本当の宗教ってありますか?

昨今ではさまざまな宗教が「自分の宗教こそが真理を語っている。」
「私たちの宗教だけが幸せになる道を知っている。」
などと言っていますね。

でも、真理を扱っている宗教ってありますかね?僕は宗教は多かれ少なかれ、証明不可能な、こう言っては大げさかもしれませんが荒唐無稽な事を言っているように思います。例えば霊の存在、地獄の責め苦、輪廻転生などです。これらは科学的には立証されていませんが、宗教は公然と教理として教えています。

到底信じ得ないことも、その宗教に入るなら信じなくてはいけない。だから信仰なんでしょうか?僕はサイエントロジストですから科学を信じています。しかし科学では心の平安は得られませんでした。そこで宗教に希望があるのではと思い調べましたが、どの宗教も不確かな事を信じることを要求してきます。

みなさんは、なんらかの宗教に入っていて幸せだと感じていますか?その宗教は荒唐無稽な事は教えていませんか?そもそも完全な宗教を求めようとすること自体が間違いなのでしょうか?

散文的になってしまいましたが、回答いただけるとありがたいです。

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A 回答 (52件中1~10件)

>僕はサイエントロジストですから科学を信じています。



気になるのですが、これは
科学を信じているという意味ですか。
サイエントロジーという宗教を信じているという意味ですか。

サイエントロジーという宗教は、
精神医学批判で、必ず出てくる宗教です。
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実に明確な疑問を持たれていると思います。


宗教とは読んで字のごとく、宗(むね)の教えであり、これしかないというのが宗教です。
真の宗教とは、この物質宇宙の元、人生の真の目的は何か、われわれ人間は何のために生まれかく生かされているのか、神様のご存在とは何かを明確に解く教えのことを言います。万物の霊長といわれている人間が神様の最終目的物です。神様の目的とは、「人間がお互いに助けあい、誰もが神様に感謝しその恩に報いていく世界、理想世界建設」をすることを目的とされています。神様の目的を人生の目的自身の宗教哲学とて生きていくことこれが本来の人間の姿だったのであります。人間にとっていつもままならぬ身、ままならぬ世といって、病気や病気以外の困りごと、また天災地変等は全て神様が人間に対し早く、自分のことだけではなく、神様の目的に向かう考え方にさせるためのいわゆる手段にすぎないのであります。いわゆる自分を捨てるということです。この考え方が、真の幸せ、心の平安が得られることになります。人間には理性という考えが与えられています。理性とは物事に疑問を持ちその解決を求めようとすることであります。真の宗教は、荒唐無稽なことは教えていません。あなたが完全な宗教を求めることは間違いではなく、むしろ人間の本来の姿なのであります。宗教と科学とは氷炭相容いれないものといわれる人もいますが、「科学の半解者は信仰遠ざかるが、科学の通暁者は信仰にかえる」とのことわざがあります。
科学にしても医学やさまざまな学問の発達とは神様の存在をより確立することになるのであります。
もっともっと書きたいことは山ほどありますが、文章では書ききれないので、ここで終わります。
もしお会いする機会がありましたらもっとくわしく説明します。
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回答NO.50という記念すべき順番で光栄に思います。



自己流で宗教を作っては?

宗教はひとつでは完全ではないと思います。そこで仏教、儒教、キリスト教、イスラム教、道教、ジャイナ教、北欧神話、アニミズム、国家神道、精霊信仰、など、世界中の宗教や思想の『いい所取り』が一番良いと思います。私は現にそうしています。どの考えも素晴らしいです。

たとえば仏陀の悟りの教えは私にとって非常に人生にプラスになっています。いかにして欲を無くして苦しみを滅却するか。いかに苦しみから逃れるか。仏陀の教えが無かったら私の人生は悲惨だったと思います。苦しみを滅却する方法、欲を無くす方法を得られて非常に有益なのが仏教です。本多信一氏はこれを参考に『よりマシ発想』を考え出しました。私は仏教系に救われています。
キリスト教の教えによって神という考え方を得ました。逆に仏陀は神や天国などを説教しなかったはずなので、キリスト教も私のためになっています。何かあったら神様に愚痴をこぼします。悟ったとしても苦しみは0にはならないので、いつでも愚痴をこぼせる神様は便利な存在です。一生懸命、真面目に生きれば、神様も愚痴をこぼすの位はおおめに見てくれるでしょう。これも私の心の支えです。
儒教は他人に対する接し方、でしょうか。キリスト教の隣人愛だけではやや不完全な気がして、儒教の仕組みも参考になっています。
イスラム教は顔を見せないようにベールをつけますが、あれも成る程と感動しています。

ちなみに以前クリスチャンの方に聞いたところ、クリスチャンでさえキリスト教を『自己流』で信仰しているそうです。ひとりひとり信仰は違うので『自分流』が良いと彼女も仰っていました。宗教は特別やったとしても自己流で良いのではないでしょうか。現代は科学教の時代ですが、それも使い方を誤まらなければ心も豊かになる素晴らしい道具と私は思っています。ひとつに限定しないで全てを参考に、自分が一番納得いく考えを練り上げて下さい。

逆にひとつの宗教で『完全』はありえません。完全な宗教があるならば、他の宗教は不完全となり、不完全な宗教は滅びるからです。しかし現代で多数の宗教が共存している以上、どの宗教も不完全です。もし、宗教に入るとしても(私は入らない方が良いと思います。どの宗教も色々と面倒くさいので)融通を利かせて自分なりの信仰を持つべきです。逆に強制されるのはおかしいです。本当に素晴らしい宗教ならば強制しなくても信者がどんどん集まるはずです。強制する時点で後ろめたさを持っているのです。後ろめたいから強制せざるを得ないのです。

ちなみに現代の科学教も他の宗教と並存している以上、不完全です。

そもそも信仰とは『信じる』ことです。信仰という言葉がある以上、真実の教えはこの世に存在しません。そのようん完全な宗教では『信仰』が必要ないからです。真実ならば信じる必要もありません。逆に言えば繰り返しになりますが、宗教は『宗=優れた』教えでしかありません。信仰という言葉が存在する限り、その宗教は不完全です。

日本で年越し派遣村やホームレスが大勢います。宗教は彼らに対して援助をしていないとは思いませんか? どの街にも教会はあります。しかしどの街にもホームレスが一人くらいはいることがそれを物語っていると思います。また、どの街にもゴミが落ちていることからも宗教は『完全ではない』ことを示しています。神や教祖が守ってくれるならば、財産を投げ出して彼らを皆救い、町中をぴかぴかにするほどに奉仕しても大丈夫なはずですから。それをしない、出来ない、ということは矢張り宗教は完全ではないのです。逆に宗教は内部はドロドロしているものです。ご注意下さい。

宗教は所属しないで自己流で学ぶのが一番良いと思います。

ちなみに私はどの教団にも所属していないので悪しからず。割と宗教批判をして申し訳ありません。気にされた方はすみませんでした。勿論、宗教で救われた人々は幾らでもいます。『刺青クリスチャン』を筆頭として、多くの人が様々な宗教で救われています。その事実を考えると私は宗教自体はとても良いことだと思っています。何事も使い道次第ではないでしょうか。

長々と読んでくださって誠に有難うございました。
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宗教の中に 自分をみいだし 幸福を得ることが出来るのであれば それはすばらしいことですし 周囲の人も それを尊重すべきことなのですが。


 少し視点を変えて 自分の存在を客観視して自分自身を見つめる方法を 心の中に自分自身の基準を身につけることになる考え方も あると思うので ここで、紹介致します 『運命』について考えてみては如何でしょう?
ーーー運命ですーーー運命を理解する事ですーーー
戸惑われることと 思います 枠が少ないので 先に結論から言いますと
運命を 理解すると 世界感が 変わります  心の基準が 現れてきます 自分自身の内面からです それら 日常の迷いも 迷いのない部分も含めた 自分自身がです 次いで 変化した 価値観を使い 自由にそして前向きに 進む方法を会得出来ると思っています。
私のいう 運命と 言うのは絶対的な この世界を 理解の及ぶ限りの大きな世界の 法則に従いながら 特別な事ではなく もちろん化学的な話にも 参加しながら 生きるということを言いたいのです。しかもこれは妥協の無い はみだしの 許されていない世界 100%の束縛を意味する 『運命』を理解することが始まりです。 謙虚に現実を見つめて 現実を理解しようとしているだけです。説明を少し省略しますが 『運命』『宿命』変える事の出来ないものです

100%の 束縛を意味する言葉で 表現したいのです   信じる事では有りません 自分で理解する事です つまり あらゆる事象を それに照らし合わせて 確認をして理解することです   
『運命』は 占いで 変えようとか 努力で変えようとか ではなく 私達の 回りをとりまく 宇宙の法則 絶対的な法則に従った運命のことで誰もそこから 意図して抜け出す事など出来ない世界を (客観的に こんな気がすると云うような妥協を含まない心をもって)理解したいのです (主観的にはその逆のことが起きています)

先ず 運命を理解するとは 一度は100%の 束縛を 受け入れることがはじまりですが 宗教のように信じる必要は有りません 私達はもともと 人間の考え及ばない 世界によって つくられ 生かされています。 好む 好まないに 関係なく あらゆる全てのことが おきているのです これが事実です そして 次に 100%の 束縛に 気付くと
はじめてそこで 人には 人としての努力によって得られる 自己の世界が与えられていることに気づき 今までとは 分離自立した自己の存在が自覚出来ます つまりは努力することすら 許されない世界と自分で作った(つもりの)世界とが 存在していることを区別して理解出来るのです。それらは『束縛の中の100%の自由』であり 私達の意識する枠をも 超えた世界をも含めた自由が存在している事によって生かされているのです  100%の束縛と 100%の自由 反対の意味の言葉が ここで同じ方向を向いていてるのは 『次元の違い』があるからです。 この二つの言葉を発するときの 発する側(私達の自覚) の次元です。

 例えば物事の限界を感じたとしても それ自体 自由意識の中の限界なのであって 決して決定的なものではないと言える訳です。私が自覚すらしていない 能力がそこに存在し、自覚している範囲を超えて結果が現れるような ことがおきたとしても それも含まれるのです。そこには 私達の知らない 可能性も含むということです。 嬉しいことに そう感じながら生きる自由は私達にあたえられているようです。もし 何も しなくても運命か? と云う疑問があったとしたら その疑問の行く末も 疑問も 全てなるべくして なっていると云う事は事実です。しかし もしもそれが不幸な結末なら それを予想して回避して 行動するように作られている 自分も含め認めるべきなのです。当然私達は ある程度の未来を予測をしたり 判断をしたりしながら 生きていくように作られています、 ここで 与えられた自己としての存在と 自由な自己意識という『次元の違う』はなしを  一緒に混同すると 矛盾を感じて 混乱してしまうとおもいます。
  
運命を理解すると 私は 慈愛ということばの意味があらためて理解出来るような 気がします 地球のうえで それぞれが それぞれの 役を演じていると云うのも 頷けます
 新しい世代の人には 『競争と勝利』と云う考え方や教育も 能力を高めるために 有効な事ではあっても 行き過ぎによる害を自覚出来るような『自己』 と云うものの確立も目指す必要があるのではないでしょうか。 
   100%の束縛の中にある 100%の自由 
私達人間は 自由をもって生まれているように 感じて生きるのです 自分で考えたように感じる そのように 作られていると 言う話です。
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個人的にな意見ですが、


ほとんどの宗教が、教祖の生き方を無私して、教里だけの教えをするから、結局、犠牲者にしか感じない、その犠牲者に触れるから、宗教が信じる事ができなくなったと思います。
僕は、個人的には、神の存在は確かにあると思います。
でも、今ある全ての宗教には、存在はしないのだと感じます。僕が、神を感じる事ができたのは、
キリスト教でも異端と呼ばれている、ほんの小さな集まりです。キリスト教でいう、贖罪を自分で体験して、例えて言えば、過去の自分が、いかに暗闇を歩いてきたかを感じます。
また、そんな機会にふれ、聖書を読み初めました、今まで約40年聖書なんて、みた事もなかったですが、
宗教と信仰は別々だと、はっきり書いてあります。
わかりやすく説明すれば、
人間産まれてから、長年生きている内に、多かれ少なかれ、罪を犯して生きています。
その事を反省し、神と共々に歩んで行こうという気持ちが信仰です。
宗教は、教里の押し売りみたいなもんで、とくに、神を信じる訳ではなく、教祖がといた事を賛同し、自分を良く見せる為に、色々な人を勧誘するのが宗教です
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あなたの仰るとおり、真理を扱っている宗教はないと思います。


宗教とは組織です。
組織になったら真理とは離れていきます。
組織はそれ自体の存続が第一の目的となるからです。
組織は存続していくにつれて縦の組織になります。
そして効率を重視します。
上の人は知識をたくさん持っていて真理に近いという前提が必要となります。
存続するにはお金が必要となり、それは上に集まります。

あなたの求める真理をこのような宗教組織に求めるということは間違っていると思います。
自分の中の大切な部分を他者に委ねる事になり、そうすることで人はかりそめの安心を得ますが、お金と時間と、あと最も大切な自分の思考を失っていきます。
あなたが一人で少しずつ真剣にあなたの真理を追究していくことが唯一の道だと思います。
それはあなただけの道であり、信念です。
もちろん、その道の途中で様々な人と出会い、真理について語り合うことはあるでしょうが、一人一人がそれぞれの真理を追究していくことが大切なのだということを忘れないで下さい。
宗教組織が語る、もっともらしい宗教用語や美辞麗句など真理とは何の関係もありません。
組織を維持したり、お金儲けのための手段です。
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あなたの言うとおり、宗教は「自分の教えこそ真理」と主張していますが、実際には証明不可能な事・科学的に見て矛盾している事を真理として説いているだけです。



幽霊、死後の世界、臨界転生、神様、カルマなどは存在しません。あなたも科学を信じるならわかると思います。科学的に立証されてない所か科学的・論理的に見て真実である可能性は全くありません。
しかし、この宇宙には人の科学では説明できそうも無い物もあります。「この世の始まり・終わり」などです。ある程度の仮説は立てられますが、はっきり言って人類には永遠に理解する事は不可能だと思います。

あなたは心の平安を求めているようですが、嘘の情報で穴を埋めない限り「わからないものはわからない」と開き直るしかありません。「幸せ」に定義はありませんし、「信仰」とは「根拠の無いものを盲信すること」です。

あなたは宗教の不条理さや理不尽さをすでに感じている様ですので、不可知論について勉強することをお勧めします。多分あなたは納得すると思います。「不可知論」自体を理解するには最低限の知識は必要ですが。
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仏教における真理についてお話させていただきます。


若い人達のご参考になれば幸いです。

始めに真理というものは、どのようにして認識されるものか、と言う事から述べさせていただきます。

真理というものは、基本的には感性の働きによって直感的に把握されるものであると言われています。
認識作用の成立には、感性による把握と悟性による分析的思惟が共に必要とされますが
感性の働きが悟性に優先して、まず直感的な把握を行うと解釈されます。
この感性の働きを精神的な観測と言い換えても良いと思われます。
精神的な観測の状態を、仏教においては「禅定」とも言い、真理に到達するためには必須の事とされています。
感性によって直感的に知る働きを「無分別智」、悟性によって分析的思惟を行う働きを「有分別智」とも名付けています。
真理とは無分別智によって直感的に把握され、有分別智によって分析・概念化されうるものと仏教では考えています。

以上の事柄を参考にしながら、真理というものを見ていきたいと思います。
仏教を学ばれた方々には、今更と思われる事ばかりでしょうが、若い人達に少しでもご参考になればと思います。

仏教では、疑いようのない真理とされるものを「三法印」と名付けています。
「諸行無常」
「諸法無我」
「涅槃寂静」 の三つです。

「諸行無常」は万物流転の相を言います。
全ては変わり行く、この世に変わらぬものは無い、という見方です。
形あるものは壊れる・生あるものは滅びる、と言う消極的で暗い見方にもなりがちですが
反対に、生成発展、という積極的な見方も失ってはならないと思います。
いずれにしても、日常的な感覚や思考によっても十分に認識できる事であり、全てのものの変化の相を指しています。

「諸法無我」は現象の本質を指しています。
全ての現象に自性(我)は無く、自性無きままに全ての現象は在る、という見方です。
全ての現象は相依的な関係によって起きるものであり、独立して存在するものは無い、という見方です。
相依的である事・独立性が無い事を無自性とも無我とも表現しています。
そして、このような認識は瞑想(禅定)による体験によって得られるものと見なされています。
前述した無分別智と有分別智とによって認識された現象の本質を指し「空」とも表現されます。
また、この相依性を「縁起の法」とも言います。
仏陀が瞑想の内に発見したとされるもので、その目覚め(悟り)は次のような言葉をもって語られています。

  是れあるに  依りて彼れ有り
  是れ生ずるに依りて彼れ生ず
  是れ無きに  依りて彼れ無し
  是れ滅するに依りて彼れ滅す

この縁起の考察が相依性の考察でもあり、全ての現象の本質は無自性(無我)であると認識されるに至った訳です。
また、仏陀は生成・消滅の縁起の順観と逆観を瞑想の内に行ったとされています。
人の輪廻を瞑想の対象として、深く縁起の考察を行ったという事は、仏典に於いても伝えられています。
十二因縁の教えとして知られるものが、それに該当します。

「涅槃寂静」とは、真理を悟った静寂な境地を表しています。
仏典によれば、瞑想により縁起の法を考察した仏陀が、明け方近くになって、ついに真理に到達して悟りを得たとされています。
しかしながら、その悟った真理そのものについての内容は全くと言ってよいほど伝えられていないのです。
真理を悟った境地というものは語られても、真理そのものが語られる事は無かったのです。

仏教の教えが、仏陀の直説とされる原始仏教から部派仏教へ、さらに大乗仏教から密教へと様々に変わっていったのですが
密教の正系の最終段階に至って、真理そのものをついに概念化し表現するに及びました。
正統密教の継承者であり、教えを大成されたとされる空海によって説かれるものとなったのです。
以前からあった教え(四大説とか六界経説)も基となっていると言われています。
また、深い禅定体験に裏付けされたものである事は、般若心経秘鍵の秘蔵真言分において明らかなものと受け取れます。
よく知られたこの一節は、真理への参入と帰結を示した体験そのものであり、仏教史に残る名文でもあります。
空海の教えは真理への参入に留まらず、真理の働きに基づいて積極的に展開された巾広いものです。
他の仏教の教えを包括したスケールの大きな教えとなっています。

ここに、真理そのものの内容についての解説は、浅学な私が説くところのものでも無く、また誤伝してはならない事なので控えさせていただたく思います。
密教の教理や正系の阿闍梨さんの著書を拝読して理解を深められるのが最も適切かと思われます。
求めれば必ず得るものがあると思われます。

精神的な観測とでもいうべき感性の働きによって、真理に到達したされる仏教の教えが、これからの時代にどう活かされていくのか
個々の問題であり続けるのかどうかといった点は、科学に於ける物理的な観測の推移と相まって大変に興味のある事でもあります。
これからの若い人達に良い結果を委ねたいとも思う次第です。

以上ご参考になれば幸いです。

  参考図書  増谷文雄著書
            講談社 原始仏典
           渡辺照宏著書
           松本照敬著書
           織田隆弘著書
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本当の宗教を探すことは間違っていないと思います。


イエス・キリストは「命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。…良い木はみな立派な実を生み出し、腐った木はみな無価値な実を生み出します。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。…あなた方はその実によってそれらの人々を見分けることができるのです。」と言いました。
それならキリスト教で、「人を殺してはいけない」と聖書に書いてあるにもかかわらず、戦争に加担してきたグループは、それが有名で大きなグループだとしても、本当の宗教ではない、と思います。
また、本当の宗教は、科学と矛盾していないはずだと思います。また、「人は死後どうなるか」といったようなことについて、一つの真理があるはずですが、そういうことを知る点で、科学には限界があるとも思います。
「荒唐無稽」と思えることも、はっきりとした「証拠」がある場合は、初めは信じなくても信じるようになることもあると思います。例えば、もし地獄というものがあるのなら、なぜ地獄があると言えるのか、はっきり説明できなければならないと思うので、ただそう教えられるから、やみくもに信じなけれならないとすれば、それは本当の宗教ではない、と思います。
私は、自分の宗教で心の平安を得ることができています。
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宗教とは元々、字のごとく大元というか根本的なことを我々に教えようとしているものであって、それは当然のごとく、大まかに言えば幸不幸の原因と結果、つまり、~すれば我々にとってはプラス、~すれば我々にとってはマイナスとなる、ということをいろいろなパターンで言い表して、我々に教えようとしているのですが、それでそのことを知った者たちがそれらを知らない人々に伝えるために集団化し、派閥を作り、宗教組織が形成され、今日に到っているかと思われます。



 ただ、ご存知のように玉石混交は否めないことであり、一体、真に我々に教えようとしているものはどれなのか、そして、もちろんその実践によってその結果が如実に実生活に反映され、具現化するものは一体どれなのか。
 
 やはり、これを客観的に判断するためには、その宗派の信者の動向、生活等を観るのが一番かと思われます。つまり、いかに耳障りのいい教義や理屈を並べ立てても、それが現実に伴わないものであればエセ宗教と見なしてもよく、それで仏法には『理証、文証も現証には過ぎず』という言葉がありますが、結局、現証に勝る宗教の正邪判別基準はないということです。
 
 ですから、いろんな信者の実生活等を比較検討して見られれば、何らかの答えが掴めてくるのではないでしょうか。そして、その教義と実践と現証が合致して納得されれば、自ら試してみるのも良いかと思われます。信じる信じないはそれからかと思われます。
 
 いずれにしましても宗教の根幹というものは、この世の中には人智では計り知れない力が存在していて、それに準じれば我々にとってプラスと作用し、反すればマイナスへと作用するということで、それが幸不幸、明暗を分けるということです。
 
 そして、その力を仏法では一つの法則としてとらえて法力などと表現します。例えば科学における物理学や天文学でもあまたの法則が出てきますが、それらの法則も結局、人類がこの世に存在する以前からあって、天体の運行や地球上での諸現象に作用してきたのです。そして、それらの存在をケプラーやニュートンらの科学者たちが発見して、その法則の持つ力を世の中に説いてきたのです。
 
 仏法もこれと同じで釈迦は、我々の生活や人生に直結した法則を見出し、その法則の持つ力を世の中に説いていったのです。ただ今のような法則という概念がその当時の人々にはなかったので、聞く人々に少しでも分かり易く、受け入れ易いように、その法則を神とか仏とか菩薩とか様々に擬人化して、その力の持つ作用を様々に説いていったのです。ですから、釈迦も当時における科学者だったと言っても過言ではないでしょう。
 
 結局は何事も法則に準じればうまくいき、逆らえば損な目に遭うということかと思われます。卑近な例で言えば、例えば飛行機などは航空力学や流体力学の法則に適った飛び方や形状をしていればこそ、問題なく飛行し目的地に到達できるのですが、もし、それらの法則を無視した飛び方や形状をしたとしたら、一体どうなるでしょうか。もう言うまでもないことかと思われます。
 
 結局、我々の人生も同じことかと思われますので、もし、完全な宗教というものを知りたいのであれば、法華経を学ばれれば良いかと思われます。 
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Q非文明的な生活を送る宗教(組織?)の名前

非文明的な生活を送る宗教(組織?)の名前

「文明的なものをいっさい使わない人達がいる」「その人たちの目は死んでいるように思えた」「心に傷を負った人が行き着く場所」「退廃的?」「カナダ?」

ずっと昔に上記のような文章を見たような記憶があります(あるいは別の表現かもしれませんが、意味するニュアンスは似てると思います)。その宗教(もしかしたら、ただの組織かもしれません)の名前を知りたいのです。一応、WIKIPEDIAで宗教一覧から探したのですが(ざっとですが)、それらしい生活を送る宗教はありませんでした。Googleにて「宗教 非文明的 生活 名前」のようになんとなく頭にある言葉を並べても、まるで見当違いの情報がでてきてしまって、あとはどう調べればよいのかわかりません。そこで、質問させていただきました。

本当にうろ覚えなのですが、よろしくお願いします。宗教名がわかれば、あとは本部支部の所在地は恐らく自力で調べることができるかと思います。

そういった人たちとの会話は、きっと自分にとって良い経験になるのではないか、と思いました。

Aベストアンサー

「文明的なものをいっさい使わない」「宗教的」北米、という記述から、アーミッシュだと思いました。
Wikipediaのページを貼っておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

文明的な機器を否定して自給自足の生活を送る素朴な宗派です。
教義を厳格に守るためか俗世とほとんど接触がなく、非常に禁欲的な印象を受けます。
宗教はキリスト教だと思います。

死んだような目、というのもすさまじい表現ですね(^^;

Q宗教を信じておられる方は、何を根拠に宗教を信じておられるのですか。

宗教を信じておられる方は、何を根拠に宗教を信じておられるのですか。
また科学との折り合いをどのようにつけておられますか。

例えば死後3日たったキリストが復活したとか。

むかーし、「エホバの証人」の信者さんがうちにきて見せてくれたパンフレットには
墓からたくさんの人が蘇ってでてくる様が描いてありました。

そのような話をいかにして信じるに至ったのでしょうか。

「知性の犠牲を強いることである。」と武部宗彦さんはおっしゃっていますが。

Aベストアンサー

たくさん、ありがとうございます。まず、先のお礼の中から・・

>・・宗教は比較しないで選ぶことができるのかが⇒もう1度回答を読んでいただきたいのですが、したのですよ。そして、こうして関心を持ち続けて時間が過ぎると、他の宗教の方の話も耳に入りますしね。

>永遠の命⇒現在生まれて生きて死にますが、死ななければどうでしょう?そのためにはそうできる体、環境いりますね。人間の体はそうできる可能性をもつ、自己更新ができる物質なのです。これを神が創造されたと学ぶのです。人形じゃありません。考え、判断できる脳もそうです。それを使い環境を整えます。永遠に生きられないから憧れから崇拝にまで高められたのかもしれませんが、永遠の命じたいは思考・観念・将来は事実であって、自ら何かできるわけでもありません。聖書の基準でいくとこれを崇拝はまちがいとなります。

>聖書は神ですか。
それは不完全なる人間が書いたものであって神ではないのではないでしょうか⇒「聖書全体は神の霊感を受けたもので・・」テモテ第二3章16節。神が人間に書かせたものです。神ご自身は見えません。どこにでもあるエネルギーのようなものでもありません。(詳しいことは割愛しています)

補足の中から・・

>武部宗彦さんのイエス双子説・・・・教団の人たちだけではないでしょうか。⇒イエスが双子なら聖書にそうあってもいいはずと思いました。何を根拠にその説が出たのかはわかりませんが、タイムスリップできないので、どちらも(復活も武部さんの説も)直接確認できない、ならば現在、確認できることから検証しようという事です。

>a・・・繋ぐことはできません。⇒聖書そのもののデータと復活の話を直接は結び付けられません。科学的に元素やら分子構造やらから復活を検証したい(つまり、No.9のmmkyさんの回答に近い)をご希望ならここでは書きませんが、証人の組織はそれらを考慮した書籍はありますよ。別に証人の本でなくても科学者の人が学ぶような難しい本でもtakotakoqさんはチョイスできますね。というか、これが真に尋ねたかったことだったのですか・・

補足として、いえる事はそこまで知らなくてもお母さんのお腹の中で赤ちゃんが育って出てくるという事実(結果)は多くの人は現実知ることができます。このことをお母さんはいちいちお腹の外から指示する事はできず、ここがわかれみちでしょうが、知力・判断力の働かない偶然では(自分は)できないと思います。

知らない過去にいけない以上、絶対確実なのは、将来の復活のある時代をtakotakoqさんが目撃する事です。

騙すためにはそれなりの得が騙す方にあるわけですが、自分がtakotakoqさんを騙して何も得はないことはお伝えしておきたいです。忘れたことも多いですが、takotakoqさんがいうように疑問は昔、自分にもあったと思いますよ。疑問をもつ事が悪いのではなく、疑問をどこから解決するのか、答えに対してどのような態度で臨むのかが重要だと思っています。

「言葉の使い方がなっていない点については」・・自分はさほど気になりませんでした。自分のほうこそ、このような機会をもうけていただいて感謝しております。

たくさん、ありがとうございます。まず、先のお礼の中から・・

>・・宗教は比較しないで選ぶことができるのかが⇒もう1度回答を読んでいただきたいのですが、したのですよ。そして、こうして関心を持ち続けて時間が過ぎると、他の宗教の方の話も耳に入りますしね。

>永遠の命⇒現在生まれて生きて死にますが、死ななければどうでしょう?そのためにはそうできる体、環境いりますね。人間の体はそうできる可能性をもつ、自己更新ができる物質なのです。これを神が創造されたと学ぶのです。人形じゃありません。...続きを読む

Q宗教の本質

宗教の本質

哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。

1.宗教の発生時期
  宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。
  どのような原始社会においても宗教は発生しています。
  宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。

2.宗教の種類と数
  宗教は全世界に溢れています。
  その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。
  また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。

3.宗教を構成するもの
  宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。
  この3つの概念を備えない宗教は存在しません。

4.宗教の宇宙観
  全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。
  すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。

5.宗教を動かすもの
  宗教は心地良いものです。
  修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。
  酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。
  もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。

6.宗教の目的
  宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。
  これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。
  大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。
  この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。
  国が宗教を擁護するのもこのためです。

7.宗教の未来
  統治の道具としての宗教の力は既に失われています。
  これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。
  それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。
  つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。

8.宗教の次にくるもの
  それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。

御意見ください
 

宗教の本質

哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。

1.宗教の発生時期
  宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。
  どのような原始社会においても宗教は発生しています。
  宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。

2.宗教の種類と数
  宗教は全世界に溢れています。
  その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。
  また宗教は人の数だけ存在するという人も多...続きを読む

Aベストアンサー

続けて失礼いたします。
>>私の提示したものに一々否定したり、不十分であると述べたりするばかりで何ひとつ自身の答えを示そうとはしません。
 認知科学のパスカル・ボイヤー氏は宗教をひとくくりにして説明してしまうことはよくやれられるがこれ間違いだと述べておられますが、私も同意見です。よく、「宗教は未知のモノに説明を与える」とか「宗教は安心を与える」「社会に秩序を与える」、または「妄想に過ぎない」と説明を加える方が居られます。しかし、それは「宗教」という言葉のあらわすものが持っている守備範囲を表すもので、どれもその核心を突いているわけではありません。
「未知の物に説明を与える」ということに関して言えば、宗教は説明以上に謎を呼びます。スーダンのザンデ人のあるお宅の屋根が崩れました。すると、ザンデ人たちはすぐに妖術師の仕業であると疑い、説明をつけ始めた。この時ザンデ人の宗教を研究していたエバンス・プリチャードは、屋根の所にはシロアリが食っているのだから屋根が落ちた原因は妖術師ではなくシロアリの仕業だと指摘します。しかし、ザンデ人はシロアリが原因であるや建物の老朽化などのことは百も承知であったが、シロアリに関心を寄せませんでした。彼らの関心事は「なぜ今その人が屋根の下にいる時に、屋根が落ちたか?」という理由でした。これが適切な「謎」であれば「宗教は未知の物に説明を与える」ということもいえるでしょうが、そうではありません。宗教自体が新たな謎を呼んでいるのです。一休禅師の歌の中にも「釈迦といういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」なんて歌を詠んでおられますが、このような点からも宗教はただ説明を与えるだけではないことが伺えます。
「宗教は安心を与える」というのは前述の通りそれだけではありませんし、「宗教は秩序を与える」というのも秩序を壊すのも宗教であったりします。また、「宗教は妄想である」というのも、私達は妄想と隣りあわせで生活しているわけで、「もし」や「シュミレーション」や「遠く離れた恋人の思い」であったり、その妄想から力を得ることもありますが、そういうことには言及されないことが多い。どの説明でも不十分なのです。
それを前提において考えますと、私としては一番それらしいかなと思っているのは、認知科学的な方面からの研究によれば宗教の本質は「人間の認知機能の表象」であると考えられています。分かりやすく言えば「人間は宗教的なものを感じるように出来ている」ということです。前々回の回答の中でも記したように、人間の行為者の過剰検出であったり、それを安定した形で定着させる機能だあったり、前回の中に記した推論機能であったり、数多くの人間の認知機能の表象として宗教と言うものがあるという説明です。
しかし、私はこの回答では宗教の本質というより「人間の本質」の問題であるように思います。では宗教の本質とは?「いろいろ」です。刹那的にみれば、一つの宗教から、多くの宗派が生まれたように見えます。ここから一つの宗教から多くの宗教が生まれたのだから「宗教の本質を答えることが出来る」と考えるのが自然なように見えます。しかし、文化人類学や進化心理学においては「多から少」、質問の中にも
>>その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。
>>また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。
とあるように、宗教は歴史的な多様化ではなく、数限りない宗教の絶え間ない自然淘汰による凝縮の結果と考えられています。私もこのように考えます。
 つまり、「人間の認知機能」という共通ですが、その対象が違うのです。砂漠における砂の認識と、湿原における砂の認識は違っているわけですから、同じ砂を信仰対象としたとしても、共通点はあってもその本質は違っています。だからこそ日本には宗教全般を表わす「宗教」という言葉が存在しなかったのはそのためです。日本の分類は「仏道」「神道」「儒学」「キリシタン」という括りまでです。なぜなら、それぞれの「本質」が違うことを意識せずとも知っていたからでしょう。つまり、宗教の本質は「いろいろ」ということです。

 しかし、この答えでは満足いかないでしょう?そうでしょう。書いている私が満足してません。説明としては不充分なのです。けれども、だからこそ学ぶのです。「宗教」について語られたものは、宗教学、神学はもとより、歴史学・文化人類学・認知科学・進化心理学等々多岐にわたります。今の時代、調べれば知ることが出来るのに、それをしないのは怠惰以外の何者でもないと私は学び続けています。
あなたのような熱い方とお話が出来て嬉しく思います。ありがとうございました。
 ただ、お答えにはなっていませんね。申し訳ありません。
合掌 南無阿弥陀仏

続けて失礼いたします。
>>私の提示したものに一々否定したり、不十分であると述べたりするばかりで何ひとつ自身の答えを示そうとはしません。
 認知科学のパスカル・ボイヤー氏は宗教をひとくくりにして説明してしまうことはよくやれられるがこれ間違いだと述べておられますが、私も同意見です。よく、「宗教は未知のモノに説明を与える」とか「宗教は安心を与える」「社会に秩序を与える」、または「妄想に過ぎない」と説明を加える方が居られます。しかし、それは「宗教」という言葉のあらわすものが持って...続きを読む

Q真理概念について整合説と合意説と存在の真理と…あと一つは?皆さんにとって真理とは?(>0<)

初めまして(^^)最近哲学について勉強する機械があって、「真理概念」というものを知りました(考えすぎるとキリがないけど面白いなぁと思いました☆)。そこで、
整合説(命題と命題の整合・不整合について)と
合意説(合意できるものを真理とする)と
存在の真理(ありのまま)
この3つとあと一つ何かあったき気がするんですが思い出せません…検索しても上手く見つけられなくて…(><)他に何か有名な真理概念があれば教えて頂けないでしょうか?(>0<)
あと、これをふまえて自分にとって「真理って何かな…?」て考えた時、私はこの中では「存在の真理(ありのまま)」が自分の考え方に近いかな~と思うのですが、皆さんは「真理」とは何だと思いますか?(^^)(上記以外の考え方でも良いです!)
好奇心というか参考にしたいなぁと思ってるので、もしよろしければ教えて頂けないでしょうか?たくさんご意見頂けると嬉しいです!(>∀<)

Aベストアンサー

真理とは何か?
これは、認識論のメインテーマでしょうね。

真理=あるがままの現実をあるがままに反映した観念や判断。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は、この「あるがまま論」が妥当であろうと思います。
ただ、「あるがまま論=鏡に映った像論」という解釈ではありません。

ところで、あるがままの現実をあるがままに反映するためには何がしかの実践が必ず介在。
で、実践を通じて<本当にあるがままか?>は検証されてより確かになっていくでしょう。
「あるがまま論」が単なる「鏡に映った像論」ではないという理由です。

たとえば、「宇宙の年齢は約130億年」は、現時点での「あるがまま論」が指し示す真理。
私は、30世紀においても、これが真理であり続けている保証はどこにもないと思っています。
真理の実践における検証レベルは、時代的制約、個人的制約などを必ず伴います。
ですから、「これが100%正しい究極の真理」を21世紀の今日で知ることは不可能でしょう。
これは、平安時代や江戸時代の文献にみられる真理と今日の真理を対比すれば判ります。
30世紀の人々も21世紀初頭の真理を同じような思いを持って見ることでしょう。
ですから、「あるがまま論」のいう真理は相対的なそれであって絶対的なそれではありません。

概ね、これが私が納得している真理論の骨格です。

真理とは何か?
これは、認識論のメインテーマでしょうね。

真理=あるがままの現実をあるがままに反映した観念や判断。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は、この「あるがまま論」が妥当であろうと思います。
ただ、「あるがまま論=鏡に映った像論」という解釈ではありません。

ところで、あるがままの現実をあるがままに反映するためには何がしかの実践が必ず介在。
で、実践を通じて<本当にあるがままか?>は検証されてより確かになっていくでしょう。
「...続きを読む

Q宗教の種類は今後も増え続けるのか?

宗教は動物にはないものと思います。死人に対してお墓を作ったり花をお供えすることなどは、人間が進化した結果の宗教心です。その宗教心は国や地域でさまざまな既成宗教を生み出しました。ですがその反面科学や知識が進歩することにより、既成宗教の信憑性は低下しています。ですが自分で宗教を選ばない人達は先祖の宗教を引き継いでいる人が多数です。信教の自由ですから先祖の宗教から離れる人もいます。その人達は無宗教になるひともいますが、多数の人は理論的で科学的に近い宗教に惹かれるようです。その為、新興宗教が多数つくられてきています。私としては宗教の多くは必要のないものと思っています。この世にとって必要な宗教と必要でない宗教を分けることはできないでしょうか?ただ増え続ける宗教は馬鹿馬鹿しいだけです。できれば宗教は一つにまとめるべきだと思っています。誰にでも人間としての宗教心はあります。その意味をもう一度見直して、世界で一つだけの宗教をつくれないものでしょうか?

Aベストアンサー

そちらの質問は、“本来哲学が忘れたり、諦めたりしてはならないはずの問題”というふうに、 私はなのですが、 本気で思っています。

ごめんなさい。馬鹿にされてしまうかもしれないですが、その本気さの出どころを正直に書きます。 そのあたりの自己紹介を先に書きます。

わたしは、肉体労働者でほとんど本とか読んでいません。 アカデミックな哲学の世界の歴史とかを知らない人間なのです。
しかし、子供の頃 差別といじめから体を壊し何度も死の床をはいずった体験からか、物事を考えるのにいちいち徹底してその本質まで考える癖はついていました。

だからといってこの人生について解ることは、徹底して考えるほどに自分の未熟さ、青二才ぶり、甘さ、どうしようもなさ、小ささ、木の葉のような状態でしかなかったのですが、  自分の中では、これが60歳になってみて(50歳ごろ全体的にまとまったのですが) 物事は総合的にかんがえると(人生のことがらすべてをなのです。このOKウェブのカテゴリが無限にあるわけではないことから、60歳の思索者のそのへんを想像していただけると幸いです。)人間の能力はけして何もかも出来る可能性なんて持ってはいないけれど、 A地点からB地点までの一歩一歩の旅ならば必ず答えが見えてくるそういう確かな「可能性の大地」という世界、 つまり深く本質的にそして広く総合的に考えれば必ず 次への見とおしならば開けるはずで その頂点であるべき思索開拓の道が本来哲学であるはず、→ すなわち、この相対的は世の中にて、諦めていいような問題は存在しない。 哲学がそこにある限り、常に前進への道はあるはず。 という考えにいたっているというわけなのです。

宗教の問題に限らず、憎しみの連鎖の問題、生物の弱さの問題、医学の進歩の問題、経済の問題、外交のあり方の問題、大きくて不可能に思えてしまう問題も、 けして諦めてはならない。 哲学が諦めたらもちろんすべては絶望しかないのでしょうが、そんなことはありえない。という考えだということです。 

今では、論理以上に「諦めない心」のほうが大事と思えるほどになっています。

ジョンレノンでしたか「宗教の無い世界を夢見てごらん、国境の無い世界を夢見てごらん♪」といった歌詞(くわしくは知らないのですが)の「夢」を音楽と詩で語っていますよね。

夢は 音楽哲学にしろ、言葉や詩の哲学にしろ そこから生まれたさらに進化した音楽や詩や文学にしろ、 裏のその哲学がどこまで煮詰められているかによって 実現へと近づいてゆくという理論もなりたちます。

私が33,4歳のころだったでしょうか、友達が泣きながらそのニュースを知らせてくれた事を憶えています。彼がピストルで撃たれて殺されていなかったら、どのような哲学をわたしたちに語ってくれたのか、生きていたなら彼の60歳の頃のお話を聞いてみたくなります。

へんな自己紹介ですが、ここまでをここでの自己紹介とさせていただいます。

紙数の都合で 回答自体はANO15まで筆を伸ばします。(一応最初の回答という形ですが)

***
 paradox8様の質問文に直接対応した回答は次のANO15(から)となりますが、 まだ紙数がありそうなので、付け加えます。

私は上記のような「哲学人」なのですが、 最近、このサイト内にて、アカデミックな哲学の世界で“哲学の世界”自体が 膨大に分裂していてそのその思索における総合性を失ってるとかつかみがたくなってるとか聞いていますし、

また哲学の歴史自体が、何か個とか個性というあたりでもしかしたら へんな曲がり方をしてきてしまったらしいことも聞いています。  個とい概念はとても大事な人間性についての思索なのですが、絶対個という概念を 文字通り「絶対」に通じ合えないのだからそれが故にお互いを尊重しあうことが大事なのだとかいうふうな簡単な考えでまとまってしまっているらしいことも聞いています。

 アカデミックな哲学が こんな地点から抜け出せないでいるというのが事実であるなら ちょっと信じられない世界です。

学者の卓上の論理というのは もしかしたら、生きる必死さ、真剣さに欠けているのかもしれませんね。 それだから この宗教の問題にも哲学が答えられなくなっているということなのかもしれません。 ここにそのような推理が働いてしまう者です。

でも、本来 人間の哲学の可能性を哲学すれば、深く広く総合的、本質的、厳密に考えれば そんなはずないと思う者の 私はもちろんその一人です。

私自身は、諦めません。  つづけます。

そちらの質問は、“本来哲学が忘れたり、諦めたりしてはならないはずの問題”というふうに、 私はなのですが、 本気で思っています。

ごめんなさい。馬鹿にされてしまうかもしれないですが、その本気さの出どころを正直に書きます。 そのあたりの自己紹介を先に書きます。

わたしは、肉体労働者でほとんど本とか読んでいません。 アカデミックな哲学の世界の歴史とかを知らない人間なのです。
しかし、子供の頃 差別といじめから体を壊し何度も死の床をはいずった体験からか、物事を考えるのにいちいち...続きを読む

Q創価学会,幸福の科学,エホバの証人←これらの宗教の信者は相手の宗教につ

創価学会,幸福の科学,エホバの証人←これらの宗教の信者は相手の宗教についてどのように考えているのでしょうか?

この間幸福の科学の信者である友人にエホバの話をしたら,輸血の話を持ち出して「エホバは非常に危ない宗教だ.かかわらない方が良い」と言われました.自分はエホバの信者ではないのですが,エホバ信者の方とは親しくさせていただいていて,非常に良い人ばかりなので視野が狭いのではないかと思いました.

また,最近付き合いだした彼女が創価学会の信者でした.今のところ本人は隠しているつもりですが,家に行った時に聖教新聞や仏壇などがありすぐにわかりました.

これらの彼女や友人達をお互いに会わせて宗教について話をした場合,どのようなことが起こり得ると考えられるでしょうか?やはり喧嘩になったり議論が噛み合わなかったりするのでしょうか?

Aベストアンサー

あくまでも私見ですけれど

創価学会  
他教他宗は邪教と見ているようなふしがあります
「他から攻撃されるのは本物だから」 と言ってました 修道者にしては変な言い分です
宗教と言うより政治団体と言った方が相応しいかも知れません
全てでは無いでしょうが「修道」 は無き如くで 「ご利益信仰」 のみ強い気がします
初めの頃は良く解らないでしょうけれど 何時までも「ご利益信仰」ではいけない事に気付けない方が多いのでは無いでしょうか?
一部の方は攻撃的です 日蓮自身がそんな所がありましたからでしょうか?

エホバの証人 
何人かと何度か お話した事あります 知り合いではありません
他宗は邪教とまでは言わないようですが自分達だけが聖書を正しく解釈しているが如くです
聖書の一部について他所と違う事を指摘したところ自分たちのは意訳であると言ってました
意訳は解り易くなる代わりに間違いが起こる恐れがあるのですが

知り合いの小学校女教師から聞いた事です
子供の親は教えに反する?とかで学校のある行事に参加させたくないとか
あれこれ注文付けるのでやり難いとか言ってました でもキリスト教の中では聖書に忠実と感じております 
輸血の話は以前 大きなニュースになりましたのでこの事についてだけ ご存知の方は多いでしょう
でも直接 お話をした事のある方は殆ど居ないでしょう

幸福の科学 
本屋で立ち読みした事があり 我が家にも1度来た時 少しばかり お話した事があります
本で知る限り教祖は霊能者です 霊能者にもピンからキリまでありますが
釈迦の生まれ変りとなっております 本当かどうかは兎も角 霊能で得た情報なのです
何も解らない方には何かの病気に見えるでしょう
この事で以前マスコミを賑わした事がありますが病気ではありません

伝統宗教の開祖 例えば キリスト 釈迦 は霊能者です
現代社会では受け入れがたいのか宗教上は強調してませんが明らかな霊能者です
この お二人に限りません 現代近代の新興宗教でも開祖は大抵霊能者です

宗教は兎角 他所を排斥しがちな部分がありますが指導に何か間違いがあるからと考えます
何事も広く解釈すれば争い事は無くなると思うのです

ある新興宗教の開祖の一人(故人)は言ってます
「宗教やっていて物の見方が狭くなるようでは本物では無い」 

心が広くなって行かなければならないのです 心を狭くしていくような宗教では宗教では無いでしょう
中身(心のあり方)より 形(戒律とか)に囚われる為に 争い事が起こるのだと思います

これら3つは それぞれ目的とする所が違うように思いますので噛み合わないでしょう
言語が違うと言ったら良いでしょうか?

あくまでも私見ですけれど

創価学会  
他教他宗は邪教と見ているようなふしがあります
「他から攻撃されるのは本物だから」 と言ってました 修道者にしては変な言い分です
宗教と言うより政治団体と言った方が相応しいかも知れません
全てでは無いでしょうが「修道」 は無き如くで 「ご利益信仰」 のみ強い気がします
初めの頃は良く解らないでしょうけれど 何時までも「ご利益信仰」ではいけない事に気付けない方が多いのでは無いでしょうか?
一部の方は攻撃的です 日蓮自身がそんな所がありましたから...続きを読む

Q総合格闘技団体みたいな、総合宗教団体を作りたい。

最近、宗教の事を身近に感じます。
少し無理が有るかもしれないですが、すべての宗教をまとめる宗教団体を作りたい。
総合格闘技みたいな。
宗教法人、宗教研究会とか、宗教法人、総合宗教団体オールとか、宗教法人、宗教オリンピックとか、宗教法人、宗教交流会とか、宗教法人、宗教すべてオッケーの輪とか、宗教の宗派や、派閥は、あっても良いけど、宗教は宗教だから、みんな一つの輪だから、思想も色々あるが、とりあえず一つの輪になって、宗教活動したい。
それで、思想の違いから意見の対立があるから、
宗教オリンピックを開いて、宗教論争の戦いをやる。宗教の専門家に審判をお願いする。
もちろん、これが元で宗教戦争になったら困るので、言い争っても、テロとか、やらないように、論者に頼んで、また信者にも頼んで、合法的な活動にする。
それで、相手を批判したり、自分が批判されたりして、自他共に、良い所、悪い所を認めあい、自分の宗派や派閥を、良い物にして行く。

これは、どうでしょうか?面白いんではないでしょうか?

柔道的な発想です。
嘉納治五郎も、その昔、柔術が無くなって行くから、柔術を総合し、人道を加えて、柔道を作りました。

それなら、宗教から、宗道べの時代が、やって来てないですかね?

少々無理があるかもしれないですが、回答を、よろしく、お願いします。

最近、宗教の事を身近に感じます。
少し無理が有るかもしれないですが、すべての宗教をまとめる宗教団体を作りたい。
総合格闘技みたいな。
宗教法人、宗教研究会とか、宗教法人、総合宗教団体オールとか、宗教法人、宗教オリンピックとか、宗教法人、宗教交流会とか、宗教法人、宗教すべてオッケーの輪とか、宗教の宗派や、派閥は、あっても良いけど、宗教は宗教だから、みんな一つの輪だから、思想も色々あるが、とりあえず一つの輪になって、宗教活動したい。
それで、思想の違いから意見の対立があるから...続きを読む

Aベストアンサー

たぶんこんなことを考えられるのは 『あなたが日本人」だからでしょう。
日本の宗教は「神様喧嘩せず」が信念にあるので、どんな宗派だって好きにさせてます。
例え金儲けの宗教でも。 だから宗教衝突も起きませんし 殺し合いもありません。

海の向こうでは「唯一神信仰」だから 俺以外はみんな邪教者なんで
邪教者は殺したっていいんです。徳が積まれますから、喜んで赤ん坊を石で引いたり
女を犯して 生きたまま男の首を切り取り歓喜の声をあげます。 あちらの人にとっては
この行為はすっごい美徳ですから。うらやましいですね。

こんなやつらを相手取るんですから、銃でも大砲でも絶対に敵わない上、眉一つ動かすだけで周りの仲間が苦しんで苦しんで絶命するような力を持った代表者が仲に立って
力でねじ伏せて手を握らせなきゃ無理でしょう。

温厚ってのは「同じ宗派の人間のみ」の付き合いなんで 異教徒に温厚になれるわけはありません
だって自分の宗教以外を認めるのは冒涜なのですから

Q輪廻転生を信じている人に質問させてください

こんにちは。
輪廻転生を信じてる人に質問です。
転生と一口に言っても、内容上、いろいろ違うとは思うのですが、どうしてそういう理解になるのか分からないことがあって、信じている人に聞きたいのです(あくまでも質問であって、批判の意図はありません)。

一つめは、輪廻を霊性の向上や人格の向上のための修行とするという考え方です。よく見ますよね。なるほど、私個人の人生を見て、そう思うこともあるんですが、たとえば例として良くないかもしれないけど、イラクで爆弾に降られて即死したり、食べるものものなく、まともにこの世の空気を吸うこともなく死んでいくのも修行なのでしょうか? 

所詮、人格の向上のためと言っていられるだけの恵まれた境遇にあることが前提になっているように思えて仕方ないのです。輪廻の観点から見て、あれも人格向上になってるのでしょうか? そして、たとえばイラクに爆弾を落としたのがアメリカだとして、アメリカは爆死した人の修行を助けてあげてるのでしょうか? あるいはフセインの独裁は、修行して乗り越えるための舞台作りだったのでしょうか? なお、アメリカやフセインの例は、政治的厳密さは追求していません。

二つめは、一つめと近いのですが、幸福の科学の人がよく言うのですが、「人生は一冊の問題集、解けない問題はない」というのがあるのですが、私にはとてもそんなことを断言する気にはなれなくて・・私個人の感想はさておき、たとえば先の例でいえば、問題を解くということはどういうことでしょうか? 

3つめは、人格が向上すればするほど、新しい課題として難しい問題集を解かなくてはいけない、という話を聞きますが、この理解はいいのでしょうか? もし良いとしたら、修行が進めば進むほど、不幸な人生を歩まなくてはいけないですが、そういうことなのでしょうか?

こんにちは。
輪廻転生を信じてる人に質問です。
転生と一口に言っても、内容上、いろいろ違うとは思うのですが、どうしてそういう理解になるのか分からないことがあって、信じている人に聞きたいのです(あくまでも質問であって、批判の意図はありません)。

一つめは、輪廻を霊性の向上や人格の向上のための修行とするという考え方です。よく見ますよね。なるほど、私個人の人生を見て、そう思うこともあるんですが、たとえば例として良くないかもしれないけど、イラクで爆弾に降られて即死したり、食べる...続きを読む

Aベストアンサー

質問者様の疑問は尤もだと思います。
誰でも同じ疑問を持つのではないでしょうか。

この世の中、不公平、理不尽と感じられることが多すぎます。それでも私は「輪廻転生」を説きたいと思います。
私もまだまだ未熟者で分からないことだらけですが、読んで頂ければ、幸いです。

「輪廻転生」を説明するときに不可欠なのが「因果応報の法則」です。別名、「原因と結果の法則」とも言います。
「この世」も「あの世」も「宇宙すべて」をひっくるめて一分の狂いも無く働いているのが因果応報の法則です。物事には全てに原因があり、潮の干満も、四季も、惑星の回転もすべて起こるべくして起こっているというのです。生物の発生も進化もそれを起こすための力(エネルギー)が存在しており、その意志(エネルギーの方向性)によって進められるというのです。

このエネルギーを昔から人々は「神」と呼んできました。小さい低い神から究極の全てを統べる神まで人は区別が出来ずにみんな「神」と呼んでいたのだと思います。

この神のエネルギーは万物に平等に1秒も休む事無く、取りこぼしも無く、同じ法則を働かせます。
この法則が先に説明した「因果応報の法則」です。
因果応報の法則とは
「自分が他に向けて発したエネルギーがそっくりそのまま自分に返ってくる」というものです。
「エネルギー」とは「動機」です。つまり、他者に向けた「感情」のことです。
表面的には全く同じことをしている様でもネガティブな感情でもってしたことと、ポジティブな感情でもってしたことは天と地ほどの差が出来ます。
相手に与える影響、自分に戻ってくる影響もともに全く変わってきます。

人はこの因果応報の法則のなかで輪廻転生を繰り返しているのです。
蒔いた種は刈り取らなければなりません。
良い種も悪い種もあります。
人生とは良い種まきになるための修行です。
人生の苦しみとは過去に自分が蒔いた悪い種をかりとっていることなのです。
人生の幸福とは過去に自分が心を込めて他者のために蒔いた幸福の種の果実を刈り取っているのです。

この幸、不幸が物質的な富でないことも種まきの中で学んでいかねばなりません。
誰もがうらやむ大金持ちの人生はじつは大変リスクを伴うものです。
大金持ちはとかく高慢で貧者をないがしろにしがちです。その人生でネガティブなエネルギーを撒き散らすとやがてその人生又は後の人生で責任を持って刈り取らねばならなくなります。
ですからお金持ちの人生とは自分の霊性を試す一つの挑戦でもあります。
極貧者も又リスクを伴っています。
彼らは自分の不運を世の中と他者のせいにしがちです。
質問者様のおっしゃるとおり、神を呪い、人生に投げやりになるかもしれません。

一つ目の質問について
法則は厳然と働きます。
でもそれは人を罰するものでも見せしめにするものでもありません。
結果を引き寄せているのは人の方です。
物質的ではない、自然の摂理に沿った生き方をすれば平和は実現されるのに、お互いにネガティブな感情からネガティブな行動を引き起こし、戦争や破壊を作り出したのはすべて人の責任です。法則(神)に責任はありません。
冷たいようですが、蒔いた種は刈り取らねばならないのです。そしてそれを観た人々がしらんぷりして何ら解決に尽力しないならば、その冷酷さによって蒔かれた種からできた苦い果実を刈り取らねばならないでしょう。
爆死した人々も苦しいですが、その中から何かを学び取らねばなりません。
幸い、この世に怨念を残さずなくなった方はたとえどんなに悲惨な死に方でも霊界では安らかに過ごせます。
そして自分の体験した人生について深く考え、次へのステップとすることができます。
それを指導してくれる善霊たちが沢山見守ってくれますから心静かに安心して過ごせます。

アメリカやフセインについては彼らの行いがネガティブな動機から出ているものならば、必ずやネガティブな果実を刈り取らねばなりません。
彼らは舞台を提供しているように見えますが、その舞台に乗るか乗らないかは当人の選択の自由です。
誰でも人の人生を牛耳ることは出来ません。
牛耳っているように見えても、それは本人の自由意志によるものです。そうでなければ人の果実を刈り取ることになってしまいます。

人は蒔いた種を刈り取りながらその経験を次の人生で生かしていっているのだと思います。
直ぐに生かせる人もいれば、なかなか進まず、同じことの繰り返しに人生を費やす人もいます。

大変長くなり申し訳ありません。
残りの二つの質問には後ほど回答させて頂きます。

質問者様の疑問は尤もだと思います。
誰でも同じ疑問を持つのではないでしょうか。

この世の中、不公平、理不尽と感じられることが多すぎます。それでも私は「輪廻転生」を説きたいと思います。
私もまだまだ未熟者で分からないことだらけですが、読んで頂ければ、幸いです。

「輪廻転生」を説明するときに不可欠なのが「因果応報の法則」です。別名、「原因と結果の法則」とも言います。
「この世」も「あの世」も「宇宙すべて」をひっくるめて一分の狂いも無く働いているのが因果応報の法則です。物事...続きを読む

Q伝統宗教と新興宗教と外来宗教

宗教に抵抗のある人でも、除夜の鐘の音を聞くのも不愉快、初詣にもいかん、お盆もやらんという人は少ないと思います。
多くの人にとって伝統宗教は「宗教」のカテゴリに入っていないのではないかと感じられます。
特異な存在である宗教として意識されるのは新興宗教と、外来の宗教であるキリスト教やイスラム教ではないでしょうか?
伝統宗教とそれ以外は意識の上で何が異なるのでしょうか?
またいかなる伝統宗教も開祖の時代は新興宗教であったはずですし、逆にいえば今現在の新興宗教も何百年も先まで残っていれば
伝統宗教として扱われるようになるでしょう。
また今は日本の土着宗教のようになっている仏教も本来は外国の宗教でした。
新興宗教や外来宗教はいつなにをもって伝統宗教に転ずるのでしょうか?

Aベストアンサー

マイナーがメジャーになるきっかけは、やはり支配者の決定じゃないでしょうか。


古来 人間はモノを創造していた。製作していた。


今のように大型量販店で、できあいのモノを買うのではなく、自ら作っていた。


各地で特産ができて、自分たちには無いものを、自分達独特のものと交換していた。
無いなら作ればいい から 作らずに品物を手に入れる方法として物々交換をしていたわけです。


そういうわけで、創造から今では人間の特性は消費に進化したわけです。


従って今では、創造をするモノになるより、創造されたものを大量消費するモノの方が圧倒的多数。
創造する人はマイナー。


キリスト教を例にとると、人々はいい宗教だからと 自らの自己決定で選んだわけではない。


学校には制服があるじゃないですか。
学校に自ら作った服を着ていかず、既製服を着ていきますよね。
それと同じように、時の支配者が創造したというか、ミックスした宗教を、被支配者階級に「これを着なさい これ以外は学校では着てはいけません」というように、「これを信仰しなさい。これ以外の信仰はしてはいけません」となったわけです。


どうして支配者は、キリスト教を選んだのかというと、被支配者の頭を上げさせないため。
押さえつけて支配者に服従させるため。

という側面と、集団を一つの宗教だけ信仰させることで、統一し纏め上げることが容易になるから。
散らばっている羊より、固まっている羊の方が、扱が容易ですよね。


ぜんまい仕掛けのおもちゃみたいなもの。
創造者、支配者、そして設計者でもあるその者の思い通りに、宗教を使えばできてしまう。

それに気づいたローマ皇帝たちは、だからキリスト教を使用して、領土を拡大することに成功したわけです。



従って、どの宗教が集団のメジャーとなるかは、支配者が利用価値があるとして使用するかどうか次第。


考えてみてください。
「あれは敵だ」と戦争を支持する者の息子は、決して戦場にに行くことはありません。
人々は国のため、神の正義のため という言葉によい知れ、奮起させられるが、決して支配者の息子が戦場の前線で国のため、神のためと戦うことはありません。
つまりその宗教の価値があるとしているのは、それがすごい物だから信仰すべきだとしているのではなく、自分の世界を拡大するために利用価値が大いにあるとしたから。
だから利用価値があるから支配者は利用することとなった。
利用しても成功しなければ、利用しないまでです。



神の正体とは、人間であり民を支配している者。
その者が利用価値があると選択した宗教が、メジャーになるわけです。


人々はその者が創造した商品を大量消費することに楽しみを感じる。
大量消費からブランドとして、価値を付加するわけです。

ブランドの誕生は、支配者が使用するようになってから、ブランドとして名が通り、高い値で取引される。

手作りで、職人が作るわけだが、人々の関心は、それを消費することであって、メーカーのように創造・製作することを楽しみたいからではない。
信仰とは消費と同義語。



仏教だって支配者が選択したからだし、神道だって支配者の都合で各地に伝わっていったわけですし。

人々は被支配者が決めた服を着て(消費して)喜んでいるだけ。



物を作っていた時代から、交換になり、消費がはじまり、大量消費になり、創造に興味はもたず、今はブランドに興味を持つようになったという人間の進化の過程を、宗教に置き換えて考えてみました。

人間の特性を知れば、解ける問題ですね。
そして人間の特性を知った人は、利用し勢力を拡大していった。
気づき利用したことで、自分が中心となる王国を築けた。

マイナーがメジャーになるきっかけは、やはり支配者の決定じゃないでしょうか。


古来 人間はモノを創造していた。製作していた。


今のように大型量販店で、できあいのモノを買うのではなく、自ら作っていた。


各地で特産ができて、自分たちには無いものを、自分達独特のものと交換していた。
無いなら作ればいい から 作らずに品物を手に入れる方法として物々交換をしていたわけです。


そういうわけで、創造から今では人間の特性は消費に進化したわけです。


従って今では、創造を...続きを読む

Q科学と真理について

人が、もし科学によって真理を見つけ出すことが出来るのだとしたら、現代科学において採られている科学的手法(帰納、演繹による観察と、統計学的手法に基づく結果、考察による理論構築)は、本当に真理を求めるに足るものなのでしょうか。

なお、既にプラトン、アリストテレス、ベーコン、デカルト、マキアヴェッリ、カント、クーン、クワイン、ポパー、カルナップ、ファイヤアーベント、ウィトゲンシュタイン、エイヤー、シュリック、ヘンペル、ハンソン、ラカトシュの哲学書籍については、既に読んでありますので、これら著作を読んだことを前提にご回答戴いても差し支えありません。

恐縮ながら、ご回答お願いいたします。

Aベストアンサー

証明できる問題は数多くあるのですが、全てを証明しうる『真理』は
科学手法においては"存在しない"ことになっています。その真理が
自分自身に言及した時点で、矛盾を引き起こす為です。

・・・・と、これじゃあ何を言っているのかわけ解らんですよね。
実は証明できない問題があるということは数学的に証明されています。
数学的証明、というのは一切の矛盾や言い換えを認めないので、
これが覆ることは少なくとも現代において科学とされるものの
中では考えにくいです。




20世紀初頭、今まで"自明"や"前提"としていた多くのことを証明する
計画である『ヒルベルトプログラム』が始まったのですが、
クルト・ゲーデルによる『不完全性定理』の登場によって完全に
頓挫しました。内容は・・・

第一定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、
ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。

第二定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、
無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

この証明については現代数学か、簡単な論理学の教科書にもほぼ
間違いなく書いてあると思いますので、そちらを参照したほうがいいです。
あるいは質問者さんの読まれているヘンペルの本にも書いてあるかも。





証明できない問題がある、というのは非常にショッキングな事実です。
単一の論理では語れないことから、数理学や論理学は"メタ"(より高次から)
の視点を持つようになりましたし、実証に因っていたはずの物理学ですら
いわゆるEPRパラドクス(相対論と量子論の矛盾の論争。アインシュタインが
出した問いに対してボーアの回答は観念的なものとなった)以後、
"形而上学的"と揶揄されるほど、観念的な世界の根本を描き出す哲学思考へと
変わっています。これは長い間"実証"を伴わない論争でもありました。




一方で、こういった中から一応の定式化を行い、一部を証明してをして
量子テレポーテーションや量子暗号などの新しい技術が産業的には生み出され
ているわけです。証明できないものがあったとしても、完全に証明できている
ものが覆るわけではありません。


紙に火をつければ燃えますし、水をかければ消えます。
雲の上にヒゲの神様はいないので、飛行機で雲を突き抜けても大丈夫です。
太陽の活動が活発になれば気度は上がりますし、静まれば下がります。

少なくともこういった事実の積み上げが、生活を便利にしていることは
間違いないのではないでしょうか。科学はこういった方向へ特化している
ように思えます。(研究費的な意味で!・・・余談でした)



一方で、科学者が"清教徒的な"真摯さを持って真理を探究できる時代は
70年前に終わったのかもしれません。できたとしても、それは"形而上学的"
にならざるをえないと思います。

証明できる問題は数多くあるのですが、全てを証明しうる『真理』は
科学手法においては"存在しない"ことになっています。その真理が
自分自身に言及した時点で、矛盾を引き起こす為です。

・・・・と、これじゃあ何を言っているのかわけ解らんですよね。
実は証明できない問題があるということは数学的に証明されています。
数学的証明、というのは一切の矛盾や言い換えを認めないので、
これが覆ることは少なくとも現代において科学とされるものの
中では考えにくいです。




20世紀初頭、今まで"...続きを読む


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