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 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。

 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。

 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。

 真実をおしえてください。

A 回答 (114件中81~90件)

どうも何が問題なのかよくわかりませんが、


「輪廻転生説は 愚の骨頂」
そのとおりではないでしょうか。
しかし、愚の骨頂は他にもたくさんあるでしょうし、それにいちいち目くじらを立てても仕方ないように思うのですけどね。

輪廻転生説の発祥は知りませんが、これは支配のひとつの手法として重宝されてきたものではないでしょうか。
つまり、ねじ伏せるようにしてしか支配、あるいは統治できない人の伝家の宝刀といった按配です。
では、来し方と行く末を夢想させることによって得られるものとは何でしょうか。
それはおそらく今ある主体(意志)の放棄を促すものだという気がします。
支配者にとってこれほど都合のよいことはありませんしね。

支配者と言っても色々な意味でして、単に他者との関係において支配する立場に立ちたい場合も含んでいます。
さらに言えば、支配されたくないと(深く)思わざるを得ないような人々が、先制攻撃的に他者を支配する必要性を無意識的に発想する場合も含みます。

つまり、一種の防衛機制的要素も含まれているはずです。
精神の弱り・傷つきがそこにはあるでしょう。
弱り傷つく要因となるのではなく、弱り傷ついているという要因によって輪廻転生という幻想に向けて主体を放棄するかの如く身を投げ出すのではないでしょうか。

哲学というよりは宗教的な概念と私は思っていますが、それで救われるのであればそれも良し、ではありませんか?
コミュニケーションにおいて、最終的論拠として輪廻転生を持ち出されるとお手上げですが、それはその時に指摘すれば良い訳ですし。
スピリチュアルやら占いやらを本当に信じる人も多いわけですが、そのような人たちに対して一般論として、そんなのは嘘八百だと言っても殆んど効果が無いのと同じでしょう。
 
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この回答へのお礼

 hakobulu さん わたしの投稿を拒否した相手が 訪問してきても 応答しようとは思いません。あしからず お引き取りください。

お礼日時:2009/05/04 21:03

maimai.susです。



>このことに考慮を及ばせずに 回答を寄せることは 質問じたいを軽視することにつながります。
考慮して、回答したのが回答No.24の、
>ようは、必要だと思っていれば必要だし、不必要だと考えるのであるならば不必要でいいのではないか
っと言う部分と、
質問を見ていると、輪廻転生や因果応報に哲学的な問題があると言っているように思われます。
>私は、輪廻転生や因果応報に哲学的な問題があるのではなく、受け取る人間に問題があると考えます。
それをプラスにするかどうか、必要とするかどうか、それをどうとらえるかは、今の段階では人の自由意思で良いと思うのです。
が答えな訳です。

ですので、
>★ よい部分を取り入れ、~ 無視する結果になりうるからです。
は、No.27の☆ このわたしの文章を無視しましたね。の回答であり、bragelonneさんの対応の姿勢についての指摘なのです。
と言う事で、
 >☆ これらいづれも 論理に破たんをきたしています。部分的に摂り入れることなど 出来ないのです。
は、受け取り違いと言うこになります。

今ある真実とは、bragelonneさんが主張ほど、単純ではないと思うのは私の間違いなのでしょうかね。
私にとっては、世の中は複雑で、どちら(輪廻転生・因果応報が愚である)が正しいのかどうなのかは、どちらも正であるが、同時に正しくもないと言うのが、私なりの真実です。
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この回答へのお礼

 やはり 論理の無視 対話の無視でしたね。

 

お礼日時:2009/05/04 19:09

maiami.susです。



>☆ 何の《矛盾》ですか?
は、回答No.6の時の
>☆ とは 互いに 矛盾しています。その論理は 分かりますか? 最初の(α)の論理に《その通り》だと判断なさったのなら その論理が (β)とは 合わないということは ご理解なさると思うのですが どうでしょう?
の時の答えに関してですよ。
部分の解説が、
>そしてそのこの文章の
人それぞれの「それ」の部分が
bragelonneさんみたいに考えれば、まさにその通り。
に当てはまり。
「ぞれ」の部分が
しかし、考え様によっては、命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり又は、来世に苦しまないように、今の生き方を考えるそう言った考え方もあると思います。
に当てはめて考えて頂けれ矛盾はないかと思われます。
です。

人には無視を指摘する割には、ご自分もかなりそう言う部分はあるようですね。上の内容理解していたら、☆ 何の《矛盾》ですか?の質問は出ないですよね。

>☆ 《bragelonneさんみたいに考え》るということは どういうことですか? それが 合っているかどうか 分かりません。
それは、bragelonneさんの質問内容の事を指しています。

>☆ このわたしの文章を無視しましたね。~哲学の知ったことではありません。
の内容なんですが、そう言うのは、単に自分が心の狭い人間だと言っているように思われます。
うーん、理由ですか?そうですね例えば、
>たとえ一部分としてでも あれば それは 良い部分をほとんど全部 台無しにしてしまう。
と考えるところです。よい部分を取り入れ、他の部分は省けばいいだけの事ですから、そこがダメなら他も全てダメと考えるのは、了見の狭い人間、人の意見を取り入れようとする意志のない人間の考え方だと思いますよ。
あとですね、
>☆ 《多角的》というのは ひとつの角度が ほかの角度の価値を台無しにしてしまえば 考慮に値しない こう結論づけるはづです。
と言う考え方も、偏見を生む元のようにも思われます。
物事を正しく認識しようと思えば、台無しにしてしまうからと言ってそれらを考慮しないのは、bragelonneさんのよく言う「大切な少数意見」を無視する結果になりうるからです。

それに(No.24補足欄)を無視した訳ではなく、No.27の回答の中で、>そうですね人によっては、それがあると考えることで、bragelonneさんとはまた別の見方・考え方をする人もいると思います。
とか、
>そう(多角的に)捉えなければ、たしかに輪廻転生説は 愚の骨頂で終わると思います。
それにそう言った事に、意味を見つけ出すのも哲学の一つの形であろかともおもいます。
と言う形で考えを表したつもりでした、分かりにくくてすいません。
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この回答へのお礼

 ★ 考え様によっては、命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり又は、来世に苦しまないように、今の生き方を考えるそう言った考え方もあると思います。
 ☆ これは 事後の処理の問題です。一たん 殺人行為があったとすれば その一つの行為は 加害者・被害者ともに それぞれ 自業自得であるという結論がみちびかれるはづです。
 このことに考慮を及ばせずに 回答を寄せることは 質問じたいを軽視することにつながります。

 ★ よい部分を取り入れ、他の部分は省けばいいだけの事ですから、そこがダメなら他も全てダメと考えるのは、了見の狭い人間、人の意見を取り入れようとする意志のない人間の考え方だと思いますよ。
 ★ 物事を正しく認識しようと思えば、台無しにしてしまうからと言ってそれらを考慮しないのは、bragelonneさんのよく言う「大切な少数意見」を無視する結果になりうるからです。
 ☆ これらいづれも 論理に破たんをきたしています。部分的に摂り入れることなど 出来ないのです。
 もし良いところだけを摂取して 考え方として用いるとすれば それは すでに 《輪廻転生》の説ではなくなっていると見るべきなのです。ただ《命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり・・・》という部分だけの問題だという意味です。
 お断りとして この考えは 輪廻転生説から取り入れましたと言っておけば いいという話です。
 よって 
 ○ 輪廻転生説は 哲学にとって 扱うに足る主題ではない。
 ☆ となるのではないか。こういう問いです。はじめから そう言っています。聞く耳ありやなしやの問題だと申しあげているとおりです。

お礼日時:2009/05/04 16:57

生物は何ゆえ子を成すのか。


子の未来(子孫)、いずくのとき(いつの時にか)、自らこの地に戻らんがため。

話変わるけど、仏教てっ結構哲学じゃない。他の宗教に比べて仏教ずっと突き詰めていくと哲学にぶつかるよ。

この回答への補足

 tanuchi さん ご回答をありがとうございます。

 たぶん どうもほかの質問とは勝手がちがうとお思いになったことでしょう。たぶん そのご印象のとおりだと存じます。いづれにしましても よろしくどうぞ。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 生物は何ゆえ子を成すのか。
 子の未来(子孫)、いずくのとき(いつの時にか)、自らこの地に戻らんがため。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▲ (ローマ書8:18-25)~~~~~~~~~~~~~~~~
 現在の苦しみは 将来わたしたちに現わされるはづの栄光に比べると 取るに足りないとわたしたちは思います。
 被造物は 神の子たちの現われるのを切実に待ち望んでいます。被造物は虚無の力に服していますが それは 自分の意志によるのではなく そうさせた方の意志によるものであり 同時に希望を持っています。
 つまり 被造物も いつか滅びの奴隷状態から解放されて 神の子供たちの光栄ある自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで ともにうめき ともに産みの苦しみを味わっていることを わたしたちは知っています。被造物だけでなく 聖霊の初穂をいただいているわたしたちも 神の子とされること つまり 体のあがなわれることを 心の中でうめきながら待ち望んでいます。
 わたしたちは このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は真の希望ではありません。見えるものをだれが希望するでしょうか。わたしたちは 目に見えないものを希望している以上 忍耐して待ち望むのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ きわめて べらぼうな話だと思います。
 たぶん このような希望を 輪廻転生説のもとに語っても 意味がないのだと考えます。だから 哲学として否定するという意味ではなく 使いようがないと思われるという意味です。
 あなたが 子孫の繁栄を望むことが 希望ではないとおっしゃるなら 話は 別です。

 ★ 話変わるけど、仏教てっ結構哲学じゃない。他の宗教に比べて仏教ずっと突き詰めていくと哲学にぶつかるよ。
 ☆ つきつめた結果 次のような質問をしています。けっきょく 《絶対》観において ブッディスムは あいまいである。はっきりしたことを よう言わない。という結論にぶつかるよ。
 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html

補足日時:2009/05/04 16:27
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  ☆理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。

その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。
 ○こういうのを自由というのでしょうかね。権限も根拠もないのでしょう?勝手と自由の違いですね。これは相手にする必要はないでしょうね。そうです取り上げるのに値しません。

 ☆理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。
 ○生まれ変わりと輪廻転生。任務で意図的に意志で地上に来るというのもあるそうですが。
  ○原因に対する結果のことですが、自業自得だけでもたらされるものばかりでもないようですよ。

 ☆理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。
 ○仰せのとおり、どんな短い人生になっても、きちんとしなければいけませんね。そのように導いていると存じます。

 ☆理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。
 ○〔制約されていたとき〕というのは政治や社会の制度としての自由権の制約の時代、つまり市民革命などの時代以前のことを仰せなんですか。いつの時代も安易な考えは必ず、困ったことを齎し、困る破目に自分をもっていっていますね。

 ☆真実をおしえてください。
 ○輪廻転生の経験が、wakeful consciousではなされていない。物証がない、検証ができない。物象の世界では意識できない、ということに尽きますよね。哲学の駆使する知性のドメインである世界に、輪廻転生は姿をみせていないでしょうね。
 通常意識が扱えないということですね。生と死、そして生と死を意識の継続で経験することもありうるとも、ありえないとも、仰せの哲学はいえないのですね。対象とすることができない。ということでしょう。

  ☆回答番号:No.1の補足の中のお言葉について:
     ○ 輪廻転生を断ち切る
     ☆ ことこそが 目指す境涯だと聞きます。
  ○そうでしょうね。一定の原因でこの地上に強制的に生まれさせられてくる輪廻転生は人の尊厳に値しないと存じます。そういう絆を断ち切ることを言っているのでしょうね。
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この回答へのお礼

 krya1998 さん もうわたしとのやり取りは おやめになったのではなかったのでしたか。まづは ご回答をありがとうございます。

 ○ 自由には 広い意味と狭い意味とがあります。
 ○ 何ものにも制約を受けずに 意志のおもむくまま 気の向くままに行為するのは 広い意味での自由です。
 ○ どうも人には 心というものがあって 意志が選択し行為に及ぶというとき あたかも最終の同意を与えるかのようです。与えない場合もあるわけでして そのときには 何らかのやましさを わたしたちは 感じるようです。
 ○ 基本的に言って ひろく《うそ》をつくとき わたしたちの心は やましさを覚えさせて あたかも《うそつけ!》と言っているかのようです。
 ○ 心からの同意をともなうとき その意志行為が 自然本性さながらの狭い意味での自由だと考えます。それ以外のすべての意志行為について 広い意味の自由を 捉えます。
 ○ 《勝手・わがまま》は 本来の狭い意味での自由以外の自由を言うのだと考えます。

 ★ 自業自得
 ☆ 善因善果・悪因悪果というのですから 一つひとつの行為は すべて その因果関係において 決まって来ます。そのつど あくまで過去の自分の行為に対する応報としての結果であって それ以外の原因によって起こるのではない。となります。それ以外の原因が 仮りにあっても すべて 自分の行為の結果に寄せ集められているといった恰好でしょうか。よって 自業自得となります。H1N1に罹るのは すべて 自業自得だというありがたいお説のようです。

 ★  ○ 輪廻転生を断ち切る
 ☆ はじめから 転生はないとしておけば いちいち 断ち切る必要もないように思います。これは 可能性だけの議論ですが。

お礼日時:2009/05/04 16:03

レスをありがとうございます。


実は、仏教に関してはいくつか根本的な違和感(仏教への疑問ではなく、こう考えた方がつじつまが合うのではないかという疑問)が以前からあったので、専門家に質問したいとうずうずしているのです。しかし、ここで質問して答えが得られるかどうかがかなり疑問なことがいくつかあって困っています。その一端を少しだけ。

>せめてものなぐさめに 止むを得ず
確かに最初はなぐさめだったと思いますが、実際には古代インド人にとって、結果として、なぐさめどころか非常な苦しみになってしまったのではないか、と想像しています。何しろ、本当に生まれ変わりを信じていると、今生の悩みだけでも大変なのに前世や来世についても悩まなければいけないわけですから(逆に言えば、生まれ変わりを「苦しい」と感じていない人は本当に信じているのか?という疑問も出てきます)。ついでに言えば、この話題に関しては、生まれ変わりが事実あるのかどうかよりも、信じているかどうかの方が重要と感じています。

状況証拠として、そもそも、解脱したら生まれ変わることはない、という教えそのものが「生まれ変わりは苦しいもの」という考え方があったことを示唆しています。
また、苦しみの代表的な四苦として「生老病死」と言われていますが、他の3つはともかく「生」が苦であることは自明かどうか?
確かに、いろいろな理がつけられていて、それならば成り立つとは思います。
しかしむしろ、古代インド人にとって「生が苦である」ことは議論するまでもなく当たり前の話だった、と考えた方がすっきりするように思います。インド人に知り合いがいないので知らないのですが、インド人は理屈っぽいと聞いたことがあります。とすると、お釈迦様は議論を始めるにあたって、誰でも納得する前提から始めたと考えられます。
また、十二支縁起で苦の原因をひとつひとつ考察していますが、人生の苦しみの原因は何か、という吟味で「生まれるからだ」となっています。これにもいろいろ理はつけられています。しかし、現代日本人にとって「人生が苦しいのは生まれたからだ」と言われても実もふたもありません(12個の議論のうち11番目で早くもアウトになってしまいます)が、古代インド人にとっては、実もふたもないどころか、非常に説得力があったのだ、と考えた方がよいような気がします。

イエス・キリストは自分の教えについて「永遠の生命が与えられる」と言ってますが、古代インド人にこれを言っても誰も聞く耳をもたないでしょう。しかし「これ以上、生まれ変わることはなくなる」(ある意味で「永遠の死が与えられる」とも言えます)と言えば「そんなよい方法があるのか?」と聞く人は沢山いるでしょう。キリスト教と仏教の教えの違いは、矛盾というより、バックボーンが違っていたのではないかと考えます。

ただ、大事なことは、これらの教えがバックボーンの範囲を超えた普遍的な真理を含んでいたので世界宗教になったのだ、と思います。

この回答への補足

 だとしますと――あっ taparon さん まづは ご回答をありがとうございます。だとしますと(気は短くはなく長いのですが 遅くはなく早いと思っています)―― 
 ○ インド人にとって・もしくは世界のブッディストにとって 今では 《生まれる苦》について解決法を説いた部分で納得するというよりは ほかの《普遍的な真理》のほうで 信奉するかたちである。
 ☆ こうなりますでしょうか?
 ★ 永遠の生命が与えられる
 ☆ に関しましては 将来すべきこととして臨むのがただしいと聞いています。いま自然に生まれてくる自然の身体(つまり 精神および肉体)から こんどは 霊の身体になるというのですから――つまり ちんぷんかんぷんなのですから―― これは 哲学としては この経験相対の世界を超えたところの絶対の領域(つまり それと 《わたし》との関係)について 述べているのだなと その位置づけができます。
 ところが 輪廻転生ですと 経験できないし証明できないというその意味が 《絶対》の領域とは まったく 違います。その過去世において 経験的な存在として生きていたわけです。その未来世が来たら やはり 経験存在としての人間だと言っているわけです。これを 《信じる》というのは 哲学としての厳密な用法からは 認められるものではありません。
 知覚・表象の対象になるものについては 思考します。絶対との関係については 非思考です。それゆえ 信じると言います。(または 信じないと表現します)。それゆえにも 哲学にとって 輪廻転生説は 愚の骨頂だと考えます。未来世で人間に生まれたとき また 考えれば いいことです。いまから 転生するのだと 哲学として 考える必要はないし 考えるのは おかしいです。――現代では 気休めのたぐいだと考えます。そういう位置づけをした上では どうなりと 料理すればよいのでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし「これ以上、生まれ変わることはなくなる」(ある意味で「永遠の死が与えられる」とも言えます)と言えば「そんなよい方法があるのか?」と聞く人は沢山いるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《バックボーンが違っていたのではないか》というところですが どうなんでしょう。見方を変えれば 表現の違いという問題なのでしょうか。わたしは 有神論と無神論とは 《絶対》観の具体的な表現例として 同等だと考えるものですが そういった表現の問題に帰着するのでしょうか?
 それとも その表現の違いというのは その基礎としての知覚の違いに起因するのでしょうか。《無》だとか《空》だとかのほうが 感性として好ましいのでしょうか?
 ですが だったら 《永遠の生命》と同じ内容であるのでしたら その意味で 《涅槃》なら涅槃として使えばいいことになります。つまり 生まれ変わるという捉え方をする必要もなく また 因果応報というのでは きわめて窮屈な論理だけに終わると はっきり言うべきだと考えます。その上で 表現の問題として 《永遠の死が恋しい》とか言うのであれば もう その違和感について 受容していることができるでしょう。
 そういう場合には 一歩ほど 哲学の問題に入ったかに思われると同時に 表面では 文学の問題におさまるというもののように捉えられますが いかがでしょう? 哲学に入るというのは キリスト信仰による神学に助けられての話だと思います。

 * あっ 専門家として bonbonnier さんという方がおられますよ。

補足日時:2009/05/04 15:27
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別に、証明できないからって哲学の主題にならないわけじゃないでしょう。

一回きりで再現性のない歴史事象だって、十分哲学の俎上に乗ってますよね。

要は、質問者さんが輪廻転生説を納得しかねる、というだけの、ごくごく個人的な話でしょ。現にそれに価値を認める人がいるのなら、そのことは認めないわけにはいかないでしょう。理屈ばかりの暇人の観念遊戯にならないように祈ります。単なる好き嫌いに起因するもやもやなら、木のうろにでも叫んでみることです。
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この回答へのお礼

 sakurazz さん ご回答をありがとうございます。
 わたしの質問にとって 初めての方ということで 敬意を表したいと思いますが それにしても ひどいですね。
 
 ★ 哲学の主題になることと 哲学の俎上にのぼること
 ☆ これらは互いに 別のことでしょう。前者の件で ここでは 問うています。

 ★ 要は、質問者さんが輪廻転生説を納得しかねる、というだけの、ごくごく個人的な話でしょ。
 ☆ そうとる自由はありますが 理解という点で はなはだ疑わしいですね。これまで じゅうぶんなやり取りが交わされていますから それらを見なくて投稿する自由もありますが 知らないことによる失言の可能性について ちょっとは おそれる自由も持ちたいと考えますが いかがでしょうか?
 ☆ 要するに 回答者さんが 輪廻転生説の内容によって 世界を納得したい というだけの ごくごく個人的な話でしょ。

 ★ 現にそれに価値を認める人がいるのなら、そのことは認めないわけにはいかないでしょう。
 ☆ これは 《認める》という言葉の使い方に注意を怠ったと思われます。哲学の主題になるものではないという意味で 《認めない》。そして そのようなくだらない主題の中身であっても 好きな人が 煮て食おうが焼いて食おうが それは 哲学の知ったことではないという意味で 結果的に 《認めている》。こういう議論は すでに して来ているということです。
 ★ 理屈ばかりの暇人の観念遊戯にならないように祈ります。
 ☆ 同上。
 ★ 単なる好き嫌いに起因するもやもやなら、木のうろにでも叫んでみることです。
 ☆ これは わたしの知ったことではありません。

お礼日時:2009/05/04 14:47

maimai.susです。



失礼、前回回答で書き忘れてました。
矛盾の証明ですよね。

>>愚の骨頂かどうかは、人それぞれbragelonneさんみたいに考えれば、まさにその通り。
しかし、考え様によっては、命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり又は、来世に苦しまないように、今の生き方を考えるそう言った考え方もあると思います。

この文章の
人それぞれの「それ」の部分が
bragelonneさんみたいに考えれば、まさにその通り。
に当てはまり。
「ぞれ」の部分が
しかし、考え様によっては、命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり又は、来世に苦しまないように、今の生き方を考えるそう言った考え方もあると思います。
に当てはめて考えて頂けれ矛盾はないかと思われます。

私が思うに、輪廻転生やカルマ、因果応報とは、本来、法則的力の流れを表したものだと考えています。
あと対極図とかもそう言う類のものだと思います。
まあ、それが、宗教やら思想などがあいまみえて今の様な形になったのではないかと思います。
なので、実際に生まれ変わるとかどうかは別として、そう言う意味においては、考える価値はあるかと考えます。

そうですね人によっては、それがあると考えることで、bragelonneさんとはまた別の見方・考え方をする人もいると思います。

と言うように、多角的に考えれば、輪廻転生説は 愚の骨頂だとも言いきれないのではないでしょうかネ。

そう(多角的に)捉えなければ、たしかに輪廻転生説は 愚の骨頂で終わると思います。
それにそう言った事に、意味を見つけ出すのも哲学の一つの形であろかともおもいます。


>理解できたら 読む者が理解できるように 回答をよせてください。
これに関しては、こちら(私)だけの問題ではなく、受け取るそちら(貴方)にも問題があると、私だけでなく他の回答者の方々とのやり取りでも問題になっている処ですよね。
人の話を理解しない、聞かないとよく言われているじゃあないですか。
それでも、分かろうとしないいのは、単に自分を分かっていないだけの様にも見えます。

この回答への補足

 ★ 矛盾の証明ですよね。
 ☆ 何の《矛盾》ですか?
 ★ >>愚の骨頂かどうかは、人それぞれbragelonneさんみたいに考えれば、まさにその通り。
 ☆ 《bragelonneさんみたいに考え》るということは どういうことですか? それが 合っているかどうか 分かりません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし、考え様によっては、命が永遠に続くからこそ、現世だけでは到達できない境地を求め続けたり又は、来世に苦しまないように、今の生き方を考えるそう言った考え方もあると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《命が永遠に続く〔と思う〕からこそ》というところでしょう。
 そのとき もしこのようであるとすれば しかも 次のような問題も起こると考えられます。
 ☆☆ (No.24補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 因果応報説が 輪廻転生にもとづいて ということは 過去世や未来世にもわたって 貫かれるならば ひとのすること為すこと すべては 自業自得だとなります。
 
 たとえば 《せっかく投稿しているのに 無視されたという結果も 自業自得である。まったく どちらにも 問題はない》という結論になります。
 そういう哲学の問題です。
 哲学としては そういう輪廻転生説は あつかう対象にはならないのではないか。こういう問いです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このわたしの文章を無視しましたね。毎度のことですが こちらの場合を考えてみる必要があるでしょう。そして こちらの場合は おおきな欠陥であると言ってよいでしょう。しかも この欠陥が いま提示された良い場合と並んであるということですが 一般に この欠陥が たとえ一部分としてでも あれば それは 良い部分をほとんど全部 台無しにしてしまう。こう思われませんか?
 ★ 法則的力の流れを表したものだ
 ☆ とすれば 上のわるい場合は 起こり得ると考えられます。
 ★ 多角的に考えれば、輪廻転生説は 愚の骨頂だとも言いきれないのではないでしょうかネ。
 ☆ 《多角的》というのは ひとつの角度が ほかの角度の価値を台無しにしてしまえば 考慮に値しない こう結論づけるはづです。このような理論を提供しておくのが 哲学だと考えます。あとは 煮て食うなり焼いて食うなりしても 哲学の知ったことではありません。
 そういう問いです。
 こんど 無視したら 放っておきます。人で無しと見なします。もう見なしています。
 同じ群れのあいだで共感を あなたは 得ているのかも知れませんね。

補足日時:2009/05/04 14:34
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bragelonne様、こんにちは。


いつもご丁寧なお礼をどうもありがとうございます。

恐らくわたくしとbragelonne様とでは「輪廻転生説は愚の骨頂」という点では同じ立場ですが、その理由は異なっているように思います。

質疑応答の対話を重ねる醍醐味と言うのは、このような双方の意見の類似点相違点をその時々に見出し究める醍醐味にあると考え、今もこうしてbragelonne様の胸をお借りしている次第です。
意見の相違はあって当然のこと。
しかもあくまで思弁上のことに過ぎませんので、逆に忌憚のないご指摘ならびに遠慮無用の一刀両断をお願い致します。

双方の「愚の骨頂に至る理由の相違点」です。
例えばbragelonne様のその理由は、
>《抵抗を排除しない・つまり 抵抗をする》ので 自業自得説は やはり 採れません。
これは前述の通り、わたくしは家族のことを思うと理屈上の理解にと留まるのみです。
具体的な行動の信仰にはなり得ないように思われます。

また、わたくしの「愚の骨頂」である最たる理由です。
これは「仮に善因善果・悪因悪果といっさいのおこないが既に決まっているというのなら」すでにこの世に生まれついたときから全ての人間は平等とは言えないのではないか?と思うからです。

歴史的事実として自ら勝ち得てきた「基本的人権の尊重」を最大限に重んじる現代において、その一方で不条理な前世の因果応報という思想がはびこるというのは、何とも矛盾した話ではないでしょうか。
前世からの因果応報を主張することは、すなわち、現世における本人の生や力量、意欲、チャンスに対し、何らかの制限を加えたり可能性を狭めることになりかねないと危惧するのです。

>輪廻転生を前提とした因果応報説は ぎゃくに きわめてきびしい内面における実践規範に かすかにですが 成り得たかも知れません。

はい、そうですね。
そして因果応報という考え方の援用は「前世」を絡めない限りにおいては、「アリとキリギリスの話」の童話のように、実践規範のよりどころの一つとして存在意義があったかもしれません。
この童話を聞いて「アリは薄情だ!」と怒り狂う子供達が一体どれほどいることでしょうか。
子どもと言うのは純粋であるがゆえに残酷さを素直に受容するのかもしれません。

但し、わたくしは「アリは薄情だ!」という意見を言う子供に対して「何でそう思うの?それはどうして?」と尋ねるでしょうが、決して子供に対して「アリは薄情だ!と思ってはいけません。」とは言うつもりはありません。

同様に、「因果応報にもとづく前世からの輪廻転生説は愚の骨頂」というスタンスなれど、声高に叫ぶ方々の主張する権利や意思そのものまでも「違うでしょ?」と問い詰めたり非難する気はない、ということです。
この点についてはbragelonne様とは同じスタンスなのでしょうか。

>つぎは このわたしにして 文学の問題としてです。
はい。そうですね。
引用をありがとうございました。面白かったです。
「文学としてオカルト風味を楽しむ、好む」のと「オカルト・神秘思想を日常の内に信じる」というのは全く別問題ではないでしょうか。
また同様に、お化け屋敷に入って「キャー!キャー!」と意中の男性にしがみつく女性の特権まで糾弾するつもりは毛頭ありません♪

この回答への補足

 こんにちは mashumaro2 さん。ご回答をありがとうございます。

 ★ そして因果応報という考え方の援用は「前世」を絡めない限りにおいては、「アリとキリギリスの話」の童話のように、実践規範のよりどころの一つとして存在意義があったかもしれません。
 ☆ ここは 文句なく 同感でした。

 さて
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「因果応報にもとづく前世からの輪廻転生説は愚の骨頂」というスタンスなれど、声高に叫ぶ方々の主張する権利や意思そのものまでも「違うでしょ?」と問い詰めたり非難する気はない、ということです。
 この点についてはbragelonne様とは同じスタンスなのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 声高に叫ぼうが 内面において静かに強く思っていようが そのひとの信教・良心の自由および表現の自由は どこまでも 自分のそれと同じように 守る。これは すでに お伝えしたかと思います。言い分があるとき それを発表する自由を どこまでも 守りたいと考えています。

 哲学は ご存じのように たとえ非現実なことでも 想像上で・思弁的に あらゆる可能性を考慮し ものごとについての判断というものを最大限に・最良のかたちで 発揮できるよう その材料を提供するいとなみです。
 その哲学の仕事に 輪廻転生という説は 入りませんね?という問いを しております。それだけです。ひとが どう支持しようが反対しようが この問いとは関係ありません。
 哲学としてと特定した問いだといっても それは 決められない。という回答でしたら そのように 答えていただけばよいわけです。

 また 思想といえば すでに 生活態度となっていて 一般に 現実的です。現実を離れないというのが 基本です。哲学は 思想とは違って 現実を 一たん 離れます。遠まわりします。最大限に迂回生産をするものです。
 可能性がゼロに近いということがらの場合でも それについて ひととおり考えておくのが 哲学ではないでしょうか。

 また その意味で 理論です。実践に移る前の考えとして 理論の状態にとどまります。とどまってよいという前提で 思惟をめぐらします。
 理論としての整合性があるから それが 何でも現実に通用するかと言えば それは それも むつかしいでしょう。しかも 理論は理論として 完結させようというみづからの働きもあります。
 それが いまの問いです。哲学が扱うに値しないという理論としての結論は 出るはづなのです。また それだけのことです。

 だいたい こういうご議論でしたでしょうか。

補足日時:2009/05/04 14:07
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今の私の見解を基に思うところを書いてみますね。



<<▲ 絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。▲ Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。▲  仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。☆ もちろん この Sumanasara さんと magga さんとは 人格が別です。いま対話をしているのは magga さんとです。ですが その magga さんに このような見解とご自分のそれとの違いについて 明らかにしてくださいと頼んでも よろしいのではないでしょうか。つまり 上の見解は 明らかに magga さんのご見解としての★ 僕には〔有説・無説・無記説の〕三つがあるように感じるのです。そもそも「虚構の想定」は制限の無い〔ものであり〕論拠も論理も何も求めないものと思っていますので。虚構の設定についての人の取る態度はこの三つかなと。触れない・思考すらしない人もいるだろうなと>>

「無記説」はないのでしょうか?
たとえば「亜hヴぁお;いrh」を皆想定しているのでしょか?貴方は想定していますか?世界で100%の人が「亜hヴぁお;いrh」を想定しているのでしょうか?「亜ぱあ胃老い亜s」「あkほ;あいh」は?

そういう意味で「無記説が<あるのでは?>」といいます。


<<☆ とは異なっているようですから。>>

異なってますか?

<<Sumanasaraさんのほうは 《絶対は無い》というふうに 触れていますね。つまり 無説であるようですから。>>

長老の言葉に特に異論はないですよ


<<そのほか 無限の概念をきちんと把握すること あるいは 涅槃をどう規定しているのか>>

「無限」…限りが無い→その現象が起こる原因がなくならなければ終わることが無い

「涅槃」…生命としての現象が起こる原因が無い→原因が無いので起こらない

と考えてます。

「無いこと」は他にもいっぱいあるでしょう。
原因が無く「痛み」が「無いこと」もあるでしょうしねぇw

<<この辺にしときます。と質問者が言えたら いいのに。(冗談ですよ)。>>

質問を出さなければ(原因を無くせば)議論はやみます(起こらない)w

回答には
スルーだったので
もう一度のせてみますw
チョッとでも質問内容に触れないと削除されちゃいますw

bragelonneさま。
真実は知りませんが思ったところを書いてみますね。

輪廻転生も宗教によってだいぶ意味も内容も違いますし、因果応報・業についても宗教によってまったく意味合いが違いますね。

僕の理解する論は「業」は「意思」で、
現象は多因多果で「業」ひと括りでかいせつできるとはなってないですね。

現象に対し、どのように感じるか、どうしようとするかの幅が決まってしまうことを「業」の果というのだと理解してます。

そして死後が無いなら、「結果が出ない」ということになっていかなる道徳も崩れ落ちると。前世が無いなら「原因が無い」となって「原因なき偶然発生する」ことになり「因果関係」が否定されいかなる道徳も崩れると。

やり直しはきかない。今は今しかない。
二度と同じ現象は無いのだから。

生まれ変わることを念頭に置くなら、今やれるだけの善をなすことをしておくのが 筋というものである。

怠け・悪行為をなすならその業をもって悪果を受けるのだから。

安易な逃げ・怠けの考え方としていかなる言葉を持っても 持った途端に 精進と能力が 減退する。それゆえに 精神をめぐる病いがやむことが無い。

このように感じます。

何か参考になれば幸いです。
幸福であれノシ

この回答への補足

 magga さん 文字化けが出てしまいましたが ご回答をあありがとうございます。

 ★ 「無記説」はないのでしょうか?
 ☆ 絶対という想定について 絶対ではない世界つまり経験世界において この絶対を 仮りにでも人間の言葉で表わそうとするなら その存在に関してなら 《ある》か《ない》かいづれか一方です。それ以外にありません。
 想定すること自体がいやだと言う人でも 相対を超えた世界のこの想定じたいは 認めざるを得ません。《無限は その半分も あるいは 三分の一も やはり 無限である》 こういう絶対の世界の想定です。
 これを神と言いかえて ある派とない派とに二分されるという寸法です。それ以外にありません。
 《無記》とすることは 思考停止だと宣言することを意味します。
 ただし 細かく説明する必要があるのでしょうが 《有神論》か《無神論》か いづれかを――基本的には 誰もが 選択しているはづですが その選択をしたあと――えらんだということを言わない・知らせないという意味で 無記説をとるばあいが考えられます。でも それは いまの問いにおいて 意味を持ちません。

 そのように あり得ない第三の立ち場としての《無記》説を 自分は とると言っておきながら 無神論とは
 ★ 異なってますか?
 ☆ は ないでしょう。とぼけるのも いい加減にするべきです。
 ★ 長老の言葉に特に異論はないですよ
 ☆ だったら 《無記》ではなくて 《神は存在しない》派であると はっきり言うべきです。


 回答にかんしては けっきょく どういう回答なのでしょうか? 答えは 何なのでしょう? 分からないので お応えのしようがないようです。

補足日時:2009/05/04 13:24
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