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本当の宗教ってありますか?

昨今ではさまざまな宗教が「自分の宗教こそが真理を語っている。」
「私たちの宗教だけが幸せになる道を知っている。」
などと言っていますね。

でも、真理を扱っている宗教ってありますかね?僕は宗教は多かれ少なかれ、証明不可能な、こう言っては大げさかもしれませんが荒唐無稽な事を言っているように思います。例えば霊の存在、地獄の責め苦、輪廻転生などです。これらは科学的には立証されていませんが、宗教は公然と教理として教えています。

到底信じ得ないことも、その宗教に入るなら信じなくてはいけない。だから信仰なんでしょうか?僕はサイエントロジストですから科学を信じています。しかし科学では心の平安は得られませんでした。そこで宗教に希望があるのではと思い調べましたが、どの宗教も不確かな事を信じることを要求してきます。

みなさんは、なんらかの宗教に入っていて幸せだと感じていますか?その宗教は荒唐無稽な事は教えていませんか?そもそも完全な宗教を求めようとすること自体が間違いなのでしょうか?

散文的になってしまいましたが、回答いただけるとありがたいです。

A 回答 (52件中1~10件)

自分の信じてるのは原始宗教なので真理などと言う言葉はありません


あるのは混沌ですね、「あるがままに」が真髄のようです
そもそも、24日にクリスマスイブを祝って31日に108つの鐘を寺院で聞いて、1月1日に神宮でおみくじを引く習慣のある人に宗教観を聞くのには無理があると思いますが、質問者様は24日からどのように過ごしてますか?

この回答への補足

あるがままというのは、ある意味理想状態だと思います。
何事にも捕らわれることなく、自由闊達に思い考え、行動する。
素晴らしい事だと思います。

24日は人並みにケーキを食べたりイベントを楽しんだりしています。
しかしキリストの生誕を祝うという厳かな心積もりはなく、1年に一度の年中行事と捉えている向きが強いです。

補足日時:2009/05/13 20:15
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科学を信じていけば良いんじゃないでしょうか。



宗教も科学も人が作った、世界を理解するための秩序です。
宗教が経験則や神格化などで世界を理解しようとするのと同様に、科学は理論や観測、(理系学問ならば)数式などで世界を理解しようとします。
科学が世界を理解して心の平安を得るに足りないというのであればそれは人間の手による現代の科学が世界を説明するに未だ足りないということでしょうし、
もしかしたら「人間が世界を説明しきることは不可能」という「創造主による人間の設計理念」「神の意志」なのかも知れません。

詐欺のような宗教にひっかかるくらいなら、後の世代のために心の平安に足りない科学を完全なものにすべく科学を研究されては如何でしょうか。

ちなみに仏教では弥勒菩薩が存在します。
これは56億7千万年後に現れ、悟りを開いて世界を救うとされる仏です。
逆説的に考えると、仏教でも「現代において世界の全ては救えない」と考えているんでしょうかねえ。

この回答への補足

科学は確かに個別の対象を研究するにはもってこいの学問です。
しかし、私は科学では心の平安は得られなかったのです。
人間がいかに生きるべきか、幸せになるには、といった事に科学は答えてくれません。

やはり私も心のよりどころが欲しいのです。

補足日時:2009/05/13 20:48
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>これらは科学的には立証されていませんが、宗教は公然と教理として教えています。



科学も宗教です。
あなたは何をもって「科学を信じている」んですか?そこに不確かさはないのですか?

この回答への補足

私は科学は宗教だとは思っておりません。

確かに現実世界には科学で説明できない事もあるでしょう。
未だ、研究課題の多い未知の分野もあるでしょう。

しかし科学は実験や観測で自分たちの作った説が正しいことを確認できます。
実験や観測が困難な哲学などの分野もその内容は帰納と演繹によって形作られています。その内容は宗教に比べて極めてクリアです。

なので私は科学を信じるに足りるものだと思っているのです。

補足日時:2009/05/13 20:53
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証明できないということは、真実ではないことの証明にはならないので、仕方無いのではないでしょうか。

冤罪で死刑になる人だっているんだし。

そもそも科学なんて人の根源的な不安の大きなひとつである死後の問題について何一つ解を示せていないんだから、宗教の果たしてきた役割に取って代わることなんかできないのです。その可能性にすらたどり着けてません。
なのに、わからないことがいろいろわかっちゃったもんだから、宗教の代わりになれるんじゃないか、あるいは代わりになっちゃってるんじゃないか、つまり科学によって世界の物語を何から何まで語りつくすことができるのではないかと錯覚しちゃったことが問題なのだと思います。

私はどの宗教にも属していませんが(家の葬式は神式ですが)、宗教には関心がありますし、神様仏様と称すべき何らかの意思を持った大きな存在はいると思います。それがキリストかマホメットか天照か仏陀かシヴァかといったことにはあんまり関心がありません。神仏に関する物語は聖書も仏典も古事記も、人が作り出したものじゃないかと思います。神仏が書かせたものだとしても、人に理解できるように書かせているはずです。

あまり絶対的なものを突き詰めようとしすぎると過激な盲信に走ることになるかもしれないので、わからないことはあるもんだと思っとくぐらいが良いのだと思います。
絶対性、真実、といったものは、私自身の考えでは個とその目的(意思)が定位したある瞬間の中にだけ存在し得るのだと考えています。個々の人によって違うし、一個の人間にとっても、目的が変われば真実も変わります。

個人的には、お正月におみくじを引くのが楽しみなので神道が好きです。
古事記とか日本書紀とか、読んでたらデタラメじゃんて思いますけど(笑)、いいんですよ昔の話に恐竜が出てこなくても(笑)

この回答への補足

私も科学万能論者ではありませんが、科学は正直なので信用できると思うのです。もし仮説などに誤りがあれば素直に認め訂正しますし(どっかの宗教のように嘘の上塗りをせずに)また先ほども書いたように言っていることも論理的で理路整然としています。なので受け入れやすいのです。
一つ気になったのは、あなたはどうして人間以外の崇高な存在がいるのではないかと思われたのですか?
また絶対的なものを求めすぎないほうがいいというのは私もまったく同感です。私は最近、この世にはすべてを説明できる統一原理などは存在せづ、科学や宗教、その他もろもろのものが補完的にこの世界を説明しているのではないかと思うようになりました。

補足日時:2009/05/13 21:02
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物事を科学的に考えましょう。

決して大げさに考える必要はありません。

・文書として残っているかどうか。
これは意外と重要です。恣意的に教義が変更されるような事があっては
たまったものではありません。

・変化があったかどうか?
教義のとおりに徹底的にやってみて、実際変化があったかどうか?
薬品でも臨床試験とかありますよね。そんな感じです。

結局は、自らが証明しなくては分からないのではないかと思います。
科学的に立証されていない不確かな事だから、臨床試験が必要です。
だからこそ、信じてみるというよりやってみる事が必要なのでしょう。
ある種、ダイエット方法を選択する時に似ているかもしれません。

詭弁かもしれませんが、全てを知る必要はありません。自動車を運転
するのに、それに関わるあらゆる技術を全て把握する必要はないのです。
運転するだけで整備士免許までは必要ありません。

何も考えないようにするよりはずっといいです。また、信頼できる人間
に尋ねてみるのも一つです。理屈倒れにならない事を祈ります。

この回答への補足

あなた言うことはまったくそのとうりだと思います。
外からうだうだ言ってないでとりあえずやってみたらいいのではないか。
でも宗教って入ってからでは公平な見方が出来なくなるような気がするのです。そこにいる信者もある意味洗脳されていますから、自分も朱と交われば赤くなる気がするんです。

信頼できる人に聞くというのも誰に聞くかという問題がのこります。なんらかの宗教をやっている人だとその宗教に毒されている気がするし、比較宗教学科の教授にでも聞けばいいのかな?

補足日時:2009/05/13 21:13
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荒唐無稽というのがどの時点かも問題ですね。



浄土真宗の開祖の親鸞は「私が死んだら遺体は加茂川に捨てて魚に食わせてくれ」と言ったそうです。
もちろん比喩であり、真意は「人間の体など死んだら抜け殻に過ぎない。それより大切にすべきは心である。抜け殻の肉体の葬式をして立派な墓を作ることには意味がない。」ということです。

「千の風になって」ではありませんが、死んでしまったら、わしゃ墓の中になどおらんぞ」と言っているわけです。

ところが後の人は親鸞の意図を理解できていないため、ほとんどの人が遺体を大切に火葬し、骨を拾い、墓地に埋葬し、手を合わせます。
つまり意味のない風習に縛られて、親鸞のように「死んで抜け殻の遺体には何の意味もない。適当に捨ててくれ。」と言えない現代の科学者は、親鸞よりはるかに非科学的とも言えます。

サイエントロジストのhikaru0705さんには是非広言してもらいたいと思います。

親鸞没後七百年以上、釈迦没後は二千五百年経っており、最初の教えが大きくゆがめられ創作が加わったり都合よく解釈されていることを理解せずに、「宗教は」と批判しても意味の無いことと思います。

この回答への補足

現代の宗教の多くが創始者の意志とは別に自分勝手に盲進しているというのはそのとうりだと思います。宗教が金儲けのご利益主義に走ったりするのは嘆かわしいことです。もっと人間の本質に迫ったことをやってもらいたいものです。

補足日時:2009/05/13 21:20
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>しかし科学は実験や観測で自分たちの作った説が正しいことを確認できます。


>実験や観測が困難な哲学などの分野もその内容は帰納と演繹によって形作られています。
>その内容は宗教に比べて極めてクリアです。

程度の差です。

実験や観測が絶対なんですか?ホントウに帰納と演繹がクリアな方法論なのですか?
もっと相対的に考える習慣をつけましょう。

この回答への補足

実験や観測が常に絶対などと言ったつもりはありません。しかし、自分の仮説が自分の目で耳で触って確かめられれば信じやすいのではないでしょうか?霊の存在は確かめられますか?地獄について死者から論証を得ることはできますか?それらのことより地球は丸いという科学的事実の方がよっぽど信じやすいのではないでしょうか。

帰納と演繹はクリアな方法論です。筋道のたった話は聞くものによき理解をあたえます。

これをその程度の差と言う様では、あなたの感覚を疑います。

あなたこそ、もっと論理的に考える習慣をつけましょう。

補足日時:2009/05/13 21:24
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>帰納と演繹はクリアな方法論です。

筋道のたった話は聞くものによき理解をあたえます。

それは「あなたの主観で納得しやすい」と言うことを述べているだけで、
宗教家が「神からの啓示を受けました」と言うのと、現象面では変わりありません。

>これをその程度の差と言う様では、あなたの感覚を疑います。
>あなたこそ、もっと論理的に考える習慣をつけましょう。

いちど、数理論理学の入門書など読まれるとよいでしょう。
科学の特徴はその相対性にこそあるのです。

この回答への補足

>それは「あなたの主観で納得しやすい」と言うことを述べているだけで、
>宗教家が「神からの啓示を受けました」と言うのと、現象面では変わりありません。

私の主観で言っているだけであったら、哲学は学問として成立してないでしょう。あなたはともかくとして、多くの人が納得できる論証だと認識しているはずです。エセ宗教家の信者獲得のための能書きと一緒にされては困る。


>いちど、数理論理学の入門書など読まれるとよいでしょう。

私は理系の大学出身者でその手の本は、掃いて捨てるほど読みました。
あなたは読んだのですか?

補足日時:2009/05/13 22:17
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> あなたはどうして人間以外の崇高な存在がいるのではないかと思われたのですか?



好き嫌いです。

正月の三箇日に大混雑の有名な神社に参詣してて、この大量の人々の群れが、わざわざ何十分も並んで握り締めた小銭を賽銭箱に投げ捨てたあげく、手を合わせて有難がってくれる!しかも無税!夢が叶わなくてもお御籤が当たらなくても訴えられない!なんと素晴らしい商売だ!私も有名な神社をやれないものかしら。
などと不埒なことを考えつつも、何十分も並んで、拝殿についたら小銭を投げ捨てて、お祈りして神様にお願いするのです。それを適えてくれる神様がいると信じたいのです。お御籤を引いて、大吉が出れば、幸福な未来を見通す神様がいるのだと信じて無邪気に喜びたいのです。

あなたも好きなだけ(或いは納得するまで、または根負けするまで、ないし飽きるまで)ご自分なりに探求して、あなたなりの好ましい結論を選択なさってください。
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 このような質問、或いは疑問に関心がある者です。


 hikaru0705さんは、既成の宗教に疑問を持っているのですね。
 私も既成の宗教に対しては、似たような感想を持っています。
 悪魔の宗教なんていいたくなるような、教団もあるようですし。
 でもおおむね宗教が受け持つ世界は、‘好ましい世界’のように思います。
 宗教の見るところの‘好ましい世界’を私は人の好ましい心‘良心’(他者を思いやる心とか向上心とか)のことであると受け止めています。
 と、言うことは自分の好ましいほうの心‘良心’を見つめる事は、宗教的行為と言ってもよいのではないでしょうか。

 釈尊の残された言葉を集めたもので、法句経(ほっくきょう)と言うのがあります。
 私の持っている本には、著者の訳で五十句ほどが取り上げられていますが、その中から2句を紹介してみます。

 ☆もろもろの悪(あしき)をなさず もろもろの善(よき)を行なう  おのれのこころを清くす これ 諸仏の教えなり

 ☆他(ひと)の過(あやま)ちを見るなかれ 他(ひと)の作(な)さざるを責(せ)むるなかれ おのが 何を いかになせしかを 自らに問うべし

 というものです。
 御利益信仰的なものは、人を導くための‘方便’であると認識すべきではないでしょうか。
 
 
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