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 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。

 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。

 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。

 真実をおしえてください。

A 回答 (114件中11~20件)

maimai.susです。



>それについての価値判断を問い求めているのです。

そうですよ、ですから両方を、出来るだけ正しく認識したうえで、並べさせ比較しながら考える必要があると言っているのです。
そうする事でbragelonneさんの意見が何処までの深さがあるか皆さんにも分かって頂けると思います。良い意味でも悪い意味でもね。


>哲学がこれを主題としてとりあつかうことは ありえない こういう価値判断が 一人のこらず あてはまるはづだという問題です。

そうですね、それをはっきりさせる為にも、それはどう言う位置からの考え、見解なのか、相手に分かりやすくする為には、比較を出来るだけ丁寧に行い、位置確認をはっきりさせるべきだと思います。
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この回答へのお礼


     
     
     

お礼日時:2009/05/13 10:04

意志と業(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)


http://fallibilism.web.fc2.com/015.html#gou
輪廻思想と無我思想の調和は不可能(和辻哲郎)
http://fallibilism.web.fc2.com/070.html
ヰキ:無我、非我
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91
倫理的要請としての輪廻、宮元啓一
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/bunnka/r …
輪廻の主体は何なのでしょうか
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=431743

とりまとめますと、No.77での柄谷氏の解釈と、ほぼ同等になります。
※添付画像が削除されました。

この回答への補足

 ▲ (意志と業――聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より) ~~~~
 ある時、釈尊は次のように言った。
 「弟子たちよ、さまざまな思想家、またバラモンたちの中でこのような説を採るものがいる。

   (α)『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は前世に作ったものであり、どうすることもできない』
   (β)『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は神の創造によるもので、どうすることもできない』
   (γ)『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、それは単なる偶然であり、どうすることもできない』

 これらの間違った考えに対して、私は違う意見を持っているのです。
 一番目の人々が言うように、殺生や盗みなどの悪業を行う因を、人が前世にすでに作って、それが固定しているならば、今、殺生や盗みをする人は、その生まれついての業のまま、何の意志も決断もなく殺生などを行ったに過ぎないということになる。前世に行った業は固定していると考える人は、今、『これをしなければならない』、『これはやってはならない』と考える意志の存在を否定することになるのです。また、善をなそうという努力も否定することになるのです。
 また、すべてが神によって定められているという説に関しても、すべてが偶然であるという説に関しても、どちらも人の意志や努力を否定することになる。
 私が説く『業』とは、今この時の意志であり、努力なのです」
 (アングッタラ・ニカーヤ)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こんなくだらない推論が いまだに取り上げられるとは 笑止千万です。
 (β)と(γ)にかんしては ひとの自由意志でおこなうことが そのまま 社会の中で実現すると考えているとしたら 釈尊とやらは 何とおめでたい人間であることか。人間の意志とそれを超えたはたらきが 世界にはある ゆえに 偶然なり神なりを想定しているのだと捉えていないとしたら なんと 阿呆なことか。
 (α)が いまの問題です。前世で行なった悪業が 《固定していた》としても いま 自由意志において ことを行なった結果 因果応報としての悪果を得てしまったという場合を いったい なぜ 除いているのか。
 ★ その生まれついての業のまま、何の意志も決断もなく殺生などを行ったに過ぎないということになる。
 ☆ ということにはならない。こんなくだらん論理が いまだに何故とりあげられるのか。それでいて
 ★ 私が説く『業』とは、今この時の意志であり、努力なのです。 
 ☆ と言っている。

 前世の業などという分かるとも分からないとも決められないものを根拠とすることが まちがいだと言っているのが どうして わからないのだろう。

 ▲ (輪廻思想と無我思想の調和は不可能(和辻哲郎))~~~~~
 輪廻思想と無我思想との調和が困難であるのは、輪廻思想が本来転生の道途において自己同一を保持せる「我」あるいは「霊魂」の信仰に基づくに対し、無我思想がかかる「我」あるいは「霊魂」の徹底的排除を主張するからである。
 しかしかく明瞭に異なれる二つの思想を調和させるということは、もともと不可能なことであって、問題となり得べきものでない。しかもこれが調和の困難として問題とされるのは、この二つの思想が一人のブッダの説いたものであり、従って内的に結合せるものでなくてはならないとする立場に立つゆえである。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 引用は 途中で打ち切っています。
 ここまで 参照箇所として挙げられた文章を追って来て 止めました。
 ★ とりまとめますと、No.77での柄谷氏の解釈と、ほぼ同等になります。

補足日時:2009/05/13 09:54
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maimai.susです。



>正しいか間違っているか、在るのか無いのかは、また別の問題として考えるべきことだと思いますよ。

書き方悪かったですね。すいません。

良いか、悪いか、在るのか無いのかは、また、問題の別の側面として、考えるべきことだと思いますよ。
 
に訂正させて下さい。
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maimai.susです。




 >或る日或る時 とつぜん 拉致されたとしても それは 自業自得だと 面と向かって 言えるというのですね?

って、本当に、話を理解できないんですね。
まあ、良いです、それはそれで話を進めます。

そう言った例えを出すなら、輪廻転生を否定した場合の、例えも出すべきではないでしょうか。

bragelonneさん流の解釈で例えると、

或る日或る時、とつぜん拉致されたとしても、それは、運が悪かったからだと、面と向かって、言えるというのですね?

になるかな。
どっちも、どっちだね。




>それが通用すると思っている人間が 社会に通用するとは思うなかれ。


っつーか、それが通用するとは思ってないし。
そう言う発想だよ。って言っている意味が、分かってねーだけじゃん。
そもそも、今までの話の中でそんな風に飛躍させて、考える事じたい素敵すぎるね。
ホント、びっくりだよ。



前にも言ってるでしょっ、言い方は違いますが、値するも値しないも、価値あるものにするも、無いものにするも、その人間や考え方しだいだって。
正しいか間違っているか、在るのか無いのかは、また別の問題として考えるべきことだと思いますよ。
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この回答へのお礼

 ★ 発想
 ☆ にかんする事実認定は はじめから 出来ています。つまり そういう発想が あることは はじめから 分かっています。
 いまは それについての価値判断を問い求めているのです。
 人間が どういう発想をしても それは 事実として ありえるものです。ひとを殺すという想像をしても その想像じたいは 事実であり つねにと言っていいほど あり得ます。しかも この殺人行為については 人間はしないという価値判断が 決まっています。

 輪廻転生という発想が 事実としてあるのは 分かっています。価値判断を ここでは 哲学という視点から見て 行なおうという質問です。哲学がこれを主題としてとりあつかうことは ありえない こういう価値判断が 一人のこらず あてはまるはづだという問題です。

お礼日時:2009/05/13 07:21

原始人の寿命は20~30歳ぐらいだったそうです。

それでも現代人よりのんびり生きて(精神、肉体を苛むような余計な思索がない)満足に死ねてたと思います。健康寿命が延び続けるものだとしても余計が減るならいいし、余計が増したって死は必ず訪れますね。

死を忌む心情は、指名手配の犯人が逃れることばかりを考え暗闇にすがるのに似ています。もし仮に誰もが寿命が千年とか一万年にも延ばせて不死身のようにまで生きることが可能になるとどうなるか?

競争を意識しないでも勤勉な人は一万年勤勉に生き、怠け者は一万年怠け続けて、能力や才能差の範囲も想像を絶するものになる、超長期的な人生設計を考えるだけで頭もパンクしそうです。だから私の死は、生きた私の等身大の友ということにしてます。

輪廻転生はヘッセの「ダミアン」の暗い鏡のことではないかと想ったのですが(この暗い鏡も人によっての解釈は各人各様となるものですね)死というリセットは友といること。疎遠であっても常に一緒にいる親友です。だから死(友)に救済されるのを信じ待つようなものなのかな。

輪廻転生すると新たな自分や添う友達が出来る?生きて逃げ回り疲れて暗闇に・・・そこに生きるに値するものはなく、価値もないなら無になることがマシなような、救われるような予感をさせる突破口があるという解釈ではないかと思います。

質問の主意から反れてしまってすみません(認める)。
輪廻転生よりも「完全自由、不死身」な生涯を願うことこそが安易な考えで愚かしいということのように思いました。

死から逃れようとするなら死に値する私自身をどう残すかという命題が残ります。これは運や上手く軌道に乗りさえするなら納得してのんびりとした余生を過ごせます。手っ取り早いのは子孫を育てることです(これも見かけの生き方に影響されない人間の本質です)が、死は等身大の添い遂げるに値する私の「者」。「契り」の潔さを見るにつけ負け犬とは思えない死は沢山あります。久しぶりに夜更かしです。

この回答への補足

 miko-desi さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 死を忌む心情は、指名手配の犯人が逃れることばかりを考え暗闇にすがるのに似ています。
 ☆ 縁起(因果関係またその社会的な相互作用関係)の悪循環を 好循環に回転させるのが ブッダになること(さとり)だと説いていると思うのですが どうも 一般的な普及のあり方は かんばしくないようですね。暗闇の悪循環のままであるようです。
 悪いほうの輪廻――つまり いわゆる六道輪廻――が まだ 重くのしかかっているのでしょうか。しかも良い方の《さとり》は いまだに――ここでの質疑応答を見てもわかるように―― まったく 《きわめて立派な形而上学に終始している》現状です。もはや あさっての方ばかり向いています。この点 現実性に立脚する女性は まぬかれているのではないでしょうか。

 ★ だから私の死は、生きた私の等身大の友ということにしてます。
 ☆ 現実的ですよね。

 ★ 輪廻転生よりも「完全自由、不死身」な生涯を願うことこそが安易な考えで愚かしいということのように思いました。
 ☆ これは たぶん 《復活 それも 現在時におけるそれ》のことをおっしゃっているのかと思いますが それでしたら いまのところ 次の二点が その内容です。
 百年の倍の二百年を生きたら もう それは 言ってみれば 永遠である。じっさい 二百年は生きるようになるという方向を わたしは 見ています。
 突然変異か何か 何らかのきっかけがあって(もしくは なくても) 人間(現実)が変わると思っています。
 ★ 余計な思索 
 ☆ という言い方をされていますが それは 生活現実のことば(スサノヲ人間語)に対する それの概念化・普遍化のことだと考えます。アマテラス客観語です。余計ではないのですが 余計な部分を 副作用として伴ないます。やがて 観念化し さらには幻想化するという道をたどるものです。その建て前をこそ重んじるようになります。アマテラス人格語です。
 いまは アマテラス語が スサノヲ語を 社会的に 圧倒しています。これが 逆転する(つまり 元の状態にもどる)でしょう。これが 《人間(現実)が変わる》の実質的な内容の事例です。
 これら二点が 復活についての課題です。

 * この質問は ここまで来れば さらにご見解を投じてみたいという人のために 開いていようと思います。また わたしの評言を介して ほかの方々の見解についても この問い求めを発展させるというかたちで ご意見を述べていただければよいのではないかと考えています。

補足日時:2009/05/13 06:44
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Je suis tout a fait d'accord avec vous!


でもですね。
この質問の存在をもってして「輪廻転生説」に対する哲学的考察を試みているように思われるのです。
いかがでしょうか。

率直に申し上げて、わたくしは哲学の命題として、逆にその「非」や「腑に落ちない点」を問いたいくらいです。
例えばですね、
「生まれながらにして重度のハンデを持って生まれてきた方々とそのご家族」に対して、過去の因果応報に則った輪廻転生説をどのように面と向かって堂々と説明し得るのか、とか。
何らかの過去の悪業が因果しているのでしょうかね。
であれば。
不作為のまま現世の命を全うした場合、彼等は来世も苦しむことになりえるのでしょうか。
何かありがたい教えによって特別の悟りが必要かもしれないのでしょうか。

大学時代に特殊学級に通う小学生たちと接する語学ボランティアをおこなったことがあります。
かれらはまことに無垢で生きることに健気です。
かれらに接することで、こちらが逆に生きることの尊さや困難に立ち向かう勇気を貰えるのです。

でもね、恐らくこちらのカテで語られているところの尊い教え、解脱や涅槃などという概念は大人になっても理解し得ないわけでして。
かれらは現世を懸命に生きるしか術が残されていないわけです。
もしかしたら「神」の概念すら抱けないかもしれない。

かれらはいかにして我が身を悟りの境地に至らせるのか、そして一生かれらを支えていかねばならないご家族をどう慰めるのかと、今ふと思ってみたりもして。
彼等は、一体どうしたら救われるのでしょう。
という以前に、因果応報による輪廻転生説を信じている人の眼には、彼等がどのように映るか、のほうがより世知辛いかもしれません。

恐らく、因果応報にせよ、輪廻転生にせよ。
ある人には必要で、ある人には極めて酷い論理なわけでして、
これはいかなる宗教と言えど否めない「排他性」に他ならないのではないでしょうか。

むしろ、不必要な人々にどのように不要な論理を社会的に押し付けないように、たとえば上述のような疑問をつまびらかに明らかにし、誤解を解いていくことのほうが遥かに有意義ではないでしょうか。
哲学や宗教が実学の方向を目指すかぎりには。
そしてわたくしのような無知な素人が、これ以上無駄に余計な偏見や穿った見方に陥らないためにも。そう願っております。

この回答への補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ この質問の存在をもってして「輪廻転生説」に対する哲学的考察を試みているように思われるのです。 / いかがでしょうか。
 ☆ ううーん。でも 入口にとどまっていると思います。入口からさらに入ることはしていませんね。
 つまり 主題になるかどうかの検討に終わっていると思うのです。
 ただし おっしゃるように 一たん 懐を深くして その説が 妥当性を持つと仮定した場合 では どうなるか。こういう吟味の仕方は していません。そのほうが わかりやすく 現実的なのでしょうか。

 ★ という以前に、因果応報による輪廻転生説を信じている人の眼には、彼等〔障害児たち〕がどのように映るか、のほうがより世知辛いかもしれません。
 ☆ 世知辛い・辛くないというよりも 《どのように映るか》 尋ねたいですね。《何か問題が?》と言われるかも知れません。《そうならないために どう考え どうするか》だそうですから。きわめて 現実的なようですから。

 何を思ったか 障害児施設に就職した友がいましたが 訪問してみると 言いました。このまま――つまり 治らないだろうなということのようです―― 来る日も来る日も 世話に明け暮れることになるとのことだそうです。思想も何もないと言わんばかりでした。――でも これも 現実的な考え方であるように思います。治療あるいは医学の進歩に期待していないわけではないですし。
 つまり 親にしても 文学作品は要らないと思うのですが どうなんでしょうか。存在が障害を持っているという現実 これだけだというように思うのですが。本人に自覚がなくても 一人ひとり そういう人生なのでしょう。
 ★ むしろ、不必要な人々にどのように不要な論理を社会的に押し付けないように、たとえば上述のような疑問をつまびらかに明らかにし、誤解を解いていくことのほうが遥かに有意義ではないでしょうか。
 ★ 不要な論理を社会的に押し付けない
 ☆ これは 押し付けられたほうが 跳ね返す意志とその理論を持って欲しいですね。
 ★ 上述のような疑問をつまびらかに明らかにし、誤解を解いていく
 ☆ これは もし上のように《跳ね返す意志》のない人たちは おそらく 受け容れていても 《誤解・まちがい》だと分かっているのではないでしょうか。つまり
 ○ 溺れる者は 藁をもつかむ。
 ☆ だと思うのです。《藁》だと分かっている。自分が《溺れる者》だと知っている。つまり 《輪廻転生説は 哲学の主題――もしくは 生活態度の基礎となる考え――とするには値しない》ということは 感覚として 心得ているのではないでしょうか。ただいまは あまりにも かなしみと辛さが わたしを圧倒するので 藁をもつかむと分かっているのではないでしょうか。
 わたしは そのように見ていますが どうなんですかねぇ。
  

 * ちなみに かく言うわたしは 次のような文学的おとぎ話を おおまじめに捉えようとしています。これは 哲学とそして信仰との間に位置づけたい主題です。
 【Q:復活とは? 不死の境地とは?】
 【Q:現在時における《復活》について】
 * ちなみに 《不死の境地》は ブッディスムのものです。

補足日時:2009/05/12 23:40
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>  ☆ この部分だけをとっても きわめてえげつない思想であり 議論になっているのですよ。


>  秋葉原で通り魔に殺された人びとも 地下鉄でサリンにやられた人びとも 広島も長崎も アウシュヴヰ゛ッツも すべて 殺された人びとは みな 例外なく 過去の悪業による結果として 自業自得なんだよと語っていることになりますよ。それでいいのですか。

輪廻の衆生は皆、無始時来より、無数の生存にて無数の業を積んでいる。
心に無明があるので、我執に基づいて悪業を犯したことも数知れない。

簡単にいうと以上のような答えになるけど、これだけじゃあなたには理解できないでしょう。
理解できるように教えてあげられる自信がない。


論点を変えるのは構わないけど、これまでの話は理解できたんでしょうか?
誤解といったのは理解できましたか?
原因から結果までの関係は分かったんでしょうか?

どこまで理解できているのか怪しいもんだ。。
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輪廻転生および因果応報についての思考パターンを一種類のみ取り上げて「哲学的な議題だろうか?」と、問うのは、「○○があるのだろうか?(あるいはないのだろうか?)」と問うのと同じではないでしょうか?



自然科学的な発想からすれば、分割する魂といった概念の方がすっきりすることもあるわけです。
特に因果関係については、「特定の個から特定の個」といった関係は非常に稀であり、さまざまな要因がさまざまに関連し合っていることは、だれしも知っているわけです。

この問題は、「わたし」の境界概念と密接に結びついているでしょう。

毎日のように死んではがれていく皮膚や内臓の細胞たち。。。
事故や手術にて、失われ、人工臓器や臓器移植にて、組み込まれる部分。。。

「わたし」の境界は、果たしてどこにあるのでしょうか?
「人工臓器に置き換え可能な部分を排除したところ?」
「脳」?
「魂」?
。。。

私が私として生きているとき、私を取り巻く環境や、私の父母が育った環境や、私が関与しているあらゆるものごとは、「私」を「私」たらしめている部分になっていることでしょう。

「私」の境界を「物質」を素通りした「魂」といった概念に集約するとき、物質としての個体の機能喪失は「魂」の死という概念とは切り離されうるでしょう。そうして「個から個」への移り変わりにて、繋がっているという思いが強いとき、「個から個」への輪廻転生概念が生まれうるでしょう。

逆に「私」の境界を、繋がりあっているという概念から外側へと広げた時、物質としての個体の機能喪失は「個体の死」という概念を素通りして「全体への回帰」といった概念すら生まれうるでしょう。そうして「個から全体」への移り変わりにて、繋がっているという思いが強いとき、「個から全体」への輪廻転生概念が生まれうるでしょう。

これら両極端を含む、「個と全体間の関係」概念とともに、その「繋がりの強度」概念が、個々の人々の間にて、さまざまな程度で固定化されることがあると思います。しかしながら、本当にずーっと固定化されているとは思えません。

たとえば、普通の人々は、「私」という概念を「皮膚表面」という境界概念と一致させているでしょうが、比較的空いている電車の中で、見知らぬ人にぴったりと寄り添って座ろうとすると人々は逃げ出してしまいます。個人が有する「個人空間」の概念を持っているからです。いくら暑くて汗をかいていても幼子を抱き続ける親は、「目に入れても痛くない」という表現をすることもあります。
事故で足を失った人が義足を使うとき、どこまでが「自己」と感じるのでしょうか?
心臓移植を受けた人は、どこまでを自身の人生と思うのでしょうか?

ある場所を離れるにあたって、「思いを託す」「後ろ髪を引かれる」とかいった言葉を残すとき、自身の心の一部を置いていくような気持ちになることもあるでしょう。

人々の繋がりあいに応じた境界概念・その時に抱いている概念(知的に認識される断面)を、「死」といった概念に投影するとき、それぞれの見方での輪廻転生概念がおぼろげながら透けて見えるのかもしれないと思っています。

「死」を越えたところへの思い(情)が先にあって、あとから「輪廻転生」といった概念がくっついてくる。そうして論理的な破綻を指摘されても、なおさらその概念にしがみつこうとすることもある。その根本にある「情」の方向性を見誤らないことが大切だと思います。

表面的な「論理的矛盾」にのみ着眼して論じあっている限り、ブッダの放つ網からは逃れられないと思っています。
「輪廻転生説は 愚の骨頂」の回答画像98
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この回答へのお礼

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。
 
 ですが わたしは お手上げです。
 ひとつには No.93およびNo.99の議論をお読みください。いかなる事件においても 被害者は すべて その被害にかんして 自業自得であるという思想(?)のようです。お手挙げです。
 ★ 表面的な「論理的矛盾」にのみ着眼して論じあっている限り、ブッダの放つ網からは逃れられないと思っています。
 ☆ とおっしゃるのなら その
 ★ 表面的な「論理的矛盾」
 ☆ とそれによる悪影響について なんとかしてください。まづ そのことを 解決するのが 先決です。ではないですか?
 

お礼日時:2009/05/12 21:55

Cher monsieur blagelonne,



こんばんは。
「輪廻転生説を愚の骨頂」とみなしたいその意図と趣旨に関して、わたくしは理解しているつもりですし、賛同もしております。
ですが、「死生観」をも含む「死生学」という観点から見ますと、仮に今の時代にそぐわない怪しげな思想であれ、決して哲学や宗教的アプローチを断念するに至る理由が見られないのではないのかな、と思うに至っております。

「死生学」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E7%94%9F% …
「死生観」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E7%94%9F% …

いかなる思想哲学とはいえ、万能かつ完璧無比なるものなどはたしてあり得るのでしょうか。
逆に、いったいどのようなところにその非があるのかを問うために、あえて命題として扱う余地も残されているようにも思われるのです。
このように皆様がおっしゃられているのではないかな、とわたくしは拝察致しております。

いっそのこと、死生観に絡む哲学要素を全て命題から排除してしまうくらいの潔さが必要なのかもしれません。
でも、それってあり得ないです?

Amicalement♪

この回答への補足

 Bonsoir, chere madame mashumaro2. Je vous remercie beaucoup pour votre reponse.

 まづ何よりも先に No.93およびNo.99の議論(?)をごらんください。けっして こんなに長くやり取りをつづけるとは思っていなかったのですが ここに来て このような事実が発覚しました。いっさいの事件において 被害者は すべて 自業自得だという思想のようです。端的に言って これは 輪廻転生説および因果応報説が元凶であるのではないでしょうか。
 
 さて まづ
 ★ 死生学
 ☆ につきましては 特には 《生まれ変わり》を問題にしていないようでね。そして それは
 ★ 死生観
 ☆ において 部分的に現われているようです。わたしの思想に引きよせての叙述になりますが 次のように考えます。

 そもそも 《イリ》なる歴史知性は 死の自覚から 目覚めて 自己還帰した《わたし》です。それ以前は ひとが死んでも まだ眠っているという程度に捉えていたかも知れません。
 イザナキが 死んだ妻イザナミのいる死の国(黄泉)に行って 会おうとした話があります。ところが ウジ虫が集(たか)って音をたてていたと言います。これは たとえば横穴式の墓室に入って 実際に見たのでしょう。そこから この生まれと死とのあいだの線分を おのれの世界として生きるという《イリ》思想が生まれたと考えます。
 それ以前の《ヨリ》なる原始心性ですと 病人にも死者にも 寄り憑き 同化しつつ ぎゃくにそれによって 克服する道を模索したのかと考えます。ヰキぺにありましたが 江戸時代は 憂き世を それにあたかも同化しつつ 浮き世に変えたと言いますが そのようにです。《イリ》知性になると 病気には 薬草を求めるようになります。

 ところが 天才が 現われます。イリ歴史知性によって いよいよますます知性を磨き人間的になる。いわゆる道徳を説くようになる。しかも 神のように如何なるものの下にも立つまいと決心して 人びと全体をまとめる(統べる あるいは 寄せる)という《ヨセ》なるスーパー歴史知性です。
 《ヨセ》知性は もともと《ヨリ》心性(たとえば 卑弥呼)の時にもあったところの《不老不死》の思想にえらくご執心にあいなられます。鏡が 当時は――中国から入ってきて また きわめて 曇った姿しか映さなかったでしょうが―― この永生のしるしでした。そうして 《死生学》を打ちたてようとしたのでしょう。とにもかくにも 明つ神であるということになりました。

  おほきみは 神にしませば あまくもの いかづちの上に いほらせるかも

 と詠まれることになります。詠んだ人麻呂は 《いかづちの丘の上に おられる》と言っているのみであって それは 人びとが言っているように 雷の鳴り響くその上なる天にお住まいであるということなのでしょうか そうかもねというふうに あくまで ふつうの人間知性の《イリ》人であることを貫いています。

 ですから 《死生学》は この移ろい行く世界を どうしても 超えたいという《ヨセ》の思想から出たのではないでしょうか。《死生観》は もともと 有限で時間的な生を生き切るという《イリ》知性が 死を自覚した・したがって生をとうとぶようになったその共生の思想で 決まりです。あとは たしかに 人びとは 想像力が旺盛ですから そこに尾ひれが クリスマスツリーのごとく つけられるということでしょう。

 ★ いっそのこと、死生観に絡む哲学要素を全て命題から排除してしまうくらいの潔さが必要なのかもしれません。 / でも、それってあり得ないです?
 ☆ これって 上のような思索で合っているのでしょうか?

 Tous mes respects !

補足日時:2009/05/12 21:45
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maimai.susです。



んー確かに、見方によってはそう言っている訳ですが、何か問題でも?

しかし、自業自徳だからしょうがないと言っている訳ではなく、そうならない為には、どうしましょうって発想ですよね。
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この回答へのお礼

     
     
     

お礼日時:2009/05/12 16:24
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