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前3千年紀末に黄河流域を中心に各地に邑ができ、やがてその中流域に夏殷王朝が成立しますが、なぜこの時代であり、この地域であったのかをユーラシア全体の動きと地理的環境の観点から教えていただけないでしょうか。お願いします。

A 回答 (7件)

やはり長江文明の水稲と稲作技術がネックだと思います。



これは暦を知らなければならず、天文学もある程度は発達していたと思います。(140000年前)

更に黄河方面へ
畑作技術を駆使して繁栄させたのではないでしょうか?
(7000年前)

当時の地形としては、森が7割を占めていたそうです。
それがだんだんと砂漠化(後退)して今日の平原を作成するのですが、

まず気候が現在と違い、高温多雨であったとされます。
その人口を支えるだけの土壌と技術があった訳です。

青銅器は輸入技術であった線も有力です。
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この回答へのお礼

参考になりました!ありがとうございます!!

お礼日時:2009/04/30 19:14

枝葉の話になりますが森林で思い出したことがありましたので。



中国王朝の食文化は当初は羮(スープ)が中心でしたが、人口増加につれて炒め物が中心になりました。
この原因の一つは
食糧増産による人口の増加
→さらなる食糧増産と燃料である薪の確保のため、森林を伐採して田畑に開墾
→燃料の薪確保が困難に
→代替燃料として稲ワラが使われるようになる
というのがあるそうです。

薪は長時間ゆっくり燃焼するので煮込み料理に向いていますが、
稲ワラは一度火がつけばすぐに燃え尽きるので、短時間に火を通す調理方法が変化・発達していったそうです。
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 独自に古代文明が発祥したとされる地域は、メキシコ中部(マヤ)・南米西部(インカ)・エジプト・メソポタミア・インド・黄河・揚子江(三星碓)、可能性が濃い地域にドナウ中流が挙げられています。



 その中で黄河文明を含む4大文明が、強力な国家を早期に形成したわけです。
 ですから、他の文明と4大文明の差を見てみればよいでしょう。

 基本的に、国家のパワーとは、大きさ×速さです。
 大河を持つ文明は、生産物の集積に川を利用することができ、広い地域の力を一つにすることができます。大河が文明の大きさを作り出します。
 次に、乾燥地帯であること。
 文明初期の段階では、雨の多い地域は森林・湿地におおわれた地域で、船による交通は可能ですが、速さは期待できません。
 大河の流れる乾燥地域は、膨大な物資集積が可能であると共に、馬・家畜を利用した迅速な情報・物資の移動ができるのです。
(中国では、南船北馬という言葉があります。移動は南では船、北では馬で行うという意味です。)

 現在でも、情報の早さと利用できる人的物的資源の絶対量が、組織の力を決めます。

 4大文明がこの二点を可能にする土地に成立したのです。

 尚、乾燥地は、遺跡が残りやすく発掘しやすいという点でも、四大文明の存在が早くから知られる原因になっています。 
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歴史研究者にも難問の質問ですね。


 文明の成立に必要な森林資源、水資源、平坦な土地、温暖な気候があったからです。住宅、ガラス、青銅、陶器などに使用していきますが、森林資源がなくなれば、水とエネルギーを失い文明は衰退します。四大文明が現在その活力を失っている状態をみられたら納得されるでしょう。
 この時期、地域という詳細ははっきりわからないとおもいますし、ユーラシア全体の動きから文明が発達したのではなく、人間の暮らしやすい場所に局所的に、散発的に発生したのではないでしょうか。
 
 ジョン・パーリン『森と文明』(晶文社)
 
 
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前答のように暮らしやすい土地だったからです。


黄河が運んで来た黄土は開墾し易く、少しの水で肥沃な土地となり農業に適していました。   竪穴住居も作り易く住み始めた漢民族は、濃い森林地帯も少なかったので、畑地、人口を急速に拡大して文化を栄えさせました。    地域文化の拡大で集落の統一が早かったのです。
南方地帯は多湿で濃い森林も多く、東南アジアより伝わって来た水田稲作は早かったのですが、開墾速度は遅く地域文化も孤立し、発展は漢民族の南下を待ったという事です。    
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私も同じ疑問を持って以前、調べたことがあります。


「地理的環境の観点」であれば少し分かります。
仰韶遺跡の位置を見てください。
黄河は、呂梁山脈に沿って北から南へ流れ、そして華山に当たって急角度で東へ流れています。
東西は、山脈と大河で遮断されていました。
ところが仰韶遺跡のある付近から洛陽一帯辺りは黄河の流れが緩やかで、ここで黄河を渡ることができたそうです。(学習院大教授・鶴間和幸氏の説)
この辺りは黄土層なので、保水力があって雨がさほど降らなくとも農耕に適し、雨でぬかるんでも晴れればさっと乾いてしまうという性質があります。
これは、細菌が繁殖しにくいとも言えます。

ところが、そこから下流域では塩分のある低湿地で農耕に適さず、しかも度々洪水に見舞われるので定住には少し不向きでした。
仰韶文化期の人びとは、粟や黍を栽培し、豚や犬を飼い、ときには鹿を獲るような生活でした
が、この地域の利便性がよいので四方から頻繁な往来があって、やがて交易で栄えるようになりました。
各地に「邑」が出現したのは、交易の便利さ(出先機関)からという説もあります。
古代文明は農業生産力で発展していますが、黄河文明では交易で繁栄したという側面も重要だと思います。

殷墟から貨幣として使用された子安貝や真珠が多数出土しています。
南方との交易があり、しかも貨幣が必要であった証明です。
殷墟は、殷の時代には「大邑商」(大きな町・商)と呼ばれていました。
「商人」の起源だという説がありますが、詳しくは知りません。

参考URL:http://view.chinawave.co.jp/detail/148.html
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長江文明と西域遊牧民の融合が黄河文明を生んだ、という話を耳にしたことはあるでしょうか。



黄河文明は世界四大文明(もはや旧説となりましたが)の中でも千年ほど遅れて誕生した文明でした。

しかし、麦作型の四大文明より千年も早く、東アジアには稲作型の長江文明が存在していました。日本文化の源流でもあります。

長江文明人が北上を果たした頃、印欧文明の影響を受けた遊牧民族が中国北西部から東進してきました。両者が中原で衝突することによって、黄河文明の基礎が成立したと考えられます。
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