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 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。

 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。

 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。

 真実をおしえてください。

A 回答 (114件中51~60件)

無限=有限を「知れる限り」とした時のそれ以外


=超経験=経験を超えている。でいいのかな?

霊って何ですか?

相対世界=身受心法や知ることが可能な範囲(無知、知恵なき故に知っていない範囲も含む)相対・分別出来る範囲。で問題ないでしょうか?


絶対の性質上如何なる「関係」(影響の交換)をもてないが、それに対する人の態度としての関係ならわかります。


「アートマン・魂」=永遠不滅の変わらない実体。
と言いながらも変化と浄、不浄、一如を語りますので無理があるように感じます。


「変わらない私」は悟ってない生命にある錯覚思い込みと仏教では言っていると思います。これが入ると二分出来ると言いましたが、これは思い込みの話で錯覚と知る範囲なので絶対に入らないですね。

となると…

「ある派」「ない派」「あるかもしれないし、ないかもしれない派」(あなたの言う思考停止。私の言う理性的態度。)の3つの立場があると思います。

有絶対論。無絶対論。離絶対論。
有と無は対立しますが、離には対立がないですね

ともあれ、仮にとった絶対に対する立場どれをとっても、物事に対する「考え方感じ方見解行き方」には影響を与えることは不可能であると感じます。

与えるならその人は絶対ではない<違うもの>に対する立場をとっていると。


世間で言う神の概念と絶対はだいぶ違うものと思いますが、あなたの言う神論に対するどの立場をとっても同等と言えるかもしれません。

有、無論は決めつけている分、離論より相対世界的にいえば理性的でない科学的でないといえるかもしれませんが。

ともかく、今ここで必要になるのは相対世界において生命とは、生きるとは何かという探究とそこから見出せる矛盾なき行き方の探究を見解に固執することなく柔軟に構築・実験・検証していくことでしょう。

道徳的に矛盾を生じる論には矛盾があると、

この範囲は仏教の管轄でもあると思います。
気にくわないかもしれませんがw

この回答への補足

 magga さん 共通の認識――出発点――に立つために かなりお互いに進んだかとは 思われます。けれども 新しい地点に立って 前と同じ視点をも引きずっておられると言わざるを得ません。

 ★ 「ある派」「ない派」「あるかもしれないし、ないかもしれない派」(あなたの言う思考停止。私の言う理性的態度。)の3つの立場があると思います。
 ☆ 第三の立ち場は ありません。証明します。
 《ある(または ない)かも知れない》というのは 《未知》の領域について言われる判断です。未知は いづれ 人間の知性によって知られ得るという経験的で相対的な世界のことです。(知られ得ないと分かった場合 知られなくとも よいという判断をくだすたぐいの問題です。ちなみにつまり 《誕生以前 あるいは 死後》のことでもあります)。

 《絶対》は あるか ないか 分からないのです。分かるか分からないかが 分からないのです。いわば 永遠に そうなのです。
 ともかく じんるいのほとんどすべての言語で 日本語で《かみ》という超経験のことについて 語って来ています。そういう性質の言語表現です。
 ですから 一たん これは《絶対》の領域であり 仮りにこれを人間のことばで《神》と言うのなら ひとは 〔仮りに〕有神論か無神論か いづれかに分けられると認識しておけば あとは きわめて差し障りなく 互いに 対話を展開することができる。というものです。
 つまり 交通整理は 《ある》派か《ない》派か 二つのうち いづれか一つになります。

 ★ 離絶対論。
 ☆ この《絶対》については そこから《離れる》とか《離れない》とか 決められないのです。想定したからには あるか ないかのどちらかです。
 千歩譲歩して あるも ないも 決めないという人がいるとしたら どうするか。けっきょく ある派とない派との対話というこの経験世界にいるからには その区分に そのひとも 従うということになるでしょう。それだけのことです。
 ★ 絶対から離れる。絶対は あるかも知れないし ないかも知れない。と見る。
 ☆ ということは 想定としての前提からして 矛盾しています。
 ★ (あなたの言う思考停止。私の言う理性的態度。)
 ☆ 思考停止というよりは 意志による判断の停止です。上で 千歩譲歩した話ですね。
 ★ 理性的態度
 ☆ というのは ここで 何の意味もありません。《ある もしくは ない》をえらぶ人も その選択・判断じたいは 理性のおこなうことです。想定として そういう仮りの表現を採るという意味です。
 《あるかも知れないし ないかも知れない》という表現の意味するところは たしかに 理性的態度ですが ここは(つまり 絶対に関しては) 理性も精神も感性もすべて経験的なものごとを超えた領域についての話なのですから 当てはまりません。

 ★ 有、無論は決めつけている分、離論より相対世界的にいえば理性的でない科学的でないといえるかもしれませんが。
 ☆ そうではないのです。前提が ちがっています。想定をするという問題なのですから。そもそも 《非思考》を 仮りに理性による思考をとおして あるか ないかに 分けておくだけの話です。分けて 表現しておけば のちのち 交通整理が 容易になる。こういう問題です。

 有神論・無神論 これらは そもそも 《理性・科学・相対世界》を超えているのです。超えている領域を わざわざですが 仮りの表現として 交通整理のために 区分しておくものです。
 
 そうすると おそらく〔ですが〕 無神論に立つと思われるブッディスムと 有神論に立つキリスト信仰とが 互いに 容易に 対話をすることができる。こういう問題です。

 また この質問の《輪廻転生》については その《生まれ変わり つまり 誕生以前と死後》の問題は 《絶対》という領域の問題ではない。ゆえに 《非思考=信仰》の問題でもない。言いかえると それは 《未知》の世界について 経験理性によって 経験思考をおよぼすときの想像であり そういう意味で ひとつに 《信仰》とは別であるということ。
 もうひとつに 《未知》であるからには 《死後があるかも知れないし ないかも知れない》という世界なのだから 経験科学としての哲学が 主題として 扱うものではない。こういう結論にみちびかれるのではないか。こう問うています。どうでしょう?
 
 * 哲学が 主題として扱わないというのは 《証明も出来ないし 反証明もできないことがらである》として 扱っておくという意味です。仮りに 未知でなくなった・つまり 経験知として知り得たときには どうするか。知り得た材料にもとづいて 判断するというものです。

補足日時:2009/05/07 15:22
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この回答へのお礼

 補足です。
 ★ 霊って何ですか?
 ☆ 《絶対》を言いかえたことばです。《なぞ・不思議》という内容を言おうとしたものでしょう。
 また 相対的な経験世界では 
 ○ 人間の存在は 広い意味での肉です。つまり 精神および身体をふくめた意味での肉です。
 ☆ この経験世界を超えていることを言うために 《霊》ということばも 用いられます。
 ちなみに 《魂》は 一義的に意味が決まってはいません。
 ○ 魂とは (1) むしろ 感覚つまり感性のことを言う。この魂は anima というように 動物( animal )の知覚作用と あたかも 同じ感覚作用のことです。
 (2) ひろく 《こころ》のことを言う場合がある。《身体=精神》とでも言うような意味での《精神》のことです。
 (3) 漠然と 《生命》を言うこともあるでしょう。
 (4) そして 今度は これら経験的な作用を超えて 《絶対》の領域のことを むしろ 指して言う場合さえ 出てきます。つまりは 《霊》と同じ意味に使ったりします。《霊魂》という言い方もありますね。

お礼日時:2009/05/07 21:04

輪廻転生といえば輪廻する主体は何か


という話になるけど

我、無我、非我

いろいろあって、無我とデカルトの「我思う、ゆえに我あり」が
比較されますよね。

無我の場合だと認識論が話題になる。

それから、ヤハウェは「私はある」
だから存在論が話題になりました。



パラダイム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9% …

プロテスタントがカトリックへ改宗したら
それはパラダイムシフトなんだろうか。

この回答への補足

 Zohar さん なかなか 鋭く突いて来ますね。隅に置けないですね。
 まづは ご回答をありがとうございます。
 あっ ご自分の意志はどこへ向かうのか 見解の披瀝にも到ると なおよいでしょうね。待たれますね。

 じつは すでに かなりの程度において 探究を済ませております。
 ★ ブッディスム関係では 次の一件を挙げます。
 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html
 ☆ 一点 追究し残した点は 《ブッダは 神か》という問題です。《仏性》は 《霊》かという問題です。この問題については ブッディストからは まづ 明快な答えが得られません。相対世界を超えているとは言いますが では 絶対か つまり その意味で 神かと尋ねると 口を濁します。

 ★ 無我の場合だと認識論が話題になる。
 ☆ これは そういう視点で 捉えたことがないと思い わたしにとって あいまいな点です。いまのところ けっきょく 存在論で 進めて行けると考えています。

 その存在論 ないし
 ★ ヤハウェは「私はある」
 ☆ の問題 ないし そういう切り口の問題ですね。ここで では そもそもうんぬんと 講釈を始めるわけにはいかないので 具体的な論点が 提示されたら たしかに 輪廻転生説の批判としても 互いに探究できれば いいでしょうね。

 ★ プロテスタントがカトリックへ改宗したら / それはパラダイムシフトなんだろうか。
 ☆ これは 《パラダイム》の問題であるよりも そもそも 個人の内面主観における信仰が 観念として受け取られ固定し教義とされ組織をつくって あたかも信仰のうすいあついの度合いを 人間が 判断し得ると決めつける側面を持つなら そのような宗教は 宗教という行為じたいが 愚の骨頂です。

 この信仰の宗教化は 信仰の自殺行為です。わたしは ローマ教会をはじめとして 宗教集団の自己解体を勧めています。
 言いかえると 集団として 信仰を 教義という模範とした時点で ひん曲がったパラダイムが出来上がったと考えます。言いかえると この規範こそが ふたたび 律法という文字になり下がった手かせ足かせであると考えます。愚の骨頂であるばかりか ひとを殺します。
 せいぜい われわれに課された至上命令は なんじの隣り人を愛せよ=すなわち なんじの神を愛せよです。これだけです。
 これとて 自分自身で考えて行動しないことには 何の意味もないという社会現実の問題なのですから 規範が手かせ足かせになるとも思えません。なるとすれば 考えが浅いか 行き詰っているかです。
 つまり わたしは弱い・ちからが足りないと 分かれば まづ それでいいわけです。新たな出発をすればいいわけです。しかも すべて 《わたし》の問題です。主観内面の問題です。――そういう《存在》論になっていますね。《永遠の現在》なるわたしという理論かつ現実にも つうじていますでしょう。

 そこにおいて なんで わざわざ 前世がどうの 来世に生まれ変わったら こうのと 想像をたくましくして 文学活動に〔のみ〕いそしまなければならないでしょう? 文学については 大衆文学にしても 貶めるつもりはないですが 存在論としてのわたしが ではなく 想像家としてのわたしが 突っ走っているに過ぎないという側面が 強いでしょうね。
 そのほうが 自分が自分で考えるのに 場合によっては 適していると言えるかも知れませんが(――つまり シミュレーションのようなものとしてですね――) それは そうなると 一つひとつの事例を いくつもいくつも 積み重ねていかねばならないでしょうね。哲学は いっぺんで やってのける潜在能力を持ちますね。・・・

 少しづつ ご自分の考えを練り上げていってください。わたしの考えに対して どんどん 突っこんでみてください。

補足日時:2009/05/07 08:59
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通り掛かりのものですが・・・



bragelonneさんのおっしゃっている「文学」とは何でしょうか?
私にはbragelonneさんの元の質問文にある「哲学が取り上げるには値しない理由」の2から4は
個々人の解釈(受け止め方)という意味で文学的な影響について述べているように思われます。
これはbragelonneさんご希望の”「文学」を排除した哲学”にふさわしい主題かどうかを判定する理由になっていないように思います。
何名かの方の回答に対して、それば文学で哲学とは無関係のようにおっしゃっているようなので、気になりました。

あと理由の1からbragelonneさんは「哲学」がなにかの存在を「証明」したり「反証」したりすることを目的とする、
というように読み取れるのですがそれでよいのでしょうか。
どちらかというと哲学は、輪廻転生のような概念を精密化して、
その本質、あるいはそのような概念を導いた人間の本質を明確化することを目的としていてるように思います。
例として適当かどうかは分かりませんが、「つちのこ」がいるかいないかではなくて、「つちのこ」とはなにか
ということを議論するのが哲学なんじゃないかなぁと思っています。
もちろん「つちのこ」について(ですら)一義に結論はでないでしょう。地域文化的な意味づけもあるでしょうし、
生物学的な存在論もあるでしょう。文学や心理学的な意味づけもあるでしょう。ひょっとすると人間の存在にとって「つちのこ」は
必要欠くべからざる存在なのかも知れませんし。
とにかく、「つちのこ」という概念を「つちのことはなにか」と聞かれたときにきちんと定義できないと
議論が始まらないのではないでしょうか?)

というわけで、3つの違和感を感じます。
(1)「輪廻転生」について明確な定義なし(もできていないのに)に輪廻転生説は愚の骨頂 といっている。
(2)「輪廻転生」について明確な定義できていないので、哲学(?)的議論の主題として、延々と回答とお礼が続いている。
   ので、質問の「輪廻転生説は愚の骨頂」ということの反証になっているように見える。
(3)「文学」を排除して、輪廻転生のようなものがなぜ定義できると考えていらっしゃるのか不思議思います。
以上です。

というわけで、通り抜けます。ではでは

この回答への補足

 moumougoo さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 通り掛かりのものですが・・・// ・・・というわけで、通り抜けます。ではでは
 ☆ と言われて どこまで お礼と問い求めを深めるための記述をすれば よいか 迷いますが やはり ひととおり お応えしておくべきなのでしょう。
 ★ 「輪廻転生」について明確な定義できていない
 ☆ そうでしょうか? けっこう 出ていますよ。

 ★ bragelonneさんのおっしゃっている「文学」とは何でしょうか?
 ☆ こういう場合には ここでこう言っているが それは これこれのゆえに 間違っているのではないか とか あるいは どうも 斟酌すれば これそれの意味であるようだが それは かれそれのように規定したほうがよいのではないか とか こういうふうに 議論をすすめることが 望ましいでしょうね。
 これだけ わたしのほうも述べて来ているのですから 何も汲み取るものがないと言われては 話をすすめようにも ひとこと このようにお返ししないなら それこそ 
 ★ 延々と回答とお礼が続いている。
 ☆ ということになるでしょう。

 ★ bragelonneさんご希望の”「文学」を排除した哲学”
 ☆ これは 誤解です。文学を含むかどうかは 自由です。文学のように 一回性のことがらを 想像力を最大限に駆使して あらゆる表現のあり方とその組み合わせをとおして 人間の真実を描きだすというのではなく そうではなく 哲学の扱うことは あくまで 経験合理性にもとづいた一般性またむろん普遍性をもった事柄です。けれども 文学を そのとき 排除しようとしているわけではありません。
 ○ 文学だけの記述では この問いに関する限り 議論にならない。
 ☆ と言っているだけです。
 そもそも このように ひとつの事項を捉えただけでも ご理解が 行き届いていないと 初対面の方に対して はなはだぶしつけな言い分ながら 考えます。

 ★ つちのこ
 ☆ が どうしたのですか? 同好会の話題は 扱っていませんよ。分かりませんか? 文学や趣味嗜好のことは ご自由にどうぞと言っていることくらいは 読んでおられるでしょうに。
 あるいは こうです。哲学として 輪廻転生説は その主題として扱うには値しないと理論づけておけば あとは ご自由にどうぞと言っていることができる。こうも 述べて来ました。
 
 ★ ひょっとすると人間の存在にとって「つちのこ」は / 必要欠くべからざる存在なのかも知れませんし。
 ☆ となれば たしかに 人間観がちがうということでしょうね。そういうご回答であると ありがたく 頂戴し お送り出しをすべきだったかも知れませんね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あと理由の1からbragelonneさんは「哲学」がなにかの存在を「証明」したり「反証」したりすることを目的とする、
 というように読み取れるのですがそれでよいのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なんで こんな読みになりましょうか。証明も反証明もし得ないのなら 理論にならないという意味ですよ。つちのこと同じように 娯楽だと言っているのですよ。
 娯楽をやめよというようなことを 言いましたか? あぁ そう言えば 《全否定》ではないかと喰ってかかってきた回答がありましたね。どこをどう読めば そんな解釈が出てきましょう。
 すでに述べたように この問いの衝撃力が強いゆえに あるいは そういう反応となって現われるかも知れぬというところでしょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 どちらかというと哲学は、輪廻転生のような概念を精密化して、
その本質、あるいはそのような概念を導いた人間の本質を明確化することを目的としていてるように思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そんな講釈を聞こうとは思わなかったですね。それは それで あるでしょう。ところが ここでは 問題は はっきりしており 問い求めの進め方も 明らかにして来ているところを どうして そちらの方面へ 持って行きたいということになるのでしょう?
 さようなら。

補足日時:2009/05/06 22:12
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オコリザルです。


輪廻について結局証明できない事とか何とか言ってお手上げ状態にしておいては、信仰に逃げたりもやもやしたりで結局哲学と縁が切れないでしょう。そういうわけで今回はしっかりと考えにしてみる取り組みをしたわけです。
その自らの考えを振り返ると、出だしから輪廻は娯楽という考え方になっています。
さらに掘り下げると信仰に厚い方に対して医者にかかることを推奨してしまいました。
親身になって取り組んだつもりだったんですがね~。
確かに哲学でない考え方になってしまうようです。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 出だしから輪廻は娯楽という考え方になっています。
 ☆ これに同感しています。色をつけて 文学ですね。
 あとは 信仰か それとも その観念共同化としての宗教か あるいは 経験科学としての哲学か これらの区分けを きちんと していくと よいのではないでしょうか。

 この区分けは いま あらたに――今頃ですが つまり これまでにも 幾度となく 触れて来ましたが―― magga 氏とのあいだで 始まりました。なかなか 理解を得るまでには到らない情況ですが 乗りかかった船ですから 行くところまで 行きましょう。見ていてください。

お礼日時:2009/05/06 19:42

maimai.susです。



あー、なるほどね、ようは、
>☆ これで回答になり 通じると思うのだったら もう応答しません。無理だとあきらめます。
って事は、相手を理解する気がないって事ですよね。
もし理解する気があるのだったら。No.33のお礼欄でも、
>やはり 論理の無視 対話の無視でしたね。
なんて、言わずに、何がどう私が分かっていないか指摘し話を進めれば良い訳ですから。
まあ、そう言う意味では、ある意味、No.59の回答で正解だたようですね。

もしそうでないよ、質問はそのままだよってことなら、前回までの回答を踏まえて。
私にとっては、世の中は複雑で、輪廻転生・因果応報は愚の骨頂であるかどうかは一概には言えないと思うが私なりの答えです。
それは、それまで、それ(輪廻転生・因果応報)を基準に教えとして、存在してきた心や文化を考えれば、愚の骨頂とは思えないような部分は多々あるからです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2009/05/06 16:56

まず



『細かく言うと「無い派」に「悟っている人・<知る限りに>ないと知っている人」悟っていないが「あるという見解」。ある派に悟っていないが「無いという見解」という三分ができるかも知れませんw』

と訂正いたします。

(A) 《絶対》とは何ぞや?
(A‐1) 《永遠不滅・変化しない実体》は 人間が 《ある》とか《ない》とか言えるか? そのように認識できるものなのか?
● 
『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は認識できないでしょう。認識出来たらそれは『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』出ないということになるでしょう。『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』から影響を受けることも『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』に影響を与えることも成り立たないと考えますから。

影響があるといえば『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は不完全で変化生滅するものとなり『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』でなくなるでしょうから。

そのような理由から個人的には「無い」と考えてます。もしあったとしても影響も受けないし与えないものは「無い」と同じことともいますしね。

 (A‐2) 仮りに有神論なり無神論なりと ある・ないで言ってみるに過ぎないのではないか?

そうですねあくまでも『仮に』なのですよね。

 (A‐3) 《神》を見た者はいるのか?

見るなら『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』でなくなるでしょう。

影響を交換してますから。変化してますね。

 (A‐4) 《無限》を半分に分けたら その二つの部分は 無限ではなくなるのか? そもそも 分けるということができるのか?

「無限」の意味『哲学的な知れる限り意外』・『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』。

単純に日本語の意味は『「行・サンカーラ(条件が整って起こっている)」→その条件がある限り起こってしまい、行き着く最後の所・終わりが無い。』といういみでも問題ないと思います。

そのどちらの意味でも「半分」の意味が解りません。
意味を提示してくださいませんか?

 (A‐5) その無限を われわれは 認識できるのか? 実在していると言い得るのか?

『哲学的な知れる限り意外』・『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は認識できないものでしょう。出来るとはいえないでしょう。

後者の『「行・サンカーラ(条件が整って起こっている)」→その条件がある限り起こってしまい、行き着く最後の所・終わりが無い。』は『知れる限り』の中にあると思いますよ。

 (A‐6) それが 神のことだが 果たして きみは この神を見たのか?

『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は認識不能なのでしょう。

 (B) ★ 「死後は無い論」は言い切るのが危険な道徳的に不完全なものと思っています。
 (B‐1) 《死後》は あるとか ないとか 人間が言い得るか?

皆、論として見解として「ある」「ない」といっているでしょう。

 (B‐2) 言い得ないとき だったら この《死後》は 《絶対》のことか? なぜ そうか?

「死後=また生命」でまた死に生まれるというのが輪廻と言われるものでしょう。死後がないと言う論を正しいとすると「死=涅槃」といっているのと同じになってしまいますが…

『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』とはどう関係するのか解りません。関係ないと感じます、、というか関係はもてませんよね、変化してしまいますから。

 (B‐3) 誕生以前ないし死後は 経験的な存在としての人間に属するものごとではないのか? 

前世・来世が人間かどうかは知りませんが、生命に属すると思いますよ。「知れる限り」の中にあることと。

 (B‐4) 自分がいない もしくは いるかいないかが分からない状態であっても 世界は それとして 存続しているのではないか?

自分がいないとはどのような意味でしょう?
いるかいないかが分からない状態とはどのような状態でしょう?

なんにせよ物質と心の流れは法則に則って変化生滅し続けていくでしょう。

 (B‐5) そのとき 自分は それでも いるなら いる いないなら いない と主観において 思っても よいはづだ。 決めつけても かまわない。つまり 主観の問題だ。ただ それだけのことだ。ではないか?

問題なく何を考えるかは個人の自由です。
そこに反論はありません。

 (B‐6) これが なぜ 絶対のことになるのか? 

どれが『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』になるのでしょうか?

 (B‐7) 絶対との関係としてなら わたしは 非思考である。絶対のことを考えることはできない。しかるに 誕生以前ないし死後のことは 自分が自由に勝手に主観において 思ったり考えたりしておくことである のではないか?

思考の自由はもちろんです。
しかし「来世が無いという論」は「前記したように、精進を滅し怠けを正当化し、道徳を滅し非道徳を正当化するような恐ろしい穴がある」といいます。

ところでなぜ前世来世は『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』なのですか?

 (B‐8) それと いまここの わたしの行為一般の行方と どうかかわるのか? また それが 道徳と どうかかわるのか? 

貴方に関わるか知りませんが、見解によって人は生きていると思います。その見解の危険な穴に嵌る人は見事に道徳を崩し、同じ穴を信仰している人にとってはその人を説得するのは困難でしょう。

 (B‐9) 主観の自由な想像にゆだねられたことと 現実の行為およびその行方とが どうかかわるのか?

私は見解によって人は動いていると思います。

 (B‐10) しかも それが 死後にまでおよぶと よくも 哲学が言えるものだ ではないか? 

「見解として死後を言うならば」道徳を崩す論理には反論をなすのが慈悲深い人の幸福を考える論者のなすことと思います。 

(B‐11) その上なおも どう頭をひねくれば それが 道徳とかかわるのか?

見解によって人は動いている生きていると思います。
悲しいことに。実際に危険な不完全な見解を持って殺生を正当化し、いい事と考え、実践する方々がいるでしょう。

 (B‐12) 道徳もしくは ひととの関係は とうぜん このいま・ここのわたしが 自分の考えで 自分の意志において おこなう行為の問題だ ではないか?
●「自分の考え=自分の見解」でしょう。そこから意志によって行なうのでしょう?

 (B‐13) その行為は そのつどの一回切りのいわば真剣勝負ではないのか? なんで 死後にまで 持っていかねばならないのか? 金魚のふんではあるまいに。

現象は一度きりでしょう。しかしその瞬間瞬間の意志・感情(業)によって、人の感覚に対する感じ方という「業」の果は、影響され変化していると思います。

強く・多く抱いた意志・感情によって心の感覚に対する受け取り方「苦・楽・不苦不楽」が変化することは心理学でもわかっていることではないでしょうか?

心は前の現象の影響を受けて感覚に対する感じ方と意志の選択の幅を決めてしまうと考えます。

体が壊れたからといってそのサンカーラは止まることは無いだろうというのが輪廻論だと思います。

 (B‐14) まちがったなら 正せばよい。あやまつなら われありだ。なおせば よい。繰り返しても よい。少しは よくなるものだ。死後にまで持っていくと言うから ややこしくなるのではないか?
 ・・・

そもそもお釈迦様は間違ったら正すことを推奨されているでしょう。
意志の選択の幅から、最善を選び幸福になるように。

「死後がある」と言っている人には、その論の間違いと、生き方を
「死後が無い」と言っている人にも、その論の間違いと、生き方を
「死後?解らん」といっている人には、死後「ある」「ない」論を紹介し、どちらかが事実ならという話から、今善く生きれば現世で幸福になって、もし死後があったならいいところにいくでしょうと生き方を説かれています。

どれも重要なのは「どう生きるか」でそれぞれの問題点を指摘なされています。

なにもややこしいことは無いと思います。

 (C) これらすべて ともかく 何はともあれ たとえ おてんとさまが西から上がろうと ひとは いかに 悪人であれ 一人残らず 仏性を宿している。のではないか?

2500年前のゴータマ師が語った言葉と考えてないのですよね。

 (C‐1) なんで ゴータマくんは はじめから このことを言わなかったのか?

私は「悟る可能性」という意味で捉えてます。
そのような意味での言葉などいくらでも言ってますよ。
「親殺しなどのよほどの悪業を積んでいないこと。素直で正直であること。を満たすなら今生でも悟れる」と。

 (C‐2) 自分だけは 仏性〔とは言わなかったようだが〕を磨き上げた目覚めた人 ブッダだと言って すましていたのか?

「悟ったなら私と同じだ」といってますよね?」その方法まで語ってますし「~が悟った」ともところどころで言っていますね?

 (C‐3) 八つの正しい道だって? そんなことは 生まれつき われわれは 知っていることだ。ただ へそ曲がりゆえに ちょっとやそっとでは 実践できないってだけだ。あんたにおしえてもらわなくても だいじょうぶだよ。そのおしえてやるという態度が 気に食わねえ。ではないのか?

人類の何千いや何万年の間、どれだけの方がこの八正道を語られているのでしょう?私はゴータマ師以前に説いた人を知りません。

ゴータマ師は「今善く生きること」こそを語っているという意味をこめ、生命の法則から希求・十善十悪・八正道などを書きました。

 (C‐4) 仏典だって? データだって? 人間に生まれたからには 仏性のことくらいは 誰だって 知っているって言ってるぢゃないか。その自然本性ゆえに ゴータマくんは 自分のおしえを説いたのだろ? ではないのか?

何かを「間違っている」「おかしい」という時は、その何かの「間違っている所」「おかしい所」を提示しなければ「ただ悪口を言いたくて根拠無く感情にもとづいて言っている」となってしまうと思いますので、提示を求めたのです。

 (C‐5) お経がえらいのぢゃない。人間が とうとい存在であるゆえに お経に書くことも 得られたのだ。ちがうかい?

「えらい」という問題ではなく、何が間違っていておかしいのかの提示を求めただけですよw

ゴータマ師の教えにこれだけ言うのですから、「無根拠の感情による悪口」でないなら、根拠が無いわけは無いだろうと思ったので。

 <<★ 貴方は理性的な反証者でしょうか?☆ 自分は どうなんだい? >>

そうあろうとは思ってます。不完全でしょうが、「思う」「考える」と一応範囲は気にしているつもりですw

 <<★ こちらの意味は仏教では管轄外だと思います。☆ 管轄外だと? たわけたことを言ってんぢゃないよ。>>

『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は「ない」もしくはあっても「ない」といっても同じことと思っていると私は考えますので、相手にしないという立場だとは思います。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この回答への補足

 magga さん いいですか。一つづつ すすめてまいりましょう。

 1. 絶対 : 無限・永遠・非経験・超経験・超自然;不可変性・不可視性;言い表わし得ぬもの・表象し得ぬもの;霊
  ・ 次の相対世界を超えたところに 想定しておくものです。
 2. 相対世界:何ごとも 程度問題であるという時空間のことです。
  ・定量的および定性的というように そのものごとを特定することができます。
  ・目に見える・もしくは簡単に言って 望遠鏡ないし顕微鏡のごとく科学の目に見える および 心の目に見えるところのこの経験世界のことです。
  ・思考・想像・感覚の対象となるものごと。
  ・(今回は 触れませんが 誕生以前および死後は 想像や思考の対象になります。したがって 《絶対》ではありません。強いて言えば 《未知》です。だから 死後や来世を《信じる》という言い方は まちがいです)。
 3. 無限は はじめの想定にもとづけば 分割し得ません。仮りにできたとして その部分部分は けっきょく それぞれが やはり 無限です。そういう想定です。∞(無限大) ÷ 2 = ∞; ∞ ÷ 3 = ∞;・・・

 4. この《絶対》と《わたし》との関係を――それは 経験的に思考し得ないゆえに―― 非思考という意味で 《信じる》ということばを 日本語では 当てています。
 5. このとき 分かりやすいように――あくまで 分かりやすいようにです―― 《絶対》を 擬人化して 《絶対者》という言い方をも取るようになります。そうして この絶対者を 《神》という呼び名で表わします。
 6. おそらく この神は ヤハウェー・アッラーフ・ブラフマンとも呼ぶものでしょう。もしくは 無神論の《無神》です。
 7.ですから 前三者(もっと多いかも)が有神論ですが それは 《〈絶対〉と〈わたし〉の関係としての〈信仰〉》にとって 無神論と同等・対等のものです。言いかえると 《神を信じる》と言っても 《神を信じない もしくは 無神を信じる》と言っても 互いにまったく同じことです。
 8. このとき わづかに 人間の言葉で――それは 仮りにです――表わすために 神は 《ある》か 《ない》か どちらかに 分かれます。
 9. 絶対を想定する限り――たとえば ∞(無限大)÷ n といったように数論で扱います そのように想定するわけですから―― ひとは みな 《ある》派か《ない》派かのいづれかに なります。
 10. つまり ここで ひとつ言えることは このような意味で 《信仰》は みなが いづれかの派において 持っているということです。
 11. ですから 有神論派も無神論派も まったく同等で対等で平等なわけですから 互いにその相違性を 受け容れて かつ 自由に 批判し合って すすむのが 大事である。

 ここまでは どうですか?

 ★ 『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』
 ☆ 前二者は おおむね 《絶対》のことですが あとの三者は はっきりしません。
 《アートマン》は ブラフマンと同一だという意味で 絶対として 取り上げられるのでしょう。たぶん 基本は ちがうでしょう。
 《魂》は 無理だとしたほうがいいでしょう。《霊》の意味で 使うことがありますが 基本は 《こころ もしくは 精神》のことでしょう。
 《変わらない「私」》は 先の《ブラフマンと合一したアートマン(梵我一如)》のことですかね? あまり取り上げなくてもよいのでは? はっきりしないでしょう。
 ですから このような《絶対》が
 ★ 「ない」もしくはあっても「ない」といっても同じことと思っていると私は考えますので、相手にしないという立場だとは思います。
 ☆ というのは おかしいですね。
 信仰のことは 一たん 有神論派か無神論派かを 自分の信教・良心の自由において 選んだあとは もう 触れたりしなくてもよいでしょうが そのことは 《相手にしない》ということとは 別です。相手の信教の自由を認めて 有神論および無神論 いづれも 同等と やはり認めて その上で 互いに 自由に 議論していくこと これが 人間にとって 妥当な道です。
 さて この一件は どうですか?

補足日時:2009/05/06 17:34
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maimai.susです。



>わたしの補足要求としての問いに答えてからにしなさい。
ってNo.32のお礼欄の内容そのままですよね。
No.33で私なりの回答してますよね。
それで通じないと思ったなら、bragelonneさん流に言うと、違う書き方するのが筋なんじゃあないですか?
まあ、そう言うとちゃんと読みなおして理解してから答えろと言われそうなので、No.59の回答になったのですがね。

私の思い違いでしたらごめんなさい。
違うと言う事であるのでしたら、補足要求の意味が分からないのでおしえてください。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >わたしの補足要求としての問いに答えてからにしなさい。
 ってNo.32のお礼欄の内容そのままですよね。
 No.33で私なりの回答してますよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これで回答になり 通じると思うのだったら もう応答しません。無理だとあきらめます。いちいち けっきょく 撤回するようなことばかり 何度も 投稿してきただけでしたが ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/06 13:00

「想定」という言葉に引っかかってたようですw



それでは僕なりの回答を試みたいと思います。


『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』を「絶対」や「神」と貴方が呼んでいるのでしょうか?

そうであるなら大まかに「ある派」「無い派」に二分出来ますね。
細かく言うと「悟っている人・ないと知っている人」悟っていないが「あるという見解」「無いという見解」という三分できるかも知れませんw

それならば私は「無い派」で「無いという見解」をもっています。


「無限」には特別に哲学用語として「知る限り意外」についての意味もあるのですね。ウィキペで調べ知りました。その意味を提示してくれるとありがたかったですw

こちらの意味は仏教では管轄外だと思います。知りえる限り(苦の原因)を知り善(苦の減少・幸福)に至り、悟る(原因を滅する)道だと思いますので。

私の言った意味は「辞書の意味」を用いて、「行・サンカーラ(条件が整って起こっている)」→その条件がある限り起こってしまい、行き着く最後の所・終わりが無い。という意味で語りました。


「死後は無い論」は言い切るのが危険な道徳的に不完全なものと思っています。この論を絶対正しいと言い切るなら次ぎのようなことに正当化を許すことになると思います。

「死後が無いなら、死ねば自分の行為(業)の結果が出ない」
「悪行・十悪をいくらなしても死ねば結果がでない」
「善行・十善をいくらなしても死ねば結果が出ない」
「死ねば悩み苦しみが無くなる」

これらが「生命は悩み苦しみが嫌で、避けたい、なくしたいと思っている」という事実と合わさって

「殺すこと・死ぬこと」に正当化を許してしまいます。
「すき放題やること」に正当化に許してしまいます。

このように精進を滅し怠けを正当化し、道徳を滅し非道徳を正当化するような恐ろしい穴がある論だと私は思います。

危険な論だと思いませんか?
「この論を持っているから危険」では無いですよ
この論に危険な穴があると思いませんか?
道徳的に精進し幸福になるという論としてはかなり不完全だと。
道徳の論理は崩れ落ちませんか?


六道(パーリ語では五道)とは単なる生命の次元の説明で、総じて生命について語っているものと思います。

では「生命」とは何でしょう?
生命とは生きています「生きている」とは何でしょう?
「生きている」とは「感覚がある」「動いている」とシンプルにいえると思います。
なぜ動いているか。「止まると苦しい」でしょう。
苦しい状態(立ったまま)から動く(座る)と「楽」を感じるでしょう。しかしまたそのまま止まる(座る)ままでいると苦しみを感じますね。結局は「苦の減った分」に「楽」といったいるに過ぎないし、「感覚は苦」であるといえるでしょう。

結局どこの次元にいても「苦」があると説いているように感じますよ。

そしてこの事実から次ぎのような生命の基本的な希求がみえてくると思います。

「幸福でありたい」
「悩み苦しみはいやで、避けたい」
「願い事がかなって欲しい」
「今なすべきことがすぐにひらめいてほしい」

ここで理性のある人のなすべきこととして、この希求を
「自分に」「親しい人々に」「一切の生命に」認めること
自己の「慈悲喜捨の心を育む」ことが出てくると思います

次いで、自他に迷惑をかけないために、十悪をなさず、十善をなすこと。

それを完成させるために八正道を実践し、多修することがあると思います。

そのようにお釈迦様は、自他のためになる・善に至る・最善の方法を詳細に矛盾なく具体的に教えてくださってます。

それだけでなく「渇愛」「パパンチャ」「業のシステム」に生命が嵌められていて六道(五道)で輪廻し苦しんでいるんだ。と言い、そこから抜け出す方法・悟り・涅槃に至る方法チャレンジする方法をも語られています。

「今」ここで自分の精進によって善・幸福に向かって一歩一歩正しく歩む方法と、生命を乗り越える(苦を完全に滅する)道へのチャレンジも説かれています。

仏教徒・サンガの一員の方々は、『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』ではなく、『苦の滅』(苦の原因を・条件を無くす)ことを考るでしょう。


なぜ「お釈迦様が大部分の人をみくびった」と「何様だ?」と言えるのでしょう?(私の言っているお釈迦様はパーリ語の仏典に語られた方のことですが)

再び↓

何を根拠に、どのようなデータを基に語っているのですか?
少なくともパーリ語の仏典にそのようにお釈迦様を言えるようなデータはないように感じますが…どのデータを基に貴方の見解が出たのでしょう?

何を根拠にどの経典をどのように貴方が読み取ったからこのような見解になったと教えてくださると幸いです。

祖師宗教からなる日本大乗仏教どの祖師の語るどの経典を誰が読み解いたものに貴方がそのような見解に至ると感じるデータがあったのか、漢文の仏典・サンスクリット語の仏典・パーリ語の仏典のなかからどのような経典のどのような言葉によって貴方がどのように読み取ってそのような見解に至ったのか、そこを教えていただけると幸いですし、ここまで非難することを言うならそれをなすのが理性的な人として当然のことともいえましょう。

「なんとなくだ」というのも一つの答えでしょう。
理性的な方のなすことではないとは思いますが。。。
正直な分はいくらかましでしょう。

貴方は理性的な反証者でしょうか?

回答よろしく。
理性的な反証は多くの学ぶところを生み出すと思います。

正直な理性的反証者であると信じて。。。

生きとし生けるものが幸せであれノシ

この回答への補足

 みなさん 世にも不思議な論理を駆使した文章が ここにあります。
 ぜひ みなさんの知恵をお借りして この文章の欠点を説明し よりよい妥当な考えへと みちびいて差し上げてください。どうか みなさん われこそはと思わん方がた ぜひ このわたしの補足要求に答えてみてください。

 論点を整理しておきます。またほかにあると思われた方は その点にも 触れてみてください。
 (A) 《絶対》とは何ぞや?
 (A‐1) 《永遠不滅・変化しない実体》は 人間が 《ある》とか《ない》とか言えるか? そのように認識できるものなのか? 
 (A‐2) 仮りに有神論なり無神論なりと ある・ないで言ってみるに過ぎないのではないか?
 (A‐3) 《神》を見た者はいるのか?
 (A‐4) 《無限》を半分に分けたら その二つの部分は 無限ではなくなるのか? そもそも 分けるということができるのか?
 (A‐5) その無限を われわれは 認識できるのか? 実在していると言い得るのか?
 (A‐6) それが 神のことだが 果たして きみは この神を見たのか?

 (B) ★ 「死後は無い論」は言い切るのが危険な道徳的に不完全なものと思っています。
 (B‐1) 《死後》は あるとか ないとか 人間が言い得るか?
 (B‐2) 言い得ないとき だったら この《死後》は 《絶対》のことか? なぜ そうか?
 (B‐3) 誕生以前ないし死後は 経験的な存在としての人間に属するものごとではないのか? 
 (B‐4) 自分がいない もしくは いるかいないかが分からない状態であっても 世界は それとして 存続しているのではないか?
 (B‐5) そのとき 自分は それでも いるなら いる いないなら いない と主観において 思っても よいはづだ。 決めつけても かまわない。つまり 主観の問題だ。ただ それだけのことだ。ではないか?
 (B‐6) これが なぜ 絶対のことになるのか? 
 (B‐7) 絶対との関係としてなら わたしは 非思考である。絶対のことを考えることはできない。しかるに 誕生以前ないし死後のことは 自分が自由に勝手に主観において 思ったり考えたりしておくことである のではないか?
 (B‐8) それと いまここの わたしの行為一般の行方と どうかかわるのか? また それが 道徳と どうかかわるのか? 
 (B‐9) 主観の自由な想像にゆだねられたことと 現実の行為およびその行方とが どうかかわるのか?
 (B‐10) しかも それが 死後にまでおよぶと よくも 哲学が言えるものだ ではないか? 
 (B‐11) その上なおも どう頭をひねくれば それが 道徳とかかわるのか?
 (B‐12) 道徳もしくは ひととの関係は とうぜん このいま・ここのわたしが 自分の考えで 自分の意志において おこなう行為の問題だ ではないか?
 (B‐13) その行為は そのつどの一回切りのいわば真剣勝負ではないのか? なんで 死後にまで 持っていかねばならないのか? 金魚のふんではあるまいに。
 (B‐14) まちがったなら 正せばよい。あやまつなら われありだ。なおせば よい。繰り返しても よい。少しは よくなるものだ。死後にまで持っていくと言うから ややこしくなるのではないか?
 ・・・
 
 (C) これらすべて ともかく 何はともあれ たとえ おてんとさまが西から上がろうと ひとは いかに 悪人であれ 一人残らず 仏性を宿している。のではないか?
 (C‐1) なんで ゴータマくんは はじめから このことを言わなかったのか?
 (C‐2) 自分だけは 仏性〔とは言わなかったようだが〕を磨き上げた目覚めた人 ブッダだと言って すましていたのか?
 (C‐3) 八つの正しい道だって? そんなことは 生まれつき われわれは 知っていることだ。ただ へそ曲がりゆえに ちょっとやそっとでは 実践できないってだけだ。あんたにおしえてもらわなくても だいじょうぶだよ。そのおしえてやるという態度が 気に食わねえ。ではないのか?
 (C‐4) 仏典だって? データだって? 人間に生まれたからには 仏性のことくらいは 誰だって 知っているって言ってるぢゃないか。その自然本性ゆえに ゴータマくんは 自分のおしえを説いたのだろ? ではないのか?
 (C‐5) お経がえらいのぢゃない。人間が とうとい存在であるゆえに お経に書くことも 得られたのだ。ちがうかい?

 ★ 貴方は理性的な反証者でしょうか?
 ☆ 自分は どうなんだい? 
 ★ こちらの意味は仏教では管轄外だと思います。
 ☆ 管轄外だと? たわけたことを言ってんぢゃないよ。

補足日時:2009/05/06 10:50
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maimai.susです。



bragelonneさん、質問の仕方が悪いんでないの。

>ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?
>真実をおしえてください。
にするから、今の状態になっていると思いますよ。

なので最初から、
>>だと私は思うのですが、それは次の理由により、哲学が取り上げるには、値しない主題ではないと思います。
>>この他にも、いろんな理由や考え方があると思うので、愚の骨頂と思える理由お待ちしています。
みたいな感じにすれば、bragelonneさんの趣旨に合うのではないでしょうかネ。

もし本当に、どちらか知りたくての質問であり、輪廻転生を信じている人達の考え方や、背景が理解できているならば、この人達はこう言う理屈、理論、思考を持っているが、私はこう言う理由でそうは思わないと比較せて、質問するべきですよね。
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この回答へのお礼

 わたしの補足要求としての問いに答えてからにしなさい。

お礼日時:2009/05/06 08:04

自分は輪廻を信じていますが、そもそも転生輪廻だけとらえれば、これだけアホな教えもありません。

かなり誤解をあたえます。だから鎌倉仏教やキリスト教でも、おおよそ宗教の教義では取り入れないほうがいいかもしれません。つまりなぜ仏教が取り入れたかというと、仏教は無我や業を説いて、輪廻を脱する方法を教えたからだと思います。そうすると、キリスト教やイスラム教、などとも共通してくると思います。つまり仏教とは天国や地獄についてかなり詳しく語った宗教だということです。
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この回答へのお礼

 ufoooo さん こんにちは。ご回答をあありがとうございます。

 おおよそ おっしゃるようなことだと思いますよ。
 ★ つまりなぜ仏教が取り入れたかというと、仏教は無我や業を説いて、輪廻を脱する方法を教えたからだと思います。
 ☆ ここに 力点があるでしょう。あなたは
 ★ 自分は輪廻を信じていますが、
 ☆ とおっしゃっていますが 輪廻を脱したなら もう 生まれ変わりは どうでもよいのではないですか? あっても なくても かまわないのではないでしょうか。そのこころは 仮りに 生まれ変わったなら そのとき 考えればよい。こういう意味です。どうでしょう?

 信仰もしくはいくつかの宗教の教義 この点については 触れませんでしたが。

お礼日時:2009/05/06 08:56
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