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 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。

 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。

 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。

 真実をおしえてください。

A 回答 (114件中101~110件)

☆ たとえば こういう問題は どうなのでしょう?


 ○ 次の答えに対して どう答えるのでしょう?
(1)――なぜ ひとを殺したのか?

殺しに至るにはそれまでに原因となることがあったからですね。原因結果の連鎖の1結果でしかないと考えます。こういうことが無いように修正をかける、そのひとつが法律や倫理などと考えます。それからの原因結果の連鎖で罪は償える(消す)ことができると考えます。

(2)――前世の業の結果が 現われたのだ。殺されたほうとて 同じである。自業自得である。何も 問題はない。

刑獄の因縁、先祖の因縁、本人の過去世の因縁などといって商売にしている宗教家が巷にはたくさんいますが、この方たちの説にはくみしないですね。当然信じてもおりません。なぜならおぎゃと生まれた子供に罪などないからですね。どのような環境に生まれてもゼロからの出発と考えるからですね。つまり生まれたときから新しい原因結果の連鎖が始まっていると考えています。だから、起きたことはすべて自己責任であると考えます。当然、精神疾患などで罪が逃れられるなどとも考えていません。

(1)と(2)だけでは論理的に説明が不十分ですね。なぜなら罪が消えるという説明があいまいだからですね。
そこで次のように考えます。
(1)人生の途中で人を殺してしまった。だが刑に服してもその方の罪が消えていない。ましてや逃げおおせてしまった。 
転生輪廻説では、(2)で生まれてくる子供(前世で殺人を犯したもの)に罪はないとするとおかしいではないかとなりますね。
(1)と(2)の間に刑に服してその方の罪が消えるシステムが存在しないとこれは解決できません。ところが古来よりどの宗教や倫理にもシステムの存在説があるのですね。
つまり「地獄システム」ですね。死んで地獄という場所で刑に服し、ご赦免になったものが新たに生まれてくると考えれば、生まれてくる子供に罪があるわけがないですね。このシステムさえあれば、(1)から(2)は矛盾無く説明できますね。
今世は逃げおおせたとしても来世は地獄、来来世は白紙でがんばれという連鎖であればこれも原因結果の連鎖といえますね。
キリスト教のような煉獄の地獄であればご赦免になって生まれてくることさえ不可能ですから、この考えにもくみしません。
私はめざしの頭や、葬式の塩や墓石や牧師や坊主のたわごとにはくみしませんが証明はできなくとも論理的に考えることはできるといいたいのです。なにが真理なのかを探究するよすがに何であれ制約は設けないと考えているのです。
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この回答へのお礼

 mmky さん ご回答をありがとうございます。

 ですが しっかりと考えてまいりましょう。わたしは 質問者として しきりに 問い返すからいけないと言われています。けっして わたしのほうから 長引かせているわけではないです。

 ★ それからの原因結果の連鎖で罪は償える(消す)ことができると考えます。
 ☆ いまは 事後処理については 問うていません。ひとを殺しても すべては 因果応報であるから 何の問題もないと答えれば それが 通るということを 認めなければなりませんね?と 問うています。
 そのとおりなら そのとおりと ちがうなら これこれの理由で ちがうと 答えるべきです。

 ★ ――今世は逃げおおせたとしても来世は地獄、来来世は白紙でがんばれという連鎖であればこれも原因結果の連鎖といえますね。
 ☆ ――何を寝ぼけたことを言ってんだい。わたしは 過去世に ひとを百人あやめても まだ残る善因を積んできたのだ。ちょこざいな。輪廻というものを おぬし 知らぬな? もっと勉強してからにせえい。
 ★ ――証明はできなくとも論理的に考えることはできるといいたいのです。
 ☆ ――何を言ってんだか。わたしの言うほうが 論理的なんだよ。いったい 何を教わって来たんだい?
 ★ ――なにが真理なのかを探究するよすがに何であれ制約は設けないと考えているのです。
 ☆ ――真理なんて 分かるわけがないぢゃないか。現象にあらわれる事態 これが すべてだ。因果応報ったぁ このことだい。ようく 聞いておきな。分かったかい?

 って言われたなら どうですか?

お礼日時:2009/05/03 15:20

その三、その四について回答させていただきます。



今世でやれるだけのことをやっておく。

至極正しいと思います。

来世があるから となると、どうしても緩んできたり、たるんできたりします。
それは命を削ってでも必死にやる場面があると思いますが、そのような際に、来世のことまで考えてはいないからです。

また精神をめぐる病が現れるのも、納得できます。
どうしてもどこかがおかしくなってきます。
通常の人と比べて。

ただしかし、来世があり、善因善果、悪因悪果もあるなら、現実に対処していかなければならないのも事実です。

来世のことまで考えないのは、どちらかというと「若い」生き方です。
美しくもあり、危うくもあり、エネルギーもあります。

来世、前世まで見通す生き方はどちらかというと老いた生き方です。
老獪で、味もあり、個性によれば深みもあり、また世の中や人について考えることも多くなる生き方だと思います。厭世も多くなりますが、人生の深みを見つけることもできるでしょう。

どちらにしろ、是か非か、答えも出ぬまま、明確なものも現れてはまた立ち消え、そして考え続けていかなければならないのが、人生かと。

とても厳しいものだなと思います。

なにかこう、自分にふさわしい良いものを見つけるのが良いかなと。
有形無形問わず。
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この回答へのお礼

 hosiboshi さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ただしかし、来世があり、善因善果、悪因悪果もあるなら、現実に対処していかなければならないのも事実です。
 ☆ もしこの因果応報が そのとおりであれば ここ二つの回答にも応答しましたように 次の問いを解く必要が出て来ます。

  ○ 次の答えに対して どう答えるのでしょう?
  ――なぜ ひとを殺したのか?
  ――前世の業の結果が 現われたのだ。殺されたほうとて 同じである。自業自得である。何も 問題はない。

 最初のご回答ではありますが こういう議論の流れになっています。あしからず ご了承下さい。

お礼日時:2009/05/03 15:07

kaitara1ですが、人間なら共通の感性を持っていると信じられる理由を考えると何か共通の構造や機能があるということになります。

どのような仕組みでこのような共通性が生まれるかというと、分子遺伝学の知識で遺伝子が共通であるというようなことになるのだと思います。遺伝子によって転生がなされていると考えることは無理でしょうか。貴方の遺伝子は貴方の知らないご先祖の遺伝子の集合です。過去の個人の意識そのものを受け継いでいるのではありませんが、原理的には無数の人の遺伝子による転生と考えられないでしょうか。
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この回答へのお礼

 kaitara1 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 遺伝子によって転生がなされていると考えることは無理でしょうか。
 ☆ 仮りに分かったら 発表してください。待ちませんが。

 問題は そんなところにはありません。直前の回答に対しても書きました。次の言い分が 通ることになります。
  ――なぜ ひとを殺したのか?
  ――すべて 過去世の因縁による。それに従ったまでだ。殺されたほうも 同じだ。自業自得である。まったく何も問題はない。文句あっか?

お礼日時:2009/05/03 15:00

追伸1の補足追伸2:哲学の範疇


 私はミネルバの梟たらんとして日々研鑽しています。この世界にはあらゆる説が蔓延しております。あらゆる学問、宗教、思想どれも信じるに足りるものもあり、またそうでないものもあります。哲学の使命はこの世界の成り立ちを説き、人々の疑問を説き、人々の幸福を説き、人々の過去現在未来を説くものだと思っています。私は自分自身の知識のなさを日々嘆いている存在でもあるのです。「教えて」にはもう7年以上になります。最初は数学・物理カテで何年か過ごしましたが証明できるものは「海岸に無数にある石のひとつではないか」と考え、このカテに住まいするようになったのです。
証明されないもののほうを追及することこそがより広い範囲を学べるのではないかと考えたわけです。この観点から私は既存の宗教・学問に完全にくみする者ではありません。例え万巻の書を読み賢帝と称されようとも需要のある思想、あるいは未来に主流になる思想を見逃しては、なにを哲学者といえようかと考えるのです。
輪廻転生説についても、原因結果の連鎖を思考する際に、哲学的な利を見出すことができるものです。この説であれば今、学んでおくことが未来のためになると考えられるからです。私の回答には多少霊的側面もありますがこれは、文献も論理的証明もできないが、それさえ哲学が含むべきものと考えているからです。なぜなら、人は忘れるものだからですね。これは過去の人の歴史も未来の人の歴史も同じで忘れ去られ、なにが真実であったかはわからなくなるからです。
私の知識など到底、bragelonneさんには及ばないかもしれませんが、輪廻転生説が真理であれば遠い未来で追い越すことも可能ですね。苦を苦とせずに生きることも可能ですね。だから、これを探求することも哲学の範疇であると考えるわけです。
私が良く書き込む吉田松陰先生の「学はずして死ぬことほど恥ずかしいことはない。」はそれゆえ使っているのです。 輪廻転生説が堕落を持ち込もうとも肯定的に捕らえる者が一人でもあれば肯定すべきものと考えるからです。ちなみに輪廻転生説が真理であることを私は知ってはおります。
それゆえ哲学の範疇から外すことはできないと考えているのも事実です。
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この回答へのお礼

 mmky さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 輪廻転生説についても、原因結果の連鎖を思考する際に、哲学的な利を見出すことができるものです。
 ☆ たとえば こういう問題は どうなのでしょう?
 ○ 次の答えに対して どう答えるのでしょう?
  ――なぜ ひとを殺したのか?
  ――前世の業の結果が 現われたのだ。殺されたほうとて 同じである。自業自得である。何も 問題はない。


  

お礼日時:2009/05/03 14:07

ぽこぺろぽであります。



 はい、そのとおりであります。輪廻転生とはお医者さんごっこ、もしくはおままごとの世界にすぎません。子供の頃のドッジボールの特別ルールの如きものです。
ガキ大将「命は一人3つずつだぞ」
A「当たったぞ、もうお前は命3つ使い果たしたろう?」
B「まだひとつ残ってるもんね」
C「嘘つけ、ズルしやがって」
A「ホントだもん。ウワーン」
ガキ大将「泣いてやがらあ、おかあちゃんのところに帰れよ」
この程度のやり取りにすぎません。民主主義を標榜するこの社会では、このくらいのお遊びは許されるでしょう。

 確かに真摯な哲学論議で突拍子もなく、輪廻転生を唱える者がいたら、本題から逸脱してしまうでしょう。しかし例示に用いることは不自然ではありません。また、輪廻転生の可能性を‘敢えて’温存することは、むしろ思慮深いといえるのではないでしょうか?なぜなら輪廻転生を否定する証明も、現在のところ不可能との認識を持つからです。

 浅学の身ゆえ、輪廻転生を不可能と世に認めさせるであろう、理論を存じません。もしありましたら、浅学を嘲いつつもおゆるしいただき、その理解に努めますので、ご教授願います。私としましては、輪廻転生が否定できるのであれば、大佐のお立場を追従するにやぶさかではありません。

この回答への補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 質問趣旨をみくびっておられる。

 おっしゃるようであっても たとえ そうであっても
 ○ 哲学が取り上げるには 値しない主題
 ☆ であると 一度は はっきりと言っていなければいけません。
 そこのところ つまり 前置きとして しっかりした前提をおいているというのでなければ いけないと問うています。二度目の回答で こちらの中味にやっと触れるというところに そのお遊びの弱さと必要の無さを感じます。

 ★ しかし例示に用いることは不自然ではありません。また、輪廻転生の可能性を‘敢えて’温存することは、むしろ思慮深いといえるのではないでしょうか?
 ☆ この添え物としての役割りも きわめて 役に立つものではないと考えられます。言いかえると すべてが 哲学の貧困から出発していて そのあかしが このいまの前提問題を しっかりとさせていないところにあるはづなのです。

 ★ 輪廻転生を不可能と世に認めさせるであろう、理論を存じません。
 ☆ これも 質問趣旨から逸れています。問いは
 ○ 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?
 ☆ です。《可能・不可能》の問題ではありません。ぎゃくに言うと 哲学の問題ではないと分かれば それで よいという趣旨です。

 ところが――余論ですが 重要な内容として―― おそらく この遊びとしてでも 持ち出してくるその哲学思考としての弱さあるいは甘えが 世の多くの病いにつながっているのではないか。ここまでも 議論の視野におさめては います。おそらく そういう問題であろうとの わたしの 見立てです。
 なぜなら ひとえに すでに 《現実逃避》をしているからです。ただ単なる《逃避》というような段階と中味から はるかに 超えて いわば 人びとは 死の道として 旅立っているのではないか。こういう趣旨を見据えてみたいと考えます。

 ★ 輪廻転生の可能性を‘敢えて’温存することは
 ☆ すでに その人が この現実においては 死んだということを意味しているという趣旨です。現実における生活能力 あるいは むしろ 意欲と意志 これが 萎えてしまっているという意味です。
 その結果 ドーパミンが効果を表わさなくなるのであって その逆ではないと考えるものです。

 ○ 生まれ変わりについては 分からない。つまり 分かるか分からないかが 分からないという回答を 明らかにしておくこと。
 ○ しかしながら 因果応報説は どうしようもなく 発狂し錯乱に陥るための思想です。すべてが自業自得であるというその急所の部分には 目をつむっているだけのことです。都合のよいところだけを拾い上げているから 人畜無害だと思っているようです。

補足日時:2009/05/03 13:59
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bragelonneさんの否定しているのは、輪廻転生説を正当化させている心理的、宗教的、人生論的な「理由」ではないでしょうか。


それらについては時代錯誤や逃避の手段であると言って否定するのはいいとは思います。

ただし、輪廻転生という現象については否定も肯定もできないのではないでしょうか。
もちろん輪廻を証明することはできませんが、現象について評価することは意味がないと思います。
それに、世間一般で言う輪廻の理由と、輪廻を創造した神の意図とは違うかもしれません。
他人の説明はどうでもよく、神の意図について考えることは悪くないと思います。

哲学的に輪廻転生を考えるとは、輪廻転生説の裏付けについて考えることではないと思います。
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この回答へのお礼

 shift-2007 さん ご回答をありがとうございます。

 ですが まるっきり 質問趣旨を たとえ一部分であったとしても 完全に 無視したご回答内容です。
 ☆☆ (【Q:人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか】No.45)~~~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4632161.html
 No.43です。

 ★ (No.43お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 趣味です。

 brageloneさんも悩み事があるならここに書いてみたらどうですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ふざけんな。

 ★(No.3お礼欄) 人を救いを風任せにはできないように思うのですが。

 ★(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >ひとを救うという使命でも帯びているというのでしょうか。

 でも使命でなくても人はそれをするんじゃないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★(No.16お礼欄) 人を救うにも哲学が役立つしむしろ必要でしょうといっています。
 
 ★(No.19お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 メンタルヘルスや人生相談には助言を必要としている人がたくさんいますよ。
 ご自分の今まで積み上げてきた経験をその人達に還元しないのはどうしてなのでしょう。
 私は役に立ったかどうかは分かりませんがいろいろ回答してきましたよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★(No.24お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >つまり 相談者が 垣根をつくっているのではありませんか

 そうですね、そうだと思います。
 それならばなおさら回りがそれに対して手を差し伸べる必要があると私は思います。もちろんすべてを助けることはできないですが。・・・だからたぶん我々のような人がおせっかいを焼く必要があるんじゃないかと自負しております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2009/05/03 12:51

bragelonneさま。


真実は知りませんが思ったところを書いてみますね。

輪廻転生も宗教によってだいぶ意味も内容も違いますし、因果応報・業についても宗教によってまったく意味合いが違いますね。

僕の理解する論は「業」は「意思」で、
現象は多因多果で「業」ひと括りでかいせつできるとはなってないですね。

現象に対し、どのように感じるか、どうしようとするかの幅が決まってしまうことを「業」の果というのだと理解してます。

そして死後が無いなら、「結果が出ない」ということになっていかなる道徳も崩れ落ちると。前世が無いなら「原因が無い」となって「原因なき偶然発生する」ことになり「因果関係」が否定されいかなる道徳も崩れると。

やり直しはきかない。今は今しかない。
二度と同じ現象は無いのだから。

生まれ変わることを念頭に置くなら、今やれるだけの善をなすことをしておくのが 筋というものである。

怠け・悪行為をなすならその業をもって悪果を受けるのだから。

安易な逃げ・怠けの考え方としていかなる言葉を持っても 持った途端に 精進と能力が 減退する。それゆえに 精神をめぐる病いがやむことが無い。

このように感じます。

何か参考になれば幸いです。
幸福であれノシ

この回答への補足

  ☆☆ 【Q:ブッダは 神ですか】(No.36補足欄&お礼欄) ~~~~~~  
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4199231.html
 maggaさん ご回答をありがとうございます。
 いつまた逃げを打つのか分かりませんが 応答の礼儀を尽くします。

 Sumanasaraさんが 「神々について」の質問に答えたものが 文章にて読めます。《日本テーラワーダ仏教協会》公式サイトの中の ​http://www.j-theravada.net/qa/qahp31.html  ​(2002.1月)です。
 引用が 片寄ってはいけませんが 全部は 引けません。上のURLにて 全文を参照願います。
 いわく
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。
 すべて因果法則の結果なので生命に上下はありますが中心的になって支配するものはありえないのです。だから、わざわざ「神がいない、神がいない」と余計な大騒ぎもしないのです。(お釈迦様は)(私は別ですが)  
 Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。
 因縁によって現れるものだから「絶対的」となるものはないということです。因縁、条件などか変わるとその存在もかわってしまうのです。
 
 仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。人間どもが信じている「あやふやな神」にケチをつけようとする「こどもの喧嘩」ではなく、「絶対的、永遠不滅実体としての存在」(eternal existance, eternal substance, permanent soul)というものは「成り立たない、逆である」と具体的に説明していくのです。この論理の結論として「神」がいなくなるのではないのです。それは副結論なのです。結論は「すべての現象は無常である」ということです。考える前にこの立場を理解しておきましょう。
 
 絶対的な実体としての「我」(神も含む)だけではなく我々個人にも「我」がないといっているのです。永遠不滅の何か自分にないことぐらい調べれば簡単にわかるものです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (意味の取りにくい箇所がありますが そのままです)。いくつか 論点として 取り上げるべき内容がありますが 一点に絞りましょう。
 ▲ 絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。
 ▲ Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。
 ▲  仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。
 ☆ もちろん この Sumanasara さんと magga さんとは 人格が別です。いま対話をしているのは magga さんとです。ですが その magga さんに このような見解とご自分のそれとの違いについて 明らかにしてくださいと頼んでも よろしいのではないでしょうか。
 つまり 上の見解は 明らかに magga さんのご見解としての
 ★ 僕には〔有説・無説・無記説の〕三つがあるように感じるのです。そもそも「虚構の想定」は制限の無い〔ものであり〕論拠も論理も何も求めないものと思っていますので。虚構の設定についての人の取る態度はこの三つかなと。触れない・思考すらしない人もいるだろうなと。
 ☆ とは異なっているようですから。Sumanasaraさんのほうは 《絶対は無い》というふうに 触れていますね。つまり 無説であるようですから。

 そのほか 無限の概念をきちんと把握すること あるいは 涅槃をどう規定しているのか――つまり 絶対の概念との関係で どうなのか―― この二点は まだ 大きな課題でしょう。けれども すでに ほかの回答者の方々も それらに応答するわたしも その文章に すでに触れていますので もう省きます。

 無回答となっても 驚きません。回答があって 逃げを打っても やはり驚きませんが しかも もう相手にしません。すでに 同じことの繰り返しになっています。これは 水かけ論ではなく すでに こちらが言ったことを 忘れている あるいは 曲げて解釈し続けているというやり取りになっているからです。もちろん それを 善意(つまり 知らないで そうしている)とは思っていません。
 この辺にしときます。と質問者が言えたら いいのに。(冗談ですよ)。

補足日時:2009/05/03 12:38
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この回答へのお礼

 《絶対》について 《有説・無説・無記説》の三つがあるという自説を唱え続けることになっても 仕方がないので この点にかんしても あらかじめ 補います。

 有とも無とも想定せず 考えない・議論せずという立ち場は 成り立ちません。
 なぜならば 有限や相対を超えたところというのは 全体として ひとつしか あり得ないからです。また それを 想定しないというのは 無限や絶対という言葉を使わないということを意味します。したがって その社会性という観点から 成り立ちません。 
 ほかの人が使っているとき つまり 絶対や無限を 数学や哲学において使っているとき その言葉を たとえやむを得ず あなたが使ったという場合にも もし我れ関せずというのであれば 人びとから では あなたは どういう意味で いま 使ったのですか? と訊かれるでしょう。どうしても 答えなければなりません。
 ですから もし仮りに 第三の無記の立ち場を認めたとしても その立ち場と 一般の有か無かのいづれか一つの立ち場に立って 数学や哲学においては 使わなければならないでしょう。

 というよりも前に ただ一つの絶対という領域に対して 有か無かの立ち場を選択する場合と 我れ関せずという立ち場の選択とは 次元が違います。知らない・考えないという態度は 無説を選択したあとに もうどうでもよいと見なして採るそういう次元の態度です。次元あるいは想定にかんする手続きの段階が違います。
 涅槃が 絶対を基にしたその代理表現であるとすれば 誰もが そういう扱いをします。じゃあ 無説(無神論)なのですね?と確認します。 そうではなく 涅槃が ただの経験概念を想像において捉えたもの(つまり 憶測)だとすれば もう どうでもよい / 関心のある人だけが 追究したりすればよいという扱いになります。
 (それでも 無という絶対を 一たん 掲げたあとのことだなという理解を 一般は しますが)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2009/05/03 12:40

ぽこぺろぽ少尉であります。

大佐どの、それにしてもずいぶん憤慨なさっていますな。従来からのお考えに私の発言を受けてのことなのでしょうか?

 輪廻転生すなわちサンタクロース伝説ですぞ。大人になりたくない者の夢を、凡百の民のモラトリアムまでも奪う必要はありませんな。

 それにしても輪廻転生の教えは、どのような弊害をもたらすとお考えでしょうか?

 そのご発言は、場合によっては、軍法会議ものですぞ。愚民どもにはロマンをふんだんに与えるべきです。失礼ながら、下剋上、異義申し立てまで。
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この回答へのお礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 ですが そのご回答は 質問趣旨を無視したものと受け取らざるを得ません。

 おままごとやお医者さんごっこの世界を壊すなと言いたいのでしょうか? 

お礼日時:2009/05/03 12:03

愚の骨頂かどうかは、人それぞれbragelonneさんみたいに考えれば、まさにその通り。


しかし、考え様によっては、命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり又は、来世に苦しまないように、今の生き方を考えるそう言った考え方もあると思います。

輪廻転生説 が愚の骨頂であるかどうかは、その背景である思想や宗教的な事もきちんと理解する必要もあると思います。
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この回答へのお礼

 maimaisus さん ご回答をあありがとうございます。

 ですが ご回答内容は 支離滅裂であるようですね。
 ★ (α) 愚の骨頂かどうかは、人それぞれbragelonneさんみたいに考えれば、まさにその通り。
 ☆ と そして
 ★ (β) しかし、考え様によっては、命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり又は、来世に苦しまないように、今の生き方を考えるそう言った考え方もあると思います。
 ☆ とは 互いに 矛盾しています。その論理は 分かりますか? 最初の(α)の論理に《その通り》だと判断なさったのなら その論理が (β)とは 合わないということは ご理解なさると思うのですが どうでしょう?

 ★ 輪廻転生説 が愚の骨頂であるかどうかは、その背景である思想や宗教的な事もきちんと理解する必要もあると思います。
 ☆ すべて考慮に容れて 判断をした結果を 問うています。
 あなたは 分からないのに そういう指摘はすべきではないでしょう。
 こんど 第二投稿を受けても その理由を明らかにしていなかったり 最初の矛盾の問題について 何も説明し得ていなかったりすれば もう 取り上げません。

お礼日時:2009/05/03 10:20

私は、人類というか人間に共通する感性や心情があるとすれば、特に時代が異なる場合一種の転生と考えることはそれほど外れてもいないし悪いことでもないと思います。

もちろんこれは生まれ変わりとは違うと思いますが、それでもどこか似ているようにも思います。
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この回答へのお礼

 kaitara1 さん ご回答をありがとうございます。

 ですが 回答内容として どう捉えるべきものであるか 分かりかねています。
 思考停止 内省の放棄であるようにお見受けします。
 小学生の作文や感想文を求めているのではありませんので。

 投稿受付の拒否と どこか似ているお礼になるようにも思います。

お礼日時:2009/05/03 10:12

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