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 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。

 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。

 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。

 真実をおしえてください。

A 回答 (114件中21~30件)

maimai.susです。



No.93の話に限っていえば。
論評も何も、質問の理由二についての因果応報に対する認識に対しての指摘理由の説明の一部ですよね。

bragelonneさんは、理由二が因果応報説の内容だと、認識している訳ですよね。

でもjugemjugemさんは、こういう考え方が正しい受け取り方だよ。そこを踏まえてからって言っている訳です。
それは、因果応報が、哲学として取り上げるには、値しない主題どうかは、その後の話ですよね。
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この回答へのお礼

 遅いから No.93に わたしの論評を記しました。

お礼日時:2009/05/12 14:39

maimai.susです。



>みんな敵でいいんだよ。

んーん、確かにみんな敵でも良いですけどね。
だけど何かをしようと考えるなら、みんな味方の方がいいよね。

ってか、そんな話してないし。
偏食の子供みたいな事、言われてもネ。
何度も言ってますが、僕、敵じゃあないし、そんな事は、考えていません。


それに、輪廻転生、因果応報、カルマ、法則的な側面を重視すれば、形や正・誤、有る無いは別として、非常に興味深く、哲学が取り上げるには、値しない主題とは言い切れないと思いますがね。
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この回答へのお礼

     
     
     

お礼日時:2009/05/12 12:19

一口に「輪廻転生」といっても、その強度と概念が、個々によって異なっています。


概念的には
1.一つの魂から一つの魂へ
2.複数の魂から一つの魂へ
3.一つの魂から複数の魂へ
4.複数の魂から複数の魂へ
です。
これは、たとえば、複数の細胞、複数の器官、複数の脳機能コラムから構成される「わたし」という人間の物質的側面から類推するだけでも浮かんでくる概念です。
因果応報・因縁にしても、
1.個から個へ
2.個から全体へ
3.全体から個へ
4.全体から全体へ
といった概念があり得ます。
これら概念の相違は、着目する「もの」にて変化し得ますし、状況によって左右され得ます。
bragelonne様は、輪廻転生については「1」を、因果応報については「1」を中心概念として捉えておられるように思っておりますが、いかがでしょうか?
私の回答は、上記すべてのパターンを含めて考えております。
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この回答へのお礼

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。

 ですが ますます 奇奇怪怪なご議論になってきましたね。言いかえると 文学物語ですね。スピリチュアルとも言うのでしょう。

 ▲ (ヰキぺ:転生) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E7%94%9F

 転生(てんせい, てんしょう)とは、
  死後に別の存在として生まれ変わること。
  肉体・記憶・人格などの同一性が保たれないことから復活と区別される。また一部の宗教では再生とも言われる。
  転生する前の生活のことを前世、転生した後の生活のことを来世と言う。
 輪廻のように
  人間は動物を含めた広い範囲で転生すると主張する説と、人間は人間にしか転生しないという説がある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに
 ▲ 肉体・記憶・人格などの同一性が保たれない
 ☆ と聞けば おっしゃるように 一個の人間存在であったわたしが 宇宙の存在やものごとに いかようにも 生まれ変わり得ると言っているように見えますが たぶん そうではないでしょう。
 《わたし》の《同一性が保たれない》という意味は 断絶しているということを言っているのではないですか? 断絶しているだけであって やはり わたしの生まれ変わりである。ということではないですか?

 それが証拠に 今世では 身分の賎しいカーストに生まれたが 来世では もっと上の身分に生まれ変わるのだと思い込むのが この思想まがいの説でしょう。
 そこに 因果応報説を組み込みこませば 今世では そのためにこそ 善行を積むのだと言うわけであろうからです。
 断絶しているだけであって 一個の超越的存在としての《わたし》なのです。

 また このように また おっしゃるように 《わたし》の生まれ変わりという部分のみを ここでは 問題にしています。そのほかは 三文小説ですから ご自由にと申し上げておきます。(ちなみに 物質が そのまま 残りつづけるというのは それとしての 経験事実であるでしょう)。

 あらためて 質問にお答えいただけるでしょうか。

お礼日時:2009/05/12 07:56

久々に横やりを入れます。



質問者さんの様な性格の方は人口の0.5~2.5%位いるのだそうです。

そう言う方達の特徴は:

・『完全に良いもの(自分を肯定するもの)』が自分の内面に投影され、『完全に悪いもの(自分を否定するもの)』が外部世界に投影されるので、『自分の信念や考えは絶対に正しい』という認知の歪みがある。

・自分の都合の良いように現実と他者を解釈するので、一般に、この性格の人は融通が効かず傲慢不遜な人物と見なされる傾向がある。

・自分の能力や信念の影響力を実際以上のものと錯覚して、傲慢不遜な態度を取り他者の価値の引き下げをしようとする。

・他者に理解することが困難な哲学を開示する孤高の思想家(多分これが一番質問者さんに合った形容かな)。

・頭ごなしに『あなたの考えていることや主張していることは間違っている』と糾弾すれば、この性格の人は敵意と反発を強めて相手を何とか論駁し逆襲しようとする。

・『理性的な思考・論理的な筋道・客観的な根拠』が通用しないことが多く、具体的な証拠をもとに丁寧に現実状況を説明しても、『理屈を並べて自分のことを陥れようとしている』という強い猜疑心を見せる。

・他者との人間関係では『現実社会の認知』を共有しないと円滑なコミュニケーションが成立しないので、この性格の人は『客観具体的な根拠』を挙げて自分の観念を打ち壊そうとする他者がいると、神経過敏に反応してその他者を攻撃しようとする。

・この性格の人が一番嫌って抵抗するのは『自分の意見に対する反対意見』であり『自尊心を傷つける侮辱的な言動』であり、他人が自分に批判的な態度を取ると、急に「名誉毀損だ!」などと捲し立てたりして、攻撃的で好戦的な対応に変わるという特徴がある。

以上。

このような性格な人に接する場合には、相手の攻撃や迫害に対して反撃しようと身構えている過度の緊張を和らげて、心身を共にリラックスさせて上げる必要がある。現実を正しく認識できない性格を適応的に変容させるためには、『信頼感』を高める共感的コミュニケーションを心がけながら、段階的にその人の考えている内容を批判的に検証していく必要がある。この性格の人は『親密さや信頼感』に対して非常に懐疑的であり否定的ですが、その人の考えている内容をある程度受け容れながら、『現実的で適応的な認知(考え方)とは何か?』という根本問題について一緒に粘り強く考えていくことが効果的なのだそうです。

回答者の中には、それを実行できている方も何人か居られるようでしたが、残念ながら、私はそのような訓練を受けておりませんので、ときどき茶々を入れるのが精一杯です。

未熟者の私故、質問者さんを誤解だらけ、間違いだらけの目で見ていることは重々承知しているのですが、そんな未熟者には、孤高な哲学者であられる質問さんがそのように見えているという事実は、どのような筋道のたった論理を開示して下さっても、否定の出来ない事実です。世間では私のような狂った見方をして誤解している者もいると言うことを知っていれば、質問さんの哲学がより力強い物になるかも知れないと言う老婆心と思って、こんな未熟者の意見も出来たら参考にして下さい。

私は議論に参加する気が在りませんので、またまた敵前逃亡と「お罵り」下さい。悪しからず。
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この回答へのお礼

 ★ 世間では私のような狂った見方をして誤解している者もいると言うことを知っていれば、質問さんの哲学がより力強い物になるかも知れないと言う老婆心と思って、こんな未熟者の意見も出来たら参考にして下さい。
 ☆ 残念ながら 相手にしていない。
 理由は 石ころと同じだから。相手にするも しないも ない。意志であれば いいのぢゃがのお。

お礼日時:2009/05/12 07:36

ぽこぺろぽであります。

ご無沙汰をしておりましたのは、二度目の蟄居を命じられたからであります。この兵隊やくざのぽこぺろぽは、輪廻転生を果たすべきか迷っております。

 さて、そうですね。命が幾つもあると考えることは慰めというよりは、堕落の要素が遥かに強いと考えるようになりました。こう申しますのも、私がそうして逃げ道を作ることで、自堕落な生活を送っているからです。

 死後にわれわれの魂がどこに行くかはわかりませんが、今生においてわれわれは多くの出会いを経験し、神を媒介してその経験を分かち合っているのかもしれません。私があなたに意識を寄せる時、あなたの意識が呼応したなら、あなたの人生を肯定することで、その思念において、あなたの人生をも生きることができるのかもしれません。

 そう考えたら、輪廻転生とは逃げでしょうね。私が輪廻転生にシンパシーを抱いておりましたのは、すべてを悟るには人生はあまりに短いと考えたからです。思えばすべてを悟る必要はありませんね。われわれは世界の一部、大いなる全体の部分にすぎないのですから。

 輪廻転生が努力の成果でもないかぎり、人心を堕落させ、克己心をそぐことになるやもしれませんね。哲学で取り上げるには、あまりに荒唐無稽なテーゼ?かもしれません。私の主体的意志決定に役立つものこそ哲学です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 筋が通っていますね。とおもいます。

 三つ目の段落――《わたし》が ひとの人生を生きるという表現 これは あいまいだと考えます。
 問題は 存在を愛し 欠陥を憎むことでしょうね。
 存在を愛し 思想や行動の欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえに存在を憎むべきではなく 存在ゆえに欠陥を愛すべきではないという命題です。
 存在は 特には 意志とその自由でしょうね。欠陥というのは 意志による自己表現・その現われた形態について 言うのだと思います。
 また 存在は 意識するしないにかかわらず 《いま・ここなる そのひと》のことです。
 直後のご投稿にかんして わたしは 石ころだと見なしていますが 存在は愛していますので そういう表現で 応答しています。
 さらにちなんで言えば 無視する以外に 存在を愛するすべがないと思われる自己表現もあると このところ 知って来ています。すべてのひとを納得させることは出来ないという仮説です。(たぶん 別のひとが 納得させることは ありうるでしょうかね)。

 さらに お互い 一歩をすすめられれば よいでしょうね。

お礼日時:2009/05/12 08:12

こんな簡単なことが理解できないようでは話にならない。


まだ理解できないということが本当に信じられない。本当に。。

↓もう1回書き直すので、頑張って読んでみて。

原因と結果、殺人するものとされるものを混同してはダメ。
行為=原因で、苦楽=結果です。
殺された人にとっては、苦であり、過去の悪業の報いを受けたのであり、
殺した人にとっては、殺人という悪業であり、将来その報いを受けることになる。

        過去     殺人     未来
殺された人:悪業―――苦
殺した人  :       悪業―――苦

この横線(―――)でつながる、っていうことが業報思想です。
ね?業と報いがつながっているでしょう?
過去とか未来は、一生のうちに収まるとは限らなくて、過去世や来世である可能性もある。

これなら分かるでしょう。
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この回答へのお礼

  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
         過去   殺人
 殺された人:悪業―――苦
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この部分だけをとっても きわめてえげつない思想であり 議論になっているのですよ。
 秋葉原で通り魔に殺された人びとも 地下鉄でサリンにやられた人びとも 広島も長崎も アウシュヴヰ゛ッツも すべて 殺された人びとは みな 例外なく 過去の悪業による結果として 自業自得なんだよと語っていることになりますよ。それでいいのですか。

お礼日時:2009/05/12 14:18

maimai.susです。



横やり入れてすいません。

jugemjugemさんの言っている事に、

>わざわざ 掲げるべきやり取りではなくなっています。

本当にそれでいいんですか?
もしそうであるならば、この質問の半分は無意味になってしまうと思いますよ。

質問の内容は、哲学が取り上げるには、値しない主題ではないでしょうか?を主としており、bragelonneさんは、その理由を4つ挙げていますが、そうであるならば、反対に哲学が取り上げるには、値すると考えると言う見方も、きちんと理解しないと、公平な判断にはならないのではないでしょうか。
今の状態は、その片方を、無視する方になると思います。

っつーか、聞く気も、理解する気も無いと言ってるようなものですよ。

そう言う姿勢では、賛同する人間より、傍観もしくは、無視する人間の方が圧倒的に多いと言う状態になり、あまり意味のない、狭い範囲での議論が続く事になると思います。
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この回答へのお礼

 みんな敵でいいんだよ。

お礼日時:2009/05/11 20:56

>  ☆ この問いに対する答えは どこにも見当たりません。


>  もし 拡大解釈をすれば 
>  ○ 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むという場合も ある。
>  ☆ こう言おうかなという姿勢が ちらほら 見えるのですが おそらく そうは言えないのでしょう。なぜなら
>  ★ 業報思想というのは、行為をなした場合にその結果を免れられないことを説いている。
>  ☆ のですから。

いや。違います。
ネタですか?本物ですか?

殺される、ということは悪業じゃありません。
行為の能動と受動の違いがあるでしょう?
この程度のことは子供でも分かるのに。
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この回答へのお礼

 ☆ みなさんへ ひとことです。
 質疑応答をつづけると言いましたが もはや 中身は はっきりしています。
 わざわざ 掲げるべきやり取りではなくなっています。
 今後は 取り上げるべき内容があれば それにこたえるかたちとします。

 ☆ OKWave さん このように 掲示に値しないと思われる内容によって スペースを取ってしまって その点 申し訳ありません。おわび申し上げます。

お礼日時:2009/05/11 16:23

そもそも、哲学的な思索に於いて正答を求めることは馬鹿げているといっていいでしょうね。


そういう意味では、「教えて!goo」のような場所に「哲学」カテゴリーが存在すること自体、矛盾を孕んでいるというべきだと思います。
私がかつて「知」を主体とする場から撤退したのも、哲学とは philosophia= philos(愛)+ sophia(知)で「知を愛する」という意味のため、「情」をも含めなければ成り立たないものだと思っているからです。

さらに言えば、gooの本カテゴリーに対する投稿規程には、

「■ご利用の皆様へ
哲学は、ひとつの答えに結びつくことの難しいテーマです。哲学という分野の知識に関する質問をご投稿いただけますようお願いいたします。
また、質問者と回答者、回答者同士での論争にならないよう、質問背景や質問意図、疑問点についてご説明を添えていただき、議論とならないようご配慮ください。
結果として議論となってしまった場合は、質疑を削除する場合もございますのでご了承ください。 (後略)」

とあるため、ここ・「gooの哲学カテゴリー」に限定するならば、「哲学」の内部でも「知」のみに限定した(すなわち、情は排除した)質疑のみが許されるということになるでしょう。
(すなわち、「ぶっきらぼう」に質問し、「ぶっきらぼう」に答えることのみが求められている)

で、(因果・因縁を含めるにしても、含めないにしても)輪廻転生という概念は、そもそも、「個・単独」としての生命観からは生まれえない概念であり、「他者」との関連を考える上で成立しうる概念です。

「個・単独」のみをただ一回の生命として考え、そうして、自身を構成するあらゆる物質も、他となんら関連せずに「無」から発生し「無」へと帰するのなら、全宇宙・全時空の中の一瞬のまたたきとしてのみとらえるならば、(唯物論的にも)輪廻転生概念は発生しえないでしょう。

しかしながら、自身を構成するあらゆる物質は、それ以前のあらゆる生命体を構成していた部分が集まっているわけで、たとえ「死」という境界概念を越えなくても、日々自身を構成している部分は他の生命体へと流れていきます。
「個体の死」という境界概念を越えても、遺伝子は繋がりを保っていきます。

たとえ、そのような物質的な繋がりを無視したとしても、他者との繋がりを「死」という境界概念を越えて(知的な思索のみならず、情的方向性として)思う・想う時に、心の繋がりといった概念は生まれうることでしょう。
それらが輪廻転生という概念に繋がりうるかどうかは、個々の人々の死者への思い・想いの強さと深さとに関わってくると思われます。そのような「情」を排除しないで考えたときに、はじめて「哲学的な思索」だと言えるような気がします。

端的にいえば、少なくとも哲学的には「輪廻転生の有無」(存在)は問題にならないはずで、「輪廻転生といった概念がなぜ存在しうるか」(存在論)が問題になるはずです。

このことは、既にNo.72にて述べていることでもあります。

この回答への補足

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。

 ですが 今回のご回答は これまでのものから後退していると 見ざるを得ないという結論が わたしの目の前に ちらついています。

 ★ このことは、既にNo.72にて述べていることでもあります。
 ☆ その最初のご回答のときから 互いに 問題点を出し合って これを 妥当な見解へと 導いて来ているはづです。

 ○ (No.72) いくら見通しのよい世界観であっても 人びとのいくつかの意見を包含するかたちでのみ 全体観を説いているのでは 人びとの頭の上に 網掛けを施すようなもので それは 《観念の帝国》主義である。ただ 思考停止に導くものにしか過ぎなくなる。
 ○ (No.76) 上と同じ問題点を引きずる結果となりました。
 ★☆ もろもろの<道の人>は同一の事を語らないのであって めいめい異なった真理をほめたたえあっている。
 ☆ 言ってみれば言論という活動において このようなシャンシャン大会が 《観念の帝国》の中で 行なわれており それが ブッダの智慧のもとの安寧と秩序だという理屈のようであり 大きな問題点だったわけです。(むろん 批判は 自由におこなわれているのですが 肝心の急所に触れると それは いけないという暗黙の了解が 共同の観念として はたらいているという意味です)。
 ○ (No.77) 社会が二階建ての構造になっているところから その二階の権力が 人びとの上に圧倒的な力をおよぼしている現実があるので 人びとは 生まれ変われば 生活の自由が得られるはづだという・やはり上(二階)からの宗教を よろこんでか・いやいやながらか 受け留めてしまっていた。
 ○ (同上) ところが ブッダは この宗教の中身を 替えただけだった。二階建て構造を そのままにしたこと。そして 中身の変更というのは 生まれ変わりを断ち切る方法があると吹聴したことのみであった。

 ☆ こういった質疑応答をして来ているのに そのまとめが 次ですか?
 ★ 端的にいえば、少なくとも哲学的には「輪廻転生の有無」(存在)は問題にならないはずで、「輪廻転生といった概念がなぜ存在しうるか」(存在論)が問題になるはずです。

 ☆ そして 今回も 《わたし》という存在を 遺伝子だ死者への思いだという別の要素へと すり替えています。
 ★ 「個・単独」
 ☆ と言いながら それは 《わたし》の生まれ変わりといういまの概念から 逸れて行っています。たとえ子孫であっても 別の人格としての別の《わたし》であっては 話が違います。
 果ては この質疑応答の場にかんする《投稿規程》の問題を持ち出すまでに到っています。
 
 ま 総合的な診断を下すなら たましいがよわい ということでしょう。この質問に対して 結論が出ない(あるいは 出ても はっきりとは よう言わない)ということのようですから そういう診断になります。とお応えしないでは 質問者のつとめを放棄することになるでしょう。
 人間存在にかんする総合的な判断として 述べましたが これも 
 ▲ 哲学という分野の知識に関する質問 
 ☆ なのです。哲学にとっての《知識》というのは こういうものなのです。どうでしょう?

補足日時:2009/05/11 10:50
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>  ☆ これが わたしの議論が誤解に発しているという理由説明ですね。


>  《殺された人》にとっては 過去の業が その時点で 報いを受けたのに対して 《殺した人》にとっては なぜ そうはならないのですか?
>  つまり 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むのですか?

確かに、粗暴な性格や、殺人を犯してしまうような状況など、というのは、過去の業の結果といえる。
しかし、行為をなすかどうかは個人の自由意志に委ねられている。心が決める。
そこで、もし、行為(殺人)を犯してしまえば、その報いを免れることはない。
業報思想というのは、行為をなした場合にその結果を免れられないことを説いている。


>  ★ 逆に、殺人などの悪業を犯しても報いを受けないこともある、と考えると善も悪も関係なくやりたい放題になるでしょう。
>  ☆ つまり 殺人を犯したというその行為は 過去の業の報いであるのではないですか? それとも 過去世に何も 報いとなるような業がないのに その報いつまり殺人という行為に及んだということなのでしょうか?
>  その殺人者には 因果応報があてはまらないのですか?

上述のものとほぼ同じ内容の質問なので、上述の回答を参照されよ。
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この回答へのお礼

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《殺された人》にとっては 過去の業が その時点で 報いを受けたのに対して 《殺した人》にとっては なぜ そうはならないのですか?
 つまり 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むのですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この問いに対する答えは どこにも見当たりません。
 もし 拡大解釈をすれば 
 ○ 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むという場合も ある。
 ☆ こう言おうかなという姿勢が ちらほら 見えるのですが おそらく そうは言えないのでしょう。なぜなら
 ★ 業報思想というのは、行為をなした場合にその結果を免れられないことを説いている。
 ☆ のですから。

 * みなさんへひとこと。まちがいだと 分かりきっているのですが 本人が みづからの意志によって 認めるということでなければ 何にもなりません。それゆえ つづきます。

お礼日時:2009/05/11 11:03
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