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他の4大文明は、インドでありメソポタミアでありエジプトであり、緯度が低く温暖で水が豊富でいかにも米なり小麦なりの穀倉地帯でいかにも余剰生産力たっぷりに思えます。
ただ黄河だけは、どうにもそこまで肥沃な地帯に見えません。
wikipediaによるとどうにも粟だったようですし、なぜ世界に名だたる文明になったのでしょうか?
またなぜ中国の中心地が黄河流域になったのでしょうか?
揚子江で先にどんどん文明が栄え南部が北部を支配する構図であれば理解しやすいのですが現実には中国史はしばらく黄河流域を中心としています。

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A 回答 (8件)

文明は途切れること無く成長し、現代に続いている。



というわけではなく、けっこう途切れちゃう。
途切れちゃうから「発掘」なんてことが起こる。

だもんで、黄河も長江も途切れちゃっています。

続いているのは洛陽からその南部にかけて。
ここは黄河の支流である洛水や淮河の上流部に近い
http://en.wikipedia.org/wiki/Huai_River#mediavie …

水系の違いは、主食とする食物の違いを導き、主食の多様性を促します。つまり飢饉に強い農業が可能だった。
近代史で、アイルランドのじゃがいも飢饉が典型のように、単作農業は文明の継続にとって非常に危険な選択肢となります。

継続させた農業生産システムにおいて、No6の方のように乾燥地帯のほうが管理しやすいということがあります。

この回答への補足

この場を借りて再度お礼をさせていただきます。
何が最も大きな要因かわかりませんし、全て正解かもしれませんしまったく別の要因があるかもしれません。
ですから最も面白かった回答をベストアンサーとさせていただきます。
青銅器文化が発達し交易と軍事力に優越したという意見も面白かったのですが、文化の連続性には効率より多様性こそ重要というのが最も説得力を感じ、これをベストアンサーとさせていただきます。

補足日時:2014/08/17 21:26
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この回答へのお礼

なるほどあえて効率一辺倒ではなく、多様性のある農業こそ安定をもたらすわけですか。これは説得力があります。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/11 21:55

 ずっと昔に聞いた仮説が面白いので紹介します。



 まず古代の「四大文明」の共通点はいずれも乾燥地域で大河のほとり。
現代の常識ではもっと農業に適した所(中国では長江流域)があるのにと思わせます。
現代の農業最適地は「適しているから適さなかった」のです。どういうこと?
当然ですが農地は人が手を入れ自然を開拓してなるものです。
つまり手をいれなければそこは自然のままに樹木が生い茂っている所。
現在の農業適地は容易に人手が入りにくい。開拓手段の乏しい古代で農業に適して
いたのは乾燥地域で水が豊富な大河のほとりということになります。

 この説はもっともなのですが欠点がありまして、
いまでこそこの4地域(黄河・インダス・メソポタミア・エジプト)は乾燥地域だけど
どうやら何千年も前はそこそこ降水があったようで、決して乾燥地域ではなかった。

 もちろん、密林状態ではなかったようですが、気候変動なのか、農作で森林を伐採し
水をなくしてしまったからか乾燥地域になっていったようです。

 ちなみに貴兄がもたれた違和感は他の3文明は低緯度地域、黄河文明だけ中緯度地域
にあると思います。見落としがちなのは世界にはもっとたくさんの古代文明があった事、
例えばヨーロッパにはドナウ川流域にもありこれは中緯度地域でしょう。

 最後のお尋ねはなぜ長江流域ではなく黄河流域なのかとの疑問。
長江文明もあったことが近年言われています。でもどうしても湿潤温暖な長江流域は密林
で開拓が大変だったでしょう。黄河流域は早々と切り開かれ富を蓄えた諸侯が争ったこと
でしょう。





 
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この回答へのお礼

密林が農地に不向きなんですか?灌漑さえなんとかなれば焼畑農業のように焼き払えば耕地になるような気がするのですが・・・。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/11 21:56

古代は、現在と違って技術(とくに排水の技術)が未熟なので、低湿地帯や降雨量が多すぎるといった、あまりに水が豊富すぎる土地は農業に適していませんでした。


農業を行うには、必要なときに農地に外部から水を取り込む(灌漑)技術と、必要ないときに水を農地から外部に排す技術(排水)技術、の両方が必要です。
しかしながら、技術的に言えば、水源という1点から多数の農地に水を配る灌漑に比べて、多数の農地から水を1点に集めてくる排水のほうが、圧倒的に大変なんです。
とくに、農地というのは基本的に平らな土地ですから、多すぎる水を排水するのは、相当に大変なことでした。
ひとたび、大雨が降って洪水になれば、それを排水する技術は事実上存在しないわけで、乾くまでひたすら待つしかないんです。

そこで、当時(というか、それこそ風車などが発展する15世紀頃以前)は、基本的には乾燥地(大雨や排水について心配する必要はない)であって、必要なときに灌漑によって水を取り込むだけで排水については考えないですむ土地というのが、農耕に適した土地だったのです。
それこそ、四大文明をみても、全て、基本的には乾燥地(現在の基準でみれば、あまり農耕に適していない土地)です。
中原(華北平野)は、広大かつ基本的に乾燥している(降雨量が少ない)土地でありながら、土地自体は肥えている、かつ、黄河という灌漑に使える水源を備えている、という15世紀以前の基準からすれば、理想的な農業適地であったと思います。

余談ですが、日本でも、(現在、人口が集中しているような)海岸沿いの土地は、排水技術が未熟だった江戸時代以前は基本的に農耕ができずほったらかしにされていました。当時、農耕ができたのは、川の中腹の扇状地(ある程度の勾配があって、排水が簡単にできる土地)や、もっと山奥の現在の目から見たらとても農耕に適しているとは思えない土地に作った棚田(段々畑)です。こういう土地なら、排水について心配する必要がないので。
例えば、戦国時代初期の豪族なんかが、みんな今の基準でみると、なんでこんなところにというような山奥に居城を構えているのは、当時は、そういった土地こそが農業適地だったからです。
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この回答へのお礼

うーんどうでしょう?麦作文化であれば低湿地帯が耕地としては排水に困り適さないというのはわかりますが、稲作文化の日本含め東アジア東南アジアでは昔から湿田があります。
低湿地帯でも米なら生産可能に思うのですが。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/11 21:54

黄土は肥沃な大地で、水さえあれば優れた耕地になります。



古代では黄土地帯は森林に覆われており、水も生態系も非常に豊かで、象も生息していました。


稲作は長江流域から始まったと思われますが、黄河流域と相互干渉する関係だったと考えられています。

黄土流域の中原が支配的に成ったのは、「交易」に於ける地理的条件が大きかったと思われます。

青銅文化に於ける物資の中継点としての性格が強かったようです。

青銅器は軍事力に於いて、大きなウェイトを閉めていました。


現代の黄帝廟の山が原初の姿を保っていると言われていますが、湧き水も湧いていて、豊かな姿を残しています。

しかし黄河文明は消費文明で、ほぼ全ての森林を消費しきってしまい、現在の姿を晒しています。

古代には非常に豊かな大地と湧水や生態系が広がっていたのです。

ただ、食べ尽くしただけです。
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この回答へのお礼

ほうほう青銅器で軍事力に優越していたのが発展の理由ですか。なるほど御回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/11 21:52

ご指摘の通りです。


黄河文明が取り上げられたのは、偶々考古学的な発見が早かったことに由来します。
現在は、長江文明や遼河文明などさまざまな文明が中国各地で発見されています。
四大文明に黄河文明のみを取り上げる手法はもはや古くなっています。
最近の教科書では、「黄河・長江流域の文明」のようにややぼかした表現になっています。

日本でも三内丸山遺跡が発見されて以来、縄文時代、弥生時代の見直しが進んでいます。
従来は九州地方が大陸文化の受け入れ窓口とされて、その結果として弥生文化や以降の日本の古代史へと展開していったとされていました。
本州の北端の地にこれだけの集落が眠っていたとは誰も予想していませんでした。
北海道のオホーツク海沿岸の遺跡も孤立したものとして扱われてきていました。
これ等もいずれ見直されるでしょう。

稲作も最近は朝鮮半島経由ではなく、中国大陸南部から、同時並行的に渡来してきたのではないのかと考えられています。
DNA鑑定の結果から、沖縄諸島は九州北部から南下してきた人達によって開かれたのではないのと考えられ始めています。

狭い日本列島でもこの状態ですので、今後発掘調査が進めば世界4大文明などという言葉も死語になる可能性があります。

考古学というのは、文献資料に頼らない学問ですので、遺跡にたどり着くのは宝くじに当たるような性格を持った学問です。
最近は人工衛星から地表付近の浅い地下の様子についての情報も得られるようになってきています。
エジプトの何の目標もない砂漠地帯での調査では威力を発揮しているようです。

>中国史はしばらく黄河流域を中心としています。
中国の古代史と呼ばれるものは、文献史料を元にして研究が行われた結果得られた知見に基づいています。
青銅器文化などと呼ばれる文化が発達していたことが、考古学的知見とも偶々一致していたと考えた方が良いのかもしれません。
植物が繁茂し易い条件の気候風土の場合は、遺跡が残る前に微生物によって分解されてしまいます。
平たく言えば腐って植物の肥料になって消えてしまいます。
有名なアンコールワットも成長力の強い熱帯植物に浸食されて、正確な文明の形が良く分かっていません。
むしろ、ロクに草も生えないで、人も住んでいなかった地方のほうが遺跡が残っている可能性が高いとも言えます。
考古学などという考えがなかった時代には、人が住むのに邪魔だといってドンドン壊していました。

まぁ~過去にはこうで、今はこう考えらているが、将来は分からん、と考えられた方がよろしいでしょう。
天動説と地動説のようなものだとでも思ってください。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/11 21:52

単純に、現代の研究者の研究発掘が最初に進んだのが黄河周辺であって、



黄河文明 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3% …

後には長江(揚子江)で紀元前12000年頃の稲作の跡が見つかっていたり、

長江文明 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F% …

旧満州付近の遼河文明も、あとで、現在の中国文明の源流となっていたようだとわかってきた、ということのようです。

遼河文明 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E6%B2%B3% …

中国史・中国の歴史・中国歴史 中国まるごと百科事典
http://www.allchinainfo.com/history

この回答への補足

御回答ありがとうございます。
ではその後の歴史で中国の中心部が南部ではなく北部になったのはなぜでしょうか?

補足日時:2014/08/08 16:22
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長江文明もあったそうです。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F% …
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/08 16:22

1。

  なぜ世界に名だたる文明になったのでしょうか?

    こう言う場合その地域で生まれたものはその根源がその近くにあったと推測して出来る物が多く、中国では独特の、しかも表意文字である、漢字の発達がその要素の一つだと思います。

2。 またなぜ中国の中心地が黄河流域になったのでしょうか?

    これは偶然の所産だと思います。まず黄河地域に文化遺跡が発掘され、「黄河」という名前がつく、しかしおっしゃる通り揚子江地域の文化遺跡もその後発掘され、両者の関係は目下検討中です。

     したがって、他の古代文明に比する中国代表に「黄河」文化を選ぶのは古く、最近の教科書では、「黄河・長江流域の文明」のような表現に広がっているようです。

この回答への補足

御回答ありがとうございます。
ではその後の歴史で中国の中心部が南部ではなく北部になったのはなぜでしょうか?

補足日時:2014/08/08 16:21
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Qどうして黄河文明は栄えたのか

前3千年紀末に黄河流域を中心に各地に邑ができ、やがてその中流域に夏殷王朝が成立しますが、なぜこの時代であり、この地域であったのかをユーラシア全体の動きと地理的環境の観点から教えていただけないでしょうか。お願いします。

Aベストアンサー

前答のように暮らしやすい土地だったからです。
黄河が運んで来た黄土は開墾し易く、少しの水で肥沃な土地となり農業に適していました。   竪穴住居も作り易く住み始めた漢民族は、濃い森林地帯も少なかったので、畑地、人口を急速に拡大して文化を栄えさせました。    地域文化の拡大で集落の統一が早かったのです。
南方地帯は多湿で濃い森林も多く、東南アジアより伝わって来た水田稲作は早かったのですが、開墾速度は遅く地域文化も孤立し、発展は漢民族の南下を待ったという事です。    

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む


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