか。
☆ とおっしゃるところに いちばん 近いと思いますが どうでしょう?
★ 愛想を「振りまく」という場合
☆ にも触れていただいていて その点 わたしが うまく尋ね返していないかと思いますが どうでしょうかねぇ。
こうお尋ねすれば よいでしょうか。つまり
(1) 《仏頂面》は 愛想がないと思われますが 社交性は あるでしょうか?
(2) 同じく 仏頂面のままで ひととまじわり 話をするとき それは 社会性が欠けているわけではないと思われますが 社交性に欠けていますか?
(3) ぶっきらぼうは 愛想はないのですが 社会に生きるのですし ひととの交通(まじわり)も ふつうに おこないます。だとすれば これが 人間の《地》であるようにも見られますが どうでしょう?
(4) 仏頂面は ただその場の表情のみを言ったものです。したがって 言いかえると 人間は 地が ぶっきらぼうで 図が 片や 仏頂面であったり 片や 愛想のよい状態であったりするという見方を してみたのですが いかがでしょう?
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