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本当の宗教ってありますか?

昨今ではさまざまな宗教が「自分の宗教こそが真理を語っている。」
「私たちの宗教だけが幸せになる道を知っている。」
などと言っていますね。

でも、真理を扱っている宗教ってありますかね?僕は宗教は多かれ少なかれ、証明不可能な、こう言っては大げさかもしれませんが荒唐無稽な事を言っているように思います。例えば霊の存在、地獄の責め苦、輪廻転生などです。これらは科学的には立証されていませんが、宗教は公然と教理として教えています。

到底信じ得ないことも、その宗教に入るなら信じなくてはいけない。だから信仰なんでしょうか?僕はサイエントロジストですから科学を信じています。しかし科学では心の平安は得られませんでした。そこで宗教に希望があるのではと思い調べましたが、どの宗教も不確かな事を信じることを要求してきます。

みなさんは、なんらかの宗教に入っていて幸せだと感じていますか?その宗教は荒唐無稽な事は教えていませんか?そもそも完全な宗教を求めようとすること自体が間違いなのでしょうか?

散文的になってしまいましたが、回答いただけるとありがたいです。

A 回答 (52件中31~40件)

一般的に言う無宗教の者です。


父方の実家が浄土真宗らしいので、あえて選べと言われたら浄土真宗かも知れません。もちろんなんの教えもありません。

>>本当の宗教

これはもう個人が決める事意外にないと思います。

なにを信じるも自由、なにも信じないも自由。です。
何も信じないと言うのも、それはそれで宗教かもしれません(笑)


あなたはお正月にはつもうでに行きますか?

最近何で行くんだろう?と疑問に思い、調べた事がありました。
そうしたら神道(しんとう)という考え方があることを知りました。

天皇の意味、政教分離の意味、自民党の靖国参拝の意味、広く言えば宗教の意味などいろいろ考えさせられます。


最近の自分は日本好き!、富士山好き!、地元好き!と言う感じで気持ちが収まっています。

宗教はいろいろあると思います。カルト的な物には近寄らないようにしていろいろ見たり聴いたりして、ご自分で答えを出されるのがいいと思います。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93
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本当の宗教は確かに在ります。

それは貴方の頭の中に在ります、分かり難い事ですが、貴方を悩ませている者が、貴方の宗教です。貴方の悩みはあなた自身が、あなたの悩みの発信源です。

人間は昔から、洋の東西を問わず人間苦という事に突き当たって来ました。それは人間の心には人間の心を悩ませるものが存在しているからです。それは人間の心が二つ在る事によります。聖書には天国に一番近い存在は幼子と書いてあります。

この事が関係しています。子供の脳は機能が未分化のために心が一つしかないためです。14歳頃から人間の脳は機能分化が完成に近くなります。この頃から人間には悩みが生じ始めます、意識をして自分と他人、或いは様々なもの、事を考え始めます、そうして比べたり批判をするようになります。

今までは何の疑問も抱かなかった処に疑問を抱き始めます。それは心の分裂を意味しています。片方の心が知らせている事を、自我意識が不思議に感じ始めたという事になります。そうして違和感として受け止める場合もあります。この違和感は「罪悪感や漠然とした不安感」という形をしています。この違和感を問題にした場合には、障害が出る事もあります。

この違和感を問題にして心から追い出そうとした場合には「恐怖感」にまでなってしまう場合があります。是がパニック障害というものです。是は心の分裂が為せる業です、その仕組みは自我意識が「違和感」として感じた事を意識し続けるためと言えます。そうして無理やりに心から追い出そうとする事から、自我意識は「悪循環」に入ってしまいます。

人間には心が二つあります。一つは自我意識というものです、その機能は物事を論理的に解決してゆく機能です。ほかの言い方をするならば、割り切れる事には全て対応できる能力と言う事になります。

処が大人になってきて、世の中が見えてきた場合には、矛盾した問題が生じてきます。是が人間を悩ませてきた問題と言えます。割り切れる問題とは有限に属する問題と言えます。何故ならば割り切れる事を有限と名前を付けたからです。

割り切れることしか解決出来ない方の脳に割り切れない問題が割り込んできます。是が人生の苦悩を作ってしまいます。是が人間の悩みです。

割り切れない問題というものの最たるものは「永遠」という事になります。割り切れない事の名を永遠という風に名前を付けたからです。理論や論理で割り切れないもの、分別できない事、是を分別脳で解決を図ろうとする事が「悩みであり、人間の障害」とも言えます。

人間最大の心の分裂それは、死と言えます。或いは永遠の命を願っていると言い換えても良いですが、その二つのものの対比、是が悩み、苦しみの元を成しています。是が心の分裂の正体です。自我意識が死を意識する時に狂おしいほどの苦しさを味わいます。是が心の矛盾ですが。

この時の自我意識の苦しみは、自分で作っている苦しみと言えます、何故ならば、自分には備わった心があったからです。自分の心自身がもう既に永遠そのもので出来ているからです。もう一つの心とは「仏性或いは神自身」だった事が分かります。自分の苦しみは自分で作っていたことが分かります。

その苦しみは心の矛盾です、という事はその二つのものが自分の心の中で争っています。自我意識が「それ」を無視したり仲たがいしていて、「それ」が自我意識を掬い上げようとしていた事が、苦しみの正体と分かります。

それはあたかも、苦しんでいる自我意識を掬い上げようとしている「それ」の手を払いのけようとしている事が苦しみのもとになっていたという事になります。有限を永遠が覆い尽くそうとしてさえぎられる、或いはその手を払いのける。是が人間の苦しみと言えます。

人間の苦しみとは、自分自身が分からないことと言えます。是が「無明」という事になります。自分の苦しみを自分で作っていた事を知らない事が無明という事です。そうして自分の苦しみの原因を知るという事が「悟り」という事になります。自分を苦しめていた者との出会いの事です。自分自身を知るという事です。

自分自身を知る或いは悟りを開く、或いは神と会って和解するという事のテキストがあります、紹介します、「禅問答」です。禅問答は分別脳では解く事は出来ません。是は脳の機能の問題です。分別脳の能力では解けないように工夫されているからです。有限の自我意識が有限の世界で自由を確保できないでいます。分別を捨てる他はありません。

自我意識の能力では「解けない」と知る時に、右脳の意識「神。或いは仏性」が登場します。これで悩みの解消という事になります。是がお釈迦の教えです。その時にははっきりと分かります。自分の心は宗教で出来ていた事が、自分の脳の半分は宗教或いは神仏で出来ていた事が分かります。悩みも心の働き、その解消も心の働きです。人間の頭半分は宗教で出来ています。分かりにくく出来ています、それは無意識を司っていて、自我意識と交代で入れ替わっているからです。
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この世界、地球は仮の世界です。

シュミレーションの世界です。だから科学も宗教も、脳の思考がこの世界に限定されてるので、本当の世界、本当の真理を理解する事は不可能です。科学者アインシュタインは、この世界が仮の世界である事を前提にした、相対性理論を発表し、その後これが実験で証明され、この世界が仮の世界である事が証明されました。だから脳の思考に限界があります。中国の老子は、脳の思考による知恵を否定し、無知をすすめています。仏教のブッダの教えは、脳の自我を否定し、無我になれば人は救われると教えています。禅などで実行されてます。脳が思考してる時は、脳が人と自然の情緒との交流を遮断するので、心がストレスになります。脳が休むと、人と自然の情緒が交流するので、心が癒されます。だから日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを追求しています。西洋文化のような自己表現ではありません。だから心の癒しは、宗教よりも、和風文化が確実に癒されます。宗教は説教ばかりでストレスになります。日本の伝統文化を体験して、心を癒してください。能、歌舞伎、文楽、落語、雅楽、演歌、日舞、茶道、水墨画、短歌、俳句、源氏物語、浮世絵、和食、和菓子など
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学会の者です。



貴殿は宗教に関して、不信感を抱かれているようですが、神や教祖におすがりして、多額のお金をお布施すれば救われると説く宗教なら、確かに不信感を抱かざるを得ないでしょう。カール・マルクスが言うように「阿片」で、有害ですらあります。しかしながら、こう言えばおそらく貴殿は反感を持たれるでしょうけど、宗教には正邪があるのです。

正しい宗教とは、「神や教祖、仏に盲従して助けてもらう」といった他力本願的なものではなく、「自分自身に内在する無限の可能性(仏性)を引き出す」ものなのです。教祖とか絶対者といった「外部のもの」に頼るのではなく、だれの内面にも秘められている、限りない知恵と生命力を開発していくものです。よってそこには、「自分自身で自分の行動を決定付ける」という自律性があります。他の者に盲従して、自分を見失うことなど決してないのです。そしてその引き出した「知恵や生命力」があれば、目前の課題や困難があっても、それらに立ち向かい、乗り越えていくことができるのです。あたかも山登りで、体力、脚力が弱ければ、登ること自体大変で、辛く感じられますが、体力も脚力も強ければ、周りの景色を悠々と楽しみながら登っていくことができるようなものです。

しかし、そのためには「生命と宇宙とを貫く根本法則」に則る必要があります。それを「南無妙法蓮華経(妙法)」といいます。日蓮大聖人が認(したた)められた本尊に向かい、「南無妙法蓮華経」と唱えることが、その「知恵や生命力」を引き出す具体的な実践です。これによって、生活上の行き詰まりが打開され、不可能だったことが可能となり、自在の境涯になれるのです。これを「宿命転換」とも「人間革命」とも言います。

こういうことを言うと、「なんだ、お前はただ創価学会の宣伝をしたいだけではないか」「独善だ」と貴殿は思い、反発するかもしれません。しかし、真の力ある宗教には「文証」、「理証」、「現証」の三証がなくてはなりません。文証とは、ある教義・主張が経文等の文献上で裏付けられているか否かという基準。理証とは、その教義が道理に適い、また理性のうえから普遍妥当性があるか否かという基準。また現証とは、教えを実践した場合、現実のうえでその通りの結果(功徳)が現れるか否かという基準のことです。三証の中でも「現証」こそが重要です。この三つが創価学会における信心の実践の中にすべて具わっているから学会は正しいと言えるのです。

「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」(池田名誉会長著、小説『人間革命』第1巻「はじめに」から)
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ありません。


あったとしても私は知りません。
宗教に真理を求めても無駄だと思います。
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科学は、信じるものではありません。


一人の人間が主張して、残りの全人類が反対しても、正しいのがどちらか、実験や観測で決まるのです。
ガリレオが地動説を唱えて、ローマカトリック教会から裁判にかけられました。有罪でした。
今年は、国際天文年です。ガリレオが望遠鏡で天体観測を始めてから400年目だそうです。
高校生くらいの知識で申し訳ないのですが、NHK高校講座の倫理、現代社会、家庭総合をのぞいてみてください。
自然科学がご専門でしたら、理科の番組も楽しめるでしょう。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/index.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2008/radio …
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2008/radio …
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2008/tv/ka …
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2008/tv/ch …
「核兵器の廃絶」「地球上から戦争をなくすこと」「貧困、病気など苦しむ人々を救うこと」「貧困の原因を科学的に探求して解決すること」
神を信じるものも、信じないものも、ともに手をとりあって、よりよい社会をつくりましょう。hang in there! それぞれの持ち場で。
富山和子「日本の米」中公新書を読みました。日本の国土と森と水と土は、日本人が稲作で創り上げたものだとわかりました。幕末の横井小楠は、欧米の科学技術を高く評価していました。そして、政治制度も堯舜の理想に近い民主共和制を評価していました。しかし、アジアを侵略する帝国主義、植民地主義を批判していました。「大義を世界に」。今、幕末の青年たちの魂が、地上によみがえろうとしています。先の戦争で死んでいった無念の数千万人のたましいが、墓からでてきそうです。
戦争が永久になくなる、その日を、生きて見ることができるかもしれません。そのときは、みんなで、歌っておどりましょう。
昼間は、労働。夜は、祈るか、瞑想ですね。私は、夜も昼も瞑想と居眠りをしています。

参考URL:http://www.nhk.or.jp/kokokoza/
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 ☆本当の宗教ってありますか?


  投稿者:皆さん、本当の宗教でありましょう。
  私は存在、どんな事実存在も、物質存在も当為だと存じます。
  その自覚の問題ですね。

 ☆昨今ではさまざまな宗教が「自分の宗教こそが真理を語っている。」「私たちの宗教だけが幸せになる道を知っている。」
などと言っていますね。
 投稿者:昨今にかぎりません。

 ☆でも、真理を扱っている宗教ってありますかね?僕は宗教は多かれ少なかれ、証明不可能な、こう言っては大げさかもしれませんが荒唐無稽な事を言っているように思います。例えば霊の存在、地獄の責め苦、輪廻転生などです。これらは科学的には立証されていませんが、宗教は公然と教理として教えています。
 投稿者:表現の仕方はともかく、一面の事情を語られていると存じます。そのように受け取ることもありましょうし、そういう宗教もありましょう。いえほとんどかどうか別にして。

 ☆到底信じ得ないことも、その宗教に入るなら信じなくてはいけない。だから信仰なんでしょうか?僕はサイエントロジストですから科学を信じています。しかし科学では心の平安は得られませんでした。そこで宗教に希望があるのではと思い調べましたが、どの宗教も不確かな事を信じることを要求してきます。
 投稿者:そうですか。不確かですか。平安ですか。それは得るものですか。その辺をもっとさ迷い歩かれることもいいかも知れません。

 みなさんは、なんらかの宗教に入っていて幸せだと感じていますか?その宗教は荒唐無稽な事は教えていませんか?そもそも完全な宗教を求めようとすること自体が間違いなのでしょうか?
 投稿者:問いかけ方が、質問者のご見識からはあまりに平板ではないかと存じます。
 存在は当為であり、至福であります。完全なるものです。
 当為とは宗教であるということです。
 存在は宗教です。

 ☆散文的になってしまいましたが、回答いただけるとありがたいです。
 投稿者:ご質問をまともに受け取り、まともに書き込んできました。
 多分、私の投稿の内容に対し、ご異論を建立(けんりゅう)され、また、ご納得や、思考の外のこともお有りでしょう。
 言葉に担わせることのできないことも多々あります。
 ご質問者はそれを覚悟しての、ご質問と存じます。
 お取り上げの事項は、ともすれば、またどうしても、言葉が担いきれない事に踏み込まなければなりません。
 それをご承知にならないとすれば、そのことから手がけることでしょう。
 私は所謂るキリスト教宗派のクリスチャンではありませんが、ジーザス・クライストを教えの方と存じております。
 太初にことばありき、は神の言葉であります。
 存在の言葉であります。
 これは人間の、知的次元範囲での概念的ことばとは異なるものです。
 そういう言葉では担わせきれないものもあるのです。
 それを超えるには、ご質問者が自己の平安とか知的認識のどうのとかの問題と異なる、探求にさ迷い始めることをお勧めします。
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私は、宗教に興味ありませんが、、


「ビジュアル判断」か「インビジブル判断か」というところが
肝心のようです。
”目に見えない存在を主たるものであり、それでいて絶対でなくてはならない。”

「インビジブル」

しかし、霊などの存在って「絶対」ではないですよね。

目に見えなくて、絶対って何かと考えたとき
「時間」となります。
”時間は目に見えない存在を主たるものであり、それでいて絶対だ。誰も時間には逆らえない。”

 ”「怪しい新興宗教団体」は、全てビジュアルを信仰心の根拠にしているではないか。すなわち、ヒゲ面の教祖、空中浮揚する教祖、シャクティパッドをする教祖、エトセトラ・・・。 ”

まぁ、こんなような事を聞いたのですが、
私的には、宗教に入るかどうかは置いといて、もっともだと思いました。
これ、とあるmixiのコミュなのですが(ちなみに、私は入っていませんw
)、
宗教というよりは、ただのコミュニティーのようですが・・・

読んでみると面白いですよ。参考にどうぞ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=178188
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宗教と宗教団体とは違うと考えると良いでしょう。


宗教を一生懸命勉強したり、修行したりしていたけれども、宗教団体に入ってガッカリするということは良くあることです。宗教とは聖なるものですが、宗教団体は極めて世俗的なものです。神仏の教えよりも、信者集めに奔走して、そういう信者集めの教えが優先されたりする場合があります。そういう面では、本当にガッカリするでしょう。
だから、まず宗教とは古人の賢者の人生哲学と思って、個人的に勉強なり修行なりすると良いと思うのです。
そして、宗教の欠点ですが、教えを説かれた時代が古いためよく意味がわからないというところがあります。当時には言葉がなかったため色々な表現をされています。
例えば、仏教で「目に見えないほど小さな鬼神」というのが出てきますが、これなどは現代ではおそらく「細菌かウィルス」を意味するものだろうと思います。このような言葉が随所に出てきます。
私は、仏典などはよく科学を勉強した人がもっと仏教を勉強して、もう一度翻訳し直した方が良いと思っています。
宗教が説く、霊にしても死後の世界にしても、もっと科学が進歩すればそのうち解明できるのではないかと思っています。例えば、残留思念とか、核エネルギーによる次元の破壊とか。
完全な宗教求めようとしたら、その人が完全になるまで得られないと思います。それは、教団には教団のエゴがあったり、教えにしてもその時に都合の良いように解釈されていたり、凡人が理解できる範囲内での解釈なので、やはり個人が修行して行くしかないと思います。
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真実は一つです。

一定の法則がなければ秩序は保てず、宇宙は崩壊するでしょう。
宇宙は偶然できた訳ではありません。従って人間も偶然の産物ではなく、目的を持っています。
全てに及ぶこの法則は全てを支配しています。
宗教は真理を説きます。そして、真理とは誰の目から見ても正しいものであり、従って真実であります。
人間が生まれ、やがて死んでいく。そして死が空しいものであるならば、この生もまた空しいものであります。
生と死が=であることが解ります。
従って、生が有意義なものであるならば、生もまた有意義なものとなることが明らかであります。

この事を説かれ明らかなものとされたのが、釈尊であります。
あなたも科学を学ばれたのであれば、人類の出現のなぞを解き明かすべきだと思います。
natanal こと七つの実より。
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