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 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。

 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。

 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。

 真実をおしえてください。

A 回答 (114件中61~70件)

またまたオコリザルです。


嫌われ者になるのは損なので輪廻を信じる方へのリップサービスです。
A56で繰り返し表現した「たぶんそうではないでしょう」コレをすべてが無といいながらも「ある」としているのが末法の世のお釈迦様です。
私自身もいろいろ考えてみて何らかの形で「ある」んじゃないかとも考えます。まだこの考え方が煩悩の排泄なのかどうかはわかりません。
ココで説明できるのは、お釈迦様の説明した「無」が生き生きと体感できる無でありソレは現代語では通常「愛」とあらわされる心情であるということです。
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この回答へのお礼

 同じく続けてになります。

 ★ お釈迦様の説明した「無」
 ☆ これが 説明がないので 弱いと思いました。さらに
 ★ 愛
 ☆ にまで持っていくには 弱いのではないでしょうか。わたしには 理解し得ません。

 たぶん こういうことは考えられるでしょう。
 すなわち いまの人生をあたかもすべてご破算にして ただし 自分ということをあらためて 捉えてみる。考えなおしてみる。
 そのときに 仮りに 前世だとか来世だとかに 自分という存在をおいてみる。そこで 自分の思い・考え・こころざし・あるいは卑近なものとして いわゆるゆめ これらは どうか。
 つまり これも 一種の 自分という存在を特定した文学物語になります。しかも 自分で紡ぎます。そういう手段として 効果はあるかも知れません。

 ですから この効果的な手段になるからと言って その前世があるとか ないとか それは 一向に 問題にならない。こう 基本的な考えについても 明らかにできるし しておけばよいでしょう。どないですか?

お礼日時:2009/05/06 08:50

オコリザルです。


A55はどうぞご自由にといわれたそのまんまですから、少し補足します。
bragelonneさんは私よりも早く生まれていますが、bragelonneさんが生きていて、そして私が生まれてもいない時代に、私が前世を満喫していたかといえば、わかりませんがたぶんそうではないでしょう。
反対に平均寿命のとおりにお互いが生きるとして私が生きて、bragelonneさんがこの世を去った時代にbragelonneさんが存命中の前世も満喫しているかといえば、わかりませんがそうではないでしょう。

でも後者のbragelonneさんがこの世を去った時代に、bragelonneさんとの思い出に遊ぶのは私です。
この辺が供養がどうのこうのでしょう。
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この回答へのお礼

 続けてになります。

 今回のお話も すべて 文学のお話です。
 哲学の問題ではありません。
 たのしそうでもありますが ここは 先を急ぐことにします。

お礼日時:2009/05/06 08:40

オコリザルです。


その辺から持ってきた輪廻転生説では歯が立たないでしょうが、論議がかみ合わないでbragelonneさん一人だけがブイブイいってるのも気の毒です。
改めて輪廻肯定説です。
A46の輪廻概念娯楽説はあくまでも出だしのA21.22の説明に基づいています。
記憶の整合性を保つために輪廻の概念を借用しているのですが、より単純に説明すると記憶の整理術のひとつが輪廻です。
幼かったころの安らぎを何らかの形で思い出すとしましょう。。
コレは大人には困難です。
幼いころの記憶を探っても普段は大人になった自らの心情しかわかりません。
でも同じ思い出が何かの拍子に童心を取り戻してありありと思い出せるとしましょう。
もうひとつ幼い時はつらい経験でも大人になった自分にはことの成り行きが理解できて許せるはずの思い出、当時はつらかったけど実はいい思い出のことです。
この記憶の引き出し方の三様はすべて自らの心の響きであるはづです。
ところが思い出すその瞬間には三様のうちいずれかひとつだけです。
取り残される二つの心情は今は自分自身ではないけれど、間違いなく自らの心情です。
このようにこの瞬間には経験しなかったけど疑うべくも無く自らである心情が記憶の中に閉じ込められる状態から発達する思い出の延長が前世なり来世なりの形です。

怪しげな心理学に前世治療なんてのがありますが、もし私なら病人を前に非科学的であるの一言でばっさり切ったりしません。そのような場合は心の傷が前世の因果だったりご先祖様のたたりだったりするでしょうが、せっかく明らかにできた心の傷は治療のチャンスです。「ああそうですか」と親身に答えて、しかる後に前世とされた記憶を経験と一致させるための悩み相談とします。
怪しくても医者の仕事ですから実質的にそのような成り行きです。
このように改める必要を前世に象徴されて吐露する場合は、我執とでも言うべき心情、自我のゆがみですね、ソレにより記憶に冷静でいられない心情が関与しているでしょう。
そういうわけで輪廻は聞いてあげられる話題です。
信仰する態度は私にははなっからわかりません。
bragelonneさんはそこを批判されているのですが、所詮人生にやり直しは聞かない点だけ説得すればいいのではないでしょうか。

話は変わりますが、信仰に根ざした輪廻といえば、私はビックバン起源説は科学の取り組みとしては評価しますが信用していません。宇宙には終わりも始まりもないであろうと、なんとなく感じています。そのような宇宙にこの自らの肉体を構成する元素ははるかかつてはガスかなんかだったかも知れませんが、始まりも終わりもない永遠の宇宙に常に存在していたでしょう。そうすると死後もまた形が変わるだけです。私は霊体と格闘したので霊魂も信じていませんし、仏教的にたとえるなら死後に入滅どころか今すぐ入滅したいです。ですから人魂のような死後は想像できません。そのように踏まえたうえで、何らかの謎ということになりますが死後はあるでしょう。そういう信仰の領域の考え方をします。
しっかし、今すぐ入滅したいとは確かに縁起でもないと言いますか仏教の閉塞がわかる表現ですね。

この回答への補足

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 primeape さん ここは わたしは 悪者になりましょう。
 今回の primeape さんの考えや対処の仕方は 一般には きわめて常識的で温厚なものと受け取られると考えます。
 次の一点において なまぬるいと考えます。ただし すでに何度もお断わりしてきたように これは この質問からは逸れている問題です。関連させて扱います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 このように改める必要を前世に象徴されて吐露する場合は、我執とでも言うべき心情、自我のゆがみですね、ソレにより記憶に冷静でいられない心情が関与しているでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いまの悩みを フロイトの精神分析ではありませんが 自分の過去にさかのぼって 原因をさぐりつつ 解決しようとする。そのことと  自分の生まれる前の時間を想像することとは まったく 意味が 別です。解決のあり方が 別です。
 むろん 基本的には ご自由にと言って 放っておくのですが どう考えているかと言えば そのような後者の場合つまり 前世にあたかも遡るというのは 意味のないことだと思っています。なぜなら 分かるわけがないからです。仮りに分かって 悩みも解決したとしましょう。だとしても その解決は 一時的なおよそ錯覚だと言ったほうがいいでしょう。ふたたび同じ悩みを繰り返すと思われるからです。
 
 ですから 問題は 輪廻転生という文学作品があることが 原因なのです。それに 頼ろうとするからです。藁をもつかもうとしても いいのですが いいのですから しかも それは 《溺れる者は》という条件をつけて ことわざとなっているということです。
 輪廻転生説は 愚の骨頂であると哲学理論は言っているという条件を いちど つけておけば 人びとは 正気を失うことはないでしょう。
 そういう問題です。そのことをのみ ここでは 扱っています。お分かりいただけたでしょうか?

 ★ 死後
 ☆ は 《絶対》の領域ではありません。よって 信仰の対象にはなりません。経験思考ないし想像の対象であり その産物です。文学とその趣味の問題です。
 つまり こう言って わたしは 死後がないとか あるとか 言っているのではありません。ご想像は ご自由にと言っているだけです。わたしは 別段 考えません。考えるのは 自分の仕事を最後までやり遂げて死にたい・志の半ばでたおれるのは嫌だということのみです。
 死後も前世も 信仰とは 無縁です。いわゆる宗教は 何も知らずに 説いたりするようですね。

補足日時:2009/05/06 08:35
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こんにちは、座頭山です。



>おかしなご投稿もあるものですね。
> ご自分の見解を 最後までは 明らかにしないということでしょうか?

いや、述べていたつもりだったんですが、、、。

>>こんにちは、僕は死後の世界に興味はないのですが、

と初めに断わっておきました。

<わたしは こころは へんとは捉えません。自分のへそ曲がりによって 変にしている部分はある。そう心得ています。>

すいません、漢字を使わなかったから、、、誤解させてしまいましたね。

心より心を得んと心得て 心にまよふ心成けり

僕的には、輪廻転生をあると考えるのも、無いと考えるのも、結局は自身の妄執であると考えます。
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この回答へのお礼

 座頭山さん ご回答をありがとうございます。

 ですが 次のご見解であれば 質問趣旨に賛同するというご回答ぢゃないですか。
 ★ 僕的には、輪廻転生をあると考えるのも、無いと考えるのも、結局は自身の妄執であると考えます。
 ☆ これゆえに 輪廻転生の説は 哲学が ひとつの主題として扱うには ふさわしくない。こういう問いなのですから。
 そして 質問者としては 理由その一からその四までの内容を さらに 精緻なもの・より妥当なものとし 広範囲な哲学課題のための指針としておくことは 重要だと考えるのです。
 いい考えがあれば さらに おしえてください。

お礼日時:2009/05/05 14:37

個人でどう考えようが、他者にその考えを強制しないかぎりご自由に。


bragelonneさんは、輪廻転生説は愚の骨頂と思っている。他のだれかは輪廻転生説を信じている。それでいいのでは?

よって、論理展開の穴だけの指摘とします。

最大の矛盾:輪廻転生の欠点を挙げているが、あくまで欠点であり自己矛盾などではない。
 このため、欠点の大きさは、対比する説の欠点の大きさで決まるところ、
 他説と欠点を比べていない。(というより、対比説はいったい何なの?)
 よって、輪廻転生説は欠点があるかダメ、というのでは、ありとあらゆる説がダメといっているのに等しいので意味をなさない。

>理由その四
大きな穴があります。
 1.表現行為の自由が与えらない国民(非民主主義の国民)
あるいは、
 2.民主主義の現状においては現行為の自由が達成されていないと考える者
にとっては、輪廻転生は有効であるという論理になっているにもかかわらず輪廻転生を考えることを否定している。
よって、1.2.のような者が一人もいない場合(orごくごく少数)に限り成立する論理である。

>理由その三
輪廻転生説を(科学的に)反証不能とするためには、
輪廻転生したら、前世のことは全て忘れてしまう。また、前世についての情報が外部(逆行催眠、etc)から与えられることは無い。
という条件が不可欠です。(でないと、反証可能となってしまう。)
したがって、この条件の下では
「今やれるだけのことをやっておくのが筋」という考えは自然であるため理由3は理由になりません。
え?
>やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。
そういう考えもあるかも。(それ以外の考えが無いとは書かれていない)でも、輪廻転生は、そういう考えが全てではないのに、
それを否定しただけで輪廻転生を否定することは、部分否定を全体に適用することになるから、論理的に成立しません。

理由その1 理由その2
これって、理由なの? どうみても、理由その3その4のための前提条件(or用語定義)にしかみえません。
「日本語は論理表現~」というスレを以前立てましたよね?
正しい論理表現とは、理由は理由、前提は前提と書くしかないと思うが。
こういう書き方は、遠慮なく「非論理文章」の烙印を押されます。
※非論理文章の定義を、欧米にあわせ「読んだ範囲で読んだ範囲のことがわかる文章」と定義します。

この回答への補足

 masa2211 さん ご回答をありがとうございます。

 まづ 質問の前提についてですね。
 ★ 個人でどう考えようが、他者にその考えを強制しないかぎりご自由に。
 ☆ 当たり前です。どうして 《強制》という言葉が出てくるのかが 分からない。むろん その心理としては 分かります。この質問趣旨を読むと 強烈な印象を残して 考えさせられるからでしょう。文章が書かれているからと言って どうして 《強制》と思うのでしょう? よほど 他者への従属性・隷属感が 日常のこととして おおきいのでしょう。そのことと この質問とは まったく関係ありません。それとも わたしが あなたの上司なのですか?
 ですから じゅうぶん 落ち着いて考えるようにしてください。
 ★ bragelonneさんは、輪廻転生説は愚の骨頂と思っている。他のだれかは輪廻転生説を信じている。それでいいのでは?
 ☆ これは 表現が間違っています。わたしは 輪廻転生説は 哲学の主題にはなり得ないと言って この哲学カテゴリで 質問されることはおかしいのではないかと問うています。そのための愚の骨頂という表現です。
 ★ 他のだれかは輪廻転生説を信じている。
 ☆ これについても 認識が間違っています。輪廻転生は 経験的な出来事ですから 信じるの対象にはなりません。しかも 経験思想のための理論としては その一部分に まったく 不合理な内容がある。(最後に示しています)。ゆえに 哲学ではなく 表現の問題としての文学に属するという事由説明にもなります。

 ★ 対比説はいったい何なの?
 ☆ 意味が分からない。そんなものは必要なのですか?

 ★ 理由その四にかんすること
 ☆ これは 背景説明によって 事由もしくは理由としているものです。同時に きわめて粗削りの歴史的な展望を提出して たたき台にしてもらおうという意図のもとにあります。でも 大筋で 当たっているのではないかと考えています。ですが あくまで 質問です。知識や情報の交換のための設問です。

 ★ 理由その三にかんすること
 ☆ 一部の説についても 反論しておくことは とうぜんのことです。その部分は その部分として 双方にとって 明らかになるでしょう。何も おかしなことはありません。

 ★ 理由その一にかんすること
 ☆ 哲学の主題にはならないことの理由ですから よくご承知おきのほどを。

 ★ 理由その二にかんすること
 ☆ 上のその一と同じことが言えますが それ以上に この理由は 重要です。《自業自得》を 理論として捉えるなら その内容じたいで 自爆するようなものです。もしくは いっさいのものごとに関して もう自業自得として捉えるなら 何ら考えることをしないということになります。あるいは 互いに相手に対して いっさい 何も言えないという意味です。
 一挙手一投足が 過去の業(行為)の結果であり そのことにまったく間違いないのだとすれば 何を考えても すべては 過去の自業の結果なのです。その考えで 行為をすれば その行為の及ぶ相手に対する影響から何から すべてが 相手にとっても やはり自分のほうの自業自得だということなのです。
 思考停止せよという命令を発しているようなものです。輪廻転生の理論がです。
 ですから 理論としては 輪廻転生説は 哲学にとって お話にならないのです。それを問うています。どうですか。

補足日時:2009/05/05 14:28
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bragelonne様、こんにちは。



>〔西川直子(1942~ ) in 《〈白〉の回帰 Le blanc revient――愛/テクスト/女性――》

に関しまして、わたくしも是非ふれてみたくなりました。
教えて下さってありがとうございます!

くどいようですが、わたくし自身は今なお「輪廻転生説は愚の骨頂」のスタンスに何ら変わりはありません。
ですが、この質問に対するわたくしの最後の回答として「輪廻転生説は愚の骨頂でない」の主張をあえてしていみたいと思います。

「輪廻転生説」自体には何ら「哲学として」命題に値するものがない、としても、です。

たとえば、ヘラクレイトスの「万物は流転する」、ニーチェの文学『ツァラトゥストラはこう語った』における「永劫回帰」という考えがあります。
これらはかつて哲学の思想として対話の命題とみなされていたことがある、つまり、哲学の命題として「ふさわしくない」とまで捉えられていなかったとします。

これらの二つの考えは異なるものの「繰り返し」を意味する上で共通点があります。
また同様に、この質問における命題「輪廻転生説」もまた、「一人の人間が生まれ変わるという繰り返しを説く考え」とみなすことができるならば、上の二つの考えと同様「繰り返し」を説く考えとして同類項と捉えることが出来ます。

であるならば、このたびの「輪廻転生」という考えもまた、哲学の命題となり得るのではないか、
もしくは命題として成立する可能性までも決して除外し得ないのではないか、と主張できると思うのですが。

的を得ない回答に情けはまったく御無用です♪

この回答への補足

 mashumaro2 さん こんにちは。どなたも皆 すごいですね。日曜日の朝からですから 二日間で 五十件になろうとしています。おかげさまで 疲れは出ないのですが 多少いつもより鈍くなっているとすれば そこのところは 大目に見ていただいて・・・。ご回答をありがとうございます。

 ▲ (ヰキぺ:ヘラクレイトス)~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9% …
 ○ 「同じ河に二度入ることはできない」などの表現にその意味合いが含まれていると思われる(疑義もある)。
 ○ 互いに異なるものからもっとも美しいものが生じる。万物は争いより生じる。(断片8)
 ○ また、ヘーゲルなどの思想の源流として、弁証法の始まりを担う人としても考えられている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という意味に 《万物は流転する》を わたしとしては 解そうかと思ったのですが どうでしょう? むしろ《日々新た》ではないかと。

 ▲ (ヰキぺ:永劫回帰) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB% …
 ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは かなり詳しい説明があります。それを要らないという意味ではありませんが この結語のような見方を わたしは 取り上げます。つまり 文学の領域におさまるのではないかですね。《永劫回帰》がです。
 そうでなく 哲学の主題になるとすれば 《超人》の概念ないし思想を きちんと 哲学にふさわしく規定した上でないと だめのように考えます。(ここは あの学者野郎に登場して欲しいところですが どこへ行ったやら。でも あちらの場に現われましたね。月光仮面ぢゃあるまいに 疾風のように去っていっちゃぁ・・・)。
 で 早合点としましては ヘラクレイトスは 上に解釈したごとく 輪廻転生とは 筋が違うようだと思います。ニーチェにかんしましては 《哲学の主題になるかどうかが話題になること》と 《哲学の主題にふさわしいものであること》とは やはり 別だと 勇んで(つまり 勇み足の可能性を含んで) 思いました。

 ★ 「一人の人間が生まれ変わるという繰り返しを説く考え」
 ☆ これだけでは おそらく 思想でもないのではないでしょうか。ちょうど 《歴史は繰り返す》という質問がありましたが わたしの考えでは やはり ものごとは 《一回性》の出来事であり 人間は その存在が おのおの《わたし》として 唯一性を有すると思います。繰り返すのは 似たようなことが起こると解します。
 ただし この生まれ変わりとその繰り返しという考えが これもやはり因果応報の論理を伴なってくると 或る程度は 理論の様相を見せて来ます。基本的には 今日よりも明日 そして 未来へという――その意味では 《日々新た》として解釈したヘラクレイトスに似ていますが――生きることへの積極性をうたったものだとは思うのです。
 ところが 理論というものは その一角が崩れると もう 全体が だめになると考えられます。消極性もしくは 悪の側面(つまり悪因悪果)では どうしようもなく おかしな結論を導いてしまいます。《日々しぼむ》というように 気が向かいます。ちょっと うまく行かないときには まだ わたしには 過去世の悪業があったのかというあきれ返りに導かれます。うまく行った人を見れば ほんとうに善業を積んだ結果として 幸運なのだろうかと いぶかしみます。
 したがって 過去世が 無いという否定説によって 輪廻転生説をしりぞけるのではなく 哲学理論としては 決められない。ゆえに 主題として取り扱わないと きちんと おさえておくのがよいと考えます。そのあとは たしかに ひとの自由です。哲学の知ったことではないというわけです。

 煮詰まってきましたでしょうか。質問者のわたしも です。わたしは どうも えらそうにと言いますか 悠々と構えて応答しているように見えるかも知れませんが このように みなさんのおかげで 煮詰まってきているわけです。同じことの繰り返しをお礼として述べている場合もありますけれどね。これは これこそが 輪廻派の真骨頂なのでしょうか。おあとが よろしいようで。

補足日時:2009/05/05 11:26
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maimai.susです。


 
>☆ この見解の内容と根拠を しっかりと述べるのが 回答というものだ。
の話ですけど、問題点やを回答するときにむやみに話の軸をずらさずになおかつそう思われないように話す為に( )を使って補足させて頂きました。
なので、( )の内容はべつの問題であり、主としている内容はべつの処にある訳です。
一応、「仮に」で伏線をしいて話してますけど、いつもそう言った伏線だけでは目に入らない様なので( )の内容付て、だめ押ししただけです。
そうしないと、何時のパターンで、「理由二の内容認めたのにそれに反論するのは、理論的ではない」みたいな変な決め付けされて言われそうな気がしたので。

なので、ただ、そこを説明しろととか、説明がない事に文句付けられても・・・ネ。

理由二では、理由二の全体の、理由三では、分解して、と言うよに少し角度を変えての例えとしての回答です。

文章力なくてすいません。
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この回答へのお礼

 ★ 考え様によっては、命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり又は、来世に苦しまないように、今の生き方を考えるそう言った考え方もあると思います。
 ☆ これは 事後の処理の問題です。一たん 殺人行為があったとすれば その一つの行為は 加害者・被害者ともに それぞれ 自業自得であるという結論がみちびかれるはづです。
 このことに考慮を及ばせずに 回答を寄せることは 質問じたいを軽視することにつながります。

 ★ よい部分を取り入れ、他の部分は省けばいいだけの事ですから、そこがダメなら他も全てダメと考えるのは、了見の狭い人間、人の意見を取り入れようとする意志のない人間の考え方だと思いますよ。
 ★ 物事を正しく認識しようと思えば、台無しにしてしまうからと言ってそれらを考慮しないのは、bragelonneさんのよく言う「大切な少数意見」を無視する結果になりうるからです。
 ☆ これらいづれも 論理に破たんをきたしています。部分的に摂り入れることなど 出来ないのです。
 もし良いところだけを摂取して 考え方として用いるとすれば それは すでに 《輪廻転生》の説ではなくなっていると見るべきなのです。ただ《命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり・・・》という部分だけの問題だという意味です。
 お断りとして この考えは 輪廻転生説から取り入れましたと言っておけば いいという話です。
 よって 
 ○ 輪廻転生説は 哲学にとって 扱うに足る主題ではない。
 ☆ となるのではないか。こういう問いです。はじめから そう言っています。聞く耳ありやなしやの問題だと申しあげているとおりです。

お礼日時:2009/05/05 10:10

<<★ 「無記説」はないのでしょうか?☆ 絶対という想定について 絶対ではない世界つまり経験世界において この絶対を 仮りにでも人間の言葉で表わそうとするなら その存在に関してなら 《ある》か《ない》かいづれか一方です。

それ以外にありません。想定すること自体がいやだと言う人でも 相対を超えた世界のこの想定じたいは 認めざるを得ません。《無限は その半分も あるいは 三分の一も やはり 無限である》 こういう絶対の世界の想定です。これを神と言いかえて ある派とない派とに二分されるという寸法です。>>

「想定」をきっちり出来た人に限定された話なのですよね?
同じようなことを繰り返しますが「あいぎゃph」「kぉgf」「あっかk」「ウサギの角」「ペガサスの三本目の肋骨w」を内容も意味もきちんと想定した人にとって「ある」「ない」に分類されるされる。

想定自体が出来ない人は「??そもそも証拠となるようなデータあるの?何の話??(あなたの言う思考停止かな)」となるでしょう。

決めてから進める人と、データから論の可能性を見出す人。

「絶対を 仮りにでも人間の言葉で表わそうとする」という決めること(想定)をした人においてはある派ない派に二分されるでしょう。
 
<<そのように あり得ない第三の立ち場としての《無記》説を 自分は とると言っておきながら 無神論とは★ 異なってますか?☆ は ないでしょう。とぼけるのも いい加減にするべきです。 ★ 長老の言葉に特に異論はないですよ ☆ だったら 《無記》ではなくて 《神は存在しない》派であると はっきり言うべきです。>>

今回の回答では今の私の見解に中から思うところを書いています。
今の私の見解が「無記」であるとは言っていませんね。日本語として。

「神」の定義が「無常で不完全で変化生滅するもの」で無いのであれば「無神論」、つまり「そんなんありえんでしょう?」「変化しないならあったとしても、まったく関わりは持ち得ないでしょう?影響を与えること、与えられることが成り立たないでしょうからねぇ。」とは思っています。

「創造論」は成り立たないでしょうとも思ってます。

神の定義が「単なる生命」というなら別いてもおかしく無いのでは?ぐらいな態度です。

<<回答にかんしては けっきょく どういう回答なのでしょうか? 答えは 何なのでしょう? 分からないので お応えのしようがないようです。>>

今回の回答には答えてますが全部スルーですねw
輪廻に対する質問ですよね・・確か?

繰り返しになりますがw
bragelonneさま。
真実は知りませんが思ったところを書いてみますね。

輪廻転生も宗教によってだいぶ意味も内容も違いますし、因果応報・業についても宗教によってまったく意味合いが違いますね。

僕の理解する論は「業」は「意思」で、
現象は多因多果で「業」ひと括りでかいせつできるとはなってないですね。

現象に対し、どのように感じるか、どうしようとするかの幅が決まってしまうことを「業」の果というのだと理解してます。

そして死後が無いなら、「結果が出ない」ということになっていかなる道徳も崩れ落ちると。前世が無いなら「原因が無い」となって「原因なき偶然発生する」ことになり「因果関係」が否定されいかなる道徳も崩れると。

やり直しはきかない。今は今しかない。
二度と同じ現象は無いのだから。

生まれ変わることを念頭に置くなら、今やれるだけの善をなすことをしておくのが 筋というものである。

怠け・悪行為をなすならその業をもって悪果を受けるのだから。

安易な逃げ・怠けの考え方としていかなる言葉を持っても 持った途端に 精進と能力が 減退する。それゆえに 精神をめぐる病いがやむことが無い。

このように感じます。

そしてゴータマシッダールタお釈迦様は人が「今」幸福になるために精進しないで怠ける道を全て塞いでいると思います。いかなる怠けも正当化できるようには語っていないです。

教えの一部だけを切り取り、部分をもちはこび「理解ししたつもり」になり、失敗する。そのようなことを蛇の尻尾を持つようなこととおっしゃっていた気がします。猛毒の蛇の尾をつまめば痛い目にあうが、頭を掴めば安心だとw<中部22蛇喩経>そのような理解したつもりな人を「無知」意外に称することが出来るだろうかと。

<<《仏性》ということを言わなかったのだとしたら そうなのでしょうね。>>

仏性は最近の論でしょうw
2500年前には無かったでしょう。

<<あとで ゴータマ・ブッダと仰ぐ人びとのあいだから ブッダの説として この仏性が 言われ出したのでしょう。>>

ですね。

<<あまりにも ひとを見くびっていたからです。おまえは なにさまだ?!>>

何を根拠に、どのようなデータを基に語っているのですか?
少なくともパーリ語の仏典にそのようにお釈迦様を言えるようなデータはないように感じますが…どのデータを基に貴方の見解が出たのでしょう?

何を根拠にどの経典をどのように貴方が読み取ったからこのような見解になったと教えてくださると幸いです。

祖師宗教からなる日本大乗仏教どの祖師の語るどの経典を誰が読み解いたものに貴方がそのような見解に至ると感じるデータがあったのか、漢文の仏典・サンスクリット語の仏典・パーリ語の仏典のなかからどのような経典のどのような言葉によって貴方がどのように読み取ってそのような見解に至ったのか、そこを教えていただけると幸いですし、ここまで非難することを言うならそれをなすのが理性的な人として当然のことともいえましょう。

「なんとなくだ」というのも一つの答えでしょう。
理性的な方のなすことではないとは思いますが。。。

<<それは いちいち 過去世に 今の不運の原因を求める必要などないことを表わしていないか。未来世に生まれ変わったあかつきには必ず悲願を達成するのだなどと うどんが伸びてしまうようなことを言わずに いま不運の中にも 知恵と力を尽くして すべきことをやればいいではないか。>>

お釈迦様は「今」幸福になる言葉・行為・意思を不放逸になすことこそ推奨なされていますよw徹底的にwもちろん「今」だけ幸福で中長期的に不幸になる行為は無知な行為としますね。



業・輪廻に関しては多種多様な宗教が多種多様な論を出しています。それをごっちゃ交ぜにして、お釈迦様の論とするのは理性のある人のなすことではないでしょうね(貴方がしているとは言ってませんよw)。

~生きとし生けるものが幸福でありますように~

この回答への補足

 ★ 「想定」をきっちり出来た人に限定された話なのですよね?
 ☆ 何をふざけたことを言っているのですか。 次の文章の中の《絶対》という概念をめぐって 共通認識を得ておかなければ 話にならないという問題です。
 スマナサーラ見解と違っていれば 自分の見解を明らかにするのが 対話というものです。ひとをなめてはいけません。まじめに回答をよせるのが ひとの道です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▲ 絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。
 ▲ Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。
 ▲  仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの見解は すでに 何度も述べています。あなたが 議論をすり替え続けているだけです。よく胸に手をあてて考えるとよいでしょう。
 ★ 今の私の見解が「無記」であるとは言っていませんね。日本語として。
 ☆ では 次のように言ったのは なにゆえか。
 ★★ 「無記説」はないのでしょうか?

 ☆ 《絶対》の概念を知らずしては 《輪廻転生》説が 《絶対》にかかわる人間の存在のあり方としての《信仰》ではあり得ないということが分からないだろうと思ってのことです。
 あなたは もう何度もやり取りをしていますが 一向に この《絶対》が分からないようです。
 それが証拠に 今回でも 《無限》は いわゆる《継起無限》のことしか あたまになかったことにあります。1,2,3・・・と続いて 限りないさまは 一という経験的な概念(つまり 人間がそれを表象しうる)であるからには 相対世界にとどまるものです。
 この経験的で相対的な世界を超えたところに想定されるのが 絶対です。それが分かっていなければ 今回の質問をめぐって 応答をするのは 究極的には むつかしいでしょう。究極でないところで むろん 回答を寄せてもらってもいますが あなたとは この前提となる《絶対》の議論で 中断しているのですから これを片づけてからになるのは とうぜんなのです。いったい 何度同じことを繰り返せば 話が通じるのでしょう?

 ★ そして死後が無いなら、「結果が出ない」ということになっていかなる道徳も崩れ落ちると。
 ☆ これは いったい どういう意味ですか? 一生かかっても 解決しない場合はあります。ただそのことだけを捉えて すべて 《死後につづいて 結果を出すことになる》という論理に決まるというのですか?
 たとえ《死後》のことが分からなくても ひとは 生きているうちに 一生懸命に 努力をするのであり 勤勉です。どうして 《死後が無く 未解決の課題が残されるからと言って 道徳が崩れ落ちる》のですか? ただ そういうふうにしか考えられなくなっているあなただけの問題ではないのですか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  <<あとで ゴータマ・ブッダと仰ぐ人びとのあいだから ブッダの説として この仏性が 言われ出したのでしょう。>>

 ですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ だから ゴータマは 人間を侮辱したと言ったのです。地獄だ餓鬼だ せいぜいが 人間そして有頂天の天界までだと言って(つまり 大部分の人びとに対しては そう言って) 見くびったのではないかという問いかけです。
 お釈迦さん そりゃ いくら何でも ひどいやないですか?と言って 人びとのほうから わたしたち人間には 《仏性》というとうとい境涯の生命力が だれにも例外なく ありますよと告発したのではないですか? むろん かれらは 慈悲深いから 《目覚めた人》には 失礼ながらと言って 最大の敬意を払って言ったはづですよ。わたしの言い方で かれらをも悪者にしていたら それは あんじょう わたしの意のほうを汲んでください。

 このあたりで じゅうぶんだと考えます。

補足日時:2009/05/05 11:07
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オコリザルです。


A40に賛同いただきましたので続けます。

それから、テレビドラマなんかにのめりこんでその主人公に感情移入したとしましょう。その場では主人公そのものでも一晩寝ておきればその感情移入した経験はいわば前世の物語です。

この感情移入した経験は、自らが別人格となり違う経験をした記憶として残りますから、整合性を取るために前世に分類されます。

テレビの何とか殺人事件なんかのドラマで応援していた役者がいきなり殺されたとしましょう。小さな臨死体験です。戦争映画やガンダムなんかも同様です。
輪廻の概念はこのように老若男女を問わず遊びなり娯楽なりとして楽しんでおり、宗教として楽しむ場合は人生全体に広げて舞台設定を大きくしているだけです。

真剣に論議していると思わないで眺めていればいいだけで、わざわざ批判や攻撃をするのもいかがなものかと。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 primeape さん 今回の続編は 質問の趣旨を逸脱しています。残念ながら そういうことは問うていません。

 ★ 真剣に論議していると思わないで眺めていればいいだけで、わざわざ批判や攻撃をするのもいかがなものかと。
 ☆ この箇所だけが 回答となっていますが すでに この点は この質問全体としてなら 何度となく 繰り返し わたしは 返答して来ております。
 今回は いわば 輪廻転生を 縦の時間軸においてではなく 横の関係において同時代の人びととしてのように(過去の人物であっても いま生きているひととしてのように) いろんな人として 自分も 生きてみるという疑似体験を例に挙げておられます。想像裡での輪廻転生ですね。
 ですが それを 理論として捉えないのであれば この質問では あつかっておりません。どうぞご自由にという意味です。

お礼日時:2009/05/05 07:22

輪廻転生の肯定の証明することもできないし、否定の証明もできない。


質問者は、否定という固定観念を前提にして始めから最後まで論じているので、話す前提を欠く。
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この回答へのお礼

 ringox さん ご回答をありがとうございます。

 ううーん。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 輪廻転生の肯定の証明することもできないし、否定の証明もできない。
 質問者は、否定という固定観念を前提にして始めから最後まで論じているので、話す前提を欠く。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 第一文と第二文とが どのようにつながるのか 分かりかねています。つながっていないですね。

 ★ 否定という固定観念を前提にして
 ☆ まづ わたしは 《輪廻転生説は 哲学の主題として 適当ではない》という《否定》をしていますが これが なんで 《固定観念》になるのですか?
 輪廻転生をひとが 現実において どう思うか つまり 否定しようが否定しまいが 肯定しようが わたしは 一向に 問題にしていません。哲学は哲学で 考えておくことがあると言っているのみです。
 これが きわめて 衝撃を与えているので 《固定観念》だと見たのですかね? あまりにも子どもじみた見解ですね。

 ★ 始めから最後まで論じている
 ☆ 当たり前です。そうでないほうが おかしい。
 ★ ので、話す前提を欠く。
 ☆ いったい どういう論理なのですか。錯乱するのは 自由だが ひとに迷惑をかけるのは 自由ではない。わきまえるようにしなさい。どうでしょう。

お礼日時:2009/05/05 06:35
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