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 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。

 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。

 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。

 真実をおしえてください。

A 回答 (114件中31~40件)

オコリザルです。


昨日の悶絶を振り返ってみたのですがA80のご返事(引用)は文章そのままの意味の読み解きとは別に「俺はお前の無を知っているぞソレはこのようである」と言った知解構造が二重写しになって、食べ合わせの悪さのような感じになったんです。
そこでまづ想定したのはbragelonneさんを哲学に案内する鬼神だったのですが「誰かの」という表現は当たらないのかもしれませんね。
不明ですが追っかけたり検討したりしなくてもいいのかもしれません。
「誰かの」の想定が妥当ではないので、私の無に対するメッセージなのか、bragelonneさんの無に対するメッセージなのかも追いかけられません。
悶絶でそれどころでは無かったです。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。あの長い文章が なるほど
 ★ 構造
 ☆ を持つかに思えるとは 思ったのですが
 ★ 「俺はお前の無を知っているぞソレはこのようである」と言った知解構造が二重写しになって、食べ合わせの悪さのような感じになったんです。
 ☆ という ここまでのこととは 夢にも思わず 失礼しました。悶絶とは 失礼しました。喰い合わせですか。そうなのかも知れません。文章は 長いこと 引きずって行って どんでん返しがある筋書きでもありますからね。

 ★ ・・・「誰かの」という表現は当たらないのかもしれませんね。
不明ですが追っかけたり検討したりしなくてもいいのかもしれません。
 ☆ これでいいのですね? つまり もう お任せしておいても いいのですね?

 服なんか着なくていい。裸でいい。という議論は ほかのところで 出ていますよ。

お礼日時:2009/05/10 23:00

>  ☆ たとえば こういう問題は どうなのでしょう?


>  ○ 次の答えに対して どう答えるのでしょう?
>   ――なぜ ひとを殺したのか?
>   ――前世の業の結果が 現われたのだ。殺されたほうとて 同じである。すべて 自業自得である。何も 問題はない。

それは運命論で、業報思想に対する誤解です。
時間の関係、行為するものとされるものをごっちゃに考えているからそうなる。

善悪の行為が原因であり、苦楽が結果です。
殺された人にとっては、苦であり、過去の悪業の報いを受けたのであり、
殺した人にとっては、殺人という悪業であり、将来その報いを受けることになる。

逆に、殺人などの悪業を犯しても報いを受けないこともある、と考えると善も悪も関係なくやりたい放題になるでしょう。
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この回答へのお礼

 jugemjugem さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 殺された人にとっては、苦であり、過去の悪業の報いを受けたのであり、
 殺した人にとっては、殺人という悪業であり、将来その報いを受けることになる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが わたしの議論が誤解に発しているという理由説明ですね。
 《殺された人》にとっては 過去の業が その時点で 報いを受けたのに対して 《殺した人》にとっては なぜ そうはならないのですか?
 つまり 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むのですか?

 ★ 逆に、殺人などの悪業を犯しても報いを受けないこともある、と考えると善も悪も関係なくやりたい放題になるでしょう。
 ☆ つまり 殺人を犯したというその行為は 過去の業の報いであるのではないですか? それとも 過去世に何も 報いとなるような業がないのに その報いつまり殺人という行為に及んだということなのでしょうか?
 その殺人者には 因果応報があてはまらないのですか?

お礼日時:2009/05/10 22:47

こんばんわ


私は刺激的な質問タイトルにつられて見に来た通りすがりのヒマ人です。
私のような凡人(と思いたいレベル)には難しいのですが、貴方の主張を私なりの解釈としては、下記のように思います。

貴方は、輪廻転生説は愚の骨頂だから哲学として取り上げる主題ではないとおっしゃる
その理由(愚の骨頂とする理由)は
1.証明も反証もできないからだ
2.因果応報説がついてまわるからだ
3.生まれ変わることを念頭に置いて現世を生きるなんて意味がないからだ
4.何でも自由にできる現代において合わない思想だからだ

私は哲学ってどんな学問なの?そんなこと議論して何か変わるの?というレベルなのでこの程度にしか解釈できません。
また、私は輪廻転生とは「人は生まれ変わる」因果応報とは「すべては自分の業が招いた結果」という思想として捉えています。
そんな私がこんな高次元の議論の中に書き込むことこそ愚の骨頂なのでしょうが、あえて馬鹿に空気は読めないということで、書き込みさせていただきます。

1について
 証明も反証もできないこと(思想、現象すべて含めて)についていろんな哲学者が語って(議論して)ますよね?
 哲学者達の議論を愚の骨頂としないなら、輪廻転生説も哲学として取り上げても問題ないのでは?
2について
 う~ん 問題にしてるのは輪廻転生説なのだから因果応報説をくっつけて考えなくてもいいのでは?
 私は輪廻転生は信じてるけど、因果応報は信じない人なので、そう思います。
3について
 輪廻転生って自分自身が望むということだけじゃなくて、相手(自分以外のもの)に対して望むこともあるのだから、一概に意味がないとはいえないのでは?
 例えば、幼くして子供を亡くした両親が「生まれ変わってもう一度私たちの子供に…」と願い、悲しみを堪えて生きることが意味のない生き方ですか?
 病気や障害で苦しい思いをしている人が「健康な体に生まれ変わりたい」と願うことは愚の骨頂ですか?
4について
 何でも自由にできる現代においても自分ではどうしようもないことは存在しますよね?(上記3の例のように)

と、こんなふうに私は考えます。

貴方が愚の骨頂とする理由のすべてに同意できないことをもって愚の骨頂としないなら哲学として取り上げて問題なしとなります。

が、貴方の「真実をおしえてください」の答えとは違いますね。そもそも、証明も反証もできないものに「真実」なんて存在するんでしょうかね。

長い馬鹿の独り言になってしまいましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございました。

この回答への補足

 bu-bu-blue さん ご回答をありがとうございます。この質問に 足を止めていただき ありがとうございます。

 お応えしてまいります。
 ★ 1について : 証明も反証もできないこと(思想、現象すべて含めて)についていろんな哲学者が語って(議論して)ますよね?
 ☆ たぶん 《〈証明も反証もできない〉ゆえ 主題として扱うことはできない》という議論としての扱いだと思うのですが?

 ★ 2について : う~ん 問題にしてるのは輪廻転生説なのだから因果応報説をくっつけて考えなくてもいいのでは?
 ☆ したがいまして 《くっつけて考える》場合には どうかという話になります。でも
 ★ 私は輪廻転生は信じてるけど、因果応報は信じない人なので、そう思います。
 ☆ 《因果応報は信じない》ことじたいは とうぜんだとわたしは考えるのですが 一般には くっつけていると思われますし また 離して輪廻転生を捉えるなら それは 気の抜けた麦酒のようだと考えられるのですが? あるいは逆に尋ねますが わたしは 聖徳太子だった そして 清盛だった そして 信長だったうんぬんと言っていくのは 味がありますか? 

 ★ 3について:・・・例えば、幼くして子供を亡くした両親が「生まれ変わってもう一度私たちの子供に…」と願い、悲しみを堪えて生きることが意味のない生き方ですか?
 ☆ これが すでに何度も触れて来ましたが 《文学》の問題です。哲学の主題として論じるのとはちがって 自分の文学作品を思い描くという場合です。自由に 宇宙に遊んでもいいのではないですか。
 ★ 病気や障害で苦しい思いをしている人が「健康な体に生まれ変わりたい」と願うことは愚の骨頂ですか?
 ☆ はい そうです。寿命のつきるまで たとえ空想的な思惟にしても あるいは もちろん科学的な治療法の追究にしても 努力をすることを放棄して そのような文学物語を思い描くとすれば 愚の骨頂です。
 不治の病いであったら どうするか。あきらめます。あきらめつつ 寿命をまっとうします。むろん そのとき そうしているのであれば 同時にかたわらで 宇宙に遊んでも それは 自由です。

 ★ 4について : 何でも自由にできる現代においても自分ではどうしようもないことは存在しますよね?(上記3の例のように) 
 ☆ 《人間の思考と意志と努力 また 人びとの協力と相互援助のみによっては どうしようもないこと》は 存在します。そして 同じように 《上記3の例》に対するお応えを考えます。そのとき あきらめない場合というのは 未来において 社会や科学が どうなっているか分からないからには それに託してもよいという要素にもとづきます。

 たとえば 《できないものは できない》 あるいは 《だめなものは だめ》という判断を そのまま 提出するのは 哲学だと考えます。そういう問題であるように感じました。
 つまり 哲学を超えて たとえば文学の領域ということですが その《活動》は まったく 自由です。そういう問題を提起しておられるのではないでしょうか。

補足日時:2009/05/10 08:50
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>  ★ 中立であるものを否定的に言い換えることこそが、あなたの感情的な偏向です。


>  ☆ 《中立であるもの》とは 考えておりません。《証明も反証明もできない話は 哲学の主題とすることができない》という表明は 《中立》でも《あいまい》でもありません。切りがなく限りがなく そのある・ないをめぐって 議論がつづくしろものであるから 輪廻転生の説は 取り扱うに値しないと言っているのが どうして 中立なのですか?
>  《中立であるもの》と見なしたいというところに すでに あなたの
>  ★ 感情的な偏向
>  ☆ が現われているようです。お気をつけて 考えていかれるよう希望します。

「中立」とは、「否定も肯定もできない」=「証明も反証明もできない」と同義で書いただけです。
「取り扱うに値しない」と表現した場合には、否定の意味が含まれます。
そういう言葉の定義の問題は下らないです。
感情論ではないというなら、言葉遊びではなく、ちゃんとした論理で反論して下さい。
論理がないと通じません。


>  ★ テーマとしても「輪廻転生」〔と〕「業報思想」〔が〕ごっちゃに
>  ☆ なっているのは 一般的ですよ。因果応報説を伴なわない輪廻転生説は 気の抜けた麦酒のようなものです。

これも言葉遊びにすぎません。
論点を絞らないと議論にならないという意味です。
論理において否定も肯定もできない。
だから、倫理において因果応報には問題がある、と主張したいのではないですか?論点はそこでしょう?
だから、反論しておきました。
あなたは自分が反論できそうなところだけ反論してるだけでしょう。
論点を外して言葉遊びをするのは時間の無駄です。


>  ★ 「馬の耳に念仏」「豚に真珠」といいまして、法を敬わないものに法を説いてはいけないことになっているので、このくらいで納得してもらえないでしょうか。
>  ☆ これはまた おとなしい温和な気弱な あわれましい 人情味あふれる言い回しですね。分かりました。来世は わたしも この馬の身から 立派な人間に成る予定ですので 《納得》いたしましょう。

是非頑張って下さい。
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この回答へのお礼

 jugemjugem さん では 一点だけ 《論理》的に 問題点を指摘しておきたいと思います。

 すでに 何度も触れて来ました。つぎです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば こういう問題は どうなのでしょう?
 ○ 次の答えに対して どう答えるのでしょう?
  ――なぜ ひとを殺したのか?
  ――前世の業の結果が 現われたのだ。殺されたほうとて 同じである。すべて 自業自得である。何も 問題はない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2009/05/10 08:23

オコリザルです。


中毒症状の悶絶で苦し紛れのコメントです。
A80の返答で想定されているのは神でなく客体、客観の類であり言い換えれば「慈」でもあります。
お友達にかっさらわれたわけではない安定感はありますが、信仰とするならが盗人に追い銭をやる信仰です。
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この回答へのお礼

 つづきですね。

 たぶん あのアウグスティヌスの文章は 信仰のこととは思わせずに 信仰のことを書いていて しかも その文章を追っていくと 筋道をとおって受け取ることになる中身が 長い と来ている。結論が 延び延びとなっている。だから 最後の ちいさなでしょうが どんでん返しで おどろきがあるのかも知れません。

 もうひとつです。
 ★ A80の返答で想定されているのは神でなく客体、客観の類であり言い換えれば「慈」――お友達――でもあります。
 ☆ これにも 次のように反応します。
 信仰にとって 唯一の至上命令は 《神を愛せ および ひとを愛せ》です。そして 両者は 同じひとつのことだと言われます。《神を愛する》ことは 《ひと すなわち 隣り人 つまり お友だち を愛する》ことと 同じだという意味です。その逆の言い方も 成り立ちます。
 そういう意味で 捉えられては いかがですか?

 隣りのひとを――自分と同じ程度にまでは――愛する。ここから 神を愛している状態になるのなら 生まれ変わりを超えて すでに 永遠という時間(ないし 無時間)に わたしたちは 触れています。
 したがって 六道輪廻としての生まれ変わりを 悟りによって 断ち切るといった視点を導入するというよりは そういうよりは すでに 輪廻転生というポッポッと生まれ変わるという生の不連続の連続を〔想像するのなら いっそのこと その想像の中身を 全部 まるごと〕 包みこんでしまえば よりいっそう しゃれた解決になるのではないでしょうか? どうでしょう?

お礼日時:2009/05/10 08:15

オコリザルです。


A80.81にといたご返答に関して。
引用したその文章に中毒を起こし悶絶しました。
bragelonneさんが引用したその意図からうかがえるエートスに信仰を感じたからです。
特にA80の返答の意味自体は非常に判りやすく理解しやすいのですが、それを信仰と解釈したbragelonneさんの意図に何かしかの違和感を覚えました。
私にすればA80の返答は自問自答です。
信仰では有りません。
そこで知ろうとしているのは、または自覚の上に述べているのは「自ら」であって「神」ではないのではないかと考えます。
そろそろ立場の違いなんていわないで掘り下げてみるときかもしれませんね。
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この回答へのお礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 特にA80の返答の意味自体は非常に判りやすく理解しやすいのですが、それを信仰と解釈したbragelonneさんの意図に何かしかの違和感を覚えました。
 ☆ あぁ これは わざと 信仰の場合でも 同じような《白紙還元》がありますよというものです。
 primeape さんの《信仰ではない》ところからの文章に表わされた《あたまの真っ白》が 信仰の場合でも 同じように起こるということをもって 反応したものです。
 さらに繰り返しますが 《神》をもってきても 同じようなこころの状態をめぐる動きがありますよという それだけの わたしの反応です。
 中毒を起こさせて ごめんなさい。
 でも いままでにも こういうわたしの反応は あったと思いますよ。どうでしょう。

お礼日時:2009/05/10 08:01

>  ☆ 《輪廻転生》あるいはその《説》を 《否定する》とは ひとことも 言っていませんよ。


>  ○ 輪廻転生説は 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

輪廻転生説を「否定も肯定もできない」=「お話にならない」=「愚の骨頂」とするのは、言葉のすり替えです。
中立であるものを否定的に言い換えることこそが、あなたの感情的な偏向です。
だから、これは論理ではなく感情論です。

あなたの話が混乱しているのは、「論理学」「哲学」「感情論」とどういう観点なのかをごっちゃにして、テーマとしても「輪廻転生」「業報思想」をごっちゃにしているからでしょう。

あなたの主張は「業報思想(自業自得)は倫理的に問題があるから否定する」とすべきですが、これはあなたの「業報思想」に対する解釈が間違っていることから生じた誤解です。
仏教では「業報思想」を理論的根拠にして、止悪修善をなします。
簡単に説明すると、現世的な世間八法(利得、損失、称讃、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)から離れて、行為の善し悪しに注意しなさい、ということです。
世俗と基準を合わせていれば敵を憎むことも生じますが、仏教ではそれは否定される。
相手に何かやられたから何とか恨みをはらしてやろう、というのではダメということです。
「馬の耳に念仏」「豚に真珠」といいまして、法を敬わないものに法を説いてはいけないことになっているので、このくらいで納得してもらえないでしょうか。
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この回答へのお礼

 jugemjugem さん ご回答をありがとうございます。

 認識上の異同をのみ 述べます。

 ★ 中立であるものを否定的に言い換えることこそが、あなたの感情的な偏向です。
 ☆ 《中立であるもの》とは 考えておりません。《証明も反証明もできない話は 哲学の主題とすることができない》という表明は 《中立》でも《あいまい》でもありません。切りがなく限りがなく そのある・ないをめぐって 議論がつづくしろものであるから 輪廻転生の説は 取り扱うに値しないと言っているのが どうして 中立なのですか?
 《中立であるもの》と見なしたいというところに すでに あなたの
 ★ 感情的な偏向
 ☆ が現われているようです。お気をつけて 考えていかれるよう希望します。

 ★ テーマとしても「輪廻転生」〔と〕「業報思想」〔が〕ごっちゃに
 ☆ なっているのは 一般的ですよ。因果応報説を伴なわない輪廻転生説は 気の抜けた麦酒のようなものです。

 ★ 「馬の耳に念仏」「豚に真珠」といいまして、法を敬わないものに法を説いてはいけないことになっているので、このくらいで納得してもらえないでしょうか。
 ☆ これはまた おとなしい温和な気弱な あわれましい 人情味あふれる言い回しですね。分かりました。来世は わたしも この馬の身から 立派な人間に成る予定ですので 《納得》いたしましょう。
 

 なんのこっちゃ?!

お礼日時:2009/05/09 23:58

オコリザルです。


A80の作文に補足です。

無意識野を掌握して、伝心や共感作用により、布教まがいのことを一切せずに物言わず、自らの自我が及ぶ範疇を超えて心がけを正していく行い、そのようなESPを自覚の元に実践中です。
御釈迦様も入滅するまでは弟子たちの面倒を見ると、当時の言葉で約束を取り交わしていたのではないでしょうか。
私に言わせると、このような涅槃を中継した行いは救済と受け取られるのは心外なんです。
心象の文学では「指先に灯火を宿す」と表現します。
「歩む道のりを指し示す」事よりも突っ込んでいるんです。
本当の舞台は無意識に属して、間接的にしか自覚できない領域です。
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この回答へのお礼

 No.80のご回答に対しては 引用のみで応対しました。それは 要するに あらゆる心の表象 すべての精神作用をうっちゃってのごとく 神を問い求めたという姿でした。言いかえると 自分の状態を 白紙に還元したというところなのでしょう。エポケーとか言うそうです。

 さて それに対する補足ですね。
 いつも いぢわるなわたしですから 何か言わないでは 放っておかない血が起こります。
 ★ 本当の舞台は無意識に属して、間接的にしか自覚できない領域です。
 ☆ この《無意識》ということを その《エポケー》というごとく アウグスティヌスが すべての表象・想像・思考をうっちゃってみたように 《わたし》の白紙還元のことだとしますと そうしますと 
 この《無意識》を舞台として すべての演劇が繰り広げられているというのは 当たり前です。大前提です。
 わたしたちは すでに この大前提のほうから 出発していたはづです。安心して この大舞台に立って のびのびと 自由に さらに自由に もっと自由に もっともっと自由に 自己表現をしていくことができる。のではないでしょうか。
 つまり わたしの言いたいことは なんで まだなお 奥のほうへ 舞台のほうへ あるいは 舞台裏のほうへ まわって行かねばならないのか。これです。

 誕生以前ないし死後というような 場所あるいは時間のほうへ それが あたかも舞台裏であると言わんばかりにして 寄り添っていかねばならないのか。これです。
 ここが ロードスです。ここが 世界です。ここが 宇宙です。いま ここが わたしである ぢゃなかったのですか。

お礼日時:2009/05/09 23:44

オコリザルです。


個人的に思索を進めるに当たって、質問形式や問答形式ではいつまでも自らを知るための探求として不十分ではないかと考えたので、最近は一人で書き溜めるようにし始めました。
そりあえづ、こんな作文を作ったのですが添削をお願いします。

私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれる特技があります。
呼吸を意識して止めるのと同じように、考えるのをやめることができるんです。

この特技があると、心がまっさらで白紙の状態から、偏見や先入観の類もなく裁判官が判決を下すような公平さで、バランスよく判断したり考えたりできます。
したがって自分で言うのもなんですが知恵者です。

宗教的に「無」とされる悟りの境地の、何らかの片鱗が判る訳ですが、自然体のままで頭が真っ白な無心の状態を継続させると、自らが存在するただそれだけのことに喜びと安らぎを感じるような心地よさがこみ上げてきます。
「無」といいながらも我は「有る」なんです。
そのような存在する無の感覚とは、仏教を少し調べてみまして、お釈迦様の言ったらしい言葉を解釈するならば、無いものについては無いとはっきりと理解して、探すのをやめる、求めるのおやめる、実はあるのではないかと疑うのおやめる、そのような感じの無の確定により、むしろ自らの存在が浮き彫りになる感覚なり考え方を、お釈迦様が当時のインドの宗教文化に基づいて、当時のインド社会に判りやすいような言い回しで、まづは、無を知りなさいと、思考過程を説明したのが御釈迦様の教えであるように考えます。
したがって仏教の本来の姿は信仰で無く哲学です。

この回答への補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ▲ (告白7・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神よ・・・あなたをどのように考えたらよいかということになりますと 思いつきませんでした。
 そこで 人間であり しかもそのような人間であった私は あなたを最高 唯一 真実の神として考えようと努めました。またあなたが 滅びることも そこなわれることも 変化することもないことを 骨の髄から信じていました。どこからどのようにして悟ったのか知りませんが とにかく私は 《滅びうるものは 滅びえないものに劣る》ということをはっきりと認識し 確信していたからです。そして そこなわれえないものをそこなわれうるものより何の躊躇もなくまさるとし いかなる変化もこうむることのないものを変化しうるものよりもすぐれていると考えていたのでした。

 私の心は 自分でつくりだしたすべての空想の産物に反対して はげしいさけび声をあげました。そして一撃のもとに おしよせてくる不潔な想像の群れを精神のまなざしからはらいのけようと努力しました。ところが はらわれるやいなや まあどうでしょう またたくまにふたたび一団となってあらわれ 私の目の中に乱入してきて くもらせてしまうのでした。
 それで私は 人間の身体の形によってではないにしても 何か物体的なものを考えざるをえませんでした。それは 世界の内にそそぎこまれているにせよ 世界の外に無限にひろがっているにせよ とにかく空間のうちに存在する物体であって それ自体 滅びることも そこなわれることも 変化することもありません。このような物体は 滅び そこなわれ 変化する物体よりもすぐれていると考えました。
 というのは 空間を占めないものは何であれ 無であると思われたからです。しかも完全な無であって けっして空虚といったようなものではない。たとえば物体が場所からとりさられ あらゆる物体が 地も湿ったものも気体も天体もからっぽになって場所だけがのこるとすれば それがいわば空間的な無とでもいうべき空虚な場所となるでしょうが。
 このようにして 心がにぶり 自分自身をすら見とおすことのできなかった私は ある大きさの空間に伸びたり ひろがったり かたまったり ふくらんだりしているもの あるいは何かこのようなものを受容し ないしは受容しうるもの以外は 何ものも存在しないと考えていました。
 目がはたらくときはいつも形態をとおしてはたらきます。心がはたらく場合にも ちょうどその形態に相応するような心象によります。しかし私は それらの心象をつくる精神のはたらきそのものは 心象とは何か異なるものであることには気がつきませんでした。しかも そのはたらきによって心象がつくられるのだとすれば それは何かよほど偉大なものでなければならないはづです。

 そのことがわからなかったので わが生命の生命なる方よ。私はあなたをも 巨大であって無限の空間に四方八方にひろがり 世界の全容積に浸透し さらにその外部のすべての方向に はかりしれない空間にわたって際限なくひろがり 天も地も他のあらゆるものもあなたを所有し その中において限界づけられているが あなたはしかし いづこにおいてもけっして限界づけられていないと そう考えていました。
 けれども 太陽の光にたいして 気体 つまり地上にある気体が何の妨げにもならず 太陽の光は 気体を分散させたり分裂させたりすることなく 全体をみたしながらこれを貫いて放射されるように あなたも たんに 天体 気体 海の体ばかりか地の体までも通過して その最大最小 あらゆる部分にしみとおり すべての部分に現存したもうことができ そのかくれたいぶきによって 造りたもうたすべてのものを内からも外からも統治されるのだと 私は考えていました。

 そのように憶測していましたが ほかに考えようがなかったのです。しかしこれはまちがいでした。もしそのようであるとすれば 地の大きな部分はあなたの大きな部分を所有し 小さな部分は小さな部分を所有したことでしょう。したがって 雀のからだよりは象のからだのほうが大きく 大きな場所を占めているから 雀より象のほうがあなたの大きな部分をとらえているといったしかたで 万物はあなたにみたされたことでしょう。そしてあなたは 世界の大きな部分にはあなたの大きな部分を 小さな部分には小さな部分をというように ばらばらなしかたで ご自分を現存させたもうたことでしょう。そんなはづがない。

 しかしあなたはまだ 私の闇を照らしてはくださらなかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/05/09 23:25
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わかりません。


しかし、あなたが100年前どこにいたかは憶えてないが、今存在する。
 生まれる前のことはわかりません。
 生命の不思議ですね。
 しかし、時代、時、状況、国、病気の有無、生まれながらの病。
 また、自分だけの行為行動、こうしたものはどこに原因があるのかは
わかりません。
 しかし、もって生まれた才能などは前世でやって身につけたと言いますが、そう考えると、今身につければ、また持ち越されるもかとも思います。
 結局、人間が幸せに人生を成就する方向で捉えていくしか意味がないでしょうね。
 ただ、法則などは愚の骨頂であろうがなかろうが存在し、それに影響をうけて生きることができる。と捉えるしかないでしょうね。
 つまり、重力のようにそうなって存在し法則があり、それを変えることもできない。しかしあるから地面に立っていられる。恩恵がある。と言うことでしょうか?
 まぁ、自分の気持ちだけで、細胞分裂も止められず、心臓の鼓動も止められない。つまるところ、体を動かす考えるしか自由の範囲がなく、あとは自分の意思以外で、髪がはえ変わり、お腹がすき、細胞が生まれ変わり、心臓が動く。
 自分の自由の範囲は狭いものですね。
 広げるには行動を身につけるか教育で知っていくと言うぐらいでしょうか?
 ですから生まれ変わりは、われわれの自由の範囲ではないんでしょうね。 
 しかし生命の1側面としてあるなら、現実の生命活動の中にあるでしょう。
 細胞の生まれ変わりなどはそれを連想させますが。
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この回答へのお礼

 aai1 さん ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2009/05/09 21:32
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