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 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。

 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。

 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。

 真実をおしえてください。

A 回答 (114件中41~50件)

<<前と同じ視点をも引きずっておられると言わざるを得ません。

☆第三の立ち場は ありません。>>

うぅぅん…。

この「想定」は「条件限定としての想定」ではなく、「前提条件の有の想定」ですかね。それなら二択にしかなりえませんね。ある・ないどちらも結局は「有」を認めている形にはなりますがw

言語(西洋論理学?)の問題もあるのでしょうが…
「ウサギの角」はありますか?という問いに無いという人も、「ウサギの角」は…という時点で認めてますねw


こちらはいかがです?
≪相対しかない≫という想定に対し
≪相対しかない≫ということはある
≪相対しかない≫ということはないの二択w

限定相対論と非限定相対論かな?w

<<★ 絶対から離れる。絶対は あるかも知れないし ないかも知れない。と見る。☆ ということは 想定としての前提からして 矛盾しています。>>

前提条件としての「有」の性質が隠れていると思いますので、その意味での想定なら矛盾しますね。

<<《あるかも知れないし ないかも知れない》という表現の意味するところは たしかに 理性的態度ですが>>

理性的態度ですよねぇ・・

<<ここは(つまり 絶対に関しては)理性も精神も感性もすべて経験的なものごとを超えた領域についての話なのですから 当てはまりません。>>

では…「ある」「ない」「その他」どのような表現もとりえないのでは?

ただたんに条件にたいし、「どのような態度をとる?」とするならどの選択もあるのでは?

しかしながら<仮の>想定の段階で「有」を前提に想定しているなら「ある」「ない」の二択意外には選択は無いでしょうね。

なので

<<前提が ちがっています。想定をするという問題なのですから。そもそも 《非思考》を 仮りに理性による思考をとおして あるか ないかに 分けておくだけの話です。分けて 表現しておけば のちのち 交通整理が 容易になる。こういう問題です。>>

というかみ合わないことになっていたように思います。想定に「有」の前提があれば、そもそも「有」前提に立つ人には都合よく交通整理できるでしょう。

ブッダの「無記」や「質問の仕方が間違ってますよ」というのはこのような意味があると感じています。

私も完全な理解などはしてませんがw
言葉とは面倒なものですねw

<<また この質問の《輪廻転生》については その《生まれ変わり つまり 誕生以前と死後》の問題は 《絶対》という領域の問題ではない。ゆえに 《非思考=信仰》の問題でもない。言いかえると それは 《未知》の世界について 経験理性によって 経験思考をおよぼすときの想像であり そういう意味で ひとつに 《信仰》とは別であるということ。>>

まず、貴方の考える「信仰」は<仮の>「絶対」の想定の思考に対する<仮の思考>による<仮の>態度のことなのですかね。

私の使う「信仰」は「無根拠の決め付け」のこととして使ってます。


<<もうひとつに 《未知》であるからには 《死後があるかも知れないし ないかも知れない》という世界なのだから 経験科学としての哲学が 主題として 扱うものではない。こういう結論にみちびかれるのではないか。こう問うています。どうでしょう?>>

「経験科学としての哲学」
生命・生き方・道徳・倫理・哲理の内容とその根拠を科学的手法によって語るものという理解で問題ないでしょうか。

厳密に道徳語るなら、そこにはやはり輪廻に触れる必要はありそうです。
危険な穴は塞がなければ全てが崩れ落ちますから。(穴があるから生活する人が全員駄目になるとかではなくですよ。たとえば数式に矛盾点があるようなものです。ある範囲では使えますが、穴を使っていくらでもおかしなことが成り立ちますね。あくまで喩えですよw) 

<<哲学が 主題として扱わないというのは 《証明も出来ないし 反証明もできないことがらである》として 扱っておくという意味です。仮りに 未知でなくなった・つまり 経験知として知り得たときには どうするか。知り得た材料にもとづいて 判断するというものです。>>

哲学が根拠と範囲を重視し《証明できるもの、反証を受け入れる》という生き方・生命について科学的なものであるなら、、、今までの哲学といわれるものはほとんど捨て去られそうですねw

理性ある人によって、範囲と根拠を示した、道徳論理面での対話によって見解の構築をする=「哲学」。だったら個人的には嬉しいですね

そのような「哲学」でも、暫定的な論理哲理として触れることは無難なことと思いますよ。

もちろん経験・実証できることが重要でしょうから、どのような方法によって実証できるかも言う必要があるでしょうね。

ブッダは一応その方法も語っていたと記憶していますが。

ともかく知る前のある程度の根拠を有した論理における暫定的な見解を構築することも経験科学的哲学?に重要なことでしょう。

輪廻の話も。

とはいえ、理性的な人ならどうしても一番重要な「生命の分析・生きるとは?」から、根拠として強いと思われる「感覚」から始まることになるでしょうね。

「完全に知る」までは「暫定的見解」として範囲と根拠を重要視し柔軟に再構築をしていく必要がありますね。範囲と根拠を示さず「言い切る」「決め付ける」と「私は全て知っている」と言っているようなものですから(私の使う「信仰」になって科学的な態度ではなくなってしまいますからね)。

そのような「哲学」があったら・知っていたら教えてください。
お釈迦様意外で。

この回答への補足

 magga さん ご回答をありがとうございます。

 たぶん 道半ばというところでしょうか。ただし この道というのは 互いに共通の認識を確かめ合って いざというときの出発点に立つまでの道のりです。まだ その段階です。
 
 ひとつには 姿勢が ちがっているようです。今回は この姿勢の話のみです。
 これは いま 哲学としての対話(質疑応答)ですが その内実は 哲学を学問として 扱うために 理論を立てようとしているわけではないのです。互いの対話をするには どういう前提をおき その前提内容を どのような共通の認識として 定義したりしておけばよいか。そうして あとは 論議じたいをすすめればよいとなるか。
 そのための交通整理です。

 magga さんは――ほかの回答者の方々にしても 多かれ少なかれ そうなのですが―― これこれの立ち場に立って 回答を寄せるという性格がつよくていらっしゃる。したがって 互いの前提事項にかんして 交通信号などを 事前に 決めておかないと 話は 空回りになる。こういう問題です。
 いづれにしても 《絶対》ないし《神》ということばは 一般に 使われています。わたしの側は これらの言葉を 用語として 使いますと言っています。それに対して どうですかと尋ねているわけです。そういう意味での
 ★ 「前提条件の有の想定」
 ☆ です。この交通標識にかんして 共通の認識が持てなければ いくら回答をもらっても 仕方がないということになりますから。
 もし
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 こちらはいかがです?
  ≪相対しかない≫という想定に対し
  ≪相対しかない≫ということはある
  ≪相対しかない≫ということはないの二択w
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 《絶対 / 神》という語を使わないようにしようというご提案でしょうか? ここは 学問的な論理の問題ではなく 実際上の必要に応じるための《前提についての取り決め》なのです。一般的なあそび(学問的な)として 前提を決めようということではありません。
 
 つまりは ここまで 前提領域で 足踏みしなければならないというところを見ると どうしても あなたは 自分の側の用語で その用語の定義を共通の前提として 話がしたいということのようですね。

 ところが その方式での話し合いは じつは すでに われわれの間では 済ましています。けっきょくは 《悟り》もしくは 《ブッダのおしえの普遍科学性》について 現段階では 《推測ないし憶測》にもとづいて 《科学的で正しい》と判断して 修行をしているということだったわけです。
 そのことじたい(つまり 信教・良心の自由に属することがらじたい)を なじるわけではありませんが その《おしえ》について 一般的な妥当性があるかの問題になると あるとも ないとも言えないという結論になったわけです。二千五百年を経ても その証明が出来ていないではないかというわけです。
 
 では これから もし わたしの質問に投稿してくるというのであれば いったい どういう共通の前提に立って 応答すれば よいのでしょう? なんら意味のないことに 時間を割こうとは わたしは 思いません。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「完全に知る」までは「暫定的見解」として範囲と根拠を重要視し柔軟に再構築をしていく必要がありますね。範囲と根拠を示さず「言い切る」「決め付ける」と「私は全て知っている」と言っているようなものですから(私の使う「信仰」になって科学的な態度ではなくなってしまいますからね)。

 そのような「哲学」があったら・知っていたら教えてください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/05/09 13:33
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この回答へのお礼

 ☆ という迫り方は ご自分の特有のものです。ご自分の前提事項に合った《哲学》があれば おしえたまえと言っているのです。
 けれども 誰もが その前提を妥当だと思っているわけではありません。ほかにも 道はあるのです。それでも この迫り方に合った方法をと思って 少しは こちらが 考えようとしても けっきょく
 ★ お釈迦様以外で。
 ☆ とあります。つまり ご自分の行き方に立ちますよと 念を押して宣言しつつ 相手に問いかけています。

 まだ 中間の結論ではあるのですが やはり こう受け取らざるを得ない状態ではないでしょうか? つまり こちらが 今回 何とかして 共通の前提に立とうとしたこと
 ☆☆ (No.67補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうすると おそらく〔ですが〕 無神論に立つと思われるブッディスムと 有神論に立つキリスト信仰とが 互いに 容易に 対話をすることができる。こういう問題です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という対話の道を ここまででは あなたは 意図してか せずにか分かりませんが はっきりと 拒み 放棄しようとしている。こういう姿勢でいらっしゃる。としか 捉えられないのですが いかがでしょう?

 * ★ 私の使う「信仰」は「無根拠の決め付け」のこととして使ってます。
 ☆ この定義は じつは あなたのように 科学的手法によって論証・実証して 悟りにすすむという場合でも その最終の境涯については まったくの《憶測》によっているということですから そのまま 当てはまるのです。それこそ 《無根拠の決め付け》なのです。
 《信仰》は そうではなく 《絶対》を想定したあと これを《無根拠》として それと《わたし》とのあいだに持たれる関係を言います。
 非思考ですから ほとんど 何もありません。わづかに 心の明け もしくは 伸び これが あるのです。これだけで この信仰は すべての経験的な思惟や行動の 今度は 根拠になることが しばしば起こるという実際なのです。――まづ このような事実を受けとめるところから 始めなければいけないのではないでしょうか?

お礼日時:2009/05/09 13:52

続けての回答をお許し下さい。



>>>
じつは 摂理は ほんとうの摂理は 人間一人ひとりが あたかも互いに《論争をなすにいた》り《確執》をもって争うかのごとき 生きた動態としての・人間としての交通関係の中にこそ はたらいている。こう言うべきではないか。
 それが 対話の実践である。それが 共同主観の過程である。わたしたちの問い求めるところであり その《論争や確執》の中身も然ることながら その実践の仕方や話し合いの過程じたいの実現をも わたしたちは 望むところのものであると考えられます。
<<<

同じことを、柄谷氏も(原始)仏教の本質に見ていたように思われます。
===以下、引用
仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しかし、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版)
===引用元:浄土真宗の仏教青年Q&A 魂という概念、http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html

この回答への補足

 直前からのつづきですね。

 ですから 《輪廻転生説は 哲学にとって 取り上げるに足りない》と結論づけることになるのではないですか?
 ▲  (浄土真宗の仏教青年Q&A 魂という概念)~~~~~~~~
 なぜかというと、そういった〔* 永続するような魂があるかないかという〕議論は「輪廻」を前提にしているわけで、そういうありもしないものを前提にした議論はすべて駄目だからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《ありもしない》と言うと 語弊があるかも知れません。
 ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 お釈迦さまは「魂」があるといわなかったと同様に、ないともいわなかったということです。いわば、「魂」があるとかないとか、「そんなことはどうでもいい」といったわけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ また 次の議論は 哲学のものだと考えられます。
 ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ちなみに、浄土真宗では、「死ぬ」とは言わず、「浄土に生まれる」と表現しています。それが「生まれ変わり」と違うのは、わたしたちが死後に、よい世界もしくは悪い世界、いづれにしてもわたしたちが考えているような世界に行くという考え方の否定の上に成立しているからです。
 ということは、たとえば、死後よい所に生まれるために、この世でよい行いをしておこうというふうに、死後に向かって、この世の生活を律していくような生き方をやめようということでもあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして 何度も言うように 自己のくせとして 趣味として 次の生まれ変わりとしての生を描くことじたいは 自由だというものです。人生ないし世界は ひとり哲学のみによって成り立っているものではないからです。
 ですが この哲学カテゴリで 堂々と 大手を振って 《輪廻》はこうだ《転生》はどうだと議論しているのは どうも みっともない。ご賛同いただけるのではないでしょうか?

 ★ 同じことを、柄谷氏も(原始)仏教の本質に見ていたように思われます。
 ☆ 精確を期します。
 ○ 摂理は 動態であり われわれ人間の社会的な対話であり 共同主観の形成・再形成の過程である。むろん 対立を含む。
 ○ ―→ その一つの事例として ゴータマが みづからの思想をたずさえて 輪廻思想の根づいたバラモン社会に現われて これを やわらかい表現で語るかどうかを別として 糾弾しつつ 対立した。
 ☆ ということですね。ブッダが その《目覚め》について 理論を述べたから 摂理が 世の中に現われたのではありません。

 ★ 仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。
 ☆ これも 決して 重箱の隅をつっつくためではなく 表現の精確さを期すべきです。
 ○ 人びとは――社会に 二階が 突如 出来あがった構造を持つまでは そして 持ってからも その一階どうしのあいだでは―― 仲間うちで けんかをもしつつ 意見の対立をも持ちつつ 相互にその差異を受けとめ 認め合って しかも 自由に 批判し合う。このことをつうじて 動態的な秩序とそのもとにおける共生を 願っていたし 基本的に 実現して生きている。
 ○ このとき 人びとのこの共生の思想は ふつうの生活態度であって とうぜん 基本的に 《寛容》である。それぞれが 寛容な人間であり それぞれ 基礎としては寛容な思想を持つゆえに 互いに その具体的な内容に 妥当性を競う。
 ☆ つまり すでに 根も幹も 寛容であるゆえに 対立は対立と受けとめ 自由に 批判しあっていく。
 ▲ (柄谷) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 彼(ゴータマ・ブッダ)は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/05/09 10:39
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この回答へのお礼

 ☆ ではないでしょう。そうではなく 人びとの日常の生活が ふつうに対立しつつも 根が寛容な人間関係として成り立っている。このゆえに 死後ないし誕生以前のことなどに たとえ文学的にといえども 基本的には 自己の考えを運んで行ってしまう必要など じつは ない。その根底においては――のちに 仏性が宿ると きわめて空想的ながら 現実的でもある思想としてよみがえらせたごとく―― おのおの このいま・ここなる《わたし》に立って さらにさらにその共生のあり方を 問い求め推し進めていくべきだと言おうとしたのでしょう。
 ★ 他者に対する実践的な倫理
 ☆ は もともと 共同生活の根もとに 息づいていた。そこのところを それなのに わづかに――わづかに―― これらの人びとの生活にとっては 社会的に言うところのお二階さんたちの圧倒的に強力な世界という雲が おおっていたということではないか。

 だから だからこそ ゴータマくんも 正当にも アマクダリしたのですがね。一介のスサノヲ市民になったのですがね。ですが 反面では・その一面では 別種のあたらしい きわめて白いものでありながらその観念の雲を しかしながらやはり 人びとの共同生活のうえに おおいかぶせたかに思われる節があるのでは? そうだとしたら それは 《観念の帝国》主義です。人びとを思考停止に誘う毒薬です。その道徳規範が 愚の骨頂なのです。
 わたしたちは お上に弱いというごとく お二階から雲に乗って降りてくる甘い蜜にも 弱いようです。

 ▲ (浄土真宗の仏教青年Q&A 魂という概念)~~~~~~~~~~~
  死が人生の中のできごとでないことは、お分かりいただけると思います。時間の持続という観点を排するなら、

現在生きていることは、永遠の事柄です。さらに、わたしたちの視界には文字通りすべてのものが映っている、逆にいうと、映らないものがないのと同じように、わたしたちの生には欠けたものも、どこへ向かっているということもなく、それですべてです。この考えはすくなくともわたしにはぴったりきます。

  実際のところ「生」しか存在しないのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 最初の最後の文章は 偏向しているでしょうね。中ほどの文章を 《永遠の現在》といった視点として うべないます。

お礼日時:2009/05/09 11:00

No.72で回答した者です。


>>>
>  むしろ 最初に確認した《真理》とやらの普遍性 つまりは それが 摂理とも言うべきかたちで 法則のごとくはたらいて 世の中は成り立っているのだという視点 この視点を わざわざ いまごろ 出してくるということは 〔むしろ〕 そのことこそが 本論として述べた表現の自由と具体的な実践としての社会的な動態 これに まさしく観念の網をおおいかぶせようとするブッディスム一流の《支配統治術》なのではないか。
<<<
とのことですが、誤読されておられるようです。

>>>
884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。
<<<

●「真実」 --- 形而上学的事項を一切排除した事柄と解釈します。

●「真実は一つ」 --- もし、真実が二つ以上あるとすれば、たとえば平行宇宙とかいった概念にて、複数の「完全に独立し、相互作用を一切及ぼし得ない」宇宙を想定するとかになるでしょう。bragelonne様と私とがそれぞれ別世界(たとえばお天道様が東から昇る世界と西から昇る世界と)にいるということです。で、それを知ることの出来る者(A)が「真実は二つ以上ある」と宣(のたま)うことが出来るようにも思われますが、その途端、それら二つの世界は「完全に独立しえない」わけです。Aは一つの太陽に対して逆方向に自転する二つの地球を見て取るかもしれません。したがって、「真実は一つ」といったとき、「完全に独立し、相互作用の一切及ばない別世界」を想定しない範囲で考えるという前提条件が付されていると考えるべきです。
このことは、死後の世界があった場合にも適応されると考えます。

※だからこそ、bragelonne様は、「真実をおしえてください。」と質問に書かれたのですよね?

●「真理」 --- 形而上学的な事柄に限定した概念と考えます。無矛盾かつ論理的な「思索・思考」にて辿り着く「特定の理論体系」と考えます。
●「真理は複数ある」 ---  真実が一つであるなら、そのことについての解釈・思索・思考(形而上学的なことがら)にて到達しうる「真理」(無矛盾な説明可能性)は、複数あってもいいということです。唯物論のみで考えるなら、完全に無矛盾な輪廻転生説を構成することも可能になります。(物質を分解し、さらに組み立て直すといった概念★)
さらに、唯物論のみでは「【この】私という存在(たとえば魂)の不思議さを完全には説明不可能だ★」という感覚を持つ方は、その「魂」といった概念が、物質と相互作用している現実を受け入れているわけですから、完全に独立しては存在しえないという前提条件(←真実は一つ)のもとにあるわけです。であれば、唯物論での延長として、魂といった概念を含めて組み立て直すことが可能かもしれないといった概念も想定可能になります。
★組み立て直す前後で「全く同一」ではなく、物質を含む周囲環境(全宇宙)との関係が異なれば、同一概念は崩れます。
★【この】--- 柄谷氏の「この性」に該当。

あと、質問欄にて複数の理由を並べ立てておられますが、全ての年齢層に対して普遍的な理由と考えるべきなのでしょうか?

子供を育てるとき、特に、生命についての最初の「気付き」の時点からしばらくは、その「不思議さ」を含めて一緒に考えてあげようとするときに、どうしても不可知の世界を具現化してあげた方がいいと思われる場面が多くあります。

この回答への補足

 k_jinen さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 次のご回答をも合わせて けっきょくのところ k_jinen さんは この質問趣旨と同じご見解であるのではないか。こうお受け取りする方向に傾いたのですが どうでしょう。
 それはともかく 復唱しつつ 応答してまいります。
 まづ 用語の定義が わたしと違っていますが そのあたりから。
 ○ 《真理》は わたしは 《絶対》と同義で使います。《なぞ・不可思議・無根拠・無限・永遠》等々です。
 ○ 《真実》は 経験合理性にもとづく認識や判断の妥当性を言います。
 ○ ひとりの人の《主観真実》が 他の人のそれと 内容が違っていても 共存しうると考えます。くせや趣味ないし文学の問題として それにおさまるというかたちで 自由です。
 ○ ただし 《真実をおしえてください》と言ったときのそれは 《人びとのあいだで共同化しうる妥当な内容を持つ主観》のことです。
 ○ ちなみに 形而下のことも形而上のことも 経験思考の対象であるものとして 《真実》の問題です。《真理》は これを超えています。そういう想定です。
 ☆ ですが 表現の違いは 措いておいて 理解をすすめます。
 その前に
 ○ ★【この】--- 柄谷氏の「この性」に該当。
 ☆ これは 人間の存在の唯一性(かけがえの無さ)を表わすととってよいでしょうか?

 さて しかしながら
 ★ スッタニパータの 884
 ☆ これは 難解です。ひょっとして 矛盾していませんか?
 ▲ 《ただ一つしかない真実》のもとに 互いに《同一》でない《真理》が 互いにたたえ合われるまでに 共存する。
 ☆ ということですよね。無理ですね。
 直近の質疑応答で 相続税の話が出ましたが この分業=協業の社会において 個人の経済活動とその成果(所得)は 果たして それぞれの個人に起因し帰着するものだと言いきれるか の問題があります。
 社会つまり人間関係つまりその関係複合の総体からの恩恵も その要因として はたらいていないか。はたらいているという見解に立てば 子孫への相続だけではなく 社会への還元という考え方も出てきます。これは 程度問題になってしまうかも知れませんが でもいくつかの見解が 対立します。言いかえると 対立しながら・その中から より妥当な考えを問い求めつつ 共存するというわけです。
 ★☆ それ故にもろもろの<道の人>は 〔それぞれの見解を持って〕同一の事を語らないのである〔が 同時に 社会的には 互いに 具体的な施策を 共同で練り上げていき 共生する〕。
 ☆ とならなければ おかしいです。

 そうして そのために 《輪廻転生》については ひとが 文学的に 《ある / ない / あるでもなく無いでもない》と想像しても構わないが 哲学の主題としては 扱わない。と結論づけうるのではないでしょうか。

 ★ 趣旨説明の《理由》について 《年齢層》のちがいによって 当てはまらない場合がある。
 ☆ あてはまる場合のみに それぞれ 適用してください。
 揚げ足を取りますが 《誕生以前ないし死後》のことは
 ★ 不可知の世界
 ☆ であるかどうかは 分かりません。せいぜい 《未知》としておくのがよいのでは? ですから このゆえにも
 ★ 不可知の世界を 〔子供を育てるときには〕 具現化してあげた方がいい
 ☆ という見方は 文学の問題として どうぞご自由にと言って来ています。
 子どもに対して 《輪廻転生説は 哲学にとって 主題にはならない》という命題を 言ってはいけないのではなく それは ただ まだ 理解できないというだけのことです。年齢層によって当てはまらなくても それは その理由の妥当性が 消えるわけではありません。
 次のご回答に移ります。

補足日時:2009/05/09 09:55
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>  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。

その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

これは、否定する理由として妥当でない。
証明も反証もできないなら、肯定も否定もできない。
それでも否定したいのなら、それは偏見であり、執着でしかない。

理由二~四については、これは論理ではない。
気に入らないから受け入れない、というのは論理として成立していない。感情論にすぎない。
心の働きというのは、本来限界なく広大なもので、三世十方に滞りなく働くが、とらわれることで智慧は妨げられる。

この回答への補足

 jugemjugem さん ご回答をありがとうございます。

 ですが 質問趣旨をよくお読みになってください。
 ★ これは、否定する理由として妥当でない。
 ☆ 《輪廻転生》あるいはその《説》を 《否定する》とは ひとことも 言っていませんよ。
 ○ 輪廻転生説は 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?
 ☆ これです。たしかに
 ○ 愚の骨頂
 ☆ というからには 《否定》していると受け取られても 仕方がないのですが そして じっさいに わたし自身 《感情論》としては 《否定》をしています。
 しかも この質問は 哲学の問題です。哲学の扱う主題には ふさわしくないのではないか。こう あくまで 問うているものです。
 ★ 証明も反証もできないなら、肯定も否定もできない。
 ☆ ゆえに 主題にするのは おかしいのではないか という問いです。

 ★ 理由二~四については、これは論理ではない。
 ☆ このご回答内容について きわめて 簡単に 理由説明があります。ですが
 ★ 気に入らないから受け入れない
 ☆ とは 言っていないでしょう。ほかのご回答へのわたしの応答を読んでもらえば分かるのですが なかで たとえば 理由その二について述べた次の説明を 掲げますので 吟味してください。
 ☆☆ (No.50補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ◆ 理由その二にかんすること
  ☆ 上のその一と同じことが言えますが それ以上に この理由は 重要です。《自業自得》を 理論として捉えるなら その内容じたいで 自爆するようなものです。もしくは いっさいのものごとに関して もう自業自得として捉えるなら 何ら考えることをしないということになります。あるいは 互いに相手に対して いっさい 何も言えないという意味です。
 一挙手一投足が 過去の業(行為)の結果であり そのことにまったく間違いないのだとすれば 何を考えても すべては 過去の自業の結果なのです。その考えで 行為をすれば その行為の及ぶ相手に対する影響から何から すべてが 相手にとっても やはり自分のほうの自業自得だということなのです。
 思考停止せよという命令を発しているようなものです。輪廻転生の理論がです。
 ですから 理論としては 輪廻転生説は 哲学にとって お話にならないのです。それを問うています。どうですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/05/09 01:44
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オコリザルです。


輪廻の言い出ししっぺがお釈迦様ではないとして。
神性なり人間本質に近づく努力なりをする人、その時代の哲学者は何がしかの形で神秘について解き明かそうとし、ゆえに神がかりな畏怖を集めるでしょう。
そこか始まった何がしかの迷信のひとつが輪廻でしょうか。

相続税が重税なのは日本の法制度が健全ゆえであると私も考えます。情の問題としてお気に入りでもあります。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神性なり人間本質に近づく努力なりをする人、その時代の哲学者は何がしかの形で神秘について解き明かそうとし、ゆえに神がかりな畏怖を集めるでしょう。
 そこから始まった何がしかの迷信のひとつが輪廻でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ あぁ そういう考えですか。つまりあるいは 一般の人びとの生活観から出たという筋とは別に 
 ★☆ その時代の哲学者で なにがしかの神がかりをしている場合 もしくは 人びとに神がかりを起こさせるような場合
 ☆ ですか。
 ううん。ちょっと これは 考えたことがなかったですね。(読んだこともなかったのだと思います)。
 ★ 神秘思想
 ☆ これは 当然と言うように あったでしょうね。
 どうでしょう。人びとの生活感の中から出た生活観・人生観として すでに 《強固な迷信 ないし なぐさめの素》になっているようにも思えるのですが 賢人と呼ばれる哲学者の説として お墨付きを大事にしたでしょうか。
 澄みません。お茶を濁しました。案として あたまの隅に入れておきます。

お礼日時:2009/05/09 01:02

オコリザルです。


信仰かどうかは不明として、輪廻の思想がなぜ伝播感染するかを考えると、ソレは輪廻の思想を媒体とした病原菌のような業ではないかと感じました。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 病原菌
 ☆ ですか。どうですかねぇ。
 人間の弱さの側面に目をやると たしかに 感染してしまうように思いますね。
 いちばん 素朴には やはり すでに出てきた理由だったのではないでしょうか。
 つまり いま生きている人びとのあいだで ただ 生まれだけによって 境遇がちがっている。これは どうしてなのか? もしこの状態が なんらかの しかし はっきりした原因によって 生じたのなら それは 生まれる前に 何かその原因があったとするしかない。という推理ですね。
 それは それで 納得のいく考え方だったのでしょうね。人生で ただ生まれによって 境遇が違うということは そのあと 努力して よくしようとするにしても その出発点が ちがっているという事態なのですから 重大なこととして 捉えられたのだと思います。
 この一面では自然な推理がひとつの基礎となって その推理の形式を 広げて行ったのでしょうね。原因は すべて 前世であるとしておけばよいと考えるのでしょうし 結果は すべて 来世だとしておけばよいと考えるのでしょうね。

 こうなれば いわば水割りのごとく 人びとの境遇の違いも 薄まって 捉えられるようになったのかも知れません。

 ひとつには 相続税・贈与税の問題にもなりますね。
 考え方として 財産の形成は 個人の努力という側面と そして あくまで 基盤としては 社会的な相互活動の関係の中において 形成されたという側面と ふたつ あると見られるでしょうね。だとすれば 子孫に相続する側面(部分)と 社会全体に相続させる側面(部分)と やはり ふたつ あると考えられます。
 生まれによって つまり 生まれだけによって 境遇がちがうという出発点の問題は この相続税として 社会への還元の部分で 調整することも やはり 考えられると思います。
 そういう人為としての問題を もし 考えさせないように 輪廻転生説が はたらいているとすれば それは たしかに 思考停止を 招いていると思います。この――少なくとも 自己が意識する限りでは―― 一回きりの人生において 最大限に 思考や自己表現を 表わし発揮していくということが 望まれるでしょうね。病原菌を撃退してということですね。

お礼日時:2009/05/08 23:40

形而上学的な対象「○○の存在(や価値)」について論じることは「哲学」の入門編に相当するでしょうが、「○○の存在論」について論じることは「哲学」の次のステップになるかと思われます。

しかし、全てを相対的に「なんでもあり」とするのも問題だという立脚点(主観)を外さないということも、別の意味で必要になろうかと思われます。→参照:(竹田の)現象学や構造構成主義など

「○○の存在」が(証明不可能な)形而上学的な二者択一論争であるならば、「ある」または「ない」という(否定的・消極的な)捉え方よりも、(一見矛盾したように思われる)「ある」かつ「ない」といった(肯定的・積極的な)捉え方の方が、すっきりする場合があります。
(※完全に相対的な捉え方=主観を排除した客観的な捉え方=全てを包括的かつ論理的無矛盾な捉え方であれば矛盾しているように見えますが、個々の主体・主観を排除しない捉え方であれば、矛盾は回避されます)

「○○がある」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。
「○○がない」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。
「○○があるのでも、ないのでもない」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。

これらの全ての考え方が「それぞれにとって正しい」とするならば、
「ある」
かつ
「ない」
かつ
「あるのでもなく、ないのでもない」
とすべきだと考えます。

==============
884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
(岩波文庫「ブッダの言葉(スッタニパータ)」中村 元訳、「八つの詩句の章」から引用)
==============

この回答への補足

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 k_jinen さんという方からのご投稿を受けるのは たしか わたしは 二度目かと思うのですが ここでも ご回答内容に即して わたしの考えを 率直に 述べるというぶっきらぼう精神をつらぬきたいと考えます。どうぞ あしからず ご了承ください。

 おっしゃっていることは ひとつの理念であるかと存じます。あるいは 世界観であるでしょうし あるいは 神学でもある。あるいは いわゆる摂理であるということではないでしょうか。
 人間の世の中は こういうふうに まわっているのだよというおしえでもあるのでしょう。

 その上で または そうであるからこそ――わたしの考えですが―― わたしたちは 一人ひとり 自由に 話し合いを持つことができるし 実際に 持つのです。互いに 自由に 意見を述べ合って 自由に 批判しあって行ってもよいし 行くことができるし むしろ 批判し合い その意味で けんかをして 対話をすすめて行く必要があるし 行かなければいけない。となるのではないでしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「○○がある」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。
 「○○がない」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。
 「○○があるのでも、ないのでもない」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すべて 互いの存在をとうとび 生きること自体という意味での表現行為 この表現の自由を みな それぞれの考えにおいて 発揮し 享受し 謳歌している。ゆえに 対話し 意見の相違を受けとめ認め合って その上で 自由に 批判しあっていくことができる。
 ゆえに だからして したがって だからこそ われわれじんるいは 哲学をいとなむようになりました。自分の主観 自分ひとりの主観 まったくの狭い主観 これを おおいに 何の気兼ねもなく 互いに受けとめ合って 磨き合っていく。そこから 共同の主観としてもよいような内容 つまり 理論というものをも 見つけ出していく。・・・

 このとき 輪廻転生かつ因果応報 だれが言い出したか知りませんが この初めには一人の人間の主観であったものが たしかに 共同化されて 広く持たれているかに普及しているこの説 これは じつは じつに その共同性ないし普遍性にかんして 疑義が持たれるものであった。そうではないかという問い求めです。何の問題もないはづですよ。

 むしろ 最初に確認した《真理》とやらの普遍性 つまりは それが 摂理とも言うべきかたちで 法則のごとくはたらいて 世の中は成り立っているのだという視点 この視点を わざわざ いまごろ 出してくるということは 〔むしろ〕 そのことこそが 本論として述べた表現の自由と具体的な実践としての社会的な動態 これに まさしく観念の網をおおいかぶせようとするブッディスム一流の《支配統治術》なのではないか。
 《和を以って貴しと為せ》という大いなる規範としての《観念》による帝国主義 これと軌を一にしているのではないか。
 ブッディストは この意味では 寸分の狂いもなく 帝国主義者であると言うべきではないだろうか。
 そのわなに陥らないように希望します。もし このわたしの見方が 経験現実にあてはまるものならば そのわなに  陥らないようにするべきであるばかりか その罠を 自己解体するよう おのおの わが主観を 自由に 述べて 明らかにすべきである。こう考えます。

 ★▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ この《一方的に決定した立場》を 全体に及ぼそうと あたかも 意図したかのように じっさい 間違いのない全体観を打ちたてたその視点というものを 《摂理》として世に問い わざわざ またそういう観念として 押し立て 打ち出してきた。

補足日時:2009/05/08 07:43
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この回答へのお礼

 もしこのダルマのもとに 《一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない》と。偉大なるおしえである。

 そうなんですが――そうなんですが―― これを 世の中全体を一網打尽にするかのごとく 観念の共同性として 打ち出し押し出すときには それは 単なる固定的な道徳規範となり ついには いわゆる共同幻想になり果てるというものです。
 こういう現実 ちょうど この逆説のごとき経験現実 これをも考慮しなければなりません。

 じつは 摂理は ほんとうの摂理は 人間一人ひとりが あたかも互いに《論争をなすにいた》り《確執》をもって争うかのごとき 生きた動態としての・人間としての交通関係の中にこそ はたらいている。こう言うべきではないか。
 それが 対話の実践である。それが 共同主観の過程である。わたしたちの問い求めるところであり その《論争や確執》の中身も然ることながら その実践の仕方や話し合いの過程じたいの実現をも わたしたちは 望むところのものであると考えられます。
 どぢゃ?

 よって まだ 質問の趣旨は 持ち堪えると考えます。

お礼日時:2009/05/08 07:53

オコリザルです。


今日は涅槃なりイデア界なり観念世界を展望してみました。
その地平は地球の記憶で構成され、現在過去未来が一つとして存在し、空を見上げれば瞬く星星が語りかけてくる。宇宙ともつながっている。
その世界では自らに意思が宿っていることで、現実とのつながりがあることが自覚できます。現実とつながりがなくなれば意思がなくなるかについては研究不足ですが、おそらく自由自在なんでしょう。何度目かの体験ですが、そのような節があります。
神や天使との区別がつきませんが、一度も地上に降りたことのない意思に挨拶してもらったことも何度かあります。
その観念世界において自らが知覚できるのは経験世界を解き放たない限り現世のみです。時間的にも空間的にもそのような制約があります。
観念世界にたたずんだ経験では、そもそも心はずっとそこに留まっており意思の在りようによって自らが生きていることが区別できます。
現実の機軸(肉体)を失うことによって、意思は何らかの変容を遂げるでしょう。
このような見地に立てば意思が同じ形で再生されることはなさそうです。
したがって輪廻はない。
輪廻と表現できる現象が仮にあるならば、変容を遂げる自らに本質がないゆえとなりますが、地球意思とその記憶は強固です。そして肌で感じた経験では観念世界においても自らの所在(存在でなく)は、保障してもらってます。おかげで正気でいられました。

死後の話をしないで輪廻のなさを証言してみました。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 たぶん なるほど 《わたし》という存在の つまり ほかの誰でもないわたしという存在の その自己を思うこころに立てば たしかに そのときには 宇宙の大きさに広がるかのほどの こころのあそびをも覚えるのだが だから あたかも なんども この地球なら地球において 生物ないし人間になるというように 生まれ変わるかに思われるのだが――つまり あたかも 自由に みづからの思うままに もういちど 人間に生まれて 思う存分に生きてみようとしても いいように思うのだが―― それは ちょっと 筋が違うようであって むしろ 一回きりの人生〔であるか どうか ほんとうには 分からないのだが〕として 生きることに じゅうぶん 生きがいがあるし それこそ 人間冥利につきる。
 輪廻を想像しようとするその心が芽生えたときには すでに この宇宙にひろがる心を みづから 狭めた結果であると心得るべきだ。その一瞬の隙に なにものかが つけこんで わたしを 気弱くしてしまう。これでは 手足がちぢ込んでしまう。心の手足が かじかんでしまっている。のびのびと生きられるのに それでは つまんない。アスファルトとビルと文字のあいだにうずくまっていないで 精神の緑野をもっと耕そうではないか。

 そのとき 一回きりでよいのだと さとったとき むしろ そのとき この現在が 永遠の現在となって むしろ もしそうと言うなら 過去世も未来世も 包みこんでいる。もはや 生まれ変わりというようなせせこましいイデアは 消え去ってしまっている。そういうものだ。

 でしょうか?

お礼日時:2009/05/08 06:58

オコリザルです。


私にとって教養といえば自らが組上げた考え方のみで知識に乏しいのでお知恵を拝借です。
お釈迦様は輪廻はないと語ったのですよね。
ならば輪廻の幻想を生み出す信仰にも切り込めるかもしれません。
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この回答へのお礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 いま ぎゃくに まったくのうろ覚えのままで お応えすれば
 ★ お釈迦様は輪廻はないと語ったのですよね。
 ☆ に関しましては 基本的に そういう見解であったところ それ以前からのバラモンのおしえとして 人びとは 深く 輪廻の思想に慣れ親しんでいるというその情況を見て かれは 説き方を それに合わせたのだと聞いています。
 目覚めたひと(ブッダ)になれば もう何度も生まれ変わることもなく 究極の無(涅槃)になれるというふうな表現だったのではないでしょうか。
 ★ ならば輪廻の幻想を生み出す信仰にも切り込めるかもしれません。
 ☆ そうかも知れません。そして これは 《信仰》ではなく ひとつの文学作品であるということだとも思います。
 《絶対》というものに対する非思考の こころの明けもしくは伸び としての信仰ではなく そうではなく 誕生以前ないし死後に 想像力によって思いを馳せる思考の産物ですから。前世ないし来世は 今世から考えても 未知の世界ですが そのとき・そのときの時点では 人間という存在なのですから 経験世界に属します。経験的なことがらを扱うのに 《非思考=信仰》とは 言いません。

お礼日時:2009/05/08 06:40

 質問者は、偏見に満ちた理論にならない理由を並べ質問している処を見ると、特に理由4はひどく目のもあてられないのだが。


 
 どうやら、真実を知りたい訳ではないらしい。

 それならば、私の答えはこうなる。

 輪廻転生説は 愚の骨頂であり哲学が取り上げるには値しない主題である。
 
 その訳は、魂が何度も人生をやり直そうとも、記憶自体がないところから始まるその人生一回一回は、同じものではなく同一の者では無いと考えれば、輪廻転生だからと言って、やり直すと言う考えは無意味であり、考え方としては、まさに、哲学が取り上げるには値しない主題と言えるだろう。
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