プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

デカルトは「我思う、故に我在り」によって、“不完全な存在である我が存在できる”のは“完全な存在である神が存在するからである”ことを証明したと聞きましたが、どうしてこのように考えられるのでしょうか。
不完全・完全とはどういうことか、なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか、わかりません。

A 回答 (5件)

>>なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか、わかりません。



ですか。
例えば、人間がロボットを創ったとしましょう。それが原因でロボットは自己増殖しロボットの社会を創ったとします。ロボットがいくら賢くとも本来創られたものですからロボット以上を望んでもかなうわけがありませんし、普通のロボットはロボットであることを疑うこともないでしょう。でもごく一部のロボットが何故ロボットであって犬でも猫でもないのかとなどと考えはじめると話は違ってきます。
つまり、そのような疑問に答えを持たないことに気づくわけですね。答えを持たないということは答えを持つもの(完全なもの)の存在が推定されるわけですね。
それを素直にとれば、デカルトのようになるでしょう。
ロボットであれ人間であれ同じわけということですね。

この回答への補足

不完全な存在→完全に近い不完全な存在→より完全に近い不完全な存在→……→完全な存在
というわけですか?
では、もし始まりが完全な存在なら、どうして不完全な存在が生まれたのでしょうか?
完全である以上、何の変化もないはずです。

補足日時:2009/05/23 15:50
    • good
    • 0

追伸


>>では、もし始まりが完全な存在なら、どうして不完全な存在が生まれたのでしょうか?
完全である以上、何の変化もないはずです。

○ 確かに1番目に造られたものは指摘のように考えられますね。完全なものが造ったのですから完全に近いと考えられますね。では1番目が2番目を造ったとすれば少し完全から外れますね。2番目が3番目をこれを繰り返して10番目・・20番目となればかなりずれるでしょう。
完全からのずれはいつ誰に造られたかということに帰着するでしょう。
ただし、元をたどれば誰しも完全なものにたどり着くことは明らかですね。完全からのずれが小さいとか大きいとかはそのように考えられますね。
実際にも最初(1番目)に造られたものは少ないんですよね。
    • good
    • 0

神の存在証明・デカルトと来たら、古典中の古典でしょう。

よっぽど新しい視点・切り口とかがないとそれらに精通している方の反応は無いのではないでしょうか。せいぜい過去のQ&Aを見ろとか、『省察』を読めとか。mmkyさんもデカルトの証明そのものには触れられていませんね。もしかしたら親切な回答を誰か用意して居られるかもしれませんが、その前に素人の見解=思い付きを一つ。
デカルトの証明は措いて、「完全・不完全」について。
数理論理学上の「完全性」とかであれば定義される訳ですが、「哲学」あるいは常識的な意味でのものは、定義しがたいですよね。その概念は言葉の使われ方で、推測する訳ですが、歴史上の巨人哲学者であるデカルトとなると、「完全・不完全」について誰かが論文を書いているでしょう。そんな学術的な話と無関係に、ふと思いました。「全体・部分」と同じに見ているのではないか?
「部分」というのは「全体」が有って部分なのだから、「部分」ということは「全体」を前提としている。それと類似的にというより、全く同じ論理で、「不完全」であるということは、「完全」ということを前提としているのだ、と考えているのではないか?
デカルト本人としては、人間の不完全な認識が、何故「完全な存在=神」という「観念」を持つことが出来るのかを、説明しているつもりであるようですが、何でそこで「神」が出てくんねん、と突っ込みを入れたくなる説明ばかりで、『省察』は一通り目を通しただけだったと、昔を思い出しました。
すなわち、「なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか」という問いは、デカルトにとって無効な質問であるのではないですか。「不完全」であるという認識そのものが「論理的に」「完全」を求めており、「完全」であるのだから、存在もしている、という、「自明な」論理なのでしょう。

不信心な私は、その「神」は、ゼウスなのか、アッラーなのか、天照なのか、とさらに突っ込みたくなりますが。
    • good
    • 1

まだここを見ていらっしゃるかな。



少し見方を変えてみてください。
デカルトの考えた筋道をたどっていきましょう。

「わたし」は疑ったり、苦しんだり、悲しんだりします。ささいなことで大喜びもすれば、他人の不幸をほくそえんだりもする。そんな自分が「不完全な存在者」であるということは、わたしたちにも実感されるところです。

ところが、わたしたちは「完全な存在者」という観念を持っている。自分のことを「不完全」と感じてしまうのも、実際には見たことも聞いたこともないけれど、頭のなかにある「完全な存在者」と引き比べて、自分の「不完全さ」を理解しているのではないか。

だとしたら、この「完全な存在者」という観念はどこから来たのでしょう。

不完全なものが完全なものを創りだすことはできない。だから、「わたし」がこの観念をつくりだしたはずがない。それなら、「わたし」の外から来たのでしょうか。

けれども、空を見ても、地面を見ても、山を見ても川を見ても、刻々と移ろいゆき、姿を変えて、「完全」なありようとはほど遠い。となると、外からではない。

となると、「わたし」の内に、あらかじめあったとしか考えられないということになる。「完全な存在者」という観念は、完全な存在者、すなわち神から直接に、「わたし」のなかに置かれたのでなくてはならない。

すなわち、神は存在する。

これがデカルトの神の存在証明です(※『哲学原理』の17~21をわかりやすく説明したつもりです)。

> 不完全・完全とはどういうことか、なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか

ここらへんは、わたしたちはあんまりこんな考え方をしないから、実感ではつかみにくいかもしれません。これは「実体」ということを言ってるんです。日常「それは実体がない」なんていうときの「実体」とはちがいます。

これはギリシャ時代から西洋ではさまざまな派生を産みつつ、延々と受け継がれていく考え方だから、なかなかぱっと理解できないかもしれませんが、おおざっぱに言ってしまえば、「見かけや姿かたちを超えて、ほんとうにあるもの」ぐらいの感じです。

『哲学原理』の51では、「実体」はこのように定義されています。

「「実体」とは他でもない、存在するために他の何ものをも要しないように、存在するものを意味する。」

「なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか」と聞かれてもちょっと困るんですが(笑)、デカルトはそのように定義したのだ、といったん頭に入れて、勉強を進めていけば、もう少し頭のなかで自分なりに整理ができるようになると思います。
    • good
    • 4

そもそも、自分の立場に「不完全性定理」を自力で当て嵌められませんよね。

    • good
    • 2

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!