これ何て呼びますか

本当の宗教ってありますか?

昨今ではさまざまな宗教が「自分の宗教こそが真理を語っている。」
「私たちの宗教だけが幸せになる道を知っている。」
などと言っていますね。

でも、真理を扱っている宗教ってありますかね?僕は宗教は多かれ少なかれ、証明不可能な、こう言っては大げさかもしれませんが荒唐無稽な事を言っているように思います。例えば霊の存在、地獄の責め苦、輪廻転生などです。これらは科学的には立証されていませんが、宗教は公然と教理として教えています。

到底信じ得ないことも、その宗教に入るなら信じなくてはいけない。だから信仰なんでしょうか?僕はサイエントロジストですから科学を信じています。しかし科学では心の平安は得られませんでした。そこで宗教に希望があるのではと思い調べましたが、どの宗教も不確かな事を信じることを要求してきます。

みなさんは、なんらかの宗教に入っていて幸せだと感じていますか?その宗教は荒唐無稽な事は教えていませんか?そもそも完全な宗教を求めようとすること自体が間違いなのでしょうか?

散文的になってしまいましたが、回答いただけるとありがたいです。

A 回答 (52件中41~50件)

宗教と科学の違いは、「目」にあるでしょう。



私の知っている範囲なので、間違った部分もあるかもしれませんが、

電気を発見したのはエジソンだったと思います。
電気は+からーに流れるとエジソンは言った。

その後、電気は、電子の移動であり、電子の移動は-から+になるとした。

森鴎外は、ビタミンの存在を認めなかった。
脚気の原因がビタミン不足であると認めなかった。

何を言いたいかと言えば、目、つまり、「認識」にあります。

物事は、
条件と法則で結果が生じます。

理想の結果にするためには、条件(状況)を把握し、理想の結果にするための決断・行動をする必要があります。

私は、センス、運と言っているのですが、どんなに条件、状況を把握しようにも、すべてを把握しきれません。
1つの誤算が失敗になるし、
信じて運に身を任せる時しかない時もあります。

認識の限界、人間の限界。

人間は、その限界をなんとか乗り越えようとしてきました。なんて、カッコイイことを書いているが、
特定の人が、物事の真理や深く細かい認識を求めため、
電気の流れが電子の移動であり、
脚気の原因が、ビタミン不足と解った。

宗教が不確かなのは、その法則や道理、あるいは信じなければならないことの条件の要素があいまい過ぎるという点でしょう。

目に見れる物質は、基本的に、細かい物が集まった出来たものです。
しかし、宗教の人間性や運気、健康気などは、目に見えるものでないです。ですので、条件と道理によって結果がなると捉えにくい。


宗教を信じる価値がない。それは上記のこともありますが、それ以上に理由があります。

人間は、悪魔、鬼、下衆な笑いのもとの人食う者です。

それを我慢し、しない者
それを愚かと思い、しない者
それを当然と思いする者
それ直接的にはしないが、そうする者
意識しなくてもしてしまっている者などなどがいると思いますが、人喰う悪魔な人間もこの世には存在します。

そういった人間にとって、宗祖や宗教による得る権力も、自分の欲望を満たすための有効な選択肢の1つです。
つまり、そういった人の元で行う宗教は不幸な事が多いでしょう。小さな幸せを得ると共にいつのまにか背負いきれない不幸に押しつぶされるでしょう。


それとは別に、世の中には、愚か者がいます。私もその一人です。
ある次元の人間は自分が愚か者だと認めたくない。
苦とはなにか、宗教とは何か、宗教の価値はなにか、自分がしていることの価値はなにか、

そして、自分が幸せ、良いと思っていることは、長い未来において本当に幸せ、良いことに続いているのか、

を考えない人もいます。

正しいことは正しいと思い、信じきる。信じきった瞬間、その人にとって、それは信じている事ではなく事実になる。

小学校の理科の教科書、それに書かれているか、自分で確認したことではない。実験もしてない。しかし、それが正しいことだと思い、事実だと思い、知識とする。
まあ、それは、その内容の信憑性が高いから。というのは大人の意見で、子供は疑わない傾向になり、覚えたものが良い子であるとされているから。

分数の割り算は逆数にして計算する。これを問う必要は無い。その説明を知る必要も無い。計算方法さえ知れば、テストでは100点は取れないかもしれないが、良い点は取れるようになる。


条件があり、法則があり、結果がなる。
そして、それを適切に使いこなし、人に対し施せる人は、その人を幸せにする力を持っている。
しかし、これだけは、足りない。
何が幸せかを知り、何が大事か、大切かをきちんと捉えている必要がある。

この2つが備わるなら、宗教は、科学であり、その科学を手にするなら、幸福になる。
故に、信じることにあらず、修得することにある。

しかし、今の科学の世界と同様、1から実験し、覚えていたのでは寿命が先にきてしまう。だから、ある程度は信じる必要がある。(事実と思い込まない程度に)

と書けば、宗教を信じることもまんざら悪いことのないように思える。


しかし、人間は愚かである。たくさんあるから書ききれないし、自分ですべて把握はしていない。

その1つに麻薬的快楽執着がある。
麻薬のように、
禁断症状から脱するように
麻薬を求め
快楽を得て
自己破滅する。
私は、それを麻薬的快楽執着と名付けました。

人は、生きていれば、恐怖、恥、苦痛、不安などの拒否したいものが生じる。その拒否したいが故に自分の身にならないことを求めてしてしまう。

幸せになるということは決して、
恐怖、恥、苦痛、不安などから逃げるようにして満たすことではない。

恐怖、恥、苦痛、不安を克服し、
良質に生きようとすることだと自分は思っています。

人の多くはこれに弱い。弱いからこそ、組織の中に入ると、信じずにはいられなくなる。いや、それを正しいと思い込む、思い込みたい、または、違うと思いたくない。そうしないと人から認められないから、そうすることで自分は良い子だと思えるから。

そして、上に立つ人も同じである。自分はこの立場であるからこうしなければいけない、以下略として、結局、自分は良い子でありたいとする。

以上の事を踏まえれば、宗教に入ることは、荒唐無稽な事を教え、あるいは行動し、自分のためにはならない。だから、宗教はするべきはないと思う。

しかし、人生の価値や大事な事、大切な事、救われることを求めるのが人間である。
人生の価値を求める人は、虚しさの苦痛に悩まされ
大事な事や大切な事を求める人は、物事の深さに悩み、あるいは、楽しければ良い第一主義に馴染めず、
救われることも求める人は、幸福になる運命や因縁の壁を乗り越えられない人

つまり、言い換えれば、その人にとってこの世は地獄である。言葉の印象の強い、弱いがあれど、幸せに満ち足りぬもの、あるいは、苦しみから抜け出せないということ。

そこに、現在の解っている科学では役に立たず、その範囲から外れる、宗教や霊的なもの、超常現象に目を向ける。

しかし、上記に書いたように人の中には悪魔なような人、愚か者がいて、その人方に騙されるかもしれない。しかし、中には違うかもしれない。

それでも信じるなら、それは「ギャンブル」。

ちょっと違った視点で現実を見るなら、現実は不透明である。
進路、就職、結婚、夢、さらには日常の小さな選択、決断、それが、自分にとって幸せになる道なのかと問えば誰しも絶対的な答えを出すことはできない。それでなんとかなるかもしれないという点でするギャンブル。
宗教を信じるということは、
人生において救われるかもしれないというギャンブルに賭けること。
まあ、それで救われるかどうかは、その人の運命や運性が必要不可欠ですが。

と前を置き、質問の回答

>本当の宗教はありますか?
私には解りません

>真理を扱っている宗教ってありますかね?
私には解りません。

>僕は宗教は多かれ少なかれ、証明不可能な(以下略)
宗教を信じる人は学ぶ立場と修得する立場であり、
教える側は、法則を教える立場にあります。
教える側は、研究しようと体制ではありません。
まし、そんな体制なら、教えはブレます。
そして、それは、開祖からの教えが曲がっていく事です。

>宗教に入るなら信じなくてはいけない。だから信仰なんでしょうか?
そうです。ですが、信じきる必要はないです。
信じきらなければならないと思うのは、信じる人の弱さであり、
信じきらさせ なければならないというのは信じさせようとする人の愚かな行為だと私は思っています

>なんらかの宗教に入っていて幸せだと感じていますか?
私はある仏教の宗教に入っています。以上に書いたことは宗教に入ってから身に染みて感じたことです。

>その宗教は荒唐無稽な事は教えていませんか?
そう思えることもあります。しかし、そう思えないこともあります。だから、それが解ろうと時間を費やしています。しかし、それが報われるかどうかは私には解りません。報われることを「願う」だけです。まあ、けっこう報われています。

>完全な宗教を求めようとすること自体が間違いなのでしょうか?
間違いというより不可能に近いと思われます。

質問者さんが、完全な宗教が解ることができるのか?
または、完全な宗教を提示されたとしても、信じる域が出ない範囲が出てくるのではないでしょうか?

完全な宗教というより、質問者さんによって実際にやってみるだけの納得のいく説明ができる宗教、宗教をする人に巡りあえるかどうかの問題だと思いますが、これは運としか良いようがありません。

長文、散文ですが、質問者さんの人生の何かになれば幸いです。
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>私は理系の大学出身者でその手の本は、掃いて捨てるほど読みました。


>あなたは読んだのですか?

読みましたね。

その結果、「本当のトコロ」「真理の追求」という意味で、
科学と宗教どちらに分があるというわけでもないという結論を得ました。

きっとね、単純に多数決だけ取れば、キリスト教の方が「多くの人が納得」しているはずですよ。
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 このような質問、或いは疑問に関心がある者です。


 hikaru0705さんは、既成の宗教に疑問を持っているのですね。
 私も既成の宗教に対しては、似たような感想を持っています。
 悪魔の宗教なんていいたくなるような、教団もあるようですし。
 でもおおむね宗教が受け持つ世界は、‘好ましい世界’のように思います。
 宗教の見るところの‘好ましい世界’を私は人の好ましい心‘良心’(他者を思いやる心とか向上心とか)のことであると受け止めています。
 と、言うことは自分の好ましいほうの心‘良心’を見つめる事は、宗教的行為と言ってもよいのではないでしょうか。

 釈尊の残された言葉を集めたもので、法句経(ほっくきょう)と言うのがあります。
 私の持っている本には、著者の訳で五十句ほどが取り上げられていますが、その中から2句を紹介してみます。

 ☆もろもろの悪(あしき)をなさず もろもろの善(よき)を行なう  おのれのこころを清くす これ 諸仏の教えなり

 ☆他(ひと)の過(あやま)ちを見るなかれ 他(ひと)の作(な)さざるを責(せ)むるなかれ おのが 何を いかになせしかを 自らに問うべし

 というものです。
 御利益信仰的なものは、人を導くための‘方便’であると認識すべきではないでしょうか。
 
 
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> あなたはどうして人間以外の崇高な存在がいるのではないかと思われたのですか?



好き嫌いです。

正月の三箇日に大混雑の有名な神社に参詣してて、この大量の人々の群れが、わざわざ何十分も並んで握り締めた小銭を賽銭箱に投げ捨てたあげく、手を合わせて有難がってくれる!しかも無税!夢が叶わなくてもお御籤が当たらなくても訴えられない!なんと素晴らしい商売だ!私も有名な神社をやれないものかしら。
などと不埒なことを考えつつも、何十分も並んで、拝殿についたら小銭を投げ捨てて、お祈りして神様にお願いするのです。それを適えてくれる神様がいると信じたいのです。お御籤を引いて、大吉が出れば、幸福な未来を見通す神様がいるのだと信じて無邪気に喜びたいのです。

あなたも好きなだけ(或いは納得するまで、または根負けするまで、ないし飽きるまで)ご自分なりに探求して、あなたなりの好ましい結論を選択なさってください。
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>帰納と演繹はクリアな方法論です。

筋道のたった話は聞くものによき理解をあたえます。

それは「あなたの主観で納得しやすい」と言うことを述べているだけで、
宗教家が「神からの啓示を受けました」と言うのと、現象面では変わりありません。

>これをその程度の差と言う様では、あなたの感覚を疑います。
>あなたこそ、もっと論理的に考える習慣をつけましょう。

いちど、数理論理学の入門書など読まれるとよいでしょう。
科学の特徴はその相対性にこそあるのです。

この回答への補足

>それは「あなたの主観で納得しやすい」と言うことを述べているだけで、
>宗教家が「神からの啓示を受けました」と言うのと、現象面では変わりありません。

私の主観で言っているだけであったら、哲学は学問として成立してないでしょう。あなたはともかくとして、多くの人が納得できる論証だと認識しているはずです。エセ宗教家の信者獲得のための能書きと一緒にされては困る。


>いちど、数理論理学の入門書など読まれるとよいでしょう。

私は理系の大学出身者でその手の本は、掃いて捨てるほど読みました。
あなたは読んだのですか?

補足日時:2009/05/13 22:17
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>しかし科学は実験や観測で自分たちの作った説が正しいことを確認できます。


>実験や観測が困難な哲学などの分野もその内容は帰納と演繹によって形作られています。
>その内容は宗教に比べて極めてクリアです。

程度の差です。

実験や観測が絶対なんですか?ホントウに帰納と演繹がクリアな方法論なのですか?
もっと相対的に考える習慣をつけましょう。

この回答への補足

実験や観測が常に絶対などと言ったつもりはありません。しかし、自分の仮説が自分の目で耳で触って確かめられれば信じやすいのではないでしょうか?霊の存在は確かめられますか?地獄について死者から論証を得ることはできますか?それらのことより地球は丸いという科学的事実の方がよっぽど信じやすいのではないでしょうか。

帰納と演繹はクリアな方法論です。筋道のたった話は聞くものによき理解をあたえます。

これをその程度の差と言う様では、あなたの感覚を疑います。

あなたこそ、もっと論理的に考える習慣をつけましょう。

補足日時:2009/05/13 21:24
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荒唐無稽というのがどの時点かも問題ですね。



浄土真宗の開祖の親鸞は「私が死んだら遺体は加茂川に捨てて魚に食わせてくれ」と言ったそうです。
もちろん比喩であり、真意は「人間の体など死んだら抜け殻に過ぎない。それより大切にすべきは心である。抜け殻の肉体の葬式をして立派な墓を作ることには意味がない。」ということです。

「千の風になって」ではありませんが、死んでしまったら、わしゃ墓の中になどおらんぞ」と言っているわけです。

ところが後の人は親鸞の意図を理解できていないため、ほとんどの人が遺体を大切に火葬し、骨を拾い、墓地に埋葬し、手を合わせます。
つまり意味のない風習に縛られて、親鸞のように「死んで抜け殻の遺体には何の意味もない。適当に捨ててくれ。」と言えない現代の科学者は、親鸞よりはるかに非科学的とも言えます。

サイエントロジストのhikaru0705さんには是非広言してもらいたいと思います。

親鸞没後七百年以上、釈迦没後は二千五百年経っており、最初の教えが大きくゆがめられ創作が加わったり都合よく解釈されていることを理解せずに、「宗教は」と批判しても意味の無いことと思います。

この回答への補足

現代の宗教の多くが創始者の意志とは別に自分勝手に盲進しているというのはそのとうりだと思います。宗教が金儲けのご利益主義に走ったりするのは嘆かわしいことです。もっと人間の本質に迫ったことをやってもらいたいものです。

補足日時:2009/05/13 21:20
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物事を科学的に考えましょう。

決して大げさに考える必要はありません。

・文書として残っているかどうか。
これは意外と重要です。恣意的に教義が変更されるような事があっては
たまったものではありません。

・変化があったかどうか?
教義のとおりに徹底的にやってみて、実際変化があったかどうか?
薬品でも臨床試験とかありますよね。そんな感じです。

結局は、自らが証明しなくては分からないのではないかと思います。
科学的に立証されていない不確かな事だから、臨床試験が必要です。
だからこそ、信じてみるというよりやってみる事が必要なのでしょう。
ある種、ダイエット方法を選択する時に似ているかもしれません。

詭弁かもしれませんが、全てを知る必要はありません。自動車を運転
するのに、それに関わるあらゆる技術を全て把握する必要はないのです。
運転するだけで整備士免許までは必要ありません。

何も考えないようにするよりはずっといいです。また、信頼できる人間
に尋ねてみるのも一つです。理屈倒れにならない事を祈ります。

この回答への補足

あなた言うことはまったくそのとうりだと思います。
外からうだうだ言ってないでとりあえずやってみたらいいのではないか。
でも宗教って入ってからでは公平な見方が出来なくなるような気がするのです。そこにいる信者もある意味洗脳されていますから、自分も朱と交われば赤くなる気がするんです。

信頼できる人に聞くというのも誰に聞くかという問題がのこります。なんらかの宗教をやっている人だとその宗教に毒されている気がするし、比較宗教学科の教授にでも聞けばいいのかな?

補足日時:2009/05/13 21:13
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証明できないということは、真実ではないことの証明にはならないので、仕方無いのではないでしょうか。

冤罪で死刑になる人だっているんだし。

そもそも科学なんて人の根源的な不安の大きなひとつである死後の問題について何一つ解を示せていないんだから、宗教の果たしてきた役割に取って代わることなんかできないのです。その可能性にすらたどり着けてません。
なのに、わからないことがいろいろわかっちゃったもんだから、宗教の代わりになれるんじゃないか、あるいは代わりになっちゃってるんじゃないか、つまり科学によって世界の物語を何から何まで語りつくすことができるのではないかと錯覚しちゃったことが問題なのだと思います。

私はどの宗教にも属していませんが(家の葬式は神式ですが)、宗教には関心がありますし、神様仏様と称すべき何らかの意思を持った大きな存在はいると思います。それがキリストかマホメットか天照か仏陀かシヴァかといったことにはあんまり関心がありません。神仏に関する物語は聖書も仏典も古事記も、人が作り出したものじゃないかと思います。神仏が書かせたものだとしても、人に理解できるように書かせているはずです。

あまり絶対的なものを突き詰めようとしすぎると過激な盲信に走ることになるかもしれないので、わからないことはあるもんだと思っとくぐらいが良いのだと思います。
絶対性、真実、といったものは、私自身の考えでは個とその目的(意思)が定位したある瞬間の中にだけ存在し得るのだと考えています。個々の人によって違うし、一個の人間にとっても、目的が変われば真実も変わります。

個人的には、お正月におみくじを引くのが楽しみなので神道が好きです。
古事記とか日本書紀とか、読んでたらデタラメじゃんて思いますけど(笑)、いいんですよ昔の話に恐竜が出てこなくても(笑)

この回答への補足

私も科学万能論者ではありませんが、科学は正直なので信用できると思うのです。もし仮説などに誤りがあれば素直に認め訂正しますし(どっかの宗教のように嘘の上塗りをせずに)また先ほども書いたように言っていることも論理的で理路整然としています。なので受け入れやすいのです。
一つ気になったのは、あなたはどうして人間以外の崇高な存在がいるのではないかと思われたのですか?
また絶対的なものを求めすぎないほうがいいというのは私もまったく同感です。私は最近、この世にはすべてを説明できる統一原理などは存在せづ、科学や宗教、その他もろもろのものが補完的にこの世界を説明しているのではないかと思うようになりました。

補足日時:2009/05/13 21:02
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>これらは科学的には立証されていませんが、宗教は公然と教理として教えています。



科学も宗教です。
あなたは何をもって「科学を信じている」んですか?そこに不確かさはないのですか?

この回答への補足

私は科学は宗教だとは思っておりません。

確かに現実世界には科学で説明できない事もあるでしょう。
未だ、研究課題の多い未知の分野もあるでしょう。

しかし科学は実験や観測で自分たちの作った説が正しいことを確認できます。
実験や観測が困難な哲学などの分野もその内容は帰納と演繹によって形作られています。その内容は宗教に比べて極めてクリアです。

なので私は科学を信じるに足りるものだと思っているのです。

補足日時:2009/05/13 20:53
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